みね子 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集
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1. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

だ、私が気にしているのは、そののぶ子さんという人、両たちのように : ・ : ) と、敬助は思った。 親と仲たがいしてるかなにかで、興奮しやすい状態にある外には、相変らず雨が降りつづけている。その、煙るよ とかって聞いたものですから : : : 」 うな水滴は、世界をぬらし、そのシトシトという音は世界 ちゃんとした計算が立っていそうな話しぶりだった。 を満たして、永遠につづきそうな気がするほどだ : 「そりゃあ、多少そういう状態にあるようですが : ふと、みね子が、ロを利いた。 女期の反抗心ですよ。そう根の深いものではない : 「八木さんは、菅原の貴方に対する態度が、このごろ少し 「いえ。私はそれが恐いんですの。正吉も、はけロのない、 変ったように思いませんか : ・・ : 」 追いつめられた気持でいますし、のぶ子さんもそうだとす「いや、べつに 」と、敬助は、これから語られること ると、一一人の間に予期しない結果が生じないともかぎらな が、みね子がここに訪ねて来た用件なんだ、と直感しなが いと思うんです : ・・ : 」 ら答えた。 そういうのを聞いて、なぜか、敬助は、、 しつかの夜、宿「では、彼は気が弱いから、まだそれを八木さんに示すこ 直室の窓を長い足でまたいで入って来た、のぶ子のいきい とが出来ないでいるんですわ。 : 八木さん、正吉はね、 きとした生態を思い出していた。 私が家出をやめたのは、八木さんがここにいるからだと思 「そんなばかな : : : 、教師と生徒ですよ、 いこんでいるんです : : : 」 敬助はわざとらしく笑ったが、自分自身に言いきかせてい 敬助は、冷たい霧でもはきかけられたような気がした。 るような気もした。 「それは : : : もっとハッキリおっしやるとどんなことなん 「そして、男と女でもありますわ、ホホホ : : : 」と、みねでしようか ? 」 町子も無意味に笑い返した。 言葉づかいが改り、少しふるえた口調になっていた。 あそれぎり、二人とも口をつぐんだ。といっても、そうこ 「どんな意味って、私が八木さんに、恋愛にちかい気持を だわった気分でなく、敬助が煙を吸い出すと、みね子も いだいているんじゃないのかしらんと、疑ぐっているんで すわ」と、みね子はためらう風もなくいった。 山それにならって吸い出したりした。 しめきった、動きの少い部屋の空気の中に、白い煙りが、「そんなばかな : : : 。菅原君が、自分の口からそう言うん ゆるやかなうずを巻きながら、たゆたっている。どんなふですか ? 」 うにでも変っていける在り方だ。 ( ちょうど、いまの自分「ええ。それらしいことを言うんです : : : 。しかし、彼に あなた

2. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

のぶ子は、なに気ない眼つきで、敬助とみね子の顔を見「どうもしやしない。まもなく、休むだろう : : : 」 けんか 「喧嘩しないんですか ? あんな状態で・ハッタリ会ったり くらべながら言った。 「母ばかりでなく、菅原までがよくしていただいて、ほんして : : : 」 「あんな状態ってーー ? - とにすみませんわ」と、みね子がていねいに礼を言った。 、え、こちらこそ、おばあちゃんや先生に、親子でお「奥さんが、夫の留守に、雨が降っていて寂しいからって、 夫の友人のところに一人で訪ねていくってことやなんか 世話になりまして : : : 」 そう言うのぶ子の口調は、みね子に対抗できるほど大人 「それをする人間しだいで何でもないことさ : : : 」 びている。 おくれて来た組が、そばを食べ終えるのを待って、みね「夫婦って、いやだなあ。菅原先生たち、家へ帰って、き ちがい染みて仲よくするに決ってるわ。いやだなあ : : : 」 子が、 いやな気持を裏づけるように、のぶ子のはいている長靴 「私、正吉と一緒に帰りますから、八木さんはのぶ子さん が・フカリ・フカリっこ。 を送っていってください : もや 「ぼくもそうだが、君は夫婦生活の経験もない女学生のく そう言って、夫婦で連れだって、雨と靄で煙る夜の中へ、 せに、菅原君たちが、家に帰って、きちがい染みて仲好く 足早やに消えていった。 こみち 敬助とのぶ子は、川に沿った小径を、上手の方に歩いてするかどうか、どうして分るんだい ? 」と、敬助は、呆け いった。気がついてみると、のぶ子は無造作に出て来たらた調子で尋ねた。 ながぐっ 「小説などを読むと、そんなふうに書いてあるのが多いわ。 しく、父親のものらしい、大きなゴム長靴をはいており、 町歩くにつれて・フカリプカリと鳴った。素足につつかけてい御夫婦のすることって、ちっとも論理的でないのね。いま けいべっ あるらしい。 泣いたかと思えば、つぎは笑っていて : : : 。私、軽蔑する の 「道がせまいから、先生の傘に入れてもらおうっと : : : 」わ : : : 」 と、のぶ子は、自分のこうもりをすばめて、敬助の傘にも「小さくは、論理的でないかも知れないが、大きくは論理 山 がとおっていると思うな」 ぐりこんで来た。 「先生。・ : : ・菅原先生たち、家へ帰って、どうされるかし「肉体的な論理がねーー」 「小説などを読むと、そんなふうに書いてあるのかね ? 」 なかよ

3. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

出したいんですからね。 : 八木さん、たしかにお聞きに 「過去に : : : そんな事実でもあったんでしようか」 1 なったでしよう ? 私が死ぬことばかり待ってると、あれ「 が自分の口から言ったことを 。それがみね子の本音な たま子は、聞えないふりをして、青い光りの眼で、庭先 くら・ んですよ。八木さんはその証人になってくれますわねの一点をじっと見つめていた。その用心ぶかさに引き較べ て、敬助は、みね子のスキャンダルに聞き耳をたてている あか そうささやくたま子の口から、細い、黒い息が一と筋、自分に気がついて、思わず赧くなった。 かが ほとばしり出るように感じられた。この老婦人が、ある種 たま子は、敬助の方に屈みこんで、陰気な早ロの調子で、 もら′ろ / 、 の心理のかけひきでは、少しも耄碌していないということ「八木さん、心配なさらなくてもいいんですよ。私は、正 は、本人にとっても決して仕合わせなことではないはずな吉に何も言やしませんから : ・ 。あれが、病気のふりをし のだが : ・ て、からかみのかげに寝ころんで、八木さんを誘惑したな 「それは : : : しかし : ・・ : 」と、敬助はロごもった。 んてことはね : 「かりにそういうことを考えることがあるにしても、みね しいんですよ。べつに八木さんのせいじゃない。あれは 子さんは、それがいやだから、家を出てしまって、そんな いつだって、男好きなんですから : : : 。私はね、あれが家 罪のふかいことは考えないようにしたいという : : : 」 出さえしてくれなければ、あれのする、たいていのことに 。いいんですよ。あれが、頭の中でどんなことを考は、眼をつぶっているつもりですよ。今日のことだって、 えてもいいから、この家から出ないよう、八木さんから、 正吉には、なんにも言いやしません : と、自分の言い そのつど忠告してやってくださいな。私はこの年になって、分だけ言ってしまうと、たま子はさっと立って、台所の方 台所の仕事をしたり、正吉と一一人ぎりで顔をつき合わせてに行ってしまった。 いたりするのは、いやなんですよ。 ・ : みね子は、若い男 ( おばあちゃん ! それはちがう ! とんでもない ! の人が好きなんだから、八木さんの言うことでしたら、よくは決して : : : それはちがうんですよ ! おばあちゃ くききますからね : : : 」 「私は正吉君の友人ですよ」 敬助ま、、 をしない相手に向って、精いつばいの抗議をした 「八木さんだけじゃないんですよ。だれでもですよ、若いが、あとの祭で、どうにもならないものを感じさせられた。 こぎらはし 男の人でありさえすれば : : : 」 まもなく、たま子は、小皿や箸をお盆にのせて運んで来

4. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

こうり 敬助は、行李をほどいてしまうと、それ以上、よその家 「すみません。せつかくの日曜日を台なしにしてしまっての品物にむやみに手をふれるわけにもいかず、なんにもす ることがなくなった。みね子はいったいどこに行ったのだ 「いや、少しでも人のお役に立つ、充実した時間が過せて、ろう ? 正午はとっくに過ぎているし、昼飯の注文にでも かえってお礼を言いたいほどです : : : 。家にいたって昼寝出かけたのだろうか。それだとありがたい話だが : するぐらいのものですから : : : 」 かすかに、人のせき入る声が聞えたようなので、敬助が 敬助は、夜具の包みから解きはじめた。細引をはずして玄関の三畳をのぞきに行くと、唐紙のかげに、みね子が、 しまうと、ついでにズックの袋から布団をとり出してやっ身体を小さく二つに折り曲げ、正吉のレイン・コートを胸 あぶらあせ たが、折り畳んだ敷布団の間に、みね子の下着や寝巻の類からかけて、横になっていた。顔が青ざめ、額には脂汗が がはさまっており、触れると体温が残っていそうな気がしにじみ、半ば開いたロから、苦しげな息づかいがもれてい むなもと る。胸許をひろげて、ぬれた手拭を押しつけてある。 ふと、どこかで鶏が鳴くような声がした。それにひかれ「どうしました、苦しいんですか ? 」と、敬助は、枕許に て水屋の方をみると、姿が見えないと思っていたみね子が、しやがみこんで、声をかけた。 はげ から 流しの上に屈みこんで、烈しく吐いているのだった。空の 「ええ、ちょっとめまいがしたものですから : : : 。すぐな けいれん つき上げで、背中を痙攣させて、いかにも苦しそうだった。おりますわ」と、みね子は眼を閉じたままで答えた。 ( もしかすると、この人はみごもっているのではないだろ「手拭を替えましよう」 うか : : : ) 敬助が、無造作にぬれた手拭をとり上げると、みね子の 町 独身者のくせに、敬助は、なぜかそう直感した。 る 指先が細かく動いて、胸許を閉じ合わせた。 あ ( どんな環境の中でも、女は生物のめすであることには変冷たい井戸水で手拭をしぼり直してくると、みね子はそ りがないんだ : れを受けとって、額の脂汗をふき、それから胸許に当てた。 山敬助は、そういうハッキリした気分で、水屋の方に横目「お医者をよばないでいいんですか ? 」 をくれながら、仕事をつづけた。 「要りません。それよりも八木さん、私の手を握ってくだ からだ みね子は、流しのふちに伏せって、しばらく身体を休めさい 暗い所へズンズン沈んでいくようで、心細いん ているようだったが、そのうちに姿が見えなくなった。 です : : : 」と、みね子は、やはり眼をつぶったまま、青白 こ 0 かが てぬぐい

5. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

みね子は、ハンド・ハッグを机の上に置くと、唐紙を開けた。 放し、庫裡の方から、箒と塵取りを借りて来て、部屋の掃「 : : : 雨が降って、寂しかったもので、ひとりで鏡台の前 からだ 除をはじめた。その間、身体が邪魔な敬助は、うす暗い本にすわって、お化粧をしていたんですが、そのうちにふつ 堂をうろついて、木魚をボクボクたたいたり、お椀のようと、八木さんをお訪ねしてみようという気になりましたの。 な形の鐘をボワーンと鳴らしたりした。くらがりの中から、 : ・そんなわけで、自分ひとりで、楽しみにやっていたも 部屋で動いているみね子の方を何べんもながめたが、部屋のですから、今夜のお化粧、少し濃かありません ? : みね子は、一度、下目づかいに敬助をながめてから、横 が荒れているほど、派手な和服姿のみね子が、色つ。ほいも のに見えた。 顔と、太い血管のとおった、白い滑らかな首筋を示すよう にした。 なんだって、いまごろ、一人で訪ねて来たのであろう。 「いえ、べつに濃いとも思いませんけど : : : 」と、敬助は おばあちゃんと孫のヨシ子は、のぶ子の母親について山の 湯に行ってるはずだし、今夜など、夫婦水入らずで雨の音目をそらせて答えた。 「それだったら、、、 ししんですけど : : : 」 に耳を傾けながら、濃いお茶でもすすっていればよさそう みね子は、鏡をハンド・ハッグの中に入れて、化粧紙でロ なものを、何の用事でやって来たのであろう : : : 。敬助は、 のまわりをふいた。 かすかな不安の念を覚えた。 「お掃除すみましたから、どうそ : ・ 「八木さん、私はね、一人でいて、気分がふさいでしよう みね子は、部屋のまん中に、座布団を向き合わせて並べ、がない時は、昼でも夜でも、鏡に向ってお化粧をしている まゆ さきに自分がすわった。敬助もそれにならった。 ことがよくあるんですの。いろいろに眉を描いたり紅をさ 「お邪魔ではありませんでしたのね。 : : : あんなことをなしたりしながら、あっ、自分にはこんな顔もあったんだっ る あさるぐらいですから : : : 」 け、とおどろいたりしていると、それが自分の慰めになる 「はあ。邪魔なことはありません : ・・ : 」 んですわ。少しはやましい気もしますけど、そんなことで もしてないと、寂しいまぎれに、人に頼ろうとする弱い、し 山「八木さん、お仕事に一生懸命だったことが分って : お掃除をしてる間に、私までいい気分になれましたわが起ったりするものですから : : : 」 あいづら : 」と言って、みね子は、ハンド・ハッグから小さな鏡を「はあ」と、敬助は用心をしながら、相槌をうった。 出して、眼の縁を強く張ったりしながら、顔をうっして見みね子は、自分がたいへん興味のある話でもしているよ ぎぶとん わん

6. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

「ええ : ・ : ・連れてまいります。ここには置けませんものの家出の手伝いをしているようなものではないか。正吉は、 : だから 自分にこんなことを頼みはしなかったはずだ。・ ・ : 」と、みね子は泣きじゃくりながら答えた。 とど 「さ、奥さん。元気を出して支度をしましよう。奥さんのといって、みね子に思い止まるよう、忠告したりするのは、 決心がついた以上、こういうことはぐずぐずしてないほう低級な感傷主義に陥りそうでいやだ。そして、じっさいに 逆効果をもたらすばかりだろう。ともかく、おれは、いま : この包みを動かしますよ」 力いいと思います。 敬助は、みね子を追い立てるようにして、夜具入りの包しばらく荷づくりに専念しよう : 敬助は、なんとなく割りきれない気持を「ヨイショ、ヨ みを手にかけた。そして、部屋の中をあちこち転がしては、 ・ : 」と、ありったけの力を出して、行李をしばる ときどき、荷物を足で押えて、細引きでグイグイ締め上げイショ : ことで発散させた。 みね子はと見ると、いつの間にか座敷から庭先に下りて、 みね子は、自分がもてあましていた荷物を、敬助が、か るがると動かしているのを、珍しそうにながめていたが、子供たちのままごとの蓆にすわり、一緒に手をたたきなが たんす そのうちに、座敷に移って、簟笥の中の小さな品物を、のら、童謡をうたっていた。あんまりのんきそうで、敬助は、 家出するのが自分なのかしらんという、軽い錯覚にとらわ ろくさと選り分け出した。 家のつくりは、玄関のほかに部屋が三つ。戦後につくられたほどだ : ・ れた壁の少い・ハラック建てだが、部屋の仕切りの障子も唐そのうちに、みね子は台所の方にまわって、なにかゴソ 紙もあけつばなしで、見渡すかぎり、物がとり散らしてあゴソやっていたが、お茶と煎餅をお盆にのせて縁側に運ん る。それは、家庭とか夫婦の関係なども、一と皮めくれば、で来た。煎餅を子供たちにも分けてやってから、 町このようにガタビシと安つ。ほいものだと暗示しているかの 「八木さん、お疲れでしよう。どうぞお茶にしてください あようだった。 の 夜具包みを片づけると、敬助は、なかみがいつばいで、 「はあ、ありがとう」と、敬助は、手の甲で汗をふきなが こうり・ ー丿・ムた と蓋がとび上がりそうになった行李をしばり出した。ほんとら、縁側に出て、あぐらをかいた。 に力がいる仕事なので、いつの間にか額に汗がにじんでい お茶を飲んで一服する。みね子は、落ちつきがない様子 で、とり散らかった室内や、庭先の子供たちを交互になが ( いったいこんなことをしていていいのだろうか。みね子めていたが、ふと、白い微笑を浮・ヘて、 せんべい

7. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

いないんですか。いま、スコアは四対五とかで、みんな執 「煙草買う金がないんです・ : 狂していましたわよ : : : 」と、みね子は、身体が触れそう「あらーーー」と言いかけたみね子は ( 東高校野外喫煙 にして歩きながら、甲吉の顔をのそきこんで尋ねた。 所 ) とある、木の枝にうちつけた板ぎれを見つけて、 あなただんな ( 貴女の旦那さんのおかげですーーー ) と言う代りに、甲吉「すぐなのね。そっと行って驚かしてやりましようね はうそをついた。 「頭が痛いから、自分だけ脱け出て来たんです : : : 」 そこから、しげみを一つくぐると、ひろい見晴しのある 「あら、風邪でも引いたのかしら : でも、そういえば、丘の空地になっている。そのとつばなの所に、菅原正吉が、 かっこうすわ 菅原だってグランドにはいませんわね。その : : : 野外喫煙両膝を抱えて、ちちこまるような恰好で坐っていた。冬枯 所でしたかしら : ・ 。菅原は、そこにしよっちゅう行ってれのした地上の風景と曇り空の間に、ひとり・ほっちでいる るんですか ? 」 後ろ姿は、ひきこまれるように印象的だった。 「はあ、お天気のいい日など、よくそこで寝ころんだりし みね子は、甲吉に、人差指を自分のロに当ててみせ、足 てるようです」 音を忍ばせて、菅原に近づいて行った。そして、後ろから 「どうしたんでしようね。まるで恋の悩みでも背負ってる菅原の背中におおいかぶさって、眼かくしをした。菅原が みたいだわ。ホホホ : : : 」と、みね子は開放的に笑った。 その手をどけると、みね子は一としきり、なまめかしく笑 身にそなわったなまめかしさが、自然に発散して、自転車ってから、菅原の膝にもたれて、大げさなゼスチュアで何 をひつばっている甲吉を当惑させた。 事か伝え、手紙のようなものを渡した。 ( あんな卑劣な先生が、こんな美しい奥さんをもってるな それを大急ぎで読み終えると、今度は、菅原のほうが大 町んて不公平だ ! ) とも思ったりした。 げさな喜びの身振りをはじめ、二人で抱き合って、お互い くまざさ あ熊笹の中に踏みこんで行くと、みね子は、甲吉の背中にの背中をたたいたり、頬ずりをしたりした。 ほうぜん くつついた枯れ芝を払いながら、あとからついて来た。 そんな男女の姿態にはじめて接する甲吉は、呆然として しまった。しかし、みね子のやり方がおおっぴらなせいか、 山「こんな所で、隠れて煙草をふかしていたら、きっとおい しいんでしようね。フフ : 外国の映画の夫婦でも見てるようで、汚ならしい感じはし よ、つこ 0 「・ほくは吸いませんけど : : : 」 「あら、お固いのね」 甲吉が驚いた証拠は、彼が押えていた自転車を、うつか ひざ ほお きた

8. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

102 まくら と、水色の涙があふれでて、頬をつたって、枕にしたたり い手をさしのべた。 敬助はその手首をつかんでやった。それは、あっと思う落ちた。 ほど冷たく、しかもその部分だけが、独立した生物でもあ「そりゃあね、みね子さん。人間の頭の中には、人に話せ るかのように、かすかに脈うっている。そして、思いがけない、い ろんな邪念が宿っているのは、だれの場合だって けんたい ないことに、敬助の胸の中には、自分のしていることはい 同じことですよ。人生の倦怠期にさしかかった男が、細君 いことだ、という自信がわいてきたのだ。自分の体温が、 ・、ポックリ死んでくれて、若い女と、新しい生活をはじめ からだ もう、ら・ 弱りきったみね子の身体に伝わっていって、みね子を元気る妄想にとりつかれるのは、普通のことだって言うし : あなた づけるという自信だ。 貴女の場合には、そのほかに生活が明るくなる見込みがな 「ありがとう、八木さん : : : 。温かい手だわ。私、あとで、 いのだから、お母さんが死ぬことを期待したからって、仕 正吉にそう言いますわ。 : : : あんまり気が減入って、心細方がないことだと思いますよ」と、敬助は、あいているほ いから、八木さんに手を握っていただきましたって : うのみね子の手に、涙をふくハンカチをもたせた。 それは、温かくて、握力の強い手だったって : みね子は、小さく頭をふって、 八木さん : : : 。私、身体の調子がわるいのは、どうやら「八木さんは、他人のことだから、寛大な考え方が出来る 子供が出来たせいらしいんです : : : 。私、生もうと思いまんですわ。私は、自分がそんな女であることに、我慢がな : こんな環境の中ではと、ためらう気持もありまらないんです。身近かな人が死ぬのを待ってる女ーー私は すけど、私には、新し い、小さな生命が、自分の権利をカどうしてもその女を許せません。そして、私がそんな女で 強く主張しているのカ′ ・ : 、ツキリと感じられるんですもの。なくなるためには、ここを出さえすればいいのです。今日 こそはと、その決心を固めたのでしたが、意気地なしの私 それに逆らうわけにはいきませんわ : ねえ、八木さん。私がここの家にいていちばん苦しいのには、やつばり実行できませんでしたわ : : : 」 その時、ふいに、縁側に人の気配がして、 は、ある、やりきれない、罪の意識に悩まされることなん です。それは、そうしまいと思っても、つい、お母さんが「かあちゃんや、いま帰りましたよ。おやおや、まあ、な 早く亡くなってくれたらーーと考えてしまうことなんです。んて散らかってるんでしよう。どうかしたのかね ? : : : 」 そんな女、そんな嫁ってあるものでしようか : : : 」 と言いながら、正吉の母のたま子が、玄関の部屋をのそき こんだ。 みね子の閉じた眼の縁が、うす赤くふくらんだかと思う ふち ほお

9. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

も、自信がないようなんですけど : : : 。気の毒は気の毒な 「いいじゃありませんの。それでだめになる人間は、それ 貶んです。ほんとは、正吉は、私の気持をひとりじめにしてだけのねうちしかないことなんですから : : : 」 きようじん いたいんでしようが、それが出来ないものですから、反対「人間という生物は、そんなふうに強靱にはつくられてい に、私が八木さんに愛情をよせているんだということにしないと思いますがね。作為や手段や工夫がなければ、生き もろ て、片づけてしまいたいらしいんです。あれでなければこていけない、脆い生物だと思うんです : れ、ということで、気持の上で、ともかくも迷いをなくし「そうねえ、脆く、 弱いんだわ」と、みね子は、敬助の言 たいらしいんですの : : : 」 葉を、自分の考え方の中にひきこんで、 適度に客観化されたみね子の語り口は、妙に敬助の心を「正吉が悩んでいるのを見ていると、私まで迷い出すこと ひきつけた。 があるんですよ。もしかすると、私、八木さんに対して、 あなた 「貴女にそう言われると、このごろ菅原君は、ぼくに対し正吉が疑ぐってるような気持を抱いてるんじゃないだろう て親切で、おしゃべりになったような気がしますが : かって : : : 」 「分りますわ。 ・ : 正吉は気が弱いから、気持をあべこべ 敬助は黙っていた。板戸の外で、ねずみの走りまわる音 に現わしているんです : : : 」 がした。 「それで、貴女は、正吉君のそうした疑いを消すために努「しいっ ! ーと、敬助は低い声でねずみ 力しているんですか」 を追った。なにか、別なものを追っているようで、大きな 「しませんわ。しないほうがいいんですもの : 。途中で声が出せなかったのだ。 無理な細工をするよりも、自然の成り行きにまかせておい 敬助は、みね子の性格を、よくのみこんでるつもりだ。 たほうが、いちばんいい結果になるようですから : : 。・こ人は、生きるために、男も女も、みんな武装しているのに、 から、私、いままでどおり、気が向けば、いつでも八木さみね子は裸でいるようなものだ。心の中の細かな陰影まで、 んのところに遊びに来ますわ。そんなふうにして、三人が洗いざらい、さらけ出してしまおうとする。 めいめい、自分の気持をたたいてみるのが、いちばんたし「みね子さん、ぼくは貴女に忠告したいんですが、人間は、 かなやり方だと思いますわ : : : 」 コンマ以下の心理は、ないことにして切り捨ててしまわな 「しかし、だれもが、そういう危険をともなうやり方に堪いと、生きていけないんじゃないかと思うんです。それが、 えられるとはかぎりませんからね : : : 」 ・ほくの信念なんです。いろんな瞬間の自分の心理に対して、

10. 現代日本の文学Ⅱ-6 石坂洋次郎集

まく、りもと 「お前たち、並んで鏡の前に立ってみろよ。コ・フ兄弟とい 甲吉がうす眼をあけて、枕許をみると、グレトのスーツを ったようなもンだぜ」と、水野にひやかされて、甲吉と吉着た若い女の人が、自転車をひいて立っていた。菅原先生 沢は顔を見合わせて苦笑した。 の細君のみね子だった : ・ あいさっ つづいて水野が発言した。 甲吉は、あわてて飛び起きて、固い姿勢で、挨拶をした。 「さあ、それでは、問題の扱い方が決ったんだから、これ「今日は から野球の応援をして、もう一度ここに集ることにしよう。「今日は 。たしか : : : 田村さんでしたわね」と、みね くち・•DA 一 いいな。今はいったん解散だ : : : 」 子はロ許をほころばせて、甲吉のあわてた様子をながめた。 みんな思い思いに、校舎やグランドの方に散っていった。「おや、田村さんの額のコ・フはどうしましたの ? 」 甲吉ひとりが裏庭に残った。さし当りは、コ・フのある顔を「はつ。・ ・ : 野球のポールが当ったんです : ・ だれにも見られたくなかったし、それから、はじめて人と「まあ、危ないー ・ : 田村さん、こっちの方で、うちの菅 殴り合いをした興奮がしずまるまでは、人と会っても、落原を見かけませんでしたか ? グランドの方も校舎の方も ちついて、物が言えないような気がしたからだった。 探して来たんですけど : : : 」 甲吉は、枯れ芝の上に、手足をひろげて、大の字にふん「知りません」 からだ ぞり返った。自分の身体を、大地の上に、木の葉か石ころ「困ったわね。急な用事で、・せひ会いたいんですけど かなそのように投げ出しておきたかったのである。 そうしていると、熱い涙が、あとからあとから、止め度「もしかすると、裏山の喫煙所ーーいや、見晴しのいい丘 ほお もなくあふれ出て、頬をつたい、耳たぶに滴り落ちた。そ があって、そこにいるかも知れません。よく行ってました のあげく、エッ、エッとしやくり上げたりした。彼の頭の から : あなた 中には、・ ( ットをにぎって構えている、ユニホーム姿のの「貴方、御案内してくださる , ー・ー」 ぶ子の幻影をめぐって、それとはまるで関係のない、幼い とうそーーー」と、甲吉は、みね子のひいている自 ころの思い出の断片が、浮いたり沈んだりしながら、ゆっ転車を自分が引き受けて、裏の丘の方に歩き出した。 くり回転していた : さっきの今だけに、菅原夫妻のために動いてる自分の役 何ほどか時が過ぎた。 割が、なんだかへんなものに思われてならなかった。 ( もし、 : もし ) と、自分をよんでる声がするようだ。 「すみませんわね。 : でも、貴方はどうしてグランドに