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検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-7 嘉村礒多 梶井基次郎 中島敦集
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1. 現代日本の文学 Ⅱ-7 嘉村礒多 梶井基次郎 中島敦集

城のある町にて 183 う子 持 る っ ー 1 ー 1 ー 1 は袖く勝ゃな う 活か * ゆ姉そ衣 : あ姉間 が姉っさ奥 て扇 、のな子がどど の煙 : 子 がう嚢しん う 」っ がて あ う がに 呼長さ 、ん種来 合やにた義姉 、間管るな と んやど て 、い姉仕奥な々た 、兄も をまし 音点なあ / し . での 。ん信詰かを と 活や れ . 合 . 。る 度の 扇に信 むと 勝 動 た服と が間持衣砂な 婦 つどさ点あけ子 子 義 糖はのた 子や まを の 出 せなれどは で服 う の 、を屋奈ど はあ ま着母娘来気 仕のでてども た配ま着な何う度をも煙し汚三 兄 く ムがのにた どやを 気 ま ぇ 、草こて の 近 手 っそ で心どながな えをゆて に な所たこ峻をん し配伝しわ 呑の つま - つ の 。らはやな ってなんくす も っ と に カ 、子 っ 風い 。で に て り の ムて い で 女 ム 一等 いきたでる 行 - 早 い捜 つやた ・つ 着き 。うた っ へり て の し、の っ し の 子 あな す下し附。をた団ち うて 仕兄カ り が 度はけ でりたけ見 団扇わい 化 っか 、て 。をな扇をナ は い雑き よ下げ で二義 や しが や を の っ ぼ駄た し てらあ三母 ん を し 0 て・ 、る本カ た つを し い て て穿は る彼 。寄 い じ と る やし、 だは た せ ゆ 勝 ろ信 ム う った て ナこ に た で の ー 1 ー 1 ー -1 ー 1 。勝 、往 ム勝姉そ勝お見姉早 し朝う朝し 義い よ ヨ ち今 よ鮮う 魚羊 来 待、 子が ん子 えと う兄ゃう よ のわ 、そなはちた信おがらち や 晩に う 閣ん閣 う なん ち は 涼 の帰う ら小遠 。子出い出 しえ せ ん 力、 。ん 、み、 がでて し . へや ムおさ ささ ろ と か 此こ今台 入ん帰う 母 し 、ま つ出な来 幼 , ? 。た う く 処こ晩 さ扇 稚 . つなろ と て 勝 の来放ほ。園 何は出 んを か ム 行 、ち子団 、し 来勝わ て ナこ ・つ く と、と 行らは扇 た 子ん 晩 か て の 。を白い く 。は っと こ、声し の て見勝 そ返や 一粉て をる は と し事ん 来 か近 せ子つをゆ あ ま 、ず濃く 彼け て 所 のな れ ま て た の 峻カ す姉 扇 つ く・ぞ はた や 。人 と に持持はな そ はわ で ん ・つ り義 び 手 ん わ っ い とつ て な と を に母 いててた が ロ気よ っる い顔 ひ る と い真ま勝 きか が る て似ね子 を 通 訊き り 歩を冫 け や 日み い す き た しム が 出 て 見 し設た り ん

2. 現代日本の文学 Ⅱ-7 嘉村礒多 梶井基次郎 中島敦集

どに宿している死んだ義兄の面影をそのまま見出した。 兄の許に送ったが、義兄は一と眼視て、「上のほうは先き 「豊ちゃん、お父さんを覚えているかね ? 」 でおれを覚えているかもしれないが、下のほうは何も分る 「別段覚えようと思うとらんか 0 たから覚えとりませんが、まい」とくなり、直ぐべッドの下に隠してしま 0 たとい おも うる そえでも写真を見りやこねな顔じゃったぐらい思い出しまうことなど憶い出して、私は声の自然とむのを感じた。 す」 , 「豊ちゃんも、とうとう一人ぼっちだな、僕の田舎の子供 「何年になるかなあ、ちょうど暑い時分であったが : : : 」も一人・ほっちだし、将来仲好く助け合ってくれないか、頼 「この八月十二日が七回忌に当るちゅうことで、秀郎の三むよ」 周忌と合せて法事をするから、それまでにや戻って来い 私は、カッ子が座を外した時だったので期う覚えず愚痴 ちゅうてお母さんが言いました。」 をこ・ほして、返事に窮した豊次の顔を見ると、極り悪くな 「ああ、そうそう、秀ちゃんが亡くなったんだってな ! 」 む くだもの 秀郎の身體ったことは、本郷に居たころ父の便りを読ん カッ子が果物の皮を剥きながら代って話相手になってく すこぶひょうぎん かんてん で知った。豊次の黙んまりやと異って秀郎は頗る剽軽ものれたので、私は腿邁いになってタ刊を見ていた。旱天三旬、 ようせつ とて で、今にして思うと夭折するだけに迚も普通でないほど人立秋も近づいたというのにここ数日来の炎熱、しかし、武 いとけな なっこく、殊に稚いながら兄の豊次に篤かった。さして蔵野の空をよぎる雲の色にも、わくら葉にそよぐ風の音に ひょわ 脾弱な方とは思っていなかったが、豊次の話すところによも何処かほのかに秋の気は動いで田園の夏はゆたかにたけ ると、小学校の教室で貧血から眩輦を起し、その度に豊次た、黒土のめぐみに旱魃にもめげぬ稲の伸び、畑の収穫の ほうじよう が負ぶって帰るようなことは度々だったというのである。すばらしさーーーそうした文字を拾って行って、田園豊穣の わずら とうとう患いついて脳膜炎を併発して果てたこと、電話が景を載せた写真の、畑中に立っている大きな朝鮮牛に眼を ぬれえん でかかって来て学校から豊次が帰って濡縁に腰掛けていると、やると、私は思い出したように、 なきがら っ姉は冷たくなった秀郎の亡躯を抱いて人力車で町の病院「豊ちゃん、叔父さんとこの牛は、まだ生きているかね 立から帰って来たこと、その死の前後を断片的に豊次から聞 ? 」と、跳ね起きて訊いた。 うめ いているうち、義兄が九州の大学病院で死の床に呻いてい 「あ、あれかの、ありや去年の春休みにわたしが村へ行っ 四る時、私の家に預っていた豊次と秀郎とを、私は自転車にた時に売ってでありました」 乗って町から早取り写真屋を連れて来て写真に撮って義「やつばし売ったのか。飼い殺しにするとか言っていたの へいはっ あっ さしの どこ よらま かんばっ なかよ み

3. 現代日本の文学 Ⅱ-7 嘉村礒多 梶井基次郎 中島敦集

も来ないのによちょちと歩いて、エヘラエヘラ薄気味わる ぜん 「まだ下可ん」 く笑いながら汚れた指で膳の上のものを撮んだりされると、 と、ロの中で答えて猶も私は依怙地に黙り切 0 ていた。私は厭気のさす自分の心を強く 0 ても、自然と根を ただ りようてひざ 房子も手のつけようがなく唯身じろぎもしないで両掌を膝めないではいられなかった。 かしこ の上に重ねたままきちんと畏まっていた。ちらとぬすみ視翌朝私は独りあたたかい寝床を離れ兼ねていると、潔が くびねしらじら ぶっちょうづら をすると彼女は頸を捩じ白々しい仏頂面を外方に向けた。 自分を芝居に誘ったらどうだろうと台所で母と相談する声 やが せきばら 軈て潔の咳嗽払いが聞えた。私は潔の心づくしに対して済が手に取るように聞えた。「そやぜひ伴れて行きなさんせ。 まないと思えて来て焦り焦りする心をいい加減なところで気散じにもなるし、ちったあ人間が開けて好えから」と母 は言っていた。 切上げねばならなかった。 げいごと 「房さんの方は ? 」 遅朝食の時潔はそれを言い出した。鳴物などの芸事には かげさま 「お蔭様で痛みだけは大方とれましたの。ひどい我儘して生来興味の疎い私のことだから別段気がすすみはしなかっ たけれど、潔の折角の言葉とあれば断りづらく承知の旨を 心配かけて申訳ありません。赦えて下さんせ」 くちもとすほ 房子はロ許を窄めて優しく言った。私は急に機嫌を取直答えた。 した。折から乱れた跫音がして、房子の父や母や、祖父や、芝居とあれば璢をぬかすたちの潔は喜び勇んで早速床屋 末弟の負ぶった妹やが帰って来て室内の話声を聞きつに出かけて行 0 た。そして慌しく帰って来ると、机の上 けると気色立って縁側から上 0 て来た。そしてどやどやとに立ててある鏡に剃立ての顔を映し、蒼味を帯びたや あいさっ なでさす 騒がしくかわるがわる挨拶した。 頬の辺を撫摩りながら、自分の色男振りに見惚れるかのよ 程なくご馳走が運ばれて酒になったが、又しても私の気うに飽かずに眺めていた。その時私は妙な気持の上から潔 むやみ ひざ 分は無闇に沈んだ。私は不断から融を見る度に言いようのに対して馴れ馴れしくしたくなくて、膝も崩さず腕組みし 日 るないへんな不快に襲われた。融は、私達の結婚後間もなく、 たまま冷々と対座していた。其処へ房子がって来ると と房子の父が六十を過ぎ、母が五十近くにもなって出来た子潔の顔に眼を遣って、 父供なので、房子も父母も軽蔑されることをれてか、当分「ほう、綺麗にな 0 たこと、剃跡が蒼々して : ・ : ・」と言っ かくま の間は私に見せないように匿っていた程だった。私の父母たと同時に、彼女は私の顔に眼を落して言った。「久松さ くちひげ も多分まだ知ってないだろうと私は思っている。未だ誕生んにやロ髭たら一本もありやせんわの。抜くこた止めて、 ちそう じ こら をげん わがまま なが

4. 現代日本の文学 Ⅱ-7 嘉村礒多 梶井基次郎 中島敦集

162 とうかん て投函を頼んだ。吉三は軒下で子供の自転車を股の間に択顔をした。 のどい み、ス。 ( ナで捩子をゆるめて ( ンドルを引き上げ、腰掛け「よう喉入りがした。実はのう、われが東京で文士をしち かわしも よるいうので、オラ、川下の藤田白雲子さん、あの方も昔 を引き上げして、片足をベタルにかけるとひらりと打跨っ 東京で文士をしとりんされたんで、聞いて見たところ、文 て出て行った。 士といや名前ばっかり広うて、そやお話にならん貧乏なも 父は足を洗って居間に来、私とユキとに取り巻かれて、 のやそうな。大学を出とりんさる藤田さんでも、とうどう 手柄話の委細を重ねて訊き返した。 おっしゃ 「そんで、その x x 雑誌にわれの書き物が出るとなると、見限ったと仰言れた」 ちゅうちょ せとひばち と父は瀬戸火鉢の縁を両手で鷲づかみにして躊躇した後、 どういう程度の出世かえ ? 」 多少の堕落と疚しさとを覚えながらも、勢いに釣られて「 : : : 今じやから言うがのう。われが東京へ逃げて行った すこぶおおげさ 私は頗る大袈裟に、適例とも思えないことを例に引いて説時、村の人が、どんだけわれがこと・ ( カ・ハカ言うたかい。 聞雲の高等学校の佐川一太が文部省の講習会に行ったつい 明した。 せんべいや でとやら、われが二階借りの煎餅店の女房に聞いたいうて、 「なる程、あらまし合点が入った」 「じゃ、われ、この次に戻る時にや金の五千八千儲けて戻ユキさんに縫物をさせて一合二合の袋米を買うて情ない渡 ふすまぎわっめ ってくれるかえ ? 」と何時の間に来たのか襖際に爪をかみ世しちよるちゅうて近所の衆に言い触らし、近所の者ア手 たた を叩いて笑うたぞよ。おおかた、一太めが、煎餅の二三十 ながら立っていた母が突然口を出した。 とてつ 「いや、途轍もない、そうはいかん。そりや松美の教育費銭がほど買うて女房から話をつり出したろうが、高等学校 の先生ともあるもんが、腐ったオナゴ共のするような真似 とか、その他ホンの少額のことは時おりアレしますけど、 さら そんな減法なことが、どうして : : : 東京でも田舎で食べるをして、オラが子の恥じを晒すかと思うて、その晩は飯も あか ようなものを食べて、垢光りに光った木綿を着て、倹約し喰わず眠れんかった。有体に言や、われを恨んだそよ。そ おくびよう て臆病にしているからこそ暮せてるんですしね。私の場合んじゃが、三年前われの名前が小学校の先生に知れてから、 もっと だけ は、ただ名誉という丈ですよ。尤も、お母さんの金歯だけ前程・ ( カ・ ( カ言わんようなった。山上の光五郎ら、天長節 の祝賀会で、親類の居る前で、われがこと字村の名折れじ は直ぐ入れて差し上げましよう やと言うたぞよ。治輔めが飲食店で人の多人数おるとこ 両親を失望させまいとはするものの、もう斯うなれば、 私は心の中を完全に伝えることは不可能だと思って、暗いろで、家の下男がおるのに、聞いて居れんわれが悪口を言 もめん また うちまたが ありてい わし

5. 現代日本の文学 Ⅱ-7 嘉村礒多 梶井基次郎 中島敦集

かすちゅうて、お袋が言うたいの」 私はロをもぐもぐさすばかり、むやみにそわそわして、 そして続けて、「お父さんが、向うに戻れたそい」と言何んだかひょっとしたら小説が組み置きにでもされそうな 予感がして、私はそれを打消そうと一一三度強く頭を振り、 私とユキとは縁側に出た。左右に迫った小山も、畑も、無性に吉三が待ち遠しく、 田も、悦びに盛り上って見えた。高い屋敷からは父の姿は 「松ちゃん、浅野間のお袋に炭焼窯まで大急ぎで呼びに行 でこまこ いいっ 見えなかったが、杉林の間の凸凹した石塊路をガタガタ車くよう吩咐けて来い。愚図愚図してるなって、大至急の用 おど 輪が躍っている音が、清澄な空気の中に響いた。と母は、事だからって」と権柄がましく言った。 なび ほ - 」り てぬぐい 埃だらけの髪の後にくくった手拭の端をひらひら靡かせな瞬く間に、松美が自転車を乗りつけると、お袋はあわて がら、自転車を押した松美と並んで車を挽いた父に、林のたように背戸の石段を下りて川の浅瀬の中の飛石を渡って はず こうばい あぜ 外れで迎え着いた。父と母とはちょっと立ち話をしていた麦田の畦を走り、枯萱の根っこにつかまって急勾配の畑に くまざさ が、直ぐ母は小車の後を押し、首に手拭を巻いた父は両手上り、熊笹の間をがさがさ歩いて雑木山の中に消えたのを、 かじばう で梶棒をつかみ、こっちに薬鑵のような頭のてつべんを見じいっと私は眼を放さずに見ていて、何かぐッと堪え難い にわかおおまた あぎとかずら せ、俄に大股に急ぎ出した。梶棒の先には鰓に葛蘿を通しものが心を圧えた。間もなくボロ洋服を着て斧をさげた吉 か た二尾の鯖がぶらんぶらんしていた。 三が、息せき切って家に駈けつけた。 「お仕事中をお呼び立てして、どうもお気の毒でした。あ 屋敷前の坂路を一気に挽き上げた父は雌先に車を置き 0 てぬぐい 放すが早いか、手拭で蒸気の立っ頭や顔を拭き拭きせかせなたは電報を打てますね ? 実は非常に大事な電報なんで かと縁先に来て、「えろう立身が出来たちゅうじゃないか」してね」 そう」う 「はあ、よう存じております」 と、相好をくずした輝いた笑顔で問いかけた。 婚私は一伍。一什を掻いつまんで話した。呼吸がせわしくな「吉さんなら、間違いないて。広島の本屋へ二年も奉公し くちびる 結 り、唇も、手もふるえた。思うよう喜びが伝わらないのとったけに」 もどか 前 と父のロ添いで私は安心し、ノートの紙片に書いた電文と をユキも牾しがって横合から、 神 「お父さま、ほんとうに喜んで下さい。大そうな立身でご銀貨一一箇と、それから別に取り急いで毛筆でしたためた、 こうおん ざいますの。これで、ほんとに一人前になられましたか御葉書父の家にて拝見致し感謝の外これなく御鴻恩心肝に 徹して一生忘れまじく候ーー・といった封書も一しょに渡し ら」と、割込むようにして話を引き取った。 よろこ さかみち やかん いしころみち おさ かれかや おの

6. 現代日本の文学 Ⅱ-7 嘉村礒多 梶井基次郎 中島敦集

も鎮まった朝の空気をどよもして手に取るように意地悪くて歩いた。故郷に援助を求めることも男のいつばしで出来 すてばち 聞えて来る。彼は忌々しさに舌打ちし、自棄くそな捨鉢のないのだ。彼は一切の矜りを棄てていた。社会局の同潤会 そらうそぶ 気持で空嘯くようにわざとロ笛で拍子を合わせ、足で音頭へ泣きついて本所横網の焼跡に建てられた怪しげな・ハラッ あいよく をとっていた。が、何時しか眼を瞑ってしまった。「愛慾クの印刷所に見習職工のロを貰ったが、三日の後には解雇 しちゅう か ようようみようみようべつりくちょう 之中。 : : : 窈窈冥冥。別離久長」嘗って学舎で師に教された。彼は気を取り直して軒先にぶら下っている「小僧 そら きようもん そうじよう わって切れ切れに諳んじている経文が聞えると、心の騒優入用」のポール紙にも、心引かれる思いで朝から晩まで街 ぐ てんどう てちそうこれんぐうにちそちさい は増した。「顯倒上下。・ : : ・迭相顧恋。窮日卒歳・ : ・ = 愚から街を歩いた。上野の市設職業紹介所には降る日も欠か わくしよぶ ふすまえり 惑所覆」・ーー - らくすると、圭一郎は被衾の襟に顔を埋めさず通って行って、そして、迫り来る饑じさにグウグウ鳴 両方の拳を顳にあて、お勝手で鯡の支度をしている千る腹の虫を耐えて渋面つくった若者や、腰掛の上に仰向け し がんか おちくほ 力いこっ になっている眼窩の落窪んだ骸骨のようなよ・ほよぼの老人 登世に聞えぬよう声を物み緊めてしくりしくり哭いていた。 しほ しきぶとん 彼は奮然として起き直り、敷蒲団の上にかしこまって両手や、腕組みして仔細らしく考え込んでいる凋んだ青瓢簟の そろ を膝の上に揃え、なにがなし負けまいと下腹に力を罩めてような小僧や、そうした人達の中に加って彼は控所のべン チに身を憩ませた。みんなが皆な、大きな声一つ出せない 反衝するような身構えをした。 むち おれ ひから そうした毎朝が、火の鞭を打ちつけられるような毎朝が、ほど窶れて千乾びている。と中に、セルの袴を穿いて俺は 来る日も来る日もつづいた。が、圭一郎もだんだんそれに失業者ではないそと言わぬ顔に威張り散らし、係員に横柄 な 馴れて横着になっては行った。 な口を利く角帽の学生を見たりすると、初めの間はその学 のぞ 師は、ともかく一応別居して二人とも師の信念を徹生同様に袴など穿いて方々の職業紹介所を覗いていた時の まっしよう 底的に聴き、その上でうわずった末梢的な興奮からでなしケチ臭い自分の姿を新に奐起して圭一郎は恥ずかしさに身 下に、真に即く縁のものなら即き、離る縁のものなら離るべ内の汗の冷たくなるのを覚えた。横手のガ 1 ドの下で帽子 しというのであったが、しかし、長く尾を引くに違いないに白筋を巻いた工夫長に指図されて重い鉄管を焦げるよう の 後に残る悔いを恐れる余裕よりも、二人の一日の生活は迫な烈日の下にえんさこらさと掛声して運んでいる五六人の 崖 りに迫っていたのである。父の預金帳から盗んで来た金の人夫を彼は半ば放心して視遣っていた。仕事に有付いてい まぢか せんぼう 尽きる日を眼近に控えて、溺れる者の実に一本の藁をむるというだけで、その人夫達がこの上もなく羨望された。 気持で、圭一郎は一人の責縁もない広い都会を職業を探し又次の日には千登世と一一人で造花や袋物の賃仕事を見つけ ひざ か っぷ わらっか あおびようたん

7. 現代日本の文学 Ⅱ-7 嘉村礒多 梶井基次郎 中島敦集

こつけい ぜんう 俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への初め一概に野卑滑稽としか映らなかった胡地の風俗が、 友情を以てしても、まださすがに自信が無い。考えることしかし、その地の実際の風土、気候等を背景として考えて見 きら しゅんめ の嫌いな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬を駆つると決して野卑でも不合理でもないことが、次第に李陵に さくほく - 一うや いっぺき かっかつひづめ て曠野に飛び出す。秋天一碧の下、戛々と蹄の音を響かせのみこめて来た。厚い皮革製の胡服でなければ朔北の冬は て草原となく丘陵となく狂気の様に馬を駆けさせる。何十凌げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪えるだけの精 たくわ 里かぶっとばした後、馬も人も慚く疲れてくると、高原の中力を貯えることが出来ない。固定した家屋を築かないのも けな ほとり みす の小川を求めてその滸に下り、馬に飲かう。それから己れは彼等の生活の形態から来た必然で、頭から低級と貶し去る まで 草の上に仰向けにねころんで、快い疲労感にウットリとしのは当らない。漢人の風を飽く迄、保とうとするなら、胡地 いえど へきらくきょ ながら見上げる碧落の潔さ、高さ、広さ。ああ我もと天地の自然の中での生活は一日と雖も続けられないのである。 おぼ しょていこうぜんう かっ 曾て先代の且侯単于の言った言葉を李陵は憶えている。 間の一徴粒子のみ、何そ又漢と胡とあらんやと、不図そんな きようど 気のすることもある。一しきり休むと又丐に跨がり、がむ漢の人間が二言目には、己が国を礼儀の国といい、匈奴の もつぎんじゅう しやらに駈け出す。終日乗り疲れ黄雲が落暉にずる頃に行を以て禽獣に近いと見做すことを難じて、単于は言った。 ようや ただ なって漸く彼は幕営に戻る。疲労だけが彼の唯一つの救い漢人のいう礼儀とは何ぞ ? 醜いことを表面だけ美しく飾 わた り立てる虚飾の謂ではないか。利を好み人を嫉むこと、漢 なのである。 司馬遷が陵の為に弁じて罪を獲たことを伝える者があ 0 人と胡人と何れか・茜しき ? 色にり財を貪ること、又 た。李陵は別に有難いとも気の毒だとも思わなかった。司何れか甚しき ? 表べを知ぎ去れば畢竟何等の違いはない これ あいさっ 馬遷とは互に顔は知っているし挨拶をしたことはあっても、筈。ただ漢は之をごまかし飾ることを知り、我々はそれを 特に交を結んだという程の間柄ではなかった。むしろ、冊知らぬだけだと。漢初以来の骨肉相喰む内乱や功臣連の排 ほとん に議論ばかりしてうるさい奴た位にしか感じていなかった斥擠陥の跡を例に引いてこう言われた時、李陵は殆ど返す いままで 陵 のである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するに言葉に窮した。実際、武人たる彼は今迄にも、煩瑣な礼のた は、余りに自分一個の苦しみと闘うのに懸命であった。余めの礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったから まで 李 計な世話と迄は感じなかったにしても、特に済まないと感である。たしかに、胡俗の粗野な正直さの方が、美名の影に 隠れた漢人の陰険さより遙かに好ましい場合が屡々あると じることがなかったのは事実である。 思った。諸夏の俗を正しきもの、胡俗を卑しきものと頭か ようや また くん しの はず せいかん はる あいは はんさ

8. 現代日本の文学 Ⅱ-7 嘉村礒多 梶井基次郎 中島敦集

る。李陵が全軍を停めて、戦闘の体形をとらせれば、敵はは一言のふれる所も無い。澗間の凹地に引出された女共の しまら かんだか はくせん 馬を駆って遠く退き、搏戦を避ける。再び行軍をはじめれ疳高い号泣がくつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑ま ちか ば、又近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減れたようにフット消えて行くのを、軍幕の中の将士一同は ずるのは固より、死傷者も一日ずつ確実に殖えて行くので粛然たる思いで聞いた。 おおかみ 翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思 ある。飢え疲れた旅人の後をつける曠野の狼のように、 いきり快戦した。敵の遺棄屍体三千余。連日の執拗なゲリ 匈奴の兵は此の戦法を続けつつ執念深く追って来る。少し あげく ずつ傷けて行った揚句、何時かは最後の止めを刺そうと其ラ戦術に久しくいら立ち屈していた士気が俄かに奮い立っ もとりようじよう したが た形である。次の日から又、故の龍城の道に循って、南 の機会をっているのである。 きようど とおまぎ かえ 且っ戦い、且っ退きつつ南行すること更に数日、或る山方への退行が始まる。匈奴は又しても、元の遠捲戦術に還 谷の中で漢軍は一日の休養をと 0 た。負傷者も既にかなり 0 た。五日目、漢軍は、澱の中に時に見出される沼沢地 はぎ でいわい の数に上っている。李陵は全員を点呼して、被害状況を調べの一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘も脛を没する深さ かれあしはら まわ た後、傷の一ヶ所に過ぎぬ者には平生通り兵器を執って闘で、行けども行けども果てしない枯葦原が続く。風上に廻 さくふうほのおあお こうむ なお った匈奴の一隊が火を放った。朔風は焔を煽り、真昼の空 わしめ、両創を蒙る者にも尚兵車を助け推さしめ、三創に れん して始めて輦に載せて扶け運ぶことに決めた。輸送力の欠の下に白っぽく輝を失った火は、すさまじい速さで漢軍に りりようす 乏から屍体はすべて曠野に遺棄する外は無かったのである。迫る。李陵は直ぐに附近の葦に迎え火を放たしめて、辛うじ * そじよち たまたま しちょうしゃ 此の夜、陣中視察の時、李陵は偶々或る輜重車中に男の服をて之を防いだ。火は防いだが、沮洳地の車行の困難は言語 しやりよう 纏うた女を発見した。全軍の車輛について一々取調べた所、に絶した。休息の地の無いままに一夜泥濘の中を歩き通し たど ようや 同様にして潜んでいた十数人の女が捜し出された。往年関た後、翌朝漸く丘陵地に辿りついた途端に、先廻りして待 は′、へい * りくあ 東の群盗が一時に戮に遇った時、その妻子等が逐われて西伏せていた敵の主力の襲撃に遭った。人馬入乱れての搏兵 はげ せん それら うち 陵 辺に遷り住んだ。其等寡婦の中、衣食に窮するままに、辺境戦である。騎馬隊の烈しい突撃を避けるため、李陵は車を さんろく しようふ 守備兵の妻となり、或いは彼等を華客とする娼婦となり果棄てて、山麓の疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。林間 たまたま 李 まるばるばくほくまで てた者が少くない。兵車中に隠れて々漠北迄従い来たっからの猛射は頗る効を奏した。偶々陣頭に姿を現した単于 ら れんど たのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女等を斬るべとその親衛隊とに向って、一時に連弩を発して乱射した時、 まえあし くカンタンに命じた。彼女等を伴い来たった士卒について単于の白馬は前脚を高くあげて棒立となり、青袍をまとう うつ したい とど ある - 」うや これ すこふ たにま したい くぼち にわ せいほう しつよう かろ ぜんう

9. 現代日本の文学 Ⅱ-7 嘉村礒多 梶井基次郎 中島敦集

いさ。百姓は百姓でも、ちったあ作法のある家だぞ。とりし、ただただ尋常にお受けしとれま、 ーしいが、先生への気 へんしゅう わけお袋など一ト通りや二タ通りの気むずかしさではない持とは全然別に、僕も十人もの編輯同人の中に混って、こ いたばさ んだから、お前との折れ合いで、おれが始終板挾みの苦労の頃では平助手の分に過ぎた扱いを受けていてさえ、三十 ひが を見るに決っているから、お前は町の場末あたりへかく過ぎての仕末の悪い僻みから自分の職分も忘れ、時には屈 しつけ まって置くより外仕様があるまい。幼い時から下等な躾ば辱だとも口惜しいとも思うこと、もっと同人の多かった先 じだらくほうだい しばしばまぶた かしで自堕落放題に育って来ているんだから、新しく品の頃には暖々瞼の熱くなることさえあったね。けれど、泣く ある真似は得覚えまい ! 」 も笑うもお前と一緒だと思えばこそ、共苦労だと思えばこ びたすら 「だって、そんなこと、今の場合に持ち出して、どうのこそ、夫婦の礼譲、そんなものに只管慰安を求めようとして おっしゃ うのってがみがみ仰言らなくたっていいでしよう。 わたし、来てるんだ。それが分らんのか。何も今度の着物を恩に着 かしこ 四五時間も畏まり通しに畏まって疲れて帰って来て、夕飯せるわけじゃないが、全体の生活にもちっと敬虔の心があ の支度をすれば遅くなるし、それに内藤さんもお腹を空かるなら、僕におなご共の食べ残りを : : : 」ここまで言って きわ ばかやろう しているので、一ト折食べて貰って、わたしも先方で箸を来るとかっと感極まって、「この馬鹿野郎、出て行け、馬 ちょうだい どこ つけなかったので、お鮨を少し頂戴していたんですもの。鹿奴、出て行け、何処へでも行っちまえ ! さあ出ろ ! 」 しやく たけ あなたは、内藤さんに食べさしたのが癪に触るんですか。 と、私は大粒の涙を撒き散らし声を絞って哮び狂った。 よ ・、いカき そんな食餓鬼みたいなことをつけつけ仰言るなんて、あな「あーれ、止して下さい、矢部さんの二階からーと、おゅ さえぎ たにも似合わない」と、彼女は滅多になく興奮して対抗しきの声で木立で遮った構えの大きい隣家を見ると、何時か ふじだな くりぬぎじゅうしん 編輯室の前庭の藤棚の小鳥へ刳抜銃身の空気銃を一発放っ たいかっ 「黙れ ! 」と、私は大喝を浴びせたが、喰い千切ってやり たので危険だと思えてらしめのため厳しく叱り飛ばして はら にわ はやし 日たいほど肚の中は煮え返っても、俄かに愛想がっき何も言やった腕白者の中学生が、三四人の女中ときやっきやっ囃 た らんかん こちらのぞ りいたくなくなって、らく胸へ頭を押しつけ腕を組んでい 立てながら欄干に身体を乗り出して此方を覗き込んでいた。 「矢部へ聞えたら何んだ、あの小僧野郎威彊るな」と、ひ きくよう 曇 くちもとてのひらおお 「おい、僕の言い分を聴け。 : 先生鞠養の恩に、、、 と声ふた声自棄に叫ぶ私のロ許に掌を掩おうとするおゅ ごう や、僕は先生の徳を謝そうなんて、そんな生意気な心は毫きを突き飛ばし、障子をしめて電気を消した。丁度その時 もない。僕の分際で報いられるような小つぼけなものでな 門の外で「どう遊ばしたんでございましよう」「ほんとう めった な し へんしゅう め ま けいけん

10. 現代日本の文学 Ⅱ-7 嘉村礒多 梶井基次郎 中島敦集

みまも うらら なが なまり された不幸な彼女の顔が真正面に見戍っていられなかった。来て、麗かな春日をぼかぼかと浴び乍ら、信州訛で、やれ こわいろ 圭一郎は、自分に死別した後の千登世の老後を想うと、福助が、やれ菊五郎が、などと役者の声色や身振りを真似 ふるいおと にぎや 篩落したくも落せない際限のない哀愁に浸るのだった。社て、賑かな芝居の話しで持切りだった。何を生業に暮らし への往復に電車の窓から見まいとしても眼に入る小石川 ているのか周囲の人達にはさつばり分らない、ロ数少く控 うまぐるま たもと あわせ こうじん 橋の袂で、寒空に袷一枚で乳母車を露店にして黄塵を浴びえ目勝な彼等の棲へ、折々、大屋の医者の未亡人の一徹 ながら福餅を焼いて客を待っ脊髄の跼 0 たさんを、な老婢があたり惞ぬ無遠慮な権柄ずくな声で縫物の催促 どな だらけの顔を鏝塗りに艶装しこんで、船頭や、車引や、オに呶鳴り込んで来ると、裏の婆さん達は申し合せたように あいぎよう その ワイ屋さんにまで愛嬌をふりまいて其日其日の渡世を凌ぐばったり弾んだ話しを止め、そして声を潜めて何かこそこ ささや らしい婆さんの境涯を、彼は幾度千登世の運命に擬してはそと囁き合うのであった。 よだ 身の毛を弥立てたことだろう。彼は彼女の先々に知れず天気の好い日には崖上から眠りを誘うような物売りの声 展がるかもしれない、さびしく此土地に過ごされる不安をが長閑に聞えて来た。「草花や、草花や」が、「ナスの苗、 愚しく取越して、激しい動揺の沈まらない現在を、何うにキュウリの苗、ヒメュリの苗」という声に変ったかと思うと やが も拭い去れなかった。 瞬く間に「ドジョウはよごぎ ) い ドジョウ」に変り、軈て みずばなすす さわや 圭一郎は車の中などで水鼻洟を駸っている生気の衰え初夏の新緑をこめた輝かしい爽かな空気の波が漂うて来て、 切って萎びた老婆と向い合わすと、身内を疼く痛みと同時金魚売りの声がそちこちの路地から聞えて来た。その声を ごとふんぬ に焚くが如き憤怒さえ覚えて顔を顰めて席を立ち、急ぎ隅耳にするのも悲しみの一つだ。故郷の村落を縫うてゆるや ふしのがわ っこの方へ逃げ隠れるのであった。 かに流れる椹野川の川畔の草土手に添って曲り迂った白っ すげ ぽい往還に現れた、県の方から山を越えて遣って来る菅 がさかぶ 陽春の訪れと共に狭隘しい崖の下もに活気づいて来た。笠を冠 0 た金魚売りの、天秤棒を撓わせながら「金魚 = ー ぶちねこ まわ 大きな斑猫はのそのそ歩き廻った。渋紙色をした裏の菊作イ、鯉の子 : : : 鯉の子、金魚ョイーという触れの声がうら さび かいちょう りの爺さんは菊の苗の手入れや施肥に余念がなかった。怠淋しい階調を奏でて聞えると 1 村じゅうの子供の小さな心 つれあい なめしがわ けものの配偶の肥った婆さんは、これは朝から晩まで鞣革臓は躍るのだった。学校から帰るなり無理強いにさせられ こしら こづちたた おほ をコッコッと小槌で叩いて琴の爪袋を内職に拵えている北 る算術の復習の憶えが悪くて勝ち気な気性の妻に叱りつけ かなめ 隣のロ達者な婆さんの家の縁先へ扇骨木のををくぐってられた愁い顔の子供の、「父ちゃん、金魚買うてくれんか ひろ しな こてぬ せせこま がけ この しか うず しの のどか がけ てんびんぼうしな しか