360 やしじゅ ーフ・アドルフは大変に珍しいもの好きで赤道直下の彼の 小舎を作り、唯一人 ( 海と空と椰子樹の間に全く唯一人 ) 一冊の・ハアンズと一冊のシェイクスビアを友として住んで倉庫にはストーヴがしこたま買込まれていた。彼は白人を だま いる ( そして少しの悔もなく其の地に骨を埋めようとして三通りに区別していた。「余を少しく欺した者」「余を相当 ひど いる ) 亜米利加人もいた。彼は船大工だったのだが、若いに欺した者」「余を余りにも酷く欺した者」。私の帆船が彼 ごうきばくちよく ほとん しようけい 頃南洋のことを書いた書物を読んで熱帯の海への憧憬に堪の島を立去る時、豪毅朴直な此の独裁者は、殆ど涙を浮か けつべっ えかね、竟に故国を飛出して其の島に来ると、其の儘住みべて、「彼を少しも欺さなかった」私の為に、訣別の歌を ただ ついて了ったのだ。私が其の海岸に寄った時、彼は詩を作うたった。彼は其の島で唯一人の吟遊詩人でもあったのだ から。 って贈って呉れた。 そうめい ハワイのカラカウア王はどうしているか ? 聡明で、し 或るスコットランド人は、太平洋の島々の中で最も神秘 的なイースター島 ( 其処では、今は絶減した先住民族の残かし常に物悲しげなカラカウア。太平洋人種の中で私と対 かっ おお 、、ユーラアを論じ得る唯一人の人物。曾て した怪異巨大な偶像が無数に、全島を蔽うている。 ) に暫く等にマックス・ 住んで死体運搬人を勤めた後、再び島から島への放浪を続はポリネシアの大合同を夢見た彼も、今は自国の衰亡を目 けた。或る朝、船上で髭を剃 0 ているとき、彼は背後から前に、静かに諦観して、 ( ア・ ( アト・スペンサーでもル っているのであろう。 船長に呼掛けられた。 とうせい どうしたんだ ? 君は耳を剃落しちゃったじゃ半夜、眠れぬままに、かの濤声に耳をすましていると、 ないか ! 」気が付くと、彼は自分の耳を剃落しており、し真蒼な潮流と爽やかな貿易風との間で自分の見て来た様々 かぎりな の人間の姿どもが、次から次へと限無く浮かんで来る。 かも、それを知らなかったのだ。彼は直ちに意を決して、 らいびようとう まことに、人間は、夢がそれから作られるような物質で 癩病島モロカイに移り住み、其処で、不平もなく悔もない のろ 余生を送った。その呪われた島を私が訪ねた時、此の男はあるに違いない。それにしても、其の夢々の、何と多様に、 極めて快活な様子で、過去の自分の冒険譚を聞かせて呉れ又何と、もの哀れにもおかしげなことそ ! ア。へママの独裁者テムビノクは今、どうしているかと思十一月 x x 日 ウィア・オヴ・ハ ーミストン第八章書与 う。王冠の代りにヘルメット帽をかぶり、スカアトの様な ようや ゲートル この仕事も漸く軌道に乗って来たことを感ずる。やっと 短袴を着け、欧羅巴式の脚絆を巻いた、この南海のグスタ キルト あ しま ただ ぼうけんだん しはら まっさお さわ まる ため
る。それがどうした訳かその店頭の周囲だけが妙に暗いのそれからの私は何処へどう歩いたのだろう。私は長い間街 だ。もともと片方は暗い二条通に接している街角になってを歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそ いるので、暗いのは当然であったが、その隣家が寺町通にれを握った瞬間からいくらか弛んで来たと見えて、私は街 かかわ はつぎり ゅううつ ある家にも拘らず暗かったのが瞭然しない。然し其の家がの上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、 ある 暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかっ そんなものの一顆で紛らされるーー或いは不審なことが、 ひさし たと思う。もう一つは其の家の打ち出した廂なのだが、そ逆説的な本当であった。それにしても心という奴は何とい まぶか の廂が眼深に冠った帽子の廂のように これは形容とい う不可思議な奴だろう。 うよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げて その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃 はいせん いるそ」と思わせる程なので、廂の上はこれも真暗なのだ。私は肺尖を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達 そう周囲が真暗なため、店頭に点けられた幾つもの電燈がの誰彼に私の熱を見せびらかす為に手の握り合いなどをし 驟雨のように浴せかける経爛は、周囲の何者にも奪われるて見るのだが、私の掌が誰のよりも熱か 0 た。その熱い ほしいまま なが ことなく、肆にも美しい眺めが照し出されているのだ。故だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆ 裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んで来くようなその冷たさは快いものだった。 かぎや る往来に立って、また近所にある鎰屋の二階の硝子意をす私は何度も何度もその果実を鼻に持って行 0 ては嗅いで かして眺めた此の果物店の眺め程、その時どきの私を興が見た。それの産地だというカリフォル = ヤが想像に上って まれ らせたものは寺町の中でも稀だった。 来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった その日私は何時になくその店で買物をした。というのは「鼻を撲つ」という言葉が断れぎれに浮んで来る。そして にお その店には珍らしい檸檬が出ていたのだ。檸檬など極くあふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸込めば、ついぞ胸一 りふれている。が其の店というのも見すぼらしくはないま杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほ でもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまと・ほりが昇って来て何だか身内に元気が目覚めて来たのだ であまり見かけたことはなかった。一体私はあの檸檬が好った。・ きゅうかく きだ。レモンイエロウの絵具をチ = ープから搾り出して固実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔 めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰った紡錘からこればかり探していたのだと云い度くなった程私にし 1 のも。ーー結局私はそれを一つだけ買うことにした。 つくりしたなんて私は不思議に思えるーー・・・それがあの頃の かぶ しば ガラスまど おさ ゆる
考えて見た。書けないのだ。何故 ? 俺は、あの偉大にしを肯定できぬ。では、当時何故そんな事をした ? 分らぬ。 て凡庸なる大作家程、自己の過去の生活に自信が有てない全く分らぬ。昔はよく、「弁解は神様だけが御存じだ」と うそぶ から。単純平明な、あの大家よりも、遙かに深刻な苦悩を嘯いたものだが、今は、裸になり、両手を突き、満身の汗 越えて来ているとは思いながら、俺は俺の過去に ( というをかいて、「分りませぬ」と申します。 ことは、現在に、ということにもなるそ。しつかりしろー 一体、俺はファニイを愛していたのか ? 恐ろしい問だ。 ふんい ・・・ ) 自信が無い。幼年少年時代の宗教的な雰囲恐ろしい事だ。之も分らぬ。兎に角分っているのは、私が そもそも いた 気。それは大いに書けるし、又書きもした。青年時代の乱彼女と結婚して今に到っているということだけだ。 ( 抑々 これ 痴気騒ぎや、父親との衝突。之も書こうと思えば書ける。愛とは何だ ? 之からして分っているのか ? 定義を求め よろこ むしろ大いに、批評家諸君を悦ばせる程、深刻に。結婚のているのではない。自己の経験の中から直ぐに引出せる答 事情。これも書けないことはないとしよう。 ( 老年に近く、を有っているか、というのだ。おお、満天下の読者諸君 ! もよや 最早女でなくなった妻を前に見ながら、之を書くのは頗る諸君は知っておられるか ? 幾多の小説の中で幾多の愛人 辛いことには違いないが ) しかし、ファニイとの結婚を心達を描いた小説家ロ・ ( アト・ルウイス・スティヴンスン氏 に決めながら、同時に俺が、他の女達に何を語り何を為しは、何と、齢四十にして未た愛の何ものなるかを解せぬと もちろん いうことを。だが、驚くことはない。試みに古来のあらゆ ていたかを書くことは ? 勿論、書けば、一部の批評家は らっ る大作家を拉し来って、面と向って此の単純極まる質問を 欣ぶかも知れぬ。深刻無比の傑作現るとか何とか。併し、 みたま 俺には書けぬ。俺には残念ながら当時の生活や行為が肯定呈して見給え。愛とは何そや ? と。して、彼等の心情経 できないから。肯定できないのは、お前の倫理観が、凡そ験の整理箱の中から其の直接の答を求めて見給え。ミルト 芸術家らしくもなく薄っぺらだからだ、という見方もあるンもスコットもスウイフトもモリエールもラブレエも、更 夢のは承知している。人間の複雑性を底まで見極めようとすにはシェイクスビア其の人さえもが、意外にも、驚くべき よくろ わか 風る其の見方も、一応は解らぬこともない。 ( 少くとも他人非常識、乃至、未熟を唹露するに違いないから。 ) との場合に、なら。 ) だが結局、全身的には解らぬ。 ( 俺は、 所で、問題は要するに、作品と、作者の生活との開きだ。 小ったっ 作品に比べて、悲しいことに、生活が ( 人間が ) 余りに低 単純濶達を愛する。ハムレットよりドン・キホーテを。 、。俺は、俺の作品のだしがら ? スウブのだしがらの様 ン・キホーテよりダルタニアンを。 ) 薄っぺらでも何でも、 まで 俺の倫理観は ( 俺の場合、倫理観は審美感と同じだ。 ) それな。今にして思う。俺は、物語を書くことしか今迄考えた よろこ はる これ すこぶ よわい これ
ア ) と「ムわれる下等品なのだが。 タロ芋の更に大きな山を、土産として貰う。とても持ちき これら れないから、と断ると、彼等の日く、「いや、是非、之等 近頃、召使共が少々怠けるので ( といっても一般のサモのものを積んでラウペパ王の家の前を通って帰って下さい。 やきもち ア人と比べれば決して怠惰とは云えまい。「サモア人は一屹度、王が嫉妬をやくから。」と。私の頸に掛けたウラも、 般に走らない。ヴァイリマの使用人だけは別だが。」と言っ 元々ラウペ。ハの欲しがっていたものだそうだ。王へのあて しゅうちょう た一白人の言葉に、私は誇を感ずる。 ) タロロの通訳で彼等つけが囚人酋長等の目的の一つなのだ。贈物の山を車に また よろ に小言を言った。一番怠けた男の給料を半減する旨言渡し積み、紅い頸飾を着け、馬に跨がって、サ 1 カスの行列宜 おとな うなず ゅうゆう た。其の男は大人しく頷いて、てれた笑い方をした。初めしく、私はアピアの街の群集の驚嘆の中を悠々と帰った。 ンリング しっと て此処へ来た頃、召使の給料を六志減じたら、其の男は王の家の前をも通ったが、果して、彼が嫉妬を覚えたか、 しゅうちょう 直ぐに仕事を止めた。しかし、今では、彼等は私を酋長どうか。 と見做しているらしい。給金を減らされたのは、ティアと いう老人で、サモア料理 ( 召使達の為の ) のコックだが、十二月 x 日 かんべぎ ェップ・タイド 実に完璧といっていい位見事な風貌の持主だ。昔、南海に 難航の「退潮」やっと終る。悪作 ? とどろ ようまう たいく かっ 武名を轟かしたサモア戦士の典型と思われる体驅と容總だ。近頃引続いてモンテ = ニ = の第二巻を読んでいる。曾て もっ しかも、之が、箸にも棒にもかからない山師であろうと二十歳前に、文体習得の目的を以て此の本を読んだことが あき あるのだから、全く呆れたものだ。あの頃、此の本の何が わか 私に判ったろう ? 十二月 x 日 期うしたどえらい書物を読んだ後では、どんな作家も子 夢快晴、恐ろしく暑い。監獄の酋長達に招かれ、午後、灼供に見えて、読む気がしなくなる。それは事実だ。しかし、 なお ある 風けるような四哩半を騎乗、獄中の宴に赴く。先日の返礼のそれでも尚、私は、小説が書物の中で最上 ( 或いは最強 ) と意味か ? 彼等は自分達のウラ ( 深紅の種子を沢山緒に通のものであることを疑わない。読者にのりうつり、其の魂 くびかざり はす した頸飾 ) を外して私の頸に掛けて呉れ、「我等の唯一のを奪い、其の血となり肉と化して完全に吸収され尽すのは、 友」と私を呼ぶ。獄中のものとしては頗る自由な盛んな宴小説の他にない。他の書物にあっては、何かしら燃焼しき うちわ であった。花筵十三枚、団扇三十枚、豚五頭、魚類の山、れずに残るものがある。私が今スランプに喘いでいるのは これ マイル くび ため すこぶ はたち きっと あか こ あえ
はげ も発作は刻一刻と烈しくなるようだ。何のことはない。ま タイエレが言う。直ぐにロイドと彼等の寝室へ行った。パ ねむ ハガードの世界だ。 ( ハガードといえば、 ータリセは睡っている者のように見えたが、何かうわ言をるで、ライダ 1 わずみ 言っている。時々、脅かされた鼠の様な声を立てる。身体今、彼の弟が土地管理委員としてアビアの街に住んでい にさわると冷たい。脈は速くない。呼吸の度に腹が大きくる。 ) ラファ = レが「狂人のは大変悪いから、自分の家の 上下する。突然、彼は起上り、頭を低く下げ、前へつんの 、つこう めるような慨好で、扉に向って走った。 ( といっても、其家伝の秘薬を持って来よう」と言って、出て行った。やが がんぐ 、、、、ゆる の動作は余り速くなく、ぜんまいの弛んだ機械玩具のようて見慣れぬ木の葉を数枚持って来、それを噛んで狂少年の しる な奇妙なのろさであ 0 た。 ) 0 イドと私とが彼をつかまえ眼に貯付け、耳の中に其の汁を垂らし、 ( ( ムレ , トの場 びこう しばら て・ヘッドに寝かしつけた。暫くして又逃出そうとした。今面 ? ) 鼻孔にも詰込んだ。二時頃、狂人は熟睡に陥った。 まで 度は猛烈な勢なので、やむを得ず、みんなで彼をベッドにそれから朝迄発作が無かったらしい。今朝ラファエレに聞 ータリセは、そうやってくと、「あの薬は使い方一つで、一家鏖殺位、訳なく出来 ( シ 1 ツや繩で ) 括り付けた。パ ゅうべ っぷや 抑え付けられた儘、時々何か呟き、時に、怒った子供の様る劇毒薬で、昨夜は少し利き過ぎなかったかと心配した。 どうぞ に泣いた。彼の言葉は、「フアアモレモレ ( 何卒 ) 」が繰返自分のほかに、もう一人、此の島で此の秘法を知っている ため 者がある。それは女で、其の女は之を悪い目的の為に使っ される外、「家の者が呼んでいる」とも言っているらしい その中にアリック少年とラファエレとサヴェアとがやってたことがある。」と。 来た。サヴェアはパータリセと同じ島の生れで、彼と自由入港中の軍艦の医者に今朝来て貰ったが、パータリセを に話が出来るのだ。我々は彼等に後を任せて部屋に戻った。診て、異常なしという。少年は、今日は仕事をするのだと 言って聞かず、朝食の時、皆の所へ来て、昨夜の謝罪のつ 突然、アリックが私を呼んだ。急いで駈付けると、 せつぶん いましめ タリセは縛をすっかり脱し、巨漢ラファエレにつかまえもりだろうか、家中の者に接吻した。この狂的接吻には、 うわごと へきえき られている。必死の抵抗だ。五人がかりで取抑えようとし一同少からず辟易。しかし、土人達は皆パ 1 タリセの譫言 ものすご ータリセの家の死んだ一族が多勢、 たが、狂人は物凄い力だ。ロイドと私とが片脚の上に乗っを信じているのだ。パ ていたのに、二人とも二呎も高く跳ね飛ばされて了った。森の中から寝室へ来て、少年を幽冥界へ呼んだのだと。又、 そうりん まで 午前一時頃迄かかって、到頭抑えつけ、鉄の寝台脚に手首最近死んだパ 1 タリセの兄が其の日の午後叢林の中で少年 足首を結びつけた。厭な気持だが、やむを得ない。其の後に会い、彼の額を打ったに違いないと。又、我々は死者の なわ かけ ゅうめい力し これ おうさっ
俺は誰だと。名前なんか符号に過ぎない。一体、お前は何 や 者だ ? この熱帯の白い道に痩せ衰えた影を落して、と・ほ十一月 x 日 1 」と こうよう ちんうつ とぼと歩み行くお前は ? 水の如く地上に来り、やがて風精神の異常な昂揚と、異常な沈鬱とが、交互に訪れる。 の如くに去り行くであろう汝、名無き者は ? それもひどい時は一日に数回繰返して。 昨日の午後、スコールが過ぎたあとの夕方、丘の上を騎 俳優の魂が身体を抜出し、見物席に腰を下して、舞台の あ こうこっ 自分を眺めているようなであ 0 た。魂が、其の抜けが乗していた時、突然、或る恍惚たるものが心を掠めたよう それ らに聞いている。お前は誰だと。そして執拗にじろじろ睨に思った。途端に、見はるかす眼下の森、谷、巌から、其 ら らっき めまわしている。私はそっとした。私は眩暈を感じて倒れ等が大きく傾斜して海に続く迄の風景が、雨あがりの落暉 かかり、危く近所の土人の家に辿りつき、休ませて貰った。の中に、見る見る鮮明さを加えて浮かび上った。極く遠方 1 」と りんかくもっ こんな虚脱の瞬間は、私の習慣の中には無い。幼い頃一 の屋根、窓、樹木までが、銅板画の如き輪廓を以て一つ一 つはっきりと見えて来た。視覚ばかりではない。あらゆる 時私を悩ましたことのある永遠の謎「我の意識」への疑問 が、長い潜伏期の後、突然こんな発作となって再び襲って感覚器官が一時に緊張し、或る超絶的なものが精神に宿っ 来ようとは。 たことを、私は感じた。どんな錯雑した論理の委曲も、ど いんえ、 みのが ちかごろ んな徴妙な心理の陰翳も、今は見遁すことがあるまいと思 生命力の衰退であろうか ? しかし近頃は、二三ヶ月前 とん に比べて身体の調子もずっと良いのだ。気分の波の高低はわれた。私は殆ど幸福でさえあった。 かなりあるにしても、精神の活気も大分取戻しているのだ。昨夜、私の「ウィア・オヴ・ ーミストン」は大いには そ 風景などを眺めても、近頃は、強烈な其の色彩に、始めてかどった。 仆ど 南海を見た時のような魅力を ( 誰でも三四年熱帯に住めば、所で、今朝その酷い反動が来た。胃のあたりが鈍く重苦 それを失うものだ ) 再び感じている位だ。生きる力が衰えしい感じで、気分が冴えなかった。机に向って昨夜の続き はず こ 5 ふんやす ほおづえ 夢 ている筈はない。ただ最近多少昂奮し易くなったことは事を四五枚も書いた頃、私の筆は止った。行悩んで頬杖をつ A 」 風実で、そういう時、数年間まるで忘却していた過去の或る いていた時、ひょいと、一人の惨めな男の生涯の幻影が頭 光情景などが、焙り出しの絵の様に、突然ありありと、其のの中を通り過ぎた。その男は、ひどい肺病やみで、気ばか におい よみがえ うぬぼれ 色や匂や影まで鮮やかに頭の中に蘇って来ることがある。り強く、鼻持ならない自惚やで、気障な見栄坊で、才能も ないくせに一ばしの芸術家を気取り、弓、 何だか少し気味が悪い位に。 弓し身体を酷使して おれ なが なんじ なぞ しつよう みえばう
174 なっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆の亡霊のように私には見えるのだった。 ある朝・ー・ー・其頃私は甲の友達から乙の友達へという風に いろガラスたい それからまた、びいどろと云う色硝子で鯛や花を打出し友達の下宿を転々として暮していたのだが・ーー友達が学校 * ナンキンだま てあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぼつねんと一人 な またそれを嘗めて見るのが私にとって何ともいえない享楽取残された。私はまた其処から彷徨い出なければならなか かす だったのだ。あのびいどろの味程幽かな涼しい味があるもった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に云 だがしゃ しか のか。私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られた ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立留ったり、 なが はしえびばうだらゆば おちぶ ものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落魄れた乾物屋の乾蝦や棒鱈や湯葉を眺めたり、とうとう私は二条 くだものや よみがえ さわや 私に蘇ってくる故だろうか、全くあの味には幽かな爽かの方へ寺町を下り、其処の果物屋で足を留めた。此処でち よっと其の果物屋を紹介したいのだが、其の果物屋は私の な何となく詩美と云ったような味覚が漂って来る。 察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。とは云知っていた範囲で最も好きな店であった。其処は決して立 えそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露 ぜいたく かなりこうばい 慰める為には贅沢ということが必要であった。二銭や三銭骨に感ぜられた。果物は可成勾配の急な台の上に並べてあ のものーーと云って贅沢なもの。美しいものーーーと云ってって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったよう アツレグロ むしこ そう云ったに思える。何か華やかな美しい音楽の快速調の流れが、見 無気力な私の触角に寧ろ媚びて来るもの。 ものが自然私を慰めるのだ。 る人を石に化したというゴルゴンの鬼面・ー・・・・的なものを差 むしは 生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所しつけられて、あんな色彩ゃあんなヴォリウムに凝り固ま は、例えば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオ 1 ド ったという風に果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけ にんじんば しゃれ うずたか キニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持ばゆく程堆高く積まれている。ーー実際あそこの人参葉の こはくいろひすいいろ せつけんたばこ った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。美しさなどは素晴しかった。それから水に漬けてある豆だ くわい とか慈姑だとか。 私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。 どおり にや また其処の家の美しいのは夜だった。寺町通は一体に賑 そして結局一等いい鉛筆を一本買う位の贅沢をするのだっ しか そのころ た。然し此処ももう其頃の私にとっては重くるしい場所にかな通りでーーーーと云って感じは東京や大阪よりはずっと澄 かざりまど 過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取んでいるがーー飾意の光がおびただしく街路へ流れ出てい ため びん そそ さが
霊と、昨夜一晩戦い続け、竟に死霊共は負けて、暗い夜不可能などというものは無いような気がして来る。話して こちらまで いる中に、何時か此方迄が、富豪で、天才で、王者で、ラ ( そこが彼等の住居である ) へと逃げて行かねばならなか ンプを手に入れたアラディンであるような気がして来たも ったのだと。 のだ : ・ オールド・ファミリア・プエイジイズ 昔の懐かしい顔の一つ一つが眼の前に浮かんで来て仕方 六月 x 日 コルヴィンの所から写真を送って来た。ファ = イ ( 感傷がない。無用の感傷を避けるため、仕事の中に逃れる。先 日から掛かっているサモア紛争史、或いは、サモアに於け 的な涙とは凡そ縁の遠い ) が思わず涙をこぼした。 友人 ! 何と今の私にそれが欠けていることか ! ( 色る白人横暴史だ。 色な意味で ) 対等に話すことの出来る仲間。共通の過去を とうちゅう しかし、英国とスコットランドとを離れてから、もう丁 有った仲間。会話の中に頭註や脚註の要らない仲間。そん ざいな言葉は使いながらも、心の中では尊敬せずにいられ度、四年になるのだ。 ぬ仲間。この快適な気候と、活動的な日々との中で足りな 五 いものは、それだけだ。コルヴィン、・ハクスタ 1 、・ ・ヘンレイ、ゴス、少し遅れて、ヘンリイ・ジェイムス、 おれ サモアに於ては古来地方自治の制、極めて 思えば俺の青春は豊かな友情に恵まれていた。みんな俺よ ほとん ぎようこ なかたが 鞏固にして、名目は王国なれども、王は殆ど政 り立派な奴ばかりだ。ヘンレイとの仲違いが、今、最も痛 ことごと こちら 治上の実権を有せず。実際の政治は悉く、各 切な悔恨を以て思出されゑ道理から云って、此方が間違 りくっ 地方のフォノ ( 会議 ) によって決定せられたり。 っているとは、さらさら思わない。しかし、理屈なんか問 まきひげ 王は世襲に非ず。又、必ずしも常置の位にも非ず。 夢題じゃない。巨大な・捲廬の・赭ら顔の・片脚の・あの男 古来此の諸島には、其の保持者に王者たるの資 風と、蒼ざめた痩せっぽちの俺とが、一緒に秋のスコットラ 格を与うべき・名誉の称号、五つあり。各地方 とンドを旅した時の、あの二十代の健かな歓びを思っても見 しゅうちょう の大酋長にして、此の五つの称号の全部、も ろ。あの男の笑い声 . ーー「顔と横隔膜とのみの笑ではなく、 ある しくは過半数を ( 人望により、或いは功績によ 頭から皿ご及ぶ全身の笑」が、今も聞えるようだ。不思議 り ) 得たる煮推されて王位に即くなり。而し な男だった、あの男は。あの男と話していると、世の中に あお もっ およ あか こ あら
六月 x x 日 ほんの僅かの時が経てば、私も、英国も、英語も、わが子 消化不良と喫煙過多と、金にならぬ過労とで、全く死に孫の骨も、みんな記憶から消えて了うだろうに。しかも ェップ・イド べージまでようやたど そうだ。「退潮」百一頁迄漸く辿りつく。一人の人物の それでも人間は、ほんの暫しの間でも人々の心に自分 とど 性格がはっきりめない。それに近頃は文章に迄苦労するの姿を留めて置きたいと考える。下らぬ慰みだ。・ ェップ・タイド んだから、話にならぬ。一つの文句に半時間かかる。色々 こんな暗い気持にとりつかれるのも、過労と、「退潮ー むやみ な類似の文句を無闇に並べて見ても、中々気に入るのが見の苦しみとの結果だ。 付からない。斯んな樊迦げた苦労は、何ものをも産みはせ じようりゅう ぬ。くだらぬ蒸溜だ。 六月 x x 日 ェップ・イド あんしよう 今日は朝から西風、雨、飛沫、冷々とした気温。ヴェラ 「退潮」は一時暗礁に乗上げたままにして置いて、「エ ンジニーアの家 . の祖父の章を書上げた。 ンダに立っていたら、ふと、或る異常な ( 一見根拠のな ェップ・タイド い ) 感情が私を通って流れた。私は文字通り、よろめいた。「退潮」は最悪の作品に非ざるか ? それから、やっと説明がついた。私は、スコットランド的 小説という文学の形式ーーー少くとも私の形式ーーが厭に な雰囲気とスコットランド的な精神や肉体の状態を見出しなって来た。 みもら たからだと悟った。平生のサモアとは似てもっかない・こ医者に診て貰うと、少し休養をとれ、と云う。執筆を止 の冷々とした・湿っぽい・鉛色の風景が、私を何時しか、 めて軽い戸外運動だけにすることだと。 そんな状態に変えていたのだ。ハイランドの小舎。泥炭の ますおどうずま 。今此 煙。濡れた着物。ウイスキイ。鱒の躍る渦巻く小川 処から聞えるヴァイトウリンガの水音までが、ハイランド 夢の急流のそれの様な気がして来る。自分は何の為に故郷を医者というものを、彼は信用しなかった。医者はただ、 まで 風飛出して、こんな所迄流れて来たのか ? 胸を締めつけら一時的の苦痛を鎮めて呉れるだけだ。医者は、患者の肉体 とれる様な思慕を以て遠くからそれを思出すために、か ? の故障 ( 一般人間の普通の生理状態と比較しての異常 ) を ひょいと、何の関係もない・妙な疑念が湧いた。自分は今見出しはするが、其の肉体の障害と、その患者自身の精神 これ まで 迄何か良き仕事を此の地上に残したか ? と。之は怪しい生活との関聯とか、又、その肉体の故障が、其の患者の一 ものだ。何故又私は、そんな事を知りたいと望むのか ? 生の大計算の中に於て、どの程度の重要さに見積らるべき ふんいき しぶき あ ため でいたん こ わず かんれん た あら
304 て、通常五つの称号を一人にて兼ね有する場合 ( 此の男は若い人道家で、商会の土人労働者虐待に反対し は極めて稀にして、多くは、王の他に、一つ或たので ) と衝突して之を辞めさせたこともある。アビアの みさき いは二つの称号を保持する者あるを常とす。さ西郊ムリヌウ岬から其の附近一帯の広大な土地が独逸商会 ココア、。ハイナップル等を栽 れば、王は、絶えず、他の王位請求権保持者のの農場で、其処でコーヒー 存在に脅されざるを得ず。かかる状態は必然的培していた。千に近い労働者は、主に、サモアよりも更に に其の中に内乱紛争の因由を蔵するものという未開の他の島々や、或いは遠くアフリカから、奴隷同様に して連れて来られたものである。 むら ・・ステェア「サモア地誌」 過酷な労働が強制され、白人監督に笞打たれる黒色人褐 色人の悲鳴が日毎に聞かれた。脱走者が相継ぎ、しかも彼 一八八一年、五つの称号の中、「マリエトア」「ナトアイ等の多くは捕えられ、或いは殺された。一方、遙かに久し うわさ しゅうちょう い以前から食人の習慣を忘れている此の島に、奇怪な噂が テレ」「タマソアリイ」の三つを有つ大酋長ラウペパが 卩、こ。「ツィアアナ」の称号を有っタマ弘まった。外来の皮膚の黒い人間が島民の子供を取って喰 推されて王位に只しナ ないし セセと、もう一つの称号「ツィアトウア」の持主マターフうと。サモア人の皮膚は浅黒、乃至、褐色だから、アフリ アとは、代る代る副王の位に即くべく定められ、先ず始め力の黒人が恐ろしいものに見えたのであろう。 島民の、商会に対する反感が次第に昻まった。美しく整 にタマセセが副王となった。 ごと はげ 理された商会の農場は、土人の眼に公園の如く映り、其処 其の頃から丁度、白人の内政干渉が烈しくなって来た。 以前は、会議及び其の実権者、ツラファレ ( 大地主 ) 達が王へ自由に入ることが許されぬのは、遊び好きな彼等にとっ を操っていたのに、今は、アビアの街に住む極く少数の白て不当な侮辱と思われた。折角苦労して沢山のパイナップ これ 人が之に代ったのである。元来アビアには、英、米、独のルを作り、それを自分達で喰べもせずに、船に載せて他処 三国がそれぞれ領事を置いている。併し、最も権力のあるヘ運んで了うに至っては、土人の大部分にとって、全く愚 ドイツ のは領事達ではなくて、独逸人の経営にる南海拓殖商会にもっかぬナンセンスである。 であった。島の白人貿易商等の間に在って、此の商会は正夜、農場へ忍び入って畑を荒すこと、之が流行になった。 かっ しく小人国のガリヴァァであった。曾ては此の商会の支配之は、ロビンフッド的な義侠行為と見做され、島民一般の もちろん 人が独逸領事を兼ねたこともあり、又其の後、自国の領事喝采を博した。勿論、商会側も黙ってはいない。犯人を捕 まれ しか こ しよく ひろ かっさい ごと これや ある ある ぎきよう せつかく これ かっ