『人麻呂集』所出歌には人麻呂以外の作が含まれていると思われ、『笠金村集』もあるいは他人の作が混収 されている可能性があるのに対して、『高橋虫麻呂集』『田辺福麻呂集』は共に自作ばかりからなるとみてよ 集い。『福麻呂集』はすでに巻六の末尾に、天平十五年 ( 七四三 ) 前後の平城旧京の荒廃を悲惜し、また久邇京や 葉難波宮を賛美する類の二十一首が収められていたが、この巻九の相聞・挽歌の中のそれらも、劇的な素材に 萬 取り組みながら努めて平明に歌おうとしている点に苦心の跡が見え、また『高橋虫麻呂集』も、好んで物語 的題材を取り上げ、豊かな想像力を駆使して独自の世界を歌い上げ、この巻を特色あるものとしている。 巻十 巻八の所で述べたように、この巻十はごく一部の歌を例外に、作者不明の歌を、「春の雑歌」「春の相聞」 「夏の雑歌」「夏の相聞」 : : : という風に八分している。しかし雑歌は「何を詠む」、相聞は「何に寄する」 という類の題詞でなるべく一貫させようとしている点では、巻七の雑歌・譬喩歌と共通する。『古歌集』『人 麻呂集』を尊重し、各グループの先頭に置こうとするのも巻七と同じである。ただし、巻七の項で予告した ように、それらの先行歌集を尊重し、それらを出所不明の歌より前に置こうとする点では一致しても、全体 としては前後で矛盾することが指摘される。巻七について言えば、雑歌において「天を詠む」「月を詠む」 「雨を詠む」などと素材による分類を先にし、その枠の内で『人麻呂集』所出歌を前に置き、そのあとに出 所不明歌を並べるのに対し、譬喩歌では逆に『人麻呂集』所出歌を前に一括して置き、その中で「衣に寄す る」「玉に寄する」などと分け、そのあとに出所不明歌についてまた「衣に寄する」「糸に寄するー「玉に寄 する」などと分ける。つまり同じ巻の中で前後により形式が異なっている。前者を << 形式、後者を形式と
るんかね、と尋ねた。父はそれは植物の知恵というべきか、 など。映画をよくご覧になり、頭休めには洋画のスラブ 一種の生理作用で、なり過ぎたら木が弱るため、若いうち スチック・コメデイやサスペンスものがお好き。 に自ら余分の実を落とすのだ、柿と同じ、虫熟れではない、佐竹昭広 ( さたけあきひろ ) と教えてくれた。家持が「落ゆる実は」と言ったのもそれ昭和一一年、東京都生れ。昭和二十七年、京都大学卒。国 だったのだ。 文学専攻。現在、京都大学教授。主著は『萬葉集本文 わたくしが実父と姓が違うのは、幼い時母方に養子に行篇・訳文篇・各句索引』 ( 共著 ) 『萬葉集一、四 ( 日本古 ったからである。 典文学全集 ) 』 ( 共著 ) 『萬葉集抜書』『下剋上の文学』な ど。二十数年来のロック・ファン、それもライプで楽し 〈著者紹介〉 まれている。 小島憲之 ( こじまのりゆき ) 〈編集室より〉 大正一一年、鳥取県生れ。昭和十三年、京都大学卒。古代☆第一一十四回配本『萬葉集』をお届けいたします。この冊 うらのしまこままてこな 文学専攻。現在、大阪市立大学名誉教授。主著は『萬葉には、浦島子・真間の手古奈などの伝承歌や、筑波山の孀 集本文篇・訳文篇・各句索引』 ( 共著 ) 『国風暗黒時代歌会を初めとする民謡など、千二百八十余首を収めました。 の文学上・中上・中中』『萬葉集一、四 ( 日本古典文学☆次回配本 ( 五十九年十二月 ) は『夜の寝覚一』 ( 鈴木一 全集 ) 』 ( 共著 ) など。新劇がお好きだが、中でも民芸が雄・石埜敬子校注・訳定価千七百円 ) です。平安後期最 ごひいきで、関西公演にはよくお出かけになる。 大の傑作といわれるこの長編物語は、『更級日記』の作者 木下正俊 ( きのしたまさとし ) 菅原孝標女の作に擬せられています。ヒロイン寝覚の上を 大正十四年、福岡県生れ。昭和二十五年、京都大学卒。中心に、三人の子まで成しながら、ついに心の深部では打 古代文学・国語学専攻。現在、関西大学教授。主著はち解け得られなかった男君、その妻である姉大君、父入道、 『萬葉集本文篇・訳文篇・各句索引』 ( 共著 ) 『萬葉集時の帝や皇太后など多彩な登場人物が、心理描写の積重ね 語法の研究』『萬葉集一、四 ( 日本古典文学全集 ) 』 ( 共著 ) で活写されています。物語前半部の巻一・一一を収載。 がい
いた いまき 大原今城が平城旧京にあって故都の荒れゆくのを傷み惜しんで詠んだ歌 ( 一六 0 四 ) 、およびこれに対して久邇 京から贈った家持の答えた歌 ( 一六 9 ) であろう。あるいは翌十六年秋のことであったかもしれない。 葉巻九 ぶだて 萬 巻九は一巻に雑歌・相聞・挽歌の三大部立がたてまえどおり並んでいる唯一の巻である。そして、所伝を うじのわきいらっこ そのまま信ずれば、雑歌の冒頭が雄略天皇の御製、挽歌のそれも宇治若郎子の宮跡における懐旧という古め ふるのたむけぬきけのおおびと かしさ、それらには及ばないが、相聞も最初の振田向、抜気大首は伝末詳だが、そのあとの歌が文武天皇代 おおみわの の大宝二年 ( 七 0 一 l) に大神大夫が長門守に就任した時に詠まれたものであることを思えば、全体としてこの 巻の由来ははなはだ古いと考えてよい。 その資料の出所を明記したものは『古集』 ( 『古歌集』と同じであろう ) 、『人麻呂集』『笠金村集』『高橋虫麻 さきまろ 呂集』『田辺福麻呂集』であるが、それ以外の資料もあり、しかもその境界が必ずしも明らかでないという おぼっかなさがこの巻にある。もっとも、相聞・挽歌にはその紛らわしさが比較的に少なく、「右の二首、 たかはしのむらじむしまろ 古集の中に出づ」「右の三首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ」「右の二首、高橋連虫麻呂の歌の中に出づ」 などと歌数を明示してあり、出所不明は四か所に限られる。 ところが、雑歌では、 右、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。 くだり 右の件の歌は、高橋連虫麻呂の歌集の中に出づ。 などとして歌数を明らかにしていないため、輪郭が不明で、どの歌からその歌集所出が始っているかわから
633 解説 原資料から切り分けられ、貼り継がれたものとみてよい。その原資料の成立や人麻呂との関係など、今日も なお明らかでない面はあるが、『万葉集』に収められている状態から推して、これが編纂の際に先行資料の 代表として重んぜられ、その分類法が『万葉集』の模範とされたらしいことは諸家の一致して認めるところ げいもんるいじゅう である。この題材・媒材による類聚形式はもともと中国の一大類書『芸文類聚』などに学んだものであろう が、『万葉集』のこの巻七の雑歌や譬喩歌、巻十一・十二の寄物陳思歌などに見られる物による配列は、そ の類聚を受け継いだ『人麻呂集』の形式を踏襲したと考えられる。 この『人麻呂集』に比べると、『古歌集』 ( 『古集』も同じか ) は類聚形式によらず、量的にも下まわると思 われるが、この巻七に関する限り、むしろ『人麻呂集』以上に古い資料だったのではないかと考えられる節 がある。たとえば、次のような事実がそれである。 いた しか けぶり 志賀の海人の塩焼く煙風を疾み立ちは上らず山にたなびく ( 一一奠 ) くだり 右の件の歌は、古集の中に出づ。 とある、その「右」のさす範囲は諸説があって明らかでないが、そのあとに、 いもせ おななむちすくなみかみ 大汝少御神の作らしし妹背の山を見らくし良しも ( 一一一四七 ) しの わぎもこ 我妺子と見つつ偲はむ沖っ藻の花咲きたらば我に告げこそ ( 一 = 哭 ) わそ そぞぬ うきぬ 君がため浮沼の池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも ( 一一一四九 ) われやまちまと すが 妹がため菅の実摘みに行きし我山道に迷ひこの日暮らしつ ( 一一一当 右の四首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。 とある。『人麻呂集』の方が後手にまわっている。その次に「問答」の四首 ( 一葉一 ひしつ の われ 、一一一五四 ) と「臨時」の十二
っ巻である。 また、その雑歌は「何を詠む ( 詠レ何 ) 」、譬喩歌は「何に寄する ( 寄レ何 ) 」という風に、題材や媒材による るいじゅう 集類聚方式をとっており、譬喩歌はおおむねその原則に従っているが、雑歌では「何を詠む」とあるのは初 やましろ つのくに 葉めの方約四分の一で、あとは「吉野にして作る」「山背にして作る」「摂津にして作る」「羈旅にして作る」「問 萬 答ー「臨時ー「所に就きて思ひを発す」「物に寄せて思ひを発すー「行路ー「旋頭歌」などと原則を逸脱した配列 がなされ、あたかも後続の作者不明の巻々の分類が円滑になるようにしわ寄せを先取したかのごとき形にな ざっさん っている。この雑纂の原因はいろいろ考えられようが、主としてその原資料における類聚の不十分、歌数の 偏りによるものではなかろうか。その原資料も幾つかあるうち、比較的に年代の古い『柿本朝臣人麻呂歌集』 や『古歌集』 ( 『古集』も同じか ) の体裁をなるべく崩すまいと編纂者が考えたのがこの巻ではなかろうか。 その『柿本朝臣人麻呂歌集』、略していわゆる『人麻呂集』は、すでに巻二・三に一首ずつ、これから出 ゅげの たと注記されているが、それら一四六・一一四四はそれぞれその前にある有間皇子の自傷歌、弓削皇子の早逝予告歌 に関する関連併記という形で挟み込まれたもので、その前後の時代順に配列された歌群から浮き上がってい る。その点、巻十三・十四にある人麻呂集歌も、歌数こそ三首ずつだが、三一三三 ( 三一語はその反歌 ) は三一三 0 の異 ・三四八一の左注に見えるものも、ちなみに 伝、三三 0 九は三三 9 の異伝で、いわば参考までに挙げたに過ぎず、三四四一 『人麻呂集』にはこうある、とそれぞれ掲出歌との詞句の異同を書き人れただけと言ってよく、その意味で るいじゅうかりん は、巻一・二などに、山上憶良の『類聚歌林』にはこう記されている、と別伝を注してあったのと大差ない 扱いである。 しかし巻七・九・十・十一・十二の五巻に数十首ないし百数十首収められている人麻呂集歌は、大部分が おこ たび
「日本の古典」全巻の内容 荻原浅男 ( 千葉大学 ) 国 古事記 小島憲之 ( 大阪市立大学 ) 佐竹昭広 ( 京都大学 ) ロロ萬葉集 木下正俊 ( 関西大学 ) 中田視夫 ( 筑波大学 ) 回 日本霊異記 小沢正大 ( 中京大学 ) 回古今和歌集 竹取物語 片旧洋一 ( 大阪女子大学 ) 牆井れ助 ( 静岡大学 ) 囮 伊勢物語 松村誠一 ( 成蹊大学 ) 土佐日記 木村正中 ( 学習院大学 ) 回 蜻蛉日記 松尾聰 ( 学習院大学 ) 回囮枕草子 秋山虔 ( 東京大学 ) 回ー源氏物語 阿部秋生 ( 実践女子大学 ) 和泉式部日記 藤岡忠美 ( 神戸大学 ) 中野幸一 ( 早稲田大学 ) 紫式部日記 大養廉 ( お茶の水女子大学 ) 更級日記 鈴木一雄 ( 明治大学 ) 夜の寝覚 堤中納言物語 稲買敬二 ( 広島大学 ) 久保木哲夫 ( 都留文科大学 ) 無名草子 橋健二 ( 東京女子体育大学 ) 大鏡 男和夫 ( 中央大学 ) 今昔物語集 国東文麿 ( 早稲田大学 ) 本朝世俗部 今野達 ( 横浜国立大学 ) 新間進一 ( 青山学院大学 ) 回 梁塵秘抄 新古今和歌集い峯村文人 ( 国際基督教大学 ) 伊牟田経久 ( 鹿児島大学 ) 永井和子 ( 学習院大学 ) 今井源衛 ( 九州大学 ) 鈴木日出男 ( 成城大学 ) 石整敬子 ( 跡見学園短期大学 ) 松田成穂 ( 金城学院大学 ) 方丈記 徒然草 瓸 3 とはすがたり ⑩回宇治拾遺物語 ロ囮平家物語 囮 謡曲集い三道 囮 謡曲集 . 」風姿花伝 囮狂言集 国 御伽草子集 好色一代男 好色五人女 好色一代女 國 日本永代蔵 万の文反古 世間胸算用 図 芭蕉句集 国 芭蕉文集。去来抄 近松門左衛門集 雨月物語 春雨物語 蕪村集。一茶集 可当獅古典詞華集 いー 神田秀夫 ( 武蔵大学 ) ・水積安明 ( 神戸大学 ) いい久保田淳 ( 東京大学 ) 小林智昭 ( 専修大学 ) 小林保治 ( 早稲田大学 ) 市占自次 ( 東京大学 ) 小山弘志 ( 国文学研究資料館 ) 佐健一郎 ( 虱蔵野美術大学 ) 佐藤喜久雄 ( 女子顰人学 ) 表章 ( 法政大学 ) 北川忠彦 ( 京女子大学 ) 安田章 ( 京都大学 ) 大島建彦 ( 東洋大学 ) 暉岐康降 ( 早稲田大学 ) 東明雅 ( 信州大学 ) 谷協理史 ( 筑波大学 ) 神保五彌 ( 早稲田大学 ) 井本農一 ( 実践女子大学 ) 中村俊定 ( 早酩田大学 ) 場信夫 ( 神戸大学 ) 場切実 ( 早稲田大学 ) 井本農一 ( 実践女子大学 ) 栗山理一 ( 成城大学 ) 村松友次 ( 東洋大学 ) 森修 ( 大阪市立大学 ) 島越文蔵 ( 早稲田大学 ) 高田衛 ( 都立大学 ) 中村博保 ( 静岡大学 ) 山理一 ( 成城大学 ) 照岐康隆 ( 早稲田大学 ) 日ロ山本健吉 ( 文芸評論家 ) 九山一彦 ( 字都宮大学 ) 松尾靖秋 ( 工学院大学 ) 増古和子 ( 上野学園大学 )
641 解説 呼ぶならば、巻十は全体として形式が主で、先行歌集を含まない「夏の相聞」を別とすれば、「春の雑歌」 「春の相聞」「秋の相聞」「冬の雑歌」「冬の相聞」がに当り、「夏の雑歌」「秋の雑歌」が形式である。す なわち、「春の雑歌」「春の相聞」などでは、それらの標目のあと題詞を置かずに『人麻呂集』の歌を一括し もみち たなばた : 「黄葉を詠 て収め、そのあと出所不明の歌を並べるのに対し、「秋の雑歌」では「七夕」「花を詠むー む」などと素材で分け、その小区分の中で『人麻呂集』所出歌を前に置く。「夏の雑歌」には『人麻呂集』 の歌がない代りに「鳥を詠む」の題詞の下に『古歌集』の歌が冒頭に置かれており、 < 形式であることがわ あすかかんなび かる。この歌の中に飛鳥の神奈備山が詠まれていて「故郷」の語が用いられているのは、これが藤原宮時代 の作である証拠であろう。それに対して出所不明歌の大部分は、詠み込まれた地名の大半が奈良の周辺に求 められることからも、平城遷都後の作と認めて誤りなかろう。 なお、この巻の歌には、山野に交じりその物色を賞で、あるいは農民が自らの体験を詠んだようなものも あるが、その半面、 つど おほみやひといとま ももしきの大宮人は暇あれや梅をかざしてここに集へる (l<<lll) かすがの 春日野の藤は散りにて何をかもみ狩の人の折りてかざさむ ( 一九七四 ) など、官人たちの遊びを背景とした歌が点在するのも、この巻の特色の一つと言えよう。数多い七夕の歌も、 そのような貴族の催す宴席での詩歌の競詠を念頭に置いて理解すべきである。 カり -
萬葉集 634 首 ( 一一一発、一一一六六 ) を並べたあと、 っ せどうか 所に就きて思ひを発す旋頭歌 あとところ おほみやひと ももしきの大宮人の踏みし跡所沖っ波来寄せざりせば失せざらましを ( 一一一六七 ) 右の十七首、古歌集に出づ。 とあって、その十七首は「問答」から始っていることが知られる。ところが、そのすぐあとに、 ゅ まきむくやま 児らが手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行き巻かめやも ( 一一一六八 ) ゅ みなあわ 巻向の山辺とよみて行く水の水沫のごとし世の人我は ( 一一一六九 ) 右の二首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。 とあり、その二首は古歌集の「ももしきのー ( 一一一六七 ) と同じく無常観を詠んだものと思われる。そのことは、 本書では略したが、この部分に相当する目録に「就レ所発レ思三首」として一括してあることからも確かめら れる。これも『人麻呂集』が後置されている証である。 これら『古歌集』『古集』および『人麻呂集』から巻七に採り人れた歌には、確実に平城遷都後の作とみ るべきものがない。しかし、それらを除いた出所不明の歌には、 かすかやま 春日山おして照らせるこの月は妹が庭にもさやけかりけり ( 一 0 七四 ) みかさ さかづき 春日なる三笠の山に月の舟出づみやびをの飲む酒坏に影に見えつつ ( 一一一九五 ) のように、平城遷都後の作と思われるものが幾つかあり、全体としては霊亀・養老の頃の作とみてよい歌が 相当多いのではなかろうか。一一九五左注の、 つばひ 右の七首、藤原卿の作なり。未だ年月を審らかにせず。 やまへ おこ い いま いも われ
萬葉集 10 雑歌 天を詠む 天の海に雲の波が立ち月の舟は星の林に漕ぎ入り隠れようとしている かきのもとのあそんひとまろ 右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出ている。 月を詠む % 日頃は少しもそう思わないのにこの月が隠れて見えなくなるのが惜しま れる今夜だ 萬葉集巻第七 ぞう 一「何を詠む」という形の題詞を持っ歌 の大部分は、巻七および巻十の雑歌の中 に収められている。この巻七では天象・ 気象・地象・植物・動物・器財・雑とい う順序に並べられており、後半部の譬喩 歌部において「何に寄する」という形の題 詞を有する歌群と対をなす。 天の海ー虚空の青く広大であるのを 1 海にたとえた。漢籍にも「天海」の語 はあるが、「天の海に月の舟浮け」 ( 一一一三三 ) と同じく、「月の舟」の語から連想して言 ったのであろう。「雲の波」「星の林」も 同様。『拾遺集』には第一句を「そらのう みに」 ( 哭 0 として引く。〇月の舟ー七夕 の夜の月を舟にたとえた歌語か。『懐風 藻』に収めた文武天皇の「月を詠む詩」の なぎさ かつらかち 「月舟ハ霧ノ渚ニ移リ、楓橄ハ霞ノ浜ニ 浮カプ」などと類想。『新撰万葉集』下の 詩にも「滝 ( 漢 ? ) 河浪ヲ起シテ月舟ヲ穿 ツ」の句がある。〇漕ぎ隠る見ゅー『万葉 集』には「波立てり見ゅ」 ( 一一八一 l) 、「海人漕 うか
' ぎのイ , , , ま・、ゝッソ 赤人集 / 西本願寺本三十六人家集京都・西本願寺蔵 『三十六人家集』の中の「赤 人集」の後半は、大部分が 『万葉集』巻十の前半を仮名 にしたものである。写真に 一小したものは西本願寺本のそ れのうち、七夕歌の末尾にあ る長歌一一 0 九一一に当る。一一十五句 あるべきところ十七 . 句しかな く、しかもその最後の句は原 文にない「あまのたなばた」 となっている。しかし料紙に 唐紙その他を用い、切継、 つき 継などの技巧を凝らし、金銀 泥の類で花鳥を散らし描きし た上に書かれた流麁な書跡は、 人を魅了して止まない