と思ひたまふるを、ついでなき身になりはべりてこそ。、いうげなる御端書をな一遠度の手紙の中の「はかなき 身のほどを、いかにとあはれに思 おば うたまふるをさすらしい この む、げにと思ひきこえさせしゃ。紙の色は、昼もやおばっかなう思さるらむ」 「端書」は、最後の文句、の意か ほふし 日とて、これよりもものしたりけるをりに、法師ばらあまたありて、騒がしげなニ紙の色は、昼も見えにくいと 蛉 思っておいでか、いや、昼ならば はっキ、り・お目にかけられき ( しよ、つ。 蜻りければ、さし置きて来にけり。まだしきにかれより、「さまかはりたる人々 先の遠度の言葉 ( 一一一〇ハー九行 ) を 逆用、今度は間違いなく兼家の手 ものしはべりしに、日も暮れてなむ、使ひもまゐりにける。 紙を見せようとした。 三遠度の自邸に似合わぬ僧形の なげきつつ明かし暮らせばほととぎすみのうのはなのかげになりつつ 人たち。法師たち。 きのふ こよひセ 四帰参してしまった。 いかにしはべらむ、今宵はかしこまり」とさへあり。返りごとは、「昨日かへ 五「卯の花」の「う」に「憂」を、花 の「陰」に「影」をかけ、身の憂さに りにこそはべりけめ。なにか、さまではとあやしく、 影のようにやせた姿を詠み込む。 六作者が返事を出した日の宵。 かげにしもなどかなるらむうの花の枝にしのばぬ心とぞ聞く セ兼家の思惑や作者の内情を顧 慮したためか、自重し謹慎して、 とて、上かい、冫ちて、端に、「かたはなるここちしはべりや」と書いたり。 訪問は見合せた、ということ。 ^ 昨日、私への返事にこのお手 そのほどに、「左京のかみ失せたまひぬ」とものすべかめるうちにも、つつ 紙がございましたのでしよう。遠 みなづき 度が周囲の事情でこの返事をよこ しみ深うて、山寺になどしげうて、時々おどろかして、六月もはてぬ。 せなかったことに対して、作者が ふみづき はづき なだめつくろってやった言葉。 . し、刀十 / 七月になりぬ。八月近きここちするに、見る人はなほいとうら若く、 九作者は遠度に同情的な返歌を 、まは絶えはてにたり。七詠み、その和歌の上に墨で線を引 らむと思ふことしげきに紛れて、わが思ふことは、 212 うへ た 一はしがき
がしにくい、道で使いに会ったと びんなかめる。そこにむすめありといふことは、なべて知る人もあらじ。人、 言ってそのまま訪れよ、と言う。 はらだ ことやう 異様にもこそ聞け』となむのたまふ」と聞くに、あな腹立たし、その言はむ人一 0 兼家の所へ使いに行った道綱 の報告。 = 道綱母のもとへ遠度が通って を知るはなそと思ひけむかし。 くるという、あらぬ噂を立てられ せうそこ さて、返りごと、今日そものする。「このおばえぬ御消急は、この除目の徳てはいけない。「もこそ」は危惧。 三そうした噂のそもそもの原因 になる人、すなわち養女のことは、 にやと思ひたまへしかば、すなはちもきこえさすべかりしを、『殿に』などの 兼家の言葉どおり世間に知られて いないのに、遠度が知っているの たまはせたることの、いとあやしうおばっかなきを、尋ねはべりつるほどの、 はなぜか。実は、兼家がもらした もろ、一し か、少なくとも詳しい情報を与え ときこえさ 唐土ばかりになりにければなむ。されど、なほ、い得はべらぬは、し ているらしいのに、かえって作者 ギ」うし が遠度に強い関心を寄せているよ せむかたなく」とてものしつ。端に、「『曹司に』とのたまはせたる武蔵は、 うな言い方をされ、その無責任さ のち 一七 月 に作者は「腹立たし」く思う。 『みだりに人を』とこそきこえさすめれとなむ。さて後、おなじゃうなるこ 一三作者自身を客観化した表現 月 一四作者から遠度への返事。 とどもあり。一込りと、たびとにしもあらぬに、いた , つはばかりたり 年 一五時間のかかったことを大げさ によスノばう やよひ に一一 = ロ , っ 延三月になりぬ。かしこにも、女房につけて申しつがせければ、その人の返り 天 一六納得のいかない求婚のことは。 おほ 巻ごと見せにあり。「おばめかせたまふめればなむ。これ、かくなむ殿の仰せは宅「白河の滝のと見まほしけ 下 れどみだりに人は寄せじものを あ べめるーとあり。見れば、「『この月、日悪しかりけり。月たちて』となむ、暦や」 ( 後撰・雑一中務 ) 。 天兼家邸の女房が兼家の言葉を 御覧じて、ただいまものたまはする」などぞ書いたる。いとあやしう、いちは報告してきた、遠度へのその返信。 ぢもく 一よみ
みなづきふみづき ↓二四ハー注四。この年は七月 六七月、おなじほどにありつつはてぬ。つごもり二十八一 6 〔一五〕父倫寧の計らいで、 二十七日内取、二十八日召合。 すまひ 広幡中川へ転居 日に、「相撲のことにより、内裏にさぶらひつれど、こちニ兼家。 11 = ロ 三近江のもと。 はづき 日ものせむとてなむ、急ぎ出でぬる」などて、見えたりし人、そのままに、八月四兼家の心が近江に移ったこと 蛉 はもちろんだが、作者と兼家との 蜻二十余日まで見えず。聞けば、例のところにしげくなむと聞く。移りにけりと仲、ひいては作者の人生そのもの のあり方がすっかり変ったこと。 思へば、うっし心もなくてのみあるに、住むところはいよいよ荒れゆくを、人五他人に譲って。ここから父倫 やす 寧の取り決めた事柄になる。 ずく 少なにもありしかば、人にものして、わが住むところにあらせむといふことを、〈 , 「広幡」は、京極東、近衛南、 勘解由小路北で、上京区寺町荒神 けふあすひろはたなかがは わが頼む人さだめて、今日昨日、広幡中川のほどに渡りぬべし。さべしとは、 橋筋付近とする説に従う。「中川」 は京極川で、賀茂川の西、ほば寺 さきざきほのめかしたれど、今日などもなくてやはとて、「きこえさすべきこ町通に沿って南に流れていた。こ こに倫寧の別邸があったのだろう。 セ作者の心中。今日移ると兼家 と」と、ものしたれど、「つつしむことありてなむ」とて、つれもなければ、 に知らせなくてはなるまい、の意。 ^ 兼家に相談したいことがある なにかはとて、おともせで渡りぬ。 ので来てほしいという作者の言葉 かはらかた 、とあは と解する。底本は「 : ・こと」の下の 山近う、河原片かけたるところに、水は、いのほしきに入りたれば、し 「と」がないが、「ゝ」の脱落と見る。 にカオつ。ものか れなる住まひとおばゅ。二三日になりぬれど知りげもなし。五六日ばかり、 一 0 西側の中川の河原。「片かく」 は、片側が接する意。 「さりけるを告げギ、りける」とばかりあり。返りごとに、「さなむとは土ロげきこ 二、三日の日数。次の「五六 ゅべしとなむ思ひしかど、びなきところに、はたかたうおばえしかばなむ。見日」は、八月二十五、六日ごろ。 ( 現代語訳三八九ハー ) 五
444 1 三ロ 以上挙げてきた作者の移転の記事をしめくくるものとして、この一文には重みがある。ここには埋めようの ない兼家との隔絶が示されていて、東三条邸に入ろうが、入るまいが、もはやそんなこととはかかわりがな くなっている感がある。東三条邸に入れなかった口惜しさをも含め、また兼家の命により、あるいは作者自 あんたん 蛉身の意思をもって、どこに住居が移 0 てみても、それそれに暗澹とした気持に変りようもない侘しさが積み 蜻重なって、そんな絶望感を生み出している。『蜻蛉日記』の中では、ときにいくつもの感情の累積がなされ、 それが日常的な意識よりもさらに深い人生の真実を具現させるに至るのである。 のりゆみ その天禄元年、翌二年は、作者と兼家との仲が険悪をきわめた時期。内裏の賭弓に出場した道綱の活躍の おうのう のが から一きはら あと、憂愁の日々が流れていく。兼家の夜離れはつづき、そうした懊悩から遁れようと、唐崎祓い、石山詣 おうみうわさ でに出かける。兼家の新しい愛人近江の噂も耳に入る。兼家の妻として生きることの人間的な苦しみという 点では、中巻も上巻と変りないが、中巻ではさらに、もはや妻であることを越えた、人間の本質に根ざす苦 悩、人間存在そのものの苦悩が見出されてくるといえよう。こうして苦悩の極に達した彼女が、天禄二年六 なるたきごも 月の鳴滝籠りを試みたあたりから、兼家に執着する自己をあえて自分から突き放すことによって、苦悩を克 服する道を模索しはじめ、やがて第二回初瀬詣でを含む中巻末部において、しめやかな自然感情と深い人生 観照とが一体となった、透徹した心境の世界がひらけてくる。それは、作者がみずからの生活史を、『蜻蛉 日記』に再現し、そこに真実の人生を構築するという、まさに創造的な行為によって、はじめて内的に確立 された世界でもあった。 下巻は、天禄三年 ( 九七一 D から天延二年 ( 九七四 ) までの三年間。中巻末部の心境が、身辺雑記的に拡散する。 その中で顕著に現れてくる特徴は、彼女が兼家を自分から離れた遠景の人として客観的に眺めやる姿勢であ
蜻蛉日記 50 一兼家が侍女に命じた言葉。 とて、手を取りて導く。「など、かう久しうはありつる」とて、日ごろありつ ニさきに火を消させた作者に対 して、直接光が当らないように、 しと暗し。さ るやう、くづし語らひて、とばかりあるに、「火ともしつけよ。、 屏風の後ろに灯をともさせながら びやうぶ おば その緊張をほぐそうとした言葉。 らにうしろめたなくはな田 5 しそとて、屏風のうしろに、ほのかにともしたり。 三精進落しの魚。 、一よひ 四侍女に催促する言葉。 「まだ魚なども食はず、今宵なむ、おはせば、もろともにとてある。いづら」 五宮中の内道場に奉仕した僧。 転じて、一般に僧侶をいう。 など言ひて、ものまゐらせたり。すこし食ひなどして、禅師たちありければ、 六真言宗の修法。印を結び、陀 よ 夜うち更けて、護身にとてものしたれば、「いまはうち休みたまへ。日ごろよ羅尼を唱えて、身心を護持する法。 セ↓四四ハー注三。 だいとこ りはすこし休まりたり」と言へば、大徳、「しかおはしますなり」とて、立ち ^ 作者の言葉。 九光や風雨を防ぐ戸で、格子の 片面に板を張ったもの。 ぬ。 一 0 兼家は、庭先に植えてある草 あ さて、夜は明けぬるを、「人など召せ」と言へば、「なにか。まだいと暗から花がどんな風情かと尋ねる。愛情 九 を込めたいざないの言葉。 あか しとみ む。しばし」とてあるはどに、明うなれば、をのこども呼びて、蔀上げさせて = 米を水に入れて炊いたもの。 かたがゆ ここは「固粥」 ( 今の御飯 ) か。 見つ。「見たまへ、草どもはいかが植ゑたる」とて、見出だしたるに、「いとか三兼家が作者の家まで送って一 緒に行こうと言う。実際の意向で たはなるほどになりぬなど急げば、「なに力し。 ゝ。、まま粥などまゐりて」とあはなく、甘美な愛情の表現。 一三時姫に限定はできないが、時 るほどに、昼になりぬ。さて、「いざ、もろともに帰りなむ。または、ものし姫を十分意識した作者の心理的内 容として理解すべき、世間の人。 一四むか かるべし」などあれば、「かくまゐり来たるをだに、人いかにと思ふに、御迎↓四九ハー注八。 ふ ′一しん め み かゆ 四
蜻蛉日記 0 まど に、これはおくれじおくれじと惑はるるもしるく、いかなるにかあらむ、足手一作者をさす。 ニ死にそうになりながら。激し い調子をもって文をつなげる「さ などただすくみにすくみて、絶えいるやうにす。さいふいふ、ものを語らひお いふいふ」を繰り返す。 三兼家をさす。 きなどすべき人は京にありければ、山寺にてかかる目は見れば、幼き子を引き きとう 四母は病気平癒の祈疇などを受 けるために山寺に来ていて、そこ 寄せて、わづかに言ふやうは、「われ、はかなくて死ぬるなめり。かしこにき で亡くなった。↓四二ハ この「知る」は、世話をする、 こえむやうは、『おのがうへをば 、、、かにもいかにもな知りたまひそ。この御五 めんどうをみる、の意。 のち 後のことを、人々のものせられむ上にも、とぶらひものしたまへ』ときこえ六亡母に対する葬式や法要など。 セどうしよう、どうすることも よ」とて、「いかにせむ」とばかり言ひて、ものも言はれすなりぬ。日ごろ月できない。息の絶えんばかりの苦 しさに、我慢しきれなくなった。 。、、まはいふかひなきものになして、これ ^ 次行の「泣き惑ふ」にかかる。 ごろわづらひてかくなりぬる人をは 作者が倒れたので、母の死の時以 みなひと にそ皆人はかかりて、まして「いかにせむ。などかくは」と、泣くが上にまた上に気が転倒したということ。 九作者は放心状態になると、そ まど こにあるものも目にはいらなくな 泣き惑ふ人多かり。ものは言はねど、まだ心はあり、目は見ゆるほどに、、こ ることがあった ( 二一 一 0 作者を心配に思っているはず はしと思ふべき人寄りきて、「親はひとりやはある。などかくはあるぞ」とて、 ともやす の人。父倫寧をさすのであろう。 や′、レ一 , ノ 湯をせめて沃るれば、飲みなどして、身などなほりもてゆく。さて、なほ思ふ = 薬湯 ( せんじ薬 ) を無理に飲ま せる。「沃る」は、注ぎ入れる。 三亡くなった人。母親 にも、生きたるまじきここちするは、この過ぎぬる人、わづらひつる日ごろ、 一三「ものなども言はず、ただ言 ものなども言はず、ただ言ふこととては、かくものはかなくてあり経るを夜昼ふこととては」は母に関する記述 四 ふ あして よるひる
聞かでぞおいらかにあるべかりけるとぞおばえたる。障りにぞあるを、もしと一作者の月の障り。一説には、 「障りにそある。重し」と読み、兼 ないしのかん だに聞かば、何を思はましと思ひむつかるほどに、尚侍の殿より御文あり。見家に大きな支障があると解する。 ニ登子。↓五七ハー注一八。 三作者がまだ山里にいるような 日れば、まだ山里とおばしくて、いとあはれなるさまにのたまへり。「などかは、 蛉 感じで、の意。この手紙は、作者 四 蜻 が実際にはすでに山寺にいないこ さしげさまさる住まひをもしたまふらむ。されど、それにも障りたまはぬ人も とを承知していながら、内容をあ ありと聞くものを、もて離れたるさまにのみ言ひなしたまふめれま、 。し力なる くまで心的な次元に設定したもの。 四「わが恋はみ山がくれの草な ぞとおばっかなきにつけても、 れやしげさまされど知る人のな き」 ( 古今・恋一一小野美材 ) を引き、 もせがは 草の茂るのにかけて、、 しよいよ物 妺背川むかしながらのなかならば人のゆききの影は見てまし」 思いの多くなる意を表す。 つくばやまはやましげやま 御返りには、「山の住まひは秋のけしきも見たまへむとせしに、また憂き時の五「筑波山端山繁山しげけれど 思ひ入るには障らざりけり」 ( 重之 やすらひにて、なかぞらになむ。しげさは知る人もなしとこそ思うたまへしか。集 ) による。物思いのしげさにも めげず、あくまで夫に添いとげよ いかにきこしめしたるにか、おばめかせたまふにも、げにまた、 うと思っている人、すなわち作者。 六紀の川が、妹山と背山との間 を流れるあたりの呼称 よしや身のあせむ嘆きは妹背山なかゆく水の名も変はりけり」 セ「世を憂しと山に入る人山な などそきこゆる。 っちゅくら がらまた憂き時はい。 む」 ( 躬恒集 ) を引く。 ものいみ なかぞら かくて、その日をひまにて、また物忌になりぬと聞く。あくる日、こなた塞 ^ 「中空にたちゐる雲のあとも なく身のはかなくもなりにけるか よふ がりたる、またの日、今日をまた見むかしと思ふ心こりずまなるに、夜更けてな」 ( 伊勢物語 ) によるか 一三ロ 138 ふみ ふた
れてつくろひたまふと聞きしところぞかし、この月にこそは、御はてはしつら一一周忌。師氏は、前年の天禄 元年七月十四日に逝去。 め、ほどなく荒れにたるかなと思ふ。ここのあづかりしけるものの、まうけをニ試みに、「ものの」の「の」は同 四 五格、「この」は、あの師氏の所持し 1 三ロ すだれあじろびやうぶくろ 日したれば、立てたるものの、このなめりと見るもの、みくり簾、網代屏風、黒ていたものの意で、感動の「この」 蛉 ( 前ハー注一一一 ) を重ねていると解する。 ほねくちばかたびら きちゃう 蜻柿の骨に朽葉の帷子かけたる几帳どもも、いとっきづきしきも、あはれとのみ通説は「立てたるもの、のこ ( 残 ) のなめりと見るもの」と読む。 かしら 見ゅ。困じにたるに、風は払ふやうに吹きて、頭さへ痛きまであれば、風隠れ三「みくり」 ( 三稜草科の草 ) の茎 で作った簾。山荘らしい調度。 うぶね 四網代で張った屏風。「田舎だ 作りて、見出だしたるに、暗くなりぬれば、鵜舟ども、かがり火さしともしつ ち、ことそぎて : ・網代屏風、みく かしら りの簾など」 ( 枕草子 ) 。 つ、ひとかはさしいきたり。をかしく見ゆることかぎりなし。頭の痛さの紛れ 五黒みを帯びた柿の心材で作っ はしす た几帳 ( ↓一〇四ハー注 0 の骨組。 ぬれば、端の簾巻きあげて、見出だして、あはれ、わが心と詣でしたび、かへ 「朽葉」は朽葉色で黄褐色。 あぜちどの さに、あがたの院にぞゆき帰りせし、ここになりけり、ここに按察使殿のおは六師氏の別邸。「宇治の院」 ( 前 あがた ハー ) と同じ邸をさす。宇治の、県 して、ものなどおこせたまふめりしは、あはれにもありけるかな、いかなる世 ( 地名 ) にある院、の意か。 セどのような前世の因縁で、師 氏とあんなに楽しく交歓をしたの に、さだにありけむと思ひつづくれば、目も合はで夜中過ぐるまでながむる、 だろうと、そういうことさえ運命 的に感じられる、と解釈する。 鵜舟どもの上り下りゆきちがふを見つつは、 ^ 「ながむるに」という気持。 かがりび 九常套的な「鵜舟」と「篝火」の火 うへしたとこがるることをたづぬれば胸のほかには鵜舟なりけり 影との結びつきを通して、作者独 などおばえて、なほ見れば、あかっきがたには、ひきかへていざりといふもの自の心象風景を造り上げる。 140 六 ・一う のばくだ よなか かぎがく もろうじ
その暮れてまたの日、なま親族だつ人、とぶらひにものし関係が薄い。おそらくは女性。 三 0 〕見舞に来た親族の 九 九 ↓六三ハー注一八。 わり′一 者との語らい 一 0 別離の情の常として。特に鳴 たり。破子などあまたあり。まづ、「いかでかくは。なに 滝に籠っている作者のもとを去る しとひんなきわざな時に、だれしも一一一一 0 うように、の意。 となどせさせたまふにかあらむ。ことなることあらでは、、 = 自分の家を離れて他所へ行く、 り」と言ふに、、いに思ふやう、身のあることを、かきくづし言ふにそ、いとこあるいは他所で泊ること。作者の 鳴滝籠りをさしていう。 ゅふぐれ とわりと一言ひなりて、いといたく泣く。ひぐらし語らひて、夕暮のほど、例の、三叙述をまとめつつ、さらに、 「 : ・あるは」の気持で展開してゆく。 いみじげなることども言ひて、鐘の声どもし果つるほどにぞ帰る。心深くもの一三「いとどいみじうなむ」へ続く。 一四引歌があるか。あるいは和歌 思ひ知る人にもあれば、まことにあはれとも思ひいくらむと思ふに、またの日、的表現か。「分け入り」の主語は対 者 ( 作者 ) であるのに敬語がないの 旅に久しくもありぬべきさまのものども、あまたある、身には、言ひ尽くすべも、和歌的表現のためか。 一五初句の「世の中」は夫婦の仲、 こだか くもあらず、悲しうあはれなり。「帰りし空なかりしことの、はるかに木高き第二句の「世の中」は世の常、の意。 一六和歌から直ちに続く。 月 宅底本「にいぬめも」の「ぬ」を衍 しとどいみじうなむ」など、よろづ書きて、 道を分け入りけむと見しままに、、 年 字として、「には、目も」と改めた。 天親しみをこめた呼掛け。 禄 一九夫婦の仲の意であるとともに、 巻ものを、かくておはしますを見たまへおきて、まかり帰ること、と思うたまへ人間世界全体の意味でもある。 中 ニ 0 「成る」から「鳴滝」と言いかけ 一セ おば る。鳴滝は京都市右京区、鳴滝川 しには、目もみなくれまどひてなむ。あが君、深くもの思し乱るべかめるかな。 きゅうたん の急湍。これで作者の籠った寺が ニ 0 般若寺とわかる。↓一一四ハー注一一。 世の中は思ひのほかになるたきの深き山路をたれ知らせけむ」 「世の中の世の中ならば夏草のしげき山べもたづねざらまし 一九 やまぢ しぞく
すすき 薄にさしたるを、取り出でたり。「あやし、誰がそーと言へば、「なほ御覧ぜ一兼家。 かわみち 一一兼通 ( ↓注五 ) 自身を「霜枯れの すぢ ほかげ よと言ふ。開けて、火影に見れば、心つきなき人の手の筋にいとよう似たり。草」にたとえ、「草のゆかりそあは れなる」は、「紫のひともとゆゑに 旨ロ むさしの 武蔵野の草はみながらあはれとぞ 日書いたることは、「かの『いかなる駒か』とありけむはいか力、 蛉 見る」 ( 古今・雑上読人しらず ) の 蜻 発想を踏まえて、弟兼家の妻とい 霜枯れの草のゆかりそあはれなるこまがヘりてもなっけてしがな う縁につながる作者への情愛を示 くる あな心苦し」とぞある。わが人に言ひやりて、くやしと思ひしことの七文字なす。「こまがヘりて」は、若返りて。 「駒」をかける。 四 おほきおと ほめ・かは れば、 いとあやし。「こはなそ」と「堀川殿の御ことにやと問へば、「太政大三兼家。 四「 : ・御ことにや」の次の「と」と 六ずいじん 臣の御文なり。御随身にあるそれがしなむ、殿にもて来たりけるを、『おはせ並んで、「問へば」にかかる。 五藤原兼通。兼家の同母兄。時 に太政大臣。堀川院に住む。 ず』と言ひけれど、『なほたしかに』とてなむ置きてける」と言ふ。いかにし セ作者邸。 て聞きたまひけることにかあらむと、思へども思へどもいとあやし。また人ご 〈「たしかに」だけを、兼通の使 者の言葉にすることもできる。 とに言ひあはせなどすれば、古めかしき人聞きつけて、「いとかたじけなし。 ともやす 九倫寧。 一 0 「かく」以下、執筆時の感想 はや御返りして、かのもて来たりけむ御随身にとらすべきものなりとかしこ = 「ささわけば」は、馬が笹を分 けて通ること。それに、兼通が通 まる。されば、かくおろかには思はざりけめど、いとなほざりなりや、 ってきて作者に馴染もうとする意 を寓し、「荒れ」に「離れ」をかけて、 ささわけばあれこそまさめ草枯れの駒なっくべき森のしたかは 兼通が言い寄ってきても、作者は ますます離れていくだろう、と詠 とそきこえける。ある人の言ふやう、「これが返し、いまひとたびせむとて、 216 ど ふみ あ ずいじん た ななもじ