の頃になると・ハラックは数十軒に増え、満タンになると土奥底深くに存在していて、俺の掻きむしりをあざ笑ってい をかぶせて埋めた便所跡も十いくつになり、当初一万の売るような、しかも、掻くうちにその部分が。ほうっと熱をお り値が一一万にはね上っていた。俺の小屋は易者、斎藤は屋び、一種の快感をさえともなう。 台のおでん屋、中島はビルの窓ふき夫婦にそれそれ売れ、 中島はこれを、精液かぶれであろうと断定した。彼は妙 きちょうめん 入った金で「黒駒荘」へ引っ越ししたのである。 なことに儿帳面な男で、女を買った時、必ず後始末を自分 「インキンかなあ、あったまってくるとかゆくて、かゆくでする。こういうことはやはり自分でしないと目の届かな しよう いものであり、なすべぎことをなして、早く追出したい娼 右で麻雀のパイをつもりながら、左で下腹部をポリポリ婦にまかせたら、残りがどこかに付着し、そして名前の通 こうがん かきつづける成田に、「インキンというのは睾丸にできるり精液は精が強いから皮膚を荒すというのである。その中 んだがね、あんたのは場所が少しちがいはしないかな」と、島が、俺におくれること三日で、発病した。 すもう かって相撲部にいて、インキンについてはべテランの中島斎藤は虫説であって、あの汚れた下着の中から発生した のみ がいった。蚤にくわれたんだろう、性病の一種ではないか、特殊な毒虫が、下着の臭いを慕って各自のパンツにうつつ たのだという。ではパンツを処分しようとなったが、そう 風呂でよく洗えばいい、メンソレをつけたらどうかなど、 いわれると、押入れの下側半分に積まれたそのかたまりが かゆがるたびにわれわれは無責任なことをいっていたが、 おそ 成田におくれること四日にして、俺にうつった。いや、う怖ろしくみえて、うつかり手をふれると、パタバタと奇怪 ふすま どくカ つったというのは正確ではない、発病したというか、まっ な毒蛾とび立ちそうで、誰も近寄らずただ襖をきちんと閉 めておくことにとどめる。 たく突然に、矢も楯もたまらぬかゆさが、俺の下腹部に、 膏竜の如く発生したのだ。 成田の発病から半月のうちに、全員が同じ症状を呈し、 おうせい 大俺は、研究心旺盛だから、電燈のコードを低く下げて、我々はこれをカイカイ病と称した。鉛筆、万年筆の先き、 フォーク、マッチの先きで掻き、さらにはほどよく熱をも 水いったい何事が起ったのかと現場をくわしく調べてみた。 しらみのみ あ った電球をそこに押し当てるなど、各自熱心にその対策を 終戦前後、虱、蚤、ダニ、疥癬、たいていのかゆさをもた あ らす奴とはっきあったが、このたびのものは、そのいずれ研究し、成果を発表したものだ。 そしてついに、いちばんもっさりしている高瀬が真相を 3 とも異っている。毛が邪魔になって掻きむしれないせいも しんせ込 みなもと あるが、し 、くら爪をたてても、かゆさの源はもっと体の発見した。その日俺は、親戚に米を借りにいき、というの やっ つめ たて かいせん
だが、彼が疑問に思ったのは、なぜ、あの作品は自分の肥った男だった。欧州調のグレイの背広に、幅広のタイを ひろ 1 ものだ、と老作家が宣言しないのだろうかという事だった。花のように拡げて結んでいる。 外の作家ならいざしらず、文学者ミ ( イロフスキイは、そ彼は鷹野を見て人の良さそうな笑いを浮べながら、日本 うするに違いないという気がした。多分、あの夫人の事が式に名刺を差し出すと、 「お忙しい所を申し訳ありませんね」 気がかりなのだろう、と彼は考えた。 うま と旨い日本語で言った。名刺には英文で、貿易会社の社 だが、その後、ソ連当局の調査発表が出ると、彼は激し い混乱にまきこまれた。原稿のコ。ヒーやタイプライタ 1 は名と、ダ = = ル・カナバという名前が刷りこんであった。 ともかく、多額のドルや、出版社の書類が発見されたなど国籍不明、年齢不詳といった感じの男だった。 とは信じられない。それに、正確な投書の主とは何者だろ「どんなご用件でしよう」 う。また、オリガの名前が全く出てこないのも気がかりだ局のロビーで鷹野は立ったままきいた。相手は微笑しな った。彼は激しい混乱の中にいた。だが、しばらくして、 がら、事もなげに、言った。 彼はその事を忘れようと決心した。あれらはすべて悪い夢「ミ ( イロフスキイの件ですよ」 だったのだ、と考えたかった。その方が、彼の生活を脅か鷹野の体が硬くなった。 すものから遠ざかれるような気がしたのだった。彼はそろ「ほくに何の用です」 そろ自分の生活について考えはじめる年齢にさしかかろう 「それはあなたがご存知のはずですが」 としていたのだ。 「わかりませんねー 「ちょっと一緒に来ていただけませんか。あなたにお会わ せしたい人物が居るんですが」 「断ったらどうします」 「どうもしません」 その日は冬がぶり返したような、寒い日だった。・ と、ダニエル・カナバと称する男は鷹野をみつめて言っ ハイロフスキイの裁判が、半月後にせまった四月の最初の た。「ただ、あなたは自分のやった事の本当の意味を死ぬ 土曜日である。 社内の会議を終えて部屋にもど 0 てきた鷹野の所〈、外まで知らずに終ることになるでしよう。私のほうは、それ でもいいんですよ。だが、もし私があなただったら、ここ 人の来客があった。一見、パイヤー風の柔和な顔つきの、 たかの おびや ムと
「実は今日、辰巳さんが第三演出室へ配転になるという話と、矢来は言った。彼は前に、辰巳重郎が自分の番組を を聞きましてね」 失ってから、ひどく精神的に参っているという噂を聞いた 「ほう」 事があった。かっての大立者だっただけに、自分から頭を 「その話は、もう上からあったんですか ? 」 さけて企画や代理店の連中に売り込むわけにも行かず、悩 「うむ」 んでいるという話だった。辰巳重郎が不眠で苦しんで睡眠 辰巳重郎は、苦笑してうなずくと、 薬を常用している、というも耳にはいっていた。辰巳重 「第三演出室長という肩書きだ」 郎は、編成局長が言ったように、テレビの現場を離れては 「え ? 」 生きて行けない男なのだ。 だめ 矢来は驚いて辰巳の顔を見た。 「辰巳さん、投げちゃ駄目です。しばらく番組を作る機会 「第三演出室長、ですか ? がなかったからといって、あきらめて第三なんかへ回るの 「ああ。そんな話だった」 はやめた方がいし 。あそこへ落されたら、一一度とカム・ハッ わか 「で、辰巳さんはどう答えたんです」 クできない事は判ってるんだ。だのに、なぜ 0 するんで 「受けたよ」 す ? 」 矢来はビールのグラスを撼んで一息に半分ほど流し込む辰巳重郎は、矢来の言葉に耳を傾けたまま、長い間、腕 ひぎ を組んで黙っていた。庭で子供の声と、姉娘の笑声がきこ と、膝を乗り出して言った。 えた。 「話してください。それは一体どういう事なんです ? 」 辰巳重郎ま、リ をメり立ての頭を気にしながら、ぼつりぼつ「あの一一人のためですか ? ー りと喋り出した。 と、矢来は庭の方へ顎をしやくって言った。 室「この一年間、おれは一本も自分の番組を持たされなかっ 「辰巳重郎も、そろそろ家庭の幸福に引きこもりたいと思 演た。企画や、代理店の連中は、おれの演出は、もう古いとうようになったのかな」 い。だが、おれも開局以来テレビの番「それはちがう」 第思い込んでるらし 組を一人でしよって来て、えらく疲れたんだ。この辺で、 辰巳重郎は、はっきりした声で言った。 しばらくのんびりしてもいいと思ってね」 「おれは正直言って、今のテレビの連中の考え方がわから 「それは嘘だな」 んようになってしまったのさ。 いいかね。おれは新聞か しやペ うわさ
」よ、 0 取材となると、定められた通りの複雑な手続きをた高校生に強い衝撃をあたえた。彼は、文学青年流に言う 盟ふまねばならない立場である。 ならば、十七歳の夏にミハイロフスキイに噛まれたといっ ポグロム 彼はウィーンに滞在中、前もって外信部長の花田から、 ていい。ツアーリのコサックによるユダヤ人の虐殺を描い 一通の電文を受け取っていた。 たその短篇は、少年に、見てはならないものを見てしまっ 「ワタリドリミヤコへカエル」 た、という感覚をあたえた。それは少年が敗戦後の朝鮮北 渡り鳥都へ帰るーー。今年も例年のようにソチへ避暑に部の街で聞いた、あるいまわしい声の記憶と照応した。彼 出かけていた・ミハイロフスキイが、レニングラード へは、その声を思いださぬよう、体の底部に固く圧しこめて もどったという連絡だった。外信部長のニュース・ソースおいたのである。異常なまでに運動に熱中したのも、肉体 わか は鷹野にも判らない。だが、今度の計画の背後で社がかなを酷使し疲労させる事で、その記憶から逃れようと望んだ りの目に見えない大がかりな動きを続けている事は感じらのだろう。 れる。新聞社を退社して、命令通り再びロシア語の勉強だが、ミハイロフスキイの作品に触れたとき、彼は自分 を続けていた鷹野の所へ、ある代理店を通じて〈世界文学が決してその声を忘れる事ができないと知ったのだった。 散歩〉の企画が舞いこんできたのも、それだろう。その動その時から、彼はそのいまわしい記憶から目をそらさず、 ちゅうすう きの中枢に、品の良いオールド・リべラリスト、森村論説見てはならない世界を見てしまった人間として生きる事を 主幹がいるにちがいない。あの男はどうも好きになれなか決めた。 った。それがな・せかわからないが、そうだった。それは生大学にはいってからも、彼はミハイロフスキイに関心を 理的な嫌悪感に似たものだ。 持ちつづけていた。読み終えた本は手もとにおかず、片っ だが、鷹野は自分の今度の行為を、彼らの筋書きに従っぱしから処分してしまうのが彼の流儀だった。流儀という て動いているのだとは考えてはいなかった。彼がこの仕事より、金が必要だったのだ。そんな彼が、最後まで手放さ なかった数冊の原書の中に、 ミハイロフスキイの初期の作 を引受けたのは、自分の意志で選んだのだ、と思っていた。 鷹野隆介にとって、 e< ・ミハイロフスキイは、単なる外品集があった。日の当らぬ三畳の部屋と、机のかわりのリ 国の老作家ではなかった。彼が大学でロシア文学を専攻しンゴ箱と、米軍払下げのシュラーフ・ザックと、天色の背 ・ミハイロフスキイ乍ロロ ようと決めたのは、高校一一年の頃である。偶然に古本屋で表紙のモスクワ版アレクサンドル 見つけた一冊の短篇集が、フ ィールド競技だけを信じてい集。それが鷹野隆介の、アル・ハイトに明け暮れた大学生活 けんお
んとやり、シーツにアイロンを当て、いつも手づくりの料ワ行きのことを考えた。 理を食わせてくれた。しいて彼女の欠点をあげれば、私が妙な仕事に首を突 0 込んだものだ、と私は思う。何しろ 、・、、ほとんど毎晩のように、あのこソ連人民相手にジャズの興行を打とうというんだからな。 疲れていようがいましカ とを求めたことと、私にロシア語を無理やり教え込もうとおかしな話だ。 せんだ 今度のソヴェート訪問のお膳立てをととのえたのは、大 したことだ。 しゃべ 彼女は私と、夜、ペッドの中でロシア語のお喋りをする学時代の友人である日ソ芸術協会の森島だった。大学の頃、 ことを好んだ。彼女は自分が生まれたという ( ルビンの街彼は学生運動に熱中していたし、私のほうは何となくその の話を、くり返し私に話してきかせたものである。私はな日を送っていた意識の低いジャズ気違いの学生だったのだ まっせき にかひとっ位オリガをよろこばせてやりたいという殊勝なが、彼も私と同じように、授業料が払えず抹籍処分をくら 気持から、できるだけロシア語を熱心におぼえようとっとった組である。学校を追い出されると、お互い、やがてア ル・ハイトがそのまま本職になってしまったのだ。私は知り めたものだ。つまらない事で彼女と別れてから、もうかな りたつが、それでもロシア語を聞くと胸の奥がかすかにひ合いの・ハンドにもぐり込んで本気でジャズをやりだしたし、 きつるような感じがある。私はやはりオリガを本当に好き彼は労働組合の専従とやらに就職した。あれはたぶん、朝 だったのかも知れない。今ごろになって気がついても、も鮮の戦争が終った翌年ぐらいのことだったように思う。 それから五年ほどたって私たちは思いがけず再会した。 う取り返しのつかない過ぎ去った事なのだが。 同じ注意を三度もさせないで欲しいとこの人たちに伝え彼は組合問題についての本を書いていると言っていた。そ てくれ、とスチュワデスは私に向って言った。この人たちして私は自分の・ハンドを持って仕事と人気の波に追われて デリガーツィア * 、た。しかし、実際にはお互いに何かしら行き詰り、精神 は公式代表団員でスチリヤ 1 ガなんかじゃないんだから。 的に迷っていた時期だったようだ。その時、私たちは歩道 「スチリャーガというのは何だい ? 」 あ 彼女は呆れたように肩をすくめると、の端で立ち話をしただけで別れた。 と、私はたずねた。 / それからしばらくして彼は葉書をよこし、組合運動をや そのまま行ってしまった。 モスクワまで、あと二時間。窓の外は相変らず明るいまめて株屋になったと知らせてきた。私はその返事に、近々 まだ。私はシートを倒し、サングラスをかけて目をつぶる。自分はピアノを捨てて芸能・フローカーに転向するつもりだ 機体を抜けてくる震動に身をまかせながら、今度のモスクと書いてやったのだ。
の新人歌手であり、スキャンダラスなタレントであり、 彼には、誰かに右へ行けと言われると、そのとたん 参院選の立候補者であった これは何か ? いや、自分は駄目な奴なんだか に前後の理由もなく、 ふざけた演技かと思えば、奇妙に真剣な努力があり ら左へ行きます、というところがある。これは普通に あまのじゃく は天邪鬼の性質である。しかし、彼の場合は違う。天過ぎるし、それでは真剣な業かと言えば、どうもその 邪鬼の出てくる水源が根本的に違うのだ、という気が選択や内容が奇妙に冗談めいている。とにかく、生活 する。つまり普通の場合は、自分を主張するためにあ者や社会人として自立するための職業の転々、という のとは、まったく異なった動機によるものだ。それは えて反対してみるのだが、彼の場合はむしろ、そこで 一瞬自分をめちゃくちゃにする、そのことによって全自明なことだろう。 おそらく、と私は想像する、その一つ一つがあの捩 てを混乱させてしまうために、天邪鬼の性質が呼ばれ しくれた自己否定のあらわれなのであろう、と。 ているのではないかと思う。 極端に言えば、その時彼は、自分をめちゃくちゃに 彼の活動の総体の中心部には、この撼じくれた否定 やっ する、自分を変なおかしな奴にすることによって、そ がいつも眼を見開いている。 の自分に一定の人間の形を強い、社会的な役割を強い 活動と言えば、戦後の作家の中でこれはど野次馬の もし、冷静な観察てくる世の中を、否定したいと思っているのだ。自分 ように活動してきた人間はいな、 一個の力によって、むしろ世の中の方を否定する。こ 者がいれば、彼の中に、敗戦時から今日に至るまで、 息せき切って走り続け、あえぎあえぎ夢中に駆け続けれは、無力で小さな人間にとって、滑稽過ぎる意識で た一人の男の、劇的な、あるいは滑槽な喜劇の場面のあり、いわばグロテスクな行為である。しかし、そう ようなものを見出すであろう。小説家であり、エッセするためのたった一つの手段はあるーーー自分をめちゃ くちゃにすることによって。ふざけた存在と化した自 イストであることは、本業のようなものだから挙げぬ としても、彼は、戦災浮浪児であり、少年院送りの少分を開示しながら、その自分を造ってくれた生みの親 であるところの世の中へ、ざまあみろ / と言うこと 年であり、彼の言、つところに従えば、ポン引きであり、 によって プルーフィルムの鑑定家であり、また、 O ソングの そこな 野坂昭如における自己否定とは、そんな発条のもの 作詞者であり、出来損いの漫才師であり、中年過ぎて だれ だめ やっ 482
と、黒木は雪の中から起き上ると、素早く生徒たちの人はうなずいただけだった。散り散りにならぬよう、一団と 数を数えた。自分を入れて六人。 なって適当な場所を探した。 いわはだ 「みんな大丈夫か」 突然、黒木の目の前に、巨大な岩肌が立ちふさがった。 「はい」 彼は一瞬、ひやりとした。東側の急な傾斜面に迷い込んだ と谷杏子が青ざめた顔で答えた。唇が白っぽくなって、のではないか、と思ったのだった。だが、そうではなかっ なが おびえたように前方を眺めている。 黒木が見たものは、巨大な一枚の金属の尾翼だった。そ 「落ちた飛行機の事より、早くこのヌクビガ原を抜けてし まうんだ。見ろ、風が変った。間もなく雪がくるそ。ここれに気づいた時、黒木は異様な恐怖を覚えた。その尾翼が、 で吹雪かれると面倒な事になる。一刻も早く・ヘース・キャ飛行機の一部というには、余りにも巨大すぎたためである。 「ジェット機だ」 ンプに引揚げよう。飛行機の連絡はそれからだ」 「降ってきたーー」 と、江森が黒木の首を抱えるようにして叫んだ。「こい と誰かが言った。その声は激しい風にちぎられて、半分っの中にもぐりこもう」 きようばう しかきこえなかった。ヌクビガ原は、兇暴な意志をはっき「よし」 りとむき出そうとしていた。昨夜感じたあの不安が不意に と黒木は言った。 よみがえってきて彼をおびえさせた。 その尾翼にそって行くと、雪の中にめりこんだ胴体の部 ふぶき ーティの速度よりも、吹雪の方が早かった。それは、分が現れた。その胴体は途中で折れ、その上に他の部分が 全くあっという間の変化だった。北西の強風に吹きまくらかぶさっている。胴体の高さは二階建ての建物より更に巨 れた雪が、彼らの視界を奪った。 大に感じられた。江森が、手の届く所に、金属板がめくれ 一時間、いや、一一時間も歩いたような気がする。時計をた部分を発見した。黒木は、生徒たちを一人ずつ、その部 見ると、十五分たっただけだ。動き回るのは危険だ、と黒分から胴体の中に押しこんだ。最後に自分が這い込んだ。 せつどう 木は判断した。こうなれば、雪洞を掘って、そこで動かず中は真暗だった。生徒たちは手をつなぎ合って、じっと にじっと待つだけだ。 息を殺している。黒木はペンシル式の懐中電灯を取り出し て、スイッチをひねった。 「雪洞を掘るそ ! 」 と、黒木は江森をつかまえて、耳もとで怒鳴った。江森それはグロテスクな光景だった。毛細管のような配線の くちびる こ 0
れだけの単純な理由からだった。もともとぼくは、画家志 望だったのである。中学時代からすでに研究所へデッサン の勉強に通ったり、高校時代は美術部の副部長を勤めたり したものだ。だが、高校三年になった頃から、自分の画家 としての才能に疑いを持ちはじめて、芸術家への道を断念 した。それにはいろいろな理由が複合的にからみあってい るが、要するに・ほくは自分が物を創り出す作業に向いてい ない、という事を発見したためである。自分で何かを創造 するより、・ほくは他人が作ったものに関して、様々な意見 を吐くことの方が楽しくもあり、またきわめて的確にそれ らの長所欠点を指摘する事ができた。つまり、画家よりも 批評家的な才能に恵まれていたというわけだろう。まあ、 なま 本当の所を言えば、・ほくが怠け者であるという、ただそれ 〈ミネル・ハ茶房〉は、大学の近くにある風変りな喫茶店でだけの事かも知れない。・ ほくには、たった一人で一日数時 ある。文は人なり、という文句の本当の意味を何かの本で間もアトリエにこもり、作品と孤独な格闘を続ける意志カ 読んだ事があるのだが、忘れてしまった。そんな事はどうと体力に欠けていた。・ほくはいつも一杯のコーヒーを前に、 むだ でもいいのだ。ぼくが考えているのは、店もまた人である、とりとめのない無駄話や、時には芸術談議で日を過すのを という事なのだ。〈ミネル・ハ茶房〉は、取りもなおさず、好んだし、またそういった面での才能ーーー無駄話をして怠 そこの店主であるところの影山真陽氏の、人柄そのもののける事が才能といえるかどうかは別としてーーっまりそう 象徴といえる店だった。 いった話で人を感心させる能力が、自分にそなわっている ・ほくらの大学は、東京で辛うじて一流の末席をけがす程ように思われた。仲間や、時には先輩の多少は名前の知ら 度の私立大学である。・ほくが進学に際してその大学を選んれた画家たちも、・ほくと雑談する事を喜んだし、また、進 だのは、格別な抱負や、志があったからではない。苦手のんで自分の近作を見せて意見を求める者も少なくなかった。 数学が入試科目の中に含まれていなかったという、ただそ自分で言うのもおかしいが、ばくには一種の動物的な第六 ソフィアの秋 かろ
の雪が吹きつけはじめた。ふたたびヌクビガ原に引き返す その勢いをやわらげた。彼は快調に新道を下って行った。 雪は深かったが、心理的な不安が消えると、筋肉は疲れを自信は、黒木にはなかった。 デラック・エンジェル 〈黒い天使のせいだ。きっとそうだ〉 忘れたように自由に働いた。 ひざ 一時間ほどで、蛇ガ洞にさしかかった。蛇ガ洞は、国有彼は、がつくりと膝を折り、崩れるように上体を雪の上 がけ 林の伐採木を輸送するために、崖の中腹にくりぬかれた一 に投げ出した。今はただ睡いばかりだった。外の事は何も 種のトンネルである。トンネルといっても、崖つぶちの側考えたくなかった。激しい雪煙が、彼の体を包んだ。猪谷 はひらかれてあり、そこに木材の支柱が数十本はめ込まれ新道には、次第に夜が迫りつつあった。 じやばら ていた。下から見ると、カー・フした部分が蛇腹のように見 えた。 夢とも現実ともっかぬ、薄・ほんやりした意識の中で、黒 そのトンネルの前まで来た時、黒木は何か異常な予感が木貢は、金属質の重い爆音を聞いていた。その爆音は彼の した。そぎ立った崖の、はるか下方の雪の上に、トンネル頭上を次から次へとひっきりなしに通過して行った。 の支柱らしい材木が、点々と散乱しているのだ。 〈ジェット・ ヘリコプターだな〉 彼の予感は、トンネルのカー・フの部分が見えた時、的中 と、彼は思った。何機だろう ? いや、何十機、何百機 した。 かも知れない。その爆音は重なりあい、連続して津波のよ 崖の一部とともに、トンネルの向こう半分が完全に崩れうにいつまでも響いていた。 なだれ 落ちてしまっていたのである。雪崩ではなかった。恐らく 彼は自分が夢を見ているのだ、と考えようとした。あん 大きな土砂崩れによるものだろう。崖そのものが、そぎ取な沢山のヘリコプターが飛ぶはずはない。 ったように、きれいに消え失せてしまっているのだ。 〈もし夢でなければーー〉 下はそぎ立った絶壁だったし、上方は覆いかぶさるよう と考えて、彼は身震いした。夢でなければ幻聴だ。自分 な岩場だった。べース・キャンプへの道は、これ以外にはは実際に聞えないものを、聞いている。そのうちに、見え なかった。速見部落とヌクビガ原をつなぐ猪谷新道は、そないものが見えてくるに違いない。あのトンネルの向こう の部分で完全に断ち切られていた。黒木は、消え失せたト に灯火が見え、人々の呼ぶ声が聞え出す。そして、その方 ンネルを前に、茫外と立ちすくんでいた。 向によろめき歩いて行き、そのまま、底の見えない断崖の つめあと まだ、生々しい崖崩れの爪跡の上に、ふたたび横なぐり中へ、何もない空間へ足を踏み出すだろう。それで終りだ、 おお ねむ だんがい
118 ないだけでなく、その書き手さえ危険視される事になる旅立つつもりでいますから〉 夜も更けていました。小生は意を決してそのパスケット のです〉 をあずかり、何者かに追われるような不安を覚えながら 妻はこの原稿を焼き捨てるようにすすめるのだ、と、 ホテルに帰ったのです。その夜、ソチの街には季節はず 氏は夫人を振り返って言いました。〈だが、私はこ れの暴風が訪れました。窓を打っ風の音におびやかされ れを何とかして出版したい。私はもう老人だ。子供もい つつ小生はその露文タイプでびっしりと打たれた厚い原 ない。もし、何等かの罰と引きかえに出版が許されるな たば ら、収容所に送られてもいいからそうしたいと思う。だ稿の束を読み続けたのです。白々と朝の光が射す頃、 が、そんな申し出が通るはずがないでしよう。詩や短篇生はやっとその長篇の五分の一ほど読み終えたばかりで した。だが、小生にはもうはっきりと判っていたのです。 小説なら、タイプ印刷の地下出版という手もある。しか いな し、何分この長篇ではね〉 その長篇が、ーー氏のこれまでのどの作品よりも、否、 うめ 〈あなたは何をおっしやりたいのです〉と小生は固くな現代ソヴェート作家のどの作品よりも、深い魂の呻きと、 なぞ ってーー氏の謎めいた視線から目を伏せました。彼の人間への愛に満ちた真実の文学であることがーー。老眼 考えている事がおぼろげながら推察されたからです。そ鏡を外し、窓を開け、小生は充血した目で外の風景を眺 ぶどう うそ れが恐しかったのです。〈この原稿を今夜ホテルにお持めました。風は嘘のようにおさまり、黒海は葡萄色に輝 ささや ちになって、読んでいただきたい〉と、ーー氏は囁き き、眼下の遊歩道にはまだ人の影とてありません。自分 ました。〈そして、この作品がそれに値すると思われた の心臓の鼓動がはっきりときこえます。頭の中で二つの ささや なら、これを国外で出版できるようおカそえを願えまい 声が争っていました。一つの声は、原稿を返せ、と囁き か〉 ます、おまえはこの国の公式招待者として招かれている 自分で国外へ持ち出さずとも、日本の大使館か中立国の人間だ、もし、ここで不測の事故を起こしたら一身上の トラ・フルでは済まないそ。もう一つの声が反論します。 もし秘密が完全に 在外機関に託してくださってもいい、 お前はそれでも露西亜文学者か ? 一人の作家が心血を 守られれば と、老作家は続けました。〈しかし、も しあなたがこの原稿を読まれて何の感動も受けなかった注いで語った真実、お前を信じ、お前に託したこの偉大 むな 時は、そのまま明朝返して下さって結構です。私はいず な長篇を空しく葬り去るつもりなのか ? しばらくして、 小生は机の上の原稿の東を・ハスケットに納め、それをさ れロシアの土になる時、この・ハスケットを下げて冥府へ めいふ わか なが