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検索対象: 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記
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1. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

みちつなのはは 作者道綱母が苦悩に満ちた半生を顧み、自分がいかに現実的に無力な存在、「はかなき身の上」であるかを、 痛切に自覚した自己認識を示し、後半においては、そのような空しい人生を「書き印記して」、『蜻蛉日記』 旨ロ の世界に転化していく、作品執筆の動因を述べる。そしてこの前半と後半とは、単につづいて並んでいるだ けではなく、まさに相互媒介的な関係をなしている。すなわち、作者はみずからの存在の空しさを直視し、 蜻それゆえにこそ『蜻蛉日記』を書くことに、彼女の生きてきた人生の意義を主体的に回復しようとするが、 同時にまたその『蜻蛉日記』の形成を通して、彼女の身の上のはかなさにいかなる人生の真実が秘められて いるかを、ますます明確に認識していくという、根本的な関係がうかがわれるのである。これが『蜻蛉日 記』の構造であり、その作品としての本質である。 以下、この『蜻蛉日記』を生みだした作者道綱母の来歴と、そのような作品の具体相について、いささか 解説をしたいが、その前にこの「序」をさらに簡約したといってよい上巻の結びを取り上げておかなければ ならない。 : なほものはかなきを思へば、あるかなきかのここちするかげろふの日記といふべし。 ( 六八ハー ) と結ばれているのだが、ここから『蜻蛉日記』の書名を作者自身の命名とする説と、「あるかなきかのここ と判断す ちするーを「かげろふ」だけの修飾と見て、彼女が「かげろふの日記」と名づけたわけではない、 る説とがある。幾分後説に傾くとしても、前説もまた十分に成り立つ。作者がみずからを「かげろふ」に擬 ここにそれが作品化されて「かげろふの日記」となり、ますます「かげろふ」たる所以を明 するとともに、 らかにしていることを示すものといえよう。 なお「かげろふ」は、

2. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

としてでも邸に来ていただきたいのだが、もうそれもかな侍女に書かせてよこす。「『自分でお返事をさしあげられぬ のが、とてもつらい』とばかり申しておられます」など書 わぬと思うと、こんなことになって、もしこのまま死んだ いてある。あの時よりももっと容態がひどくなったと聞く ら、これがお逢いできる最後ということになるだろうよ」 やしき と、あの人が言ったように、あの人の邸へ行って自分の手 などと、横になったまま、しみじみ語っては、泣く。居合 で看病することもできず、どうしたらよかろうと嘆いてい せた侍女たちを呼び寄せては、「わたしがどんなにこのお るうちに、十日以上もたってしまった。 方を心におかけ申していたと思 , つかね。こ , っして死んだら、 どきようかじきとう 読経や加持祈疇などして、やや病状がよくなったような 再びお逢いできずじまいになってしまうと思うと、とても やりきれない」と言うので、みな泣いた。わたし自身は、 ので、思っていたとおり、あの人自身の返事がある。「ほ んとにどうしてなのか、病気のよくなる様子もなくて何日 まして、ものも言えず、ただ泣きに泣くばかりだった。こ うしているうちに、病状はますますひどくなってゆき、車もたったので、今度みたいにひどく苦しんだことはなかっ たせいか、あなたのことが気がかりで」などと、人のいな を寄せて乗ろうとして、抱き起され、人にすがってやっと いすきをみて、こまごまと書いてある。「気分がよくなっ 乗り込む。こちらをふりかえり、じっとわたしを見つめて、 たから、おおっぴらでは具合が悪かろうが、夜に紛れてこ いかにもつらそうな様子である。あとに残るわたしのせつ なさは言うまでもない。例の兄が、「どうして、こう縁起ちらにおいで。随分長いこと逢わずに過してきたから」な どと書いてあるので、人はどう思うだろうかと気になるけ でもなくお泣きです。まったく何ほどのことがおありにな 巻 りましようか。さあ、お乗りあそばしますよう」と言って、れども、わたしもまたあの人の病状がひどく気がかりだっ たし、それに、おりかえし同じことばかり言ってくるので、 自分もそのまま同乗して、抱きかかえて行ってしまった。 上 しかたがないと思って、「車をおさし向けください」と言 思いやるわたしの気持は、なんともたとえようがない。 わたどの しんでん って、出かけてゆくと、寝殿から離れた渡殿のほうに、き 日に二度三度、手紙をやる、心穏やかでない人もあろうと はしぢか は思うけれども、しかたがない。返事は、あちらの年配のれいに部屋を用意しととのえて、端近の所で横になったま かた やしき

3. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

一道綱の歌。「かたしくは自分 こたみは、「暗し」とてやみぬ。 の袖ばかりを敷き独り寝をする。 しはす ニ「さ」は接頭語。衣。ここは夜 十二月になりにたり。また、 着のこと。 1 三ロ 日 ↓一七六ハー注三。 かたしきし年はふれどもさごろもの涙にしむる時はなかりき 蛉 四八橋の女は葉の落ちた柧稜の 蜻「ものへなむ」とて、返りごとなし。またの日ばかり、返りごと乞ひにやりた木の「幹」に「見き」をかけて答えた。 参考「おなじ女・ : 返りごともせざ りければ・ : などかみつとものたま れば、柧稜の木に、「みき」とのみ書きておこせたり。やがて、 はぬ、といへりければ、ただ、み つ、とのみぞいへりける」 ( 群書類 わがなかはそばみぬるかと思ふまでみきとばかりもけしきばむかな 従本伊勢集 ) 。 五そっぱを向く。仲が疎遠にな 返りごと、 ってし士つ。 あまぐも 六女は自分を、天雲のかかった 天雲の山のはるけき松なればそばめる色はときはなりけり 遥かな山の松にたとえ、道綱から せちぶん かけ離れた身であることを示す。 ふる年に節分するを、「こなたに」など言はせて、 セ「そば」に「岨」をかける。 ^ 年内に立春があったこと。こ いとせめて思ふ心を年のうちにはるくることも知らせてしがな の「節分」は立春の前夜。その夜、 かたたが 方違えに外泊をする。 返りごとなし。また、「ほどなきことを、過ぐせ」などやありけむ、 九「晴るくに「春来ーをかける。 一 0 わずか一夜だから、こちらで かひなくて年暮れはつるものならば春にもあはぬ身ともこそなれ お過しなさい。道綱が「こなたに」 こたみもなし 。、かなるにかあらむと思ふほどに、「とかう言ふ人あまたあなの誘いを繰り返す。「・ : ありけむ」 として和歌を載せるのは、八橋の 女への道綱の歌を、作者が代作な り」と聞く。さてなるべし、 220

4. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

にたる世の中に、、いなげなるわざをやしおかむ」と言へば、「いと心せばき御うめでたいものとされるので、今 の作者の気持にそぐわない。 にはキ一 ぎゃうぎばさっ ことなり。行基菩薩は、ゆくすゑの人のためにこそ、実なる庭木は植ゑたまひ三意義のある人生を全うするこ とはできない けれ」など言ひて、おこせたれば、あはれに、ありしところとて、見む人も見一三天平勝宝元年 ( 七四九 ) 没。薬師 寺の僧。晩年大僧正とはなったが、 こち よかしと思ふに、涙こばれて植ゑさす。二日ばかりありて、雨いたく降り、東多分に私度僧的傾向をもち、民間 布教に努め、民衆の福祉に尽力し あまま ひとすぢふたすぢ なほ かぜ た。「止マル所ノ房ニ多ク菓樹ヲ 風はげしく吹きて、一筋二筋うちかたぶきたれば、いかで直させむ、雨間もが 植ウ」 ( 扶桑略記 ) 。 一四物思いのないほう。 な、と思ふままに、 一五呉竹の無惨に傾いたさまを見 くれたけ て、作者自身のみじめな姿をそれ なびくかな思はぬかたに呉竹のうき世のすゑはかくこそありけれ にたとえ、そんな自分だから、こ あし ゅふ の呉竹の向いている西方浄土の方 今日は二十四日、雨の脚いとのどかにて、あはれなり。タづけて、いとめづ 角に惹かれる、というのである。 月 らしき文あり。「いと恐ろしき気色に怖ちてなむ、日ごろ経にける」などぞあ一六兼家の冗談。↓一〇七ハー注一五。 宅「時しもあれ花のさかりにつ 月 らければ思はぬ山に入りやしなま る。返りごとなし。 年 し」 ( 後撰・春中藤原朝忠 ) 。 一セ 禄五日、なほ雨やまで、つれづれと、「思はぬ山に」とかやいふやうに、もの一〈「君まさで年は経ぬれど古里 天 に尽きせぬものは涙なりけり」 ( 後 撰・哀傷かしこ〈兼輔方〉なる人 ) 巻のおばゆるままに、尽きせぬものは涙なりけり。 中 などの下句による。特定の上句に 限定されない引歌表現、ないし一 降る雨のあしとも落つる涙かなこまかにものを思ひくだけば 一九 般化された和歌的表現 やよひ いまは三月つごもりになりにけり。、 しとつれづれなるを、忌もたがヘがてら、一九四十五日の忌か ( 三四ハー注一三 ) 。 ふみ 一六 けしきお へ

5. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

蜻蛉日記 したく一 柏木の森の下草くれごとになはたのめとやもるを見る見る 一「柏木」 ( 九ハー注一一 ) は兼家を、 「下草」は作者をたとえる。 返りごとは、みづから来て紛らはしつ。 ニ涙がこばれる意をも含む。 三凶日や穢れなどのために、身 かみなづき ものいみ - 一も を清め、門を閉じて籠ること。 かくて、十月になりぬ。ここに物忌なるほどを、心もとなげに言ひつつ、 四 「いとせめて恋しきときはう ′一ろも 四 なげきつつかへす衣の露けきにいとど空さへしぐれそふらむ ばたまの夜の衣を返してそ着る」 ( 古今・恋二小野小町 ) などの歌 返し、いと古めきたり、 と同様に、衣 ( 袖 ) を裏返して寝る と、恋しい人の夢に自分が見える、 ひ もしくは夢に恋しい人を見ること 思ひあらば干なましものをいかでかはかへす衣のたれも濡るらむ ができるという俗信による。 みちのくに しぐれ とあるほどに、わがたのもしき人、陸奥国へ出で立ちぬ 五空が時雨を添えている理由を、 どうしてかと推量する。 時はいとあはれなるほどなり、人はまだ見馴るといふべき 六ありふれた着想で、独自な心 〔五〕父倫寧の陸奥守赴 境が十分には表現できなかったと 任兼家の横川参詣 ほどにもあらす、見ゆるごとに、たださしぐめるにのみあ いう、執筆時の批評的な言葉。 セ兼家の「思ひ ( 火 ) 」がないから、 り、いと心細く悲しきこと、ものに似ず。見る人も、いとあはれに、忘るまじ道綱母の衣と同様兼家の返す衣も 濡れているのだろう一の意。 きさまにのみ語らふめれど、人の心はそれにしたがふべきかはと思へば、ただ〈父、倫寧。陸奥守として赴任。 九十・十一月のころ。だんだん ひとへに悲しう心細きことをのみ思ふ。 冬が深まり、寂しくなる季節。 一 0 兼家と顔を合せるたびに。 いまはとて、みな出で立つ日になりて、ゆく人もせきあへぬまであり、とま = 兼家の心。この日記の「人の 心」は、すべて兼家の心を表し、 る人はたまいて言ふかたなく悲しきに、「時たがひぬる」と言ふまでも、え出しかも対句的な用法が多い。ここ かしはギ、 九 まぎ みな

6. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

平家納経序品 ( 見返し ) 広島・厳島神社蔵 へいけのうきよう 『平家納経』は、平清盛が厳島神 社に奉納した有名な装飾経。国宝。 その「序品・見返し絵」に、山寺 に籠って経文を手にしているかと なるたき 思われる女が描かれている。鳴滝 般若寺に籠った道綱母は、昔「あは れに心すごきこと」 ( 一一一一 して、山寵りの女の絵を描いたが、 いま自分かそのとおりの身の上に なってしまったことを内省慨嘆す る。もちろんこの画面は直接関係 はないが、 そっした彼女のありさ 象するよすがとはなろ、つ。 まを想ィー たいらのきよもり

7. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

ももちどり 「あらたまれども」といふなる日の気色、鶯の声などを聞くままに、涙の浮か一「百千鳥さへづる春は物ごと にあらたまれども我ぞふりゆく」 ( 古今・春上読人しらず ) 。 ぬ時なし。 一一近江。↓九五ハー注 = 三。 旨ロ きさらぎ みよ かよ 日 三底本「とよ」。「三夜」に改めて、 二月も十余日になりぬ。聞くところに三夜なむ通へると、 〔一巴憂愁の極に達し、 蛉 兼家と近江との結婚の成立と解く 蜻父の家で長精進 ちぐさに人は言ふ。つれづれとあるほどに、彼岸に入りぬ説に従う ( ↓一二ハー注九 ) 。さきに 四 「さなりたるべし」 ( 一〇六ハー ) とあ しゃうじ うはむしろ れば、なほあるよりは精進せむとて、上筵、ただの筵の清きに敷きかへさすれったのも内容的には同じ。兼家と 近江との仲がいっそう動かぬ事実 ちりはら として作者の心を悩ます。 ば、塵払ひなどするを見るにも、かやうのことは思ひかけざりしものを、など 四帳台の中の敷物。 五 ↓二八ハー注四。 思へば、いみじうて、 六「如かじ」に「敷かじ」をかける。 セ「さて ( も ) ありぬべし」は、そ うち払ふ塵のみ積もるさむしろも嘆く数にはしかじとぞ思ふ れでかまわない、何とかそれで通 ながさうじ る、という意の慣用句的用法。こ これよりやがて長精進して、山寺にこもりなむに、さてもありぬべくは、し こでは、出家をすることでどうに そむ か気持が救われるのなら、の意。 かでなほ世の人の絶えやすく、背くかたにもやなりなましと思ひ立つを、人々、 ^ 世間の人が自分と関係を断ち しゃうじ 「精進は秋つかたよりするこそ、いとかしこかなれ」と言へば、えさらず思ふやすい、また自分からも世間に背 を向けた、そんな行き方としての うぶや 出家、の意か。その「世の人」は、 べき産屋のこともあるを、これ過ごすべしと思ひて、たたむ月をぞ待つ。 兼家を念頭においていよう。 くれたけ さはれ、よろづにこの世のことはあいなく思ふを、去年の春、呉竹植ゑむと九作者の妹のお産か。 一 0 三月。その三月に出産予定か はちく て乞ひしを、このごろ「奉らむ」と言へば、「いさや、ありも遂ぐまじう思ひ = 淡竹の一種。呉竹は千代を祝 たてまっ けしきうぐひす ひがんい

8. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

らむと見れば、御前どもの中に、例見ゆる人などあり。さなりけりと思ひて見道綱が射当てたのをきっかけに、 組の者が次々と得点を重ねた。 したすだれはさ すだれ るにも、ましてわが身いとほしきここちす。簾巻きあげ、下簾おし挟みたれば、一三すばらしかった。「かなし」は 強い感動を表す。↓一六九ハー注一一四。 あふぎ いわしみず 一四石清水八幡宮の臨時祭。この おばっかなきこともなし。この車を見つけて、ふと扇をさし隠して渡りぬ 年は三月二十七日 ( 日本紀略 ) 。 きのふ 一七ふみ 御文ある返りごとの端に、「『昨日はいとまばゆくて渡りたまひにき』と語る一五車をとどめること。 ↓六五ハー注一一。 宅地の文中唯一の兼家への敬語。 は、などかは。さはせでもありけむ、若々しう」と書きたりけり。返りごとに 一 ^ 『昨日は : ・』は侍女の言葉。 は、「老いの恥づかしさにこそありけめ。まばゆきさまに見なしけむ人こそ憎一九恥ずかしそうに顔をそむけて。 ニ 0 若々しい気持どころか : 三この間に四月になる。 けれ」などぞある。 一三自分たち夫婦の仲がどういう またかき絶えて、十余日になりぬ。日ごろの絶え間よりは久しきここちすれことになっているのだろう。 ニ三大和だつ人。 月 ニ四底本「ついつけ」。私見による。 ば、またいかになりぬらむとぞ思ひける。 「おいづく」は老成する、世慣れる。 月 大夫、例のところに文ものすること、おいづきてもあらず、かれよりもいとニ五底本は「これ」。文脈から考え 年 「かれーと改める。大和だつ人。 元 ニ六「み」に「身」と「水」とをかける。 延幼きほどのことをのみ言ひければ、かうものしけり。 天 毛大和の女は、自分は「あやめ したか 草」ではなく、「真菰草」だと卑下 みがくれのほどといふともあやめ草なほ下刈らむ思ひあふやと 巻 下 し、真菰草では生長しても下根は 、こちらの気持をお尋ね 刈れない 返りごと、なほなほし。 になっても、連れ添えない、と詠 ま・ ) もぐさ ニセ む。「世」に「節」をかける。 下刈らむほどをも知らず真菰草ょにおひそはじ人は刈るとも たいふ ニ六 ニ 0 た ふみ ニ四 一九

9. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

444 1 三ロ 以上挙げてきた作者の移転の記事をしめくくるものとして、この一文には重みがある。ここには埋めようの ない兼家との隔絶が示されていて、東三条邸に入ろうが、入るまいが、もはやそんなこととはかかわりがな くなっている感がある。東三条邸に入れなかった口惜しさをも含め、また兼家の命により、あるいは作者自 あんたん 蛉身の意思をもって、どこに住居が移 0 てみても、それそれに暗澹とした気持に変りようもない侘しさが積み 蜻重なって、そんな絶望感を生み出している。『蜻蛉日記』の中では、ときにいくつもの感情の累積がなされ、 それが日常的な意識よりもさらに深い人生の真実を具現させるに至るのである。 のりゆみ その天禄元年、翌二年は、作者と兼家との仲が険悪をきわめた時期。内裏の賭弓に出場した道綱の活躍の おうのう のが から一きはら あと、憂愁の日々が流れていく。兼家の夜離れはつづき、そうした懊悩から遁れようと、唐崎祓い、石山詣 おうみうわさ でに出かける。兼家の新しい愛人近江の噂も耳に入る。兼家の妻として生きることの人間的な苦しみという 点では、中巻も上巻と変りないが、中巻ではさらに、もはや妻であることを越えた、人間の本質に根ざす苦 悩、人間存在そのものの苦悩が見出されてくるといえよう。こうして苦悩の極に達した彼女が、天禄二年六 なるたきごも 月の鳴滝籠りを試みたあたりから、兼家に執着する自己をあえて自分から突き放すことによって、苦悩を克 服する道を模索しはじめ、やがて第二回初瀬詣でを含む中巻末部において、しめやかな自然感情と深い人生 観照とが一体となった、透徹した心境の世界がひらけてくる。それは、作者がみずからの生活史を、『蜻蛉 日記』に再現し、そこに真実の人生を構築するという、まさに創造的な行為によって、はじめて内的に確立 された世界でもあった。 下巻は、天禄三年 ( 九七一 D から天延二年 ( 九七四 ) までの三年間。中巻末部の心境が、身辺雑記的に拡散する。 その中で顕著に現れてくる特徴は、彼女が兼家を自分から離れた遠景の人として客観的に眺めやる姿勢であ

10. 完訳日本の古典 第11巻 蜻蛉日記

くもっ ぬ気持にもなる。十四日に、例年のように供物をととのえ、 たいことは全部おっしやったようですから、それ以上何の 政所の送り状を添えて、あの人の所から届けてきた。こん申しあげることがございましよう」と言って、それなりに なことさえ、いつまで続くのだろうかと、ロには出さず、 してしまった。あくる朝、「そのうち、この還饗の世話が 日、いひそかに思 , つ。 終ってから参上しよう」と言って帰ってゆく。十七日に、 蛉 還饗が行われていると聞く。 そのまま八月になった。一日の日は雨が終日降りつづく 蜻 しぐれ 時雨のような雨で、未の時ごろに晴れて、つくつくばうし 月ずえになったので、用事がすんだら来ると約束してい 、こ鳥くのを聞くと、ふと、「われだに 力やかましいくらししロ た還饗も終って、ずいぶん日数が過ぎたけれども、今はも ものはいはでこそ思ヘーの歌が口ずさまれる。どうしたわ うなんとも思わず、むようにと言われた八月の日々が過 ぎ、死期が近くなってしまったことを、ただもうしんみり けか、妙に、い細く、涙の浮んでくる日である。来月にはき っと死ぬだろうというお告げも先月あったので、この月に と感じながら日を送る。 すま いかえりあるじ やまと 死ぬのかしらとも思う。世間で相撲の還饗だなどと騒いで 〔 = 〕道綱と大和だつ人大夫は、例の大和だっ女の所に手紙 との若々しい贈答 いるのを、よそごとのように聞いていた。 をやる。これまでの返事が、自筆の 十一日になって、「まったく思いがけない夢を見た。と ものとは見えなかったので、恨んだりして、 ゅふ もかく、そちらへ行って」など、例によって信じられそう タされのねやのつまづまながむれば手づからのみそ蜘 にないことも書き連ねてあるけれども、 ( 本に ) わたしがも 蛛もかきける ( 夕方の寝室の隅々をばんやり見ていると、蜘蛛も自分の手 のも言えず黙っていると、あの人は「どうして何も言われ で巣を作っています。あなたはどうして御自分の手で書いた ないの」と言う。「何も申しあげることなどございません」 返事をくださらないのでしようか ) と答えると、「どうして来ないのか、尋ねてくれないのか、 憎らしい、ひどいと言って、打つなりつねるなりなさい と言ってやったのを、どう思ったのか、返事は白い紙に何 か先のとがったものを押しつけて書いてある。 よ」と、たてつづけに言われ、それでわたしは「申しあげ 1 三ロ ワ】まんどころ ひつじ ついたち たゆう ひと