きくあきら かばん 索は諦めたように、また二つの容器をのぞいた、「見たこ鞄とステッキを右手に持ち替えて、鞄だけ脇に挾み、ステ とのある魚だけれど、なんというのかもういちど聞かしてッキの先端でペ 1 プメントをたたきながら、容器の中の魚 類を見、その眼で土川春彦を見た。 下さいな」 「これはきみが釣ったのかね」と紳士はきいた、「それと 「こっちのちっこいのがふな」と彼は答えた、「こっちの も投網かやなででも捕ったのかね」 大きいのがこいでねがす」 「おらあ近県のものでねがす」春彦はたじろぎながら答え 「まあ、鮒と鯉ですって」 た。「これはヘえ鮒と鯉で、わしが百姓仕事のあいさに捕 「そうでねがす」 「まあいやだ」中年婦人は袂からハンカチーフを出して鼻ったねがす」 を押えていった、「鮒だの鯉だのって、きみのわるい、お 「この鯉はたん・ほ飼いだな」 ーいやだ」 紳士はちょろのいうことなど聞きもせずにいった。実際 そして・ハス・ストップのほうへ去っていった。 しわ 「ちえ 0 、田舎者が」と土川春彦は鼻柱〈皺をよせ、脇のには、みろの言葉がまだ終らないうちに、独りで首をひ ほうへ唾を吐いた、「ああいうのを典型的なざあます人種ねりながら発言したのだ。たん・ほ飼いとはなんのことか、 っていうんだろうな、知りもしないくせにきみがわるいだ春彦には理解できなかったが、ほめているのではなく、ど ってやがる、てめえのほうがよっぽどきびがわるいや、ヘうやらけちをつけているらしいので、彼はむっとした。 だんな 「冗談いっちゃいけませんよ、旦那、冗談じゃねえ」と彼 つ、なんだ、めがねなんそひけらかしゃあがって、あんな はいい返した、「よく見ておくんなさい、こいつはれつき へえ、おいでな めがねなんそにびつくらするような、 とした天然ものですぜ」 せえまし」 「こっちは鮒か、まるで金魚みたようだな」紳士は構わず 彼はあわてて独り言をやめ、おじぎをした。五十年配の * いんばぬまてがぬま 紳士が近よって来、二つの容器をのぞきこんだのだ。肥え続けた、「この魚には見覚えがある、印旛沼か手賀沼だな、 こいつも飼った鮒だ、近ごろは百姓もしゃれたまねをする ているときに作った背広が、当人の痩せたためにサイズが うわぎ 合わなくなったのか、上衣もズボンも生地は高価らしいのようになったからな」 「旦那はお詳しいね」ちょろは戦法を変えた、「旦那のよ にだぶだぶに皺だるみ、ヒップのところなどは袋のように 垂れていた。紳士は左手に持っていたべしゃんこの手提げうな方にあっちやかないませんや、そのお眼の高いところ たもと てさ
でひとついかがです、初あきないだ、お安くしときますをした。 三番目に寄って来たのは、一一十七、八になる若夫人で、 たてじま こまかい竪縞のはいったウールのツー・ヒースにトルコ帽に 「・ほくはね、きみ、このほうで専門家なんだ」と紳士はい ・・ハッグを左の った、「しようばいじゃない、釣るほうだがね、うちの庭似た赤い小さな帽子をかぶり、ショルダー の池には釣ってきた鯉が、いつでも四、五十尾は放してあ肩にかけていた。細おもての顔もきれいだし、化粧もあっ そば にお るんだ、よけいなことかもしれないがね、きみ、こんなたさりしていて、側へ寄ると上品な香水の匂いがひろがった。 きびいろ 錆色のパンプスのハイヒールがあんまり細くて高いのを、 ん・ほ飼いの鯉なんか臭くって食えやしないぜ」 そういうと紳士は鞄とステッキを持ち直し、ちょうど来春彦はあぶなっかしいなと思いながら、誠意をこめてあい そ笑いをし、容器のほうへ手を振った。 かかった・ハスのほうへ去っていった。 「きいたふうなことをいうやつじゃないか、なにがたんぼ 飼いだ」 「これ、なあに」と若夫人は容器の中をのそきながらきい ちろはあざ笑ったが、それでも気がかりになり、鯉のた、「おさかなね」 ふな 容器の中をのそいてみた。そっと手を入れてそいつを突っ 「へえ、こっちが鮒でねがす」とちょろは答えた、「ふな、 いてみ、その指を鼻へ持っていって嗅いでみた。 ご存じねでがすか」 「さかな臭いだけじゃないか、知ったようなごたくをぬか 「あらこれが鮒っていうの」若夫人は身をかがめ、眼をか して、へ、うちの庭の池だって、印旛沼か手賀沼か、へ、 がやかしてその魚に見入った。「まあきれい、まるで生き ああいうのが三百代言かなんかやるんだな、きっと、なんているようじゃないの」 びつくり をしいと思ってやがるんだ」 「そのとおり、持ってくるまで生きていたっげが、持って 街でも人を吃驚させれま、 いなか 彼は問屋のおやじのいったことを思いだした。山の手の来るについて水から揚げんたんへえ、田舎がちっと遠いも の人種は川魚が嫌いらしい。とぼけたような口ぶりだったが、んでねがす」彼はあいそ笑いをし、鯉の容器へ手を振った、 節 あのじじい案外よく知ってたのかもしれないぞ。こう考え「その代りにゃあ、こっちの鯉は生きてるでヘ、こんとお ると、にわかにこころ・ほそいような、この世ぜんたいが苦りびんびんだあ」 難に満ち満ちた、将来性のない、わる賢い人間だけしか生「あらほんと、鯉だわ」若夫人は熱心に見まも 0 た、「鯉 きられない世界のように思えてき、彼は大きくて長い溜息は覚えてるわ、まあうろこが金色に光ってるわ」
と思ったがあのあまのこった、長屋じゅうの騒ぎになるか「酔ってるよ、だめだったらおよしってばさ」 良江のロぶりは彼を止めるのではなく、唆しかけるよう らとびだして来た、みてくれ、まだここんとこがどきんど に聞えた。もちろん、彼女にそんな意志はない、亭主が酔 きんと鳴ってるから」 えり いすぎているから、いってもむだだとわかっていたのであ 彼は着物の衿をひろげ、黒い毛のみつしり生えた胸をひ たた る。 たひたと叩いた。良江の眼が、増田の胸毛を見て光った。 眼球の内部からさっと閃光がはしったようにみえ、そのま ま三白眼になった。 けれども、人間はいつも意志によって行動するものでは ていしゅ 「しようがねえな、女ってものあしようがねえもんだ」河ない。良江が亭主に「ゆくな」と云ったのは、亭主が酔い くらびる ロは唇を手の甲で拭きながら云った、「笑っちまえば済すぎているのを認めたからであると同時に、そういう止め むこっても、見識だの法律だのって、すぐむずかしく理詰かたをすれば、亭主がやっきになって自分の我をとおす、 という癖のあることを知っていた。認識論的に知っていた めに持ってゆきたがる、つまり暇をもてあましてるんだ、 笑っちまえばそれつきりだから、なんとかこじらしてたののではなく本能で感知していた、というべきであろう。し そそのか しもうってえわけだ、よし、おれがいってよく話してこよたがって、彼女がその亭主を唆すような調子でなにか云 ったとしても、それは完全に意識外のことであって、彼女 う」 自身にはかも責任を負う必要のない問題であった。 「そんな厄介をかけちゃあ申し訳がねえ、うっちゃっとい 河口は出てゆき、良江は増田に酒をすすめた。増田はも てくれ」 「そうはいかねえ、あにいとおれの仲でおめえ」河口は立う定量以上に飲んでいたけれども、自分では感情を害して いるため、飲んだだけ酔ってはいないように思いこんでい 街ちあがった、「これが黙って見ていられるかって、ねえ、 て、すすめられるままに飲み続けた。 相手は誰だっけ」 さかず、 の「およしよ、ばかだねえこの人は、すっかり酔っちゃって「あたしも一杯いただくわ」やがて良江も盃を持った、 しやく 「お酌して下さいよ」 季るじゃないかさ」と良江が云った、「お勝さんのところへ 「いただく、とはござったな」増田は酌をしようとしたが、 なだめにゆくんだろう、相手は誰だっけなんて、いったっ 手がふらっくので酒をこばした、「ははあ、おれの手は酔 て話なんかできやしないよ」 っちまったようだな、それつ」 「大丈夫だよ、これつばかりの酒で酔ってたまるかえ」 やっかい せんこう ささ
うからって」 くゆき、刺傷部の状態もおおむね良好ということであった。 「いや、はらました相手にきまってるさ」京太は主張した、「どうしてこんなことをされたかわからない、・ほくはかっ じんもん 「ほかのことなら云えるだろうが、恥ずかしい話だから云ちゃんが好きだったんです」岡部少年は刑事の訊問にそう えないんだ、それにきまってるよ」 答えたという、「・ほくはかっちゃんが可哀そうでしようが なかった、はたらきどおしにはたらいて、食う物もろくに 云いつのる亭主の言葉を、おたねは黙って聞くだけであ食わされなかったんじゃないでしようか、いつも痩せて眠 った。警察から呼び出しがあっても、おれは関係がない、 をく・ほませてましたよ、だからぼくはかっちゃんが来ると、 * みようけん かっ子はおまえの姪だ、と云って京太はそっぽを向く。お大饅頭を買ってやった、ときにはいっしょに妙見様へいっ たねはさからおうともせずでかけてゆき、父親はどうしたて、話しながら喰べたこともあるんです」 少年はかっ子の気持がわからないと繰り返した。かっち ときかれれば、京太に教えられたとおり、病気で来られな いと答えるのであった。 ゃんはみんなから「がんもどきーとからかわれていたが、 かっ子の調べは少しも進まなかった。どう手をつくして少年は決してそんなことは云わないし、誰かがそんなこと を云っているのを見ると、中にはいってとめるくらいであ も、犯行の理由を云わないのである。 【も・り 「きみのわるい子だよ」と刑事の一人は云った、「なにをつこ。、 ナカっちゃんも少年が好きだったようだ。大饅頭を貰 うとうれしそうな顔をしたし、妙見様へさそうといっしょ きいても黙りこんだままでね、ときどき歯を剥きだすんだ、 くちびる 笑うのかと思うとそうでもないんだな、唇がこうゆっくに来て、少しは話もしたのである。それなのにどうしてこ りとひろがって、そうすると歯が見えてくるんだがね、よんなことをしたのか、どう考えてみてもわからない。かっ さる ちゃんはなにか間違えたのではないだろうか、きっとそう 街く観察すると笑うんじゃないんだな、猿を怒らせるときー 0 とい 0 て歯を剥きだすが、あれでもないんだ、笑うんでにちがいない、と少年は云い続けた。 のもなし怒るんでもないんだ、見ているとぞーっとするね、 「ええ、・ほくはなんとも思いません、かっちゃんのしたこ とでかっちゃんを憎らしいとも思いませんし、恨めしいと 季ああ、きみのわるい子だよ、まったく」 おたねは草田病院へもみま、こ し冫いった。岡部定吉は幸運もくやしいとも思いません」少年はそう云った、「ぼくが にも死なずに済み、全治三週間と診断された。刺し傷は胸なにかしてかっちゃんが罪にならないなら、ばくはどんな わす であったが、僅かに心臓をそれたのが幸運で、輸血もうまことでもします、あんな物で突かれたのはぼくですし、本 まんじゅう かわい
っちは腕だ。とにかく当ってみろと、まず娘に自分の気持えてる、思いだしたが、それはおめえの思いすごしだ」 をうちあけた。娘はべつに驚いたようすもなく、あっさり 「どこが思いすごしだ」 「ええいいわ」と答えた。 「おめえの云うとおりおれは十九、おひさちゃんは十四だ 「そのへんのおうようなところが、なんとも云えずおすが・せ」と参吉が云った、「好きだというほかになんの気持も らしいんだ」と参吉が云った、「それで勇気がついたから、ありゃあしねえ、子供同志のちょっとしたいたずらで、そ だんな すぐ旦那に話してみた、ちょっとごたごたしたが、おすがのくらいのことは誰にだって覚えがあるだろう」 がゆくというので結局はなしがまとまった」 「ちょっとしたいたずらだって」繁次の顔から血のけがひ 「ちょっと、話の途中だが」と繁次が舌のもつれるような いた、「あれがちょっとしたいたずらだってえのか、野郎」 ロぶりで遮った、「そうすると、おひさはどうなるんだ」 繁次は片手で参吉を殴った。参吉の顔がぐらっと揺れた 参吉は諏しそうな眼をした、「どうなる 0 て、おひさちが、避けもせず抵抗もしない。それでさらに繁次は逆上し、 こぶし よこびん ゃんがどうかしたのか」 とびかかって馬乗りになると、拳で相手の横鬢を殴った。 いけねえ、またやった。 「あの子は昔からおめえが好きだった、おめえだって好き だったじゃあねえか、おらあいつも見ていてよく知ってる 心のどこかでそう叫ぶ声がし、そこへおひさが駆けこん んだ・せ」 で来た。 「そりゃあ好きなことは好きだったさ、しかし好きだって 「よして繁ちゃん、危ない」おひさは繁次にしがみついた、 いうことと夫婦になるならねえってことは」 「ごしようだからよして、危ない、よしてちょうだい」 まゆ 「しらばっくれるな」と云ってから繁次は声を抑えた、 繁次は殴るのをやめ、参吉の眉のところにある ( 昔の ) きずあと 「おい、おれはこの眼で見たんだぜ、おめえとおれが十九、薄い傷痕を見た。 おひさが十四の年だ、おれの店へ訪ねて来たおめえは、勝「穏やかに話そう」と参吉が平べったい声で云った、「近 まきごや 手口の外にある薪小屋のところで、おひさと抱きあってた、所へみつともねえから」 どんなふうに抱きあってたか、おれの眼にはいまでもはつ「繁ちゃん。とおひさが泣き声で云った。 えり きり残ってるんだ、あれが、ただ好きだっていうだけでで繁次は軅をどけ、参吉は起き直って、着物の衿を合わせ こ 0 きることか」 あえ 「待ってくれー参吉は額を横撫でにした、「ーーーうん、覚「もういい大丈夫だ」と繁次は喘ぎながらおひさに云った、 よこな たな からだ
ひぎ して先生の膝をやんわりと押えた。すると、先生の舌がまらく先生の意志とは無関係に、舌そのものが勝手な自己主 張をしたのだろう。さもなければ、先生たる者が共産党の た自己主張を始めた。 大ビスマルクいわく、勝って奢らざるは将の将たる者な歌をうたいだす、などという道理がないからである。 「けしからんですね、先生」買って来た焼酎で、先生とふ りと。 せい子は次を待った。いよいよ先生が突撃を開始するもっか酔いに活を入れながら八田塾生は云った、「いま酒屋 のと思ったらしい。なるほど先生はそのつもりだ「た。けでちら 0 と新聞を見たんですが、右翼団体の全国大会が公 れども現実は常に散文的なものだ、先生の心臓が十八歳の会堂で開かれてるそうじゃありませんか、先生のところへ 少年のようにときめいているのにもかかわらず、舌は頑と招待が来ないのはどういうわけですか」 して譲歩しないのであった。 ビスマルクまたいわく、敗走する兵は落花の如し、これ先生はちょっと考えてから、憐れむように青年の顔をみ もど を戦線に戻さんとするは、落花を枝に返さんとするに似たつめた。 りと。 「きみはもっと自分の立場をよくみなければいけないな」 せい子はそれでもなお次を待った。まさか大ビスマルクと先生は云った、「いま公会堂へ集まっているやつらは小 せんしよう だけがねばるとは思わない、次にはいろつぼい言葉が出て物だ、右翼団体などと僣称しておるが、人物らしい人間は くるだろうと考えたから。けれどもビスマルクは強情であ一匹もおらん、みんな木っ端のようなやつばかりなんだ」 がんめい 「しかしですね、大義公平先生とか国粋純一先生とか」 り頑迷であった。 先生の額に汗の粒がうかび、その眼は涙ぐんできたのに、先生は頭を振り手を振った。 街舌はさも得意げに「ビスルクいわく」をもてあそんで飽「また神州男児先生などという人たちの名もありました いきなかった。 くちびる のせい子にはっきあうかみさんたちがなかったので、先生「それがどうした」寒藤先生は唇をへの字なりにした、 季のことをなんと評したかわからないが、先生を見る表情か「公平も男児も純一も・ほくは知 0 ている、かれらは葦原瑞 ら察すると、朴念仁より点数がよくないことは確かなようの門にいたが、みんな破門同様になって放逐されたやっ らだそ、真に国家万代のためを思うより、権門富貴に媚び であった。 けんか あの「のんべ横丁」で労働者と喧嘩になったのも、おそて虚名を偽り、良民を威して金銭をむさぼり」 おご がん おど あわ
ここいらの山の手人種ときたら、へつ、あれで日本人か 「突っつくとはねるでヘ」 みいろは鯉の一尾を指で突いてみた。そいつがはねるけね」 しきをみせないので次を突っき、次を突っいてみたが、や「こっちは川魚を売りに来た」市電に乗ってからも、黙視 つらロをばくばくさせるばかりで、なにが不満なのかどれしがたい不正に怒りを抑えかねた、といわんばかりな口ぶ りで彼はつぶやいた、「だからちゃんと説明したじゃな、 一つとして元気よくはねてみせるやつはいなかった。 か、これが鮒、こっちが鯉って、すると、あの女のすっと 「おら百姓でねがす」ちょろはばかげた高ごえでいった、 い、うろこが金色だわ、 「のら仕事のあいさにこいつらを捕って持って来たですへ」・ほけが、まあきれい、ほんとにきれ 「きれいだわね、本当にきれい、鮒を見るのは初めてよ」なんて、さんざっぱらと・ほけたことをぬかしたあげくが、 若夫人は嘆賞の眼をかがやかせながら、鮒を見、また鯉をあんた塩、 ・らど 見ていたが、やがてちょろのほうへ眼を戻すと、急に事務土川春彦は宙をにらんだ。 しおじやけ 的な声になって問いかけた。「あんた塩鮭持ってない ? 」 その夜ちょろは、タめしのあとで壮烈にしゃべった。例 土川春彦の眼がかっと大きくなり、なにかいおうとして 口をあいて、言葉が出てこないので閉め、またロをあいてによって面白くも可笑しくもないことを、独りで上きげん ひざ なに力しいかけたが、若夫人はもう・ハス・ストップのほう にまくしたて、独りで膝をたたいたり、ひっくり返って笑 を見やっていた。まるで突然、春彦や一一つの容器の中の鮒ったりした。七代目か・ほちやであるところのばんくんは臆 や鯉の存在が、そこからかき消されでもしたように。そうしもせずめげもせず、ま正面からその攻撃を受け止め、半 して、こっちへ進行して来るパスを認めたのであろう、優歩も後退したり脇へよけたりしなかった。 みちばた 雅な動作で腕時計をちらと見、ゆったりした足どりで去っ 「屋敷町の道傍でね、一人の百姓がきみ鮒と鯉を売ってた ていった。 んだ」とちょろは話した、「そこへね、しゃれた洋装のマ 土川春彦は荷を片づけた。背負い籠の中へまず鯉の容器ダムが通りかかってね、それなーにとのそきこんだ」 を入れ、その上に板をのせてから鮒の容器を入れ、竹で編百姓はこいつはうまい客だと思ったようすで、熱心にそ ひも んだ蓋をかぶせて紐を掛けた。 の鮒と鯉の説明をした。マダムはそれをしまいまで聞いて から、けろっとした顔で百姓に問いかけた。 「塩鮭持ってないの、ときた」彼は籠を背負いあげながら 口まねをした、「あんた、しおじやけ持ってなーい、 「あんた塩鮭持ってない ? ーちょろは誇張した作り声でい ムた かご わき
うして、つとめて客観的になろうとっとめながら、そっと「は、じ、め、くん、って光子は云うんですよ、あんたい いったいお光っあんの生れはま夢の中で、きれいな女の子を抱いてたわね、あれはどこ 福田くんに質問した、「 どこだい」 のだーれって」 しようらゆう 「きみはそんな夢をみてたのか」 福田くんは黙って首を振り、焼酎のグラスを舐めた。 それじゃあ本当のとしは、と相沢がきき、福田くんはまた「みていたかもしれない、自分じゃ覚えていないが、光子 にそう云われるとそんな夢を見ていたような気がしてくる 黙って首を振った。 「そんなこと、誰が知るもんですか、結婚届けだって光子んですよ」 が独りでやって、ぼくには見せもしなかったんですから「それからどうする」 「ぼくのことを押しつけて」福田くんは唾をのみ、焼酎の ね」 相沢は仰天して眼をみはり、きみたち正式に結婚してるグラスを舐める、「その人こんなふうにはじめくんのこと のかい、と大きな声できいた。福田くんは右手をあげ、そ可愛がってたわねって」 ふとももたた 相沢は上を見あげ、聞き耳を立てるような表情をした。 れをカなく下へおろして太腿を叩いた。 まるで彼は自分の家にいて、いまが夜半であって、二階の 「そんなことは問題じゃないんですよ、お光のやつが」 福田くんの言葉はそこでぶつつと切れた。あげている凧物音にひきつけられている、とでもいったような顔つきで の糸が切れたようにとっぜん口をつぐみ、すると、あとにあった。福田くんはざっとなりゆきを話してから、両手を そろそろと自分の首へ押しつけた。 続く言葉は、糸の切れた凧がどこかへ飛んでゆくように、 「そうしてこうするんです」と彼は云った、「ぼくの眼を 彼の口から飛び去ってしまったというふうにみえた。 「ほくは殺されるんじゃないかと思うんです」福田くんはじーっとみつめたまま、唇でにーっと笑ったままですよ」 べつの話題をつかみ出した、「夜なかにひょいと眼がさめ「あのときでも眼をあいたままなのかい」 かたひじ るでしよ、見ると光子のやつが片肱を突いて半身を起こし「ずーっとです、・ほくにも眼をあいていろって云ってきか ないんですよ、いやだな・ほくは」福田くんは頭を振り、唇 て、・ほくのことを上から見おろしているんです。そして・ほ ひとみ くちびる くが眼をさましたなとみると、唇だけでにーっと笑い、眸を閉じてぐっと横にひろげる、「まったくいやだ、はんに やみたいな顔になるでしよ、ぞっとするな」 を凝らしてじーっとみつめるんです」 相沢は身ぶるいをし、「お岩さまだな、まるで」と呟いた。 つぶや たこ
れはかみさんに催眠術をかけられて、その術からさめるこ とができずにいる顔だそ。 冗談じゃねえぞ、あのひとの眼をよっく見てみな、とお がみやのお常さんはまじめに云った。あれはしんから人を 沢上良太郎には五人の子供がある。太郎、次郎、花子、こばかにしている眼だ、人も神も仏も、てんからばかにし 四郎、梅子。殆んどとし児で、上が十歳、次が九歳、八歳、ている眼だ。 からだ 七歳、五歳。そして妻のみさおは妊娠していた。 かみさんのみさおは痩せた小づくりな嫗で、顔も細く、 とが この「街」の人たちは、それら五人が沢上良太郎の子で頬骨が尖り、落ちく・ほんだ眼はいつも、きらきらと、好戦 はなく、一人ずつべつに、それそれ本当の父親があり、そ的に光っていた。肌の色は黒く、髪は茶色でちちれ、額が の父親たち五人がこの「街」に住んでいることも、かれら抜けあがっていた。としは良太郎より三つ下の三十一一歳で が自分じぶんの子を判別していることもよく知っていた。 あるが、見たところは逆に四つくらいもとし上のようであ だれ っこ 0 妻のみさおは自分の腹をいためたのだから、むろん誰よ りも熟知していたであろう。それを知らないのは子供たち みさおは殆んど家にいない。食事の支度とか、子供たち と沢上良太郎だけだと信じられていた。 の着物のつくろいなどはするが、あとは長屋のどこかで、 しゃべ 沢上良太郎は「良さん」と呼ばれていた。背丈はさして かみさんたちとお饒舌りパーティーをしたり、つかみあい けんか 高くないが、よく肥えていて、まるまるとした顔は見るかの喧嘩をしたり、その仲裁をして酒を飲んだり、そうかと まゆげ らに人がよさそうだった。太い眉毛も、小さくまるい眼も思うとしばしば、半日もどこかへ消えたりしていた。 しり くちびる ほおほね 尻さがりで、唇が厚く、頬骨のところに肉が盛りあがっ 「あーあ、まったく女なんてつまらねえもんだ」彼女は一 にくこぶ のぞ ているため、小さくてまるい眼は、その肉瘤のかげから覗日に幾たびか、きっとこう嘆かないことはない、「ーー男 のいているように感じられた。 は勝手にしたいことをして、亭主関白だなんておだをあげ 節 良さんの顔はお人好しの条件をぜんぶ揃えている、とけていられるが、女は腰の骨の折れるほどはたらいても、た 季 ちんぼの波木井老人が云った。眼も口も鼻も頬べたも耳ものしみに芝居ひとつ見にいけやしない、考えてみるとなん ぜんぶ、お人好しの部分品ばかり集めてこねあげたものだ。のために生きているのか、つくづくわが身が哀れになっち 良太郎の顏をよく見ろ、とヤソの斎田先生は云った。あまうよ」 とうちゃん そろ
い、まあ治助くんおちついて」 治助は平生おちついた男で、たんば老人の話によると、 ひぎ 「めしを食ったものかどうかと、よくよく思案してみたう先生がそこへあぐらをかき、縞ズ・ホンの膝をつまんで皺 えで、初めてめしを食うことにきめた」そうであるが、典を伸ばすのを眺めながら、治助はまだ怒りのおさまらない 型的ともいうべき律儀者であり、人のうちへどなりこむと顔つきで、他人の女房を横取りするようなことは、仮にも けんか か喧嘩をする、などということは、博奕きちがいの徳さん先生と呼ばれる人間のすることではあるまい、と責めたて た。・ほくはそんなことは知らない、それは誰かの悪意から でさえ、賭けの対象にはしないだろうと信じられるくらい、 出たざんそにちがいない、と先生は答えた。 治助には縁のないことであった。 しぶし それがいま、彼は怒りのために拳をふるわせ、ぶしよう「先生がまずそんなふうにしつべ返しをくらわせて、おれ たた しるしばんてんそで ひげ 髭だらけの黒い顔をつき出し、古い印半纏の袖をまくって、の出鼻をひっ叩くだろうとは、証人たちもいっていたよ、 だがな先生、みんなが現に見ているんだ」と治助はいった、 いまにも先生に殴りかかりそうな気勢をみせた。 「なにをどなるんだ、なんだ」と先生はまごっいて、治助「おはつのやつがこのうちの裏からもぐりこんだうえ、一時 間ぐらいするとこそこそ出て来て、頭の毛かなんかいじり の拳を防ごうとでもするように、片手を前へ出しながら云 ながら、こそこそ帰ってゆくところをよ、え、先生、これ った、「ーーー・ほくがなにか悪いことをしたのならあやまる、 でも知らねえっていい張る気かえ」 まあおちついて」 あごびげ 「おれのかかあを返せ」と治助はどなった、「おれの女房「待ちたまえ、まあ待ちたまえ」先生は顎髯を撫でた、 「ーーーそうか、うん、そういうことか、なるほどありそう のおはつを返せとおれは云ってるんだ」 だな」 「おはちさんのことか」 「なにがなるほどだ」 街「それはお国なまりだ、おはっというのが本当なんだが、 そんなことはどっちでもいい、先生はいまおれのことをま のるめようとして、こうしているうちにもその頭を使ってる「これはだな、治助くん」と先生はおちついていった、 季だろうが、おれのほうには証人て者が幾人もいるんだ、そ「証人が見たとか見ないとかという問題じゃなく、当人の の証人たちは頭は使わないが眼を使って現場を見ているんおはちさん」 矼だ」 「おはつだといったろうが」 「まあおちついてくれ、とにかくぼくにはわけがわからな「その人にだ、いいかね」先生は切札を出すような口ぶり ばくら なが しわ