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検索対象: 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集
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1. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

してもってゆくと、大明帝国ではそれを殊勝であるとして 「いまさら顔が商売の辻君に出るわけでもあるまいに」 「でも、御台所さまがもしおなくなりになれば、この嬉野 ' 受けとり、明における時価で買ってやり、明の銅銭をもっ て支払ってくれる。支払うというより、明の帝室から日本 は辻君にでもならねばなりませぬ」 国に対し銅銭が下賜されるのであゑ足利三代将軍の義満 「おお、そのこと」 は、この入貢貿易で大いに味をしめた将軍であった。 富子は、話をもどさねばならない。 「左様なことがないように、嬉野もたつぶりと金銀をため「どれほど大きな利を得られたか、気が遠くなるほどだ」 っぽ と、富子はいった。 て壺に詰め、土に埋けておかねばなるまい。よう思案をせ このために義満は日本を、明の属国であるという立場に ほう 「その思案が」 置き、かれは明から日本に封ぜられた藩王であるという姿 れゆうきゅう なかなか思いうかばないのである。 をとった。この点は、同時代の朝鮮や琉球もおなじであ きようけんおう ったであろう。義満などは死んだとき、明から恭献王とい 欲が、思案をうむものらしい。日野富子は、これだけつうおくりなを与えられたくらいであった。 よしもち よい物欲をおさえかねてくらしているだけに、なにをどう ところが義満が死に、四代将軍義持の代になると、この 思案すれば思案が銭になるかということを、そばで聞き耳入貢をやめてしまった。日本の国威にかかわるということ を立てている源四郎もおどろくほどによく知っていた。 で朝廷が大いに反対したためであった。 くぼう みんぜにか 「私は公方さまにもすすめているのだが、明へ銭買いの船 この入貢貿易をやめたために、幕府の財政は大いに疲弊 を出すのが、いちばんいい」 あしかがたかうじ と、富子はいった。 もともと足利尊氏がおこした室町幕府というのは、最初 明へ銭買い船を出す。 から畸形であった。尊氏はおお・せいの地方武家の勢力に支 怪 というのは、対明貿易のことである。もっともこの貿易持されて天下をとった人物だけに、天下をとるや、日本六 は、近世の貿易という意味とはすこしちがう。 十余州のほとんどの土地を諸大名にわけてしまい将軍家の 大明帝国というものに対し、日本は属国であるという立領国はわずかしかなく、このため武力も財力も、成立した にゆうこう みつぎもの 場で官船を送る。いわゆる入貢であり、明の皇帝へ貢物を最初からとぼしかった。金と軍事力の点では、将軍家をし 贈るという形式をとるのである。日本の物産を「貢物」とのぐ大名がいくつもあったが、それでもその諸大名が将軍 つじぎみ きけい

2. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

掘り日本史』 ( 毎日新聞社 ) を刊行。七月、「話のくずかご」今オーをゆく ( 一 1) 』 ( 朝日新聞社 ) を、五月、ドナルド・キーン氏との対談 ル読物」連載↓四十六年一一月 ) 、「城塞」 ( 「週刊新潮」に連載↓四十集『日本人と日本文化』 ( 中央公論社 ) 、『花神 ( 一 ) 』 ( 新潮社 ) を刊 六年十月 ) を発表。同月、『大盗神師』 ( 文藝春秋 ) を、八月、『歴气六月、文化講演会 ( 文藝春秋主催 ) で江藤淳氏、池島信平氏と 史と小説』 ( 河出書房新社 ) を刊行。九月、直木賞選考委員となる。 ョ 1 ロッパ各地をまわる。同月、『坂の上の雲 ( 五 ) 」 ( 文藝春秋 ) 、 十月、「花神」 ( 「朝日新聞」タ刊連載↓四十六年十一月 ) を発表。十『花神 ( 一 1) 』 ( 新潮社 ) を、七月、『花神 ( = I) 』 ( 前同 ) を、八月、『花 一月、『坂の上の雲 ( 一 l) 』 ( 文藝春秋 ) 、『歳月』 ( 講談社 ) を刊行。神 ( 四 ) 』 ( 前同・全四巻完結 ) を、九月、『坂の上の雲 ( 六 ) 』 ( 文藝春 昭和四十五年 ( 一九七〇 ) 四十七歳秋・全六巻完結 ) を刊行。 一月、「覇王の家」 ( 「小説新潮」に連載↓四十六年九月 ) を発表、同昭和四十八年 ( 一九七 = l) 五十歳 月。海音寺潮五郎氏との対談『日本歴史を点検する』 ( 講談社 ) を一月、『国盗り物語』をで放映 ( ー十二月 ) 。司空海』の風景」 刊行。五月、「重庵の転々」 ( 「オ 1 ル読物」 ) を発表。六月、『坂の上 ( 「中央公論」連載↓ ) を発表。一一月、ベトナムへ取材旅行。同月、 やかた の雲 ( = l) 』 ( 文藝春秋 ) を刊行。八月、「花の館」 ( 「中央公論」 ) を『街道をゆく ( 三 ) 』 ( 朝日新聞社 ) を刊 ( 入月、モンゴルへ取材旅 発表。同月、『馬上少年過ぐ』 ( 作品集・新潮社 ) を、十月、『花の行。十月、対談集『歴史を考える』 ( 文藝春秋 ) 、『人間の集団を考 館』 ( 中央公論社 ) 、『司馬遼太郎集』 ( 新潮日本の文学・新潮社 ) をえる』 ( 産経新聞出版局 ) 、『覇王の家 ( 前・後 ) 』 ( 新潮社 ) を刊行。 刊行。十一月、『花の館』を文学座により日生劇場で公演。 昭和四十九年 ( 一九七四 ) 五十一歳 れおな 昭和四十六年 ( 一九七一 ) 四十八歳一月、『街道をゆく ( 四 ) 』 ( 朝日新聞社 ) 、三月、江崎玲於奈氏との 一月、「街道をゆく」 ( 「週刊朝日」に連載↓ ) を発表。四月、『坂の対談「日本と日本人を考える」 ( 「週刊朝日」 ) を連載 ( ↓四月・四 上の雲 ( 四 ) 』 ( 文藝春秋 ) を刊行。五月、韓国へ取材旅行。同月、回完結 ) 。四月、『司馬遼太郎全集』 ( 文藝春秋・全三十一一巻 ) 完結。 『世に棲む日日 ( 一 ) 』 ( 文藝春秋 ) を、六月、『司馬遼太郎短篇総集』五月、『歴史の中の日本』 ( 中央公論社 ) 、十月、『歴史と視点』 ( 新 ( 講談社 ) 、『世に棲む日日 ( 一 l) 』 ( 文藝春秋 ) を、七月、『世に棲む日潮社 ) 、『街道をゆく ( 五 ) 』 ( 朝日新聞社 ) 、十一月、『人間の集団に 日 ( = l) 』 ( 前同 ) を、八月、『日本人を考える』 ( 対談集・文藝春秋 ) ついて』 ( 中央公論社 ) を刊行。 を刊行。九月、『司馬遼太郎全集』 ( 全三十一一巻・文藝春秋 ) の刊行昭和五十年 ( 一九七五 ) 五十二歳 始まる ( ↓四十九年四月 ) 。同月、『街道をゆく ( 一 ) 』 ( 朝日新聞社 ) 四月、『街道をゆく ( 六 ) 』 ( 朝日新聞社 ) を刊行。五月、訪中日本作 を、十二月、『域塞 ( 上 ) 』 ( 新潮社 ) を刊行。 家代表団の一員として日中文化交流協会より派遣されて中国を訪問。 昭和四十七年 ( 一九七一 l) 四十九歳六月 ~ 入月、『播灘物語 ( 上 ) ( 中 ) ( 下 ) 』 ( 講談社 ) を刊行。 ごと 一月、「翔ぶが如く」 ( 「毎日新聞」に連載↓ ) を発表。同月、『城塞 この年譜は、「新潮日本文学 8 ・司馬遼太郎集」 ( 新潮社刊 ) と、「司馬 ( 中 ) 』 ( 新潮社 ) を、一一月、『城塞 ( 下 ) 』 ( 新潮社 ) を刊行。三月、 遼太郎全集」 ( 文藝春秋刊 ) を参考にして作成させていただき筆者の 校閲を得たものです。作品は全集収録のものを主として掲げました・ 」世に棲む日日』他で第六回吉川 ~ 扣文学賞を受賞。四月、『街道 はおう

3. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

昭和四十八年二月二十四日、雑誌「日本 のなかの朝鮮文化」を励ます会で。右上 田正昭、中央松本清張 ( 撮影・高沢実 ) 昭和 49 年 6 月 1 日 , 桑原武夫 ( 前列中央 ) 苦稀祝 賀会で。三列左から四人目遼太郎 ( 祗園にて ) 昭和 50 年 2 月 , 対談。右足立巻一 昭和 50 年 5 月 8 日 , 日中文化交流協会の派遣による日本作家代表団の一員と して訪中。羽田空港にて前列右から庄野潤三 , 戸川幸夫 , 遼太郎 , 水上勉

4. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

は敵の歩兵や砲兵を敵の戦車が守っている、その戦車 ( 4 最後の将軍』あとがき」 ) である をつぶすために戦車が要る : : : ) 」という思想をもって、 昭和十八年に学徒出陣した司馬は、初年兵教育のの 採用しなかった。 ち満州・四平の戦車学校へおくられたが、ここで行当 わたしは司馬の属した戦車隊とは対極の兵科に属し ったのが九七式中戦車である。この戦車は、戦争がで 速射砲隊と称したがつまりは対戦車砲である。は きないということをのぞいて「同時代の世界で最優秀 かえん じめは三十七ミリ速射砲をつかった。原型はドイツの の機械」であった。火烙ビンを投げつけられてももえ もので、他はことごとくそれを摸したが、ただ一点で ないディーゼル ・エンジンで、しかも水のないところ がん , よフ 異っていた。速射砲は眼鏡で照準する。眼鏡に十字が でも使用できる空冷式であった。しかし鋼板のうすい 入っていてその交点に敵戦車をとらえて発射する。眼 こと、五十七ミリ砲は砲身が短かいため初速がおそく したがって貫徹力がなかった。防御力、攻撃力ともに 鏡の操作は手動である。ドイツのものは眼鏡を操作し ないにひとしく、つまりは戦車ではなかった て照準すると自動的に砲身もまた移動した。だから十 この戦車を他者として、司馬はみごとに明治以後と 字の交点にとらえると発射装置を引けばよかった。と くに昭和の日本国家を描きだす。司馬自身は、「戦車ころがこれを摸した日本製は、別箇に砲身を移動させ るハンドルをまわさねばならなかった。そうすると照 は私にとって好奇心の対象になりうる他人ではなく、 おんねん 怨念がこもっているという意味で自分に属する物体オ 準と砲身移動とを左右両手で同時に行うのだが、これ はどんなに訓練してもドイツ製よりもスピードがおち からじつに書きづらかった」と書いている。だが、わ たしのみるところ、この戦車は大村益次郎よりもむし る。つまり日本製は形は似ているが速射砲ではなかっ たのである。ドイツの思想は機械万能だが、わが国は ろよく書けている れんま 右の欠陥戦車の改造案にたいし、参謀本部は、「 戦機械にたよらす大和魂による百戦錬磨の精神でやる、 やまとだましい 車であれば、 しいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂というのが、日本陸軍の大義名分であった。 でおぎなう。それに薄ければ機動力もある ( 厚くて機 司馬が戦車の製作について指摘したことは、対戦車 動力をもつのが戦車の原則 ) 。砲の力がよわいという 砲についてもまったく等質に妥当した が、敵の歩兵や砲兵に対しては有効ではないか ( 実際 460

5. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

昭和四十八年七月十七日 直木賞選考委員会で。右 端遼太郎 ( ◎文藝春秋 ) 昭和 47 年 3 月 , 「世に棲む日々』他 で第 6 回吉川英治賞受賞 ( ◎講談社 ) 昭和前期の日本陸軍の秀才官僚たちの思考法は、 複雑で渋であった。ガソリン・エンジンのすべて の長所よりも、燃えやすいという小さな欠点に全思 考がとらわれてしまい、その解消のために、軽便性 を欠く上に値段の高い空冷式ディーゼル・エンジン というとほうもないものを採用してその欠点の上に 装甲板をかぶせたのである。しかも日本は貧乏国で あるという要素が思考を牽制し、このエンジンの馬 力をたった一七〇馬力に節約した。ディーゼル・エ ンジンの最大の長所は力が強いというところにある のだが、その長所をけちってしまっては、欠点だけ 人鰍談 3 鼎 集 の戦車になってしまう。 ( 「戦車の壁の中で」 ) AJ 養左 対戦車砲ははほ口径なみの貫通力をもつ。三十七ミ の 正 リ口径は四十ミリ鋼板なら貫通して敵戦車内で爆発す 田 レ 上る。ところがアメリカのシャーマン戦車 1 ( といっ テ たかどうかはなはだあやしいが ) の前面装鋼は八十ミ 中 リの厚さをもっていた。三十七ミリ速射砲では蚊ほど , 樹 日 にも感じないのである。この解決も百戦錬磨と精神一 到ナニゴトカナラザランの大和魂にもとめられた。す 月 湯 というのてある なわち同一点に二発命中させたらいい で 年 照準と砲身操作を分離したのは、日本の兵器生産に礙 和発 精密度がなく、 砲身に固有のクセができるからである 昭の

6. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

現代日本の文学 全 10 巻 司馬遼太郎集 昭和 51 年 1 月 1 日初版発行 昭和 57 年 3 月 10 日 6 版発行 著者 発行者 発行所 司馬遼太郎 古岡滉 学習研究社 東京都大田区上池台 4 ー 40 ー 5 郵便番号 145 振替東京 8 ー 142930 電話東京 ( 720 ) 1111 ( 大代表 ) 印刷株式会社恒陽社印刷所 株式会社美術版画社 信毎書籍印刷株式会社 製本加藤製本株式会社 本文用紙三菱製紙株式会社 表紙クロス東洋クロス株式会社 製函永井紙器印刷株式会社 * この本に関するお問合せやミスなどがありましたら , 文書は , 東京都大田区上池台 4 丁目 40 番 5 号 ( 〒 145 ) 学研お客さま相談センター現代日本の文学係へ , 電話は , 東京 ( 03 ) 720 ー 1111 へお願いします。 ◎ 1976 Ryot aro Shiba 本書内容の無 164 679 ー 1002 printed ⅲ Japan 断複写を禁ず ISBN4 ー 05 ー 050633 ー 5

7. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

現代日本の文学 司馬遼太第集 川井伊 北尾奧足 崎野立集端上藤修 五 + 杜秀健巻委紀康 当夫樹男 夫成靖整 学習研究社

8. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

名歳月殉死可馬達太郎全集お ~ 坂の上の雲一可馬建太郎全集 : 坂の上の震ニ同馬建太郎全集 。新坂の上の雲三可馬違太郎全集物 イ第 3 世に棲む日日司馬太郎全集 司馬達太郎全集 、城謇胡新 司馬達太郎全集四を 司馬遽太郎全集 花神新毅 司馬理太郎全集引 塰長崎事件 評論随筆集司馬理太郎全集 理主義的精神が擡頭してそういうものが夜明けの星 のようにひとっすっ消えはしめた。そういう時代精 神のなかから流行してくるのが貴族における褝学で あり、庶民における浄土真宗の唯一神的信仰であり、 ろうにん 、丱人肯並国を 牢人像における兵法 ( 剣術 ) である。そういうことを 背景に、 いっかはそれを小説に書きたいと思い まやっとその思いをとげ、この「妖怪」を書き終え 司馬遼太郎は、日本史でわかる範囲は室町以後であ 室町以前はわからないから、室町以前についての 考えは仮説とするより幻想としたほうが謙虚でいし と考えている。わたしの考えでは柳田国男を祖とする 民俗学が解明できる上限もまた室町時代である。この 時代に、日本史全体を二分する一つの壁があると思わ れる。司馬がこの時代を「妖怪』という形で描いたこ とに興味がある ま、「なかなか言葉にし この方面の専門家尾崎秀樹ー にくいところだが、「ベルシャの幻術師』ではしまっ ふ・う た彼の作家としての歩みは、『梟の城』を経て「妖怪』 に到る負の部分をつねに介在させているようだ。 せ物 ~ ~ 不条理なものにたいする関心というべきかあるいは ・密教的世界、の共感とすべきか、ともかく彼の中には 465

9. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

文学紀行Ⅱ足立巻一 評伝的解説Ⅱ山田宗睦 編集委員 監修委員 伊藤整足立巻一 奥野男 川端康成尾崎秀樹 ・不第丿一 島由紀人 司馬遼太郎集 妖怪 おお、大砲 美濃浪人 現代日本の文学 司馬遼太郎集 司馬遼太第集 、い、い第、ヾをえ 鬱東岸より比良山地を望む ( 「妖怪」 ) 東大阪市の自宅付近にて司馬遼太郎氏 〔学習研究社〕

10. 現代日本の文学 Ⅱ-9 司馬遼太郎集

本でしばしば描かれた。 ( 絹で作った長柄の傘 ) に似ている。赤松が多く生えているの 一六三芙蓉の峰富士山のこと。 でも知られる。 いっ・ヘんしょ , にん 一高直値段が高いこと。 一時宗鎌倉時代の中期、一遍上人の開いた浄土教の一派。諸 かまたりれいびよ , 一穴多武峯奈良県桜井市にある山で、ここには藤原鎌足の霊廟 国を行脚して念仏踊りによって念仏を広めたので、一名遊行宗 だんざん があり、当時崇敬された。明治の神仏分離によって談山神社と と、もい、つ。 なった。 一一兄草薙剣天皇の位のしるしとして伝えられる三の神器の一 みん やまとたけるのみこと あめのむらくものつるぎ 一査永楽通宝明の成祖永楽帝の一四一一年から作られた銅銭で、 つ。もとは天叢雲剣といわれたもの。日本武尊が東征の折、 鋳造当初から日本に輸入され、室町時代以降標準的な通貨とし 賊に囲まれて火を放たれたとき、この剣で草をなぎはらったこ あった て流通した。 とから命名された。のち熱田神宮にまつられたという。 一七一一凡下侍に属さない庶民のこと。 一三一白河法皇一〇五三 ~ 一一一一九。天皇譲位後も法皇 ( 上皇 ) 一茜本貫本籍のこと。 となって院政をしき、専制的な政治権力をふるった。 一茜数奇数は運命、奇は不偶の意で、運命の不偶をいう。 一 = 穴地下平民のこと。 たき まくらこと ! 一契巌走る : : : 瀧、垂水にかかる枕詞 一三 0 馬借中世において交通労務に従った人。商品の輸送を専門 しきのみこ いっきせん様 , 一契古歌万葉集の中の士蜜貝皇子の歌をさす。 にし、京都周辺に多く存在した。ときとしては一揆の先鋒をつ 一義経記室町時代の軍記物語。作者不詳。源義経の波乱に富 とめたりした。 んだ生涯を描いたもの。 = = 0 北嶺比寺のこと。南の奈良の興福寺を「 ~ 」と 一大お伽草紙室町時代から江戸前期にかけて作られた短編の物 いったのに対していう。 しゅてん 語で、作者はおおむね不明。「文正草子」「鋓かつぎ」「酒呑童 = = 一室津兵庫県地方の港町 ( 現・保郡御津町 ) 。当時、 子」「一寸法師」など、民間説話などを取り入れて、題材は多 瀬戸内海交通の要港としてにぎわい、遊女が多数いた。 方面にわたっている。 一一四一阿闍梨天台・真言の高僧のこと。 一究雑掌雑事を扱う役人。 一一四一聖護院京都市左京区にある天台宗の寺。修験道の本山とし 一究一種の落魄者「乱世」と「落魄者」はその裏面においては て著名。 つづきやわた 解結びつく。この作品を底流するキ 1 ワードの一つ。 一亶石清水八幡宮京都男山 ( 現・綴喜郡八幡町 ) にあり、男山 一へ一常滑川床の岩の上を水が静かに流れているところ。 入幡宮ともいう。平安末期、清和源氏の氏神となり、以後武家 注一〈九遊行者諸国を徹する僧。雲水。 の崇敬を大いに集めた。 一夢寐の間寝ている間のこと。 一儒教指子に始まり刮子・丑を経て発展した倫理・政治思 一語衣笠山京都の北方にある山。金閣の近くにあり、形が衣笠 想。日本には四、五世紀頃に漢字とともに儒学の経典が伝わり、 かさ みつ