源氏物語 412 蛍兵部卿宮 ( 宮 ) △藤宀中宮 ( 故后の宮 ) △桐壺院 朱雀院 △紫の上 ( 亡き人、母 ) 明石の君 ( 明石の御方 ) 源 △葵の上 花散里 ( 夏の御方 ) 女三の宮 ( 入道の宮、宮 ) 薫 ( 若君 ) 氏 致仕の大臣 頭中将 蔵人少将 雲居雁 君達 タ - 霧 ( 大将の君 ) 今上帝 明石の中宮 ( 后の宮 ) 匂宮龕 ) 中将の君 中納言の君 導師
267 横笛 ( 原文六七ハー ) し自身も、これの音色のすべてはとうてい吹きこなすこと そう更けてしまうのであった。 ができない。 これを大事にしてくれる人があったら、ぜひ 〔六〕タ霧帰邸する柏お邸にお帰りになると、格子なども やす 伝えたいものと思っているのです」と、ときおり申してお 木夢に現れ笛を求める下ろさせて、皆もうお寝みになって られたのをお思い出しになると、 いまひとしお胸の迫るお いるのだった。「大将の君はあの女宮にご執心になられて、 ばんしきちょう 気持になって、試みに吹き鳴らしてみる。盤渉調の半ばあ こうして親切にしてあげていらっしやるのです」などと誰 たりで吹きやめて、「昔の人をルぶ独り琴は、不調法でも そ北の方のお耳にお入れしたので、北の方は、大将がこう 大目にみていただけました。しかしこの笛はとてもきまり して夜更けにご帰邸になるのも、なんとなくおもしろくな がわるうございまして」と言って、お立ちになるので、 くて、部屋におはいりになる気配を聞いているものの、寝 露しげきむぐらの宿にいにしへの秋にかはらぬ虫の声 たふりをしていらっしやるのであろう。大将は、「妹と我 うた ・カナ / といるさの山の」と、まことに美しい声で独り言にお謡い ( 露のしとどにおりた草深い宿に、昔の秋に変らぬ虫の声が になり、「これはどうした。こうも厳重に戸締りをしてい しております。涙に濡れたわが宿に、故人のと変らぬ懐かし る。ああ、うっとうしい。よくも今宵の月を見ぬ里があっ い笛の音を聞かせていただきました ) たものよ」とおっしやってため息をおっきになる。格子を すだれ と、御息所は簾の中から申し出される。大将は、 上げさせなさり、ご自分で御廉を巻き上げなどなさって、 すのこ 横笛の調べはことにかはらぬをむなしくなりし音こそ簀子近くで横におなりになる。「こんな月夜に、のんびり つきせね と夢を見ている人があるものですか。少しこちらへ出てい ( 横笛の調子は昔ととくに変ってはいませんので、故人の吹らっしや、 。まったく情けない」などとお話しかけになる き鳴らされた音色よ、、 。しつまでも世に伝えられてゆくことで けれども、女君はおもしろくない気がして、ただ黙って聞 ー ) よ , っ ) き流していらっしやる。 立ち去りがたくためらっていらっしやるうちに、夜もたい 若君たちの、あどけなく寝ばけている声などがあちこち し
おももち いらっしやるのに気がねされて、若々しくかわいい面持で はうこそ、何か栄え栄えしたことやらをこしらえ出してい もの らっしゃいますが、私のような古ばけた女はつらいのです。 おっしやるので、大将は笑い出して、「それはどうとでも ほんとに若々しく派手にお変りになったご様子がしらじら 言えましよう。夫婦とはいつもそんなものです。しかし、 ほかには例がありますまい、このわたしのように相当な身しいにつけても、これまでそんなあなたを知らずに過して きたものですから、ほんとにつらくてなりません。前々か 分の男が、ほかには目もくれずに一人の妻を守り通して、 らならともかく、にわかにこうおなりなのですもの」と、 まるでびくびくしている雄鷹のような有様なのは。どんな に世間の笑いものになっていることか。そんな融通のきか恨み言をおっしやるのも憎くは思われない。大将は、「に ない男に大事にされていらっしやるのは、あなたとしてもわかにとお思いになるほど、どういうつらい仕打ちをあな たにお見せしたというのでしよう。まったくいやなお勘ぐ 名誉なことではありますまいよ。たくさんのなかで、やは りというものです。何かよからぬ告げ口をお入れする誰そ りいちだんとび抜けて格別に扱われるといったのこそ、よ がいるのでしよう。変に前々からわたしを疎んじているの そ目にも奥ゆかしく思われるものだし、このわたしとして ですよ。あの緑の袖をいまだにおばえていて、このわたし も、いつまでも新鮮な気持でいられ、夫婦仲のうまみもう あやっ をないがしろにする口実を探して、あなたをうまく操ろう るおいも長続きもするというものです。こうして、年寄が しいつま という意趣でもあるのでしようよ。いろいろと聞きづらい 誰やらを大事に守っていたとかいう昔話のようこ、 うわさ でもあなた一人を守って愚かしくばかりしているのですか噂をちらほらと耳にいたします。何のかかわりもないお方 霧 の御ためにも、おいたわしいことで」などとおっしやるけ ら、まったくつまらないことです。あなただって、まるで れど、心の中に、結局はそういうことにならずにはすむま 栄えないではありませんかと言いながら、さすがにこの タ いとお思いなので、とくに強くは言い張らない。 手紙を、欲しそうなけぶりも見せずにうまく誘い込んで取 たいふ めのと 大輔の乳母は、まったくいたたまれない気持になって、 3 り返そうとの下心から、、いにもないことをお申しあげにな もう何も申しあげずにいる。あれこれと言い合いをして、 ると、女君はまるでにこやかな笑顔になって、「あなたの
( 母君の形見の玉の箱を拝するにつけても、恋しさに心も慰 は、長い間の仲らいを、そっと気どられずにお過しになっ められず、流れる涙に目もくもることです ) ていたのだとばかり推し量って、このように女のほうは不 黒塗りの経箱もまだ調える余裕もおありでなく、御息所が承知でいらっしやると気づく人はいない。いずれにしても、 らでん いつもお手もとにお持ちあそばした螺鈿の箱なのであった。 宮の御ためにはおいたわしいことである。 ずきよう 誦経のお布施にとお定めおかれたのを、形見として残して 喪中のこととてお支度なども普通の作法とは変っていて、 おおきになったのだった。宮はまるで浦島の子のようなお ご縁の初めとしては縁起がわるいようであるけれども、お 気持である。 食事などもすんで人々がみな寝静まったころに、大将は姿 やしき 〔毛〕宮、タ霧の待ち構一条宮にお着きになると、お邸の内をお見せになり、少将の君をたいそうおせきたてになる。 えている一条宮に帰るは悲しげな様子もなく人の出入りが 少将は、「宮へのお気持が真実末長くとおばしめすのでし 多くて、これまでとは別の世界である。お車を寄せてお降 たら、今日明日を過してからお申しあげなさいまし。お帰 りになるにも、昔の住みなれたわが家とは思われず、疎ま りになり、かえってお悲しみも深くなられまして、まるで しく情けないお気持になられるので、すぐにはお降りにも生きたお人のようでもなくお臥せりになっておしまいです。 ならない。ほんとにおかしな、大人げないおふるまいよと、 私どもがおなだめ申しあげましても、思いやりがなく恨め 女房たちもお扱いに困じている。大将殿は東の対の南面を しいとばかりお思いになりますからーーー何事によらず私ど あるじ ご自分の仮のお部屋にしつらえて、主顔で居すわっておい もの身のためでもございますもの、ほんとに面倒なことで、 霧 でになる。三条のお邸では、女房たちが、「にわかにあき申しあげにくうございます」と言う。大将は、「まったく れたお方になっておしまいです。いつのまにこうなったの解せないことだ。想像申しあげていたのとは違って、大人 タ かしら」と驚いているのだった。ものやわらいで風流めい げない合点のゆかぬお方なのですね」と言って、自分の考 えたことは、宮にとってもまた自身のためにも世間から非 たことには、興味をお持ちでない人こそが、こうして思い がけないことを時にはなさるものであった。しかし世間で難されるはずのない旨をお言い続けになるものだから、少 みなみおもて
なる。御物の怪が油断をさせていたのかと女房たちが騒ぎ足跡のような筆跡なので、すぐにはとてもお読み解きにな たてる。いつものように験力のある法師たちすべてが大声れず、灯火を手もとへ引き寄せてごらんになる。女君は、 ずほう をあげて修法を始める。宮には、女房たちが「やはりお引 その場からは何か隔て越しのようであったけれど、すばや 語 く目にとめられ、そっと近づいて後ろから奪っておしまい 物き取りなさいまし」と申しあげるけれど、宮は御身の上の 氏 になった。「これはあきれたことを。何をなさるのです。 情けなさにつけても、母君におくれ申して一人生き残って 源 なんと、ふとどきな。六条の東の上のお手紙なのですよ。 いたくはないとお思いになるので、びったりとお付き添い 申していらっしやる。 今朝風邪をひいてご気分わるそうにしていらっしやったの 〔九〕タ霧、御息所の文大将殿は、この日の昼ごろに三条殿を、父院の御前にまいっていて、そのまま下がってきてし まったものだから、もう一度お見舞もならずじまいになっ を雲居雁に奪われるに帰っておいでになったのだが、今 。いかにも宮との間 たので、おいたわしくて、ただ今おかげんはいかがかとお 夜折返し小野にお出向き申されるのま、 けそう 尋ね申しあげたのです。ごらんなされ。それが懸想めいた に事があったかのようだし、まだそこまで進んではいない 手紙のさまですか。それにしても、はしたないことをなさ のに人聞きも悪かろう、などとがまんなさって、まったく これまでも長い間気をもんでいらっしやった、その幾千倍るではないか。年月のたつにつれてこのわたしをひどくな いがしろになさるのが情けない。わたしがどう思おうとま も苦しい物思いに嘆息をおもらしになる。北の方はこうし るで恥すかしいとお思いにならないのですね」と、ため息 たお忍び歩きのご様子をうすうす耳にして、おもしろから をついて、お手紙を大事がって取り返そうともなさらない ぬお気持でいらっしやるが、気づかぬふりをしてお子たち ので、女君は、取りあげてはみたものの、さすがにすぐに を相手に気を紛らしながらご自分の居間で横になっていら っしやる。 は見ようともせず手に持っていらっしやる。「年月のたっ につれてないがしろになさるのは、あなたのほうこそそう 宵のロを過ぎるころに、使いの者がこのご返事を持参し ではございませんの」とだけ、大将がこうして泰然として たが、それを大将は、このようにいつもとはちがった鳥の ( 原文一二一 ものけ
しんばう 守ひとりがとりしきっている。こうして思いがけない高貴 大将がしばらくの間でも辛抱できるだろうか、と思うにつ かよびと けてもひどく気がひけてならない。あれこれと思案しなが の通い人がいらっしやると聞いて、これまで勤めを怠って まんどころ ら、お気持をとり静めようとなさる。しかし、今のままで いた家司などもにわかに参上しては、政所などという所に 語 物はどうにも立っ瀬がなく、あちらのお方、こちらのお方が、控えてご用に励むのであった。 このことをどうお聞きになり、どうお思いになることかと、 〔三巴雲居雁、父の邸にこうして大将は無理じいに宮邸に住 源 とが なんともその咎めを逃れようもないうえに、今は喪中の折帰るタ霧迎えに来るみなれた顔をしていらっしやるので、 三条の北の方は、こうなってはもうおしまいだろうと、ま でさえあることがまことに情けなくて、どうにも、いの慰め ようがないのであった。 た、まさかこんなことにはなるまいと一方では心頼みにし かゆ ていたのだけれど、まめ人がいったん狂いはじめるとまる お手水やお粥などは、常のお居間のほうでお召しになる。 喪中とて平常とは色の変った御設けも不吉なようだから、 で別人になると聞いていたのは真実だったのだと、男女の ひさしまひがしおもてびようぶ 廂の間の東面には屏風を立てて、母屋との隔てには香染め仲らいの定めなさがすっかり分ってしまったような心地が みきちょう じん の御几帳など、仰々しくは見えないものを用い、沈の二階して、もうなんとしても、こうも人を踏みつけるようなめ かたたが 棚などのようなものを置いて、それとなく気配りしてお部にはあいたくないとお思いになり、父大殿のもとへ方違へ やまとのかみ にというロ実をもうけて引き移っておしまいになったが、 屋をととのえてある。大和守の取り計らいであった。女房 こきでんのにようご やまぶきがさねかいねり たちの装束も、そう派手な色ではなくて、山吹襲、掻練襲、たまたまそちらでは弘徽殿女御の退下していらっしやる折 あおくちば こむらさきあおにび 濃紫、青鈍色などに着替えさせて、薄紫色の裳に青朽葉色でもあり、お目にかかり、多少はつらい気持も晴れるよう にお思いになって、いつものようには急いで三条殿にお帰 などをあれこれと目だたぬようにさせて、お食膳をさしあ りにならない。大将殿もこのことをお聞きになって、「や げる。女ばかりの住いとて、万事締りのないのが習慣にな きみじか っていた宮邸だったのを、何かと作法に気をくばり、わずはりそういうことになったか。まったく気短でいらっしゃ る。あの大殿もまた、大人らしく落ち着いたところがなん かに居残っている下仕えの者をも上手に使って、この大和
わいくていらっしやるのを、紫の上がとくにお引き取りに る。三の宮のほうがよほど意地悪でいらっしやる。いつも 幻なってこちらにお住ませ申しあげておられたのだが、その兄宮に負けまいとなさる」と、お叱りになりながら仲裁を 三の宮が走り出ていらっしやって、「大将さん、宮をお抱なさる。大将も笑って、「二の宮は、すっかりお兄様らし 語 物き申して、あちらへ連れていらっしゃい」と、ご自身に敬 、弟宮に譲っておあげになるお気持が十分におありのよ らんまん 氏 うですね。お年のわりには、こわいくらいご立派にお見え 語をつけて、ほんとに天真爛漫なおっしやりかたをなさる 源 になります」などとお申しあげになる。院はにつこりして、 ので、大将はお笑い出しになって、「さあ、いらっしや、 まし。でも、上の御簾の前をお通りにはなれませぬよ。ま どちらの宮をもほんとにかわいいとお思い申しあげていら くよう ことに無作法なことになりましよう」とお抱き申して、す っしやる。「公卿のそなたにはみつともなくてお粗末なお わっていらっしやると、「誰も見ていない。わたしが顔は席です。あちらへいらっしゃい」とおっしやって、院がお そで 隠してあげよう。さあさあ」と言って、お袖で大将の顔を立ちになろうとすると、若宮たちがくつついてきて、いっ お隠しになるので、たまらなくかわいくお思いになって、 こうに離れようとなさらない。女三の宮の若君は、宮たち 母の女御方にお連れ申される。こちらでも二の宮が若君と とご同列に扱ってはなるまい、と院はお心の中にお思いに いっしょになって遊んでおいでになるのを、院の殿があや なるけれども、なまじそのようなお気持を、お、いに弱みを していらっしやるのだった。大将が三の宮を隅の間にお下お持ちでいらっしやる母宮がどう気をおまわしになること ろし申されるのを、二の宮がお見つけになって、「わたし かと、これも性分とて、おいたわしくお思いになるものだ も大将に抱かれよう」とおっしやるのを、三の宮は、「わから、この若君をもほんとにかわいそうな愛し子としてた たしの大将だから」としがみついていらっしやる。それを いせつにお扱いになる。 院もごらんになって、「まったくお行儀のわるい方々です 大将は、この若君をまだよく見たこともなかった、とお すきま ね。大将は主上のおそば近くの衛り役なのに、ご自分たち 思いになって、若君が御簾の隙間からお顔をお出しになっ ずいじん の随身のようにして独り占めにしようと争っておいでにな たところへ、花の枝の枯れ落ちているのを手に取ってお見
407 各巻の系図 柏木 △承香殿女御 一条御息所 ( 母御息所、御息所 ) △藤壺女御 〒女三の宮 ( 宮、尼宮三品 0 宮 ) 宮達 朱雀院 ( 帝、山の帝、院 ) 薫 ( 男君、若君 ) 明石の君 紫の上三条の上 ) 明石の女御 ( 女御 ) 源氏 ( 大殿の君、大殿、院、六条院 ) 柏木 ( 衛門督、衛門督の君、権大納言、故殿 ) 弘徽殿女御 ( 女御 ) 四の君 ( 北の方、上、母上、母北の方 ) 左大弁 ( 右大弁の君、弁の君 ) 致仕の大臣 ( 大臣、父大臣 ) 藤宰相 手云居雁 ( 大将の御方、女君、大将殿の北の方 ) タ霧 ( 大将の君、大将殿、殿 ) △葵の上 △六条御息所 各巻の系図 一、本巻所収の登場人物を各巻ごとにまとめた系図である。 一、△は、その巻における故人を示す。 、 ( ) 内は、その巻での呼び名を示す。 今上帝 ( 内裏、父帝 ) 落葉の宮 ( 一呂 冷泉院 秋中宮 ( 中宮 ) 玉鬘 鬚黒大将 ( 右大臣 ) ( 右の大殿の北の方 ) 乳母 小侍従 ( 侍従 ) 聖 小少将 ( 少将の君 )
源氏物語 362 はなたちばな った」とおっしやると、中将の君は、 が御前に参上なさる。花橘が、月の光にくつきりと浮き出 さもこそはよるべの水に水草ゐめ今日のかざしょ名さ て見えるが、その薫りも風にのってやさしくただよってく へ忘るる るので、ほととぎすの「千代をならせる声」を聞きたいも ( いかにも、よるべの水が古くなって水草が生え、神のお憑 のだが、と待たれる折から、にわかにむら雲のわき立っ空 りになることもなくなりましたがー久しくこの私をお見限り 模様もまことにあいにくなことで、ざあざあと降りだして とうろうひ なのはいたしかたございませんが、ほかでもない今日のかざ くる雨に加えて、吹きつける風に灯籠の灯も吹き消され、 あふひ しの「葵」ー「逢う日ーの名までお忘れになりますとは ) あたりも真っ暗な心地がするので、「窓をうつ声」などと、 と、恥じらいながら申しあげる。いかにもと、かわいそう ありきたりの古詩をお口ずさみになるにつけても、折が折 になって、 であるせいか、妹が垣根に聞かせてやりたいお声というも おほかたは思ひすててし世なれどもあふひはなはやっ のである。「こうした独り住みは、以前ととくに変りはな みをかすべき いけれど、妙にもの寂しくてならないのですよ。出家して ( おおよそこの世のことは思い捨ててしまった身ではあるけ 奥深い山寺に住むにしても、今の暮しにこの身を慣らして れど、やはりこの葵を摘んでしまいたくなるーそなたに逢う おいたら、ひたすら澄みきった心境にもなれるはずだっ 罪を犯してしまいたくなる ) た」などとおっしやって、「女房はおらぬか、こちらに、 などと、この女房だけはまだお捨てになれないご様子であ くだものなどをさしあげよ。男どもを呼ぶのも大げさな時 る。 刻だから」などとおっしやる。 さみだれ 〔一 0 〕五月雨のころ、故五月雨のころは、いよいよ物思いに しかしお胸の中では、亡きお方をルんで空を眺めてばか うつ 人をしのびタ霧と語る虚けて日々をお暮しになるよりほか りいらっしやるご様子が、大将としてはどこまでもおいた はなく、もの寂しいお気持でいるところへ、雲が切れて十わしいので、ただこうしてお気持が紛れずにいらっしやる 日余りの月が明るくさしてきたのも珍しいので、大将の君のでは、仏前のお勤めに専念なさることもむずかしいので みくさ し
255 柏木 にわさき お庭前の桜がじつに美しく咲いているのを大将はごらんに 三〕タ霧、致仕の大臣大将がそのまま致仕の大臣の所へ参 えもんのかみ を訪ね、故人を悼む上なさると、衛門督の弟君たちが大 なって、「今年ばかりは」と、ふと心に浮んでくるが、忌 みはばかられることであったから、「あひ見むことは」と勢おいでになっているのであった。「どうぞこちらにおは 口ずさんで、 いりください」とあるので、寝殿の表座敷のほうにおはい かたえ 時しあればかはらぬ色ににほひけり片枝枯れにし宿の りになった。大臣は悲しいお気持を静めて大将とご対面に なった。いつまでも老いを感じさせぬすっきりとしたお顔 桜も ひげ ( その時節ともなれば、花は昔に変りなく美しい色に咲きに だちが、ひどくおやつれになって元気がなく、お髭なども おうものなのですね。片枝が枯れてしまった宿の桜も ) お手入れなさらないから伸びほうだいで、子が親の喪に服 わざとらしくないふうに吟じて、お立ちになると、御息所するのより以上のご悲嘆ぶりでいらっしやる。大将はその からさっそくに、 お顔を拝されるなり、まったくこらえきれないので、あま りにとめどなく涙のこばれ落ちるのを、見苦しいと思うも この春は柳のめにそ玉はぬく咲き散る花のゆくへ知ら ねば のだから、しいて隠していらっしやる。大臣も、この君が ( 今年の春は、柳の芽に露の玉を貫くように、目に涙を宿し衛門督と格 , イ 」こ御中よくいらっしやったものを、とごらん ております。深い悲しみにとざされて花の咲き散る行方も分 になると、ただ雨のように降り落ちる涙を、おしとどめる りませんので ) ことがおできにならず、いつまでも際限ない繰り言をお互 ふぜい いにお交しになる。 とお申しあげになる。さほどに深い風情がおありではない けれども、当世風に才気のあるお方と評判されていらっし 大将は一条宮に参上した際の有様などをお話し申しあげ しずく なさる。大臣は、ますます春雨かと見えるくらい、軒の雫 やった更衣なのであった。いかにも、ほどよく無難なお心 そでめ づかいよと、大将はお思いになる。 と異ならぬほどに袖を濡らし添えていらっしやる。大将が たとうがみ あの御息所の「柳のめにぞ」とお詠みになったお歌を畳紙