ざっと診察をし、妊娠に紛れのないこと、二カ月めの終り の異常に気がついた。 ごろだろうこと、母躰に異常のないことなどを告げた。お ここの住民たちはんど銭湯へゆかない。例外はあるけたねはそれとなく、人工流産がしてもらえるかどうかと、 れども、四季をとおしてたいがいは行水を使う。その日おさぐりを入れてみたら、院長もさりげなく、まだ成年未満 おっと たねは、仕事の賃銀を受取ったし、ずいぶん久しいことゆであるし、親や良人の承認と、しかるべき費用が出せるな つくり入浴したことがないので、かっ子と一一人で中通りのら不可能ではない、というような返辞をした。しかるべき そしてかっ子の裸姿を費用とはおよそどのくらいかと、おたねがさしさわりのな 草津温泉という湯屋へいった。 見てどきっとした。肉の薄い骨張った驅の、乳房がふくら いようにきくと、院長もさしさわりのないような調子で、 およその金額をもらした。 み、乳首とそのまわりが黒くなっていた。そして腹部もい くらかふくらみ、臍から下へかけての縦の筋も、はっきり おたねは病院を出て、かっ子と裏通りをあるいて帰りな 黒みを増していた。 がら、相手は誰だときいた。かっ子は診察のあと待合室に おたねはなにも云わずに、姪のようすを観察した。かっ いて、伯母と院長の会話は聞かなかったから、相手は誰だ 子の日常には変ったところはなく、ただ食欲にむらが出て、という質問が、すぐに理解できないようであった。 ときどき一食ぬかしたり、一度に二食分も喰べたり、朝起「隠してもしようがないよ」おたねは事実を話してから云 おうと きぬけに嘔吐したりするのが眼につきだした。 った、「おまえ自身のことだからね、あたしには関係のな ていしゅ おたねは亭主に注意し始めた。夜半すぎに「鼠がうろう いことだし、どんなわけだったにしろあたしはなんとも思 ろしていた」などと、ね・ほけたことが幾たびかあったのを、やしないからね、本当のことをお云いな、相手は誰だった 思いだしたからである。おたねが注意していることに気づの」 いたのか、あれからは京太もへんなね・ほけかたはしないし、 自分が妊娠していると聞かされたとたんに、かっ子の全 かっ子に対しても妙なそぶりをするようなことはなかった。身が固くちちまり、躰液がし・ほり出されて骨だけになるよ 或る日、おたねは黙ってかっ子を伴れだし、本通りからうにみえた。かっ子はロをあけ、歯のあいだから呼吸しな 電車に乗って、中橋の仁善病院へいった。そこは建物も古がら、両手の指を力いつばい握り緊めた。 いし医者もへ・ほだが、診察料が安いので知られていたのだ。「隠しておけることじゃないんだよ、どうにか始末をしな 病院では、いま婦人科の担任がいないのでと、院長が くっちゃならないんだよ、かっ子、誰だか相手を云っとく へそ
「いいよ」重吉は眼をそらした、「自分でいって飲んで来「ちゃん」と良吉はどもった、「どうしたんだ」 る、おまえ遊びにゆかないのか」 重吉は戸惑ったように、持っている柄杓をみせた、「水 「いかない」とお芳は云った、「たんの番をしていなって、をね、飲みに来たんだ」 帰るまで番してなって、かあたんが云ったんだもんさ」 「水をね」と良吉が云った、「びつくりするぜ」 みすがめ ひしやく 重吉は立って勝手へゆき、水瓶からじかに柄杓で三杯水「ご同様だ」 を飲んだ。 「今日は休んだのかい」 お直さんや子供たちが可哀そうだ・せ。 「そんなようなもんだ」と重吉は水瓶へ蓋をし、その上に 新助がそう云った。あれは三日まえのことだな、と重吉柄杓を置きながら云った、「本所の吉岡さまへ注文を聞き は柄杓を持ったまま思った。あれは親切で云ったことだ。 にいって、そのままうちへけえって来たんだ」 檜物町の真一一郎もそうだ。あの二人とは同じ釜の飯を食っ 「かあちゃんは」 て育った。金六町も檜物町もめさきのきく人間だ。一一人が「おつぎと問屋へいったらしい」 ごとう わ、 みが 「五桐」にみきりをつけ、きれいにひまをとり、自分自分「湯へいこう、ちゃん」と良吉は流しの脇からたわしと磨 の店を持って、当世ふうのしようばいに乗り替えたのは、 き砂の箱を取りながら云った、「いま道具を洗って来るか はんじよう めさきがきくからだ。おかげでしようばいは繁昌するし、 らな、こいつを片づけたらいっしょに湯へいこう」 家族も好きなような暮しができる。檜物町は上の娘を踊り 「お芳がいるんだ」 ながうたけいこ めかけ と長唄の稽古にかよわせているし、金六町は妾を囲ってる「留守番さしとけばいいさ、すぐだから待ってなね」 もど かめ、ら そうだ。 六帖へ戻るとすぐ、亀吉が隣りの女の子を伴れて来、お 「それでもおれのことを心配してくれる」重吉は持ってい芳といっしょに遊び始めた。隣りのおたつは五つ、亀吉は ぎゅうじ んる柄杓をみつめながら、放心したようにつぶやいた、「 七つであるが、どちらもお芳に牛耳られていた。おまんま や友達だからな、友達ってものはありがてえもんだ」 ごとになれば、かあたんになるのはお芳ときまっていて、 せがれ 重吉はぎよっとした。勝手口の腰高障子が、いきなり外おたつはその娘、亀吉は「手のかかってしゃのない伜」と ち からあけられたのである。あけたのは長男の良吉で、良吉 いうことになる。それでふしぎにうまくゆくし、お芳のか てんびんほう 5 もびつくりしたらしい、天秤棒を持ったまま、ロをあいてあたんぶりも板についていた。 父親を見た。 「さあさ、ごはんにしましよ」とお芳が面倒くさそうに云 ひものらよう かま ムた
れで祝ってもらいたいんだ、些少で恥ずかしいが、取って で来てくれ」 菊次が「いい え」と手を振った。あたしたちはあとでよおいてくれ」 うございます、お二人で先にどうぞ。そうよ、お二人でど「じゃあーとみどりがいった、「やつばり御勘当が解けて、 うそ、「あたしたちはあとでゆっくりうかがいますわ」とお屋敷へお帰りになったんですね」 「うん」彼は微笑した、「勘当もゆるされたし、万事うま おせきもいった。だが、房之助は頭を振った。 オしいい話なんだから、みんなに聞いてくゆくようだ」 「いやそうじゃよ、 「まあ」とおせきが息をひいていった、「まあ、よかった、 もらいたいんだ、みんなに聞いてもらって、みんなに祝っ ほんとなんですね、若旦那」 てもらいたいんだ、さあ来てくれ」と房之助はいった。 吉野は菊次を見た。そして、みんながお新のほうを振返 そのとき、ようやく、お新が「いいじゃないの、みんな いらっしゃいよ」といった。みどりは大きくこっくりをし、った。 「それほどおっしやるんなら、いってつかわそう」といば「本当だ」と彼はうなずいた、「じつをいうと私はもう九 がんこ あきら 分どおり諦めていたんだ、なにしろ頑固なことでは一族で お新は部屋へはいると、「散らかっててごめんなさい」もぬきんでたおやじなんだから、いっそ、もう寺子屋でも このあ といいながら、窓の障子をあけ放した。房之助が窓を背に始めようかと思ったくらいなんだ、ところが、 おじ して坐り、女たちもどことなくかしこまって、互いにてれ いだ叔父の屋敷で祝宴があるといったろう、お新ーと彼は たように眼くばせをしたり、肱で小突きあったりしながらお新をかえり見た、「なんの祝宴だか知らなかったんだが、 坐った。 それが驚いたことに、この私の勘当が解かれる祝いだった る 「まず礼をいおう」と彼は辞儀をした、「縁もゆかりもなんだよ」 かい、紛れこんだ猫のような私を、長いことみんなでよく面女たちは「まあ」といった。お新はこくっと唾をのんだ。 おまけというのもへんだが」と彼はにこ 「おまけに、 の倒をみてくれた、うれしかった、有難う」 いいなずけ ん 女たちは当惑したように、ぎごちなくお辞儀をした。房っと微笑した、「そこには許婚の娘がいて、勘当の解けた さかず、 ふくさづつみ 之助はふところから袱紗包を出し、中にあった紙に包んだ祝いといっしょに、内祝言の盃もしたんだ」 そのときさっと、なにかが空をはしったように、みんな 1 ものを取って、お新の前へさしだした。 さしよう こ口をあけて、ぽかんと房之助の顔を見た。 あとでみんなに、 「これは些少だが、礼ではない、 ひじ つば
とらは走りだすだろうか、否、彼は逆に立停ってしまい とらは三つのてんぶらの内、海老を残して、あなごとき すの二つを喰べると、ロのまわりや髭などに付いた揚げ油ゆっくりとトラックのほうへ振返る。なんだ、という顔つ まえあし を、左右の前肢でていねいに撫で、「天松」の人たちをできで、じっと運転手を睨みつけるのだ。運転手もまさかひ あわ 冫しかないから、慌てて急プレーキをかけ、 はなく、「店」のほうをちらと横眼に見て、ゆったりとあき殺すわけこま、 トラックを停める。とらはそれを確認してから、おもむろ るきだし、歩み去っていった。 「へえーえ」と無ロな息子が、去ってゆくとらの姿を見送に車道を横切ってゆくのである。 市電でも同じことであった。市電には正規のレール上を りながら感嘆の声をあげた、「云うこたあねえな」 なじみ これがとらと「天松」との、馴染になるきっかけになり、運行するという、一種の特権を与えられているから、そん その後は両者の関係がずっとスムーズに続いていた。店先なことはないだろうと思われるが、運転手には感情がある にゆきさえすれば、とらは必ずてんぶらの幾つかにありつので、やはり承知しながらひき殺す気にはなれない。やけ なように警笛を鳴らしたうえ、これも急プレーキをかけて けたし、痛めつけた小僧とも、ーー彼は猫咬症なんという とらはそれを振返って見ている。軌道 かくべっトラブルはおこ電車を停める。 ことにはならずに済んだが、 上に立停り、大きなまるい顔を振向け、なんだ、という眼 らずに済んだ。 つきで睨みつけるのである。 揚げ残りではあるけれども、本筋の下町ふうてんぶらに 満足したとらは、食後のけだるい幸福感にひたりながら、 、、ゆうぜん ゆったりと帰途についた。こんども脇見などはしない、世市電が確実に停車するのを慥かめてから、とらは悠然と 間はおれのものだ、とでもいいたげな顔つきで、一歩、一あるきだす。ゆっくりと歩をはこぶので、左右の肩の肉が、 歩と、本通りを横切ってゆく。各種の自動車、自転車、市くりつ、くりつと動くありさまが見えるのだ。 トラックが走って来とらはこのように、人間どもに対してさえ、・ホスである 電など、ぜんぜん気にかけない。 つも正面から てクラクションを鳴らす。ずう躰が大きくて、あるきぶりところの自分の権威をゆずろうとしない。い じゃり がゆうゆうとしているから、たとえ砂利トラの運転手でも現実にぶつつかってゆき、それを突きやぶり、うち勝って ゆくのである。ーー・ー半助はこの事実を知っているだろうか、 眼をひかれずにはいられないのだ。 どろぼうねこ 「やい、そこの泥棒猫。と運転手はクラクシ , ンを鳴らしこれを知ったら、自分の生活態度を変えるであろうか。い だれ つも誰かに殴られはしないかと、びくびくしながら身をち ながらどなる、「どかねえとひき殺すそ」 たい たし たらどま
うからって」 くゆき、刺傷部の状態もおおむね良好ということであった。 「いや、はらました相手にきまってるさ」京太は主張した、「どうしてこんなことをされたかわからない、・ほくはかっ じんもん 「ほかのことなら云えるだろうが、恥ずかしい話だから云ちゃんが好きだったんです」岡部少年は刑事の訊問にそう えないんだ、それにきまってるよ」 答えたという、「・ほくはかっちゃんが可哀そうでしようが なかった、はたらきどおしにはたらいて、食う物もろくに 云いつのる亭主の言葉を、おたねは黙って聞くだけであ食わされなかったんじゃないでしようか、いつも痩せて眠 った。警察から呼び出しがあっても、おれは関係がない、 をく・ほませてましたよ、だからぼくはかっちゃんが来ると、 * みようけん かっ子はおまえの姪だ、と云って京太はそっぽを向く。お大饅頭を買ってやった、ときにはいっしょに妙見様へいっ たねはさからおうともせずでかけてゆき、父親はどうしたて、話しながら喰べたこともあるんです」 少年はかっ子の気持がわからないと繰り返した。かっち ときかれれば、京太に教えられたとおり、病気で来られな いと答えるのであった。 ゃんはみんなから「がんもどきーとからかわれていたが、 かっ子の調べは少しも進まなかった。どう手をつくして少年は決してそんなことは云わないし、誰かがそんなこと を云っているのを見ると、中にはいってとめるくらいであ も、犯行の理由を云わないのである。 【も・り 「きみのわるい子だよ」と刑事の一人は云った、「なにをつこ。、 ナカっちゃんも少年が好きだったようだ。大饅頭を貰 うとうれしそうな顔をしたし、妙見様へさそうといっしょ きいても黙りこんだままでね、ときどき歯を剥きだすんだ、 くちびる 笑うのかと思うとそうでもないんだな、唇がこうゆっくに来て、少しは話もしたのである。それなのにどうしてこ りとひろがって、そうすると歯が見えてくるんだがね、よんなことをしたのか、どう考えてみてもわからない。かっ さる ちゃんはなにか間違えたのではないだろうか、きっとそう 街く観察すると笑うんじゃないんだな、猿を怒らせるときー 0 とい 0 て歯を剥きだすが、あれでもないんだ、笑うんでにちがいない、と少年は云い続けた。 のもなし怒るんでもないんだ、見ているとぞーっとするね、 「ええ、・ほくはなんとも思いません、かっちゃんのしたこ とでかっちゃんを憎らしいとも思いませんし、恨めしいと 季ああ、きみのわるい子だよ、まったく」 おたねは草田病院へもみま、こ し冫いった。岡部定吉は幸運もくやしいとも思いません」少年はそう云った、「ぼくが にも死なずに済み、全治三週間と診断された。刺し傷は胸なにかしてかっちゃんが罪にならないなら、ばくはどんな わす であったが、僅かに心臓をそれたのが幸運で、輸血もうまことでもします、あんな物で突かれたのはぼくですし、本 まんじゅう かわい
合ってるけれども、こういう、木と泥と紙で出来てる家にきみたちやきみたちの子や孫のことも考えなければならな ばかり住んでるとさ、長いとしつきのあいだには、民族の いとするとさ、やはり一概に個人的な好みばかりも云って 性格までがそれに順応して、持続性のない軽薄な人間がではいられないんだな」 きてしまうんだな」 「そうだね、うん、ほんとだ」 たそが 街は雨のうちに黄昏れかかってき、往来はタクシーや通 父親はそこで欧米人の性格について語り、かれらの能力行人たちゃ、トラックなどでそうそうしくなっていた。け を支えてきたものは、石と鉄とコンクリートで造った家とれども、その親子にとってはまったく無縁なことのようだ ったし、タクシーの運転手や通行人や、街筋の商店の人た か、靴をはいたまま、テープルに向って食事をし、大きな ち、それらの店頭で買い物をする人たちにとっても、この 宴会する、という生活であると云った。 あいづち 子供はその一語一語を注意ぶかく聞き、相槌を打つべき親子はそこに存在しないのと同じことのようであった。 日が昏れるとその父子は住居へ帰る。それはわれわれの ところへくると、さも感じいったように頷いたり溜息をつ いたり、唸ったりした。父親のロぶりも自分の子に話すよ「街」の八田じいさんの家に添ってあり、つまりじいさん うではなく、子供のほうもまた父の話を聞いているようでの家の羽目板にくつつけて、古板を合わせて作った物であ 、つもそうなのだが、二人は父と子というよりは、った。高さ一メートル五〇、福が一メートルちょっと、長 少しとしの違った兄弟か、ごく親密な友人同志といったふさ二メートル弱の、大小屋そっくりの手製の寝小屋で、中 わらむしろ には板を重ねた床と、藁と蓆がつくねてあり、それが父子 うであった。 「それにしてもさ、さていよいよ自分の家を建てるとなるの寝具であった。 どんぶり 小屋の外にビール箱があり、中には丼が二つと箸、ふ とね、これはこれで問題がべつなんだな、自分たちがそこ いに住む家となるとさ、民族性は民族性だけれども、現実のちの欠けたゆきひらと、でこぼこにへこみのあるニューム わ、 の牛乳沸しが入れてあった。ビール箱の脇に、針金で巻い 問題はまたね」 た七厘があるが、針金を解けばばらばらになること間違い 節「みんぞくせえはたいしたことないと思うな、・ほくは」 こわ なしというほど、使い古した毀れ物であった。 「そう云うけどね、これはきみたちの将来に関係するんだ よ、ぼくたちおとなは先もそう長くはないんだしさ、これ父子は小屋の外で食事をする。ゆきひらと牛乳沸しの中 から性格を立体的に持ってゆこうとしてもむりだろうがね、に、めしと汁などがはいっていて、それはパンとシチュー うな どろ ためいき しる
かの寝言を云う声がし、表通りのほうで大がほえた。 「そうか」と重吉は気がついて云った、「おめえ手習いだ 重吉はじっとしたまま、かなり長いこと、みんなの寝息 ったな」 それででばなをくじかれ、重吉はまるで難をのがれでもをうかがっていて、それから静かに夜具をぬけだした。亀 ひざ したような、ほっとした顔になり、かしこまっていた膝を吉はびくっとしたが、夜具を直し、そっと押えてやると動 なが 良吉は出てゆき、酒の支度かなくなった。重吉はあたりを眺めまわし、ロの中で「手 崩して、あぐらをかいた。 ぬぐい ができた。お直とおつぎは内職をひろげ、重吉はお芳と亀拭ひとつでいいな」とつぶやいた。そのとき遠くから鐘の 吉をからかいながら、手酌で飲みだした。こんどは酒がう音が聞えて来た。白かね町の時の鐘だろう、数えると八つ ( 午前一一時 ) であった。聞き終ってから立って勝手へいっ まくはいり、気持よく酔いが発してきた。 えびす 「十日戎の売り物は」重吉は鼻声で低くうたいだした、 じよう 勝手は二帖の奥になっている。音を忍ばせて障子をあけ、 「ーーは・せ袋に、とり鉢」 ほおかむ 「わあ、またおんなじ唄だ」とお芳がはやしたてた、「お手拭掛けから乾いている手拭を取り、それで頬冠りをした。 そうして、勝手口の雨戸を、そろそろと、極めて用心ぶか んなじ唄で調子つばじゅえだ」 くあけかかったとき、うしろでお直の声がし、彼はびつく 「芳坊ーとおつぎがたしなめた。 りして振返った。 「いいよ、芳坊の云うとおりだ」重吉はきげんよく笑った、 ねま、 「ちゃんの知ってるのは昔からこれだけだ、おまけに節ち「どうするの」お直は寝衣のままで、暗いから顔はわから ないが、声はひどくふるえていた、「どうするつもりなの、 がいときてる、こんなに取柄のねえ人間もねえもんだ、な おまえさん、どうしようっていうの」 あー 良吉が帰って来たときにはすっかり酔って、勘定はゆう「おれはその、ちょっと、後架まで」 お直はすばやく来て彼を押しのけ、三寸ばかりあいた戸 んべみんな飲んじまったそ、などといばっていた。それから やまもなく横になり、なにかくだを巻いているうちに眠りこを静かに閉めた。 ちんだ。自分ではまだしゃべ 0 ているつもりで、ひょ 0 と眼「後架へゆくのに頬冠りをするの」とお直が云 0 た、「さ をさますと、行燈が暗くしてあり、みんなの寝息が聞えてあ、あっちへいってわけを聞きましよう、どうするつもり いた。ーー・彼は着たままで、それでもちゃんと夜具の中だなのか話してちょうだい」 ったし、彼により添って亀吉が眠っていた。隣りの家で誰
きわもとへいだゅう て、思いがけなく御納戸がしら沢本平太夫が訪ねて来た。 「この三日うちにそなたの手で八十金ととのえて貰いたい そして「御用筋のはなしだから」といって寝所へとおり、 のだ」 かなりながいこと休之助となにか話していった。 : : : 見舞とっぜんでもあり余り思いがけない言葉なのであっと思 しか いではなくて、納戸がしらみずから来るというのは尋常のった。然し由紀はうち返すように、 ことてはない。なほ女は不安に堪えかねたようすで、平太「かしこまりました」 まくらもと しさいたず 夫が帰るとすぐ枕許へいって仔細を訊ねた。休之助はいっ と答えた。休之助はしずかに眼をつむった。 てんじよう 、んす もの穏やかな調子で、まじまじと天床を見やりながらこう「わけも話さず、こんなたいまいな金子をつくれと云うの 云った。「少し失策を致しました、ことによると御迷惑をは無理だ、これはよく承知しているし、ロではなにも云え かけるかも知れませんが、母上はなにも御心配なさらない ないが、私を信じて調達して呉れ」 で下さい、なに、そう大きな事ではないのです、みんなう「はい * ぜんこうじもう はず まくおさまるだろうと思います _J 「母はあした善光寺詣でに立っ筈だ、往き来に三日はかか そしてそれ以上はなにを訊いても答えなかった。 るのが毎年の例になっている、そのあいだにたのむ」 し、かしこまりました」 こんどは心をきめて、由紀ははっきりとそう答えた。 さんけい 春と秋の彼岸に親しい婦人たちと善光寺へ参詣にゆくの その夜のことである、更けてからそっと寝所を見舞うと、 がなほ女の毎年のならわしだった。休之助に不慮のことが どう、 休之助が眼でこちらへ来いと知らせた。由紀は動悸のはげあったので今年はやめると云ったが、それでは待っていた ひぎ 記 しくなるのを感じながら、膝をつつましく進めて枕許に坐人たちに気のどくだからと、休之助がすすめて出かけて貰 道 おっと 婦った。嫁して来てから良人と二人きりで向きあうのはそれった。なほ女はこころ重そうだった。然しあまり休之助が 日が初めてである。休之助は感情の溢れるような眼で暫くこ重態だということも公表できない事情があるし、医者もも ちらを見まもっていた。 う案ずるには及ばないと云うので、由紀に呉ぐれもあとの 「すっかり母から聞いた、礼を云いたいが、その礼よりもことを頼んだうえ立っていった。 しゅうとめ さきにたのみたいことがある」 姑が出かけた日の夜、由紀は下僕にたのんで古着あき うどを呼んで貰った。そして持って来た衣装道具のうち、 あふ ひがん
「あたしはどっちにするかってことを、きいてるだけですおたねが出ていってみた。戸口には制服の警官が立ってい 綿中かっ子の家はここかときいた。 おたねはそうだと答えた。 「それもそうだな」京太はわざと渋い顔をした、コ一カ月「中通りの伊勢正へすぐにいって下さい」と警官は云った、 の終りともなれば、どっちにするかをきめるのが先決議題「かっ子くんが傷害事件をおこしたんです、ぼくが同行し せんさく 、しかし断わってますから」 だ、相手の詮索などはあとのことでいい おくが、おまえは疑っているかしれないがおれじゃないそ、「かっ子が、なにをしたというんですか」 冗談じゃない、伯父姪というより親子同様、戸籍だっては「傷害事件です傷害ーと警官は云った、「ことによると傷 害致死か、殺人事件になるかもわからない、それは取調べ いっているのに、まさか・ほくがそんな」 「どっちにしますか」おたねは亭主に云った、「産ませまの結果を待たなければならないが、とにかくすぐに同行し て下さい」 すかおろしますか」 「それはおまえ産ませる手はないな、としも若すぎるし世そのとき京太が出て来た。 「ご苦労さまです」と彼は警官におじぎをし、それからお 間ていもあるし、ここは倫理学よりも犯罪医学、いやその、 あれだ、つまり法医学的な処置をとるほうが、合理的だとたねに云った、「いま聞いていたが、そのままでいし まえすぐに伴れてっていただきなさいすぐに、支度なんぞ 思うね」 いから」 「わかるように云って下さい、おろすんですね」 「おまえは三面記事のようなことしか云えないんだな、そ早くしろとせきたてた。警官が京太を見て、あなたがか っ子の父親であるかと質問し、京太はなんのつもりか、メ うだ、おろすんだよ」 おたねはそこで資金の問題をとりあげ、しよせん妹に頼リケン粉をこねたあとで汗を拭くように、指をだらんとさ むよりほかはないこと、だが自分の入院手術で借りのできせた手の甲で額を撫でながら、かっ子は妻のおたねの実の たあとだから、頼みかたがむずかしいこと、断わられない姪であると、ロばやに答え、すぐに調子を変えて、傷害事 ためにはどんなふうに交渉すべきか、よくよく案を練る必件と聞いたけれども、かっ子はどんな暴行を受けたのかと きき返した。 要があること、などを熱心に話しかけた。 戸口に人のおとずれる声がしたので、夫婦は話を中断し、「いや、かっ子は被害者ではなく加害者です」と警官は云
ねえ」 慶三の出勤時間、帰宅時間、娘たちの登校時間と帰宅時間、 これでおるいさんは、この街のかみさんたちのにんきを、食事、入浴も物差で計ったようにきっちりときまっていた 一遍に集めてしまった。 し、この「街ーではかなり稀な例だが、家族の衣服も季節 せんたく によって変った。もちろんそれらは幾たびも洗濯し、縫い あわせ ひとえ 主人の塩山慶三は酒もタ・ハコもたしなまず、勤めを休む直されたものだったし、色も柄もじみな品で、袷から単衣 ようなこともなかった。はる、ふき、とみの三人姉妹は、 に着替えても、さして人の注意をひくようなことはなかっ 痩せていて顔色こそわるいが、温和しくてあいそがよく、 たが、中に眼のするどいかみさんなどがいて、はら立たし 親にさからったり、ロ答えをするようなことはなかった。げに耳こすりをすることがないでもなかった。 「ええ、おかげさまで」とおるいさんは水道端で、例のよ「おまえさん見たかい」と眼のするどいかみさんは云う、 うに洗い物をしながら、かみさんたちに答えて云う、「み「おるいさんとこじや今日つから袷を着てるよ、へつ、あ んなよく云うことを聞いてくれますよ、それだけがとりえてつけがましい、なまいきじゃないかほんとに」 ですけれどね、なにかわるいところがあったら、構わない こういう長屋に住む以上は、長屋どうしのつきあいとい しか からどしどし叱りつけてやって下さいな、他人さまに叱らうものがある。てめえのうちでは袷を着られるからいいわ れるのがなによりのくすりですからね、お願いしますよ」で、勝手に袷を着るというのはっきあい知らずのみえっ張 こうして洗いあげた物を、自分の家の横に戸板を置いて、りだ、とその眼のするどいかみさんはきめつけたものだ。 おるいさんは敏感にこういう蔭口を聞きつける。そして その上にきちんと並べて干す。なになにが並べられるかは この章の初めに記したから参照していただくが、それはますぐに巧みな手を打つのだ。 「あんたのとこではみなさんお丈夫でいいわねえ」おるい さしく清潔好きと物持ちのよさを示す点で壮観とさえいえ ただろう。 或るとき、通りかかった中年の女性が、こさんは眼のするどいかみさんに向って、あいそよくこう話 たちどま なが の展観物を認めて立停り、つくづく感じ入ったように眺めしかける、「あたしんとこはみんな弱いんで困っちまうの かせ ていたが、やがておるいさんに向ってこうきいたものであよ、あんたのとこみたいにいい稼ぎがあればいいんだけれ った。 ど、うちじゃあ配達の仕事だけでたかが知れてるし、あた しが内職したってろくな物も喰べられやしないわ、だから 「あの、失礼ですが、これは売り物ですか ? 」 からだ 塩山一家の生活は、時計の針のようにきちんとしていた。子供たちの驅にも精が付かないんでしようね、秋ぐちにな おとな まれ