堅田 - みる会図書館


検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集
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1. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

きゅう 灸のための時間が、一時間ほどかかる。その間はなんと悔やむ思いはない。お今の時代は後世の江戸期とはちがい、 なくたがいに無言である。無言のまま堅田ノ入道は灸をす男女間のことに手きびしい道徳はなかった。 えつづけ、お今は灸をすえやすいようなかっこうをさせら「ところでー れてゆく。片ひざを立てたり、横むきになったり、うつぶ と、堅田ノ入道はいった。 せになったり、入道のいうままの姿勢にならねばならない。 「あすは、早発ちでござりまするそ」 「妙なものでござりましたの」 「あすは ? 」 と、入道がやっと声を出したときは、お今は入道とまじ と、お今は妙な顔をした。彼女は、堅田へゆくというこ わってしまったあとであった。まったくばかな、とおもっとしか聞かされていない。あす早発ちでどこへゆくという のか。 てもあとの祭りであった。「妙なものーと入道がいうのは、 妙とは玄妙というような意味で、たいへんよろしゅうござ「いやさ、沖ノ島でござりまする」 いました、というほどの意味である。要するに礼をいって「沖ノ島へ、私が ? 」 「これはしたり、お聞きではござりませなんだか。お局さ ( 腹が立っ ) まは沖ノ島がご一生の配所でござりまする」 ともおもったが、しかししんから怒る気がしないのは、 「なんと」 なにやらこの入道がおかしいのである。ひょうきん者かと お今は、はね起きた。おどろいたのは、お今ばかりでは おもったが、そうでもない。 なく堅田ノ入道にしても同様だった。入道は、「都の役人 「手前、お前さまが堅田へござらっしやるとうかがった日はずるい」とおもった。お今の説得方を護送者である自分 から、待ちに待っておりました」 にやらせるとはなんというずるさであろう。 ねや という。堅田へお今が来れば閨をともにできるものと、 「なにごともめぐりあわせでござる」 しんから思いこんでいたらしく、思いこんでいたとおりに と、この浄土真宗の信者は、自分の哲学にお今をひき入 このようになったことを、その意味ではごく自然なこととれて説得しようとしたが、お今は、いやじゃ、沖ノ島など おもっている。たとえば、めしを食い、茶をのんだほどの いやじゃと身もだえしてきかず、ついに身を投げて堅田ノ ことと同じらしい 入道にすがりつき、 お今は、それもこれもばかばかしくはあったが、べつに 「入道、なんとかせよ」 はやだ っぽね

2. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

滋賀県堅田の浮御堂 うきみ」う やかた かただ 堅田ノ入道の館は、湖に突き出た浮御堂の しとみど そばにあり、東に面した蔀戸をあげればその 開口部いつばいに琵琶湖がみえる。このあた りはこの琵琶形をした湖の琵琶の柄に相当す るところで、湖のすがたはもっともせばまっ ! 豸あいぶ ている。自然、この狭隘部が往来の船を堅田 衆が制するには絶好の岸であり、ここに湖賊 の根拠地がすえられてきたのは当然なことで あろ、つ ( 「妖怪」 )

3. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

しらべると、島のまわりは二十余丁で、民家も五、六軒はこの湖上の運輸機関が利用される。そういう船主は、多 あり、ことごとく漁業を営んでいる。要するに流人が住めくは南近江の大津周辺にあつまっていた。 ぬという無人島ではない。 湖賊はそういう船主ではない。それら琵琶湖往来の船に 「佐佐木の者に頼もう」 対し通行税を徴収しているものであった。この点、瀬戸内 と義政がいったが、「しかしながら」という者がある。海の海賊衆とかわりがなく、商船が通ると目ざとくみつけ、 ろっかく ・きよう′」く 近江一国は佐佐木氏 ( 六角氏、京極氏の一一流にわかれ、国を南漕ぎよせて、 北にわけている ) の支配とは申せ、琵琶湖の湖上については「航海の安全を保障してやる。そのかわり関銭を出せ」 かただ ようしゃ 西岸の堅田に本拠をもっ湖賊がいわば海上交通をにぎって というものであった。もし出さなければ容赦なく乗りこ りやくだっ いる。「その堅田衆を警固に頼まれねば諸事都合が悪しかんで積み荷を掠奪してしまう。出せば、受取りの符のよう かぎよう ろうと存じまする」というのである。面倒なものであった。 なものを渡す。まことに不可思議な稼業だが、こういう湖 賊や海賊連中の歴史ははかり知れぬほど古く、この国の陸 沖ノ島 上で支配者になった者も、かれらの勢力をつぶそうとはせ ず、むしろ抱きこもうとした。遠くは平家が瀬戸内海の水 かただ ーー・堅田の湖賊 軍ーー海賊ーーーをにぎり、海の平家を呼号し、騎馬軍を誇 といえば、大げさにきこえるかもしれないが、そういうる源氏と対抗した。この稿のこの時期よりややくだって織 ほっこう 集団が琵琶湖の西岸堅田というところに古くから住みつい 田氏が勃興したころ、信長は琵琶湖の水上権を手に入れる ている。ただし、この当時発琶湖を湖とはいわず、単に近ために堅田衆を抱きこみ、堅田衆はそのまま豊臣政権にも みみ ひょうぶしようゆう 江の海といわれた。自然、かれらを湖賊というのは正確で従属し、その頭目の堅田広澄は兵部少輔という官位までも 。海賊衆とか水軍とよばれてきている。 らい、二万石の大名になっている。もっとも関ヶ原のとき けいき ちなみに、髭琶湖は北国と京畿を水でむすびつけているに西軍に属し、西軍の軍隊輸送をひきうけ、家はとりつぶ という点で、交通上はかり知れぬほどの重要性をもってい された。 妖 わかさ おうう わんぐまい る。若狭国越前の港に入った奥羽、越後あたりの年貢米も この稿のこの時期、堅田の頭目は、右の広澄の四代前に この琵琶湖で水上輸送され、大津で揚陸される。北国の物あたるゲンボウという男であった。ゲンボウとは玄房、玄 資だけでなく、美濃あたりの物資も京へ運ばれるには多く奉と書いたりするらしいが、どういう文字なのか配下の堅 とよとみ

4. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

316 田衆もくわしくは知るまい。ふつうは、 岸であり、ここに湖賊の根拠地がすえられてきたのは当然 なことであろう。 「堅田ノ入道ー というよび方で通っている。商船が通ると湖賊どもは漕 われわれ堅田の者にも芽がふく季節がきたな。 ぎよせて、 とこの入道がおもったのは、先日、都の将軍家から使者 堅田ノ入道の符をもっているか。 がきて、いや、使者が来ることさえ意外であるのに、おど みぎようしょ と、船上におらびあげる。そういう場合につかわれるかろいたことに御教書をくだされたことであった。入道はあ ら、堅田ノ入道という名前は京の者でも知らぬ者はない。 わてて礼装をつけ、使者を上座にすえ、自分ははるかに廊 あわうみ お今は、最初、幕府の役人から「淡海 ( 近江 ) の沖 / 島下にさがり、まるで神を迎えたかのように拝礼した。 に流される」とはきかされず、ただ、 「ありがたくおもうように」 「堅田ノ入道のおあずけになります」 というのが、使者の口上であった。 , 御教書が、湖賊のよ といわれただけであった。こう申し渡されたときの恐怖うな身分の者にくだったことについてである。たしかにあ はどうであったであろう。もうだめだ、とおもった。それりがたい、と入道もおもった。 みもん ほど京者にとってはその名はおそろしい 「前代未聞のことである」 要するに、海坊主のような、えたいの知れぬ怪物として と、使者はいった。入道も、そう思った。 / 御教書がくだ 京の女子供には想像されている。しかしながら実際はそうるということ自体、湖賊の頭目が大名並にあっかわれたと ではない。 いうことであり、この御教書が命じている義務さえぶじ遂 しようゆう ごく気の弱い、陽気で好人物の、ひまさえあれば一向念行すれば、なんとかの守とか何とかの少輔とかいったふう 仏をとなえている親爺なのである。 の官位を将軍にたのんで朝廷に奏請してもらえるというこ とであろう。 うきみどう かただ しかも御教書が命じている義務はごく簡単なことなので 堅田ノ入道の館は、湖に突き出た浮御堂のそばにあり、 ちょうぎ しとみど びわこ 東に面した蔀戸をあげればその開口部いつばいに琵琶湖がある。かって将軍の寵姫であった者を沖ノ島に流し、島に みえる。このあたりはこの琵琶形をした湖の琵琶の柄に相警固の者を置くだけのことですむ。 「むろん、お請けつかまつろうな」 当するところで、湖のすがたはもっともせばまっている。 きようあいぶ 自然、この狭隘部が往来の船を堅田衆が制するには絶好の と、使者が念を押した。入道は床にひたいをすりつけて、 やかた おやじ ありよう

5. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

「過分なおもてなし、よろこんでおります」 と、堅田ノ入道が意外に強腰でそれを否定したのは、こ えしやく 引と、お今は会釈したが、そこは女のことでもあり、つ いの琵琶湖沿岸にちかごろ本願寺勢力が伸び、かれがその熱 出てしまうのは愚痴である。この罪はむじつであること、 心な信徒になったからであろう。本願寺宗、一向宗、浄土 疑われたのは唐天子という者のためであることなどを語っ真宗、門徒などとさまざまな呼称でよばれているその宗旨 きとう しんらん た。堅田ノ入道は事件についてはくわしく知っているらしの開祖親鸞の教えでは、まじないとか祈禧とか加持とかそ ういったもののすべてを否定し、迷信であり気の迷いであ 「ごもっとも、ごもっとも」 るとしている。その信徒である以上堅田 / 入道がそういう とうなずき、しかしお今に訓戒を垂れることもわすれなのは当然であろう。 カ / 「そなたは門徒かー っぽわ 「しかしながら、お局さまにも落ち度はございましたな。 お今は、議論をしてもむだだとおもった。 あや ゆらい、人というものは、妖しき者、悪心をいだく者、利 欲熾んなる者、巧弁なる煮為にせんと思う者、などは身 ( おもしろそうな入道だ ) 辺に近づけてはならぬものでございます。一旦の役には立と、お今は堅田ノ入道のことをおもった。湖賊かたぎと ちましようとも、のちかならず不吉のことをもたらすもの いうか、つまりは水の上を活動世界にしているせいか、陸 でございます。こんにち、お局さまのこの禍は、唐天子の上の人間のせせこましさがなく、気象がさつばりしてい なる者を近づけられたところにあり、やはりたれを憎まれて、言うことも単純で、単純さがもっこころよいひびきも ることもなく、お局さまご自身のお身から出た銹でござい ある。 によし編 4 ′ ) ましよう」 「とまれかくまれ、お局さまのような雲の上の女性がこの 「きついことを言いやる」 堅田にお見えあそばしたること、わが家末代までの光栄で 、え、本当のことでございます。あのような者のなすございます」 ことは根も葉もなくみな気の迷いでございます」 と、この女流人の到来を、そのような言い方でしんから 「いいや、左様ではない。唐天子はたしかに通力をもち、 よろこび、感動し、どうもてなしてよいものやらうろうろ 天地や人間を自在にすることができた」 している様子であった。お今は、安堵した。 「ではござらぬ」 ( この入道を抱きこめば ) さか ため わざわい いったん さび るにん あんど

6. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

322 「私の目は」 堅田ノ入道は、おどろきもせずにいった。というより、 驚くことをおさえていた。浄土真宗の教えでは、神という唐天子は、あきらめたように瞬いた。 ものの格別な力も存在しなければ魔力というものも世に存「これが癖でね。仕方がない」 ( こいつはだめだ ) 在せず、まじないやりということもあれはうそである、 しんらん といわれている。入道は真宗的合理主義の信者であるだけという表情が、唐天子にあった。本願寺門徒は親鸞がひ がんこ れんによ にこの場合、この怪奇さにおどろくことはその信仰への裏らき蓮如がひろめた合理主義を頑固に信奉している。 あみだによらい 切りになることであり、ともかくも抑えねばならない。 「門徒は、阿弥陀如来が本尊だな」 「おまえは、何者かね」 唐天子がいった。そうだ、と堅田ノ入道がいう。「それ 「お今さまの従者でござる」 ならば」と唐天子はしばらくだまっていたが、やがて、 小男は影のようにもうろうとしており、陰気な声でいつ「阿弥陀如来をおがみたくはないか」 めくらまし ーいった。この男は、堅田ノ入道を幻戯にかけ 唐天子ま、 「名は」 て生きた阿弥陀如来を現出してみせ、その心を奪ってしま 「唐天子と申す」 おうと考えているのである。 「ああ、その名はきいている。しかし唐天子よ、本願寺御「目をつぶっていろ。ほんの五つばかり呼吸をしているあ 門徒であるこのわしに対してはおまえのまやかしはきかぬ いだ目をつぶっていれば、浄土へつれて行って阿弥陀如来 ぞ」 に会わせてやる」 「唐天子は、まちがっている」 しったい、なにをしにきたのかね」 入道はいった。入道のいうところでは、阿弥陀如来とい と、堅田ノ入道はきいた。 うものは人間のかたちをしておわすのはあれは説法の方便 ほっしようしんによ でそうなっているだけで、本当は法性、真如 ( 真理 ) とい 「さあね」 唐天子は目をつりあげ、またたきをせずに入道をみつめってもいいのだ。それゆえ阿弥陀如来はお浄土という一ッ またた 場所だけをお住いにしておられるのではなく、宇宙あまね た。瞬かない 「おまえ、目が痛くはないか。瞬いて、目の玉をぬらさねく満ちみちておられる。 ば目が干しし・ほんでしまうぞ」 「たとえばこの部屋にも」

7. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

その圧巻は「沖ノ島」の章で、抜け殼となった生身 の源四郎が、花ノ御所で日野富子にもてあそばれてす いきりっ た見さましい愛撫を受け、い つばうかれの生霊は沖ノ島に 幽閉されているお今の寝所に飛んで斬りつけるくだり で争である。ことにの幻術が富子の生命力に裏切ら こを こ典れ、生身と生霊とが交代するあたりの描写は類がない 訳西欧の幻想小説、ジャン・コクトオの映画にかようよ 立ロ 対、つなおもしろさである。そして、これはやはり小説だ っム / 蘭けのおもしろさである。この作者には『妖怪』とほば 同じ題材の戯曲『花の館』があるけれど、舞台では人 内な かっし」・フ 塾か 間の葛藤は小説よりきわだって描かれても、この幻想 の豊潤さは現出されていない お今が配流されていった、また源四郎の生霊が往復 かただ した堅田や沖ノ島は、これまでわたしが何度かたすね 戸 たところである。しかし、こんど『妖怪』の文学紀行 のためには再訪する気がはじめからなかった。現代の 堅田や沖ノ島へいってみたとて、それが何になろう。 使その堅田、沖ノ島は現実を越えた夢幻の港や孤島であ 習るからである もし、いつの日にか、わたしが月のかげつた暗い冲 解ノ島、あるいは未明の靄にかすかにゆれる沖ノ島の影 を遠望することがあるとすれば、そのときには必す小 説『妖怪』の場面を思いおこすのにちがいない もや

8. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

317 妖怪 いなや 「なぜ否応がござりましよう」といった。 運ばれる途中、お今は、 ちそう とうてんし そのあと、使者に馳走をした。 ( せめて唐天子でも生きておれば、この身がのがれられる 使者が帰ってからは、堅田衆のおもだつ者をあつめて大のだが ) 盤ふるまいの酒宴をした。これほどめでたいことがあろう とおもったが、いや左様ではあるまいともおもいかえし カ た。たとえ唐天子が生きていようとも、あのばけものにな 「わっははは、わしらももはや水の者とよばれて卑しめらにができるだろう、とおもった。 ( あれを飼ったことは、失敗だった ) れることはない。やがては官位ももらい、都にもの・ほり、 さぶろ 将軍の御所にも侍うて、あれも御直参よ、いつばしの地頭お今は、いましみじみ思っている。あの男を飼っていた めくらましずほう からわた がために、「あの唐渡り妖人に幻戯や修法を用いさせて富 よ、といわれる身分になることに相成るそ」 まら 1 」 子の膃児を水にさせた」というあらぬ疑いをうけ、このよ 「いやさ」 ともいった。 うな結果になってしまった。 「これで当国の守護どのの小うるさき節介もはねかえすこ このタ、堅田ノ入道の館につくと、入道もその郎党もあ とができる」 げてお今を以前同様貴婦人としてあっかい、身のまわりを といった。近江国の守護大名の佐佐木氏が陸上の支配者世話する女二人までつけてくれ、夕食には田舎豪族の館で ぜんぶ の権威をもってこの水上の支配者にいろいろな物言いをつしつらえられたものとはおもえぬほどのぜいたくな膳部が けてきたことをこの入道はいっている。 出た。お今はさすがに思いが千々にみだれ、その三分の一 やがて、お今が送られてくる当日になると入道は室町風ものどに通らなかったが、しかし、 からさき の正装をし、湖岸の唐崎まで出むかえた。 ( この歓待の様子では、自分の前途もあるいは悲観したも 輿をかこむ行列は、志賀越えからおりてくる。その輿を、のではないかもしれぬ ) 入道は唐崎の松の白砂の上でうけとった。 とおもった。食後、ちかごろ京の建仁寺にきた唐人がひ やかた まんじゅう 受けとって陸路堅田の館まで警固し、館に入れたのは午ろめはじめているという饅頭さえ出た。その席に、堅田ノ 後五時ごろであったろう。春さきでもあり、湖上はすでに入道が当館のあるじとしてあらわれ、「お疲れでなくば、 暮色がこめようとしていた。 お物語のお相手などっかまつりまする」といって下座にす わった。 ′」じきさん けんにんじ

9. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

力で、もうそのあたりには居なかった。 と、源四郎は無言のままである。その動作は、中風の老「堅田衆」 どうこう と、お今はこの屋内で宿直をしているはずの堅田ノ入道 人が物でもひきよせるように緩慢であった。ただし瞳孔だ の郎党をよんだ。 けは動かず、宙にすわっている。 「早う来てたもれ。物狂いが」 「そなた、どうした」 すそ と、お今はやっときいた。 と、お今はあちこち逃げまどうた。そのつど裾が舞い、 源四郎は、だまっている。この男の内面の異変は、かれその裾を源四郎の太刀が追い、 の生霊が徐々にその形骸に入りつつあることであった。 お今を殺せ。 と、富子に命ぜられた。その命令を、源四郎の意識がき と、何度も柱に切り傷を入れた。そのうち二人の堅田衆 いたのではなくーー、・意識はこのばあいこなごなにくだけてがかけつけてきた。かれらの一人はお今を抱いて退避させ 空中のどこかにただようているであろうーー源四郎の生霊ようとし、一人が太刀を抜いた。ぬくと同時に血煙りをあ がきいた。生霊は形骸に入るとともに、「殺せ」という富げてたおれた。さらにお今と抱きあうようにして廊下へ逃 子の言葉の響きにこだましてその響きのままに形骸の手足げだした郎党の肩さきへ、源四郎の太刀がふかく切りこん は動こうとしている。この場合、その手足がどう動き、な にを仕出かそうと源四郎の責任はないであろう。 ゆるゆる動いている。やがて、 三条河原 ばっ と、太刀の柄をにぎった。とみるや、電光のような早さ それから、半年経った。 で引きぬき、足をはねあげて空に飛んだ。 その春のある日、源四郎は三条のあたりでにわか雨にあ 堤から河原へ駈けおりて雨をしのごうとした。 お今は、逃けた。源四郎の太刀は柱に切りこんだ。お今 手ごろの空き小屋はないか。 はその白刃の下をかいくぐり、悲鳴をあげ、 と、河原を物色した。あいにく空き小屋はなく、どの小 「唐天子」 から しゆらば と、叫んだ。唐天子はこういう修羅場になるとまるで無屋にも、やどかりが殻を背負っているように人の手足が動 むくろ つつみ とのい

10. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

わす目がとまったりした。 権川を渡「た向日神社は中けた。苦渋を塗りこめた暗い画面に微光のようなもの 世の荒々しさは残していなかったが、長い石の参道が がにじんでいる。わたしも『妖怪』の舞台をぶらぶら 緑陰のトンネルになっていて、ゆっくり登ってゆくと歩きしていると、結局は「夢候よ」とややャケくそに まことにこ、」ろよかった。 ロすさみたくなり、鴨居さんの絵を思い合わせたりし そんな京歩きをしていると、『妖屋』に引用された た。ただ、わたしの場合、鴨居さんの暗い微光のかわ 今様がしきりに田 5 い浮かぶ りに三宝院のくれないのサクラが重なってあらわれる 憂きもひととき こともある。「花ノ御所」の跡を歩いていて、自転車 、つれしきも にぶつかりそ、つになったときがそれであった 思い醒ませば どうやら、わたしの『妖屋』文学紀行は、とりとめ ゅめそろ 夢候よ もなくその世界を旌するとい「たことに終わりそう 画家の棹さんはこの今様を『妖怪』で知「てひ である。でも、この作者の奔流するような想像力、豊 どく好きになり、そのタブローに『夢候よ』と題をつ 富な史的知識の量に改めて感心し、わたしなりに想像 かただ かって「湖賊」の本拠地として栄えた琵琶湖西岸の堅田港 ( 滋賀県堅田町 )