影山 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集
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1. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

と、影山さんは言った。「百万位の金ならどうにでもなもって断言するので、影山さんは・ほくらの話を信じないわ けには行かなくなったのである。 るがねー 「何です」 「もし本物のロシア・イコンが手にはいったらーー」 「本当はおれもついて行きたいんだよ」 と、影山さんは・ほくに夢見るような目付きで言った。 たな 一緒にどうか、と・ほくは言った。影山さんは首を振って、「あの壁と、ここらの棚を外して、ずらっと一面に並べる 「ちょっと最近、心臓の具合がおかしいんだ。飛行機に乗んだ。ミネをハ図書室に続いて、ミネル・ハ美術工芸室が出 ると不安でな」 来上るという寸法だな」 「じゃあ、どうします」 「凄いですね。大学の先生方がびつくりしますよ」 「一晩考えさせてくれ」 「うん」 いま、ソフィア行きのソ連製ジェット機の座席に身を埋 と、影山さんは言った。だが、その顔を見ると、今すぐ うれ にで金を取りに駆けもどりそうな表情をしていた。・ほくめながら、・ほくはその時の影山さんの嬉しそうな顔を思、 ねら は筑波に横目でウインクした。狙った通りに旨く行きそう浮べ、かすかに心が痛んだ。もし、万一、筑波が見たとい だ。・ほくは影山さんに旅費を出してもらって、大威張りでう古い聖像画が、どれもこれもその辺にごろごろしている 。しし力。いや、革命の時 ヨーロッパへ発てそうな具合だった。ソフィアの、あの金安物のイコンだったらどうすれま、 色に輝くネフスキイ寺院のイメージが、・ほくの心を満たしにロシアから持ち込まれたものなら、そんな安物のはずは た。ソフィアの街に鳴る優しい鐘の音が、頭の隅にこびり ない。ひょっとすると十四、五世紀の傑作も、中には混じ ついていた。 っているかも知れぬ。本当に値打ちのあるものがみつかっ たなら、一点位はパリで影山さんには内緒で処分してもい の い。もし百万位に売れたら、半年ほどヨーロッパで暮らし ア てみよう。 ぼくらは九月の下旬に出発した。筑波五郎はモスクワ回「・ハルカン山脈が見えて来たぞ」 りで行こうと言ったのだが、・ほくはパリ経由に決めたのだ。 と、筑波が気密ガラスに額を押しつけて叫んだ。彼は話 3 影山さんは、往復の飛行機代と、その外に五百ドルずつのがまとまってからは、別人のように元気をとりもどしてい 経費を・ほくら一一人に用立ててくれた。ぼくが余りに確信をた。少しはしゃぎ過ぎる位だった。その事はばくを安心さ すご

2. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

くるめがすり っと、時には夜までいろりの前の久留米絣のざぶとんに坐 ・ほくはしかつめらしく水差しを手の上で逆さにしたり、 指で胴のふくらみをなでたりしたあげく、言葉少なに言っ って動かなかった。古い戦前の「改造」をめくってみたり、 こ 0 同級生を相手にガウディの建築について論じてみたり、影 うでずもう 「十六世紀ものでしよう。この辺のふくらみに東方ビザン山さんと腕相撲をやったりして日を過した。・ほくは中肉中 チン風の味がかなり濃厚に表われているようだ」 背で、影山さんより体格では劣っていたが、腕相撲では互 「わかるねえ、あんたは。うん。わかる」 角に闘う事ができた。ばくが二十歳、影山さんが五十歳と くまそ しゅうちょう 酒と美女をあたえられた熊襲の酋長のように、影山真いう年齢の差を考えると、むしろ影山さんの健闘をたたえ ひざ 陽氏は相好をくずして・ほくの膝を叩いた。・ほくが〈ミネルるべきだろう。彼は・ほくらと全く同じ次元で議論したり、 ・ハ茶房〉のとしての資格をあたえられたのは、その笑ったり、怒ったりした。・ほくら学生たちは、影山さんを ある面では煙たく思い、ある面では敬愛していた。少なく 時からなのだ。 とも、時には彼に頼めば一日の食費位は、名前もきかずに 貸してくれたのだから。 影山さんの生い立ちゃ、経歴を、・ほくは知らない。判っ 大学の講義は、・ほくを眠たがらせただけだった。・ほくはていることといえば、彼が大学には行かなかったこと、独 その年度の終りまでに、数えるほどしか正規の授業には参身で店の奥の部屋に寝泊りしていること、相当の不動産を 加しなかった。デモに加わったり、仲間と小さな芝居を手都内のあちこちに持っていて、〈ミネル・ハ茶房〉は一種の 伝ったり、女子学生に惚れたり、振られたりして最初の一道楽だったことなどである。彼は少なくとも、・ほくら学生 年間が過ぎた。ぼくは学校に来た時は必ず〈ミネル・ハ茶の年長の友人ではあった。学生運動の活動家たちが、時た たな の房〉に立寄り、棚の本を入口の左端から順々に読んだ。どまカンパを求めたり、劇団の女の子が切符を押しつけたり ういう種類の本を読むとか、何の目的で読むとかいった事すると、多すぎず少なすぎない徴妙なところで、それに協 力してやっていたようだ。影山真陽氏は、人間としてはか フは関係がない。ただ順番に左端から片づけて行ったのだ。 たん ・ほくがインパール作戦の経過を憶えたり、菜根譚を暗記しなり幸福な部類に属する人ではないか、と・ほくは思う。だ みなかたくまくす たり、南方熊楠や、・フランキの名前を知ったりしたのも、 が時に彼も不幸そうな顔をする事がある。そんな時、影山 かな そのお陰である。ばくは一杯のコーヒーを前に、午後中ずさんは仔熊を見失った親熊のような哀しげな感じになった。 わか すわ

3. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

くこの店に出入りしとったもんだ。こないだちょっとした だな」 文壇関係の会で会ったら、彼、言うとったね、うん。影山 「役には立ちませんね」 と、ぼくは相づちを打った。美術を勉強した所で、卒業さんの話を一度、書いてみたいとな。うん」 してすぐ美術評論で食えるという可能性はない。新聞社か「そうですか」 あるい ・ほくはカウンターの向こうに隠れた少女の脚の残像を、 放送局か、それとも出版関係の会社を受けるか、或は郷里 の九州に帰って伯父が理事をしている女子短期大学の講師なおも未練がましく追いつづけていた。彼女はまだ女学生 をやる位が、・ほくの将来の可能な道だった。四十歳位までのようでいて、そのくせひどく迫力のある大きな乳房を持 に外国の美術書の翻訳を一冊出すか、または郷土出身の画っていた。 しげる 「ん ? 」 家、青木繁の伝記でもまとめるか、その辺が率直に言って 自分の能力の限界なのだ。・ほくのような者には、新人のグ影山さんが・ほくの視線の方を振り返ったので、・ほくはあ ループを作って芸術運動をやるなどというエネルギ , ーはなわてて彼の顔に目を向けた。 っこ 0 「なるほど。くさっても美術の学生さんだ。目が高い、う カー ん。あれに気づきなさったか」 「役に立たん勉強をなぜやるんだ」 「はあ ? 」 と、影山さんは重ねてきいた。 ・ほくは、顔一面に喜悦のしわを浮べながら目を細めてい 「まあ、嫌いじゃないからでしよう」 る影山さんを驚いて眺めた。 「なるほど」 「ここに来る芸術青年も少なくないが、あれに気づく人は 影山さんは二、三度ふとい首を曲げてうなずくと、 「わしも若い時は美術に関心があった。彫刻家か、舞台美余りおらん」 と、影山さんはカウンターの方を振り返って、どこかゆ の術家をめざしておったんだが」 ・ほくはコーヒーを運んで来た少女の、形のいい白いしまるんだような声の調子で喋り出した。 ガラス フ 「ヴェネッィアン・グラス ヴェニス硝子、と言って った脚を横目で眺めながら、適当にうなずいた。 「な・せそれを断念したか。そいつを話せばあんた、それだしまえば何となく風情がなくなる。あれは、わしが四十六 けで一篇の小説が書けるかも知れん。うん。こないだ何と歳の夏、イタリア旅行の際にムラノ島の島民の台所から発 か賞をもらった作家の高原明三な、あの男も学生時代はよ見して持ち帰ったものだ。うん。もちろん偽物じゃない。 241 いっぺん なが しゃべ

4. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

かっこう それは、ごくまれに蔵書が無断で持ち去られたり、金を借て時代おくれの恰好の若者だった。真黒に灼けた顔に白い りて返しにこない学生がいたり、また、影山さんの知らな歯をむき出して笑 0 ている。手に大きな紙袋をさげていた。 い単語を・ほくらが使ったり、夏休みや冬休みが近づいて来「よう、海野 ! ひさしぶりだなあー なま たり、つまり、そんな時に彼はやるせない感情におそわれその男は訛りの強い大声で、ぼくの名前を呼んだ。ぼく るもののようだった。 はぎよっとして立ち止った。「おれだよ、筑波だよ」 だが、おおむね〈ミネル・ハ茶房〉をめぐる若い学生たち「なんだ、お前か」 は影山さんを失望させなかった。ぼく自身は店主・影山真筑波五郎は・ほくの田舎の高校の同級生だった。昔、一緒 陽の最も近しい友人として〈ミネルバ茶房〉に十年一日のに学校をさぼって遊び回った仲間である。美術部に籍をお ごと 如く通い続けた。 いていたが、彼が絵を描くのを見た事がなかった。・ほくに ありがた ・ほくが大学に入って二度目の夏が近づこうとしていた。 とって、劣等感なしにつきあえる有難い友人だった。学校 いちょう 学校の構内の銀杏並木は青黒いまでの葉の重なりを作り、 の成績も良くなかったし、これといった特技も持っていな デモの歌声も少しずつ細くなって行った。夏休みを待たず い。そのくせ、教師や同級生たちから好かれるという、妙 に帰郷する学生と、海や山へエスケープする連中がふえてな才能の持主だった。少しどもるくせが、筑波五郎をいっ ねずみ いたからである。〈ミネルバ茶房〉にも新しいクーラーがそう好人物に見せていた。どこか鼠に似た顔で、痩せてい 備えつけられ、影山さんも時どきステテコ姿で店に現れた。る割に力があった。農家の三男坊で、小さい時から労働に カウンターの中の少女の乳房は、昨年の夏よりいっそう見きたえられたせいだろう。高校を出てから家の仕事を手伝 うわさ そえん 事に突き出してきたように思われた。彼女にだけは、影山っているという噂を聞いたことがあるが、自然と疎遠にな さんのガードが厳重なので、学生たちも手が出ないでいるっていた。 ようだった。 「どうしたんだ、今ごろ。東京へいつ出て来たんだ ? 」 と、ぼくはきいた。筑波はその鼠に似た顔に流れる汗を つくば ばくが筑波五郎に会ったのは、夏休みが始まる前日の午手の甲でふきながら、 きのくにや 後だった。・ほくが新宿の紀伊国屋から出てくると、向こう「どこかでアイスクリームでもおごれよ。東京は暑くてた から満面に微笑を浮べて近づいて来る男がいた。今どき流まらんな。人が多いせいかね」 かいきん かわぐっ 行らない白い開襟シャツに先の尖った革靴という、 一見し ぼくは彼を連れてまた紀伊国屋へ後もどりし、三階の喫

5. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

まゆ ムさムさ の中にいた。少し縮れた髪をなでつけ、黒い総々とした眉 書印だけが見返しに押してある。 その書庫のような部屋の奥に、障子をへだてて、もう一毛と、顎ひげを指先でひねりながら、その人物は知らん顔 つの和室があった。そこは同人雑誌や、小さな研究会の会をしていた。大き過ぎるほど大きな顔で、体格もよく、た くまそ とびら 場に使える部屋で、使用中には店の扉の所にポール紙の札ぶん昔の熊襲という種族はこんな感じだったろうと思わせ がさがる。〈文学誌・凍河同人会〉などと、読みにくい書る男である。 「冷いコーヒーをくれよ、おじさん」 体で書かれた札が風に揺れているのだ。 と、・ほくは言った。その時はじめてその男は・ほくを振り その和室と書庫ふうの部屋の両方に連なって、カウンタ 1 があった。ふだんは和服の着流しの真陽氏が、郷里の山返って低音で言った。 「わしはここの店主だ。影山真陽。みんなは影山さんと呼 口県から呼びよせたという頬の赤いリスのような少女と二 人で中にはいっているのだ。コーヒーを入れたり、皿を洗んどる。マスターだの、おじさんだのと変な呼び方はしち ゃならん」 ったり、十字のたすきをかけた真陽氏が、指先まで黒い剛 こちらをにらんだ目玉が異様に光るので、・ほくは驚いて 毛の密生した腕を見せて狭い空間で働いているさまは、ど 謝った。 こか檻の中の熊に似ていないでもなかった。 「コーヒーを下さい。影山さん」 ・ほくが〈ミネル・ハ茶房〉にはじめて顔を出したのは、た ぶん大学に入学した年の夏だったと思う。夏休みの最中で「冷いコーヒーを入れてやんなさい」 と、主人は女の子に顎をしやくって言った。そしてカウ 〈ミネル・ハ茶房〉もほとんど客がいなかったようだ。 最初の印象は、きわめて悪いものだった。夏期講習の帰ンターの下をくぐって、思いがけぬ素早い身のこなしで出 すわ りに寄った・ほくには、客が店に入ってきてもじろりと眺めて来ると、・ほくの隣に坐って意外に優しい声で言った。 るだけで、いらっしゃいませ、とも言わぬ変な店主が目ざ「あんた、夏期講習を受けに来とるのかね。文学部じやろ 。専攻は何 ? 」 わりで仕方がなかった。それだけではない。その店の様式、 装飾、その他のすべてが強い違和感を覚えさせたのである。「美術ですー ・ほくは少し後ずさりしながら答えた。影山さんの口から、 「マスター」 と、その時、・ほくは呼んだのだ。その日に限って真陽氏呼吸とともに強いニンニクの匂いが迫って来たからである。 「美術か。ふうん。いちばん役に立たん所にはいったもん は白いステテコに丸首のシャッという風体で、カウンター おり ほお なが にお

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からね。でも、その中に例の中世ロシアの名作でもあれば、 房〉で、影山さんと向き合って坐っていた。 百万位なんでもない事になるでしよう。何しろ、ルーヴル 「その話、本当に信用していいのかね」 やエルミタージュ美術館と肩を並べるコレクションですか と、影山さんは言った。 「間違いありません。でも、あなたが心配なら、別に無理らね」 にとは申しません。ほかにいくらでも当って見る所はあり「うむ」ぼくらの会話を、横の筑波は終始だまって聞いて いた。いや、聞いていなかったのかも知れない。彼は最初 ますから。ただ、これまでの友情と、影山さんの古美術に からカウンターの中の、あの少女の胸に気をとられっ放し 対する関心の深さを知ってる事から最初にお話しただけな だったのだから。 んでね」 ぼくらが〈ミネル・ハ茶房〉にやって来たのは、店主の影 と、・ほくは答えた。 「いや、別にこの人の話を疑っておるわけじゃない。ただ、山さんに或る提案をするためだった。その提案というのは、 ・ほくと、筑波の二人を・フルガリアまで費用を出して派遣し そのーー」 なしか、という話だったのである。 「何です」 その日の朝、・ほくの部屋で筑波が打ち明けた話は、ひど 「一人ならともかく二人となると、百万はかかるじやろ」 く・ほくを驚かせた。・ほくは興奮のあまり、何回も便所に立 「だから無理ならお止めなさいと申上げてるじゃありませ った位だ。 んか」 筑波五郎の話はざっとこういう事だった。 「一人じゃ駄目かね」 彼はその夏の・ハルカン半島の旅で、・フルガリアに長く滞 「一人とは ? 」 在したという。ソフィアから離れたキオシスの村に彼は二 みね 秋「この人だけに行ってもらうという手はないかな」 週間余りいた。それは・ハルカン山脈の高い峯を越えた山の の「それは無理ですねー ぼくは言った。「こいつは、ただその場所を知ってると中腹にある小さな寒村で、わずかな村人たちがひっそりと ソいうだけの話です。沢山のイ 0 ンの中から美術品として価暮らしている村だった。彼はその村で何百年もの昔から続 いている農民の暮しを経験したのである。女たちは共同で 値のあるものだけを選び出してこなければならないんです す、 1 よ。いくら何でもトランク一杯のイコンを国外に持ち出すパンを焼き、手織り機で布を織る。男たちは犂が使えない くわかま わけにはいかんでしよう。精々、二人で四、五箇でしよう山腹の斜面を、先祖から伝わった鍬や鎌などをたよりにた だめ すわ

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ガラスはっしよう 十七世紀初頭の品だと国立博物館の武早技官が保証してく青年だった。ヴェニス硝子の発祥の地といわれるムラノ島 れた本物さ。しかし、何だな。おたくは若いがなかなかのまで、わしはこの美しさを求めて旅をしたんだ。そしてこ 目を持ってるね。うん、ちょっと手に取って見てみるかれを見つけて持ち帰った。だがーー」 てのひら 影山さんはそこで言葉を切り、ぼくの掌にその水差し ぼくはその時、ようやく影山さんが何を勘違いしているを乗せて嘆ずるように大きな溜め息をついた。 めくら かに気がついた。ぼくはカウンターの中の少女の胸に、ぼ「盲千人とはうまい事を言ったもんだ。こいつをそこに飾 たな かんと見とれていたのに、彼はぼくが彼女の頭の上の棚をつておいて、これに気づく客はほとんどいないんだからね、 眺めていると思ったのだ。 君。学生は仕方もなかろう。だが、大学の教授たるもの、 、れい だれ 言われて見れば、その棚には綺麗なガラスの水差しが一まして文学部の教官たちが誰一人としてこれに触れないと いうのは一体どうなっておるんかね。うん。あんたが最初 つ、飾ってあった。古いランプのほやの形をした胴体に、 わんきよく ・こ。いや、本当に。ちらちら眺めてた客も中にはいたよ。 細い彎曲した取っ手と、薄く左右に拡がった台のついた、 だが、あんたみたいに、まるで惚れた女でも見るみたいに、 どこか異教的な感じのする水差しだった。縁や取っ手には せかっしよく 金線が封じ込めてあり、鮮かな赤褐色の胴体が官能的ともよだれでもたれそうな顔でこいつに見蕩れた人はいなかっ たよ。うん。あんたはわかる。わかるねえ」 いえる曲線を示していた。 「ヴェネッィアン・グラス・ーーーね」 ・ほくはロに含んだ氷のかけらを、照れかくしにガリガリ かくだ ぼくは慌てて、さも感に耐えぬ口調で呟いたのだ。「見噛み砕きながら、掌の上のヴェニス硝子の水差しを眺めた。 そして必死で以前に調べた事のあるヴェニス硝子について 事なものです」 「あんたはわかる人だ。うん」 の知識を思い起こそうとっとめた。・ほくは分析力には欠け ひざたた たかも知れないが、記憶力はあるほうなのだ。一度どこか 影山さんはいっそう感激して・ほくの膝を叩き、立ち上っ で読んだり聞いたりした事柄は、不思議によく覚えていた。 てその水差しを持って来た。 「見てごらん。この華やかな赤の明るさ。取っ手の線の何〈ヴェニス硝子は十三世紀頃にヴェニスを中心として起こ にお かんらん という優美さ。イタリアの日光と、橄欖の芳香が匂い立たり、十六世紀から十七世紀にかけて異常な発達をとげた。 んばかりの美しさではないの。わしが北部イタリアを訪れ当時がヴェニス硝子の黄金時代で、特に色彩美に優れ、豪 た時は、わし自身もまだ若かった。年は取ってたが気持は華な官能美にあふれた工芸品を生んだーー〉 あわ ひろ つぶや

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ル美術館や、ポストン美術館などにコレクションされてる 鑑定してみてくれんか」 そんなわけで、ぼくは先日、彼の持ち帰 0 たイ 0 ンを見名作もある。まあ、それほどでなくても、普通の古いイ 0 ンでも何十万円かはするだろう。芸術的に優れたものなら せてもらった。一見で安物だという事がわかった。第一、 これは古板に絵具で描いて、表面をこすって古い感じを出何百万だろうな」 した全くの偽物に過ぎない。その事を言うと影山さんは大「ほんとかね」 たた 「ほんとうだとも」 いに怒って、そいつをいろりの中に叩き込んでしまったの だ。ぼくはそれを拾って持って帰って来た。暗い部屋で夜「ふうん」 じよじよう 見ると、それでも何となくスラヴ風の抒情は感じられるか筑波五郎は再び深刻な表情で考えこんだ。・ほくは自分の らだ。本物であろうが、偽物であろうが、ぼくには大した好奇心をおさえ切れずに、ついに自分の方からロを切った。 問題ではない。むしろ、頭の弱そうなふりをして影山さん「なんだ。何かイコンに関係のある事でもあるのか」 こうかっ あわ に近づいたロシア人の狡猾さが、ばくには愉快だった。ア「いや」彼は慌てて首をふって、なおも考え続けた。 メリカ人や日本人が考えるほど、ロシア人という奴は、お「はっきりしろよ。友達だろ」 ひとよ 人好しではない。 と、・ほくは言った。「水くさいぞ。こっちはせまい部屋 「そういうわけさ。あれはその闇商人のロシア人が一晩でに無理して泊めてやってるのに。一体どうしたんだ」 しろもの が筑波五郎は、ようやく観念したように、腕組みをといて 描きあげた代物だよ。おそらく便所の羽目板でも引っぱ ・ほくを見つめた。 して作ったんだろう」 「実はなーー」 筑波五郎は腕組みをして、長い間、黙り込んでいた。彼爽かな秋の陽ざしが赤茶けた畳の上に落ちていた。壁の が何を考えているのか、・ほくにはさつばりわからなかった。偽物のイコンは、・ほくら一一人のひそひそ話を無表情に見お ろしていた。 やがて、彼が重々しい口調で言った。 「古い、本物のイコンなら、相当の金になるのかね」 「うむ」 「どの位だ ? 」 「はっきりはいえん。物によるからな。だが中にはルーヴその夜、・ほくらは客が帰ってしまった後の〈ミネル・ハ茶 やっ さわや

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性を持った彼は、次第に疎され、第三演出室へ室長私たちが生きていく上で必すぶつかる問題、つまり、 一コの歯車として体制の中に組み込まれることは個人 として配置がえになる。第三演出室は、「働きすぎて神 にとってど、つい、つことなのかとい、ついカ説を通 経がばろばろになり、使いものにならなくなったディ して書かれているわけで、それがテレビ局という、現 レクター、テレビ界の草創期のヒーローとして活躍し 代のさまざまな様相がれつめた形で具現されている場 たが、映像の世界の急激な進歩と変化についていけな ーしし力性格的に所が舞台になっているだけに、その問いはいっそう鋭 くなって取り残されたべテラン、腕よ、、ゞ いものになっている スタッフからポイコットされた男、タ 協調性がなく、 いっぴきおおかみ 体制の中で、一匹狼のように生きようとして遂には レントとスキャンダルを起して告訴された奴、「 敗北する主人公は、「の世界」、「老兵たちの合唱」そ 早くて代理店側から干されている奴、競馬で制作費を ならやま の他にも見ることができる 使い込んだ奴、まあ、局の楢山みたいな部門」である。 「ソフィアの秋」は、五木寛之の詩精神が濃縮されて 辰巳は、また、組合側からも、ポイコットされてい 提示されている典型的な作品で、私の最も愛好する作 る事を知る。そして、組合がストをうった日、生番組 のイヴニング・ショウに穴があくおそれが出てきた際品の一つである 、ノーで制作するよ、つ 私立大学芸術学科で美術を専攻している海野は、偶 に編成局長から第一二演出室のメ / ・、 然、故郷の高校で同級だった筑波五郎と出合い、彼が 要求され、「おれはあんたが嫌いだ。あんたの生き方に も反対 だ。だが、自分らの手で平然と番組をつぶす連プルがリアへ行く話をきき、自分も外国へ行ってみた かわ いと激しい渇きのようなものを覚える。海野は、やが 中も好きしゃない。おれたちは、やりたいからやるん てプルがリヤの旅を終えた筑波と会い、その折筑波か だ」といって、制作を引受ける。しかし、本番寸前 らきいた話を、親しくしているミネルバ茶房の店主 ストは解除され、辰巳らは組合員の財声を浴びながら 影山に伝える。影山は日頃から美術品にしつこい興味 スタジオから退去しなければならなかった。 を抱いている人物だ この小説の、舞台こそテレビ局という、一見特殊な その話というのは、筑波がプルガリアの村長の娘と 世界であるように見えるが、組織体ということでは、 山腹にある古い石造りの無人の小屋の中で愛を交した どんな企業体でも同しであり、多かれ少かれ、現代の 476

10. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

むだ 影山さんは、決して無駄な投資をした事にはならないだろから出し、村長に贈った。その村長の娘が、通訳をつとめ う。今年の秋の終りには、〈ミネル・ハ茶房〉には新しい画た。 廊が生まれる事になるだろう。 筑波五郎とその少女が出会った時は、そばにいた・ほくま ・ほくらがキオシスの村についたのは、出発して三日目のでつい涙ぐみそうになったほどだ。二人は実に熱烈に抱き 朝だった。雪が深く、山越えに手間取ったのだ。ホテルで合い、キスをし、そしてみつめあった。周囲の村人たちは なが やとった案内人は、ロ数の少ない実直そうな男だった。 徴笑して二人を眺めていた。まるで新しく生まれた一組の やまはだ キオシスの村は重なり合った山肌に、寄りそうようにし新婚夫婦を祝福するような具合だった。それを見ているう て在った。石と木で造られた人家から紫色の煙がたちのぼちに、ぼくの心になぜか軽い巻雲のような不安が拡がりは るのを見た時、・ほくは言いようのない一種の感動を覚えた。じめた。 何百年も昔から、この山間にひっそりと暮らしている人々 と、東京の一千万人の雑踏の中から来た自分との出会いの その夜、・ほくが泊まっている村長の家の離れの部屋に、 ぶどう 寄妙さを考えたからである。やや葡萄色をおびた朝の空が筑波五郎は帰って来なかった。ぼくはロ数の少ない案内人 雪の山脈の上に果てしなく拡がり、空気は頬が切れそうに と同じ部屋で、一晩中、まんじりともせずに朝を迎えた。 冷く澄んでいた。 この村に来てからというもの、彼は村人たちの中へまぎ 「あれがキオシスの村か」 れ込んでしまって、まるでぼくの事を忘れはてているかの 「そうだ」 ようだった。このドナウのかなたの寒村まで・ほくらがやっ 筑波はキラキラと目を輝かせながら、その村を見おろしてきたのは、キオシスの村長の娘に筑波五郎を会わせるた ねずみ 秋ていた。鼠のようだと思っていた彼の横顔は、その時、とめではない。それはイコンを手に入れるためなのだ。影山 のても若々しい青年の顔に見えた。 さんが費用を作ってくれた事に対する責任というものがあ その日、・ほくらがキオシスの村人から受けた歓迎は心のるではないか。 とびら フ 温まるものだった。村人たちは再び帰って来た友人を迎え ・ほくは扉をあけ、服を着たまま朝の冷気の中へ出て行っ せつぶん る優しさで筑波を抱きしめ、頬に接吻をした。・ほくも、彼た。はるか目の下に光っている谷間の水流、そして西方か ていちょう やまはだ におとらず鄭重なもてなしを受けた。ぼくらは、プレゼンらおおいかぶさるように迫る山肌。その上方に微妙な金と トとして東京から運んで来た、いろんな日用品をリュック赤の混じりあった朝焼けの雲が流れていた。物音ひとっし ほお ひろ