木綿かけて祭る三諸の神さびて斎ふにはあらず人目多みいと知。た時、無分別になり、神威を恐 れない行為に出かねないことをいう。 ◆類歌一一六六三。 こそ 四明日香の川↓二一一六 ( 明日香川 ) 。〇淀 めらばー淀ミアラ・ハの約。淀ムには 絶えず通っていた人の訪れがとだえるこ しげとにもいう。〇人の見まくにー見マクは 見ムのク語法。ク語法 + ニで止めた歌に は、一種の詠嘆終止と解す・ヘきものがあ や『古今集』巻十四に「絶えずゆく明日香 の川の淀みなば心あるとや人の思はん」 ( 七一一 0 ) というのがあり、その左注に「この 歌、ある人のいはく、なかとみのあづま 河に寄する 人が歌なり」とある。その「なかとみのあ ゅ あすか 引絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあるごと人の見づま人」がの作者中臣朝臣東人と同一 人か否かは不明だが、この歌と相互に異 伝関係にあることは疑いない。 0 まくに しがらみー川の流れを堰き止めるた めに杭を打ち、竹や木の枝などをか らませたもの。邪霓する者のたとえ。〇 せぜたまも なびきあへなくにーナビクは、風や水流 七明日香川々に玉藻は生ひたれどしがらみあればなびき のままに横に伏す意のほかに、心がある 巻 人に引きつけられ、従い寄ることをもい あへなくに う。下二段アフは、対抗できる、の意だ -4 が、打消と結び付いて、不可能を表す。 このナクニは詠嘆的文末用法。 - もり・ 冖木綿かけて斎ふこの社越えぬべく思ほゆるかも恋の繁 きに ま み も ろ いは かむ よど いは ゅゑ ひとめ
おとものさかのうへのいらつめ 大伴坂上郎女の歌一首 っ ~ ほととぎすいたくな鳴きそひとり居て眠の寝らえぬに聞 八けば苦しも 巻 1482 とものきよっな 統一されるが、上代では「人皆」「皆人」 大伴清縄の歌一首 の両形が見られ、「人皆」か「皆人ーか古写 はな みなひと 皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴くほととぎす我忘れ本によ 0 て動揺が見られる三例箜 = ・宅 ・三 0 六四 ) を除けば、「人皆ー十例、「皆 人」四例で、しかも仮名書はいずれも「比 めや 等末那」「比等末奈」などとあって、「人 皆」の方が一般的であったと思われる。 そのため、一部の注釈書は「皆人」とある 歌についても「人皆」の誤りとして改めて 奄君諸立の歌一首 いる。この歌はその少ない「皆人」の一例 である。〇散りぬともー形は仮定条件で たちばな 我が背子がやどの橘花を良み鳴くほととぎす見にそ我がありながら、確定的な場合に用いられる ことがある。ここもその一例 ひむかの ニ伝末詳。「景行紀」四年の条に、日向 来し そっぴこの あむのきみ 襲津彦皇子の名が見え、阿牟君の祖とあ る。「奄」は音アム。 3 我が背子ー作者の友人であろう。〇 花を良みーヨミは形容詞ヨシのミ語 法。ミ語法は本来、、だと思う、の意と 考えられ、形容詞の語幹に付く接尾語ガ ルと意味の上で近い。 4 ひとり居てー居ルはすわること。こ こは眠れないで身を起しているので あろう。〇眠の寝らえぬにーイは睡眠。 ラュは可能の助動詞。中古のラルに当る が、『万葉集』では動詞寝に続いた例しか ない。 わせこ あむのきみもろたち おほとものやかもちはねず 大伴家持の唐棣の花の歌一首 よ われ わ
' ぎのイ , , , ま・、ゝッソ 赤人集 / 西本願寺本三十六人家集京都・西本願寺蔵 『三十六人家集』の中の「赤 人集」の後半は、大部分が 『万葉集』巻十の前半を仮名 にしたものである。写真に 一小したものは西本願寺本のそ れのうち、七夕歌の末尾にあ る長歌一一 0 九一一に当る。一一十五句 あるべきところ十七 . 句しかな く、しかもその最後の句は原 文にない「あまのたなばた」 となっている。しかし料紙に 唐紙その他を用い、切継、 つき 継などの技巧を凝らし、金銀 泥の類で花鳥を散らし描きし た上に書かれた流麁な書跡は、 人を魅了して止まない
ず、その判定は多分に研究者の主観によって左右し、当然のことながら原資料から何首採り載せたかという 歌数の算定も不確かになる。たとえば、 いにしへさか かはら 古の賢しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも ( 一七一き 右、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。 とある、その「右」の範囲について、一七一一一以下の十四首説、一七一五以下の十一首説、一七一一 0 以下の六首説、一七一一五 のみの一首説の四説があり、さらにその前の、 ゅげのみこ 弓削皇子に献る歌一首 みけむ みなぶらやまいは 御食向かふ南淵山の巌には降りしはだれか消え残りたる ( 一七 0 九 ) 右、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。 についても諸説がある。 あるい また、その『人麻呂集』と別個に「或は云はく、柿本朝臣人麻呂の作といふ」と左注にある歌が、雑歌の 部に四首あるが、 わぎもこ あかも くらなし 我妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を刈りて収めむ倉無の浜 ( 一七一 0 ) あすよひあ やまびこ 明日のタ逢はざらめやもあしひきの山彦とよめ呼び立て鳴くも ( 一七六一 I) のような、素材の点でも作風からも、巻一や巻二の人麻呂作と記したものと似ないため、「人まろの歌とは 解きこえず」 ( 『略解』 ) と従来評されている。「或は」と断っていることからみて、そのような伝来もあるとい うだけであるが、この疑わしさはおそらく編纂者自身多少認めるところで、殊更にあいまいなままにし、賢 しらを加えなかったのではなかろうか。 をさ あ さか
水底に沈んでいる真珠よそなたゆえ魂も打ち込んで思っているのだ 世の中とはしよせんこんなものだったのか結んでおいた真珠の紐が切れ 集たことを思うと しまっ 葉伊勢の海の海人の島津の真珠は手に人れた後も恋しさは尽きないことだ 萬 ろうか 海底の奥の真珠に機会を得ずずっとこうして恋し続けるのか ( 葦の根の ) 心をこめて結んでおいた玉の緒であれば人が解くことがあろ 真珠を手には巻かずに箱だけにしまっておいた人こそ玉を嘆かせるのだ 1324 1323 1321 1320 1325 ひも 0 誰が故に心尽くして我が思はなくに ー心尽クシテは、心をすり減らすほ どに、の意。あなた以外の誰のことがも とで、こんなに心を傾けてわたしは思い 悩むのではないのだ。この第一二句以下は 作者の恋情の直叙であり、全体としては 譬喩歌の枠から逸脱している。 ◆『歌経標式』に、この歌の第一句が「水 底ヘーとなっている以外全く同じ歌が見 える。 世の中ー人生。ここは男と女の仲に ついていう。〇常かくのみかーこの ノミは、すっかり、全く、のような気持 の強調を示す用法。〇絶ゆらくー絶ュの ク語法。ここは愛の破局をいう。 2 海人の島津ー島津は末詳。『仙覚抄』 に「島津トハ島人ナリ。東人ヲアヅ マット云ガゴトシとある。あるいは人 名か。助詞ガの使用からみても、この後 1321
93 巻第七 1269 ~ 1271 1271 まきむく みなあわ 巻向の山辺とよみて行く水の水沫のごとし世の人我は存在なのだなあ、の意。〇人の常なきー 連体止め。あるいはこの上に「うべそ ( 道 かきのもとのあそみひとまろ 理で ) 」のような語句が省かれた表現か。 右の二首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。 遠くありてー小異歌が巻十四「東歌」 三四四一にあり、初句が「ま遠くの」、第 四・五句が「いっか至らむ歩め我が駒 [ と なっており、その左注の『人麻呂歌集』か 物に寄せて思ひを発す ら採ったという歌には初句が「遠くして」 はっせ とある以外はこの歌と同じ形である。〇 幻こもりくの泊瀬の山に照る月は満ち欠けしけり人の常雲居にーこの雲居は、雲がじ 0 と止 0 て いる空のかなた、の意。 なき 一一五七七・五七七の六句から成る形式 の歌。『万葉集』全体で六十一一首あり、そ の中の三十五首が『人麻呂歌集』から採ら れたものである。元来は記紀歌謡の「は わぎへ しけやし我家の方よ雲居立ち来もーのよ かたうた うな五七七の形式の片歌を一一人で問答唱 和した形から出発したともいわれる。旋 かえ 頭歌の名は、頭に旋る、すなわち第四句 で第一句に戻り、同じ韻律を繰り返す、 ということから付けられた。しだいに別 別の人による問答でなくなり、ロ誦的性 格を失い、自問自答も混じり、さらに上 三句 ( 本 ) と下三句 ( 末 ) との間のセンテン スの切れ目もなくなって衰えた。『古今 集』以後にもまれに試みられたが、復活 することはなかった。 ろ かう 行路 くもゐ いもいへ 遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黒駒 右の一首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。 せどうか 旋頭歌 やまへ 右の一首、古歌集に出づ。 み あゆくろこま われ 1271
何でもないように見えながら、特定の人 にだけは知ってもらいたい心の奥底の心 情。この語句の使用で、この歌は完全な 意味での譬喩歌といえなくなった。〇木 の葉ー恋人のたとえ。 ~ 人国山ー所在末詳。 = 一に「常なら ぬ人国山の秋津野の」とあり、その 秋津野を和歌山県田辺市秋津町に擬する 説があるところから、人国山もその近く の山かとするものもある。ただ人国に他 国の意がこめられていよう。一合一やズ 0 九 うないおとめ 木に寄する の菟原処女の伝説からも知られるように、 一般には村の娘をよそ者の男が妻問えば、 こも したごころこ あまくも 天雲のたなびく山の隠りたる我が下心木の葉知るらむ妨害や制裁が加えられた。この歌は知ら ぬ他国の木の葉 ( 恋人 ) に心引かれながら あきらめきれない気持を寓したものであ ろう。〇なっかしみ思ふーナッカシ↓二 ひとくにやま 6 見れど飽かぬ人国山の木の葉をば我が心からなっかしみ奈 ( 着ればなっかし ) 。ミ語法 + 思フは、 、したく思う、の意。 おも はつはつにー中古以降、ハッカニと 思ふ 1 いう形で現れることが多い。ワヅカ と意味・形態両面で近いため、同義ない 七 し同源と解されやすいが、このハッハッ 第 巻 ・ハッカは、見たいと思う物の見え方が 花に寄する 不十分なため、もどかしく思われる場合 に用いる点で、単に数阯の僅少であるこ もみちした この山の黄葉の下の花を我はつはつに見てなほ恋ひにとを意味するワヅ力とは差がある。 わたつみ あまの 潜きする海人は告れども海神の心を得ねば見ゆといはな くに かづ 人は あれ あ
みわひばら その昔いた人々もわれわれのように三輪の檜原でこの枝を折ってかんざ しにしたことであろうか 集 ( 行く川の ) 昔の人が手折ってくれないのでしょんぼり立っている三輪の 葉 檜原は かきのもとのあそんひとまろ 萬 右の二首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている。 8 古にありけむ人もー現在の自分と同 こけよ 蘿を詠む じ体験をした者がかってあったろう こけじゅうたん か、という気持。人麻呂作歌と題詞にあ 脚み吉野の青根が峰の苔の絨毯は誰が織ったのであろう縦横の区別もなく る四九七に類歌がある。〇三輪の檜原↓一 0 九 草を詠む 一一 ( 巻向の檜原 ) 。一説に、三輪山の西北 妻の許 ( わたしが通う道の篠やすすきょわたしが通る時は平らになれ篠麓茅原にある檜原社の一帯かとする。 「崇神紀」の笠縫邑の伝承地である。〇か はら 原よ ざし折りけむーカザシニ折リケムの意。 カザシは髪刺シの約。古代人は植物の花 や小枝を髪に刺して飾りとした。本来は さかきかし それら植物 ( 特に榊や樫などの常緑樹 ) の 精霊を身に摂取するための宗教的儀社で あったといわれる。 しかん 行く川のー過グの枕詞。『論語』子罕 篇の「子川上ニ在リテ日ク、逝ク者 ハカクノ如キ力、昼夜ヲ舎カズ、ト」の 語による。〇過ぎにし人ー昔の人。死ヌ という語を敬避して過グということがあ り、ここも、この地を訪れこの檜の小枝 を折り、かんざしにした故人をいうので 1118 1121 かよ しの とお しの 1119 ゅ
見て偲んでいることだろう かきのもとのあそんひとまろ 右の二十三首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている。 みやびお さかずき 5 かすが 集春日の三笠の山に月の舟が出ている風流士が飲む酒杯にその影を映し 萬 ひゆか 春日なる三笠の山ー春日↓一 0 七四 ( 春 譬喩歌 日山 ) 。三笠ノ山↓二 0 一一。 0 月の舟 ↓一 0 六八。〇みやびをー風流を解する男子。 宮廷に奉仕する官人たちをさすか。 衣に寄せる まをろし や飲宴の席で詠まれた歌か。平城遷都後 四できたてのまだらの衣は幻となってわたしには懐かしく思われるまだ触の作であろう。柿本人麻呂と『人麻呂歌 集』との関係はなお十分に明らかでない れてはいないが が、人麻呂に平城遷都後の作とみるべき 7 ・ヘにばな 紅花で衣を染めようと思うけれど着て目立ったら人に感づかれそうだ 確かな例がないと同様に、『人麻呂歌集』 にも奈良朝の作は見当らない。 一比喩形式の恋の歌。巻三・十・十一 ・十三・十四にもあるが、この巻七に最 も多く収められており、百七首に及ぶ。 「何に寄する」という形の題詞で分類され ている点で、雑歌の「何を詠む」という形 の歌群と対をなす。本書では省略したが、 各巻首に掲げてある目録では、以下に相 当する部分が、「衣に寄する八首」、「糸 みかさ
萬葉集 3 1657 1658 答えの歌一首 お上からもお許しが出た今夜だけ飲む酒ではないぞ梅よ散らないでくれ 右は、酒について官で禁制して、「都内村里の住民は、集って飲宴してはな らない、ただし、近親同士一人二人が飲んで楽しむことは許可するーという。 そこで答えの歌の作者はこの上二句を作ったのである。 光明皇后が天皇 ( 聖武 ) に差し上げたお歌一首 大君と二人で見るのでしたらどんなにかこの降る雪がうれしいでしよう おさたのひろきつおとめ 他田広津娘子の歌一首 真木の上に降り積っている雪のようにかさねがさねお慕わしく思われます よる 夜来てくださいあなた かみ 7 官にもーッカサは所。また伎人の 意にも用いる。「佐保川の岸のつか さ」 ( 吾九 ) などのそれも同源。このニは、 高貴な人を主語として述べる場合に、そ の人の場所で示す用法の一例。〇今夜の み飲まむ酒かもー反語。今夜に限らず明 日以降も飲もうと思うこの酒だ、という 気持。〇散りこすなゅめ↓一四三七。 一『続日本紀』に記された禁酒令は、天 平九年 ( 当七 ) 五月十九日および天平宝字 二年 ( 0 の二回のみであるが、ここに 見える禁制はそのいずれでもなかろう。 まんえん 前者は、その年四月以来蔓延した疫病と かんイっ 旱魃に苦しむ民の憂患を思い、肉食禁止 と同時に出された全面的禁酒令であり、 群飲のみ禁止するこの制令と合わない。