田村 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集
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1. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

を動かしている音が聞えたが、まもなく古びたズックの鞄手に理髪師免状の額を抱えて、スゴスゴと入口の方に歩き からだ を、身体を片かしがりにしてフーフーと担ぎ出し、それも出した。中村君がガラス戸をあけてやり、 「わしの家にまっすぐに行って、女房に酒でもせびって飲 床板の上にドカンとほうり投げた。 「さ、お前の持ち物はこの二品だけだよ。これをもってさんでいなさいよ。すぐ行くから : : : 」 「はい。酒をせびって飲んでおります。トホホホ : : : 」と、 っさと出て行きな。家じゃあ人間の皮着たケダモノを婿に しておく訳にはいかないんだからね。トットと出て行って新さんはまた ( ラ ( ラと涙を流し、敷居を半分またいだと ころで、後ろをふり向いて、 おくれ。出て行けったら : : : 」 お銀さんは、焦れて、床板の上で・ハタ・ハタと足踏みをし「なあ、お銀。おれはこれで出て行くんだが、あの貯金は : ・あの貯金は : : : 」 た。その振動が、石中先生の身体にも響いて来て、不安な やかま 「喧しいよ。貯金もくそもあるかい」と、目がすっかり吊 思いをそそった。 おり 新さんは、檻の中の獣のように、狭い所をウロウロと歩り上がったお銀さんは、今度は薪ざっぽうをつかんでふり きまわるばかりだった。ときどきうどんの切れが頭からポ上げた。 ふよ、 新さんは、中村君に突き出されるようにして、吹雪の往 タリと辷り落ちたりした。 来にト・ホトボと出て行った。そのあとにガラス戸が閉じら やっと中村君が腰を上げた。 「なあ、新さん。何といったって、今度のことは一から十れ、幕が曳かれた。憎い相手がいなくなると、お銀さんは、 まで君が悪いんだから、お銀さんが言う通り、ひとまず君力が一時に抜けきったように、ガックリと椅子に腰を下ろ 緲はここを出たまえ。こんな晩で、行き所がなかったら、わした。そして、 くや 。さ、「口惜しいよ : : : わたしや口惜しいよ : : : 」と、一「三度 しの家に行ってなさい。いますぐわしも行くから : つぶや 行荷物を持って、行きなさい。あとのことは相談冫 このるから呟き、それから、テー・フルに伏して、子供のように声をあ げて泣き出した。 先 中「はい、行きます。トホホホ : : : 」と、新さんは、右左不丸い背中がビクビクと波打って、生々しく色 0 ぽかった。 ぞろ くらびる 興奮した肉体の表情といったふうなものが、赤つぼい柄の 揃いな唇をグッと噛んで、ポロポロと涙を滾した。 ひげ くぎ 力し髪」ら・ 四そして、壁の釘から、色の褪めた外套をとって身体につ着物を通して感じられるのである。石中先生は、無精髭が いた えりまき あごな け、穴のあいた襟巻で頭をスッポリ包み、片手に古鞄、片のびた顎を撫でまわし、トゲで刺されるような疼ましさを むこ かばん

2. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

なった。 法螺を吹きたくなったのか。それとも石中先生の顔を見た 鼻が特徴的だ。鼻柱は潰れて低いのだが、鼻の先が特別ので、新さんも小説がつくりたくなったのか、わしが診断 に肉を添えたように丸く盛り上がり、顔から独立したものしてあげるから : : : 」 あお のような印象を与える。目は青味がかった光りを帯びて大中村君は得意の毒舌で新さんを煽った。 まゆげ きく、眉毛はうすい。ロの結び方は、左右の長さが少し違 ( 映画館で手を握るなんて、自分はそんなさもしい小説は っており、そのためか始終物を言いたげな様子に見える。書いたことがないんだがナ ) らんぐいば 開いたロの中は、汚れた乱杭歯がニョキニョキ生えていた。 荒れ狂う吹雪の音を聞きながら、石中先生は、うどんの 耳は大きく平べったい。生物学的に見ても典型的な庶民の汁で温まった胸の中で、不平そうにそう呟いた。 顔であって、決して神様が念入りに刻んだ顔形ではない 「ねえ、中村さん」と、庶民の新さんは、ド・フロクが利い た声で言い出した。 「ほんとのことですよ。私はね、シネマ座の桟敷で、無邪 み 「世の中にはときどき魂潸たことがあるもんだね。変に疑気に映画を観ていたんですよ。そしたら貴方、身体と身体 ぐられちゃあ困るんだが、わしはさっき映画館の中で、すをドシンとぶつつけるようにして、私のそばにいきなり坐 としま った者があるんです。この野郎と思ってヒョイと見ると、 てきな年増の美人に手を握られましてね。工へへへ : えびちゃ これが女だから驚きましたね。海老茶のクルメン ( お高祖 「な、なにイ」と、中村君は不意を衝かれたように、ロか ねずみいろ ず、ん じやけん 頭巾 ) をかぶって、鼠色のカクマキ ( 防寒用毛布 ) を着て 緲らパイプを邪慳にぎ放した。 しつばち 。おおかた飼大かなにかとおりましたが、年のころなら一一十七八、身体つきのしなや た「新さんの手を握ったって : ・ かな、ゾッとするような年増美人なんです」 行間違えたんじゃないのかね ? 」 先「じよ、冗談でしよう。女のほうから手を握るなんて、そ「待った。もう法螺が入ったぞ。女がクルメンで顔を包ん だれ 中 りゃあまあ誰だって驚きますよね。被害者のわしだって驚で、カクマキを着ていたら、外から見えるのは目だけじゃ 石 いたんだから : : : 」 ないか。身体つきがしなやかだの、ゾッとするような美人 「なにが被害者だ。ほんとだとすれば、百万円のクジに当だというのは、新さんのデレスケ根性を証明する以外の何 4 ったようなもんだ・せ。話してごらんよ。ド・フロクが利いて物でもないと思うね」 よご つぶ っ あなたからだ つぶや さじき

3. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

すわ 男たちが、煙草をふかしたり腕組みをしたりして坐ってい いてくれた、馬の小便のようなお茶を呑んで、喉の乾きを あほうづら ねば たが、どれもイカれたような阿呆面をして、ときおり、粘 うるおした。 っこいキラキラした視線を、女事務員たちの上に注ぎかけ事務室の中は、また、澱んだように静かになった。その ている。もっともらしい顔をして。 ( イ。フをくわえた中村君静けさの中に、後ろ向きの瀬戸口 ( ル子が、無意識に身体 まるいす も、その一人に加えていいだろう。 を右左に揺すぶり、それにつれて小さな円椅子が、ギチギ まっただなか こういうエロ・ショーの真只中に身を置いた石中先生は、チギチギチと歯ぎりつこい音を立てるのが、たまらなく神 やせ細った身体の血が、思い出したようにポッポッ涌き立経にこたえてくる。本の文字が目にうつり、神経を通り、 ふくら つのを感じた。そして、その自覚が、自分の立場を理性的胸を膨ませ、下腹部をくだって椅子の脚のさきに及ぶ作用 に反省する前に、わが青春いまだ衰えずといったふうの、 が、さながら目に見える思いだった。ああ、円椅子が鳴 動物的な満足感をまず抱かせたのも、年齢柄、仕方がないる ! ことであった。 ギチギチ : : : ギチギチ : ・ と、 と、小山ヒデ子が、本から顔を上げて「ああ : ・ 「ハル子さんはさっきからだいぶ熱心に読んでるが、分る だれ あなた 誰にも聞えるほどの生々しい嘆声を洩らした。石中先生は かね、貴女がたに : ・ : 」と、一人の男が、嗄れた声で遠く ギクリとした。 から話しかけた。 「熱いわ。私、どうしてこんなにほてるのかしら : : : 。顔「ええ、とってもよく分るわ。 : これまで曖昧だったも が燃えてるみたいだわ : : : 」と、垂れかかる髪の毛を邪魔のが、読んでると一つ一つ ( ッキリして来るわ。それに つけそうに払いのけ、ほんとに燃えそうな赤い頬に、冷え いまの私たちにちょうど。ヒッタリしてるでしよう。・こ た両手を強く押し当てた。 から、とても刺激されていいわ」 「年ごろはほてるもんさ、ヒヒヒ : ・ : 」と、歯の黄色い中瀬戸口ハル子は、ふり向きもせず答えた。椅子の軋み方 年の男が、キラリと目を光らせながら言った。 ・こけ・・カし っそう烈しくなったようだった。 中村君が肱で石中先生の横腹を小突いた。それよ、 冫しし力、「やつばりな。そういうもんは、若いうちに読んで覚えて カラだらしがない ! 横目でふと見ると、中村君は涎を流おくべきだね。わしらのような年寄になると、鈍ってしま し、あわててパイプをもぎとって、オー ーの袖で、ロのってだめだよ。わしらの分もみっちり読んでもらうんだな まわりを拭いていた。石中先生は、さっき誰かが注いで置 たば ( からだ ひじ ほお そで よだれ しやが あいま、 のどかわ にぶ

4. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

中村君はいくらか気負いたって、肩にしていたツルハシ を下ろして、ドシンと地面を突 0 ついてみた。と、ゴボゴ ボという音の代りに、しわがれた男の声が聞えた。 っこ 0 あなた 「おお、モョ子ちゃん。こないだはどうも。貴女から頼ま れたクリームを今日もって来ましたからね」 うれ 「まあ、嬉しいわ。河合さんは親切ね : ・ モョ子は山崎園主に似た顔立の娘で、背は低いがポッテ リ肉づいており、赤味がさした頬の肉などはちきれそうに すがめ 「やあ。きましたですな。待っておりあした。わし一人で盛り上がって、鼻がひくく見えるほどだった。少し眇目だ ヒヒヒ : ったが、年頃だけに、それが「白痴美」といった感じを漂 仕事をはじめる訳にもいかねえだし : さんかく、んこん 、、が、かげ そう言って、曲りくねったひば垣の蔭から出て来たのは、わせているところもあり、ともかく、トキ色の三角巾、紺 がすりまえだれてつこう 陽やけして頬のこけた五十年配の男で、小ざっぱりした仕絣の前垂と手甲、赤縞の手織りのモンべなどで装われたモ 事着をきており、髪はゴマ塩で、片方の目が変に青味がかョ子の様子には、顔形の美学的な批判をヌキにして、いき なりとって食・ヘてしまいたくなるような心やすい魅力が溢 って大きく、どこやら生々しい感じのする百姓だった。 りんご 「やあ、山崎さん。 : : : 林檎園の主人の山崎さんです。ソれていた。 で、元憲兵伍長君はそばへひつついたぎり離れようとも ラ、たしかに石中先生を御案内して来たからね ! 」 「へえ、これは石中先生。ようこそ ! 先生がお出でくだせず、二人でペチャクチャしゃべりつづけていた。中村君 あこが は苦い顔をしたが、かってサーカスの女の子に憧れた石中 さったからにや、もうだいじようぶですよ。ヒヒヒ : 山崎園主は黄色い歯を剥き出して、お愛想に笑ったが、先生は、河合君の心境に大らかな理解を抱いた。 山崎園主は畑をすみかとしているらしく、林檎の木の間 どこやら下卑ていて感心できなかった。 こぎれい あち 「いや、君。わしが来たからって安心されては困るよ。わの空地に、小綺麗な住宅を構えていた。座敷を開け放し、 しの目は、土の中の大根がどっちに曲って生えているかも拭き清めた縁側に、西瓜、林檎、お茶道具などを並べてあ るところをみると、石中先生の一行を歓迎していることが 見通せないんだから : : : 」 垣根の蔭に、赤い色がチラッとしたかと思うと、それま分る。 ごちょう うるさ で石中先生の隣に立っていた元憲兵伍長、河合君が、その 「なあ、中村さん。わしは邪魔が入ると煩いと思うて、昨 肥った身体にも似合わぬ素早さで、赤い色の方に飛んで行夜こんなものをこさえておいたんだが、どうじやろな ムと からだ ほお すいか あム

5. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

はなはだしい。 げんにその朝も、食事最中に、二人の人物が門から入っ ふく ところで、戦後はやり出した民主的な文化運動のいき方て来た。一人の男は、毛糸の赤い帽子をかぶって膨れたリ うわぎ ねずみいろ をみていると、こうした生活の下部構造に関する古い観念ュックを背負い、上衣とズボンがくつついた鼠色の作業衣 を是正していくことは考えず、もっと上っ面の方を体裁よをつけ、シャベルやツルハシを、鉄砲のように肩に担いで すべ く辷っていってる感じで、どうもビッタリしない。街の知いた。陽やけした顔には、度の強い眼鏡をかけており、物 ゆが 識層の青年たちの在り方をみると、まず「どん底ーを演じ、を見るのに顔全体を歪める癖があるこの男は、石中先生の ヘートーベンを鑑賞し、サルトルを論じるという傾向だし、知り合いの中村金一郎君である。 一般大衆はコンクールやダンスに熱中し、勤務先でストラ 中村君は、元来石中先生の愚弟の同窓生で、本職は時計 けんとう イキ騒ぎをやって、これまた、以上終りであり、誰も自分屋なのであるが、本職そっちのけで、拳闘や興行に関係し、 たちの暮らし方の実体を反省に上せようとはしないのであ人の儲け仕事やいざこざに、しよっちゅう忙しく飛びまわ る。疑いなきを得ない : っている人物だった。一種の顔役に違いないが、陰気なと ろばた くろ で、秋のある朝、石中石次郎氏は、明るい茶の間の炉端ころがなく、ノンビリして、いつも貧乏しているので、玄 あぐら しろうと に胡坐をかいて、遅い朝飯を食べていた。ここでちょっと人にも素人にも信用があり、石中先生なども、疎開以来、 断わっておくが、石中氏の住宅は、茶の間と座敷の間に玄なにかと世話になっている間柄だった。 関があり 、門から入って来た客は、茶の間の前の通路を通もう一人の男は、初対面の人物であるが、元の軍服をつ って玄関に行くように出来てることだ。だから、客の側かけて腰に細引の東を吊るし、やはりツルハシを担いで、ま 緲らいえば、門を入った途端に茶の間の内部がすっかり見通るまると肥え太 0 た身体つきをしていた。肥った人間に悪 りんご される訳で、あ 0 、ヤミ菓子を食ってるな、林檎を齧って人なしとかいうが、その男も、顔がツルツルと赤らんで、 行るな、外国煙草を吸ってるな、細君が留守の間に若い女を目がクリッと剥き出し、耳の大きな子供染みた感じの男だ 先曳つばりこんでるな、というような事柄が、一と目で判明った。 「お早よう、先生、いま朝飯ですか。 ・ : もう出かけます 石するのである。そしてこういう家のつくり方は、住み手の ぐあい 石中先生にしてみればまことにエ合のわるいことで、このよ。支度してください : 中村君はそう言いながら、縁側に近づいて来て、何とい 点が、珍しい南向きのこの家のただ一つの欠点であろうと、 なが 常日頃、不満に思っていたのであった。 うことなしに、背伸びをして食卓の上を眺めてから、ニヤ だれ かっ

6. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

からだ 身体も土の中にめりこんでしまいますよ。散歩の時の杖を お持ちなさい。それだけでいいですよ」 中村君は狭い顔をクシャンと歪めて、おかしそうに笑っ 石中先生は、ビケ帽をかぶり、黒いズックの運動靴を穿 き、手拭を首に捲いて、玄関から庭に出た。中村君に言わ みやげ かっ れた、名所土産の細い竹のステッキをシャベル代りに担ぎ ながら : 三人は、秋の陽を身体中に浴びて、洗われたようにきれ というのがある。もし石中先生が、もっと年齢が若く、 うた いな屋敷町の往来を歩き出した。 気性が烈しければ、この詩に唄われた悲しみを自分のもの 「どうですかな、河合君。今日の発掘は見込みがあります として感じたのであろうが、人生の恥ずかしい経験をたく かね ? 」と、石中先生は右隣の元憲兵伍長に話しかけた。 さん積み重ねた今日では、すべてに忍従する気持が強く、 感情を興奮させることは減多になくなった。納豆も、木戸「自信がありません、どうも。そりゃあたしかに自分が立 又吉も、立小便も、サーカスも、女友達も、すべてよしとち会ったんですから、埋めたことはたしかなんですが、で にが いう、疲れたほろ苦い心境であった。 も終戦のラジオがあったその晩でしよう。鼻をつままれて も分らんような暗夜でしてね。 xx 少尉の指揮で、兵六十 抄 名が作業に当ったんですが、あの時の混乱した気持では、 だれ 記 ドラム鑵など、誰も惜しいとも大切とも思いませんでした 状 りん ZJ 行「さあ、それでは行くかね。ちょっと、待ってくれたまからね。それに三年後の今日では、練兵場がすっかり林檎 先え」 畑に変ってしまっておりますし : : : 」 「君イ、そういうなよ。あると思えばあるし、ないと思え 石食事を済ませた石中先生は、茶の間の隣の納戸に入って、 たんこ ばない。物事ってそういうもんだよ。君みたいにはじめか 短袴やシャツに着更えて出て来た。 ら弱音をふいていては話にならんよ。僕は前祝だけで、も 「僕もシャベルかツル ( シを持とうかね ? 、 。お止しなさい。先生だとツルハシと一緒にう二度もやったんだからね。元手がかかってますよ。何で ふるさとは遠きにありて思ふもの かな そして悲しくうたふもの よしゃ うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじゃ どかたる なんど てぬぐい かん ゆが ぐっは っえ

7. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

すき めるよ、つな隙は今ではまるでなかった。 上町の場末にあった茂森座という芝居小屋は、やな 弘前の寺町 ぎ座という名前で作品の中に登場する。現在はとり壊 されて跡かたもなくなっているか、かってはお盆や旧 弘前の寺といえば、この西茂森町の一部のほかに、 正月の前後ーー こま、名題役者の看板もかかげられ、小屋新寺町にもかなり数が集まっている。西茂森の寺が長 のぼり の前には幟がはためき、威勢のいい客寄せの声が木戸勝寺の門前に並んでいるのにくらべると、新寺町のほ やくら 口から流れ、小さな櫓の上から太鼓のひびきがきかれ うは町の南寄りに寺が多く、北則にはほとんど見あた ていしようじ た。こ、つなると付近の町々は急に生きかえったように らない。その新寺町の貞昌寺は石坂家の菩提寺でもあ 活気つく。だがもうこのやなぎ座のことを記慮してい る。本堂へ向って左手の一角に墓があり、そこにはう る人も少なくなった。 ら夫人の分骨も葬られている 茂森町から西茂森の通りへ入り、まっすぐ行くと長 私は住職の案内でそのお墓へ識り、 さらに地つづき まだいしょ 勝寺にぶつかる。この寺は津軽家の菩提所であり、二 の西福寺へまわって、夫人の実家である今井家のお墓 のぶひら そうとう 代信枚の代に建立された。そのおり領内の曹洞宗の寺 にもお線香を供えた。なお貞昌寺には「石中先生行状 を三十三ケ寺門前に移住させ、一個の城郭のようにか 記」の中で、石中先生の相手役をつとめる中村君のモ デル、中原康瀞も眠っている ためた。そのため今でも長勝寺の門前には、通りをは さんで左右にいくつもの寺院が軒をつらねている。 中原康は、石坂洋次郎が戦争中に弘前へ疎開し、 山門につづく参道には、戦争前まで杉の並木が深い 家族たちが東京へもどった後もしばらくとどまってい 影を落していたようだが、戦争中に佖採され、墓地に た頃、したしくつきあった人物である。中原康は若 も樹木の数は少ない しかし長勝寺まで入るとまだ巨 い頃に東京に出て、一時は無頼な生活を送ったことも 木が残っていて、救われた感じがする。私がそこを訪あったようだが、その後弘前で芸能プローカーなどを らかん ねたときも、修学旅行らしい一団が五百羅漢堂の前にやり、なかなか顔のひろい好人物だったらしい。石中 むらがっていた。このあたりも子どもたちの遊び場だ 先生と中村君のコンビはいわばドン・キホーテとサン ったのだろうか ンサ、あるいはぐっと日本風にくだけて言え

8. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

もろ してるとみえて脆く剥げ落ちた。まわりをきれいにして、 だものが出てきた。住職はお経を読むのを忘れ、みんなも 夫人の方に差し出し、 それに気づかないほど緊張していた。ことに、幼いころ死 「奥さん、もうこれで開くかと思います」 別した母親の黒髪に接する e 夫人の指先は、小きざみに慄 かめムた e 夫人は、一度うやうやしく拝んでから、両手で甕の蓋えていた。 かたずの を持ち上げた。それは造作なく開いた。みんな固唾を呑む で、錫箔が開かれた。中には一つまみの黒い物が入って 思いだった。 e 夫人は、蓋を畳の上に置いて、骨甕の中を いた。中村君はツカッカとにじり寄って、眼鏡をかけ直し のぞ 覗いた。それから白い片手を入れて、黒っぽい色の金属製て覗いていたが、自分の発見に驚いてる無邪気な大声で、 てのひら の函をつかみ出した。掌に楽に載るぐらいの大きさだった。「ありヤ、このカミノ毛は頭に生えてるんでなく、別なと かっこう 「やつばりございました。銀が変色しておりますけど、 このカミノ毛ですよ。短くって、ひねくれた恰好をしてま これに違いありませんわ。父がどんなに喜びますことかすからねー 「あら : : : ま : : : 」 e 夫人は顔を赤く染めてひどく狼猟した。その瞬間、部 e 夫人はホッとした様子で、骨甕の蓋をしてしまうと、 なまめ からだ ハンド・ハッグを開けて、例の小函をしまいかけた。 屋も揺らぐような艷かしい色気が、夫人の身体から発散す 「あっと、奥さん」と、中村君が呼びかけた。 るのが感じられた。 「やはり中身を一度お改めになったら : : : 。風化作用 さらに可憐なのは、セーラー服の女学生だった。首も顔 でしたね、石中先生。その作用で中身が消えてるかも知れも燃ゆるように赤くして、ハッキリ横を向いてしまい、ス ひざがしら 緲ませんし、それでなくとも、虫で涌いてたりすると、かカートの裾をしきりに曳つばって膝頭を隠すようにしなが 記え 0 て御隠居がガッカリするんじゃないでしようか」 ら、後へ後へいざっていた。そのさまは、このごろ萌えは 行虫 ! という言葉に夫人はひっかかったらしかった。 じめたばかりの自分のカミ / 毛を、誰かに切られはしまい ししことをおっしやっていただいて : 先「そうでしたわ。、、 かと恐れているようで、何ともいじらしい風趣だった。 が、それもほんの一瞬間のことで、夫人は手早くカミノ 一度改めますわ」 e 夫人は、黒っぽい銀の小函を畳の上に置いて、みんな毛を元の函に納め、その小函をパチンとハンド・ハッグにし 7 の強い視線を指先に浴びながら、蓋を開いた。すると、函まいこむと、 すずはく の中にまた函があり、最後に上質の錫箔を四角に折り畳ん「あの、橇が待っておりますから失礼させていただきます。 すそ かれん そり ろ久′ば、 ふる

9. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

「ところでなあ、先生、どうでごわしような。わしは春かコ一人というてもな、河合さんのほうは心配ねえだよ。こ ら秋まで毎日この畑で働いている身体だし、穴掘りは一つ の前一一度ばかり見えた時から、娘のモョ子とだいぶ気心が わしに委せてもらいてえですがね。この人たちじゃあ、畑合ってるようだし、何だったら婿に来てもろうてもええと のどこに埋まってるか分らねえドラム鑵を、片はしから掘思ってるです。本人さえ百姓仕事がいやでなければな。百 なわしろか り探してる間に、身体をそこねて、死んでしめえますよ。姓というても苗代を掻く訳でもねえし、大して辛え仕事で あなた わしは決して欲で言うんじゃあねえ。出た時は貴方がたに はねえ。もし、縁がまとまったら、こりゃあどうしても先 なこうど ちゃんと報告しますだ。ともかくお互いに便利にやろうじ生に仲人をお願いすべえと、わしは今から考えを決めてあ やごわせんか : りますだよ。 これで、人に自分の畑を掻きまわされるってのも、気疲そんな訳で、気がかりなのは、そこでうわばみみてえな れするもんでしてな : ・ 一つわしに委せてくだせえよ。鼾声をかいている中村さん一人だよ。中村さんさえウンと その代り、今日の骨折った分は、わしの畑の林檎を好きな言えばな : 。まあ、あとで目を覚ましたら、身体をこわ 分だけお持ちなせえまし。わしは百姓だども、その辺のこしちゃあつまらねえから、穴掘りは山崎に委せるようャン とは話が分る人間のつもりです。イヒヒヒ : 。林檎だっ ワリ言うてくだせえよ。 : そういうことにが決まれば、 て、相場がはね上がって、一昨日から一箱千一一百円になっ先生にはまた別に林檎の一一箱もな。イヒヒヒ : たでがすよ : ・ 「うむ。まあ・ : 。少し酔ったようだから風に吹かれて来 「ウム、ウム : ましよう あいづら 抄 石中先生は、相槌を打ちながらも、稲妻のようにツーツ 山崎園主の片方の青い目玉で、長く見つめられていたせ いか、石中先生は気分が悪くなったので、そう断わって縁 垢ーと、四方八方に思案を走らせていた。 行「貴方の言うことはもっともですよ。私もそう思うな。先から畑に下りた。 先 ・ : しかし、一一人の意見も聞かなければ、私の一存ではど 石うもね : 五 「そこですよ、先生 : ・ と、山崎園主はグイといざり寄 ひぎがしら って、膝頭で、石中先生の軽い身体をちょっとばかり後ろ ( 土百姓奴 ! 太いやつだ ! 元憲兵伍長、河合君を、四 に押しつけた。 百六十本のドラム鑵を持参金として娘の婿に迎え入れ、中 かん むこ つれ

10. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

りません。土というものは魔物なんですな : : : 」 と′ものらよう 山崎園主は床の間に立てかけてあった、新しい立札のよ「だめだよ、君。捕物帖くさい話なんかどうでもいいよ。 うなものを抱えて来た。それには禿びた筆の走り書きで、僕たちは泥棒でなく、隠退蔵物資を摘発して国家の再建に 「 xx 警察署御許可、石中先生摘発隊、無用ノ者立チ入ル奉仕しようという仲間じゃよ、 オしか。こないだの地形調査で したた ・ヘカラズ」と認められてあった。 は、ここの畑だというところまで、君の鼻を利かせたんだ 「ウーム。よろしいでしようーと石中先生は、思わず顔をから、今日はそいつをもう少し働かせてもらいたいんだ。 あなた そ向けて答えた。 : 山崎さん、貴方も気が利かない人だね。今日の仕事に 「それじや入り口に立てて来ますべえ : : : 」と、山崎園主は河合君の鼻がいちばん大切な役目をするのに、朝つばら かっ は手柄顔に立札を担いで行った。 からコヤシの臭いをさせて何ですか。こう臭くっては、ガ ひなた 明るい縁側の日向で、ナフタリン臭いお茶をってから、ソリンやドラム鑵の匂いを嗅ぎ分けられないじゃないか」 うわぎ 中村君は八つ当りの気味だった。 上衣を脱いだり、腕まくりをしたり、みんな発掘の支度に くせ レ J り・カカ十ー 「そんなに臭えだかね ? わしは大根畑にちっとべえやっ ただけだが : : : 」 「さあ、河合君。鼻を利かせてくれたまえよ。どこ掘れワ っえ 山崎園主はいかにも恐縮したように、青いほうの目をパ ンワンだね ? 」と、中村君はツルハシを杖に、小手をかざ チパチ瞬かせた。 して、ひろい林檎園の中を見まわした。赤い毛糸の帽子が さっそう 陽に映えて、颯爽としている。 「河合さん。みなさん待ってるんだから、歩きまわって思 緲河合君はビックリしたような顔で、鼻毛を抜いているば い出しなさいよ。私、ドラム鑵が出たら、今度のコンクー * こんじきやしゃ 、しよう ル芝居の『金色夜叉』のお宮の衣裳を買ってもらうって、 墟かりで、なかなか腰をあげようとはしなか 0 た。 行「そう言われたって、私も困りますよ。三年前の暗夜にやお父つつあんにちゃんと約束してあるの。ね、探してね。 先ったことですからな。なにしろこの、 いったん土に埋めるよう : モョ子という娘にも、甘ったるい声でねだられて、河合 石と、昨日のことでも、 ( ッキリした目印でもないと、なか どろばう うす なか分らないものでしてね。泥棒をつかまえたら、盗品を君はしぶしぶと日のような腰を上げた。そしてほんとに鼻 どこそこに埋めたという。さあ、泥棒にその場所に案内さをクンクンさせながら、林檎園の中をしばらくうろついた せて掘らせてみても、一度や一一度では出て来るものではああげく、 すす またた にお かんにお