中島敦文学アルバム 明治四十二年生まれの中島敦は、三十四年生まれの 梶井基次郎に比べて八歳年下ということになる。また 三十年生まれの嘉村礒多に比べて十二歳の年齢の開き があるしかし嘉村は昭和八年に亡くなっているので 享年は三十六歳、梶井は昭和七年に亡くなっているの で享年は三十二歳、そして中島は昭和十七年に亡くな っているので享年は三十三歳、従ってこの世での生存 期間はこの三人はほとんど同し、ということになる いすれもまだ人生的にはこれからという時点で亡くな っているしかし文学的な観点からいえば、その短か しよう力、 い生涯のなかでいすれもほば完全に昇華しきった作品 をこの世に残している。また生存中よりもむしろ死後 ( 良質の読者や研究者に大いに恵まれている、という点 からいっても共通の性格を持っ ざん たびと 中島敦の父中島田人は、漢学者中島撫山の第七子、 年少のときより漢学を父に習い、やがて文部省の教員 検定試験 ( 漢文 ) に合格、ついで各地の中学で漢文の教 昭和十一年頃長男桓と敦師として勤めた。敦からいえば、祖父も父も、ともに , ーし 評伝的解説〈中島敦〉 紅野敏郎 あっし イ 53
文学紀行。足立巻一 評伝的解説 , 紅野敏郎 監修委員編集委員 ′↑ー月 丿奏整足立巻一 井上靖奥野健男 川端成尾崎秀封 三島由紀大北杜大 嘉村礒多集 業苦 崖の下 父となる日 他六編 梶井基次郎集 城のある町にて 他十四編 光と風と夢 かめれおん日記 山月記 李陵 現代日本の文学 嘉本寸礒多 梶井基集 中島敦 現代日本の文学 ミをン = = 一及 3 ? ー I ト 7 中梶嘉 島井村 次礒 山 0 仁蜘上郷 0 嘉村礒多 0 生家 ( 「爛 0 下」 )
「山月記」の遠景 中島敦文学紀行 足立巻一 新物種。 多磨霊園にある中島敦の墓に詣でたのは、冬の雨が 未明から降りつづいている朝であった。 墓の所在は入り口の事務所で聞いてきたのであるが、 早呑みこみをしたせいらしく、なかなかわからす、同 しような墓石が立ちならぶ同しような区画のなかの小 径をぐるぐる何度も歩きまわらなければならなかった。 水滴をたつぶり貯めこんだ常緑樹は田 5 いがけない時に 大粒の雨を落下させるので、わたしはいっしかびしょ 濡れになったし、墓域の道はひどくぬかるんでいたの で靴はどろどろだ。もし「中島敦」と筆跡に似た文字 を刻んだ黒い平べたい石を見つけなかったら、もっと きくちかん 難儀していただろう。迷い歩いているうちにも菊池寛 むなどの著名文学者の墓は、墓域も広く標柱もあったの 望 ですぐ目についたが、中島家の場合は区画も小さいし、 港標識もないし、その「中島敦」も道に背を向けるよう にして立っていたから捜しあぐねたのである。 横 それだけに感銘があった。厚い本を調べていて、や 園っと捜していたペー ジにぶつかった気分に似ていた。 公 丘墓は五基ならんでいた。どれも雨に濡れそばち、ほと まっくろ るんど真黒になっている。碑面にはたえす雨滴が垂れる ) 。ただ、その「中 見ので、刻字も容易に読みとりにく 倦島敦」だけが建碑が新しいので鮮明であ「た。背面を みると、昭和四十八年に妻タカさんが建てたものであ はやの
愛 闇の絵巻 尾 : 交 のんきな患者 : 注解 梶井基次郎文学アル・ハム 評伝的解説 紅野敏郎四一七 空一五 四四三 紅野敏郎四四三 中島敦集目次 中島敦文学紀行 「山月記の遠景」 光と風と夢 かめれおん日記 : 山月記 陵 : 李 注解 中島敦文学ア化ハム 評伝的解説 : ・三六三 ・ : 三八七 紅野敏郎巴九 四三 0 四五三 紅野敏郎四五三 編集責任桜田満 製作担当勝呂睦男 校正責任須山康邦 作品校正山形庫之助 装 幀大川泰央 レイアウト 写真撮影成田牧雄 足立巻一三九
と回想している 「光と風と夢」においても、南の島のスティヴンソン そくそく に託して、中島敦の夢が淡々と語られている。岩田一 ・ 4 「山月記」は何回読んでも惻々として人の心を打っ名 作である。あえて私小説でない「古譚」をとりあげつ男氏の証明されたように、スティヴンソンの著作「ヴ め らよう たモ アイリマ・レタース」などにもとっき、構えとしては つも、虎と化した李徴のなかに私たちは中島敦の痛々 「述べテ作ラズ」という考えを固に押し通した作品 在のしい嘆きを読みとることができる 不敦 である。深田久弥も「どうして私はスティヴンソンの 弥た 久し 告白の中に、中島敦の声を聞かすに読みすごすことが 年・こタ 田き 出来よう ! 」と語っている。「光と風と夢」のなかに 深書 昭譚 月走 = 左自男妹 山月記 「大体、私は近頃、従来の自分の極色彩描写が段々 界「年長義 1 よは粤第、の・、して“・駅に第豊つい 年刺 「江薦い匚を・えれたを・第を物ら物じ第第る第《、・・にをん 学の 厭になって来た。最近の私の文体は、次の二つを目 名 するををい。、・ ~ 第かッた・い ( は ( 、な・、背をいた・は・第当新 に第第 - ・人を学第って・たす・論物に第つを下直を第って第 文載種格 和で ( ・、をな大背の物に材すろよ物は、物家、 - しての名・ー・に・ 一、無用の形容詞の絶滅。 指している積りだ。 , 4 ・ー - し - 氛であみ・かし・文名はーに・、す・・はー・第 , て 掲昭り男 昭先 よ次 第 ! な物・画、を物・で・・え 6 義・らに第・ ! して・・て・まにー 関 視覚的描写 ~ の挑」 した響の・い第物年の・は、物・第のの、ををい・第 6 ・・ー 上月左右と 左玄 ということばもみえるが、これはそのまま中島敦の 1 文体自覚の声と【「てもよ〔 中島敦の第一創作集は、昭和十七年七月、筑摩書房 蹊堪ー。んと「ヤ南洋・ 刊行の『光と風と夢』である。「古譚」 ( 「狐憑」「木乃 伊」「山月記」「文字禍」 ) 「斗南先生」「虎狩」「光と風と夢」 み : 2 : ・し : を 1 ゞ皈・み , ョ・ラ を収録する。「山月記」「光と風と夢」は、石塚友二 ・リ・、 1 ー ( 第要・エイ。よ 1 し の「松風」とともにこの時期の芥川賞の予選を。ハスし むろうさいせい を第 , 、わ , , ー・一・い 2 ゾうまをん たが、室生犀星のほかは積極的に推す人かなく、 に「授賞作なし」の決定を受けた。芥川賞選定の歴史 多い ひと、」ま のなかで「大きなミステーク」といわれる一齣であっ とら 0 りマ 3 0 4
中島敦集
左伯父 , 斗南中島端 1 り、を 7 大正 5 年 4 月 7 歳の敦明治 43 年 2 月満 1 歳の敦 漢学の系統、ということになる。この家系は中島敦に 大きく作用する。敦の生まれたとき父は千葉県釤子中 学の漢文教師であった。また母千代子も小学校の教員 である。さらにいうならば父田人の長兄も、次兄も、 ともに漢学者である。従ってこの漢学の系統、教育者 の系統は、中島敦の文学的教養の根源を形成する 母千代子は彼が二歳のとき父と離別、敦は父方の祖 父母のもとで引きとられて成長する。父はすぐ後妻を 迎えるが、この後妻と敦との仲は折りあいか悪かった。 代さらに父は奈良県の郡山、静岡県の浜松、朝鮮の京城 千 などの各中学を転々、その間、はじめの後妻は死亡、 母 AJ さらに第二の後妻を迎えるが、この義母との仲もうま 人 くいかなかった。従って家庭の環境からいえば、敦の た田 父 少年時代はきわめて不幸であったともいえる。 左 のちに敦の書いた「プウルの傍で」という作品のな かで彼は少年時代の心情を次のように描いている。 「三造は彼を生んだ女を知らなかった。第一の継母は、 彼の小学校の終り頃に、生れたばかりの女の児を残 して死んだ。十七になったその年の春、第二の継母 が彼のところに来た。はしめ三造はその女に対して、 妙な不安と物珍しさとを感じていたが、やかて、 その女の大阪弁を、また、若く作っているために、 なおさら目立つ、その容貎の醜くさを烈しく贈みは こおリやま 454
劇的な構成はすばぬけて巧妙である。その二つめは、 「光と風と夢」に代表される憧景の系列である「南島 言」もこれに属する三つめは「斗南先生」「かめれ 刊おん日記」「狼疾記」など身近に取材し、知識人の内 潮面風景を鋭く分析した作品群である 新 中島敦は中村光夫のいうように「人間を知り、人間 年 と人間の交渉の間に生れる恐布」をだれよりも強く知 和 っていた作家の一人といってよい。没後発表された「弟 昭 子」や「李陵」は、い ささかの濁りも含まぬ人間認識 刊 房の小説である。「李陵」のなかに描かれた三人の人物 ーーー李陵・司馬遷・蘇武 は、大きな歴史の運命と 摩 筑各自の独特の資質のなかで、互いに緊張関係を含みつ つ、おのれ自身を深めてい その関連のおのすから 和 の均整、そこにこの作の卓抜さがある「弟子」にお 昭 いてもそれは孔子と子路と子貢との関係においてみご となドラマが成立する 没後再評価の機運とともに友人たちのあたたかい手 で全集が編まれた風景もまた嘉村礒多・梶井基次郎・ 中島敦三人の共通のものである 昭 ※写真は嘉村栄・梶井謙一・中島桓・山田悟・中谷孝雄・安藤公夫・淀野あや・山口比男の各 氏をはじめ、文治堂書店・山口高等学校・横浜学園・湯川屋・日本近代文学館の御協力を賜わ りました。写真の著作権は極力調査しましたが、お気づきの点は御連絡をお願い致します。 中・自知 ~ 扠会 ~ 集第四巻 ・中・自縄敦ム ~ ウ蘗第三を 山ー . 敦奈 ~ 生不第二を ・甲 - 巨測〔第ムエ【第 ( 第一を よもラ担、ラ , い 右敦自 筆の短冊 昭和 34 年 6 月から 35 年 9 月にかけて文治 堂書店より刊行され た『中島敦全集』 譚島南 光とど夢 著教島中 を新学文 山小 462
敦が勤務していた当 時の横浜高等女学校都上い、一 昭和 8 年 10 月同僚の先生たちと 高尾山登山。左より二人目が敦 当時の横浜高等女学校の学生 がはじまった。こうした耽美派作家への関心は、東大 での卒業論文「耽美派の研究」 ( 四百二十枚 ) となって 結実する。今日この卒業論文も「中島敦全集』に収め られているので容易に 1 むことができる さきにふれた習作「プウルの傍で」には、自己省察、 自己分析の鋭い筆致がみられ、この「耽美派の研究」 には、「感覚の美の発見」の系譜とそれへの没入が力強 く展開されており、中島文学の根源的分子とかかわり あう 肉親のなかでもっとも強い愛着をその死後採るに至 おしとなん るのが敦の伯父斗南と号した、中島端であるこの斗南 は、彼が大学に入った年の六月、死去したが、この伯 父を悼み、のちに「斗南先生」が書かれる。卒業の直 前に敦は没後編まれた伯父の著書『斗南存稾』を東大 の附属図書館に照れくさいと思いつつも寄贈してしま う。そのことからも斗南への関心の深さが推しはから れよう。作品「斗南先生」の冒頭には、 「雲海蒼茫佐渡ノ洲 郎ヲ思ウテ一日三秋の愁 四十九里風波悪シ 渡ラント欲スレド妾が身自由ナラズ」 の詩を引き、「来いとゆたとて行かりよか佐渡へだな、 と思った」とある。伯父に「昔風の漢学者気質と、狂 456
を上。 , 驫をえ位し 一・大第 : をこ 1 敦の履歴書 人學學土ャー - ゝ臥 . 第物へ子學 しめた。」 義母への憎しみは同時に父への憎しみを誘発する 「決心した通り、彼は決して家族と言葉を交さなかっ た」とい、つ状况にまでなる この「プウルの傍で」という作品には、彼の「ヰタ・ ひとこま セクスアリス」の一齣も節度正しく描き出されていて 中島敦の少年時代を直接的に知る手がかりとなる。 大正十五年四月、中学四年修了で第一高等学校文科 甲類に入学したが、翌年の春、肋膜にかかり一年間 休学した。今日私たちが見ることができる中島敦の最 初の習作は、昭和二年の秋一高の「校友会雑誌」に掲 載された「下田の女」という作品である。瀬沼茂樹は この「下田の女」を「十九歳の少年の習作としては、 温泉宿の女を表裏両面から描いてオ気があり、当然比 較される川端康成の伊豆ものに似て感覚的であり、格 ー期 1 を調の正しし唯美的な文体をみせている」と語っている。 を物ルム第 これよりいわば「校友会雑誌」の文芸部時代とでも 証 いわれるべき作品「ある生活」「嘩」「蕨・竹・老人」 生 学 「巡査の居る風景」「 Q 市七月叙景」などを次々に発表 学する。この文芸部委員にはのちの『中島敦全集』の推 大進者ともなる氷上英広も加わっていた。 昭和五年三月には一高を卒業、ついで東大国文科に ニ一 1 ロ 進学、この頃より永井荷風や谷崎潤一郎の作品の恥殻 第一高等学校時代の敦 0 455