331 巻第十七 3926 ~ 大宮の内にも外にも光るまで降らす白雪見れど飽かぬ〈系統末詳。当時従五位下翌 年従五位上因幡守となり、勝宝元年正五 位下に叙せられた。 、刀、も 九当時従五位下図書頭。宝字五年従五 ふぢはらのとよなりあそみ こせのなてまろあそみ 位上に進んだ。同名異人の林王があり、 藤原豊成朝臣 巨勢奈弖麻呂朝臣 時に判定困難なことがある。 おとものうしかひすくね ふちはらのなかまろあそみ 一 0 ↓田一一題詞。養老六年 ( 当一 l) に元正 大伴牛養宿禰 藤原仲麻呂朝臣 天皇を批判した罪で佐渡に流され、天平 みはらのおきみ ちぬのおきみ 十二年に帰京。この当時正五位上大蔵大 三原王 智奴王 輔。勝宝元年に卒。 一一当時外従五位下で四か月後に従五位 ふなのおきみ ちのおきみ おはりだの 船王 邑知王 下、勝宝六年に従五位上となった小治田 朝臣諸人のことか。 をだのおほきみ はやしのおきみ 一ニこの当時外従五位下内蔵頭。三か月 小田王 林王 後に従五位下上野守となる。 ないんぶぜん づみのあそみおゅ をだのあそみもろひと 一三当時外従五位下造酒正兼内膳奉膳。 穂積朝臣老 小田朝臣諸人 三か月後従五位下、同年閏九月越後守と をののあそみつなて たかはしのあそみくにたり なる。 小野朝臣綱手 高橋朝臣国足 一四当時外従五位下。三か月後従五位下 のあそみとこたり たかをかのむらじかふち に進む。 高丘連河内 太朝臣徳太理 一五↓第一 0 三八題詞。当時外従五位下。四 一七 はだのいみきてうぐわん ならはらのみやっこあづまと か月後従五位下、勝宝六年正五位下。 秦忌寸朝元 楢原造東人 一六医術家。弁正法師が在唐中に儲けた つぎてよ みことのりこた 子。当時外従五位上図書頭。一一か月後主 右の件の王卿等は、詔に応へて歌を作り、次に依りて奏す。計頭。 毛儒家。当時外従五位下。四か月後従 ーも う そのとき 登時記さずして、その歌漏り失せたり。ただし秦忌寸朝元は、五位下。宝字元年正五位下に叙せられた。 くだり
ふちゐのむらじもろあひ つん 葛井連諸会、詔に応ふる歌一首 とよとし ・あらた + 新しき年の初めに豊の稔しるすとならし雪の降れるは 巻 3924 きのあそみきょひとみことのりこた 紀朝臣清人、詔に応ふる歌一首 あめした お 天の下すでに覆ひて降る雪の光を見れば貴くもあるか 3922 たふと 降る雪の白髪までに大君に仕へ奉れば貴くもあるか すでにー全く。すべて。ここは、以 つん 前に、もはや、の意ではない。〇光 を見ればー雪の光を天皇の恩光に思い寄 せていう。 だんじようのすけ ニ天平十五年外従五位下弾正弼、十 七年従五位下、十八年四月大宰少弐とな る。その後、兵部少輔、山背守、和泉守 などを歴任する。 山の峡ーカヒは、交差する意の四段 ひだ 動詞の名詞形。ここは山の尾根の襞 が交わり合って見える谷あいをいう。〇 きのあそみをかち 紀朝臣男梶、詔に応ふる歌一首 そことも見えずーどこがそれ ( 山峡 ) なの か見分けがっかない。 をとつひ きのふけふ 山の峡そことも見えず一昨日も昨日も今日も雪の降れ = 天平 + 七年 ( ) 外従五位下、 + 九 年に相模守となり、天平宝字元年 ( 七五七 ) 従五位下。『経国集』に和銅四年 ( 七二 ) の れば 対策文を載せてあり、この時五十五歳前 後と思われる。家持より下位であるが、 前に挙げてある。 豊の稔ートシは五穀、特に稲の実り をいう。年歳の意に用いるのはそれ の収穫周期の義からの転用。〇しるすと ならしーシルスは形に現すこと。ここは 予兆として明示する意。トは、、とて、 の意。ナラシはニアルラシの約。 四この時二十九歳。前年の天平十七年 正月正六位上から従五位下に叙せられた。 四 大伴宿禰家持、詔に応ふる歌一首 かひ しろかみ おほきみ つかまっ
叨降っている白雪のように髪が白くなるまでも大君にお仕え申しますと かたじけな 忝いことです きのあそんきょひと 紀朝臣清人の応詔歌一首 おお あめした 葉叨天の下をあまねく覆って降っているこの雪の光を見ますと気高いことで ございます きのあそんおかじ 紀朝臣男梶の応詔歌一首 山あいもどこだかわかりませぬ一昨日も昨日も今日も雪が降っておりま すので ふじいのむらじもろあい 降る雪のーこのノは比喩を示す。折 葛井連諸会の応詔歌一首 からの雪の白さを以て自らの髪を形 新しい年の初めに今年豊作の前触れをするのでありましようこんなに雪容した。〇白髪までにー白髪になるまで も長い間。〇貴くもあるかー太上天皇に が降るのは 対する恭敬の気持を表す。 大伴宿彌家持の応詔歌一首 一文章家。和銅七年 ( 七一四 ) 従六位上当 時勅命によって国史の撰述に当る。翌年 従五位下、養老五年 ( 七一一一 ) 東宮 ( 後の聖武 天皇 ) に退朝後侍し、天平十三年 ( 七四一 ) 治 もんに 4 う 部大輔兼文章博士、十六年従四位下、 十八年五月に武蔵守となり、天平勝宝五 年 ( 七吾 l) 卒。従四位下でありながら氏姓 名の卑称法を用いているのは、この前後 従四位上以上の者に敬称法を用いたゆえ であろう。 3924 おととい おおきみ
たかしき もみじ 竹敷の紅葉を見るといとしい妻がお待ちしていますと言ったその時が来 たのだなあ 右の一首は、副使 しらぎ 葉 R 竹敷の浦辺の紅葉よわたしが新羅へ行って帰って来るまで散ってくれる 萬な決して 右の一首は、大判官 うへかたやまくれないぞ や 竹敷の宇敝可多山は紅染めの八しおの濃さに染まったなあ 右の一首は、少判官 靦もみじ葉の散り交う山辺を漕ぐお船の色に魅せられて参上しました 3701 3703 我妹子が待たむと言ひしー作者が帰 引京するのを待ちましよう、と妻が言 った。 一大伴宿物一一中。系統末詳。天平八年 ( 当六 ) 従六位下で遣新羅副使となったが、 翌年帰途病気で大判官ら一行より一一か月 遅れ、三月に入京した。同十一一年外従五 ひょうぶのしよう 位下に進み、兵部少輔、山陽道巡察使、 大宰少弐などを歴任し、十八年従五位下、 翌年刑部大判事となった。天平元年、摂 津国の班田史生韵竜紀呂が自殺した時、 その挽歌 ( 四四三、四 ) を詠んでいる。 我行きてーわたしが新羅へ行って。 0 引〇散りこすなゅめーコスは、、して くれる、の意の補助動詞。その活用形式 は下一一段型で、「夫寄しこせね」 ( 三四五四 ) な
萬葉集 330 大宮の内にも外にも光るほどに降っておいでのこの白雪は見飽きないこ とでございます ふじわらのとよなりあそん こせのなてまろあそん 藤原豊成朝臣 巨勢奈弖麻呂朝臣 おおとものうしかいすくね ふじわらのなかまろあそん 藤原仲麻呂朝臣 大伴牛養宿禰 みはらのおおきみ ちぬのおおきみ 三原王 智奴王 おおちのおおきみ ふなのおおきみ 邑知王 船王 おだのおおきみ はしのおおきみ 小田王 ・つみのあそんおゅ おだのあそんもろひと 穂積朝臣老 小田朝臣諸人 おののあそんつなて たかはしのあそんくにたり 高橋朝臣国足 小野朝臣綱手 たかおかのむらじこうち おおのあそんとこたり 高丘連河内 太朝臣徳太理 ならはらのみやっこあずまと はたのいみきちょうがん 楢原造東人 秦忌寸朝元 みことのりこた 右に挙げた王卿たちも、詔に応えて歌を作り、順々にこれを奏上した。し かしその時すぐ記しておかなかったので、それらの歌は散逸した。ただし秦 忌寸朝元は、 降らす白雪ー大宮を尊び、そこに降 る雪にまで敬語を用いたもの。 こせのひと 一巨勢人 ( 一 0 一一題詞 ) の子。旅人の母方 の叔父か。当時従三位中納言。八十一歳。 七年後の勝宝五年従一一位大納言を以て薨。 こふけい ニ小吹負の子。安麻呂の従弟。当時従 三位参議。勝宝元年正三位中納言を以て 薨。 むちまろ 三武智麻呂の第二子。豊成の弟。当時 正四位上民部卿参議左京大夫兼近江守。 四十一歳。翌年式部卿従三位、二十年に 正三位に進み、勝宝元年大納言、翌年従 一一位。孝謙天皇に接近し、光明皇太后親 しびちゅうだい 政輔佐という名目で紫徴中台の内相とな 、天平宝字六年正一位太師 ( 太政大臣 ) に昇った。しかし孝謙上皇の寵を得て台 頭した道鏡の勢力に押されて謀反を図り、 八年近江国高島郡で殺された。五十九歳。 とねりの 四舎人皇子の子。この当時従四位上治 部卿。勝宝四年正三位中納言を以て薨。 = 電。皇子の子。当時正四位下。五十 四歳。宝字八年従一一位御史大夫 ( 大納言 ) で退き、宝亀元年 ( 七七 0 ) 薨。七十八歳。 大↓究八左注。当時従四位上。 七長皇子の第七子。当時従四位下刑部 卿。四十三歳。大納言まで昇ったが、宝 亀五年に退き、同十一年正二位を以て薨。
427 解説 とあり、共にある程度全体にまたがる小序的な働きをしていると考えることもできる。しかし、これだけで はなお要領を得ない。さいわい前半に関しては『続日本紀』の天平八年 ( 七三六 ) の条に、 けんしらきたいし あへのあそみつぐまろ ( 二月 ) 戉寅 ( 二十八日 ) 、従五位下阿倍朝臣継麻呂を以て遣新羅大使と為す。 夏四月丙寅 ( 十七日 ) 、遣新羅使阿倍朝臣継麻呂等拝朝す。 とあり、その翌年、 おくらのいみきまろ みふのおみうだまろ ( 正月 ) 辛丑 ( 二十七日 ) 、遣新羅使大判官従六位上壬生使主宇太麻呂・少判官正七位上大蔵忌寸麻呂等人 おとものすくねみなか っしまは しゆっ 京す。大使従五位下阿倍朝臣継麻呂は津島に泊てて卒す。副使従六位下大伴宿禰三中は病に染みて人京 すること得ず。 と記し、さらに二か月後の三月二十八日に、大伴宿二中等四十人が拝朝した、と見える。『万葉集』と 『続日本紀』と両者比較することによって、この当時の日羅両国交渉の一側面がうかがい知られることで特 異な資料と言えよう。 ところが、目録を見れば、前後半それぞれの冒頭が次のようになっている。 おのもおのも しらきのくに てんびやう 天平八年丙子の夏六月、使ひを新羅国に遣はす時に、使人等各別れを悲しびて贈答し、また海路 の上にして旅を慟み思ひを陳べて作る歌、并せて所に当たりて誦詠する古歌一百四十五首 こしのみちのくちなが によじゅ くらべ 中臣朝臣宅守、蔵部の女嬬狭野弟上娘子を娶りし時に、勅して流罪に断じ越前国に配す。ここに夫婦別 ・おのもおのも れ易く会ひ難きことを相嘆きて、各慟む情を陳べ、贈答する歌六十三首 これらを本条 ( 目録に対する本文 ) と比べるならばいずれが詳しいか明らかで、前半では『続日本紀』に記 されていない難波進発の月さえも知られる。 へいし めと
あるいは 、ぐりのあそん 平群朝臣があざ笑った歌一首 集おいみんな草など刈るな ( 八穂蓼を ) 穂積の朝臣のあのわきくさを刈れ 葉 穂積朝臣が答えた歌一首 しゅしゃ 萬 どこにあるのか朱砂を掘る岡は ( 薦畳 ) 平群の朝臣の赤っ鼻の上を掘れ 色の黒いのをあざ笑った歌一首 ひだおおぐろ ( ぬばたまの ) 斐太の大黒を見るたびに巨勢の小黒が思い出される 答えた歌一首 しびまろ ( 駒造る ) 土師の志婢麻呂よ白いから欲しがるのも無理なかろう巨勢の小 黒の黒い色を づみ おぐろ 一三会三が三八四一と同趣であるため関連併 記したことを断る注。 ニ末詳。平群朝臣広成かとする説があ る。平群広成は天平期の官人。天平五年 遣唐大使多治比広成 ( ↓〈突後記「大唐 大使卿」 ) に従い判官として人唐したが、 こんろん 帰国に際して悪風のため崑崙国に漂着、 九死に一生を得て唐に辿り着き、その後 なっかい 渤海国を経て帰国しようとしたが、再び 難風に遭い、幸いに出羽国に到着したと いう体験の持主。後に式部大輔、摂津大 夫などを歴任し、天平勝宝五年従四位上 武蔵守を以て卒。 2 童どもー草を刈っている者に呼び掛 けた趣。〇八穂蓼をー穂積の枕詞。 八穂蓼は穂が数多く出る蓼。この蓼は湿 地に生え、秋白い花穂を出し、辛みのあ る葉を食用にするやなぎたでか。このヲ は間投助詞か。〇穂積の朝臣ー未詳。一 説に、天平九年に外従五位下、左京亮と なり、同十八年に従五位下内蔵頭となっ おきな た穂積朝臣老人かとする。〇腋草ー腋か ら発する異臭わきがの古名。「臭」と「草ー がアクセントまで同音なので戯れてかけ
283 巻第十六 3858 ~ 3859 3859 こ の こ ろ の 我あ が カ は は 示と 兆 にさ 出 で て 訴 む ↓三八 0 四題詞。 さす君が心し忘れかねつも 恋カー恋のために傾けた労力。恋ゅ まかだち さゐのおきみニ えの骨折り。〇功に申さばー功は功 かこうのう 右の歌一首、伝へて云はく、佐為王に近習する婢あり。こ 過行能の意。官僚の勤務状況によって官 四 あ とのゐいとま けいれんまこと ちけっ 位の昇進を評定する考叙の制度によって こに宿直遑あらず、夫君は遇ひ難し。感情馳結し、係恋実に いう。この申スは申請する意。〇五位の いめうちあひみおどろさ さぐむだ 冠ー五位は大宝令に定められた位階の一 深し。ここに当宿の夜、夢の裏に相見、覚き悟めて探り抱く つ。正・従をそれぞれ上・下に分けた四 段階があるが、ここは門地などの点でハ に、かって手に触るることなし。すなはち哽咽ひ歔欷きて、 ンディキャップのついた外従五位下に叙 よ あいどう ふっとのせられることをいうのであろう。カガフ 高声にこの歌を吟詠す。因りて王これを聞き哀慟し、永に侍リはカウブ ( ム ) ル・カンムリ・カプルな どの古形カガフルの名詞形。はじめ位冠 相当の冠を授けたのでいう。 宿を免す、といふ。 ◆誰にも負けない恋の苦労を戯れ歌に詠 んだもの。 給はずはー位階を下さらないならば。 きようしき 〇京兆ー京職大夫。本来首都を意 味するが、転じて首都の行政官庁ないし その機構をさすようになり、その長官の けいちょうのいん 正しくは京兆尹 ( 京尹 ) と呼ぶべき官をも けいし 京兆と言った。日本でも京師の長官の唐 名として用いられ、ここは平城京の京職 の長官すなわち左右京の大夫をさしてい う。京職は左右両京職に分れ、司法・警 察・民政などをつかさどる。〇訴へむー このウレフは嘆願する意。 くうまを こひぢからしるあっ ごゐかがふり このころの我が恋カ記し集め功に申さば五位の冠 ゐ 右の歌一一首 あ ゆる い 七
321 巻第十七 3911 ~ 3913 作ることをいう。シは強め。〇来鳴きと よむるー下二段のトヨムはトヨモスに同 じく、声を辺りに響かせる意。 ◆四月だけでなく一年じゅう鳴いてくれ ればよいのに、という気持。書持の三九 0 九 の歌を受けて詠んだものか。 楝の枝にー三九一 0 の歌を受けて、その 楝が大きくなり花が咲くようになっ たら、という気持でいう。 三中務省所属の官で、定員は九十人。 帯刀して宿直・警衛に当り、行幸の時に は天皇の身辺を守った。貴族の子弟で将 来の幹部官僚となるべき者たちが主とし て採用された。「うどねりーは後世の略称。 家持が内舎人であったことが知られる確 ゅ ほととぎす楝の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見るかな期間は天平十年十月 ( 堯一左注 ) から 同十六年一一月 ( 四七五題詞 ) までの間。 四旅人の長男。天平十三年当時一一十四 まで 歳。四年後の十七年従五位下。十八年越 中国守に任ぜられ、五年間在任し、天平 勝宝三年 ( 七五一 ) 少納言となって帰京。そ しよう の後兵部少輔、同大輔、右中弁などを歴 いなばの 任し、天平宝字一一年 ( 0 因幡守に任ぜ られる。延暦四年 ( 七会 ) 中納言従三位で 薨。六十八歳。 五伝未詳。『色葉字類抄』 ( 姓氏 ) に「田 ロ、タノクチとあ - る。 3912 3911 もちうつけっこころ 暢べざらめや。因りて三首の短歌を作り、以て鬱結の緒を散 らさまくのみ。 やまへ あしひきの山辺に居ればほととぎす木の間立ち潜き鳴か ぬ日はなし たちばな きな たまぬ ほととぎす何の心そ橘の玉貫く月し来鳴きとよむる あふち ほととぎす たのくちのあそみうまをさ 霍公鳥を思ふ歌一首田口朝臣馬長の作 うちどねり四 くにのみやこ 右、四月三日に、内舎人大伴宿禰家持、久邇京より弟書持に 報へ送る。 こた なに よ を ゐ こ ま おと
181 巻第十五 % 94 ~ 3696 わたつみの恐き道を安けくもなく悩み来て今だにも喪子、見当などの意にも用いられる。語源 はタ ( 手 ) + ッキ ( 付 ) 、手の付けよう、の ゅ うらへ なく行かむと壱岐の海人のほってのト部をかた焼きて行意から出た。〇思ひかねつも↓『。こ こは、思うことができない、の意。 いめ そらぢ 一紀呂の氏名を略記した かむとするに夢のごと道の空路に別れする君 もの。六人部鯖麻呂は、正倉院文書など とわりの によって、天平勝宝三年 ( 一 ) ごろ舎人 にレよう 佑従六位上であったこと、天平宝字二 年 ( 七五 0 ごろ伊賀守正六位上であったこ 反歌一一首 とが知られる。天平宝字八年外従五位下 からくに に叙せられた。 昔より言ひけることの韓国の辛くもここに別れするかも = 対馬の西側中央よりやや南寄りの湾 あそう 人部、浅茅湾。「浅海湾ーと書くこともあ る。溺れ谷のリアス式海岸で、岬と人江 そとあそ とが複雑に出人し、湾の人口に近い外浅 しらき ゅ うちあそう 新羅へか家にか帰る壱岐の島行かむたどきも思ひかね海と東部の湾奥内浅海とに分けることも ある。 しもあがた 三遣新羅使人たちの乗った船は下県郡 いずはら つも 東海岸の国府所在地府中 ( 現在の厳原 ) に 着き、大使らは下船して陸路を行き、船 は下県の南端豆酘崎を回航して浅茅湾に 入ったのであろうという。現在上県・下 ( ぶなこしまんをき 県を絜ぐ地峡部に北から小船越・万関瀬 おおふなこし 戸・大船越の三つの瀬戸があるが、これ らはいずれも近世以降の開削になったも の。 四物の華。光華。 っしま あさち 対馬の島の浅茅の浦に至り船泊まりする時に、順風を得ず 四 けいてい ぶつくわせんばう おのもおのも て、経停すること五箇日なり。ここに物華を瞻望し、各 」さば 右の三首、六鯖が作る挽歌。 かしこ ばんか から ・も あや