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検索対象: 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集
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1. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

という事は、あったかも知れない。 その晩、店がしまると、あたしはすしをおごろうという ある晩、森口がシャガールにやってきてあたしを呼んだ。客の誘いを断って、自分の部屋へ急いだ。あたしの借りて 「なあに ? 」 いる部屋の隣にある銭湯の前に、森ロの大きな影が立って 「君はーーー」 「待った ? 」 と、森ロは急に小声になって、 「岡田と寝たんだってな」 「ええ」 「あたしの部屋へいらっしゃい」 「いいのかい 9 ・」 「岡田が好きなのか」 「平気よ」 と、彼は押えた声で囁いた。あたしは少し考えてから、 あたしは森口を自分の部屋へ連れて行った。それは初め わからない、と答えた。 ての事だった。いつも岡田でさえも、銭湯の前あたりで追 「彼は と、森ロは言葉を切って、それから思い切ったように言い返すのだった。 「せまい部屋でしよう」 った。「ネコと関係があるんだ。知らないだろうが」 「でも、女の人の部屋の感じがするな」 「知ってるわ」 森ロは壁際に脚を持てあますような姿勢で坐っていた。 あたしは反射的に答えた。思わず高い声が出た。 「それならいい」 あたしは部屋の明りを消した。隣の銭湯から流れてくる だいだいいろ 橙色の光が、あたしと森口を淡く照らした。 夜「よけいなおせつかいよ」 の 「あなたと寝るわ」 と、あたしは言った。森ロのおっとりした顔が、みにく ち たくゆがむのをあたしはそのとき見た。その瞬間から、突然、「え ? 」 ねあたしは自分を自由だと感じた。 あたしは黙って服を脱ぎ、森口に自分のほうから接吻し カ 「森ロくん」 た。彼はやがて男性になり、あたしたちは橙色の光線の縞 と、あたしは彼に小声で言った。「あなたに話があるわ。の中で、短い時間体を合せて男と女の行為をした。森ロは 不器用で大きく、岡田とはちがった形であたしを扱った。 今夜、お店がしまってからお風呂屋の前まできて」 森ロは不思議そうにうなずいた。 その晩、彼は夜明けにあたしの部屋を出て帰った。帰り際 ささや ムろ すわ せつん

2. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

「わあ、汚い ! 」 「うまいなあ、広島のカキは」 クジラさんが大きな声で言った。「原ちゃん、きのうそ「うん」 の洗面器で靴下を洗ってたでしよう」 湯気の中で部屋につるされた靴下がゆらゆらと揺れてい 「熱で消毒するわけだから平気だ」 た。あたしはさっきシャガールの店で見たネコと男の話を 「汚いわよ」 しようと思ったが、考えなおしてやめた。 「汚くない」 原はクジラさんの反対を押し切って、電熱器の上に洗面 さら・ 器をのせた。少し水をそそぎ、皿の上からカキや野菜を り込んで、その中に味噌を投げ込んだ。 森ロも、岡田も、原も、それぞれ大学は異なったが、地 やがていい匂いが部屋の中に拡がりはじめた。クジラさ方から出て来ている学生だった。原は時たま詩を書くほか、 んは部屋の隅からウイスキーのびんを一本持ってきた。ちほとんど部屋に一日中寝転んで暮していた。アル・ハイトを らとあたしを見て、 してそれだけ食費を多くかけるより、最少の食事を取って エネルギーを使わないほうが合理的だという考え方だった 「マダムに言っちゃ駄目よ」 お店から持ち出してきたんだな、とあたしは悟って、うらしい なずいた。 彼は一日一食を守り、時にはそれも抜かすことがあった。 「よし、やろう」 自宅から五、六千円の仕送りがあるらしかったが、それは 原が厳かな口調で言った。あたしたちは各自、洗面器の部屋代と本代で消えると言っていた。時たま彼は起きあが 中からフォークで、太ったこうばしいカキを突き刺して食ると働きに出かけた。彼は深夜の道路工事とか、ビルの窓 かせ ・ヘはじめた。クジラさんもさっきあんなに汚がっていたくガラス拭きとか、稼ぎのいい職種だけを数日間やり、再び せに、熱心にフォークを動かしていた。三人の学生と一一人冬眠生活にもどるのだった。 の女が、洗面器をかこんで黙々と食べているさまは、外か それでも一日おぎ位にはシャガールへ現れ、シングルの ら見るとさぞ異様なものだったにちがいない。あたし自身ウイスキー一杯で看板までねばっていた。そのかわり、彼 さわや は、これまでに経験したことのない、爽かな気分に満たさはおつまみのピーナツを無制限におかわりし、客の残した れて、ひどく幸福だった。 オード・フルは全部かたづけて引揚げるのだった。 おごそ すみ くっした だめ ひろ

3. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

り、女の髪をつかんでカウンターに押しつけ、音がするほ と、岡田が言った。「あんたこそ、どうしたんだ」 ど頭を打ちつけながら何か鋭い目付きで喋っていた。女は「森口さんに誘われたのよ」 ネコだった。あたしは足音を忍ばせて外へ出ると、中野の 「原は ? 」 商店街を当てもなく歩いて行った。 「いま台所だ」 「よう」 部屋の中央に新聞紙が広げられ、電熱器がおいてあった。 たた うしろから肩を叩かれて、振り返るとスウェーター姿の部屋の畳は湿気をおび、壁は雨もりの跡が奇妙な模様を描 ひぎ 岡田だった。彼は長髪を小指でかきあげながら、どこへ行 いている。あたしが膝のあたりに何かの触れる感じに気づ なが くのか、とあたしにきいた。 いて眺めると、大きな茶色のノミが二匹、重なりあって動 「散歩してるの」 いていた。 「森ロの部屋へ行くんだ。一緒にこないか」 「じっとしてなよ」 なべ と、彼は言った。「今からカキ鍋をやるんだ」 と、頭の上で声がした。原が片手に洗面器を持って、良 「カキ鍋 ? 」 く光る目で、あたしを見おろしていた。「動くな」 「うん。原が魚屋の・ハイトでもらってきたんでね。皆でパ 彼は静かにアルミニウムの洗面器を畳の上においた。そ ーティをやろうというわけさ。手伝ってくれよ」 して一呼吸おくと、右手を素早くひるがえしてあたしの膝 てのひら を音のするほど強く押えた。そのまま掌を上手に押しつけ 森ロの借りている部屋は中央線の線路にそって、新宿寄てローラーのようにこすると、ひょいと手を離して、赤くな 夜りに五分ほど歩いた場所にあった。あたしの借りている部ったあたしの膝の上から二匹の大ぎなノミをつまみあげた。 の屋の建物も、彼のアパートにくらべると大した立派なもの 「きのう逃がしたやつだ」 たに思えるひどい家だった。 と、彼は言い、そのノミを電熱器の上に落した。。ハチン ね原の部屋はその建物の便所の隣の四畳半だった。すでに と音がしてノミがはじけた。 、刀 森ロと、驚いたことにクジラさんが来ていた。 「洗面器でどうするの」 なべ 「あら、どうしたの ? 」 「鍋がないんだ」 1 と、クジラさんはわたしを見て目を見張ってたずねた。 と、原がクジラさんに言った。「人数も多いし、これで 「商店街で拾ってきたのさ」 ちょうど いいだろう」 しゃべ

4. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

鉢 し落胆させた。それは今夜の一一人の行動に、彼女があらかその時、部屋の外で、何か乾いた断続的な音がひびいた。 じめある限界を宣告しているように思われたからである。鷹野の体が不意に硬くなった。 だが、それは彼の思いすごしだった。オリガは鷹野の頬「どうしたの ? 」 とオリガは驚いたようにきいた。「いったいどうしたっ に軽いキスをすると、いたずらつぼく笑いながら言った。 ていうの。そんなに驚いて」 「今夜は友達のリ 1 ダが、夜中まで散歩させられる番よ。 アトの部屋に、お酒を買っておいたわ。さあ、行きま「ーーあれは、何の音だ」 だれ 「誰かが階段の・ハケツをけとばしたのよ。一階まで落ちて しよう」 ーサル帰りの踊り子のよ行ったらしいわ」 オリガは演劇の研究生か、リハ うに見えた。相変らずの少年のような頭だったが、今夜は鷹野は大きな息をついた。そして、起ち上ると、テー・フ 少し濃目に口紅を引いていた。彫りの深い顔に不思議な女ルの上の・フランデーをコツ。フに半分ほどっいで、一息にあ にお っ・ほさが匂っていた。途中でタクシーをつかまえて、彼女おった。 へ行った。椅子に腰をおろし、もう一杯ついだ。オリガは床に寝転 が友人と一一人で住んでいるという、古いアパート それは三階建ての古ぼけたビルの屋根裏部屋で、天井は鷹んだまま、そんな鷹野をじっとみつめていた。 「あの音は嫌いなんだ」 野の頭がっかえそうに低かった。女二人の部屋にしては、 たた かわいそう と鷹野は言った。「・ハケツを叩く音を聞くと、たまらな いささか可哀相な部屋だった。 ほんだな 彼女の本棚には、めずらしい本が何冊かあった。変色しくなる。いやな事を思い出すんでね。変な話だが」 ムと た・ハーベリの〈ユダヤ人の話〉とオレーシャの〈三人の肥鷹野はそれを振りはらうように、顔を反らしてコップを だめ っちょ〉にはさまれて、チュッチェフとフェートの古い詩あおった。だが、やはり駄目だった。 集があった。鷹野にはどれもはじめて見る版ばかりだった。〈焼き日ですよう〉 と、あのいまわしい声が、ふっときこえた。彼は、その オリガと鷹野は、にしんの酢漬けでアルメニヤのプラン しゃべ 間のびした声と、・ハケツを叩く音から、いまだに逃れられ デーを飲んだ。ほとんど何も喋らず、時たま顔を見合わせ て徴笑しあい、また・フランデ 1 を飲んだ。やがて酔いが回ないでいた。あれから二十年ちかい年月が流れている。だ ふち が、時間の淵をひと跳びにして、その声はやってきた。 ってきた。鷹野は、粗末なじゅうたんの上に寝そべって、 ほっしん それは日本が戦争に敗れた一九四五年の冬、発疹チフス オリガと鳥のように首を曲げながら長いキスをした。

5. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

前年の春、九州の高校を卒業して、女子美術大学に入学そこであたしはすぐにその晩、中野の商店街の近くにあ したあたしは、ちょうど一年ちかくた 0 た冬の終りに、中る一軒の酒場を訪ねた。その店の名はシャガールと言 0 た。 野の近くに自分の部屋を借りたのだ。地方の高校の教師を後で知ったことは、その店の経営者が画家であること、そ うわさ している父親からの仕送りは、東京での学生生活を支えるの店のマダムがコミュニストであると噂されていたことな どである。ただその時は、あたしは酒場シャガールにアル には不自由すぎた。あたしは自分で家庭教師のアル・ハイト につばりあ、はばら を探したり、日暮里や秋葉原あたりのタオル工場で働いた ・ハイトとして働いていた大学の同級生を訪ねて行っただけ だった。あたしは、彼女がその店で働いていることを、銭 りして、不足分をおぎなって暮していた。 中野という街は、その当時はまだ今のような巨大な商業湯で出会って聞いていたのだ。 センターではなかった。駅をおりると北ロの正面にちょっ その友達の名は沢野恵子といった。ややふとり気味の色 とした広場があり、汚れた大が商店街の入口で小便をしての白い女の子だった。東北の出身だということだったが、 よら・ばう いたりするような街だった。 目鼻立ちのはっきりした、線の太い容貌の女子学生である。 あたしは中野の駅から歩いて十五分ほどの古い三畳の部彼女は毎日、ちゃんと学校に通い、夜になるとその酒場 屋を借りていた。せまい部屋だったが、あたしは満足だつで働いているという話を、いっかあたしにしたのだった。 た。窓からは隣の銭湯の石炭置場がすぐ目の前に見え、風そして、あたしはそんな彼女に対して、一種の劣等感のよ のある日など石炭の粉が窓のすき間から部屋の中に舞い込うなものを感じていたように思う。 んできてざらざらした。 西日が明るくさし込む銭湯で、あたしたちは裸で出会っ あたしはその頃、ようやく、大学に幻減を感じはじめてた。学校では余り口をきいたことのない相手だったが、そ いた時期だった。男の子のいない女だけの学校などというの日を境に急に親しくなったのだ。 ものは、あたしには退屈な存在でしかなかった。大学とは 恵子は少し背が低かったけど、色白の実に見事な体を持 わか こんなものなのだな、と判ってしまうと、あたしは一日中、っていた。銭湯で会って、体を流しつこする時など、あた 部屋にこもって本を読んだり、デッサンを描いたりして日しはよくタオルを持った手を休めて彼女の体に見入ったも を過すようになった。そして、その部屋に移って間もなく、のである。あたしは背こそ彼女より高かったが、色が黒く、 父がある事件を起こして、私への送金が不可能になったと骨ばった体をしていたと思う。顔には一種の自信のような いう手紙が国からとどいたのだった。 ものはあった。目が光って、額が広く、知的でいてどこか

6. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

214 しょだな には、壁につくりつけの書棚と、いくつかの机やキャビネ 「第一ですか、第二ですか」 ながいす ットが置かれている。その外には、安物の長椅子と、旧式 「いや、第三だ」 矢来は首をかしげた。制作局の中には第一演出部と、第のテレビ受像機があるだけだった。 一一演出部があって、それそれの仕事をやっている。だが、 「面白い部屋だろう」 たしか 第三演出部というのは聞いた事がなかった。矢来のそんなそれは確に一風変った雰囲気を持った部屋だった。七、 じちょう 表情を見て取って、森谷はどこか自嘲めいた微笑をうかべ八人の男たちが、そこにはいた。だが、テレビ局に特有の、 ながら言った。 あの人を捲き込むような過熱した空気はどこにも感じられ 「君が知らんのも、無理はないさ。局の人間だって第三演なかった。男たちの一人は、本を片手に、碁石を並べて首 出室を知らん連中がいるんだ。もし君が興味があるんなら、をひねっていた。部屋の隅で麻雀卓を囲んでいる連中もい 一緒に来て見学してみるのも面白いかも知れんな」 た。誰かが北島三郎の歌を口ずさんでいた。 「見たいですね」 「どうだ、安さん、ついてるかい」 「よし。来たまえ」 と、森谷が麻雀のグループへ声をかけた。 森谷博は、うなずいて階段の方へ歩き出した。矢来もそ「駄目だね。七対子崩れみたいな手ばかり出来やがる。森 の後に続いた。 ちゃん、かわってもいい・せ」 第三演出室は、七階の廊下の突き当りにあった。スタジ「今日は早く帰るんだ」 オの大道具や、材料が乱雑に積みあげてあるひどい場所だ森谷は矢来をふり返って顎をしやくった。 った。小さな木片に、第三演出室、とペンキで書かれた札「あそこで昼寝してるのがいるだろう」 がドアに打ちつけてあった。 長椅子の上に、ステテコ一枚になって引っくり返ってい 「ここだよ」 る男がいた。その男は顔の上に白いハンカチをかぶせて、 「変な場所にあるんですね」 何か死人のような感じで転がっていた。 「そうとも」 「あれが昔、運動部のディレクターで鳴らした川野洋平。 森谷がドアを開けて、矢来に入れとうなずいて見せた。 テレビのプロ野球中継技術の。ハタ 1 ンを創ったのは、あの 矢来は好奇心に目を光らせながら、その部屋へ踏み込んだ。男だといわれている。一「三年前、ノイローゼにかかって それは奇妙な部屋だった。西日のさすがらんとした室内な。病院から退院して復帰したんだが、どうもばっとしな だめ チートイツ すみマージャン ふんいき

7. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

ドアを閉めた。 と、老人は言い、 「何か用かね ? 」 と、彼は横柄な口調で聞いた。鷹野を上から下までじっ鷹野は階段を上り、廊下の突き当りの部屋の前に立った。 風呂敷から本を取り出してドアをノックした。 くりと眺め回して、うさん臭そうに、 たた キタイスキー 返事がなかった。今度は少し強く三つ叩いた。ドアの向 「お前、中国人じやろうが」 ャポンスキー こうでかすかな足音がし、ドアがわずかに開けられた。 「日本人だよ」 づら 「どなた ? ー と、彼は答えた。ひげ面の怖い顔が急に優しくなった。 ミハイロフスキイ夫 と、年配の女の人の声がきこえた。 「そうか。東京から来たのかい」 ミ ( イロフスキイ氏の部屋はどこか、と鷹野はロシア語人に違いない、と彼は思った。 らよっと ミハイロフスキイさんに一寸 「日本人で鷹野と申します。 できいた。 お目にかかりたいのですが」 「ミハイロフスキイさんに何の用かね」 「主人はどなたにもお会いしませんの」 「日本で出た彼の本をとどけに来たんだが」 「ここに置いていきなされ。後でわしがとどけておいてあ女の声が答えた。 「大事な用件で参ったのです」 げよう」 「あんたを信用しないわけじゃないが、直接に会 0 て渡し「お約束は ? それとも何か公式の紹介状でもお持ちでし たいんでね」 「ミ ( イロフスキイさんは、最近だれにも会われんのじ「これをーー」 と、鷹野はポケットから取り出した露文学者の写真と、 見と、老人は言った。「部屋にとじこもったきり、何カ月一枚のメモを本にはさんで差し入れた。「これをミ ( イロ フスキイさんにお目にかけてください」 馬も外に出なさらん。人に会うのをいやがっとられるんじゃ。 むだ 金の指輪をはめた老婦人の手が、その本を受け取ってド 行っても無駄だよ」 アがしまった。 ざ「会えなかった時は、あんたに頼もう」 五分ほどたって、再びドアが細目に開かれた。そしてそ 管理人の老人は、何かぶつぶつ呟きながら階段のほうを あ ZJ のすき間から、彼が渡した本が差し出された。 顎でしやくった。 「主人はお会いできないと申しております。お気の毒です 「三階の、上って廊下の突き当りの部屋」 なが つぶや ムろしき

8. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

と、ドメニコは言った。それから壁際から派手な飾りの ついたギターを持ってきて、・ほくに押しつけた。「弾いて さ、り フェノーメナ きかせてくれよ。皿洗いのギタリスト。お前、天才だそ うじゃよ、 オしカえ ? 」 眼をあけた時、目の前に、イングリッド、君がいた。 イタリア人たちが、どっと笑った。 ・ほくは奇妙な部屋に寝かされていて、君の手当てを受け サ・フを放してやるように、と・ほくは言った。うまくギタていた。反射的に、指をひろげて屈伸させてみた。指先も、 ーを弾いたらな、とドメニコが笑った。 爪も大丈夫だった。体のあちこちが痛んだが、そんな事は 「それとも、この黒ん坊のかわりに殴られるかね」 かまわない。 「弾けよ ! 」 サプは隣の部屋にいると君は言った。 と、サ・フが叫んだ。「弾いて聞かしてやれよ、こいつら「あの子は一晩中、あなたのタオルを取りかえていたわ。 あたしが触ると怒るの」 手を出すんじゃないそ、と・ほくはサ・フを振り返って念を ここはどこか、とぼくはたずねた。それは実に奇妙な部 押し、ドメニコに言った。 屋で、壁には船長の帽子やら、射撃の標的やら、馬のあぶ 「おれは命令されて弾くのは好きじゃない。殴りたければ、みやら、あらゆるがらくたやらが、雑然とかけられている。 やってみろ」 壁際に真っ白なグランド・。ヒアノがあり、タブーのオー 殴られるのは怖かった。だが、・ ほくは少年院時代に、殴デコロンの空びんが、うず高く部屋の隅につみ上げられて られるコツを身につけていた。サ・フよりは、はるかに旨くあった。半月形の馬鹿でかいグッチの皮・ハッグ。ペ 殴られる自信があったのだ。それはリズムだ。殴る方と、 ・・ハックの〈ダ・フリナーズ〉と、空のウイスキー・グラ レ やられる方のタイミングが合えば、そんなにひどい怪我をスが床に転がっている。銀の彫刻をほどこした二連銃の銃 のするものじゃない。 身が、獣骨の帽子かけにぶら下ってゆれていた。 夜 ドメニコの美しい目が細くなり、ひらめくような右のフ 「わたしの部屋」 白 ェイントと同時に、体重を乗せた正確なナックル・。、 と、君はいった。「両親はゴットランドのお城に行って ミッドソンマル 似が蛇の舌のようにわき腹に食いこんできた。 て夏至祭りまで帰ってこないわ」 ・ほくが憶えているのは、そこまでだ。 サ・フが戸を開けてはいってきた。彼は、怒ったような顔 つめ ばか すみ

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すしゃ はり父親が恋しく、そして同じア。 ( ートに住む学生に、色くうか」寿司屋から、梅田阪神裏のくらがりへ男はお安の 眼つかわれると、若者に対するのと同じように、かわいそ腕をし 0 かりつかまえて歩き、物置きのような建物のくぐ かしやく うになって、なんの呵責もなく身をまかせるのだった。 りを入ると、すぐ前が階段で、一一階は三畳ほどの小部屋が うわさ アパート内のお安の噂が耳に入ると、若者は怒り狂って、ならび、「今日からここ泊り、逃げよう思うたてあかんで、 くー お安を押入れに閉じこめ、表から釘をうって後、外出し、 わかってるやろな」押入れから布団をひきずり出して、 せつばん 夜おそく帰ると、たれ流しで臭いのしみついたお安の体を、「上がりは折半や、それで、部屋代食事代ひかしてもらう ごと なめまわすようにし、しかし、お安は若者と、父親ので、十日毎にしめいうことにしてな、便所はこのすみや」 体臭を、決してとりちがえることなく、いつも冷たい眼をタ方から夜中までに、すくなくとも三人の客がおくりこ 見開いたままだった。 まれ、どの客も必ず文句をいった。顔のきれいな女がさそ 半年後に、お安はアパート を出たが、この頃すでに栄養いをかけ、お安に引きつぐからで、しかし、金はもう払っ 失調に近く、月経もなく、極端にやせこけた体で、カない た後だからいやおうなくお安を抱き、腹いせのつもりか乱 足どりを梅田にむけ、着るものは若者が買い与えた年相応暴に扱い、あるいはまたお安のやせた体つきに、し虐の楽 の派手な彩りだが、かえって表情をフケこませるのに役立しみそそられるのかも知れず、しかしお安は、いかに怖 まゆ っていた。 い顔であっても、その時いたれば眉をしかめ、鼻息をあら お安は梅田裏の雑踏をさまよい歩き、中年男の姿とみるくする客の姿に、うっとりとみとれ、土地柄、そのすべて と、わかるはずもない父親がそこにあらわれたような気が中年以上であるのも、ねむりをやすらかなものにする。約 して、後をついて歩き、はじめて、一人二人に、「遊んで束の、十日ごとのしめは、はじめの一月ばかり、二百円三 だれ いかへん」と声をかけてもみたが、誰も相手にせず、ぼん百円と男が渡したが、やがて客からチップをとれといわれ やり突っ立ってると、五十がらみの女三人、「ちょっと顔て、だがいい出せず、着たきりのまま、下着を洗う時は、 貸してんか、誰に断わって客とりよんねん」と、梅田 Ot-n 押入れの奥にあった蚊帳を身にまきつけ、食事は三食とも ドンプリに魚の煮つけで、これは近くの問屋の小僧連の残 横のくらがりにひきこまれ、。ハシッと横面を張られよろめ くところを突きとばされ、気がつくと溝に半身おちこんで飯だった。 すねはんこん いて、「まあ、後はまかしとき」と、黒いダ・ホシャツの男 一年経っと、お安の声がかすれ、脛に瘢痕が点々とあら にたすけ起される。「なんや顔色わるいんやんけ、飯でもわれた。気づいた客は、さすがに抱かずにかえり、男も、 にお みぞ かや ふとん

10. 現代日本の文学Ⅱ-10 五木寛之 野坂昭如集

部屋に招き入れた。そこは家具もほとんどなく、取調べ室奥からこみあげてきた。 のような感じがした。 「ミハイロフスキイ ! 」 「こちらへいらっしゃい」 鷹野は一瞬、自分の目をうたぐった。指先で二、三度、 まぶた と、ダニエルは鷹野を壁際に呼んだ。そこの壁には、ム臉を押えて、再びその男を見た。やはりそうだった。天色 がくぶら ひげ くちびる ンクの〈赤い家〉の安っぽい複製が木の額縁にはいってかの鬚と、鋭く尖った鼻。固く結ばれた薄い唇。だがその かっていた。 唇の端がビクビク病的に震えているのだけが違う。あとは、 「あなたはさっき、ミハイロフスキイ氏には会わなかったすべてそのままだ。そこに坐ってうなだれているのはあの と言いましたね」 晩、オリガに頼んで会う事が出来たミハイロフスキイその 人だった。あの老作家がそこにいた。 「ええ」 とうして 「いったい、・ 「あなたは正しい。それは本当です」 と、ダニエルは言った。「あなたはミハイロフスキイ氏「わかりましたか、鷹野さん」 だれ には会わなかった。それじゃ誰に会ったか ? これが問題と、ダニエルが哀れむように鷹野を見て言った。「あな たが会ったのは、この男であって、 なのですー ミハイロフスキイ氏で 彼はじっと鷹野をみつめた。鷹野はまっすぐにその視線はありません」 つぶや 鷹野は何か言おうとした。だが何を言っていいか判らな をはね返した。よろしい、とダニエルが呟いた。 ダニエルの手がのびて、ムンクの絵を押しやった。するかった。彼はかすかに唇を震わせただけだった。それはあ 用を宣告するよ と額縁が滑るように横に動いて、その下に四角なガラス窓り得ないことなのだ。ダニエルは続けた。」 うな重い声だった。 が現れた。 「ここにいるのは、ある国の巨大な組織に利用された哀れ 「のぞいてごらんなさい」 あぎむ と、彼は言った。鷹野は四角い窓に顔を押しつけた。そなポーランドの難民です。あなたは、その背後の組織に欺 にせ かれて、レニングラードでこの偽のミハイロフスキイに会 こからは隣の部屋がのそかれるようになっている。それは すわ 四角い何もない部屋で、一人の男が、椅子に坐ってこちらったのです」 ひざ なが 「そんな馬鹿なーー」 を向いている。その顔を眺めたとき、鷹野の膝が、がくり おうと とふらついた。声にならないショックが嘔吐のように胃の彼はかすれた声で叫んだ。「ぼくは写真でこの作家を知 わか