のぶ子 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集
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1. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

のぶ子は、窓から顔を出して、ひどく素直な調子で、 ャリした気持で、宿直室に引っ返した。なんにもすること ひぎこぞう がなく、両の膝小僧を抱いて、開いた窓から、青い夜の景「先生、すみませんでした。お勉強のところお邪魔して 色をながめていると、小使室の方から、老小使とのぶ子の 高らかな笑い声が聞えて来た。特に老小使のは、胸をそら「ああ。たしかにお邪魔だったね。 : : : 家出はこれぎりで : しかし、行くあてがなくなって、僕を思 せ、腹を揺すぶって笑ってるような、厚みのある声だった。やめなさい。 女学生のくせに、どんなおしやべりで、老人をあんなに笑い出してくれたのを、光栄に思わなくちゃいけないんだろ うね : わせているのであろう。 お父さんやお母さんによろしく。 眼の前のあかくやけた畳の上には、紺色のスプリング・ 「はい。そう言います。 : : : 先生のほんとうの素顔をのぞ ・ : おやすみなさ コートと赤いハンド・ハッグが置かれてあり、じっとながめくことが出来て、とくをしちゃったわ。・ ていると、持ち主がいるのと同じような実感が迫ってくる。 ふと思いついて、敬助は窓から下の土台石に下り、のぶ「おやすみ : : : 」 ほこり くっ 自動車は白い埃をまき上げて、往来に走り出していった。 子の靴を拾い上げて、部屋に入った。そして、新聞紙をひ ろげて、その上にビニールの赤い靴を並べて置いたが、敷部屋にかえった敬助は、机をもとの位置に直して、その 革が足の裏の脂でうすぐろく汚れている感じが、小使室か前にすわってみたが、。ヘンをとる気にはてんでなれなかっ かんだか ら聞えてくるのぶ子の甲高い肉声と絡み合って、なにか刺た。で、後ろの畳にひっくり返って、うつらうつらしてい るうち、まるで入れちがいのように、別の自動車が玄関に 激的な感じだった。 横づけにされた。 とっ・せん、警笛の音が聞えて、怪物の眼玉のようなヘッ ド・ライトで、前庭のうすやみを照らしながら、一台の自今度は、のぶ子の父親の早川佐太郎だった。 。ちょっとお邪魔させていただきます 動車が入って来た。敬助とのぶ子と老小使は、玄関に出て「やあ、今晩は った。 助手台にのっていた、実直そうなばあやが、下りてのぶ佐太郎は、玄関まで出迎えた敬助に、押しつけがましく ひと からだ 子の世話をやいたが、そうしながらのぶ子の身体をそれと言って、宿直室に入りこんだ。家にいた時の、ちぢみの単 衣に絽の羽織、それに白足袋をはいていたが、眼が赤く、 なくながめまわす眼つきが、敬助の神経に触った。 酒のにおいが強くしていた。 ・ : ) と思った。 ( こんちくしよう : たび

2. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

ーっね ーゅうかく 狐の土台石のあたりには、どんな嗅覚の思い出があるのつつのように、犬の遠・ほえをきいていた。 からだ ・ころう ? 熱くてたまらない唇を中心に、自分の身体が、しびれる そして、自分たちを認めてうなったのは分るとして、すような性の感覚をはじめて経験していることを、黒犬が月 ぐにしっぽをふり、そばにうずくまって立ち去ろうとしな に向って、もっと訴え、もっとほえてくれれば いのは、どういうわけなのであろう : : と、かすかに思ったりした。 いずれにしても、黒犬にとっては、そうするのが必然の 「もういいわ、先生 : ・ と、のぶ子は、呼吸がつまりそ なま 行動だったにちがいないのだ。そうせずにはいられない生うな声で言って、顔をはなし、敬助の胸に頭をよせかけた。 の衝動が、彼を、町のどこからか、ここまで駆り出して来黒犬は、未練そうに、間をおいてはほえていたが、その たのに相違ないのだ : ・ 。そして、彼のそうした行動は、 うちにビタリとなきゃんで、また二人のそばに近づき、卑 なんびとも訂正することは出来ないのである : 屈げに耳を伏せて、地面にうずくまった。 そういうひょうひょうとした思いが、黒大の身辺か「 : : : 先生、しあわせだった ? 」 らわき出てくるようであった。 「ああ、しあわせだったよ」と、敬助は、のぶ子の身体に 「ーー先生。私、接吻していただきたいの : : : 」と、のぶまわした手の先で、白い額をなでさすりながら言った。 のぶ子は、その手をとって、自分の唇のあたりにもって 子は、かすれた声で言った。 「むむーとうめいて、敬助はのぶ子の顔をながめた。 いき、指を柔らかくかんだりしながら、 「うそでしよう。もう後悔でいつばいなんでしよう。明日 月の光りが、のぶ子の額を白く照らし、その下に二つの 暗い窓があいている。窓の中から、青い性のひらめきが、 から、学校で私と顔を合わせたら、どんな表情をしたらい いか、教室では、・ とんなふうにあしらったらいいカ : 不敵に、敬助にいどみかけている。 敬助は、のぶ子を抱いて、接吻した。 そんな心配ごとで、胸の中が、うすら寒い風が吹いてるみ すると、黒犬がにわかに立ち上がり、のぶ子たちを守るたいなんでしよう。 : : : 先生って、そんな方なんですもの ような形に四肢をふんばり、大空の月に向って、遠ぼえを かな ? 」と、敬助は、のぶ子の言葉を肯定したよ はじめた。哀しげに、たけだけしく、狂ったようにほえっ 「きみは づけた : ・ うな調子で尋ねた。 くちびる のぶ子は、敬助に抱かれ、唇をふれ合わせながら、夢う 「私は後悔なんかしてませんわ。 : : : 私の唇で、私の感覚 せつぶん

3. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

同時に、濁流の音に揺すぶられている敬助の頭の中には、靄の世界の中にはだしで入っていってしまう。 それが消えてしまうと、敬助は、いても立ってもいられ Ⅷこうした成り行きとは異った、もう一つの幻想が浮び上が っていた : ない烈しい後悔に胸をかまれ、濁流の中に、まっさかさま 。たしかに、 一一人が顔を見合わせた瞬間、敬助は傘を手放して、いきに飛びこむ。死ぬわけでもなさそうだが なりのぶ子を抱き上げる。のぶ子は抵抗しない。背中が折もう一つのいき方では、そうなるはずだった : ながぐっ れ曲りそうな姿勢にされて、こうもりや長靴を、ポトリポ ところで、現実の敬助は、アカシャの幹から離れると、 トリぬかるみに落してしまう。そうしてあいた両手で、敬自分が身を投げるかわりに、はいてる下駄をぬいで、片方 助の首っ玉にすがりつく。 ずつ、カまかせに川の中に投げこんでやった。はだしにな からだ それはしかし、倒れないように身体を支えるためで、自れというのぶ子のすすめこ、、 冫しまごろ従ったわけだ。 ( た 分から積極的に愛情を求めているわけでないのだ。 だし、この下駄は、お寺の住職のものだから、はき古しだ せつん 敬助は、自分の顔をのぶ子のに押しかぶせて、接吻をすけれど、あとで弁償しなければならない : どろみず る。のぶ子は無抵抗だ。息苦しくなった敬助が、ちょっと敬助は傘をかついで、はだしで歩き出した。足が泥水で 腕をゆるめて顔をあげると、のぶ子はキラキラ光る眼で敬ぬれきってしまうと、かえってサ・ハサ・ハするような気持だ 助を見上げ、まわりの雨のように冷たい調子で、 「先生、もういいんですかーー」と言う。 のぶ子はどうしたろう ? けだもの すると、敬助は、追いつめられた獣のように、狂おし ? のぶ子が言ったように、きちが 正吉とみね子は かな くのぶ子の身体を抱え上げ、もう一度、顔中に接吻を押しい染みて仲好くしているかも知れない。夫婦って、哀しい つける。 一とつがいの生き物のようなものなんだ : のぶ子はやはり無抵抗だ。雨が一一人の顔にあたる。眼に 敬助の記憶はそこらあたりから怪しくなる。料理屋の座 しみると、かゆいようだ。息がつまってきた敬助が、のぶ敷で、早川佐太郎がおり、芸者も一一、三人いた。敬助はし 子の身体を手放すと、のぶ子はやはり燃えたところがない、きりに酒を飲んだ。そして、前後不覚に酔いつぶれてしま 雨の粒のように冷えきった調子で、 翌朝、十時ごろ、料理屋の座敷で目を覚ました。頭がわ と一一 = ロう。 「先生、もういいんですか まくらもと そして、クルリと向き直ると、長靴やこうもりを拾って、れるように痛んだ。女中が枕許に置いていった手紙を開い かさ もや なかよ げた

4. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

佐太郎はいい気持そうに、お説教じみたことを言い出し「これはね、お父さんがなんにも御存じない、私一人だけ で思案したことなんだけど : 。もちろん、お前が反対だ とど 「私の眼力では、男なんてあまり女を仕合わせにしてくれったら、私は思い止まります : : : 」 そうもないわ。 し子ーし・ お父さんはお母さんを仕合わせにして「それで何なのよ、 ・ : 」と、ぞんざいに催促す あげたかしら ? 」 るのぶ子を、佐太郎が、新聞の蔭からジロリとながめたよ 「そんなこと、わしに聞く奴があるか : : : 」 うな気がした。 かた 「そりゃあのぶ子。お母さんはお父さんのところに嫁づい 「それはね、お母さんはリューマチで、このとおり身体が たばかりに、世間のみなさまからうらやまれるような、こ不自由だろう。ほんとは、人に見せてるよりも、もっと疲 んな生活をしていられるんだよ : : : 」 れやすくて大儀なんだよ。お母さんはここで、ゆっくり休 「幸福なんて : : : まったく主観的なものね : : : 」と、のぶませてもらいたいんだよ。そして、湯治なども十分にして、 子は、ロに塩を含んだような調子で言って、わきを向いた。 なおるものなら、少しでも身体をなおしたいと思うのさ。 とだな 紅茶が配られると、佐太郎は、後ろの戸棚からウイスキ : ところが、お店の仕事は忙しくなるいっぽうで、通勤 かくびん も入れると、雇い人だけで十一人もおり、それにお父さん ーの角瓶をとり出して、三人のコップに少しずつ注いだ。 「じつはね、のぶ子や。私は、今夜、お前に相談したいこの外のお仕事も殖えていくばかしで、私じゃもう、とても とがあるんだけど : : : 」と、豊子がそう言い出すと、佐太お世話がしきれなくなったのさ。気ばかり焦っても、身体 郎は、そこらに落ちていたタ刊をとり上げて、何気なく読が言うことを利かないから、お父さんには不自由な思いを みはじめた。 させる、家の仕事は穴だらけというわけで、このままじゃ 町自分を、これからはじまる相談の局外者の立場に置きたみんなやりきれなくなったんだよ。 それで、家政婦とでもいうか、年とった、しつかりした あいのだろう。 の 「なによ、相談ってーー ? 」 女の人をこの家に入れて、家事やお父さんの身のまわりの と この二、三日、いや、ついさっきも、母親が自分に何か世話をしてもらい、お母さんもゆっくり静養するというこ 山 : お前、そう思わないかね」 言いたがっていたことを知っているのぶ子は、ふと、あるとにしたいんだよ。 からだ 不安の念にとらえられた。豊子は、のぶ子に近く、身体を「お母さんは : : : ゆっくり静養しなきゃあいけないと思う にじり寄せて、 わーと、のぶ子は、警戒するような調子でそう答えた。 やっ

5. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

ともかくもインテリ型ではないでしよう。だから、手紙に うがいいと思うわ。女の子のために殴り合いするなんて、 早すぎるわよ。 ・ : そりゃあ、のぶ子さんは、私の先輩で、は、とても奇抜な文句が書いてあったわ。「 : : : 起きては うつつ寝ては夢、カラスの鳴かぬ日はあれど、君を思わぬ 私も好きな人だけど : : : 」 』なんて、全然十八世紀調なのよ」 「言いがかりをつけるなよ。・ほくと吉沢は、意見の相違で時はない けんか 甲吉はプスッと吹き出した。が、すぐにまた、しかつめ 喧嘩しただけだ・ : らしい顔をつくって、 「のぶ子さんに関する意見の相違でしよう 「早川がロが堅いって言うけど、ちゃんと君に話してるじ 「しちっこいやつだ : : : 」 : ・吉沢さんが、なんでのぶやないか」と、からんだ。 「甲吉さん、知らないのよ。 あなた 「私は別よ。のぶ子さんと私は、一緒にお風呂に入って、 子さんを憎んでるのか、貴方、そのわけを知ってる ? 」 お乳の大きさを較べたりする間柄ですからね」 「知らないよ」 「もうせんね、彼は彼女に、ラブ・レターを二、三べん出「チェ ! そういうのを ( 同性愛 ) っていうんだろ ? いやらしいやつらだ : : : 」 しているのよ。そして、きれいに振られちゃったのよ 「ばかにしないでよ ! 」と、あさ子は、握りこぶしで、甲 「そうか。あいつがね : : : 」と、考えこむ甲吉は、吉沢の吉の背中をドスンとたたいた。 愚かしさを笑うよりも、自分の気持をすぐ行動にうっす率「私は、立派な男性と結びついて、子供を三人生んで、堅 実な家庭を営んでいくことを、いまから私の理想にしてい 直さを、うらやましいものに感じたほどだった。 ・ : のぶ子さんと私は友達よ。貴方と私が友達 だが、そんな秘密な心の動きを、うるさい貝塚あさ子にるんだわ。・ であるように : 覚られてはならない ! うわさ 「でも、ほんとかね ? そんなことがあれば、すぐ噂に上「ふん ! 友達の押し売りをしてやがら : : : 」 甲吉は、あさ子と話していると、かすかに性のにおいを るもンだけど : : : 」 「噂が立たなかったのは、のぶ子さんが人を傷つけるよう感じはするが、こだわらず、気どらず、とどこおっている ものが、スラスラと解きほぐれていくような快さを覚える なことでは、ロが堅いからなのよ」 のであった。 「君はどうして知ってるんだい ? 」 。吉沢君は、「あら。私と友達では、御迷惑なんですか ? 」とあさ子は、 「そのラブ・レターを見せてもらったから : ・

6. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

で、先生に接吻を求めたんですから : 合って聞えた。人間の日々の暮しの中には、ふと、地球が 「明日から、学校でぼくと顔を合わせたら、どんな表情を運行するのと同じリズムで自分が動いているのが感じられ するの ? 」 ることがあり、いまがそれなのだ と、敬助は思った。 : なんでもないことな 「いままでどおりですわ、先生。 行く手に、町のあかりがポッポッと見え出した。 んですもの。 : : : 私、自分が女として、どれだけ成長した か、試してみたかったんです : : : 」 遺言 「そうしたらーー ? 」 「満足でしたわ。私の身体が順調に育っていってることが のぶ子は夢をみていた。 分りましたから : でも、今夜きりで、もう試さないわ自分が、身体がきれいな灰色で、胸毛だけがチョッビリ 赤い小鳥になって、庭の立ち木の上でしきりにさえずって 「じゃあ、ぼくも、きみがもっと大人になるのを待ってい いるのだ。空は青くはれわたって、日の光りがくまなく地 よう。乳房も胸も腰も、それから心も、・ほくなど、粥きと上に降りそそいでいる。小鳥のなき声は、澄んだ空気の中 ばされるほど、豊かにたくましく、伸び育ってくれるようを、はるかに高くかけ上っていく。 少し離れた所に、おかつば頭にセーラー服、小麦色の脛 「先生を好きだわ。いまのままで、私の人間が固まってしをむき出して、素足に赤い下駄をつつかけた少女が立って まってくれたほうがいいと思うぐらい : いて、赤い林檎をかじりながら、立ち木の上の小鳥を見上 敬助は、返事の代りに、のぶ子の顔を仰向かせて、額にげていた。林檎にかぶりつく時の歯並みは、粒がそろって 町もにも唇にも顎にも、軽い接吻の雨を降らせてや 0 た。 いてまっ白だ。 そして、よく見ると、その少女ものぶ あそのたびに、月の光りを宿したのぶ子の瞳が、チカチカと子なのだ。 ふるえた : 夢の中で、のぶ子はおかしいと思った。自分が二つある と 「もう帰ろう。うちで心配してるだろうから : : : 」 山 わけがないと思ったのである。で、胸毛の赤い小鳥か、林 こうばい 二人は、境内を出て、ゆるい下り勾配の山道をたどり出檎をかじる少女か、どちらか一つのものになりきろうと思 って、意力を集中したが、どうもうまくいかなカった した。黒犬も、あわてて飛び起きて、二人のあとを追 0 た。 落ち葉を踏む一一人の足音が、ザックザックと一つに溶け 小鳥になりきれた ! と思って、ヒョイと下を見ると、 ひとみ りんご げた すれ

7. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

「さあて、それではお暇しようかな。たいへん楽しかった敬助は絡まれていた腕をぬいて、あさ子の赤い温かい頬 よ」と、敬助は立ち上がって大きな伸びを入れた。 っぺたを、そっと柔らかくつねってやり、 「じゃあ、女子部も先生と一緒に帰れよ。あとは僕たちで 「これからも、狼には、よく気をつけるんだな : : : 」 やるから : : : 」と、団長の田村甲吉が、話の分るところを「狼ですか : : : 」と、あさ子はけげんそうにいった。 みせて言った。 「そうさ。そういう歌があったろう。『男は、みんなオオ 「それじやわるいわ。私と鳴海さんと残って手伝うから、 カミよ』って : 早川さんと貝塚さんは帰ってよ」と、副委員の井川たか子「その狼だったら、二、三匹か四、五匹につきまとわれた が、さっそく身のまわりの食器類などを集め出した。 って、そう迷惑なことがありませんわ。せつかく、健康で、 「すみません」 頭もよくはたらく、いい娘になっても、身のまわりに、空 「おさきに」 気と風のほかには動いてるものがないなんて、寂しすぎま 敬助と一一人の女子部は、宴席から雑木林の中にもぐりこすもの。のぶ子さんは んだ。今度も、あさ子が道案内で先頭に立ち、敬助、のぶ「私 ? 狼なんていやよ。そんな意味の男なんて、私、大 子という順で、ザワザワと小笹をふみ分け、雑木の間をぬつきらい 。ほんとうよ」と、のぶ子は顔を神経質にゆ って行った。少し行ったところで、前を歩いていたあさ子がめて答えた。 あなた が、ふいにただならない気配で立ちどまり、 「それは、貴女が自信があるからよ。貴女はほんとうに美 へび 「たいへん ! 蛇か : : : 狼がいるらしいわ ! 」と、叫んしいんですもの。それから、大つきらいなんていう烈しい から で後ろに向き直り、敬助の腕に自分のを絡んで、強引に反感情は、私にとっては将来の問題であることが、美しい貴 町対の方にひつばって歩き出した。 女にとっては、もうそろそろ現実の問題になりかかってる とら あ「ライオンも虎もいるわよ : : : 」と、早川のぶ子は、ニコ証拠だと思うわ」 = コ笑いながら、二人のあとについて来た。 「私、そんなふうに、人から自分の気持を勝手に読まれた と敬助は、蛇か狼の正体が何であるか知っていた。煙草のりすることも大つきらいよ : : : 」 においもしたし、逃げていく足音も聞えたようだった。運「年頃ね、何でも大つきらいというーー・」と、あさ子は上 動かなにかで残っていた上級生たちの軽犯罪であろう。 級生を軽く子供扱いしてから、率直な調子で、 「ああ、こわかった。狼に喰われないでよかったな」 「あのね、先生も狼だったことがありますか ? 」 いとま おおかみ

8. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

づいて歩きまわっているうち、ふと気がつくと、自分が一 風はないはずなのに、遠い山水の音が、弱まったり、強 人・ほっちになっていた。私はあわてて、お直さんの名を呼 くなったりして聞えてくる。そこここに、杉の木のてつべ びながら、そこらを駈けまわった。 んから差しこむ日光が、太い柱の形をして、煙りのように つばさ 「お直さあん ! ・ : お直さあん ! ゆらめいている。それを見ていて、私は、自分に翼があっ こだまむな それに対して、木魂が空しく返ってくるばかりで、まわたら、日光の柱をつたって、明るいひろい大空にかけ上り、 りに立ちふさがった杉の木のあかぐろい幹が、ひとつひとそれから、佐太郎やのぶ子がいるわが家に、まっすぐに飛 つ、冷たく、意地わるい表情を示しているように思われた。んでいきたいものだと思った。ちっとも帰りたくない、わ 私は、山で迷った時はあんまり動かないほうがいいとい が家だったはずなのに : う、どこかで聞いた教訓を思い出し、一本の杉の根もとに 私は思い返して立ち上がり、片手を口に当てて、 腰を下ろして、思い出したように、お直さんの名前を呼び 「お直さあん : : : お直さあん : : : 」と、呼んだ。 たいせ、 つづけた。が、私の声は、しめった落葉の堆積の下に吸い と、すぐ近い所で、 かげ こまれていくばかりで、なんの反応もなかった。それどこ 「はアい」という返事が聞え、そこらの杉の蔭から、お直 ろか、頭の上で、ふいにすさまじい鳥の羽ばたきが起って、さんが、地面に目を注ぎながら姿を現わした。籠には蕈が 私をしんそこからふるえ上がらせたりした。 つばいになっていた。ーーー私はホッとした。 「お直さあん ! ・ : お直さあん ! 。のぶ子 ! ・ : のぶ 「どこへ行ってたの ? 私、はぐれたかと思って、ずいぶ 子 ! : : : あなた ! ん呼んだのに、 一つも返事をしてくれないんだもの : 無意識のことだったが、私の呼び声はだんだん低くなり、ひどいわ : ・ : ・」 町対象も、お直さんから、ここにはいるはずもないのぶ子に 「そうですか。私、蕈採りに夢中だったのよ。そういえば、 あ変り、しまいには、泣き声で、夫の佐太郎を求めていた。 なんか声が聞えたようだったけど、蕈があるって叫んでる おしまいに、私は声を出す気力もなくなり、かすりのモんだと思ったわ。それだったら、私もつぎつぎと見つけて たぬきむじな A 」 ンべに包まれた両膝を抱いて、山の中の狸か貊のように、 いたものですから、そちらに行くこともないと思って 山 てかご 湿った落ち葉の上に、ひっそりとうずくまっていた。手籠 がひっくりかえって、せつかく採った蕈が、そこら中に散「ひどいわ。私、恐くって、心細くって : : : どうしようか らばっていたが、惜しいともなんとも思わなかった。 と思ったのよ」 ひざ

9. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

いつまでも去らないところを見ると、傾斜の枯れたすすき子に、前もってもらしていることが、みんなに分ってしま ねこしがい 原の中に、猫の死骸でも見つけたのかも知れない。ひろげつたんです : : : 」と、甲吉は、遠くの山の方に視線をくぎ た、骨ぶとい翼で、空気を切る音が聞えるほど、二人の身づけにして、思いきって言った。 「なにイ ! 近かに迫ることもあった。 ・ほくが、早川のぶ子に試験問題を教えた ? : どうしてそうなんだい ? : 「先生ーーこと、甲吉は、思いあまったような口調で呼び : ・」と、菅原はあっけにと かけた。 られた様子で、そうつぶやいた。つくっている身ぶりでは 「なんだね : : : 」 「ぼくは : : : 親切にしていただいてうれしいんですが、そ「早川のぶ子が、答案の余白に、自分で、そう書いてるん れだけに、先生のなさったことで、残念でたまらないことです。今日の問題は、こないだおさらいしてもらったとこ から全部出たって : : : 」 があるんです : ・ : ・」 「・ほくのしたことで : そりゃあ、・ほくは意志の弱い人「ちがうな。・ほくが問題をつくったのは、早川のとこに行 間だから、あちこち失敗のかけらをまき散らして歩いてるった二、三日あとで、しかも、その日に着いた英文雑誌か けど : ら、応用問題を三つも出しているし、おさらいが出来るわ ・ : 。はて、君は何のことを言ってるんだね ? 」と、 けがない。おかしいな。 : まあ、話してみたまえ : : ・ 菅原は後ろめたそうに言った。 菅原は、負け惜しみでなく、甲吉の詰問に興味を覚えた 学校の化学薬品室から、劇薬を持ち出して、しばらくボ らしい口ぶりだった。甲吉は、安心するよりも、むしろ張 ケットに忍ばせていたことか。 り合いぬけがした。それだけに、甲吉は、つつばなした気 みね子を気絶するほどひつばたいたことか。 分で、さっきの出来事の一部始終を語ることが出来た。 町隠れて芸者遊びをしたことか。 菅原は、神経をこらした表情で、じっと耳を傾けていた。 あ黒板に母親のことを落書きされて、それぎり学校を出て、 そして、甲吉の話が終ると、相手をいたわるように大きく 一日、山の中を歩きまわったことか。 AJ うなずいて、 雨の夜、早川のぶ子を抱きよせたことか。 山 あわ : いろいろつらい この町での息苦しい暮しのかずかずが、泡の粒のよ「そうか。そういうことだったのか。 しかし、君が信じる 思いをさせて、すまなかったな : うに、菅原の頭の中に浮び上がっては消えていった。 、、・まくとしては身に覚えのないことなんだ : : : 」 「先生 ! : : : 先生が、今日の英語の試験問題を、早川のぶかどう力を

10. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

も、お母さんから遺伝されたくはないのよ : = : ) と、しまだ硬ば 0 て残 0 ていた。これがある間に行動してしまお い無言の抗議をした。 「それじゃあ、のぶ子。今夜はもうゆっくりお休み。そし のぶ子は、階段を下りて、茶の間を通った。それを見た て、明日の朝は、お父さんやお母さんに、ニコニコしたき豊子が、涙声で、 げんのいい顔を見せておくれね、約東したよ : : : 」 「のぶ子、お前、いまごろからどこへお出かけだい ? お 母親の足をひきずる音が、階段から消えると、のぶ子は、よし、もう遅いんだよ : : : 」 だんす 洋服簟笥を開いて、急に身支度をはじめた。母親の来たこ 「止めるな ! あんなばか者は勝手にさせておけ : : : 」と、 とが、この家を出なければ というのぶ子の決意を固め佐太郎が、ウイスキーを飲みながら怒鳴る声がした。 いしよう のぶ子は、後も見ず、外に出た。月が青くさえわたって、 させたのである。で、のぶ子は、たくさんの衣裳の中から、 うわぎ 白のプラウス、赤いフラノの上衣、グレーのスラックスを周囲は水の底の世界でもあるかのようにしずまりかえって いた。のぶ子は、その時になってはじめて、針でつかれる 選んで身につけ、その上から紺色のスプリング・コートを ような鋭い孤独を感じた。 ゆるく羽織り、髪を束ねて、黒いリポンでしばりつけた。 ( 家出の服装はなるべく印象的なのがいい ) のぶ子は停車場のある方に歩き出した。家出した娘は、 身支度が出来ると、柱にさがった、自分の写真入りの額まず汽車に乗らなければ 。こんなせまい町で、ほかに 縁をはずして、押し入れにつつこみ、小さな赤いハンド・ハ 行くあてなどあろうはずがない。 ッグには、財布や貯金通帳などを入れた。ほかに忘れ物は のぶ子は、明るい大通りを、ス。フリング・コートのポケ なしか ? そうだ、煙草とライターもつけ加えよう。これ ットに両手をつつこんで、自信ありげにゆっくり歩いてい 町は、のぶ子にとって、成長、反抗、堕落のシンポルなのだ。 った。通りすぎる両側の家々には平和が宿り、道行く人々 おも あ部屋を出かける前に、のぶ子は洋服簟笥の鏡で、自分のはなんの憂えももたない。そういう想いが、ひしひしとの 姿をよく点検してみた。服装はまずまずというところ。顔ぶ子の身体にこたえてくる。ただ、映画館の前を通ると、 くちびる とは少し青ざめて、眼がキラキラと強くひかり、唇の一と女が泣いたり男が怒ったりしている安つぼい絵看板が上が つめ 所に血がうすくにじみ ( 父親の手の爪がかすったのであろっており、そこだけで、人生は波瀾に満ちたものであるこ ほお 四う ) 、ひきしまった感じが出ていてわるくはない。両の頬とを暗示しているかのようだ 0 た。 には、父親にうたれたあとの、ほてったようなしびれが、 途中で、男の学生四、五人とすれちがって、後ろからビ たばこ こわ はらん