を向けた。 ながめて尋ねた。 「ぼくは、田村さんに感謝したいことがあるんです。それ「チェ ! 竹山。おれだっていじめたくなるぜ」と、甲吉 は、・ほくはこれまで、吉沢にしよっちゅうおどされて、煙は苦笑した。 「ぼく、女学生なんてきらいです ! 頭がからつぼなくせ 草や小遣銭をまき上げられていたんですが、彼の腕力がこ ずうずう あか と、竹山は赧くなって抗弁した。 わくて、どうすることも出来なかったんです。それで、あに、図々しくて : いつはこのごろますます図にのって、いろんな無理ーー。例「女学生がきらいだなんて、あんまりハッキリしたことを えば、ビクニックをやるからお前も来い、女学生を二、三 言うなよ。その『きらい』という気持は、一秒後には『好 人誘ってくるんだ、などと命令するようになったんです。き』という気持に変り得るんだからな。しかし、セックス さすがに・ほくは、一時逃れの言い訳をして、そういう要求の問題をぬきにして考えると、たしかに女学生というのは、 、、ようはく ・ : おたがいに男 には応じませんでした。しかし、あいつらの脅迫がこわくちょっとわずらわしいところもあるな。・ ゅううつ て、学校にくるのが日増しに憂鬱になり、、 しっそほかの学 に生れてよかったという話さ。もっとも、女のほうでも、 校に転校しようかしらんなどと、考えこんでいたんです男に対してそう感じてるのかも知れないがね : : : 」と、甲 吉は、気まぐれな興味を覚えたらしい調子で言った。 「君があんまり女学生にもてるもンだから、あいつらにやすると、今度は、竹山春吉が、しつべい返しの皮肉を言 っこ 0 かれたんだよ 甲吉のそういう冗談を証拠づけるかのように、廊下を通「田村さんは、そういう心理に明るいんですね」 「こら ! 君のロ車にのって言ったまでじゃないか : : : 」 りかかった三人づれの女学生が、わざと甘ったるい調子で、 町 口々に、 「すみません。 ・ : チェ ! あの三人づれが雑音を入れた る もンで、田村さんにお礼を言うのを途中で忘れちゃった。 あ「竹山さん、さいなら」 おど : そんなふうで、吉沢らにしよっちゅう脅かされるもの 「春チャン、さよなら」 ・ : さよなら」で、・ほくは神経衰弱気味になっていたんです。それが、さ 山「田村さん、竹山さんをいじめないでね。 つき、貴方がものの見事に吉沢をたたきのめしてくれたの と、言葉をかけた。 で、・ほくの頭の中にいつばいつまっていた黒い雲は、一時 それに対して、竹山は、 「サヨナラだ ! 」と、怒ったように言って、依怙地に背中にスッとはれていったんです。もうだいじようぶです いこじ たは
吉沢の頭の背後には、うすい、うろこ雲が浮んだ大空がひにはい出そうとしていた。甲吉は、後ろから迫って、首に ろがっていて、そこに、野球場の騒ぎが、かすかに反響し腕をめぐらしてグイグイしめ上げた。今度はうまく入って、 ていく : 吉沢は手足をパタバタさせて苦しがった。 うつかり気をゆるめたすきに、甲吉は、眼の上のあたり「おい、田村。勝負あったよ。放せ。おい、田村 : : : 」 を、グッ ! とうめくほど強く、吉沢のこぶしで殴られた。 ジャッジの水野忠一は、甲吉の腕をつかんで、吉沢の身 甲吉は、夢中で吉沢を跳ね返して、上から喉輪をせめた。体から引き放した。吉沢のほうには、栗原や笹山がかけよ 「吉沢 ! しつかりいけよ ! 」 って助け起した。 「田村 ! 締めを入れろよ。もう一と息だ ! 」 「勝負はついたんだ。・ : ・吉沢。田村と握手しろよ」と、 興奮した学生たちは、口々に、自分のひいきに声援した。水野に言われて、吉沢は、血がにじんだ顔をゆがめて無理 ふと、甲吉は、烈しい激痛を感じた。はじめは、どこのな笑いを浮べながら、 痛みだか分らないほどだ 0 たが、上になって押えてるうち「おい田村。お前、強いな。おれは強いやつは認めること に、吉沢に右手の人差指を根もとから握られ、グイグイと にしてるんだ。お前は、そんなやつじゃねえと思ってたん 締め上げられているのだということが分った。そして、そだがな : けんか れが、吉沢の得意な喧嘩の手の一つであることを、甲吉は 甲吉は差し出された吉沢の手を握った。円陣の学生たち 知らなかったのである。 は、なんとなく感激して、二人に拍手を浴びせた : ・ 痛い ・ : 焼かれるような熱さだー : もうしびれがき 甲吉は、心の底の方で、自分なりに、早川のぶ子を守り て : : いまにポキンと折れるー 通せたんだ、という気がして、急に熱い涙をポロポロとこ 町そう思 0 て低く頭を垂れた甲吉は、半ば無意識に、自分・ほした。 あの額を割るような勢いで、相手の顔に頭突きをくわした。 二人の学生が、水野忠一に言われて、校舎の方に駈け出 ゴッンという鈍い音がして、相手がゲーとうめくのが聞えして行ったかと思うと、水の入った新しい・ ( ケッと、救急 AJ た。そして、ひどく生まぐさい粘液性の体臭がにおった。箱をもって引っ返して来た。そして、甲吉と吉沢の顔をふ 人差指はゆるくなった。甲吉は、もう一度、相手の額にき、傷口に薬をすりこんでやった。大した傷ではないが、 頭突きを喰らわせた。ジーンと強いめまいがして、意識を甲吉の頭突きがよほど強かったとみえて、二人とも額に小 失いそうになった。気がつくと、吉沢は、両手をついて横さなコプをつくっていた。 のどわ
り地面に横倒しにしてしまったことだ。ジリンと・ヘルが鳴イ : : : 」と、手をふってみせて、しげみの中にガサゴソと もぐりこんでいった。 った。その音で、正吉夫婦は後ろをふり向いた。 「田村、来いよ」と、菅原はあらためて甲吉に呼びかけた。 「ーーすみませんでしたね。私たち夫婦にとって、とって 甲吉は、丘の端に出て、菅原と並んで坐った。 もうれしいことがあったものですから、つい興奮してしま たんば じはだ ひろい田圃は地膚をくろくむき出して、さむざむとひろ 。ごめんなさいね」と、みね子が優しく笑いなが がっていた。その間を、にぶい鉛色の大川が、ふかくうね ら声をかけた。 冫いたのか。どうしたんだ ? ーと、菅原って流れている。正面の大空には見上げるぐらいの高さに 「やあ、君、そここ もう白い色をまじえた鳥海山がそびえている。川に沿って はテレくさそうに声をかけた。 わら 「いえ、田村さんが私をここに案内してくださったんです。点在する部落は、木の葉が散ってしまったので、藁屋根の あなた 田村さんは、頭が痛い百姓家が ( ッキリとのぞまれ、軒下に、白い大根をつるし たぶん貴方がここだろうって : から、野球を見ないで裏庭で寝ころんでいたんですわ。田干しにしたのも見えるほどだ。 なた おけ 村さん、いらっしゃい」と、みね子は手を上げて甲吉を招あの大根は、いまに鉈でぶち切られて、桶につけられ、 しよくぜん 真冬のころ、桶の表面に張った氷を割って、食膳にのせら れるようになるのだ。うすい氷がくつついた大根をカリカ 「はあ リかむと、やがて、ちちかんだ舌に、ホッカリとした香気 甲吉は倒れた自転車をひき起して、まごまごしていた。 と甘味が溶けこんでくる。 ああ、雪が山ほど積る冬の 来いと言われたって、いまみたいな気分でいる夫婦のそば に近づけるものではない。すると、みね子が立ち上がって、日の生き甲斐だ : 「貴方、私は隣の方に家をみてもらって来ましたから、す菅原は、甲吉がいるのも意識しない風で、うきうきした ぐ帰りますわ。貴方にお知らせできたからもういいんです。調子のロ笛を吹いていた。甲吉は、見下げ果てた不正を行 : 田村さん、ここに来て正吉の話し相手になってやってなった菅原先生と並んでいて、少しも不快を感じないばか りか、むしろ親密のような気分になるのを意外に思った。 くださいな : : : 」 そう言って、みね子は甲吉のそばに来て自転車をうけと早川のぶ子を大切にしたい気持が通じているからであろう ・カ : り、もう一度、菅原の方に、 ごちそう 汽笛を鳴らして、列車が鉄橋をわたっていった。白い煙 「貴方、今夜は御馳走っくって待ってますからね。・ハイ・ハ すわ
のなんであるか、分るような年頃になってから、きらいに ないんだ。競争が烈しくってな : 。ところで、家つき娘 なったの。 いえ、きらわなければならない人だと、信じこのお前は、そういうやり手の男をもり立てて、家庭を守っ むようになったの。 : お直さんのつくってくれた五目ずていけるかどうか怪しいもンだと思うんだよ。 ほこり しのうまかったことを、いまでも覚えてるわ : : : 」 それに、埃っぽい商家のおかみさんなどよりも、体裁の かな 「おい、のぶ子 : : : ーと、佐太郎は箸の先で、おそうざい いい月給とりの奥さんのほうが、お前の好みに適ってるん さら・ の皿をあれこれと、忙わしくつつつきながら、 しゃなしかとも思われるし : : : 」 「もう、その話はやめようぜ。お前の口から、直子の話が「そんなこと、ないわ。いまの月給とりといえば、まず貧 もち出されるのは、どっちみち酒の味をまずくする。たと乏暮しということになるでしよう。私、貧乏暮しはきらい え、直子が天女のようだと言ってくれたにしてもだな。 なの。私、お父さんたちが考えてるよりも、ずっとお金の ・ : まあ、お前、一杯飲め。さっきからわしをハラハラさありがたみが分る、欲張りな人間なんだわ : : : 」 せた罰として : : : 」 「アッハッ、、・ ・ : 」と、佐太郎は、むせるように笑い出 「一杯だけね : : : 」 のぶ子は、佐太郎が、コップに三分の一ほど注いでくれ「お前に、お金のありがたみが分るなんて、まったくおか しいよ。 た酒を、さ湯でもあるかのようにあっさりと飲み干した。 : まあ、しかし、それならそうとしておいて、 「ところで、のぶ子。わしは一度、お前の気持をきいてみお前、婿をもらってやっていくかね ? 」 むこ 。田村さんならいや たいと思ってたのだが、お前は将来、婿をもらって、肥料「田村甲吉さんでしよう、婿って だって言ってたわ : : : 」 問屋の家業をつづけていく意志があるのかね ? [ る「まだ分らないわ。 : お父さんたちはどう考えてる「 : : : お前、どこでそんな話きいて来た ? まったく油断 あの ? 」 がならないやつだ。もっとも、わしだって、ごく軽い気持 「そりゃあ、お前に婿をもらって、後をついでもらいたい で、田村の名前を言ったにすぎないけど : : : 」と、佐太郎 山さ。でも、それがたいへんむずかしいことだとは覚悟しては、打てば響いてくるような、のぶ子の応対ぶりを、半ば るがね : 頼もしくも感じた。 「どうしてーー」 「それでお前は、わざわざ本人の意志をたしかめてみたん 「この商売は、相当にしたたかな人間でないとやっていけだね。まったく : : : あきれたやつだ」と、佐太郎は重ねて
まちがってないだろうね ? 」 そう言うと、菅原は、弾みをつけて仰向けに寝ころび、 すね 遠い空をながめ出した。甲吉は、言うこともなく、脛を抱「先生 ! ・ほくは : ・ : ・先生が不正をしなかったことが分っ えて坐りこんでいた。そのうちに、菅原はムックリ起き直て、うれしいんです ! 」と、甲吉はまるで別なことを答え ながら、菅原の言葉を全幅的に肯定しているかのようだっ 「おい、田村。・ほくは君だけに正直に言うが、やはりそのた。 冷たい風が、そうそうと丘をわたっていった。 ことでは、・ほくに責任があるんだ。問題をもらしはしない 「田村。君はドン・キホーテという小説を読んだことがあ が、彼女にそう思わせる原因をつくった責任は、たしかに ぼくにあるんだ。それがどんなことであるかは、いま説明るかね ? ーと、しばらくして菅原が尋ねた。 「ダイジェストにしたものは読みましたが、本物は読んで するだけの勇気がない。ともかく、彼女は、・ほくがどんな いません」 卑劣な手段を用いても、彼女の御機嫌をとり結ぶ立場にい 「ふむ。 : : : 早川のぶ子は、ぼくが問題を教えたというこ ると思いこんでいるのだ。そして、教わらない問題でも、 かな 教わったような錯覚を起しているんだ。物ごとを過敏に感とにして、今度こういう哀しい偶然の一致があったら白紙 まくにはそれが、色の白 じすぎるんだよ。そういう性格なんだね、彼女は : : : 。君、を出す、と述べているそうだが、に からだ い、きやしゃな身体つきのドン・キホーテが、虚構の敵を ・ほくの言うことが信じられるかね ? 」 甲吉は菅原の言葉をゆっくり吸いこむようにして聞いてつくって、悲壮な闘いをいどんでいるように見えてならな いんだ。といっても、・ほく自身、彼女の刃先にかかるにふ し / 、刀 : でも、ほかの連中にそれさわしい敵であることも確かなんだが : 「はい、信じられそうです。 「・ほくには、何のことだかよく分りません」と、甲吉は当 を信じさせることは不可能だろうと思います・ : ・ : 」 「いいんだ。君ひとりだけでも、ほんとのことが分ってく惑して答えた。 あとのイザコザは、・ほくが退職することでい れれば 無理もないことだ。自分に都合のわるいこ っさい解決するからね。 : おい、田村。君がどうして、 とを・ほくは言わないんだから : 。ところで・ : ・ : 」と、菅 ・ほくの言葉を素直に信じてくれるのか、・ほくにはよく分る原は腰を浮かして立ち上がり、 「そういう事情が分った以上、・ほくは、学校にも早川のぶ ような気がするんだ。それは、君が、ほかの連中よりも、 早川のぶ子を理解しているからだ。 : ・ほくの考え方は、子にも、これ以上の迷惑をかけたくないし、今日のうちに、 すわ
「それはな、ある女子の学生に、試験の問題を教えた教師 1 がいるというんだよ : : : 」 「だれが監督していたんだ ? 」と、尋ねる者があった。 こわ みんなの気分が急に硬ばった。田村甲吉は、それが自分「ポサだよ」と、笹山が答えた。 あか ポサというのは、中年の歴史の教官で、ポサッとした風 のことでもあるかのように、思わず顔を赧くした。 ささやま 「おい、笹山。お前、話しろよーと、吉沢英輔が、組の貌をしているから、ポサである。 「そんなら隣近所から教えてもらえたろうが : : : 」と、吉 笹山武吉という、円い顔をした学生に呼びかけた。 頭はよくないが、愚直なところもある笹山は、当惑した沢英輔が言うと、みんなクスクス笑い出した。 まなこまたた 「おれ、教えてもらわねえよ。 ・ : そのうちにな、早川の ようにどんぐり眼を瞬かせて、 「おれはうそをついてるんじゃないんだよ。たしかに見たぶ子が立ち上がって、答案出しに行ったんだ。その時は、 そうだな、三分の二ぐらいのやつが答案出したあとだった んだから : : : 」 つけ。おれ、何気なく見ていたら、早川のぶ子は、教卓の 「だから、見たとおりに言えってんだよ : : : 」と、吉沢が きいそく 前で、教師の方をチラッと見て、積まれた他人の答案に手 催促した。 「言うよ。でも、あれだろうな、人の答案を見たことが分をかけてゴソゴソやってるんだ。 おれ、ひとのを見て、自分の答案に書きこみをする早業 っても、処分されないだろうな。それでなかったら、おれ、 をやるのかと思ってたら、そうじゃあねえんだ。自分の答 と、笹山は、いまになって言いしぶった。 いやだぜ : 「ばか野郎 ! そんなの問題じゃねえよ : : : 。教師がよ、案を、次に出すやつに読まれねえように、たまった答案の 女の子に試験問題を教えてんだぜ。こりゃあお前、学校中中ほどにゴソゴソと入れちまったんだ。そして、教室から がひっくり返るような大問題じゃねえかよ。なあ、田村、出て行ったんだ。おれ、なんだかおかしいなと思ったんだ そうだろう ? 」 それで、自分が答案を出しに行った時、早川のぶ子が答 「まだ、なんにも聞いてないよ。笹山、話してみろよ」と、 案をさしこんだと思うあたりをめくってみたら、ドンビシ 田村はことさらに落ちついた調子で言った。 「言うよ。 ・ : 今日の四時間目に、英語の試験があったんヤでその答案が出て来たんだ。それを見ると、端っこの方 に『今日の問題は、こないだの晩におさらいしてもらった だよ。おれ、書くだけ書いて、あと、二つばかり分らない 。しまま 問題があったから、鉛筆をなめなめ考えていたんだよとこからばかり出たようだが、私の英語の実力よ、、 ふう
まく、りもと 「お前たち、並んで鏡の前に立ってみろよ。コ・フ兄弟とい 甲吉がうす眼をあけて、枕許をみると、グレトのスーツを ったようなもンだぜ」と、水野にひやかされて、甲吉と吉着た若い女の人が、自転車をひいて立っていた。菅原先生 沢は顔を見合わせて苦笑した。 の細君のみね子だった : ・ あいさっ つづいて水野が発言した。 甲吉は、あわてて飛び起きて、固い姿勢で、挨拶をした。 「さあ、それでは、問題の扱い方が決ったんだから、これ「今日は から野球の応援をして、もう一度ここに集ることにしよう。「今日は 。たしか : : : 田村さんでしたわね」と、みね くち・•DA 一 いいな。今はいったん解散だ : : : 」 子はロ許をほころばせて、甲吉のあわてた様子をながめた。 みんな思い思いに、校舎やグランドの方に散っていった。「おや、田村さんの額のコ・フはどうしましたの ? 」 甲吉ひとりが裏庭に残った。さし当りは、コ・フのある顔を「はつ。・ ・ : 野球のポールが当ったんです : ・ だれにも見られたくなかったし、それから、はじめて人と「まあ、危ないー ・ : 田村さん、こっちの方で、うちの菅 殴り合いをした興奮がしずまるまでは、人と会っても、落原を見かけませんでしたか ? グランドの方も校舎の方も ちついて、物が言えないような気がしたからだった。 探して来たんですけど : : : 」 甲吉は、枯れ芝の上に、手足をひろげて、大の字にふん「知りません」 からだ ぞり返った。自分の身体を、大地の上に、木の葉か石ころ「困ったわね。急な用事で、・せひ会いたいんですけど かなそのように投げ出しておきたかったのである。 そうしていると、熱い涙が、あとからあとから、止め度「もしかすると、裏山の喫煙所ーーいや、見晴しのいい丘 ほお もなくあふれ出て、頬をつたい、耳たぶに滴り落ちた。そ があって、そこにいるかも知れません。よく行ってました のあげく、エッ、エッとしやくり上げたりした。彼の頭の から : あなた 中には、・ ( ットをにぎって構えている、ユニホーム姿のの「貴方、御案内してくださる , ー・ー」 ぶ子の幻影をめぐって、それとはまるで関係のない、幼い とうそーーー」と、甲吉は、みね子のひいている自 ころの思い出の断片が、浮いたり沈んだりしながら、ゆっ転車を自分が引き受けて、裏の丘の方に歩き出した。 くり回転していた : さっきの今だけに、菅原夫妻のために動いてる自分の役 何ほどか時が過ぎた。 割が、なんだかへんなものに思われてならなかった。 ( もし、 : もし ) と、自分をよんでる声がするようだ。 「すみませんわね。 : でも、貴方はどうしてグランドに
142 からな : : : 」 押えていた。 吉沢英輔に指名された栗原義夫は、ひきしまった小柄な : ヘッ、ここの教官ときたら、義務を果す気がねえん からだ 身体つきで、あから顔をした学生だったが、頭をかきかき、 だぜ。宿直か日直のやつが教官室に残ってなきゃあいけな 「行ってもいいけど、見つかったらまずいことになるぜ」 いのに、野球の試合をのぞきに行ってるんだからな。 「その時はひらき直るさ。小ノ虫ヲ殺シテ大ノ虫ヲ生カス。 菅原のやつの戸棚には、鍵がかかってたけど、その鍵が机 学園の正義のためには非常手段もやむを得んよ : : : 」 のひき出しに入れてあったから、なんにもなりゃあしない グランドで、みんなたわいなく野球に興じている中に、 ゃな。・ ・ : おい、田村。調べてみな : : : 」と、吉沢はドサ すわ 自分たち十余名の人間だけが、学校を揺さぶるスキャンダリと坐ると、上衣のうち側から、分厚い答案綴りをひき出 おさな ルについて討議している そういう意識が、彼らの稚して、甲吉に手渡した。 い精神を異常に興奮させたのであった。 みんなが甲吉のまわりをとり囲んだ。甲吉は、手先がふ るえるのを隠すように努めながら、一枚一枚答案をめくっ 吉沢と栗原は、緊張した面持ちで、校舎の方に忍んでい った。あとに残った連中は、重くるしい期待の沈黙に気押ていった。三分の一一ぐらいの所で「早川のぶ子」と署名し た答案が出て来た。みんなざわめいた。 されて、だれも口を利く者がなかった。 田村甲吉は、あおむけに身体を倒した。色のさえないう「おい、田村。そこに書いてあるのを読んでくれよ」と、 さか ろこ雲が、空いちめんにただよって、その間からうす陽が答案が逆さに見える場所にいる学生が言った。 甲吉は、低い声で、答案の余白に書かれてある、短い文 もれている。野球場の騒ぎが、高くなったり低くなったり、 波をうって聞えて来た。その間に、男や女の突拍子もない章を読んだ。 先生。今日の問題は、全部、こないだ先生におさら 叫び声や、カーン ! と球をうつ音などが混ったりした。 かな いしてもらった所から出ましたのね。何という哀しい偶然 甲吉の頭の中には、さっき見た、・ホックスに立って、 ットを構えているのぶ子のユニホーム姿があざやかに思いの一致でしよう。私のこれまでの英語の成績は、平均して 浮べられていた。わるいことになりませんように そ八十五点というところでしたから、今日は八十点どまりで う願うしかなかった。 : 今度また、こういう哀しい偶然の 答案を書きました。・ 一致が生じましたら、私は白紙を出そうと思っております まもなく、吉沢と栗原が、走りながら引っ返して来た。 うわー 吉沢は、上衣の胸のあたりをふくらませて、上から両手で とだな かぎ つづ
こみら かれて、しぜんに小径らしいものが出来ていた。 吉が、平野の展望がいちばんよく見える場所に、敬助をす 「ここが入口です」と、あさ子が指さすのを見ると、敬助わらせた。宿直室用のはらわたのはみ出した座布団まで持 の頭ぐらいの高さの木の枝に、板ぎれがうちつけてあり、 ち出して来てある。 雨露にさらされてうすくなった墨色で、 「やあ、御招待ありがとう。 ・ : ところで、僕一人だけが 東高校野外喫煙所ただし職員と女子学生は入所このパーティーに招待されたのはどういう理由なのか お断りーー・・・と記されてあった。 ( まあまあ、かすかながらユーモアの精神があってよろし大勢の視線を一身に浴びせられた敬助は、少しぎこちな い気持で、そんなことを尋ねた。と、案内役の貝塚あさ子 自分自身、旧制中学の三年生ごろから煙草をすった覚えが、 がある敬助は、胸の中でそうつぶやいて苦笑した。 「あら、それ、私が説明するようにつて言いっかっていっ 急に視界が明るくなった。前方に、青い空や黄一色にみたんですけど、先生がなんにもおっしやらなかったから、 のった津軽平野の展望が、遠くひろく見はらされた。そこ黙ってたんです。 ティーには、窮屈でない程度に は丘のはずれで、しかもわざわざ刈りこんだようこ、、 冫力なお客さんがあったほうが楽しい。そのお客さんに先生が選 りの広さの空地になっているのだ。 ばれたんです。どうして先生が選ばれたかって言いますと、 その空地には、十一「三人の学生が、円くなってすわっみなさんの意見では、先生は貧乏寺に下宿していて、ろく ていた。女の子も四人ほどまじっている。中央に、太い木な物も食べてないらしい 「ばかにするな」と、敬助がどなった。 の枝を三本ほど組み合わせたかぎがすえられ、大きな鍋が 町つり下がってグッグッ煮えたっていた。鍋の底をたきつけみんなドッと笑い出した。 田村甲吉がとりなすように、 あている枯れ枝や木炭の気が、そこに顔を出した敬助に、 いきなりムーツと触れた。 「いやあ、先生、要するに、なんとなく、先生をお客さん と団員たちは、敬助の姿を見ると、歓声をあげ、拍手をしにしようということだったんです。試験の時にリべ たくら て迎えた。 ( お返し ) を求めようなんていう企みのあるパーティーで はありませんから : 「どうぞ先生、こちらへ 三年組の委員で、マウ・マウ団の団長でもある田村甲「当り前だ。きのこ汁ぐらいで買収される人間に見えるの なべ じる
そういう文面に、四人のあて名を記して、店の男衆に、 と、あさ子は不服そうに言った。 自転車で走らせた。 「私たちも食事中に、父が不意にそう言い出したんだから、 その間に、佐太郎は、食卓から離れて、座敷で、外出着仕方がないのよ。それがね、料理屋へみなさんを御案内す にきかえていた。 るんですって : 「料理屋へ 。わあ、すてき。私、生れてはじめてだわ、 「どうしたのよ、お父さん : : : 」 。芸者さんなんかも来る 「せつかくみなさんを呼んだんだから、料理屋で接待申しそんなとこへ上がるのは : ・ の ? 」と、あさ子は急にうれしそうに言った。 上げようと思ってな : : : 」 「どうだか 。田村さんもっき合ってくださるわね」 「そんなことをしていいの。私ゃあさ子さん、女学生よ」 しやだなあ。君のお父さんだの、先生たちだの、 「料理屋で料理を食う分には、いっこう構わん。お前も簡「・ほく、、 そんな人の前で、かしこまって物を食ったって、うまくも 単に着がえをしなさい : なんともないよ。ことに料理屋だなんて : 、てんで、場 羽目をはずすようなことになるのは、やはり父が寂しい ・・・ほく、帰るよ、わるいけど : ・・ : 」と、甲 からなのだ、とのぶ子はあらためて思った。そして、二階ちがいだよ。 吉は、頭に手をやって、二、三歩後じさった。 の部屋で、髪をなで、セーターやスカートや靴下をとりか あさ子は、その手をつかまえて、 えた。 「だめよ。一緒に行くのよ。 : : : 私よりも、まごまごして せまい町なので、よんだお客はすぐに集った。 まず、田村甲吉と貝塚あさ子が、連れだってやって来た。る人が一人ぐらいいないと、私、心細くなるじゃありませ んか」 二人とも、どちらかといえば、めいわくそうな顔をしてい 「チェ ! 人を踏み台にしやがって : ーと、甲吉はそれ でも、自分の存在価値が、いちおうハッキリしたようなの 「よく来てくれたわね。 ・ : 父が急にみなさんと一緒に、 ごちそう 御馳走をいただきながら、お話したくなったんですってで、覚悟を決めた様子だった。 つづいて、ほかの客もやって来た。ちょうど、八木敬助 。母が留守なもンだから寂しいのよ、きっと」と、の が、菅原の家に食事に招ばれていたところだったとかで、 ぶ子は、店の土間の所で迎えながら言った。 二人のほかに、正吉の細君のみね子も一緒たった。三人と 「そんならもっと早く、そう言ってくだされま、 。ししのに 。食事のあとだから、もうなんにも食べられないわ」も少し酒の気をにおわせていた。 くっした