思うと何となく妙な頼りないような気持になって来るのだ田は母親のしたことが取返しのつかないいやなことに思わ つた。そして母親がそれをすすめた人間から既に少しばかれるのだったが、傍にきいていた吉田の末の弟も りそれを貰って持っているのだということを聞かされたと「お母さん、もう今度からそんなこと云うのん嫌でっせ」 こつけい き吉田は全く嫌な気持になってしまった。 と云ったので何だか事件が滑稽になって来て、それはそ けり 母親の話によるとそれは青物を売りに来る女があって、 のままに鳧がついてしまったのだった。 その女といろいろ話をしているうちにその肺病の特効薬の この町へ帰って来てしばらくしてから吉田はまた首縊り なわ 話をその女がはじめたというのだった。その女には肺病のの繩を「まあ馬鹿なことやと思うて」嚥んでみないかと云 弟があってそれが死んでしまった。そしてそれを村の焼場われた。それをすすめた人間は大和で塗師をしている男で おしよう で焼いたとき、寺の和尚さんがついていて、 その繩をどうして手に入れたかという話を吉田にして聞か のうみそ 「人間の脳味噌の黒焼はこの病気の薬だから、あなたも人せた。 助けだからこの黒焼を持っていて、若しこの病気で悪い人それはその町に一人の鰥夫の肺病患者があって、その男 ほとん に会ったら頒けてあげなさい」 は病気が重ったまま殆ど手当をする人もなく、一軒の荒ら そう云って自分でそれを取出して呉れたというのであっ家に捨て置かれてあったのであるが、とうとう最近になっ た。吉田はその話のなかから、もう何の手当も出来ずに死て首を縊って死んでしまった。するとそんな男にでもいろ んでしまったその女の弟、それを葬ろうとして焼場に立つんな借金があって、死んだとなるといろんな債権者がやっ ている姉、そして和尚と云っても何だか頼りない男がそんて来たのであるが、その男に家を貸していた大家がそんな なことを云って焼け残った骨をつついている焼場の情景を人間を集めてその場でその男の持っていたものを競売にし 思い浮べることが出来るのだったが、その女がその言葉をて後仕末をつけることになった。ところがその品物のなか 信じてほかのものではない自分の弟の脳味噌の黒焼をいつで最も高い値が出たのはその男が首を縊った繩で、それが までも身近に持っていて、そしてそれをこの病気で悪い人一寸二寸という風にして買い手がついて、大家はその金で に会えば呉れてやろうという気持には、何かしら堪え難いその男の簡単な葬式をしてやったばかりでなく自分のとこ ものを吉田は感じないではいられないのだった。そしてそろの滞っていた家賃もみな取ってしまったという話であ んなものを貰ってしまって、大抵自分が嚥まないのはわかった。 っているのに、そのあとを一体どうする積りなんだと、吉 吉田はそんな話を聞くにつけても、そういう迷信を信じ とどこお やもお やまとぬしゃ
186 っこ。 が椅子を持って来て坐らせた。 ほしくらげ ひど やっ 薄明りの平野のなかへ、星水母ほどに光っては消える遠 印度人は非道い奴であった。 握手をしようと云って男の前へ手を出す。男はためらつい市の花火。海と雲と平野のパノラマがいかにも美しいも ていたが思い切って手を出した。すると印度人は自分の手のに思えた。 を引き込めて、観客の方を向き、その男の手振を醜く真似「花は」 あざわら て見せ、首根っ子を縮めて、嘲笑って見せた。毒々しいも「 Flora. 」 のだった。男は印度人の方を見、自分の元いた席の方を見たしかに「 Flower. 」とは云わなかった。 その子供といし そのパノラマといし 、どんな手品師も て、な気に笑 0 ている。なにか訳のありそうな笑い方だ 0 た。子供か女房かがいるのじゃないか。堪らない。と敵わないような立派な手品だ 0 たような気がした。 そんなことが彼の不愉快を段々と洗って行った。いつも は思った。 ますますたち の癖で、不愉快な場面を非人情に見る、 そうすると反 握手が失敬になり、印度人の悪ふざけは益々性がわるく なった。見物はその度に笑った。そして手品がはじまった。対に面白く見えて来るーーその気持がものになりかけて来 ひも 紐があったのは、切ってもつながっているという手品。 下等な道化に独りで腹を立てていた先程の自分が、ちょ くらでも水が出るという手品。 金属の瓶があったのは、い こつけい っと滑稽だったと彼は思った。 極く詰らない手品で、硝子の卓子の上のものは減って 行った。まだ林檎が残っていた。これは林檎を食って、食舞台の上では印度人が、看板画そっくりの雰囲気のなか った林檎の切が今度は火を吹いて口から出て来るというので、ロから盛に火を吹いていた。それには怪しげな美しさ で、試しに例の男が食わされた。皮ごと食ったというので、さえ見えた。 やっと済むと幕が下りた。 これも笑われた。 峻はその客にも棒にもかからないような笑い方を印度人「ああ面白かった」ちょっと嘘のような、とってつけたよ うに勝子が云った。云い方が面白かったので皆笑った。 がする度に、何故あの男は何とかしないのだろうと思って いた。そして彼自身かなり不愉快になっていた。 ちゅうづ 美人の宙釣り。 そのうちに不図、先程の花火が思い出されて来た。 力業。 「先程の花火はまだあがっているだろうかーそんなことを す びん ガラステープル かな うそ ふんいき
やしぎ んだ地勢であった。町の高みには皇族や華族の邸に並んで、自分の心を染めているのを感じた。 ある窓では運動シャツを着た男がミシンを踏んでいた。 立派な門構えの家が、夜になると古風な瓦期燈の点く静か ほの せんたくもの こだち よさ な道を拠んで立ち並んでいた。深い樹立のなかには教会の屋根の上の闇のなかにたくさんの洗濯物らしいものが仄白 尖塔が聳えていたり、外国の公使館の旗がヴィラ風な屋根く浮んでいるのを見ると、それは洗濯屋の家らしく思われ の上にひるがえっていたりするのが見えた。しかしその谷るのだった。またある一つの窓ではレシーヴァを耳に当て に当ったところには陰気なじめじめした家が、普通の通行て一心にラジオを聴いている人の姿が見えた。その一心な 人のための路ではないような隘路をかくして、朽ちてゆく姿を見ていると、彼自身の耳の中でもそのラジオの小さい 音がきこえて来るようにさえ思われるのだった。 ばかりの存在を続けているのだった。 石田はその路を通ってゆくとき、誰かに咎められはしな彼が先の夜、酔っていた青年に向って、窓のなかに立っ いかというようなうしろめたさを感じた。なぜなら、そのたり坐ったりしている人びとの姿が、みななにかはかない 路へは大っぴらに通りすがりの家が窓を開いているのだっ運命を背負って浮世に生きているように見えると云ったの はだぬ は彼が心に次のような情景を浮べていたからだった。 た。そのなかには肌脱ぎになった人がいたり、柱時計が鳴 みすぼ それは彼の田舎の家の前を通っている街道に一つの見窄 っていたり、味気ない生活が蚊遣りを燻したりしていた。 てすり そのうえ、軒燈にはきまったようにやもりがとまっていてらしい商人宿があって、その二階の手摺の向うに、よく朝 あさげ 彼を気味悪がらせた。彼は何度も袋路に突きあたりながら、など出立の前の朝餉を食べていたりする旅人の姿が街道か その度になおさら自分の足音にうしろめたさを感じなら見えるのだった。彼はなぜかそのなかである一つの情景 がけ がら、やっと崖に沿った路へ出た。しばらくゆくと人家がをはっきり心にとめていた。それは一人の五十がらみの男 あしもと わず 情絶えて路が暗くなり、僅かに一つの電燈が足許を照らしてが、顔色の悪い四つ位の男の児と向い合って、その朝餉の ぜん のいる、それが教えられた場所であるらしいところへやって膳に向っているありさまだった。その男の顔には浮世の苦 いんうつ 労が陰鬱に刻まれていた。彼はひと言も物を言わずに箸を 来た。 る其処からはなるほど崖下の町が一と目に見渡せた。いく動かしていた。そしてその顔色の悪い子供も黙って、馴れ つもの窓が見えた。そしてそれは彼の知 0 ている町の、思ない手つきで茶をかきこんでいたのである。彼はそれを かんかけい 5 いがけない瞰下景であった。彼はかすかな旅情らしいもの見ながら、落した男の姿を感じた。その男の子供に対す あきら る愛を感じた。そしてその子供が幼い心にも、彼等の諦め が、濃くあたりに漂っているあれちのぎくの匂に混って、 いぶ におい こ
らの下に起ったであろう一つの変化がちらと心を掠め愛するものは他人も愛するにちがいないという好意に満ち るのであった。部屋が暗くなると夜気が殊更涼しくなった。た考えで話をしていたと思っていた。しかしその少し強制 崖路の闇もはっきりして来た。しかしそのなかには依然とがましい調子のなかには、自分の持っている欲望を、云わ して何の人影も立ってはいなかった。 ば相手の身体にこすりつけて、自分と同じような人間を製 彼にただ一つの残っている空想というのは、彼がその寡造しようとしていたようなところが不知不識にあったらし 婦と寝床を共にしているとき、不意に起って来る、部屋の窓い気がする。そして今自分の待っていたものは、そんな欲 もちろん を明け放してしまうという空想であった。勿論彼はそのと望に刺戟されて崖路へあがって来るあの男であり、自分の なが き、誰かがそこの崖路に立っていて、彼等の窓を眺め、彼空想していたことは自分達の醜い現実の窓を開けて崖上の しげき 等の姿を認めて、どんなにか刺戟を感じるであろうことを路へ曝すことだったのだ。俺の秘密な心のなかだけの空想 ちゃくちゃく 想い、その刺戟を通して、何の感動もない彼等の現実にもが、俺自身には関係なく、ひとりでの意志で著々と計画 ある陶酔が起って来るだろうことを予想しているのであつを進めてゆくというような、一体そんなことがあり得るこ とだろうか。それともこんな反省すらもちゃんと予定の仕 た。しかし彼にはただ窓を明け崖路へ彼等の姿を晒すとい うことばかりでも既に新鮮な魅力であった。彼はそのとき組で、今若しあの男の影があすこへあらわれたら、さあい せんりつ の、薄い刃物で背を撫でられるような戦慄を空想した。そよいよと舌を出す積りにしていたのではなかろうか : : : 」 ればかりではない。それがいかに彼等の醜い現実に対する生島はだんだんもつれて来る頭を振るようにして電燈を 反逆であるかを想像するのであった。 点し、寝床を延べにかかった。 「一体俺は今夜あの男をどうする積りだったんだろう」 しらずしらす 生島は崖路の闇のなかに不知不識自分の眼の待っていた ものがその青年の姿であったことに気がつくと、ふと醒め た自分に立ち返った。 石田 ( これは聴き手であった方の青年 ) はある晩のこと がけみち 「俺ははじめあの男に対する好意に溢れていた。それで窓その崖路の方へ散歩の足を向けた。彼は平常歩いていた往 の話などを持ち出して話し合う気になったのだ。それだの来から教えられたはじめての路へ足を踏み入れたとぎ、一 力し - っし に今自分にあの男を自分の欲望の傀儡にしようと思ってい体こんなところが自分の家の近所にあったのかと不思議な むやみ たような気がしてならないのは何故だろう。自分は自分の気がした。元来その辺は無暗に坂の多い、丘襲と谷とに富 がけみちゃみ おれ さら
が、改札ロへ並ぶように男の児の前へ立った。変な切符切きつけられた。痩我慢を張っているとすれば、倒された拍 かおっき にら 四りがはじまった。女の子の差し出した手を、その男の児が子に地面と睨めつこをしている時の顔附は、一体どんなだ たた やけに引っ張る。その女の子は地面へ叩きつけられる。次ろう。ーーー立ちあがる時には、もうほかの子と同じような の子も手を出す。その手も引っ張られる。倒された子は起顔をしているが。 よく泣き出さないものだ。 きあがって、また列の後ろへつく。 見ているとこうであった。男の児が手を引っ張るカ加減男の児が不図した拍子にこの意を見るかも知れないから に変化がつく。女の子の方ではその強弱をおっかなびつくと思って彼は意のそばを離れなかった。 りに期待するのが面白いのらしかった。 奥の知れないような曇り空のなかを、きらりきらり光り 強く引くのかと思うと、身体つきだけ強そうにして軽くながら過ってゆくものがあった。 引っ張る。すると次はいきなり叩きつけられる。次はまた、 ? 雲の色にぼやけてしまって、姿は見えなかったが、光の 手を持ったという位の軽さで通す。 どこ こび 男の児は小さい癖にどうかすると大人のーー・それも木挽反射だけ、鳥にすれば三羽程、鳩一流の何処にあてがある いしく かっこう きとか石工とかの恰好そっくりに見えることのある児で、 ともない飛び方で舞っていた。 はなうた 今もなにか鼻唄でも歌いながらやっているように見える。 「あああ。勝子のやっ奴、勝手に注文して強くして貰って そしていかにも得意気であった。 いるのじゃないかな」そんなことがふっと思えた。何時か たかし 見ているとやはり勝子だけが一番余計強くされているよ峻が抱きすくめてやった時、「もっとぎゅうっと」と何度 えんきよく うに思えた。 彼にはそれが悪くとれた。勝子は婉曲に意地も抱きすくめさせた。その時のことが思い出せたのだった。 悪されているのだな。 そう思うのには、一つは勝子がそう思えばそれもいかにも勝子のしそうなことだった。峻 わがまま 我儘で、よその子と遊ぶのにも決していい子にならないかは意を離れて部屋のなかへ入った。 らでもあった。 それにしても勝子にはあの不公平がわからないのかな。 夜、夕飯が済んで暫くしてから、勝子が泣きはじめた。 むし はず いや、あれがわからない筈はない。寧ろ勝子にとっては、峻は二階でそれを聞いていた。しまいにはそれを鎮める姉 やせがまん わかってはいながら痩我慢を張っているのが本当らしい の声が高くなって来て、勝子もあたりかまわず泣きたてた。 そんなに思っているうちにも、勝子はまたこっぴどく叩 あまり声が大きいので峻は下へおりて行った。信子が勝子 よぎ しばら め まど
なければならない運命のことを知っているような気がしてその明るい電燈の光を突然遮ったためだった。女が坐って ならなかった。部屋のなかには新聞の附録のようなものが盆をすすめると客のような男がペこペこ頭を下げているの ふすま が見えた。 襖の破れの上に賰ってあるのなどが見えた。 それは彼が休暇に田舎へ帰っていたある朝の記憶であっ 石田はなにか芝居でも見ているような気でその窓を眺め しらずし た。彼はそのとき自分が危く涙を落しそうになったのを覚ていたが、彼の心には先の夜の青年の云った言葉が不知不 よみがえ だんだん人の秘密を盗み見する えていた。そして今も彼はその記憶を心の底に蘇らせな識の間に浮んでいた。 がら、眼の下の町を眺めていた。 という気持が意識されて来る。それから秘密のなかでもべ 殊に彼にそう云う気持を起させたのは、一棟の長屋の窓ッドシーンの秘密が捜し度くなって来る。 ある しか であった。ある窓のなかには古ぼけた蚊帳がかかっていた。「或いはそうかも知れない」と彼は思った。「然し、今の ばんやりてすり その隣の窓では一人の男が盆槍手摺から身体を乗出してい自分の眼の前でそんな窓が開いていたら、自分はあの男の・ たんす むし た。そのまた隣の、一番よく見える窓のなかには、簟笥なような欲情を感じるよりも、寧ろもののあわれと云った感 どに並んで燈明の灯った仏壇が壁ぎわに立っているのであ情をそのなかに感じるのではなかろうか」 った。石田にはそれらの部屋を区切っている壁というもの そして彼は崖下に見えるとその男の云ったそれらしい窓 しばら がはかなく悲しく見えた。若し其処に住んでいる人の誰かを暫く捜したが、何処にもそんな窓はないのであった。そ がけ がこの崖上へ来てそれらの壁を眺めたら、どんなにか自分して彼はまた暫くすると路を崖下の町へ歩きはじめた。 もろ 等の安んじている家庭という観念を脆くはかなく思うだろ うと、そんなことが思われた。 一方には闇のなかに際立って明るく照らされた一つの窓 はけあたま がけ が開いていた。そのなかには一人の禿顱の老人が煙草盆を「今晩も来ている」と生島は崖下の部屋から崖路の闇のな なが 前にして客のような男と向い合っているのが見えた。暫くかに浮んだ人影を眺めてそう思った。彼は幾晩もその人影 そこを見ていると、そこが階段の上り口になっているらしを認めた。その度に彼はそれがカフェで話し合った青年に すみ い部屋の隅から、日本髪に頭を結った女が飲みもののよう よもやちがいがないだろうと思い、自分の心に企らんでい せんりつ なものを盆に載せながらあらわれて来た。するとその部屋る空想に、その度戦慄を感じた。 にわ おれ と崖との間の空間が俄かに一揺れ揺れた。それは女の姿が「あれは俺の空想が立たせた人影だ。俺と同じ欲望で崖の なが ひとむわ たばこぼん しばら さえぎ みちゃみ
霊と、昨夜一晩戦い続け、竟に死霊共は負けて、暗い夜不可能などというものは無いような気がして来る。話して こちらまで いる中に、何時か此方迄が、富豪で、天才で、王者で、ラ ( そこが彼等の住居である ) へと逃げて行かねばならなか ンプを手に入れたアラディンであるような気がして来たも ったのだと。 のだ : ・ オールド・ファミリア・プエイジイズ 昔の懐かしい顔の一つ一つが眼の前に浮かんで来て仕方 六月 x 日 コルヴィンの所から写真を送って来た。ファ = イ ( 感傷がない。無用の感傷を避けるため、仕事の中に逃れる。先 日から掛かっているサモア紛争史、或いは、サモアに於け 的な涙とは凡そ縁の遠い ) が思わず涙をこぼした。 友人 ! 何と今の私にそれが欠けていることか ! ( 色る白人横暴史だ。 色な意味で ) 対等に話すことの出来る仲間。共通の過去を とうちゅう しかし、英国とスコットランドとを離れてから、もう丁 有った仲間。会話の中に頭註や脚註の要らない仲間。そん ざいな言葉は使いながらも、心の中では尊敬せずにいられ度、四年になるのだ。 ぬ仲間。この快適な気候と、活動的な日々との中で足りな 五 いものは、それだけだ。コルヴィン、・ハクスタ 1 、・ ・ヘンレイ、ゴス、少し遅れて、ヘンリイ・ジェイムス、 おれ サモアに於ては古来地方自治の制、極めて 思えば俺の青春は豊かな友情に恵まれていた。みんな俺よ ほとん ぎようこ なかたが 鞏固にして、名目は王国なれども、王は殆ど政 り立派な奴ばかりだ。ヘンレイとの仲違いが、今、最も痛 ことごと こちら 治上の実権を有せず。実際の政治は悉く、各 切な悔恨を以て思出されゑ道理から云って、此方が間違 りくっ 地方のフォノ ( 会議 ) によって決定せられたり。 っているとは、さらさら思わない。しかし、理屈なんか問 まきひげ 王は世襲に非ず。又、必ずしも常置の位にも非ず。 夢題じゃない。巨大な・捲廬の・赭ら顔の・片脚の・あの男 古来此の諸島には、其の保持者に王者たるの資 風と、蒼ざめた痩せっぽちの俺とが、一緒に秋のスコットラ 格を与うべき・名誉の称号、五つあり。各地方 とンドを旅した時の、あの二十代の健かな歓びを思っても見 しゅうちょう の大酋長にして、此の五つの称号の全部、も ろ。あの男の笑い声 . ーー「顔と横隔膜とのみの笑ではなく、 ある しくは過半数を ( 人望により、或いは功績によ 頭から皿ご及ぶ全身の笑」が、今も聞えるようだ。不思議 り ) 得たる煮推されて王位に即くなり。而し な男だった、あの男は。あの男と話していると、世の中に あお もっ およ あか こ あら
、ま第町物 くまのなだ 遺骨は熊野灘に沈められ、竦は敦と同し墓域に眠って いるのだ。 たすく 四男翊は「斗南先生」の「渋谷の伯父」、五男開蔵は せんぞく 同じく「洗足の伯父」で、 . この人は軍艦陸奥を設計し た海軍技術将校で中将にまで進んだ。開蔵の長男が、 ひろし 「斗南先生」の「圭吉」であり、次男泱はさきにふれた ように敦と同じ墓域に葬られている。 こ民る次女志津で、独学で検定を その次が同し場所ー目 とって三十余年女学校の国語教師を勤め、独身をとお して戦後没した。なお、長女ふみは斗南の姉にあたり、 早く他家に嫁いだが、兄弟に劣らぬ俊敏な頭脳の持ち 主だったという 志津の次が六男田人で、敦の父である。ずっと中学 暾校の国漢教師を勤め、奈良県、静岡県、朝鮮、大連と 端転任した。敦が生まれたときは千葉県銚子中学校に勤 務していた。 七男比多吉も竦の墓に合葬されている。漢学者では なかったが、やはり家学の教養が物をいったのか中国 たんのう 語に堪能で満州に渡って関東庁外事課長となった。敦 中が昭和七年、一一十四歳のときに南満州、中国北部を旅 行したのはこの叔父を頼ってのことである。 こうして墓の主を一物しただけでも、敦がい「た「父 祖伝来の儒家」は明確な心象となる。また、その名を とっ た 5 と
396 をず お ひと へんくつじん を考えて、ニャリとするのである。 て決して他人に負けない男、たかだか強情我慢の偏屈人 そ たいしれいしばせん 向う見ずな其の男、ーー太史令・司馬遷が君前を退くと、 としてしか知られていなかった。彼が腐刑に遭ったからと 直ぐに、「全軈保妻子の臣」の一人が、遷と李陵との親して別に驚く者は無い しん い関係について武帝の耳に入れた。太史令は故あって弐師司馬氏は元周の史官であった。 , 後、晉に入り、秦に仕え、 げき 将軍と隙あり、遷が陵を褒めるのは、それによって、今度、漢の代となってから四代目の司馬談が武帝に仕えて建元年 しゆっさい 陵に先立って出塞して功の無かった弐師将軍を陥れんが 間に太史令をつとめた。この談が遷の父である。専門たる くわ ためであると言う者も出てきた。とも角も、たかが星暦ド律歴・易の他に、道家の教に精しく、又博く儒、墨、法、 しゆくつかさど ふそん 祝を司るに過ぎぬ太史令の身として、余りにも不遜な態名、諸家の説にも通じていたが、それらを凡て一家の見を もっす 度たというのが、一同の一致した意見である。おかしな事以て綜べて自己のものとしていた。己の頭脳や精神力につ うけっ に、李陵の家族よりも司馬遷の方が先に罪せられることに いての自信の強さはそっくり其の儘息子の遷に受嗣がれた ていい きゅう なった。翌日、彼は廷尉に下された。刑は宮と決った。 所のものである。彼が一息子に施した最大の教育は、諸学 * けい 力しだ、 支那で昔から行われた肉刑の主なものとして、黥、則の伝授を終えて後に、海内の大旅行をさせたことであった。 ( はなきる ) 、荊 ( あしきる ) 、宮、の四つがある。武帝の当時としては変った教育法であったが、之が後年の歴史家 まで まで 祖父、文帝の時、此の四つの中三つ迄は廃せられたが、宮司馬遷に資する所の頗る大であったことま、、 しう迄もない もちろん たいざん たまたま 刑のみは其の儘残された。宮刑とは、勿論、男を男でなく 元封元年に武帝が東、泰山に登って天を祭った時、偶々周 これ する奇怪な刑罰である。之を一に腐刑ともいうのは、その南で病床にあった熱血漢司馬談を よ、天子始めて漢家の封を めでた 創が腐臭を放つが故だともいい、或いは、腐木の実を生ぜ建つる目出度き時に、己一人従って行くことの出来ぬのを いぎどおり ため ざるが如き男と成り果てるからだともいう。此の刑を受け慨き、憤を発してその為に死んだ。古今を一貫せる通史 えんじん た者を閹人と称し、宮廷の宦官の大部分が之であったことの編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の しゅうしゅう は言う迄も無い。人もあろうに司馬遷が此の刑に遭ったの蒐集のみで終って了ったのである。その臨終の光景は息 である。しかし、後代の我々が史記の作者として知っている子・遷の筆によって詳しく史記の最後の章に描かれている。 びよう 司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令司馬遷は眇たる一それによると司馬談は己の又起ち難きを知るや遷を呼び共 ねんご おのれ 文筆の吏に過ぎない。頭脳の明晰なことは確かとしても其の手を執って、懇ろに修史の必要を説き、己太史となりな じせきむな の頭脳に自信をもち過ぎた、人づき合いの悪い男、議論に がらこの事に著手せず、賢君忠臣の事蹟を空しく地下に埋 す しな こ かんがん めいよを ある おとしい く なげ どうか すこぶ そ ひろ しん
れんそ ) その聯想から、私は自分の今出ている物干がなんとなくそ うしたゲッセマネのような気がしないでもない。しかし私 からだ はキリストではない。夜中になって来ると病気の私の身体 もうそう は火照り出し、そして眼が冴える。ただ妄想という怪獣の えじき 餌食となり度くないためばかりに、私はここへ逃げ出して 来て、少々身体には毒な夜露に打たれるのである。 せき どの家も寐静まっている。時どき力のない咳の音が洩れ て来る。昼間の知識から、私はそれが露路に住む魚屋の咳 であることを聞きわける。この男はもう商売も辛いらしい 一一階に間借りをしている男が、一度医者に見て貰えという のにどうしても聴かない。 この咳はそんな咳じゃないと云 その一 って隠そうとする。二階の男がそれを近所へ触れて歩く。 ーー家賃を払う家が少なくて、医者の払いが皆目集まらな こうもり 星空を見上げると、音もしないで何匹も蝙蝠が飛んでい いというこの町では、肺病は陰忍な戦である。突然に葬儀 ぐあい る。その姿は見えないが、瞬間瞬間光を消す星のエ合から、自動車が来る。誰もが死んだという当人のいつものように 気味の悪い畜類の飛んでいるのが感じられるのである。 働いていた姿をまだ新しい記憶のなかに呼び起す。床につ 人びとは寐静まっている。・ー私の立っているのは、半いていた間というのは、だからいくらもないのである。実 ば朽ちかけた、家の物干場だ。ここからは家の裏横手の露際こんな生活では誰でもが自ら絶望し、自ら死ななければ もや 地を見通すことが出来る。近所は、港に舫った無数の廻船ならないのだろう。 こ かわいそう のように、ただぎっしりと建て詰んだ家の、同じように朽魚屋が咳いている。可哀想だなあと思う。ついでに、私 かっドイツ * ちかけた物干ばかりである。私は嘗て独逸のペッヒシュタの咳がやはりこんな風に聞こえるのだろうかと、私の分と インという画家の「市に嘆けるクリスト」という画の刷物して聴いて見る。 を見たことがあるが、それは巨大な工場地帯の裏地のよう先程から露路の上には盛んに白いものが往来している。 ひざまず なところで跪いて祈っているキリストの絵像であった。 これはこの露路だけとは云わない。表通りも夜更けになる 8 交尾 かいせん