と、看護婦が言って、そばの人々を振り返った。 何もかも。 彼は、その絶え間のない爆音を、上空に吹き荒れる季節「江森は ? と、黒木はきいた。べッドの上に上半身をおこしかけ、 風の音だと考えようとした。それに違いない。夢でも、幻 看護婦の手で押えつけられた。 聴でもなく、単なる錯覚なのだ。 だが、その爆音は、黒木貢の倒れている猪谷新道の上空「木島はどうした ? 谷杏子の手術はすんだのか ! 」 たしか を横切って、確にヌクビガ原の方向へ続いていた。あの残「さあ、静かにするのよ」 酷な北西風は、夜になってから、不思議なほど急に、どこ看護婦が子供をあやすように囁いた。「もうしばらく眠 かへ行ってしまっていた。湿った重い雪だけが地面にまっ った方がいいわー すぐ静かに降りこめていた。 「相当まいっているようだな」 その夜、異様な量の爆音は朝方まで続き、三日ぶりの日 と、べッドのそばに立っている男が言った。 光がヌクビガ原にさし始めるころ、かき消すようにとだえ「無理もないさ。生徒たちをみんな死なせて、自分一人だ け助かったんだからな」 「いま何と言った ? 」 と、黒木が目を大きくあけて、呻くようにきいた。「何 だって ? 」 「恥を知れ、と言ったんだ。お前、よくのめのめと生きて 白い閃光が目の前をはしった。それから激しい罵声と、 帰れたな。もし教師なら自分を , ーー」 物の倒れる音。 「おやめなさい」 〈なんだろう ? 今の光はーー〉 みつぐ と、白衣を着た若い男が制した。「今そんな事を怒鳴っ 場黒木貢が意識を取りもどした時、彼は真白な部屋の鉄の たって仕方がない。とにかく、もうしばらく安静にさせて の・ヘッドに寝ていた。頭の上に女の顔があった。 、ようこ やる事だ。さあ、報道関係の皆さんも出て下さい。ちゃん 天「杏子 ! 」 と彼は叫んだ。だが、その顔は谷杏子のものではなかっと話が出来るようになったら、お呼びしますから」 白衣の男の首の下から、シャッターを切った男がいた。 た。 マイクの棒が黒木の額の上に差し出された。ライトが輝い 「気が付かれたようです」 せんこう ささや
ないんだ。でも、そんなことは今日どうでもいい。ごまか強く頭をふってみせた。そうじゃない、と彼女は呟くよう しはよそう。・ほくは今、君と寝たくてうずうずしている。 に一一 = ロった。 君の体が欲しいんだ。君は、ぼくに何を要求する ? ドル 「前にもこんな事があったわ。ちがうのは相手がロシアの か ? それともーー」 青年だったということだけだった。わたしたちは愛し合っ 鷹野はじっとオリガをみつめた。それから壁のスイッチてたの。でも、その時は、こんなふうにできなかった。彼 あか を押して灯りを消した。 がしようとした時に、わたしはそれまで隠してた事を告げ たんだわ。わたしはユダヤ女よ、って」 と、オリガは鷹野の体の下で激しくもがいた。「そんな「それで ? 」 ふうに思ってるのならいや ! 」 オリガはしばらく黙っていた。それから異様な笑い声を 鷹野の手が、彼女の下半身をむき出しにした時、オリガ立てた。そして言った。 は不意に抵抗をやめた。 「彼は突然できなくなったの。良い人だったし、わたしを 本気で愛してくれてもいた。それにインテリだったわ。だ と、彼女は挑むように自分から体を開いて言った。「や から、わたしを傷つけまいとして、いっしようけんめいに れるならやってごらんなさい」 それをしようとした。でもだめだった。頭では理解してい そして、ごくりと唾をのみこむと、しやがれた老婆のよても、体がいう事をきかなくなってしまったのね。それを ささや うな笑い声を立てて、鷹野の耳に囁いた。 恥じて、彼は自分のほうから去って行ったの」 「教えてあげましようか。あたしは、ユダヤ人なのよ」 鷹野は黙っていた。彼は日本人で、ユダヤ民族というも 「それがどうした」 のを頭で知っているだけだった。相手がユダヤ人と聞いた と鷹野は言い、オリガの中へはいって行った。オリガは事で、突然不能になるような人々の内面は、論理としては 一瞬、ナイフで刺し殺されるような叫びをあげ、体を痙攣判っても、とうてい理解できない世界だった。 しばらくして、オリガは幼児のような表情で鷹野にきい させた。 しばらくして、二人は起き上り、灯をつけた。オリガのた。 「もう一度できる ? 」 顔はアイシャドウが溶けて、ひどい事になっていた。 「さあー すまなかった、無理にして、と鷹野が言うと、オリガは けいれん わか つぶや
文章は苦手だ。この手紙を受取っても、君には全く読めな いことになる。だが、それでもかまわない。・ ほくがこれを 書くのは、自分のためだから。これは、激しい光に満ちて いた白夜の季節、サ・フという混血の少年と、一一十代の・ほく とむら を弔う、短調の告別の歌だ。南部の黒人たちが、死んだ兄 弟のために歌う、あの葬送の・フルースと同じようなものか もしれない。 ぼくは、この手紙の中で、夏至祭りのイヴに起こった事 件について、知っているだけの事実をまとめてみようと思 親愛なるイングリッド 君もやがて大人になる。大人の常識と、大人の生活に沈 ぼくは今この手紙を、ヘルシンキへ向うイルマータ号のんで行く。平和で安楽な日常生活の快適さが身について、 いつの間にか、きまった考え、きまった反応しかできなく 船上で書いている。まだ九月というのに、窓から見るバル チック海は、暗く、冷い。甲板には人影もなく、この船客なってしまう。そんな時に、この手紙を読むといい。英語 サロンにも数人の老婦人が毛糸を編んでいるだけだ。もうの達者な日本人旅行者に頼めば、喜んで訳してくれるだろ 。君に優しく頼まれて、それに抵抗できる男はいないは 間もなくやってくる長く厳しい北欧の冬にそなえて、えり ずだ。 巻きでも編んでいるのだろう。 そうだ。もう夏は終ったのだ。白夜の季節は過ぎてしま そうすれば、この手紙の中で、君は十八歳の非行少女に った。暗黒の六カ月が、垂れこめた雪の下で無気味な口を再会することになる。殺意に震えながら、百二十キロで白 開けて待ちかまえている。君にとって、いや、・ほくらにと夜の街にポルポを飛ばした、激しい季節の君がそこにいる。 って今ひとつの季節が、夏とともに去って行く。 イングリッド イングリッド 船がかすかに揺れはじめた。イルマータ号は黙々とフィ ・ほくはこの手紙を自分の母国語である日本語で書いてい ンランド湾へ進んで行く。夜の海は、真っ暗だ。編物をし る。君たちの言葉、スウェーデン語は知らないし、英語も、ていた老婦人たちもいなくなった。今から、独りでこの手 白夜のオルフ = かんばん びやくや マイナー ミッドソンマル
172 あ、 と、彼は考えた。背広の下にグレイの毛編みのポロシャ と、黒木は呆れたような顔で青年に言った。 くっ 「ぼくは、あなたを知りませんよ。何の目的で、ぼくの弟ツを着て、底の厚いスポーティな靴をはいている。やや痩 うそ せ気味で、浅黒い皮膚と、引きしまった顔立ちが、その青 だなんて嘘をついたんですか」 年に一種のふてぶてしさをあたえていた。いったん目標を 「失礼しました」 決めて動き出したら、なかなか後へ引きそうにない感じの と、その青年は、・、 カらりと態度を変えて頭をさげた。 「実は、是非あなたにお目にかかって話してみたかったの青年だ。彼は黒木をまっすぐ見て、自分が何者か、何の目 です。病院にインタヴューの申込みをしたのですが、あっ的で訪ねてきたかを説明しはじめた。歯切れのいい、無駄 しやペ さり断られました。肉親と言えば何とかなるだろうと思っのない喋りかただった。 て、院長の留守に看護人を口説いたのです。泣き落しと買「私はラジオの報道部員で、五条昌雄といいます。ま あ、小さなローカル局ですから、大した仕事もやってませ 収の両方で攻めて、やっと内緒で三十分だけ時間をもらい ましてね」 んが、主に録音構成のような番組を手がけておりまして その青年は、黒木の精神状態を計るような目つきで、じね」 今度の高校生パーティ遭難事件は、この地方では数年ぶ っと黒木をみつめた。 「まあ、どうぞ。・ヘッドの端にでも腰をかけてください」りの大ニュースだった、と彼は説明した。 たしか と、黒木は青年に言った。「・ほくは確に多少の心理的動「私は遭難の第一報が入った時から、この取材活動にかか りきりだったんです。最近、冬山の遭難が一種の社会問題 揺状態におちいっていますが、精神病者ではありません。 化してきた時期でしたし、この事件の一部始終を追うこと 一時的なショックを受けて、神経がひどく消耗しているだ で構成ものを一本作る積りでした。良いものが出来れば、 けなんです。もう大分落着きましたし、あなたに危害を加 すわ えたりはしませんよ。安心してお坐りになってください」本年度の民放祭にラジオ制作作品として出そうという 話もありました。ローカル局にもローカル局の意地という 「ええ。ありがとう」 その青年は、軽く頭をさげてべッドの端に腰をおろした。ものはありますからね。いつも中央局からネットしてお茶 黒木は、黙って彼の動作を目で追った。年齢は一一十七 、八をにごすばかりが能じゃない。その所を、一発見せてやる 歳だろうか。 気で本気で取組んだわけです」 〈おれよりは、少し上だろう〉 「わかりますよ」 はか むだ
たり、臨時工になったりした。 っていたが、自分に関しては一言も喋ろうとはしなかった。 サ・フは、そんな世界に、どうやらいや気がさしていたよ 9 神谷君は、どこから聞きこんできたのか、サ・フについて いろんな事を知っていた。たぶん、彼自身の創作も加わっうだ。船員くずれの青年と組んで、一一度密航を試み、二度 とも失敗している。それでもあきらめず、どういう手を使 ていたに違いない。だが、・ほくはその時はじめてサプとい ったのか知らないが、正式の旅券を持って貨物船で出国し う少年の周辺を知ったのだった。 た。五万円の船賃を払い、ポンべィまで運んでもらったの イングリッド おそらく君は彼の過去について何も聞いていないだろう。 君たちの関心は、常に今日と現在に向けられている。それそこからどうやって北欧まで流れて来たかは、神谷君に が悪いとは思わない。だが、この機会に・ほくはサプの過去も判らないらしかった。だが、〈階段〉に集ってくる連中 にとっては、別に驚くほどの旅行ではなかっただろう。中 について書き残しておこうと思う。サ・フが死んでしまった さんぞく 今、彼にはもう、昨日も、今日も、明日もありはしないの近東で山賊におそわれて、チェーンでしめ殺して逃げてき たという日本人学生もいるのだ。 だから。 ストックホルムにやってくると、サ・フは中央駅付近のレ ぼくらの母国には、たくさんの米軍基地が散在している。 サ・フの父親は、その基地のひとつに勤務していた黒人の下ストランで働きだした。割合に真面目にやっていたらしい けんか ただ、しばしば派手な喧嘩をやって、傷だらけで店に出て 士官だったという。その男が朝鮮の戦争で死ぬと、オンリ しつも南ヨーロツ・ハから出稼ぎに来 ーだったサプの母親は彼を横浜の施設にあずけて姿を消しきたという。相手は、、 てる労働者たちだったそうだ。 サプは十三歳の時に、そこを離れた。そして二年後に傷「こないだやられたのもイタリアの連中だったらしい」 と、・ほくは言った。「いったい何が理由で連中と騒ぎを 害事件を起こして、家裁から居住地指定の保護観察処分を うけている。 起こすんだろう」 けいひん やがて京浜地区の暴力団組織に加わって、少年ながら相「イングリッドですー 神谷君は、桜ん・ほの種子を。フッと遠くへ飛ばしながら断 当の羽振りだったらしい。そのうち、県警が暴力団取締り に乗りだした。不況のあおりも加わって、サ・フの入ってい言した。「彼女をめぐって連中ともめるんです。間違いな かせ いですよ」 た組が解散すると、仲間は地方へ流れたり、情婦に稼がせ こ 0 しやペ でかせ
その時のぼくは、一一十五歳の失業者で、西日の直射する「そうすればギターを教えてやってもいい」 ・〈 = ャ張りの三畳には、夜具と机と、卒業証書と、古い安 ぼくはその時すぐに返事はしなかった。二晩考え 物のギターがあるだけだった。 たが、夜史けに宿直室の方からあの物憂いメロディーが響 いもの 働かねばならなかった。これまで勤めていた鋳物工場へ いてくるのを聞くともう駄目だった。ぼくは野上主事と約 もどる気はしない。激しい熱気とガスのために、ぼくは慢束をした。そして半ばやけくそな気持で、それまでの世界 性の気管支炎を起こしていたのだ。地下鉄に乗ったり、風に別れをつげたのだ。 呂に浸ったりすると、それだけで息が苦しくなる。 その曲の名前を・ほくが知ったのは、ずっと後になってか こもわ・うた そんな時に、い つも深夜、洗面所で会う、向いの部屋のらの事である。それは〈島原地方の子守唄〉という九州の 男から、流しをやらないか、とすすめられた。ぼくは、そ民謡だった。ばくは飢えた動物のようにギターに爪を立て、 の夜の仕事を半年続けた。ある晩、酔ったボクサーくずれその素早い上達ぶりで主事を驚かせた。 イングリッド の地回りに、ひどく殴られて、その仕事をやめた。リクエ ストされた曲を、・ほくが知らなかったので断ると、相手は 君たちスウェーデンの少女らには、・ほくの話は半分も理 それを誤解したらしい。・ほくは手出しをせず、殴られるま解できまいと思う。それは、君たちのせいではない。完全 たた まになっていた。ギターをカウンターに叩きつけられてこに近い社会保障と、百五十年も続いている平和な生活のせ アイスピック わされた時は、そばに転がっている氷かきに手が出そうで、 体が震えた。勘の良いママが、それに気・ついてすっと帯の再び失業した大学卒業生が、自分の血を売りに製薬会社 間に隠さなかったなら、ぼくはそいつを撼んでいたかもしに通ったといっても、君たちはそれを科学的な興味のため れない。 十年前のぼくに返れば、こんな相手を黙らせる位としか思うまい。 は何でもない事だった。 ・こが、・ほくは基地のクラ・フでの仕事を獲得するまで、何 だが、・ほくはじっとしていた。裏日本の少年院で、はじ度となく一一百 OO の血を売って食事にありついた。ダ・フル めてギターの手ほどきをしてくれた野上という主事との約で抜いたこともある。時には比重が足りずに断られたりも した。 束を、ギターを弾いている間は破りたくなかったからだ。 「二度と暴力をふるわないと約東しろ」 基地の仕事は半年ほど続いた。そして、何の予告もなし と、彼は十六歳のぼくに向って言った。 に、突然それは終った。
うわー 私を部屋に連れて行くと、彼は上衣の上からエプロンをたんです。何だと思います ? 」 「さあ」 かけて、飯をたき味噌汁を作りにかかった。 食事をすませ、緑茶を飲み、じゅうたんの上に寝そべっ 「それはね、深夜放送の受験講座と宣教番組にはさまれた、 て煙草をふかしていると、白瀬が一枚のレコ 1 ドを持って十分間のあなたの音楽番組だったんですよ。あの頃は今み きた。 たいに深夜のディスク・ジョッキーなんてほとんどありま 「是非お聞かせしたい盤がありましてね」 せんでしたよね。夜中に下宿の部屋で、その時間になると 彼はレコードをプレイヤーに乗せ、私の顔を楽しそうに本を閉じてイヤホーンを耳に差しこむんです。まあ、セン なが 眺めた。床においたスビーカ 1 の中で、ビアノが鳴った。 チな言いかたですが、それだけがわたしの青春だったとい マイナー 出だしの短調の和声を聞いた瞬間、私にはそれが自分の演えるかも知れません」 「・フルースの誕生」 奏であることがわかった。 と私が言った。「あれは悪くない番組でしたね。自分で 「これを聞かせるために私を連れてきたんですね」 と私は言った。「それ、やめてくれませんか。あなたも言うのも変だけど」 それはほとんどノー・ギャラにひとしい仕事だったが、 意地の悪い人だな」 白瀬は、おとなしくレコードを止めた。 確に良い番組だった。予算を持たないラジオ・プロデュー みぜに 「実を申しますとね、わたしは学生時代に大変なあなたのサーの情熱に負けて、私は四年間も身銭を切りながら生の 演奏を続けたのだ。 ファンだったんですよ」 私の横に並んで寝転びながら、彼は煙草に火をつけて喋「な・せ。ヒアノをお止めになったんです ? 」 彼が突然いった。きっときかれるに違いないと思ってい りだした。 た、いやな質問だった。 「東大受験にはじまって外交官試験におわる青春。そんな サ・フタイトルをつけたくなるような学生時代でしてね。登「別に。正直いって弾けなくなったんですよ。・フルース 山もスキーも、ダンスもョットも、全く関係なし。もちろが」 ん恋愛や学生運動も敬遠しました。わたしは天才じゃなく「なぜでしよう ? 」 「さあね。たぶん世の中が、いや私の生活が変ってしまっ て地方出身のありふれた秀才に過ぎませんでしたからね。 だけど、たったひとつ、誰も知らないわたしの道楽があったからでしようね。気障な言い方で照れ臭いけど、つまり、 たばこ しゃべ
茶店にはいっこ。 県南支部長をやってるわけよ。毎年、こっちから行ったり、 向こうのを呼んだりしてるんだが、今年はおれが行く番に 「あんた、随分すかっとしてるなあ」 なったのさー と、筑波五郎はシャツの襟を手でひろげながら言った。 「もう東京暮しも一一年だもんな」 「どこへ行くのかね」 せんばう 「いつ上京したんだ」 ・ほくは羨望の調子を隠さずに聞いた。 と、ぼくは」いた。 「プルガリアだとよ」 「きのうだよ」 くレカン半島のか」 「・フルガリア ? / / 「仕事かい」 「どこだかおれはよう知らんが、人民共和国ちゅうやつだ。 共産党の国だろ」 「ああ。おれ、こんど外国に行くことになってな」 なが ・ほくは驚いて筑波の顔を眺めた。外国へ行くというのは、「ルーマニアの隣だな。南はトルコと接してる国だ。ソフ ばくぜん ィアという美しい首都がある。古代トラキア人が住んだ国 ・ほくにとって一つの夢だったからである。ただ漠然とあこ がれているのではなく、自分の仕事のためにも、ぜひ一度だろう」 ョ 1 ロッパに行って見たいと思っていたのだ。少なくとも「よく知ってるな、あんたは」 あき 日本で美術ジャーナリズムの仕事をやって行こうと思えば、筑波五郎は呆れ顔に、そこへ行って果樹栽培の模様を見 一度はヨーロッパの土を踏んでおく必要がある、というのてくるのだ、と言った。彼は一向に嬉しそうな顔をせず、 いらだ が、ぼくの考えだった。行って何を見て来た、というのでその事が・ほくをひどく苛立たせた。おれも何とかして外国 へ行ってみたい、と激しい渇きのようなものを・ほくは覚え はなく、少なくとも西欧の絵画や、建築や、風土や、人間 ムきげん て、その時ひどく不機嫌になったように思う。それが今年 などを肉眼で確めて来るだけでもいいのだ。活字やカラー の印刷だけで知っているだけでは、自分の発言に自信が持ての六月だった。 イないという気がする。大げさに考えなくても、知らない土 フ 地を青年のうちに訪れるという事は、悪いことではないだ ろう。 「いつ行くんだ。いったい何でお前がーー」 「国際青年農業連盟というのがあってな。おれが村でその えり 筑波五郎がプルガリアの旅を終えて帰って来たのは、ち ようどぼくらの夏休みが終る頃だったらしい。彼がプルガ うれ
それが何かを、矢来ははっきり見定める事が出来ないで いた。その薄汚れたものは真新しいテレビ局の廊下からも、 最新の設備をほこる副調整室の天井からも、絶えず降って きた。すきのない服装に身を固めた広告代理店の男たちか はだ らも、髪を金色に脱色した女性タレントの肌からも、それ はじわじわと滲み出してきた。 そいつがいつの間にか矢来自身の内部にしみ込み、こび りついてしまったのだろう。二十八歳の矢来慎吾は、最近、 自分がひどく薄汚れた顔をしているように感じる事があっ た。九州の地方支局で、旱魃の取材に田んぼ道で自転車を 走らせていた時のほうが、おれははるかにスカッとしてい た、と彼は考える事があった。それは地方支局から東京の けんたいかん 本社へもどって来た当初は、全く感じた事のない倦怠感の 雨が激しくなった。放送テレビの五階の社員食堂の窓ようなものだったといえる。 なが やらいしんご 〈おれは疲れているのかも知れない〉 から、矢来慎吾は・ほんやりと外の風景を眺めていた。いっ がいえん、ぎ はいざら も薄汚れた感じの神宮外苑の樹々の緑が、今日はひどく鮮と、彼は考え、燃えっきた煙草をアルミの灰皿に押しつ かに目にしみた。 けた。その時、頭の上で女の声がした。 すわ 〈おれもひとっ外に出て、雨にでも打たれてくるかーー〉 「坐っていい ? 」 のう す 矢来はふとそんな事を考えた。何か薄汚れたものが、脳矢来の隣の椅子をきしませて、田辺洋子が、勢いよく腰 ずいしん 髄の芯までこびりついているような気がするのだった。をおろした。かすかな汗の匂いがした。 新聞のラジオ・テレビ欄担当記者として放送局に出入りす「何だ、あんたか」 るようになってから、もう三年半はたっている。薄汚れた「何をそう不景気な顔してんのよ」 ちんでん 田辺洋子は赤いスリーヴレスのプラウスからはみ出した ものは、その間に少しずつ自分の中に沈澱してきているら たた しかった。 逞しい腕で、矢来の肩をどしんと叩いて微笑した。教養番 …第三演出室 たくま かんばっ にお
からはジャズの時間だった。客たちが帰っても、ずっと朝と、少年は言った。「あんたの。ヒアノはそう言ってるぜ。 がたまで夢中でやっている。〈ビアノ・・ハ ー・トリオ〉と音楽はごまかせないもんだよ」 ジョニーは肩をすくめて苦笑した。 少年は名前を決めていた。 「彼女は素晴らしい人だ」 演奏に疲れると、ジョニーと健ちゃんと少年の三人で、 とジョニーは小さな声で呟いた。 勝手なお喋りをする。もつばら話題はジャズの事だった。 「音楽は人間だ」 「そうでもないさ」 とジョニーはいつも同じ事を言った。「わたしが駄目な と少年は言う。「さて、じゃあ、もういっちょうやるか」 人間になる。すると音楽も駄目になる。わたしが高まると、 ジョニーは、とても素晴らしい。ヒアニストだった。だが、 演奏も高まってくる。そりゃあ怖いみたいなもんだ。音楽 ミュージシャンである以上に、大したジャズ学者だった。 はごまかせない。人間の内面を映す鏡みたいなもんさ」 健ちゃんと少年は、ジョニーから、さまざまなジャズの考 「そうは思わないね」 えかた、つまりジャズの思想といったようなものを教えら 健ちゃんはジョニーの意見に反対だった。「そんな事をれたのだった。 言ってりや、おれなんざ全くジャズをやる資格なんそ、あ りやしないって事になる」 その年の夏の終りに、ジョニーは突然、どこかへ出発し へた 「あんたは良い人だよ。だから下手だけど暖かい・ヘースが た。ベトナムへ行ったのさ、と健ちゃんが言っていた。 一弾けるのさ」 彼が現れなくなってしばらくして、かなりのまとまった ョ「よしてくれよ。おれは出来そこないの、ぐうたらパンド金が〈ビアノ・・ハ ー〉気付けで送られてきた。ジョニーか ジ マンさ」 らだった。この金で新しい。ヒアノを買っておいてくれ、と た い「自分を卑下する事で、自分の演奏までいやしめてはいけいう手紙がそえられていた。もし無事に帰っていけたら、 見ない」 その。ヒアノで健ちゃんたちと夜通しジャズをやろう、とも を とジョニーは怖い顔で言う。「あんたは良い人間なんだ。書いてあった。 海 それはあんたのペースが証明してる。ごまかしちゃいか だが、その金でビアノを買うことは出来なかった。少年 ん」 の姉が、マイクのポーカ 1 の借金を払うために無断でそれ 「ジョニー。あんた、おれの姉の由紀に惚れてるだろう」を流用したからだ。 しゃべ だめ つぶや