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検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集
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1. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

というわけで大衆食堂をやめちゃっ あいいですがね、 万組いるとしても、同じような夫婦ってものは一と組もい かせ ない、千万の夫婦がみんなそれぞれ違うんだ、っていうよたでしよう、どうしたって・ほくが生活費を稼がなければな らなくなったんですが、あのとき職安の前で・ほんやりして うなことを云ってた、そして中には、組み合わさってはい いたとき、いっそこのままどっかへ逃げちまおうかって考 けないどうしが組み合わさってるような夫婦があって、そ ・、弓、まうをえてたんです」 ういうのは早く別れちまわないと、強いほうカ弓しを 「な・せ逃げちまわなかったんだ」 食っちまうんだ、っていうようなことも云ってたが、 「相さんが声をかけたんですよ、事務系の仕事はないかっ そう云っちゃあなんだが、きみなんそはその組み合わさっ ちゃあいけない者どうしの組み合わさりじゃねえかな、掛てきいたら、そういう仕事は千分の一ぐらいしきゃないっ ていう、それでもう、これが逃げだすいいチャンスかな、 け値のねえ話がさ」 しようらゆう くらびる と思ってたら」 福田くんはまだ一杯めの焼酎のグラスを、唇でちょ 「おれが呼びかけたってわけか」相沢は笑った、「いんね っとりながら、どこを見るともなく、前方の一点をじっ んだな、ああ、にんげん一生のうちには、そういう因縁に と見まもった。 「ぼくが初めて相さんに会ったのは、あの職業安定所でしぶつかることが幾たびかあるそうだ」 、・、、・ほくはもうがまんが切れそうです 「そうかもしれなしカ たね」 「そうだったな、おれはちょっと嵩ばる出物があって、手よ、このごろじゃもう夜になると、 「夜になるとどうした」 を貸してくれる者が欲しかったんだ」 くずてつ 「焼け跡にあった屑鉄を運ぶ仕事でしたね」と福田くんは「いってもしようがない」福田くんは頭を振った、「光子 云った、「あのとき・ほくはもう学校をやめちゃって、そのといっしょになってから、そろそろ五年になるんですよ、 まえに電機会社のほうが倒産しちゃったんですが、光子のそのあいだずっと休みなしに、じーっと見てにーっと笑わ こうやって相さんと話していることも光 れて、いや、 のやつも大衆食堂をよしちゃって、それが光子のやつが云う 節 には、主婦は家庭を守ることが夫婦生活の本筋である、こ子はちゃんとみとおしているんですからね」 季 の本筋というのを、あいつはメイン・トラップだって云い ましたよ、どう聞きかじったかしれませんが、日本語では「きびのわりいこと云うなよ」相沢は福田くんからちょっ メインをちょっと変えると、まと身をひき、屋台のおやじに・フドー割のお代りを命じ、そ 本筋と云うんだって、 かさ

2. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

貰いたい」 誇るに足るりつばなことだ、あやまちがどんなに大きくと 客はたまりかねたように泣いた。聞く者にも胸ぐるしくも償って余ると思う、これでもういい、なにもかもこれで くもん なるような、はげしい苦悶のこえであった。 生きる、江戸詰めになったそうだが、あっちへいってもこ 「もうそれでやめよう、たくさんだ」 の気持をゆるめずにしつかりやって呉れ、期待している おっと やがて良人がしずかにそう云った、 あ、んど 由紀はそのとき大藪の蔭の湿った黒い土を思いだしてい 「拙者はそこもとがよからぬ商人にとりいれられて、米の 売買に手をだしているらしいということを聞いた、意見した。あの藪の蔭にはこのように大きな真実がひそめられて ようかとは思わないではなかったが、そんなに深入りをすいたのだ、友の過失をかばい、困難をわかちあうという、世 間にありふれた人情が、ここではこれほどのことをなしと る気遣いもあるまい、そのうちにはやむであろう、そう軽 く考えていたのだ、友達としてそんな無責任な考え方はなげている。然も良人はかたく秘してほのめかしもしなかっ 、気がついたときすぐに意見すべきだった、 : ・人間は た、いま瀬沼自身が告白しなければ、事実は永久に闇へほ 弱いもので、欲望や誘惑にかちとおすことはむつかしい、 うむられたに違いない。「人はこんなにも深い心で生きら 誰にも失敗ゃあやまちはある、そういうとき互いに支えあれるものだろうか」由紀は切なくなるような気持でそう思 ごろ い援助しあうのが人間同志のよしみだ、あのときのことはった。それにしてもこの頃の自分はどうだったろう、僅か 知っていて、意見をしなかった拙者にも半分の責任があるな衣装や道具を売り、出穉古をすることなどがいかにも安 と思った、そして自分にできるだけのことはしてみようと倍の家のためであるように思いあがった、姑に小言を云わ 考えたのだ、それが幾らかでもそこもとの立直るちからにれると自分を反省するよりさきに相手の理解の無さをうら なって呉れればよいと思って : ・ : ・」少しも驕ったところのみ、自分のつくしたことが徒労だなどと思った、いったい ない、水のように淡たんとした言葉だった。その飾らないそれほどのことを自分はしているだろうか、あの藪の蔭に しずかな調子が、却って真実の大きさと美しさを表わしてひめられていた良人の真実に比・ヘられるほどの、どんなこ とをしているというのだろう。 : 由紀はからだがかっと しるように、んた、 ぶぎよう ばって、 「そこもとは立直った、奉行役所に抜擢されたということ熱くなり、恥すかしさのために思わず拳をにぎりしめた。 わず 「母上はまだお戻りなさらないか」 を聞いたとき、拙者は自分の僅かな助力がむだでなかった ことを知り、どんなに慶賀していたかわからない、 これは そう云って休之助がはいって来た。 かえ こぶし

3. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

きめのあらたかさには勝てず、その店を出たときには足も「べら・ほうめ」と増田がどなり返した、「そこにいるのは とがふらふらしていた。 誰だい、とはなんだ、てめえの亭主の声を忘れるようなか だれ 「疲れてるから毒だって、べら・ほうめ、誰だと思ってるんかあが、どこの世界にある、そんな不実なかかあがどこの だ」あるきながら増田は云った、「昨日や今日飲みはじめ世界にあるかってんだ」 こうし た酒じゃあねえんだ、ふざけるな」 障子があいて、電燈の光りが格子の外まで伸び、土間へ 「わかったよ、親方」と誰かが云った、「親方の云うこと勝子が出て来て覗いた。 もっと は尤もだ、おらあ一言もねえがね、うちにゃあかかあとが「まあ、おまえさんじゃないか、どうしたのさ きが待ってるんだ」 勝子は格子をあけた。 「待たせとけよ、かかあやがきは逃げやしねえや、おめえ、 「じゃないか、とござったな」増田は土間へよろけ込んだ、 びつくり おんやこの野郎、初つあんだと思ったらそうじゃねえ「へつ、そんなことう云われて吃驚するようなこちとらじ な」 ゃあねえそ、ふざけたことうぬかすな」 「たのむよ親方、おらあもう帰らなくっちゃならねえん「おお臭い」勝子は自分の鼻の前で手を振った、「また鬼 ころしを飲んだね、臭くって鼻が曲りそうだよー 増田は相手を捉まえようとしてよろめき、どこかの家の 戸袋へ倒れかかった。 なにが鬼ころしだ、鬼ころしを飲んだからどうだってん 「静かにしておくれ、誰だい」と女の声でどなるのが聞えだ、そんなふうに増田がくだを巻き、勝子はなだめて部屋 すわ た。それみろ、かかあは逃げやしねえや、ちゃんとうちに へあげようとし、増田は土間へ坐りこんだ。 けつからあ、と呟いた。そうして戸袋からはなれ、頭をひ そこへ河口初太郎が帰って来たのである。から弁当の包 ねって考えた。 を振りながらふらっと来て、格子口から中を覗きこみ、そ の「待てよ、まあ待ってくれ」と彼はあたりを見まわした、 の眼を細くしたり大きくみひらいたりし、頭を強く左右に ひとみす 季「あの屋台店で鬼ころしをひっかけてよ、それから横丁へ振ったのち、改めてじっと眸子を据え、なにかふしぎな物 曲って、 どっかではしごをやったな、いや、いやそん躰でも発見したかのように、勝子と増田をつくづくと見ま Ⅱなこたあねえ、ねえか、ねえとすると」 もった。 「誰だい」とまた女が云った、「そこにいるのは誰だい」 「あらお帰んなさい」と勝子が云った、「このしとまた鬼 つぶや のぞ

4. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

あわ 、「ごっぺかえした」と云いながら、慌てて奥へ逃げて しい感情、たとえば憎悪と悲嘆といったようなものが、心 いった。半三郎にはわけがわからず、ごっぺかえしたとは の中でせめぎあい、どちらをも抑制することができない、 まだら どういうことだ、と考えた。あだこの眼のまわりが黒く斑 というふうに半三郎には受取れた。 なべ になっていたが鍋でもひっくり返して、鍋墨でも付いたの いえ、これ以上は云えません」とあだこは首を振った、 か、などと考えていた。 「あたしがうちにいてはいけなかったんです、あたしがい 一一月になり、その月も終りかかった或る日、台所で人の なければ母はおちつけるし、きっとうちの中もうまくいっ 呼ぶ声がした。あだこはお針の稽古にゆき、半三郎は居間 ていると思います」 おっと 年が七つも下の良人を持った母、同じ家にいる年頃の娘。で寝ころんでいた。 だんな そして娘は家出をしなければならなかった。半三郎にはお「米を持って来たが旦那は留守かね」と台所でどなるのが よそ事情がわかるように思えた。その母は親であるよりも、聞えた、「旦那はいらっしやらねえのかね」 もっと多く女であったのだろう。そして娘もまた女として半三郎は寝ころんだままどなり返した、「おれに用でも あるのか」 の敏感さで、そのことに気づいたのだ。 「米屋の市兵衛です、ちょっとおめにかかりてえんです 「えらいな」と彼は云った、「よく思いきって出た、あだ こはえらいよ」 が」 「あだこはいない」と彼はどなった、「米はそこへ置いて あだこは泣き笑いをしながら、両手の指で眼を拭いた。 いぶか そのとき半三郎の表情が急に変り、ロをなかばあけて、訝ってくれ」 「旦那に話があるんです、済まねえがちょっとここまで来 しそうにあだこの顔をみつめた。 「実の親子でいてもこんなことがあるのかと、情けなくっておくんなさい」と市兵衛が喚き返した、「それとも私の て、あたしずいぶん悲しゅうございました」と彼女は眼をほうでそっちへ伺いましようか」 無礼なことを云うやつだ、と半三郎は思った。市兵衛は 拭きながら云った、「でもいまはもう悲しくはありません、 米屋の主人で、これまでに幾たびか会ったことがある。む もうすっかりあずましごすてす」 「ちょっと」と彼が云った、「おまえ眼のまわりをどうしろん父の死後で、彼が札差から金を借りつくしたあとの出 入りであるし、市兵衛の店にも相当な借が溜まっているわ たんだ、眼のまわりが」 あだこはひやあといった、妙な声をあげて両手で顔を掩けだが、仮にもこっちは旗本、相手は商人にすぎない。そ おお わめ

5. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

女房が大きな湯呑を盆にのせて来て、あいそをいいなが岩太は手を伸ばした。 「ーーー来て呉れたか、角さんのあにき、おらあおめえを待 ら差出した。下役人は湯呑だけ取って、ひとくち飲んで、 ってたんだぜ」 咽せた。 「いま来たところだ」 「頼むから角さんのあにきを呼んで呉れ」 「おめえを待ってたんだ、おらあもう、済まねえがちょい 岩太がまた喚いた。作間武平はちょっと考えて、ひとく ひね とっきあって呉んねえ、あにき、おらあもう死んじまいた ち飲んで、首を捻った。 くなってるんだ」 「そうだ、しよびいてゆこうじゃないか」 「まあ待ちねえ、おめえ家へ帰らなくちゃあいけねえんだ。 武平は湯呑のものをすっかりあおった。すると待ってい たように女房がもう一つ湯呑を持って来た。春だけれどもしかしこいつは、ひどく酔ってやがるな」 この寒さはどうだとか、さりげなく云って、盆のままそこ角さんは独り言を呟き、それから「おかねさん」と釜場 へ置いていった。武平は横眼で見て、湯呑のほかに小皿ひのほうへどなった。 「おれの草履が裏にあるからまわして呉れ」 とつないので、渋い顔をした。 わ、 こうどなると、作間武平が脇から云った。 「よしそうしてやろう」 「私もいま云っていたんだが、この男に家へ帰れと云って 武平は呟いた。 みまわ いたんだが、それは見廻り組へ鈴木殿から人がみえてみつ 「ーー・ひとっしよびいていってやろう、まんざらむだ骨に かったら知らせて呉れということだったので」 もなるまいじゃないか」 「こう酔ってちゃあしようがねえ」 部屋のほうで人の声がした。障子をあけて、三十四五に たくまからだ 角さんは独り言を云った。骨の太そうな逞しい嫗つきで なる男が店へ出て来た。 ある。肩も腰もがっちりしていた。色の黒い、顎の張った 「おう作間さんかい」 あと 下役人はふり返って、ばつの悪いようなあいそ笑いをし、いかつい顔だが、額にかなり大きなかたな傷の痕があるの やり なにか云いそうにしたが、男はもう岩太のほうへ近よってで、いかついうえ凄みがあった。槍持ちは下郎にすぎない が、この向う傷のために、彼は主人の長岡佐渡に愛されて いたし、またなかまのあいだにも人望があった。角さんは 「どうした岩さん、やってるのか」 、ら 「おう、あにき」 弱い人間にはやさしかった。作間武平のような下役人は嫌 つぶや ゅのみ すご

6. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

ている瓦や瀬戸物のかけらを拾って、捨てにいったりした。意味は違うが、かれらは知らないのだ。平さんの小屋で は、かみさんたちの想像するようなことはなにもおこらな 女が平さんの小屋にいついたことは、すぐ近所の人たちかった。 にみつけられた。初め水道端でみかけたときは、新しく移晩めしが済むと、平さんは少し食休みをしたあと、およ って来た人だと思い、こんなところに住むような人柄ではそ十時ころまでマットレスを編む。必要があるからではな かわい 時間つぶしのようで、仕事はあまりはかどらない。蠍 ないとか、可愛い顔をしているとか、小さくて軽そうなあく、 からだ の嫗つきを見ると女のあたしでも抱いてあやしてやりたく燭の火で眼が疲れ、涙が出てくるようになると、織り機を なるなどと、かみさんたちは云いあった。しかしそれは一一片づけて寝る。ーーー女はあと始末をし、平さんの脇で、薄 日ばかりのことですぐに事実がわかると、かみさんたちのい蒲団一枚にくるまって横になる。むろん蝋燭は消してし まうから、月夜でない限り小屋の中はまっ暗になる。平さ 評は逆転した。 しいとしをしてんはときどき寝返りをうつが、いびきをかくようなことも 「おどろいたね、押しかけ女房だってさ、 めったにない。そしてやがて、女がすすり泣きをはじめる なんてこったろう」 「平さんも平さんだ、あんなおばあちゃんに入れあげてたのだ。 草原を風が吹きわたるような、ひそかな声ですすり泣き、 とは思わなかったよ」 のど 「あの顔つきを見な、あの驅つきを見な」とあるかみさん喉になにか詰ってでもいるような、かすれた囁き声で、と は云った、「あたしの昔よく知ってた人にああいうふうなぎれとぎれに話しだすのであった。 人がいたけれどさ、あれは人並はずれていろぶかい性分だ「店のほうはうまくいってます、婿がよく働いてくれます よきっと、五十になっても六十になっても、からだはいろから」と或る夜は云った、「よくできた婿で、あたしにも 街 ざかりでちっとも衰えないっていうくちさ、よく見てみれよくしてくれます、いまでもあなたの話がでると、うちへ 来てもらおうって云うんです」 のばわかるよ」 季「それだもんであんた、抱いてあやしてやりたいなんて云「あたしどうしたらいいの」と或る夜は云った、「家付き 娘に生れて、わがままいつばいに育ったから、罪なことも ったんだね、いやらしい」 「へえ、いやらしいって」とそのかみさんは反問した、罪だとは知らなかったんです、とくべつに好きだからあの 人とそうなったんでもなし、生んだのがあの人の子だとい 「おまえさん知ってるのかい」 かわら ふとん ささや わき

7. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

へし曲った一本のタ・ハコを抜き取ると、こんどはあらゆるません、あれはわたしの子供なんですから」 ポケットを捜したのち、聴診器といっしょにライターをつ 「まあまあ」と云って院長は辰弥を見た、「きみは弟だと かみ出して、ようやくタバコに火をつけた。 いったね」 ずがい うなず 「なにしろ頭蓋骨折で、手足にも骨折があるでしようね、 辰弥は頷いた。 心臓も肥大しているな、酒の飲みすぎだと思うが、ここへ女親に見せるのはむりだ、と院長は云った。しかし病院 かっ 担ぎ込まれたときにはもう意識不明でした、ああ、本人はの立場としては、患者に対する応急処置や、使用した高価 苦痛も感じていなかったと思う、頭蓋骨折だからね」 な注射薬について親族の了解を得る必要がある。なおまた 「しかし」と辰弥が反問した、「住所姓名は云えたんじゃ希望によっては、 その費用を払う能力があればのはな ないんですか」 しだが、 さらに高価な注射薬をもちいてもよい。そう いう意味で、きみに病室へいってもらいたい、 と院長は云 っこ。 「それは違うね、まったく話が違うね、ああ」と院長は云 ほくが会います」辰弥はそう云って母を見た、 った、「あの患者は意識不明のまま担ぎ込まれて来たんだ、 「・ほくが先に会いますー辰弥はそう云って母を見た、「・ほく さっきも云ったとおりね、係り官は聞いたかもしれない、 たぶん係り官が事故現場へ駆けつけたときには、まだあるが先に会いますよ、そのようすによっておっかさんも会う いはロがきけたかもわからん、しかしここへ担ぎ込まれてほうがいいでしよう」 来たときは、意識不明でロをきくどころじゃなかった、は「あの子は死ぬんですね」母は院長に云った、「あの子は つきり云えばだな、丸太ン棒を放り出されたみたようなも助からないんですね」 んだったよ」 辰弥が「おっかさん」と制止した。院長は医者であるこ 「会わせて下さい」と母は云った、「あれはわたしの子供との威厳を示しながら、医者には患者の生死について発言 ななんです、どうかいますぐに会わせて下さい」 することは許されていない。患者が生きているうちは生ぎ にくたい 節「会ってもわかりやしませんよ、ひどい姿になっているし、ているのであって、呼吸と心臓が止り、その肉躰が生きる 包帯をしてはあるがそれも血だらけで、まあおっかさんは ことをやめたと確認したとき、はじめて「死」を宣告する ことができるのである、と云った。 見ないほうがいいでしようね かっこう 「いいえ会います、どんなにひどい恰好だって驚きゃあし「この仁善病院は儲け主義の病院じゃないんだ」と院長は

8. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

るんだろう、 しいよ、おまえだけじゃないんだから」 ことが多く、またお互いの仕事が違うためもあろうが、以 「注文の仕事が閊えてるんだ」と繁次は眼をそらしながら前ほど親しい往き来はしなか 0 た。 どうして二人はいっしょにならねえんだろう。 答える、「名ざしの注文なんだから、休みだからって遊ん いぶか でるわけこよ、 冫。し力ないんだよ」 繁次はそれが訝しかった。参吉にも祖父とその女がいる あが がまら そんなふうに上り框で云って、そのまま出てしまうことし、おひさには寝たっきりの父親がある。たぶんそれが障 が多かった。おひさは父の看病をしながら、仕立て物の賃りになっているのだろう、と思ったけれども、参吉は男で 仕事をしているそうで、ときには母のところへ、わからなあり、祖父は丈夫で女もいる。その気になればおひさと夫 いところを訊きに来ていて、繁次と顔の合うこともあった婦になって、病人ひとりくらい養ってゆけるではないか、 が、おひさのほうが先に眼をそらすようで、話をする機会などと思ったりした。 夏になってから、ー・・ー浅草寺の四万六千日のすぐあとの は殆んどなかった。 ことだが、繁次が晩めしを済ませたところへ、参吉が訪ね て来た。 「おばさん今晩は」そう云いながらさっさとあがって来、 つまようじ わ、すわ 一一十四の年の三月に、繁次はようやく年期があけて、黒爪楊枝を使っている繁次の脇に坐った、「おめえに見せて 船町裏の家へ帰った。店と縁が切れたわけではなく、かよえものがあるんだ、こいつを見てくれ」 いでもう一一三年仕事をすれば、親方が店を分けてくれる約あっけにとられている繁次の前へ、二尺に三尺ほどの紙 あんどん 束であった。 をひろげた。母がちゃぶ台を持ってゆき、参吉は行燈を引 こうなれば避けるわけこよ 冫。いかない。朝でかけるときなきよせた。その紙には一脚の厨子の絵が、極彩色で描いて ど、しばしばおひさと出会った。おひさも十九で、すっかあった。 あいさっ り女らしくなってい、朝の挨拶をするときなど、ちょっと「おれにはよくわからねえが」と繁次が云った、「見たこ こび した微笑や、おじぎのしかたなどに、ほのかな媚が感じらとのねえもんだな、文台ってやっか」 ひさし れた。そんなことが眼につくと、繁次の胸はまた痛みにお「庇一一階の厨子っていうんだ」 「大名道具だな」 そわれ、一日じゅうその痛みの続くこともあった。 こうふん 参吉ともよく会うが、 / 。 彼ま泊りこみで修理物にでかける「紀州さまから出たんだそうだ」と参吉は昂奮して云った、

9. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

うからって」 くゆき、刺傷部の状態もおおむね良好ということであった。 「いや、はらました相手にきまってるさ」京太は主張した、「どうしてこんなことをされたかわからない、・ほくはかっ じんもん 「ほかのことなら云えるだろうが、恥ずかしい話だから云ちゃんが好きだったんです」岡部少年は刑事の訊問にそう えないんだ、それにきまってるよ」 答えたという、「・ほくはかっちゃんが可哀そうでしようが なかった、はたらきどおしにはたらいて、食う物もろくに 云いつのる亭主の言葉を、おたねは黙って聞くだけであ食わされなかったんじゃないでしようか、いつも痩せて眠 った。警察から呼び出しがあっても、おれは関係がない、 をく・ほませてましたよ、だからぼくはかっちゃんが来ると、 * みようけん かっ子はおまえの姪だ、と云って京太はそっぽを向く。お大饅頭を買ってやった、ときにはいっしょに妙見様へいっ たねはさからおうともせずでかけてゆき、父親はどうしたて、話しながら喰べたこともあるんです」 少年はかっ子の気持がわからないと繰り返した。かっち ときかれれば、京太に教えられたとおり、病気で来られな いと答えるのであった。 ゃんはみんなから「がんもどきーとからかわれていたが、 かっ子の調べは少しも進まなかった。どう手をつくして少年は決してそんなことは云わないし、誰かがそんなこと を云っているのを見ると、中にはいってとめるくらいであ も、犯行の理由を云わないのである。 【も・り 「きみのわるい子だよ」と刑事の一人は云った、「なにをつこ。、 ナカっちゃんも少年が好きだったようだ。大饅頭を貰 うとうれしそうな顔をしたし、妙見様へさそうといっしょ きいても黙りこんだままでね、ときどき歯を剥きだすんだ、 くちびる 笑うのかと思うとそうでもないんだな、唇がこうゆっくに来て、少しは話もしたのである。それなのにどうしてこ りとひろがって、そうすると歯が見えてくるんだがね、よんなことをしたのか、どう考えてみてもわからない。かっ さる ちゃんはなにか間違えたのではないだろうか、きっとそう 街く観察すると笑うんじゃないんだな、猿を怒らせるときー 0 とい 0 て歯を剥きだすが、あれでもないんだ、笑うんでにちがいない、と少年は云い続けた。 のもなし怒るんでもないんだ、見ているとぞーっとするね、 「ええ、・ほくはなんとも思いません、かっちゃんのしたこ とでかっちゃんを憎らしいとも思いませんし、恨めしいと 季ああ、きみのわるい子だよ、まったく」 おたねは草田病院へもみま、こ し冫いった。岡部定吉は幸運もくやしいとも思いません」少年はそう云った、「ぼくが にも死なずに済み、全治三週間と診断された。刺し傷は胸なにかしてかっちゃんが罪にならないなら、ばくはどんな わす であったが、僅かに心臓をそれたのが幸運で、輸血もうまことでもします、あんな物で突かれたのはぼくですし、本 まんじゅう かわい

10. 現代日本の文学 Ⅱ-8 山本周五郎集

じているようであった。 みていやあがれと思い、「五桐」の店を出るなり、見かけ 彼はやがて自分のやる仕出し魚屋について語り、淡路屋る酒屋へ寄って立ち飲みをした。三軒で冷酒のぐい飲みを だんな っ の旦那について語り、魚政の親方について語った。どっちし、お蝶のところにさっときりあげたが、「源平ーへ も重吉には知らない名だったが、とにかく淡路屋の旦那は てから酔いが出た。 良吉が贔屓で、彼が店を持っときには資金を貸す、という 自分では酔いが出たとは、気がっかなかった。勘定日の 約束になっているというし、魚政の親方は仕出し料理のこ夕方だから客が混んでいて、その中に一人、重吉の眼を惹 しるしばんてん つを教えてくれるそうであった。 く男があった。年は四十五、六だろう、くたびれた印半纏 もも然 ) ・さ からだ 「いまに楽をさせる・せ、ちゃん」と良吉は顔を赤くして云に股引で、すり切れたような麻裏をはいている。顔も驅っ さかな った、「もう五、六年の辛抱た、もうちっとのまだ、い まきも、痩せて、貧相で、つきだしの摘み物だけを肴に、 におれが店を持ったら楽をさせるよ、ほんとだぜ、ちやさくなって飲んでいた。 ん」 重吉は胸の奥がきりきりとなった。その客はこの店が初 重吉はうれしそうに徴笑し、うん、うんとうなずいてい めてらしいし、自分が場違いだと悟っているらしく、絶え ずおどおどと左右を見ながら、身をすくめるようにして飲 それが三月はじめのことで、まもなく十四日が来た。そんでいた。重吉はその男が自分自身のように思えた。隣り の夕方おそく、もう灯がついてから重吉はお蝶の店にあらの客に話しかける勇気もなく、小さくなって、一本の酒を かっこう われ、ほんの二本だけ飲んで、溜まっている借の分に幾らさも大事そうになめている恰好は、そのまま、いまの自分 か払い、それから「源平」へ寄った。 を写して見せられるような感じだった。 お蝶へゆくまえに、彼はもう飲んでいたのだ。お店で受「おかみさん」と彼はおくにを呼んだ、「奥を借りてもい ん取った勘定が、予定の半分たらずだった。主人は云い訳を いか」 ごとうひばら や云ったが、要するに五桐火鉢では儲からない、ということ「ええどうぞ、そうぞしくってごめんなさい」 であり、売れただけの分払いということであった。 「そうじゃねえ、あの客と飲みてえんだ」 ち くそくらえ、と重吉は思った。勝手にしゃあがれ、そっ と重吉はあごをしやくった、「うん、あの客だ、おれは どろ ちがそう出るなら、こ 0 ちもこ 0 ちだ。こうな 0 たら、泥先にあが 0 てるから、済まねえが呼んでくんねえか」 にでもなんでもなってやる、押込みにだってなってやる、「だって重さん知らない顔よ」 あわじ