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検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集
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1. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

った。店の手があかないんだ、と云ったことがある。「島あんたはいい人だけれど、それだけは直さなくちゃいけな 皿藤」では腕 0 こきの一人にな 0 たようすで、大名屋敷や金いよ」 持の家へ、直し物にかようこともあり、休みの日にも、遊繁次は黙った。 「あとを聞かして」おつぎは気を変えるように云った、 ぶより仕事をするほうが面白い、というふうであった。 ようたけいこ 繁次は兄弟子にすすめられて、端唄の稽古を始めたが、ど「あたし好きだわ、その唄」 繁次は首を振った、「これつきりしきや知らないんだ」 うしてもうまくならないし、声が悪いので「落葉に雨の」 「そんなこと云わないで」 というのを半分やりかけたままよしてしまった。或る夜、 また河岸の居酒屋〈い 0 たとき、少し酔 0 たのだろう、自「本当に知らねえんだ」と繁次が云 0 た、「ここまでや 0 参てみたけれど、自分でも可笑くなってよしちゃったん 分でも気づかないうちに、その唄をうたいだした。 吉があまり来なくなってからだから、一一十の年の冬のかか おつぎはじっと繁次を見ていて、「かなしい性分だね、 りだったろうか、雨が降っていて客もあまりなく、彼はい つもの隅に腰を掛けて、おつぎの酌で飲んでいた。飲むとあんた 0 て人は」と溜でもっくように云 0 た。そして、 いっても、おつぎに助けてもらってせいぜい一本というとそこまででいいからもういちど聞かせてくれ、とせがんだ が、繁次はすっかりてれてしまい、この次にしようと断わ ころだし、それもたいてい三分の一は残るのが例であった。 その晩もよけいに飲んだわけではないが、珍しく客が少な いのと、気のめいるような雨の音とで、なんとなくそんなその次の次あたりだろう、やはり客の少ない晩に、繁次 はなにげなくその唄をうたった。もちろん張った声ではな 気分になったのだろう、稽古したところだけを低い声で、 、無意識な、呟くような声であった。そのときもおつぎ そっとうたった。 かんどくり は向うに腰掛けていたが、こんどはなにも云わず、燗徳利 ししわね」とおつぎが云った、「な文句じゃな 「あら、、、 を持ったまま眼をつむって、しんと聞いていた。うたい終 いの、あとをうたってよ」 ってから、おつぎのそのしんとした表情を見、自分がうた 「よせよ恥ずかしい」繁次は赤くなった、「われながらこ ったことに気づいて、繁次は赤くなった。 の声にはうんざりしているんだ」 「いい唄だよ」とおつぎは眼をあいて云った、「かなしく 「あんたのおはこだよ、それーとおつぎが云った、「なに けな って、せつなくなるようだ、すっかりならっちまえばよか かっていうと自分を貶すんだ、よくない癖だよ、繁さん、 つぶや

2. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

212 ばんしやく くなったのねって、しずーかな声で云いながら、眸を凝らし った、「まいにち晩酌をする者もあるって云う・せ、まいに おらあ死ぬまでに一度でもいいから、て・ほくの顔をじーっとにらむんです、こんなふうにねー福 ちだ・せ福田くん、 田くんはそんなような眼つきをしてみせる、「また今日は そういう身分になってみてえと思うね」 からだ 「ぼくはあんたにだけ云いますがね、ここだけの話だけれ嫗がだるいから、稼ぎにゆくのはいやだなと思う、すると ど」と福田くんは或るとき思い切ったように云った、「まあいつは唇でに朝っと笑って、たまには休んだほうがいし いにち晩酌なんかしなくってもいいが、光子のやっと別れわって云って、眸を凝らしてじーっとぼくの顔をにらむん ですよ、ええ、・ほくそっとしちゃって稼ぎにでかけるんで られたらなーって、ただそれだけが望みですね」 「簡単じゃねえか、民主主義の世の中になったんだ、別れす」 「にーっと笑って、じーっとにらむかね、へえー」 たければさっさと別れればいいさ」 「初めつからそうなんです」 「だから、それができたらなーっていうんですよ」 彼は郊外の大衆食堂で光子と知りあった。彼は昼のあい 「できたらなーって、できねえわけでもあるんかい」 相沢は世にも訝しいことを聞くものだという表情で、まだ某電機会社ではたらきながら、或る私立大学の夜間部へ 、、た かよってい、日曜に一度、その大衆食堂へめしを喰べにい じまじと福田くんを見まもった。 った。お光はそこに勤めていて、多く酒を飲む客の担当で 「相さんは光子のことを知らないんだ」と福田くんは云っ あったが、或るとき彼の眼とお光の眼が合ったとたん、お た、「光子のやつはね、なにか憑きものでもしているよう な、へんにきみのわるいところがあるんですよ、たとえば光は例の唇でにーっと微笑し、眸を凝らしてじーっと彼の けんか あいつは決して大きな声をださないでしよ、喧嘩になって顔をみつめた。 「するとぼくは頭がぼーっとなっちゃって、身動きもでき もにやにや笑って、しずーかな声でなにか云うんです すす なくなっちゃったんです」 「そうだな、そいつは確かだ」と相沢は・フドー割を吸る、 「ーーたまにちょっとした声が聞えるなって思うと、 次にも同じようなことがあり、三度めにはお光が、めし まあいいや、で、静かな声がどうしたんだい」 「こっちで考えてることをずばっと見ぬいちゃうんですよ、を喰べている彼の前へ来た。燗徳利を一本と、ウイスキ ・グラスを二つ、彼の前に置いて自分も腰をかけ、二つ はらの中で別れたいなと・ほくが思うとしますね、すると光 くらびる 子のやつはにーっと唇で笑って、あんたあたしと別れたのグラスに酒を注ぐと、一つを彼に渡し一つを自分で持っ いぶか かん ひとみ

3. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

アイの残飯の中からでも拾って来たらしいぜ」 寒藤先生はそう紹介した、「よろしくー のらさんとは、弟や妹たちがあにきに付けた呼び名であ % その青年も「よろしく」と云いながら、活湲におじぎを ようぎら った。辰弥が茶簟笥をあけてみると、ふちの欠けた洋皿に、 した。そして二人は、自由主義をばぶつ潰せ、などとうた ェクレアのような菓子が二つのせてあった。 いながら歩み去っていった。 「おまえ喰べたのか」 「大じゃあないんでね」弟は振向きもしなかった、「アメ 岡田辰弥が家へ帰ってみると、兄は . もういなかった。 すぐ下の弟は勤め先の人たちと ( イキングにゆくと云っちゃんの食い残しなんかまっぴらごめんさ」 もう米軍の残飯を食うなどということはなかった。実際 て、朝はやくから出てゆき、二番めの弟と妹がいたのであ にそれを喰べて飢えを凌いだのは、母と辰弥とすぐ下の弟 るが、いまは母と弟の二人きりだった。 くらいであろう。だが四男である彼は、それを喰べた母の 母は勝手でなにかしてい、弟は机に向っていた。辰弥は 乳で育ったというだけで、いまでも事ごとに激しい憎悪を 弟のそばへいって、あにきはどうした、ときいた。 感ずるようであった。 「帰ったよ」と弟は答えた。 弟は英作文をやっているらしかった。机の上は書き損じ辰弥は菓子には手をつけず、茶簟笥の戸納を閉め、弟の そばへいって、あにきはおとなしく帰ったのか、と声をひ た紙や、ばろ・ほろになった参考書や辞典や / ートなどがい そめてきいた。 つばいで、見るだけでもうんざりした。 くず 「机の上をなんとかしろよ」と辰弥は云った、「まるで屑「ごきげんだったよ」と弟は辞典を繰りながら、ぶつきら か 0 オしか、よくそれで勉強がでぼうに答え、振向いて辰弥を見た、「頼むから宿題ぐらい 籠をひっくり返したようじゃよ、 ゆっくりさせてくれよ、おれは」 きるな」 「諄いなあ」と弟は云った、「こうしなければおれは勉強彼がそう云いかけたとき、戸外で人の声がした。どうや ができないんだって、何度も云っているじゃねえか、うつらこの家をきいているらしい、ええそこですよ、という女 の声がし、すぐに戸口で「岡田さん」とおとずれる声が聞 ちゃっといてくれよ」 らやだんす 「辰弥かい」と勝手から母が呼びかけた、「茶簟笥におやえた。辰弥が答えながらいって、障子をあけると、制服の 警官が立っていた。 つがはいっているよ」 とうとうきたな。 「のらさんのみやげさ」と弟が低い声で云った、「ジー つぶ しの

4. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

よ、。、ずれにせよ、やってみるだけの値打はある、とい 「よし、相談を よきまった」と良吉がいさんで云った、「こナしし れで文句はねえだろう、ちゃん、よかったら、支度をしようことにな 0 たのであった。 うぜ」 それが思惑どおりにゆくかどうかは、誰にも判断はつか 「良、ーー」とお直が感情のあふれるような声で呼びかけないだろう。長屋の人たちはうまくゆくように願った。か た。 れらはみな重吉とその家族を好いていたからーーしかし、 重吉は低くうなだれ、片方の腕で顔をおおった。 それからのちも、長屋の人たちは重吉が酔って、くだを巻 「おめえたちは」と重吉がしどろもどろに云った、「おめく声を聞くのである。こんどは十四日、晦日ではないし、 えたちは、みんな、ばかだ、みんなばかだぜ」 せいぜい月に一度くらいであったが、それは夜の十時ごろ 「そうさーと良吉が云った、「みんな、ちゃんの子だもの、 に長屋の木戸で始まり、同じような順序で、戸口まで続く のである。 ふしぎはねえや」 おつぎが泣きながらふきだし、次に亀吉がふきだし、そ「みんな飲んじまった、よ」と戸口の外で重吉がへたばる、 してお芳までが、わけもわからずに笑いだし、お直は両手コ一貫と五百しきや、残ってないよ、ほんとに、みんな飲 でなにかを祈るように、しつかりと顔を押えた。 んじまったんだから、ね」 「はいっておくれよ、おまえさん」とお直の声をころして 云うのが聞える、「ご近所に迷惑だからさ、ごしようだか 十 らはいっておくれ」 いうまでもなく、一家はその長屋を動かなかった。お直「はいれない、 よ」重吉がのんびりと答える、「みんな飲 ごとう と良吉の意見で、重吉は「五桐ーの店をひき、自分の家でんで、遣っちまったんだから、銭なんか、ちっとしきや残 ってないんだから、ね、いやだよ」 仕事をすることにした。 まわ これまでも自分が古いとくいを廻り、注文を取って来た 良吉が代り、やがてお芳の声がする、「たん、へんな」 のだから、店をとおさずに自分でやれば、数は少なくとも、とお芳は気取って云うのであった、「へんなって云ってゆ ひばら でしよ、へんな、たん」 売れただけそっくり自分の手にはいる。「五桐火鉢」とい まきえ わなくともいい、蒔絵の模様も変えよう。そのうちにはま た世間の好みが変って、彼の火鉢ににんきが立つかもしれ みそか

5. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

しやがんだ。 男が一一人、御蔵のほうから高ごえに話し屋の娘を貰うだろう、だが、それも長続きはしないだろう れながら来、繁次とおひさを認めたのだろう、通り過ぎてゆし、職人としても立ち直ることはできやしないぜ」 「だめなことはあたしも同じよ」とおひさが云った、「 きながら、「ようおたのしみ」と云った。どうやら酔って ま、ごや いるらしかったが、それ以上からかうようすもなく、はず薪小屋の前であの人に抱かれたとき、あたし、これが繁ち ゃんなら、って思ったわ、あんなふうに抱かれるなんて夢 んだ声で話しながら去っていった。 おたのしみ、か。 にも思わなかったし、抱かれるとすぐに、これが繁ちゃん だったらいいのにつて思った、おかしいようだけれど、 繁次は強く奥歯を噛み合せた。 までもそのことは覚えているのよ」 ここで蟹を捕ってやったことがあったつけな。 「おれには、とてもーと繁次がロの中で呟いた、「とても おひさがこっちへ歩み寄って来た。 「あたし繁次さんが好きだったわ」とおひさは低い声で云そんな勇気はありゃあしねえ、けれどもおれは」 しいえだめ、もうだめなの」おひさはそっとかぶりを振 った、「こんな小さいじぶんから、ずっとあんたが好きだ「、 さえぎ り、なんの感情もない声で遮った、「繁次さんがあたしの ったわ、そのことを知ってもらおうと思って、ずいぶん小 でもあんたは勘づいてはく こと、あの人が好きだと思いこんで、いつまでもそう思い さい知恵をし・ほったのよ、 おも れなかった、あんたは一人ぎめに、あたしが参吉さんを想こんでいるのを見ているうちに、あたしあの人のことが本 ってるって、自分だけで思いこんでいたわ、あたしがロや当に好きになってしまったの」 はず そぶりで、どんなにそうじゃないってことを知らせようと「しかしおめえもわかっている筈だ」 「あんたが悪いのよ」むしろ明るい口ぶりでおひさが云っ しても、あんたは気づいてもくれなかったのよ」 繁次はしやがんだまま、両手を固く握り合せ、それを額た、「こんなにあの人のことが忘れられなくなったのは、 あたしもうだめなの、本当にだめな あんたのせいよ、 へぐいと押しつけた。 「それがほんとなら」と繁次はよく聞きとれない声で云っのよ」 繁次は黙った。おひさも口をつぐんだ。 いや、いまでもそう思っていてくれるのか」 た、「 おひさは答えなかった。呼吸五つほど数えても答えのな「あたしわかってるわ」とおひさがやがて云った、「あん たの云うとおり、あの人は小村屋からおかみさんを貰って いことで、繁次にはおひさの気持がおよそわかった。 「参吉はもうだめだ・せ」と繁次が云った、「あいつは小村も、きっと長続きはしないでしよ、そればかりじゃない、 つぶや

6. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

いだではあるが、その沈黙はまるで百千の言葉が火花をち らすような感じだった。 四 きかず、 しやく 「はい」とお蝶は彼に盃を返し、酌をしてやってから、 立ちあがった、「あたしね、あの人をひつばたいてやった「よせ、よしてくれ」と重吉は云った、「なぐるのはよし てくれ」 の、平手で、あの人のっぺたを、いい音がしたわよ」 彼はその自分の声で眼をさました。 重吉は盃を持ったまま、お蝶を見た。 気がつくと自分はごろ寝をしてい、すぐそばにお芳がい 「さよならーー」とお蝶が子供つ。ほく明るい声で云った。 まくら 彼ま畳の上へじかに寝ころんでいるのだが、枕もして 客たちが振返り、源平とおくにが眼を見交わした。重吉た。 / を かいまき いるし、掻巻も掛けてあった。三つになる末っ子のお芳は、 は立ちそうにしたが、お蝶は明るい笑顔を向けて手を振り、 とが 少しよろめきながら出ていった。 千代紙で作った人形を持って、咎めるような、不審そうな 「さよならーーー」と外でお蝶の云うのが聞えた、「また来眼で父親を見まもっていた。 「たん」とお芳が云った、「誰がぶつのよ」 ます、お邪魔さま」 「重さんいってあげなさいな」とおくにが云った、「ひど重吉は喉の渇きを感じた。 く酔っているようじゃないの、危ないからお店まで送って「誰がたんをぶつのよ、たん」 「かあちゃんはどうした」 あげなさいよ」 「おしえーないよ」とお芳はつんとした、「たんがおしえ 「そうだな」重吉は立ちあがった。 ーないから、かあたんが問屋へいったことも、あたいおし 出てみると、お蝶の姿は三、四間さきにあり、かなりし つかりした足どりで歩いていた。左右の呑み屋は客のこみえーないよ」 うた しやみせん ん始めるときで、三味線の音や唄の声や、どなったり笑った重吉は起き直った、「いい子だからな、芳ぼう、たんに 重吉はお蝶の姿が水を一杯持って来てくれ」 やりする声が、賑やかに聞えていた。 子じゃないもん」 見えなくなるまで、黙ってそこに立っていて、それからそ「あたい、いい ち ためいき 重吉は溜息をつき、充血した、おもたげな眼でまわりを の横町を、堀のほうへぬけていった。 じよう なが 眺めやった。その六帖はごたごたして、うす汚なく、みじ めにみえた。実際はお直がきれい好きで、部屋の中はきち にぎ

7. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

みそしる う、「今日はなんにもないかや味噌汁でたべちゃいましよ、向うの井戸端で良吉の声がする。盤台を洗いながら、近所 のかみさんと話しているらしい。元気な話し声にまじって、 さあさ、一一人とも手を洗ってらっしゃい」 高い水の音が聞えた。良吉の声には張りがあり、話す調子 はおとなびていた。重吉はからだがたよりなくなるような、 五 精のない気分でそれを聞いていた。 まもなくお直とおつぎが帰り、良吉も井戸端から戻って 「かあたんは夜なべだかやね、もう一一人とも寝ちまいな」 と云うのもお芳だ、「さっさと寝ちまいな、夜なべをして、来た。お直たちは内職物の包を背負っていて、有難いこと あった問屋へ届けなけえば、お米が買えないんだかや、さに来月いつばい仕事が続くそうだ、などと重吉に云いなが っさと寝ちまいな」 ら、六帖へいって包をおろし、良吉は手ばしこく道具を片 そのときも同じことであった。その小さな世帯はひどくづけた。 がんぜ 「かあちゃん」と良吉は土間から叫んだ、「おれ、ちゃん 苦しい、おたつはまだ頑是ないし、亀吉は手ばかりかかっ と湯へいって来ていいか」 て少しも役に立たない、お芳ひとりが飯の支度をしたり、 「大きな声だね、みつともない」と六帖でお直が云った、 縫い張りをしたり、夜も昼も賃仕事をして稼ぐのである。 「いくんなら、亀吉も伴れてっておくれよ」 「うるさい、うるさい」とお芳がまた云う、「そんなとこ よで、ごまごましてたや、仕事ができやしない、一一人とも「だめだよ、今日はだめだ」と良吉は云い返した、「今日 はちょっとちゃんに話があるんだ」 外へいって遊んできな」 重吉は耳をふさぎたくなり、いたたまれなくなってそこ彼は父親に眼くばせをし、「この次に伴れてってやるか らな、亀、今日はかあちゃんといきな、な」 を立った。 じよう * えびす 「十日戎の、売り物は」上り端の一一帖へいって、重吉は外「ひどいよ、良」と云うお芳の気取った声が聞えた、「伴 なが れてってやんな、良、ひどいよ」 を眺めながら、調子の狂った節で低くうたいだした、「 ばち かます 「へつ」と良吉が肩をすくめた、「あいつをかみさんにす は・せ袋にとり鉢、銭叺、小判に金箱」 うた 彼はそこでやめて、首を振った、「唄も一つ満足にはうる野郎の面が見てえや、ちゃん、いこうか」 てぬぐい おつぎが重吉に手拭を持って来た。 たえねえか」 重吉は気のぬけたような眼で、ぼんやり外を眺めやった。湯屋は川口町に面した堀端にある。昏れかかった道を歩 はな かせ

8. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

あおじろこわ 客があり、おたまがかなきり声をあげた。 お蝶はすっかり酔って、顔は蒼白く硬ばり、眼がすわ 、、あいさっ わ、 おれは泣きそうになってるぞ。 っていた。彼女は源平とおくにに挨拶すると、重吉の脇に 重吉は頭を振った。友達だから云ってくれるんだ、あり腰を掛け、彼の手から盃を取りあげた。 がてえな、と彼はロには出さずにつぶやいた。お蝶がなに 「お蝶さん」とおくにが云って、すばやく眼まぜをした、 か云い、新助がそれに答えたが、やり返すような声であつ「ー・ー・奥がいいわ」 た。重吉は飲み、頭をぐらぐらさせ、そうして「ありがて「ええ、ありがと」とお蝶が答えた、「あたし、すぐに帰 えな」と声に出して云った。 るんです」 おれは泣きそうだ。 「どうしたんだ」重吉がお蝶を見た、「勘定なら気の毒だ びた 泣いたりすると、みつともねえそ、と重吉は自分に云っ がだめだ、おらあ鐚も持っちゃあいねえんだから」 た。そこで彼は外へ出たのだ。新助が呼びかけたのを、お「お酌してちょうだい」 蝶がとめた。手洗よ、というのが聞えたようで、重吉は戸「ここも勘定が溜まってるんだぜ」 口を出ながら、ああそうだよと云った。 「お酌して」とお蝶は云った。 お蝶を出てから「源平」で飲んだ。お蝶もそうだが、源重吉が注いでやった一杯を飲むと、お蝶は燗徳利を取り、 なじみ あお 平も毎晩寄らないときげんが悪い。もう十年ちかい馴染で、手酌で一一杯、喉へほうりこむように呷った。 ながひばら 客の少ない晩などは奥へあげられ、長火鉢をはさんで盃の 「あんたの顔が見たかったのよ、重さん」とお蝶は彼の眼 やりとりをする、ということも珍しくはなかった。かれらをみつめながら云った、「ーーーあたしくやしかった」 夫婦には子供がなく、店を一一人きりでやっていて、いろけ「客がいるんだ・せ」 ほうちょう のない代りに、源平の庖丁とかみさんのおくにのあいそが、「あんなふうに云われて、なにか云い返すことはなかった 売り物になっているようであった。 の」お蝶のひそめた声には感情がこもっていた、「あんた 重吉は二本ばかり陽気に飲み、そこでぐっと深く酔った。云いたいことがあったんでしよ、そうでしよ、重さん」 ほかに客が三人あり、源平は庖丁を使いながら、重吉のよ「うん」と重吉はひょいと片手を振った、「云いたいこと うすを不審げに見ていた。急に酔いが出たのは、まえの酒はあった、云い忘れちゃったが、よろしく頼むと云うつも のせいで、重吉は源平の眼が気に入らなかった。へんな眼りだった」 お蝶は黙って、じっと重吉の眼をみつめていた。短いあ で見るなよ、と云おうとしたとき、お蝶がはいって来た。 のど かん

9. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

るまい。そんなことを思い返しているうちに、半三郎は眠半三郎は頷いた。 ってしまった。そしてその見知らぬ女に起こされたのだ。 「じゃあ、まんま、ーーー御飯はどうなさるんですか、仕出 だんな 「もしもし、旦那さま」と呼ぶ声がした、「もう午ですかし屋から取るんでなければ、わが、あたしがお米やなにか ら御膳の支度をしましよう」 買って来て、御膳の支度をしますけれど」 半三郎は夢をみていた。喰べ物の夢をみていて、その夢「いらない」と半三郎が云った、「なにもいらない、放っ の中から、カずくで引き出されるように、ゆっくりと眼をといてくれ」 ひざ さました。するとすぐそこに、あの見知らぬ女が膝をつい そして彼は眼をつむり、ふと気がついて、いったいおま て、黒い笑顔でこちらを見ていた。 えは誰だと訊こうとしたが、そこにはもう女はいなかった。 なが 「午の御膳にしましようーと彼女は云った。少女のように彼は頭をあげて座敷の中を眺めまわし、女がどこにもいな うぶな、きれいな声であった。「お米やなにかはどこにあ いのを認めると、寝返りをうって眼をつむった。こんどは るんですか」 夢もみずに眠りこんだが、やがてまた女の声で呼び起こさ くらびるな 半三郎は舌で唇を舐め、それからいちど声を出してみれた。 だんな たあとで、おもむろに云った、「そんな物はないよ」 「起きて下さい旦那さま」と彼女は耳のそばで云った、 「お米はないんですか」 「まんま、ーー御膳ができましたから起きて下さい 、旦那 うなず 半三郎は頷いた。 さま」 「では」彼女が訊いた、「どこかから仕出しでも取るんで半三郎は眼をあけた、「なんだ、おまえまだいたのか」 すか」 「御膳ができました」と云って、彼女は微笑した。黒い顔 しる 半三郎は首を左右に振った。見知らぬ女の黒い顔に、・ ひの中で、きれいな白い歯が見えた、「塩引と菜っ葉の汁だ つくりしたような表情がうかび、へえ、という大きな太鶯けですけれど、どうか起きてめしあがって下さい」 がもれた。 炊きたての飯のあまいかおりと、魚を焼いた脂っこい匂 「いまお台所を見て来たんですよ」と彼女は云った、「お いとが、彼をひっ撼み、抵抗しがたいカで彼を絞めあげた。 かまなべさ ひっ ほこり 釜も鍋も錆びてるしお櫃は乾いてはしゃいでるし、埃だら彼はめまいにおそわれたような気持で、なにを考える暇も けでごみだらけで、空き屋敷みたようでした、御家来もおなく起きあがった。 はした 端下もいないんですか」 ひる にお

10. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

と云う者もあった。 った。老人の家もまた戸閉りがない、雨戸は閉めるが鍵は 掛けないから、どんな駆け出しでも楽に忍び込める。泥棒 びつくり 段と呼ばれる男は独り者で、たんば老の隣りに半年ばかは家の中がさつばりと片づいているのに、吃驚したことで ひ、だ り住んでいた。しよっちゅう老人の家に入りびたりで、さあろう。抽出し付きの箱を見て、金箱と誤認したものか、 すがのたんば老も閉ロしたらしい。段は仕事もろくさましそれを抱えて逃げだそうとした。老人は眼をさまして、泥 ないし、そのくせさほど窮乏しているようすもなかった。棒のすることを眺めていたものか、そのとき初めて声をか めしは三度とも中通りの食堂へ喰べにゆくし、ときたまでけた。 あめだま はあるが、近所の子供たちに飴玉を買って来て配る、など「きみ、それは違うよ」老人は低い声でやわらかに囁きか ということをした。 けた、「それは仕事の道具箱だ、金はこっちにあるよ」 「私はね、こうして人と会話をするのがなによりたのしみ泥棒は足を停めて振返った。たんば老の低い声と、やわ でね」と段は云うのであった、「会話というやつよ、 をしいもらかな口ぶりが彼をひきとめたようで、それでもまだ逃げ すご んだね、ねえたんばさん」 腰のまま、「なんだと」と凄んでみせた。 それは会話などといえるものではなかった。たいてい段「いま出してやるよ、たくさんはないがね」たんば老はや しゃべ が独りで饒舌るし、話の九割がたは嘘だとわかりきったもはり囁き声で云って、静かに起きあがり、とだなをあけて のであった。老人は必要があればべつだが、どっちかとい財布を取り出した。古くなって擦り切れた革の財布であっ うとロの重いほうで、たとえば「小屋」の平さんなどがた たが、老人はそれを持ってゆき、そのまま泥棒に渡した。 ずねて来ると、半日くらいも向きあったまま黙って坐って「いまはこれで全部だがね」と老人は云った、「もし困っ まれ いる、というふうであった。これは平さんが世にも稀なく たらまたおいでよ、少しなら溜めておくからね」 らい無ロな性分だったせいもあるが、だから、老人が段の そして、こんどは表からおいで、と云ったそうである。 訪問をよろこばなかったことは確かであろう。老人はそん泥棒は財布を受取り、道具箱は置いてたち去った。 なけぶりもみせなかったが、段のほうで気づいたのだろう、 この事実は誰も知らなかった。半年だか一年だか経った やがてその訪問は少しずつ遠のき、そしてどこかへ移転しのち、その泥棒が警察に捉まったそうで、或るとき刑事に ていった。 伴れられて、たんば老の家へ実地検証に来た。この家でこ 段が引越していってまもなくたんば老の家へ泥棒がはい れこれのことをした、という自白の裏付けである。 なが つか ささや