でひとついかがです、初あきないだ、お安くしときますをした。 三番目に寄って来たのは、一一十七、八になる若夫人で、 たてじま こまかい竪縞のはいったウールのツー・ヒースにトルコ帽に 「・ほくはね、きみ、このほうで専門家なんだ」と紳士はい ・・ハッグを左の った、「しようばいじゃない、釣るほうだがね、うちの庭似た赤い小さな帽子をかぶり、ショルダー の池には釣ってきた鯉が、いつでも四、五十尾は放してあ肩にかけていた。細おもての顔もきれいだし、化粧もあっ そば にお るんだ、よけいなことかもしれないがね、きみ、こんなたさりしていて、側へ寄ると上品な香水の匂いがひろがった。 きびいろ 錆色のパンプスのハイヒールがあんまり細くて高いのを、 ん・ほ飼いの鯉なんか臭くって食えやしないぜ」 そういうと紳士は鞄とステッキを持ち直し、ちょうど来春彦はあぶなっかしいなと思いながら、誠意をこめてあい そ笑いをし、容器のほうへ手を振った。 かかった・ハスのほうへ去っていった。 「きいたふうなことをいうやつじゃないか、なにがたんぼ 飼いだ」 「これ、なあに」と若夫人は容器の中をのそきながらきい ちろはあざ笑ったが、それでも気がかりになり、鯉のた、「おさかなね」 ふな 容器の中をのそいてみた。そっと手を入れてそいつを突っ 「へえ、こっちが鮒でねがす」とちょろは答えた、「ふな、 いてみ、その指を鼻へ持っていって嗅いでみた。 ご存じねでがすか」 「さかな臭いだけじゃないか、知ったようなごたくをぬか 「あらこれが鮒っていうの」若夫人は身をかがめ、眼をか して、へ、うちの庭の池だって、印旛沼か手賀沼か、へ、 がやかしてその魚に見入った。「まあきれい、まるで生き ああいうのが三百代言かなんかやるんだな、きっと、なんているようじゃないの」 びつくり をしいと思ってやがるんだ」 「そのとおり、持ってくるまで生きていたっげが、持って 街でも人を吃驚させれま、 いなか 彼は問屋のおやじのいったことを思いだした。山の手の来るについて水から揚げんたんへえ、田舎がちっと遠いも の人種は川魚が嫌いらしい。とぼけたような口ぶりだったが、んでねがす」彼はあいそ笑いをし、鯉の容器へ手を振った、 節 あのじじい案外よく知ってたのかもしれないぞ。こう考え「その代りにゃあ、こっちの鯉は生きてるでヘ、こんとお ると、にわかにこころ・ほそいような、この世ぜんたいが苦りびんびんだあ」 難に満ち満ちた、将来性のない、わる賢い人間だけしか生「あらほんと、鯉だわ」若夫人は熱心に見まも 0 た、「鯉 きられない世界のように思えてき、彼は大きくて長い溜息は覚えてるわ、まあうろこが金色に光ってるわ」
と思ったがあのあまのこった、長屋じゅうの騒ぎになるか「酔ってるよ、だめだったらおよしってばさ」 良江のロぶりは彼を止めるのではなく、唆しかけるよう らとびだして来た、みてくれ、まだここんとこがどきんど に聞えた。もちろん、彼女にそんな意志はない、亭主が酔 きんと鳴ってるから」 えり いすぎているから、いってもむだだとわかっていたのであ 彼は着物の衿をひろげ、黒い毛のみつしり生えた胸をひ たた る。 たひたと叩いた。良江の眼が、増田の胸毛を見て光った。 眼球の内部からさっと閃光がはしったようにみえ、そのま ま三白眼になった。 けれども、人間はいつも意志によって行動するものでは ていしゅ 「しようがねえな、女ってものあしようがねえもんだ」河ない。良江が亭主に「ゆくな」と云ったのは、亭主が酔い くらびる ロは唇を手の甲で拭きながら云った、「笑っちまえば済すぎているのを認めたからであると同時に、そういう止め むこっても、見識だの法律だのって、すぐむずかしく理詰かたをすれば、亭主がやっきになって自分の我をとおす、 という癖のあることを知っていた。認識論的に知っていた めに持ってゆきたがる、つまり暇をもてあましてるんだ、 笑っちまえばそれつきりだから、なんとかこじらしてたののではなく本能で感知していた、というべきであろう。し そそのか しもうってえわけだ、よし、おれがいってよく話してこよたがって、彼女がその亭主を唆すような調子でなにか云 ったとしても、それは完全に意識外のことであって、彼女 う」 自身にはかも責任を負う必要のない問題であった。 「そんな厄介をかけちゃあ申し訳がねえ、うっちゃっとい 河口は出てゆき、良江は増田に酒をすすめた。増田はも てくれ」 「そうはいかねえ、あにいとおれの仲でおめえ」河口は立う定量以上に飲んでいたけれども、自分では感情を害して いるため、飲んだだけ酔ってはいないように思いこんでい 街ちあがった、「これが黙って見ていられるかって、ねえ、 て、すすめられるままに飲み続けた。 相手は誰だっけ」 さかず、 の「およしよ、ばかだねえこの人は、すっかり酔っちゃって「あたしも一杯いただくわ」やがて良江も盃を持った、 しやく 「お酌して下さいよ」 季るじゃないかさ」と良江が云った、「お勝さんのところへ 「いただく、とはござったな」増田は酌をしようとしたが、 なだめにゆくんだろう、相手は誰だっけなんて、いったっ 手がふらっくので酒をこばした、「ははあ、おれの手は酔 て話なんかできやしないよ」 っちまったようだな、それつ」 「大丈夫だよ、これつばかりの酒で酔ってたまるかえ」 やっかい せんこう ささ
でいった、「その本人に来てもらえば黒白がはっきりする、「きみのいう本人はきみの妻だろう、自分の妻のふしだら めいりよう ということじゃよ、 チー . し、カノ、 、よ、まくはそれがもっとも簡単明瞭を・ほくのところへねじこむのなら、その本人である妻をだ、 ていしゅ 亭主であるきみが伴れて来るのは当然じゃないか、そうじ な収拾策だと思うがどうだろう」 「だからその本人を返してくれっていってるんだよ、先やないか治助くん」 この問題が中心議題の周囲をからまわりしていることは、 生」 「返してくれって、・ほくがおはちさんをどうかしてでもい断わるまでもない。しかし、からまわりをしているうちに 二人の思考は、求心力の作用でやがて問題の核へぶつつか るっていうのかね」 「いうのかねったって」治助はじれったそうに頭の毛を掻ることができた。そしてそれは先生のいうとおり、じつに ただいま きむしった、「おれはね、こんにち唯今ここへ来たわけじ簡単明瞭なことなのだった。 ゃねえんだよ、おはちの、いや、おはつのやつのようすが「うちの塾生だ、それは」と先生はいった、「八田忠晴と いって、三月ばかりまえに入塾した青年だ」 おかしいと気がついたのは二た月もめえのことで、おれと しちゃあじっくり思案した、おれは眠れるかな、と幾十た「先生じゃねえってか」 「ばかなことをいうな、この寒藤清郷は痩せても枯れても びも考えてみたが、おれは眠れねえようなことはなかった、 けれどもおかしいなと気がついたこともたしかで、おれが国士だ。そんなことはさっきから繰り返しているとおり、 おはち本人にきけばわかることだ」 眠れねえようなことがないにしろ」 がまら 「それがうちにはいねえんだよ、先生」治助は上り框へ腰 「まあきみ、治助くん」と先生が制止した、「話を簡単に くちびる しようじゃよ、 オしか、え、きみがいうのはおはちさんを返せをおろし、厚い唇を指でつまんだ、「ゆうべ夜なかにと びだしたらしい、朝起きてみたらいなかったし、いまにな ということだろう、・ほくはまたに まくで、おはちさんを」 っても帰って来ねえ始末なんだ、ほんとだよ先生」 「おはつだってばな」 「その人を伴れて来れば簡単明瞭だといってるんだ、え、 だからその本人をここへ伴れて来るのがいちばん先のこと「ぼくの塾生もゆうべからいなくなった、・ほくが気がつい じゃないか」 たのはやつばり朝になってからだが、ーーするとこれは、 駆落ちかもしれないな」 「先生はおれの頭をどうにかしようっていうんだな」 とが 「かかあのやつは、自分の物をいっさいがっさい持ってつ 「きみの頭をどうするんだ」先生はついに声を尖らせた、
きくあきら かばん 索は諦めたように、また二つの容器をのぞいた、「見たこ鞄とステッキを右手に持ち替えて、鞄だけ脇に挾み、ステ とのある魚だけれど、なんというのかもういちど聞かしてッキの先端でペ 1 プメントをたたきながら、容器の中の魚 類を見、その眼で土川春彦を見た。 下さいな」 「これはきみが釣ったのかね」と紳士はきいた、「それと 「こっちのちっこいのがふな」と彼は答えた、「こっちの も投網かやなででも捕ったのかね」 大きいのがこいでねがす」 「おらあ近県のものでねがす」春彦はたじろぎながら答え 「まあ、鮒と鯉ですって」 た。「これはヘえ鮒と鯉で、わしが百姓仕事のあいさに捕 「そうでねがす」 「まあいやだ」中年婦人は袂からハンカチーフを出して鼻ったねがす」 を押えていった、「鮒だの鯉だのって、きみのわるい、お 「この鯉はたん・ほ飼いだな」 ーいやだ」 紳士はちょろのいうことなど聞きもせずにいった。実際 そして・ハス・ストップのほうへ去っていった。 しわ 「ちえ 0 、田舎者が」と土川春彦は鼻柱〈皺をよせ、脇のには、みろの言葉がまだ終らないうちに、独りで首をひ ほうへ唾を吐いた、「ああいうのを典型的なざあます人種ねりながら発言したのだ。たん・ほ飼いとはなんのことか、 っていうんだろうな、知りもしないくせにきみがわるいだ春彦には理解できなかったが、ほめているのではなく、ど ってやがる、てめえのほうがよっぽどきびがわるいや、ヘうやらけちをつけているらしいので、彼はむっとした。 だんな 「冗談いっちゃいけませんよ、旦那、冗談じゃねえ」と彼 つ、なんだ、めがねなんそひけらかしゃあがって、あんな はいい返した、「よく見ておくんなさい、こいつはれつき へえ、おいでな めがねなんそにびつくらするような、 とした天然ものですぜ」 せえまし」 「こっちは鮒か、まるで金魚みたようだな」紳士は構わず 彼はあわてて独り言をやめ、おじぎをした。五十年配の * いんばぬまてがぬま 紳士が近よって来、二つの容器をのぞきこんだのだ。肥え続けた、「この魚には見覚えがある、印旛沼か手賀沼だな、 こいつも飼った鮒だ、近ごろは百姓もしゃれたまねをする ているときに作った背広が、当人の痩せたためにサイズが うわぎ 合わなくなったのか、上衣もズボンも生地は高価らしいのようになったからな」 「旦那はお詳しいね」ちょろは戦法を変えた、「旦那のよ にだぶだぶに皺だるみ、ヒップのところなどは袋のように 垂れていた。紳士は左手に持っていたべしゃんこの手提げうな方にあっちやかないませんや、そのお眼の高いところ たもと てさ
合ってるけれども、こういう、木と泥と紙で出来てる家にきみたちやきみたちの子や孫のことも考えなければならな ばかり住んでるとさ、長いとしつきのあいだには、民族の いとするとさ、やはり一概に個人的な好みばかりも云って 性格までがそれに順応して、持続性のない軽薄な人間がではいられないんだな」 きてしまうんだな」 「そうだね、うん、ほんとだ」 たそが 街は雨のうちに黄昏れかかってき、往来はタクシーや通 父親はそこで欧米人の性格について語り、かれらの能力行人たちゃ、トラックなどでそうそうしくなっていた。け を支えてきたものは、石と鉄とコンクリートで造った家とれども、その親子にとってはまったく無縁なことのようだ ったし、タクシーの運転手や通行人や、街筋の商店の人た か、靴をはいたまま、テープルに向って食事をし、大きな ち、それらの店頭で買い物をする人たちにとっても、この 宴会する、という生活であると云った。 あいづち 子供はその一語一語を注意ぶかく聞き、相槌を打つべき親子はそこに存在しないのと同じことのようであった。 日が昏れるとその父子は住居へ帰る。それはわれわれの ところへくると、さも感じいったように頷いたり溜息をつ いたり、唸ったりした。父親のロぶりも自分の子に話すよ「街」の八田じいさんの家に添ってあり、つまりじいさん うではなく、子供のほうもまた父の話を聞いているようでの家の羽目板にくつつけて、古板を合わせて作った物であ 、つもそうなのだが、二人は父と子というよりは、った。高さ一メートル五〇、福が一メートルちょっと、長 少しとしの違った兄弟か、ごく親密な友人同志といったふさ二メートル弱の、大小屋そっくりの手製の寝小屋で、中 わらむしろ には板を重ねた床と、藁と蓆がつくねてあり、それが父子 うであった。 「それにしてもさ、さていよいよ自分の家を建てるとなるの寝具であった。 どんぶり 小屋の外にビール箱があり、中には丼が二つと箸、ふ とね、これはこれで問題がべつなんだな、自分たちがそこ いに住む家となるとさ、民族性は民族性だけれども、現実のちの欠けたゆきひらと、でこぼこにへこみのあるニューム わ、 の牛乳沸しが入れてあった。ビール箱の脇に、針金で巻い 問題はまたね」 た七厘があるが、針金を解けばばらばらになること間違い 節「みんぞくせえはたいしたことないと思うな、・ほくは」 こわ なしというほど、使い古した毀れ物であった。 「そう云うけどね、これはきみたちの将来に関係するんだ よ、ぼくたちおとなは先もそう長くはないんだしさ、これ父子は小屋の外で食事をする。ゆきひらと牛乳沸しの中 から性格を立体的に持ってゆこうとしてもむりだろうがね、に、めしと汁などがはいっていて、それはパンとシチュー うな どろ ためいき しる
耗率よりも、とみの病勢のテンボのほうが優勢であって、 とうてい追いつけなかった、というのが実情のようで とみは勤め始めてみ月めに倒れた。近所の人たちはまっ たく知らなかった。隣りの片沼二郎のかみさんは、このあった。 「街」きっての情報通で、他のかみさんたちから放送局と「あの子は脂っこい物ばかり喰べたがっていたね」おるい あだな いう渾名を付けられているくらいだったが、或る夜、塩山さんは云った、「お医者が云ってたけど、心臓の弱い者に 家がにわかに騒がしくなり、おるいさんが「とみや、とみは脂っこい物がなにより悪いんだってよ、丈夫な者でもそ からだ びつくり や」と呼びたてる声で、吃驚してとんでゆき、初めてとみうだって、脂っこい物は血を濁らせて、濁った血が躯じゅ まわ 、、た びようが うに廻ってかすを溜めるから、癌になったりよいよいにな が病臥していたこと、いま急に吐血して気を失った、とい ったりするんだってよ」 うことを知った。 おるいさんは自分の言葉だけでは信用されないと思った 医者が来たときには、とみはもう死んでいた。生れつき 心臓が弱いのに、勤めをし内職をするという過労が重なつのだろうか、新聞紙から切抜いた「医療相談」の記事を亭 て、心臓のどこかが破裂したのだと医者が診断したと、片主と娘に読んで聞かせた。要約すると、食事は低カロリー 沼二郎のかみさんは放送した。彼女はおるいさんに頼まれに、野菜を多く、米飯は少量、果物は好ましい。という内 て医者を呼びにゆき、その診察にしぜんと立会うチャンス容であったが、その記事は高血圧に悩んでいる読者の投書 に、なにがし博士の答えたもので、おるいさんはその部分 を儲けたのであった。 「でもさあ、はるちゃんより孝行もんだよねえ」とかみさは省いて読んだのであった。 「牛や馬をみてごらん、草だのわらを喰べるだけで、あん んの一人は云った、「はるちゃんは半年くらい寝たつけ、 とみちゃんはあっというまもなかったじゃないの、あのけな立派なからだをしてるじゃないか」とおるいさんは云っ た、「ーーそうだ、象だって河馬だって草しきや喰べやし ちんぼ一家の損得勘定じゃよっぽど儲けものだったにちが いないよ」 ないだろ、それであんな大きなからだをしているし、みん がん、、、、 かみさんたちは知らないのだ。 おるいさんは損得勘な癌やよいよいになんかなりやしないじゃないの、ね、そ 定などは、 少なくとも意識的には、考えもしなかった。 うでしよ、よいよいの象なんて見たことがあって ? 」 うなず むしろはるの前例があるので、必要以上に神経を使ったよ 内職の手を動かしながら、慶三は無表情に頷き、ふきは、 うであった。けれども、おるいさんが使い減らす神経の消やはり休みなしに仕事をしながら、欠伸をかみころしてい がん あくび
っちは腕だ。とにかく当ってみろと、まず娘に自分の気持えてる、思いだしたが、それはおめえの思いすごしだ」 をうちあけた。娘はべつに驚いたようすもなく、あっさり 「どこが思いすごしだ」 「ええいいわ」と答えた。 「おめえの云うとおりおれは十九、おひさちゃんは十四だ 「そのへんのおうようなところが、なんとも云えずおすが・せ」と参吉が云った、「好きだというほかになんの気持も らしいんだ」と参吉が云った、「それで勇気がついたから、ありゃあしねえ、子供同志のちょっとしたいたずらで、そ だんな すぐ旦那に話してみた、ちょっとごたごたしたが、おすがのくらいのことは誰にだって覚えがあるだろう」 がゆくというので結局はなしがまとまった」 「ちょっとしたいたずらだって」繁次の顔から血のけがひ 「ちょっと、話の途中だが」と繁次が舌のもつれるような いた、「あれがちょっとしたいたずらだってえのか、野郎」 ロぶりで遮った、「そうすると、おひさはどうなるんだ」 繁次は片手で参吉を殴った。参吉の顔がぐらっと揺れた 参吉は諏しそうな眼をした、「どうなる 0 て、おひさちが、避けもせず抵抗もしない。それでさらに繁次は逆上し、 こぶし よこびん ゃんがどうかしたのか」 とびかかって馬乗りになると、拳で相手の横鬢を殴った。 いけねえ、またやった。 「あの子は昔からおめえが好きだった、おめえだって好き だったじゃあねえか、おらあいつも見ていてよく知ってる 心のどこかでそう叫ぶ声がし、そこへおひさが駆けこん んだ・せ」 で来た。 「そりゃあ好きなことは好きだったさ、しかし好きだって 「よして繁ちゃん、危ない」おひさは繁次にしがみついた、 いうことと夫婦になるならねえってことは」 「ごしようだからよして、危ない、よしてちょうだい」 まゆ 「しらばっくれるな」と云ってから繁次は声を抑えた、 繁次は殴るのをやめ、参吉の眉のところにある ( 昔の ) きずあと 「おい、おれはこの眼で見たんだぜ、おめえとおれが十九、薄い傷痕を見た。 おひさが十四の年だ、おれの店へ訪ねて来たおめえは、勝「穏やかに話そう」と参吉が平べったい声で云った、「近 まきごや 手口の外にある薪小屋のところで、おひさと抱きあってた、所へみつともねえから」 どんなふうに抱きあってたか、おれの眼にはいまでもはつ「繁ちゃん。とおひさが泣き声で云った。 えり きり残ってるんだ、あれが、ただ好きだっていうだけでで繁次は軅をどけ、参吉は起き直って、着物の衿を合わせ こ 0 きることか」 あえ 「待ってくれー参吉は額を横撫でにした、「ーーーうん、覚「もういい大丈夫だ」と繁次は喘ぎながらおひさに云った、 よこな たな からだ
い、まあ治助くんおちついて」 治助は平生おちついた男で、たんば老人の話によると、 ひぎ 「めしを食ったものかどうかと、よくよく思案してみたう先生がそこへあぐらをかき、縞ズ・ホンの膝をつまんで皺 えで、初めてめしを食うことにきめた」そうであるが、典を伸ばすのを眺めながら、治助はまだ怒りのおさまらない 型的ともいうべき律儀者であり、人のうちへどなりこむと顔つきで、他人の女房を横取りするようなことは、仮にも けんか か喧嘩をする、などということは、博奕きちがいの徳さん先生と呼ばれる人間のすることではあるまい、と責めたて た。・ほくはそんなことは知らない、それは誰かの悪意から でさえ、賭けの対象にはしないだろうと信じられるくらい、 出たざんそにちがいない、と先生は答えた。 治助には縁のないことであった。 しぶし それがいま、彼は怒りのために拳をふるわせ、ぶしよう「先生がまずそんなふうにしつべ返しをくらわせて、おれ たた しるしばんてんそで ひげ 髭だらけの黒い顔をつき出し、古い印半纏の袖をまくって、の出鼻をひっ叩くだろうとは、証人たちもいっていたよ、 だがな先生、みんなが現に見ているんだ」と治助はいった、 いまにも先生に殴りかかりそうな気勢をみせた。 「なにをどなるんだ、なんだ」と先生はまごっいて、治助「おはつのやつがこのうちの裏からもぐりこんだうえ、一時 間ぐらいするとこそこそ出て来て、頭の毛かなんかいじり の拳を防ごうとでもするように、片手を前へ出しながら云 ながら、こそこそ帰ってゆくところをよ、え、先生、これ った、「ーーー・ほくがなにか悪いことをしたのならあやまる、 でも知らねえっていい張る気かえ」 まあおちついて」 あごびげ 「おれのかかあを返せ」と治助はどなった、「おれの女房「待ちたまえ、まあ待ちたまえ」先生は顎髯を撫でた、 「ーーーそうか、うん、そういうことか、なるほどありそう のおはつを返せとおれは云ってるんだ」 だな」 「おはちさんのことか」 「なにがなるほどだ」 街「それはお国なまりだ、おはっというのが本当なんだが、 そんなことはどっちでもいい、先生はいまおれのことをま のるめようとして、こうしているうちにもその頭を使ってる「これはだな、治助くん」と先生はおちついていった、 季だろうが、おれのほうには証人て者が幾人もいるんだ、そ「証人が見たとか見ないとかという問題じゃなく、当人の の証人たちは頭は使わないが眼を使って現場を見ているんおはちさん」 矼だ」 「おはつだといったろうが」 「まあおちついてくれ、とにかくぼくにはわけがわからな「その人にだ、いいかね」先生は切札を出すような口ぶり ばくら なが しわ
れはかみさんに催眠術をかけられて、その術からさめるこ とができずにいる顔だそ。 冗談じゃねえぞ、あのひとの眼をよっく見てみな、とお がみやのお常さんはまじめに云った。あれはしんから人を 沢上良太郎には五人の子供がある。太郎、次郎、花子、こばかにしている眼だ、人も神も仏も、てんからばかにし 四郎、梅子。殆んどとし児で、上が十歳、次が九歳、八歳、ている眼だ。 からだ 七歳、五歳。そして妻のみさおは妊娠していた。 かみさんのみさおは痩せた小づくりな嫗で、顔も細く、 とが この「街」の人たちは、それら五人が沢上良太郎の子で頬骨が尖り、落ちく・ほんだ眼はいつも、きらきらと、好戦 はなく、一人ずつべつに、それそれ本当の父親があり、そ的に光っていた。肌の色は黒く、髪は茶色でちちれ、額が の父親たち五人がこの「街」に住んでいることも、かれら抜けあがっていた。としは良太郎より三つ下の三十一一歳で が自分じぶんの子を判別していることもよく知っていた。 あるが、見たところは逆に四つくらいもとし上のようであ だれ っこ 0 妻のみさおは自分の腹をいためたのだから、むろん誰よ りも熟知していたであろう。それを知らないのは子供たち みさおは殆んど家にいない。食事の支度とか、子供たち と沢上良太郎だけだと信じられていた。 の着物のつくろいなどはするが、あとは長屋のどこかで、 しゃべ 沢上良太郎は「良さん」と呼ばれていた。背丈はさして かみさんたちとお饒舌りパーティーをしたり、つかみあい けんか 高くないが、よく肥えていて、まるまるとした顔は見るかの喧嘩をしたり、その仲裁をして酒を飲んだり、そうかと まゆげ らに人がよさそうだった。太い眉毛も、小さくまるい眼も思うとしばしば、半日もどこかへ消えたりしていた。 しり くちびる ほおほね 尻さがりで、唇が厚く、頬骨のところに肉が盛りあがっ 「あーあ、まったく女なんてつまらねえもんだ」彼女は一 にくこぶ のぞ ているため、小さくてまるい眼は、その肉瘤のかげから覗日に幾たびか、きっとこう嘆かないことはない、「ーー男 のいているように感じられた。 は勝手にしたいことをして、亭主関白だなんておだをあげ 節 良さんの顔はお人好しの条件をぜんぶ揃えている、とけていられるが、女は腰の骨の折れるほどはたらいても、た 季 ちんぼの波木井老人が云った。眼も口も鼻も頬べたも耳ものしみに芝居ひとつ見にいけやしない、考えてみるとなん ぜんぶ、お人好しの部分品ばかり集めてこねあげたものだ。のために生きているのか、つくづくわが身が哀れになっち 良太郎の顏をよく見ろ、とヤソの斎田先生は云った。あまうよ」 とうちゃん そろ
らず、亭主たちも細君たちも従来どおり仲良く、平和につ勝子や良江が来ればみんな口をつぐむ。もちろん、彼女 きあっているという事実を慥かめると、さらに深い驚きをたちの会話が、勝子や良江の耳にはいらないわけではない。 感じ、ここの住人として例のない、道徳論までもちだして二人に聞きとれる程度までは話し続けているし、その効果 非難しあった。 を見る快楽を放棄する、などという贅沢なまねはしないの 「どっちもどっちだけどさ、まああんな夫妻ってあるかねであった。 にもかかわらず、かみさんたちの期待は裏切られた。勝 子も良江もぜんぜん反応をあらわさず、平気な顔でおしゃ 「こんにちさまが黙っちゃいないよ、こんにちさまがねー ィーに加わり、活澄に笑ったり話したりした。 「あたしや子供にきかれて弱りぬいたよ、このごろの子供べりパーテ ときたらませているからね、うちでもおとっちゃんと作さたまりかねたかみさんの一人が、或るとき勝子に向ってあ をいいだってさ、あいたロが塞が いそよく増田益夫のことをたずねた。 んのおじさんが取っ替れま りやしない」 「そう云われてみればそうね」と勝子はあっさり問いに答 「子供は眼が早いからね」 この会話にはデリケイトな含みがあった。つまり、左官えて云った、「相変らず飲むことは飲むけれど、酔って暴 の手間取りをしている松さんの細君と、若い土方の作さんれるようなことはなくなったわ、お良っさんとこはどう」 とは、かなり以前から親密にしており、松さんのいないと「云われてみればそうね . と良江も明るい表情で云った、 きにその親密の度がぐっと高くなる、という事実が相当ひ「飲むことは相変らずだけれど、酔っぱらって暴れるなん てことはなくなったようだわ」 ろく知られていたのだ。 ごう 問いかけたかみさんは業をにやし、せきこんでなにか云 「眼が早いのは子供だけじゃないけどね」と松さんのかみ てんたん おうとしたが、二人のようすがあんまり恬淡としているた さんは平然とやり返した、「人目を憚ってする浮気ぐらい はずか なら、にんげん誰だって覚えのあるこった、あんまりきれめ、ついに追い打ちをかけることができず、自分が辱しめ いな口のきけるにんげんはいやあしまいと思うけどさ、あられでもしたような、重量たつぶりの怒りを抱えてそこを の夫妻たちのようにおーっぴらでやるなんてひどすぎる去った。 勝子と良江とが、亭主たちのことにまったく無関心だっ せんたく 「おてんとさまが黙っちゃいないよ、おてんとさまがね」たかどうかは、判然としない。或るとき、水道端で洗濯を はばか ふさ かつばっ ぜいたく