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検索対象: 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記
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1. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

蜻蛉日記 奈良周辺歴史地図 462 巨掠池跡 、石清水八幡宮 等院 宇治 県神社 業駒山 久世 桜井 画朝日山 ( 木津 ク 渚 山 交野 加茂 鹿背山 木津 市坂 相楽 ははその森 橋 狛 跡日山 月御釐山 春日大社 西大寺卍 大安寺 郡山 月石上神宮 布留 卍谷寺 三山 刀瀨 椿市観音堂 金屋 海柘覆市碑 耳梨山 △ ( 耳成山 ) 大和高田 △天番久山 以傍山 御所 多武 吉野 吉野神宮

2. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

蜻蛉日記 48 真野 京都周辺歴史地図 ( ニ ) 音無滝 大原卍 堅田 横川中堂 野八瀬 四明岳、 日吉神社 修学院 知第の 唐崎 、山中 、 ( 志質越 ) 志質山 志賀 爪生山 北白川 ー長等山 大津 関の杢 - 果田山 . ・ . 逢坂関跡 ド井 山科 ・音羽山 瀬田橋 石山寺 小野 醍醐 苙取山 日野

3. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

くれる。この山は初春の山焼きの行事で知られ、一月十五 日の夜、山肌に放たれた炎が、全山を赤々と染め上げる。 日本の古典月報 3 炎が一気に燃え上がった時、冬の花火の閃光が夜空に満ち て、東大寺と興福寺の境界争いがその起源であることなど 第Ⅱ巻蜻蛉日記 はとっくに忘れて、見物の群衆はしばし火の祭典に酔う。 みかさやま ・昭和 8 年 8 月訂日丸い丘が三重になっているのでこの山を俗に三笠山とも 呼ぶが、同音なのでしばしば御蓋山と混同されてしまう。 御蓋山は、その南隣にある緑の笠を伏せたような形の山を 春日の社ー古典文学散歩ー みやい いう。春日大社の宮居はこの御蓋山の山麓に鎮まる。 駅から登大路を行く。奈良市の幹線道路である。二、 柳瀬万里 分も行くと右手に、朱と緑に塗りわけられた興福寺の中金 みちつなのはは かすがもう 堂が寂びた落着きを見せている。興福寺のシンポル五重塔 右大将道綱母が″春日詣で〃をしたのは天禄二年 ( 九七 l) が、天平の昔の香りを漂わせて大空に浮ぶ。道ちかく、数 七月のことである。 はっせもう それは二度目の初瀬詣での途次であった。『蜻蛉日記』頭の雌鹿が白い斑紋を際だたせて横たわり、優美な姿態を によれば、「泉川」 ( 木津川 ) を渡って「ようたての森」 ( 現見せている。奈良公園一帯に棲む鹿は、春日大社の神鹿で 在の木津町市坂あたりか ) で弁当をつかい、奈良坂から奈良ある。 に入ったとい , っ 興福寺の境内は、隆盛時の十分の一以下に狭められたと 現在は、京都から奈良へ入るには、ほばこのコースに並はいえ、特別に境界を区切る目印も無くて、広々として奈 良公園の中に溶けこんでいる。 行して走る近鉄を使うのが普通である。 近鉄奈良駅のエスカレーターを乗り継いで地上に出ると、興福寺は、藤原氏の氏寺であったから南都七大寺の中で、 東になだらかな曲線を三重にかさねた山、若草山が迎えて都が京へ遷ったのち、この寺だけは庇護を受けて興隆をつ うつ

4. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

461 参考地図 京都周辺歴史地図 ( ー ) 責船山 鞍馬寺 月上賀茂神社 掲ノ尾 槇ノ尾 高雄 山 城 業野 愛宕山 村上天皇陵用 般若寺跡卍 月光 福王寺神社 鳴滝 D 下鴨 賀茂神社川 清滝 船岡山 神泉苑 ・卍震林院 吉甲山 小倉山 広隆寺 嵐山大 嵯峨野 粟田口 清水与 羽山 卍法性与 相荷山 小塩山 月稲荷神彗 深草 大原野 摂、 長岡

5. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

おっとめ につけて、いよいよたまらない気持でした」など、いろい 見えるのは、勤行のために疲れたのかと思うと、気の毒 8 ろと書いて、 で」などと書いてある。 「世の中の世の中ならば夏草のしげき山べもたづねざ 己三 0 〕見舞に来た親族のその日が暮れて次の日、遠い親戚に 一三ロ らまし 日者との語らい あたる人が見舞に来た。弁当などを 蛉 ( 御夫婦仲が普通にうまくいっておいででしたら、そのよう たくさん持ってきてくれた。何よりも先に、「どうしてこ 蜻 に夏草の茂る山べまでお出かけになったりはなさらないでし んなお暮しをなさっているのです。どんなおつもりで、な やま′ ) も よ , っ ) ぜ山籠りなどなさるのでしよう。格別の事情がないとした ものを、こうして山籠りしていらっしやるあなたをそのま ら、ほんとによくないことです」と一 = ロうので、、いに思って まあとに残して、山を下りて帰ってしまうことよと思いま いること、身の上のさまなどを、すこしずつ余さず話すと、 いかにもごもっともと、しまいには一一一戸つよ , つになって、はすと、一涙にくれて目もよく見えぬほどでごギ、いました。ま ああなたさま、あまりにも深刻に思い乱れておいでの御様 げしく泣く。日がな一日しみじみと語り暮し、日暮れごろ、 ここを去る人がだれしも一言うように、別れのつらい言葉の子でございますね。 やまぢ 世の中は思ひのほかになるたきの深き山路をたれ知ら 数々を述べて、入相の鐘の音が鳴り終るころに帰ってゆく。 せけむ 思いやり深く、わけもわかった人だから、ほんとにしみじ ( 夫婦の仲は思いがけないことになるもの、あなたのような み同情しながら山を下りているだろうと想像していたが、 かたなるたき 方も鳴滝にこもっておいでですが、だれがその深い山路をお あくる日、山寺で当分は過せるような数々の品を、たくさ 教えしたのでしよう ) 」 ん届けてくれたのは、わたしとしては、言葉に言い尽せぬ など、まるで向い合って話しているかのように、、いこまや ほど、悲しく感慨無量であった。「どうして帰ったかわか かに書いてある。鳴滝というのは、実はこの寺の前を流れ らぬはどの帰途の悲しさは、はるばると木の高くそびえて る川なのである。返事も、せいいつばい心をこめて書いて、 いるこの山道を分け入っておいでになったのだろうと思う いめ・あい こと

6. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

祝いに来た人に会って答礼などして、すこし人並になった 気持がするけれども、夫によって満たされることのない私 個人の気持は相変らず、しかし、ともかくこれまでとはう 旨ロ 日って変ったように、身辺が騒々しく感じられるのだった。 みささ 蛉 御陵だの何だのと聞くにつけ、時めいておられた方々は どんなにお悲しみだろうかとお察し申しあげると、しんみ じようがんでん りした思いになる。しだいに日数がたっていって、貞観殿 さま ( 兼家の妹、登子 ) こ、、 : ゝ、 レしカカお過しでしようかなどと お見舞い申しあげたついでに、 世の中をはかなきものとみささぎのうもるる山になげ くらむやそ なきがら ( 世の中をはかないものとお観じになり、御遺骸の埋れてい る御陵の山をって、悲嘆に沈んでいらっしやることでござ いましようね ) お返事は、まことに悲しそうな様子で、 おくれじとうきみささぎに田 5 ひいる心は死出の山にや あるらむ ( 亡き帝におくれ申すまい、 この憂き身も共にと、ひたすら 御陵のことを思っている、いは、もう死出の山にはいっている ようなものでございます ) みかど てんじよう 先帝の御四十九日が終って、七月になった。殿上にお仕 ひょうえのすけ すけまさ えしていた兵衛佐 ( 藤原佐理 ) は、まだ年も若く、悩みご えいざん となどありそうもないのに、親も妻もあとに残して、叡山 に登って法師になってしまった。まあ、大変なことだと騷 ぎ、いたわしいと言っているうちに、その妻がまた尼にな ったと聞く。これまでも文通などしていた仲なので、ひど く胸うたれ意外だった今回のことについて、見舞の歌をお くる。 奥山の思ひやりだに悲しきにまたあまぐものかかるな になり ( 奥深い山にはいられた御夫君のことをお察しするだけでも 悲しいのに、その上、あなたまでもこのように尼になって、 遠く隔ってしまわれたとは、なんということでしよう ) 姿は変っても、筆は以前とすこしも変らない懐かしい筆跡 で、返歌をよこした。 山深く入りにし人もたづぬれどなほあまぐものよそに こそなれ ( 山深く分け入った夫のあとを追って尼になりましたけれど も、女の身では叡山には登れず、今でもやはり遠く隔ったま までございます ) おくやま

7. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

聞かでぞおいらかにあるべかりけるとぞおばえたる。障りにぞあるを、もしと一作者の月の障り。一説には、 「障りにそある。重し」と読み、兼 ないしのかん だに聞かば、何を思はましと思ひむつかるほどに、尚侍の殿より御文あり。見家に大きな支障があると解する。 ニ登子。↓五七ハー注一八。 三作者がまだ山里にいるような 日れば、まだ山里とおばしくて、いとあはれなるさまにのたまへり。「などかは、 蛉 感じで、の意。この手紙は、作者 四 蜻 が実際にはすでに山寺にいないこ さしげさまさる住まひをもしたまふらむ。されど、それにも障りたまはぬ人も とを承知していながら、内容をあ ありと聞くものを、もて離れたるさまにのみ言ひなしたまふめれま、 。し力なる くまで心的な次元に設定したもの。 四「わが恋はみ山がくれの草な ぞとおばっかなきにつけても、 れやしげさまされど知る人のな き」 ( 古今・恋一一小野美材 ) を引き、 もせがは 草の茂るのにかけて、、 しよいよ物 妺背川むかしながらのなかならば人のゆききの影は見てまし」 思いの多くなる意を表す。 つくばやまはやましげやま 御返りには、「山の住まひは秋のけしきも見たまへむとせしに、また憂き時の五「筑波山端山繁山しげけれど 思ひ入るには障らざりけり」 ( 重之 やすらひにて、なかぞらになむ。しげさは知る人もなしとこそ思うたまへしか。集 ) による。物思いのしげさにも めげず、あくまで夫に添いとげよ いかにきこしめしたるにか、おばめかせたまふにも、げにまた、 うと思っている人、すなわち作者。 六紀の川が、妹山と背山との間 を流れるあたりの呼称 よしや身のあせむ嘆きは妹背山なかゆく水の名も変はりけり」 セ「世を憂しと山に入る人山な などそきこゆる。 っちゅくら がらまた憂き時はい。 む」 ( 躬恒集 ) を引く。 ものいみ なかぞら かくて、その日をひまにて、また物忌になりぬと聞く。あくる日、こなた塞 ^ 「中空にたちゐる雲のあとも なく身のはかなくもなりにけるか よふ がりたる、またの日、今日をまた見むかしと思ふ心こりずまなるに、夜更けてな」 ( 伊勢物語 ) によるか 一三ロ 138 ふみ ふた

8. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

さねかたひょうえのすけ その女は実方の兵衛佐と結婚させることになっている、 とお聞きになって、 ( 道綱が ) まだ少将でいらしたころのこ とであろう、 かしはぎ 柏木の森だにしげく聞くものをなどか三笠の山のかひ なき ふみかよ ( 柏木の森ー兵衛佐ーにさえも、しきりに文が通っていると 聞いておりますのに、どうしてこの三笠の山ー近衛少将ー は返事もなく、思うかいがないのでしようか ) 柏木も三笠の山も夏なればしげれどあやな人の知らな返歌、 ( 柏木の森も三笠の山も、夏のこととて、木がよく茂ってい ます、いえ、どちらからもしげしげお手紙をくださるようで すが、むだなことですわ、私は存じませんもの ) 集 女が返事をするのを、親や兄弟が制止していると聞いて、 歌 末まろこすげに挿して、 巻 うちそばみ君ひとり見よまろこすげまろは人すげなし といふなり ( こっそり横を向いて、さりげなくあなた一人で読んでくだ 返歌、 みかさ さい。私のことを、人々はすげないと言っておられるそうで すから、見つかると大変です ) 病気におなりになって、 みっせ川浅さのほども知られじと思ひしわれやまづ渡 りなむ さんず ( 三途の川の浅さ深さの程もわかるまい、それを死んだら渡 らねばならぬとは、と不安に思っていた私が、先に渡ること になるでしようか ) みっせ川われより先に渡りなばみぎはにわぶる身とや なりなむ ( 三途の川を私より先に渡っておしまいになりましたら、私 みずわ は後に残され、水際で途方にくれ嘆き悲しむ身となってしま うことでしよう。どうそそんな思いをおさせにならないで ) 女が返事をする時としない時があったので、 かくめりと見れば絶えぬるささがにの糸ゅゑ風のつら くもあるかな ( 巣をかけているようだと思うと切れてしまう蜘蛛の糸のよ

9. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

めでた、いかなる人」など、思ふ人も聞く人も言ふを聞くそ、いとどものはお一伊尹の姿をすばらしいと思う 人も、その人が賛美するのを聞い ばえけむかし。 てなるほどと目を見張る人も、と もに伊尹賛嘆の声をあげるのを、 ちそくゐん 日 さるここちなからむ人にひかれて、また知足院のわたりに作者が聞く、の意に解しておく。 〔九〕道綱、大和だつ人 蛉 ニ人々の伊尹賛美から夫兼家の 蜻に和歌を贈る ものする日、大夫もひきつづけてあるに、車ども帰るほど晴れ姿を連想するにつけて、その 兼家との疎隔を改めて痛感する。 をんなぐるま 一七一ハー注一七。 に、よろしきさまに見えける女車のしりにつづきそめにければ、おくれす追ひ三↓ 四紫野にあったらしい かえりだち きければ、家を見せじとにゃあらむ、とく紛れいきにけるを、追ひてたづねは五賀茂祭の還立の二十一日か。 六道綱の歌。ただし、母の指導 のもとに詠んだか、あるいは母の じめて、またの日、かく言ひやるめり。 代作か。以下、その注は省く。 あふひ セ「葵」に「逢ふ日」をかける。 思ひそめものをこそ思へ今日よりはあふひはるかになりやしぬらむ ^ 「過ぎ立つ」に「杉立つ」をかけ る。「過ぎ立つ」は、ひどく恋しく とてやりたるに、「さらにおばえず」など言ひけむかし。されどまた、 なってくるということ。一首は、 みわ 三輪山 ( 奈良県桜井市 ) の古歌、 わりなくもすぎたちにける心かな三輪の山もとたづねはじめて 「わが庵は三輪の山もと恋しくは やまと かど とぶらひ来ませ杉立てる門」 ( 古 と言ひやりけり。大和だつ人なるべし。返し、 今・雑下読人しらず ) による。 九大和に縁のある人であろう、 三輪の山待ち見ることのゆゅしさにすぎたてりともえこそ知らせね ずりよう の意。大和国の受領の娘か。 一 0 「三輪の山いかに待ち見む年 経ともたづぬる人もあらじと思へ ば」 ( 古今・恋五伊勢 ) による。ま 1 三ロ 172 となむ。 かくて、つごもりになりぬれど、人は卯の花の陰にも見えず、おとだになく 五

10. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

ちな づけた。中世にも栄えて、有名な " 春日版。の出版は、グの宿る山と見て春日の社を祀ったはずである。因みに、春 ふひと ひたちのくに ーテンベルクの活字印刷より数世紀も早い。春日版の名は、日大社の創建は和銅三年 Q 一 0 ) 、藤原不比等が常陸国から かしまたけみかづちのみこと その巻末に、春日大明神に成功を告げる文言の見えるとこ鹿島神武甕槌命などを迎えて祀ったことに始る。 ろから言われる。興福寺は春日大社の神宮寺であるので、 背後の春日山原始林は、神域として人の踏み込まなかっ かすがまんだら 春日大社との関係は深い。″春日曼荼羅〃にも、春日本社た山である。山全体が特別天然記念物に指定されていて、 るり と若宮の神々とともに、興福寺の三金堂の本尊が合せて描たとえば瑠璃色の翅を持った小さな蝶ルーミスシジミなど かれる。春日曼荼羅を拝めば、人々は春日の神と興福寺ののめずらしい動植物が生きている森である。健脚の人なら 本尊を同時に拝めるのである。 ば春日大社からハイキングで森林浴を楽しみ、そうでない 道綱母が興福寺に立ち寄ったことは『日記』には見えな人は近年敷かれたドライプウェーで杉の樹間をめぐること おそらく初瀬詣での途中でもあり、日程的に無理であができる。 しかし ったのかもしれない。 一の鳥居をくぐって五分も行くと、右手に片岡梅林や四 かすが すくゐん 春日へとて、宿院のいとむつかしげなるにとどまりぬ。阿屋風の建物″丸窓気鷺池に浮ぶ浮御堂などがつづく あさぢ はらゆきげ さわとびひの と『日記』に見える彼女の泊った粗末な建物というのは、 『万葉集』に唱われた浅茅ヶ原、雪消の沢、飛火野などの 興福寺と春日大社との密接な関係から、あるいは興福寺の名所が千年の昔とさほど変らぬといった風情を見せている。 宿坊のようなものであったかもしれない。仮にもしそうだ 万葉植物園を左に見て二の鳥居をくぐる。杉木立の間に としても宿坊のあった場所は残念ながら現在の興福寺の境ぎっしりと石灯籠が並んでいる。春日灯籠と呼ばれるこれ てがいもん 内ではなく、奈良坂から転害門の付近であったはずである。らの灯籠は丈の割に小さい笠、六角か四角の火袋、雌雄の 歩みをとめて正面に視界を移すと、御蓋山が端麗に鎮ま鹿と雲形の日月が彫りつけられているのが特徴である。二 っているのが見える。深い緑の陰影を刻んでいる様が気高千を越えるという石灯籠の文字は、それぞれに個性的で、 かんなび おおみわ てかがみ 神奈備の姿である。ちょうど、大神神社の御神体山で″手鑑〃を見るような趣がある。 ある三輪山を、二回りほど小さくした形である。古人が神南門をくぐり拝殿に進む。白砂の敷かれた「リンゴの まや はね まっ 0 ワ 1