ま待っていた。ともしていた灯を消させて車からおりたのと言って、庭の方を眺めているので、わたしが、「人目に で、まっ暗で、入口もわからずにいると、「どうしたの、 つくような、とても具合の悪い時刻になってしまいまし こっちだよ」と言い、手を取って案内してくれる。「どう た」などと言って帰りを急ぐと、「なあに、いいではない 旨ロ 日して、こんなにひまどったのだね」と言って、日ごろの様か。これから、御飯など召しあがって」と言っているうち 蛉 子を、すこしずつ片端から話して、しばらくしてから、 、昼になってしまった。そこで、あの人が、「さあ、あ あかり 「灯火をつけよ。まっ暗だ。 あなたは何も心配なさる なたの帰るのといっしょに、わたしも行こう。もう一度あ びようぶ ことはないよ」と言い、屏風の後ろに、ほのかに灯をとも なたのほうから来るのは、いやだろうから」などと言うの した。「まだ精進落しの魚なども食べずに、今夜、お見え で、「このように参上したことでさえ、人がどう言うかと になったらいっしょにと思って、用意してあるよ。 さ気にしておりますのに、お迎えに伺ったのだったと思われ あ、これへ」などと言って、お膳を運ばせた。すこし食べ たら、それこそほんとにいやですわ」と答えると、「では、 きとう たりしていると、前から祈疇のお坊さまたちが控えていて、 しかたがない。男ども、車を寄せよ」と命じて、車を近づ ずほう 夜がふけてから、護身の修法にと部屋へはいってきたので、 けると、乗る所まで、いかにもやっとという様子で歩み出 「もうお休みくださいし 、つもよりはいくらか楽になった」 てきたので、胸がせつなくなるような思いでその様子を見 と言うと、お坊さまは、「そのようにお見受けいたします」 ながら、「いつになりましようか、お出かけは」と言って と言って、出ていった。 いるうちに、もう涙が浮んでくるのだった。「とても気が あさって さて、夜が明けてしまったので、わたしが「侍女などお もめるから、明日か明後日ごろには伺おう」と言って、別 ふぜい 呼びください」と言うと、「なあに、まだまっ暗だろうよ。 れるのがひどくものたりなさそうな風情である。車をすこ ながえ もうしばらくこのままで」とひきとめているうちに、明る し外へ引き出して、牛を轅につけている時に、車の中から しとみ すだれ くなったので、召使の男たちを呼んで、蔀を上げさせ、外簾ごしに見ると、あの人はもとの所にもどり、こちらを見 を眺めた。「ごらんよ、庭に植えた草花はどんなふうかな」 て、しんみりしている、その様子を見ながら車を引き出し ひ
蜻蛉日記 276 たしをこばんでおられるせいだろうかと、思うのだがね ) たまでお見捨てになりましたので、私はもうこれつきりにな あさって おうさか ってしまうのでしようか ) 〔一三〕兼家兵部大輔、章あの人から「明後日ごろは、逢坂に 明親王との交誼 どうったのか、おりかえし、 いや、お逢いしに」と便りがあ をぶち ものいみ われが名を尾駁の駒のあればこそなっくにつかぬ身と った。ちょうど七月五日のことである。わたしが長い物忌 も知られめ にこもっていたころだったので、こう言ってきた返事には、 ちぎ あまがはなめか おぶちこま ( わたしが、あの尾駁の駒があばれて離れるように、冷淡に 天の川七日を契る心あらば星あひばかりのかげを見よ なって離れてゆくのなら、親しもうにも親しめないであろう とや けんゅう が、わたしはそんな男ではないのだから、親しめるはずだ ( 天の川で牽牛と織女とが逢う七月七日に逢おうと約束なさ よ ) るお気持とお見受けしますが、そうだとすると、一年に一度 おうせがまん のわずかな逢瀬で我慢しろとおっしやるのでしようか ) 返歌を、また こまうげになりまさりつつなっけぬをこなはたえずそわたしの言うことをもっともだと思ったのだろうか、すこ たの し、いにかけているようなふうで、幾月かが過ぎてゆく。 頼みきにける ( あなたは、だんだんと、私の所へおいでになるのをおいと 目にあまると思っていた女 ( 町の小路の女 ) の所では、今 いになり、やさしくしてくださらなくなりましたが、私のほ はありとあらゆる手段を尽して、あの人の愛を回復しよう うではずっとあなたを頼りにしてきたのですよ ) と騒いでいるということなので、気が楽になった。昔から また、返歌がある、 思 , つよ , つにならぬ亠入婦の仲はいまさらど , っしょ , つもない、 しらかは すくせ いくらつらくても、それがわたしの宿世のったなさなので 白河の関のせけばやこまうくてあまたの日をばひきわ たりつる あろ , つなどと、心を千々に砕く思いで暮しているうちに、 てんじよう ( わたしが訪ねてゆきづらくて、幾日もたってしまったのは、 あの人は、少納言を長年っとめて、四位になると、殿上の しゆっし つかさめし みちのく 白河の関が陸奥の駒をせきとめるように、あなたのほうでわ出仕もおりていたが、今度の司召で、ひどくひねくれてい ( 原文三三ハー ) てだて し
397 下巻 たのだった。頭は強引に簀子にあがって、「今日は吉日で っしゃいました」と伝えるので、「おばしめしの所でお話 わろうだ すわぞ し申しなさいな」などと言うと、頭はすこし笑って、程よ す。円座をお貸しください。座り初めをいたしたいもので す」などと話した程度で、「まったく来たかいのないこと く衣ずれの音をさせながら、こうして廂の間にはいってき たのである。 ですよ」と、ため息をついて帰っていった。 、一うド ) レっ しやく 二日ばかりして、わたしのほうから、ただ口上で、「留 助とひそやかに話をして、笏に扇の当る音だけが時々し 守の間にお越しくださいました由、おわび申しあげます」 ていた。 / 御簾の内からは何も言わないまま、やや久しくな などと言って使いをさしあげたところ、その後、「たいへ ったので、助に、「『先日はお訪ねしたかいもないありさま ん気がかりに思いながらおいとまいたしましたが、なにと で帰りましたゆえ、もどかしく心が落ち着かなくて』と申 しあげてください」と取り次がせた。助が、「さあ、どう そお許しを」と、いつも言ってよこす。まだ結婚などふさ ふ わしくない年齢だから、「老けた私の聞き苦しい声までお そお話しください」と勧めると、頭は、膝を進めて寄って 聞かせすることなど、とてもできません」などと言ってお きたが、すぐには何も言わない。ましてや、内からは声も しばらくして、不安に感じているかもしれない いたのは、それを許さないということなのに、助に「お話 しお せきばら ししたいことがあります」と言いがてら、暮れ方にやって と思って、わたしが軽く咳払いの様子をしたのを潮に、 きた。しかたがないと思って、格子を二間だけ上げて、簀「先日は、あいにくお留守の時に参上いたしまして」と言 あかり ひさしま うのをきっかけに、この娘に思いを寄せ始めてからのこと 子に灯火をともし、廂の間に招じ入れた。まず助が会って、 かみ つま 「さあ、どうそ」と勧めると、頭は縁にあがった。助が妻を、あれこれふんだんに話す。内からは、ただ、「ほんと はばか 戸を引き開けて、「こちらから」と言っているらしい、す に結婚などとんでもないと憚られるような年ごろでござい ると、歩み寄る気配がして、またしりぞいて、「ます母上ますから、このように仰せられますのも、夢のような気が あいさっ いたします。小さいどころか、世間でたとえに言っている に御挨拶をお取り次ぎください」と小声で言っている様子 ねずみお らしい『鼠生い』のほどにもなっておりませんので、とて たったが、助がわたしの所にはいってきて、「こうこうお かみ すのこ ふたま すけ すの ひざ
なのですわね」とそっけなく言うと、「ほんとにこれほど は、まったく困惑してしまうほどである。「殿のお許しは、 までつれなくなさろうとは、思いもしませんでしたが、で 筋の通らぬことになってしまいました。八月まではとても も、こう寄せていただいただけでも、意外なほど、ひどく、 待ち遠しく思われますので、御配慮によりまして、なんと 旨ロ 限りなく、うれしいことだと思わなければならないのでし 日か姫君にお逢わせいただきたいと存じまして」と言うので、 こよみ 蛉 よう。御暦も残り少なくなるほど日がたってしまいました。 「どうお考えになって、そんなふうにおっしやるのでしょ ぶしつけなことを申しあげ、御機嫌を損じまして」など、 う。あなたさまが待ち遠しいとおっしやるとおり、それこ しんから困惑しきっているので、冷たく突っぱねてしまう そ遠い将来に、あの娘も初めて女にもなろうかと思われま ことがとてもできなくて、「やつばり無理なお頼みですわ。 す」と言うと、「いくら幼い子どもでも、話ぐらいはいた 。し、一う・ 院や宮中に伺候なさっていらっしやる昼間のような気持に しますよ」と言う。「この娘は、ほんとにそうではござい おなりください」などと言うと、「そのような表向きのお ません。あいにく人見知りする年ごろですから」などと言 つきあいしかしていただけないのは、耐えられない気持で っても得心がいかぬというふうに、ひどくがつくりしてし ございます」と、困惑しきって答えるので、まったくどう る様子である。「姫君にお逢いする手だてがないとすれば、 胸の中を火花が走り、心が燃えるような思いがいたしますしようもない。わたしが返答に困って、しまいには物も言 ので、せめてこの御簾の内に伺候したとだけでも思いましわずにいると、「恐縮です。御機嫌もすぐれぬ御様子。で さが は、もう仰せ言がないかぎりは、何も申しあげますまい て退りましよう。姫君にお逢いできるか、この御簾の内で つま まことに恐縮です」と言って、爪はじきをして、物も言わ お話しできるか、どちらか一つなりと、思いをかなえるこ すだれ たいまっ とにしたいものです。御配慮ください」と言って、簾に手ずに、しばらくして座を立った。出てゆく時に、松明のこ を掛けるので、とても気味が悪いけれど、耳にはいらなか となど召使に言わせたが、「いっこうに受け取らせずにお ったふりをして、「たいそう夜もふけてしまったようです帰りで」と聞くと、気の毒になって、翌朝早く、「まこと しあしにくと、松明をとも仰せにならずお帰りになったと が、いつもなら、女に逢いたくてやきもきなさるころあい
食事などしている時に、従者たちが、「この西北の方角に見舞わねばならぬ筋合でもなさそうな人々からも、みな見 舞があったので、昔は、火事などがあると、この近くでは 火事が見えるから、外へ出て見よ」など言うと、「遠いよ、 - も・つ・一し 唐土だよ」などと答えている声が聞える。心の中では、遠ないかと様子を見に駆けつけてくれた時代もあったのに、 旨ロ いとはいってもやはり気になるあたりだと思っているうち今では隣の火事でさえ来てくれす、いよいよ愛情がさめて こうのとの 蛉 しまったとは、ほんとにあきれたことだ、「これこれです」 、人々が「火事は長官殿でした」と言うので、ほんとに ぞうしき * 、ぶらい 蜻 と火事の報告をすべき人は、あちらの雑色とか侍とか、か 肝がつぶれるほど驚いてしまった。わたしの家も、そのお やしき ねがね聞き及んでいた人のだれに聞き合せてみても、やは 邸とは土塀を隔てているだけだから、大騒ぎをして、若い 人をとまどわせているのではなかろうか、なんとか早く帰り報告はしたと言うのに、あんまりだ、あきれたことだと すだれ 思っている時に、門をたたく音がする。召使が見に行って、 りたいと、あわてふためいて、それこそ車の簾を掛けるひ まさえなかった。やっと車に乗って帰ってきた時には、す「殿がおいでになりました」と言うので、すこし心が落ち こうのとの つかり収っていた。わたしの家は焼けていず、長官殿の人着いたような気がする。さて、「こちらに来ていた召使た たゆう ちが知らせに来たので、驚いてしまった。思いの外に手間 もこちらに集っている。この家には大夫 ( 道綱 ) がいたお はだし かげで、どうかしら、裸足で逃げまどわせているのではな取ったのは、あいすまぬことだった」などと話しているう ちに、時がたってしまって、もう鶏が鳴いたと聞き聞き床 いかしらと案じていた娘も車に乗せ、門をしつかり閉じた についたので、まるで何事もなくこころよく眠れたかのよ りなどしていたので、乱雑な騒ぎなどもなかった。ああ、 この子も男として、よく取りしきってくれたことよと、様うに朝寝をしてしまった。朝になっても、見舞に来る人が 子を見聞きするにつけても、胸が熱くなる。逃げてきた多くごたごたしているというので、ゆっくり寝てもいられ 人々は、ただ、「命からがらでした」と嘆いていたが、そず、起きて応対する。「ますます騒がしくなることだろう」 しず ということで、あわただしく帰っていかれてしまった。 のうちに火事もすっかり鎮まって、しばらくたったけれど しばらくして、あの人から、男の着物などを、たくさん も、来なくてはならないはずのあの人はやってこず、特に 376 と・一
287 上巻 ちり つまび いうほどでもないが、琴の塵をはらって爪弾きなどすると、方に行かねばならない事情があったのを、母の喪があけて しゆったっ からにしようと延ばしていたので、ちかぢか出立すること もう喪はあけてしまったのだが、こんなさびしくはかない になった。姉との別れを思うと、、い細いというありきたり ありさまでも、知らぬ間に一年たってしまったなあと思っ の言葉ではとても言い表せないほどの気持だった。いよい ている時に、叔母のほうから、 ひ よ出立という日、姉の家に行って会う。装束一組ばかり、 いまはとて弾きいづる琴の音を聞けばうちかへしても 。す . りばこ それに、ちょっとした品などを硯箱一そろいに入れて、餞 なほそ悲しき ( 今はもう喪があけたというので、取り出して弾きはじめた 別として持ってゆくと、家じゅうひどく取り込んで騒ぎた っていたが、その中で、わたしも旅立っ姉も、互いに顔も 琴の音を聞きますと、昔のことがよみがえってきて、いっそ う悲しい思いがしますよ ) 上げず、ただ対座したまま、涙にくれていると、まわりの と言ってよこしたのでー・ーーこんな場面、どうといって格別人たちは、みな口々に、「どうしてそんなにまでお泣きあ がまん そばすのですか」「我慢なさいませ」「旅立ちに涙は不吉と のことはないけれども この故人をしのぶ悲しい気持を 申します」などと言う。こんなふうでは、すっかり車に乗 思うと、なおのことひどく泣けてきて、 り込むのを見届けるのは、どんなにかつらいことだろうと なき人はおとづれもせで琴の緒を絶ちし月日そかへり 思っていると、わたしの家から迎えが来て、「早くお帰り。 きにける こちらへ来ている」と、あの人の言葉を伝えてきたので、 ( 亡き母はもう帰ってはこず、私が母に聞かせられないのな こうも・き ふたあい しようつきめいにち らと琴の緒を絶った日ーー母の祥月命日が、再びめぐってまわたしの車を寄せさせて乗る時に、旅立っ姉は二藍の小袿 あかくち を着ており、あとに残るわたしは秋なのにただ薄物の赤朽 いりました ) 〔 5 姉の旅立ち、形見こうしているうちに、多くのきよう葉色の小袿を着ていたが、それを互いに脱いで取り換えて に衣装を脱ぎかえる 別れた。それは、九月十日過ぎのことである。家に帰って だいたちの中でもとりわけ頼りにし ている姉 ( 為雅妻 ) が、この夏ごろから夫の任国の遠い地きても、あの人が「どうしてこんなにまで泣くのだ、縁起 べっ ばいろ
( 原文一三六 いかにもやつれた様子に見受けられるよ」などと書いてあ を話題にするとはね . と語りかけると、聞いていた妹がひ どく笑う。わたしも、あまりのことにおかしく思ったけれるようだ。なに、こんな心遣いも書面だけのことだよと気 にかけはしないものの、物忌の終る日にははたして来てく ども、笑う様子などはすこしも見せなかった。こうしてい るうちに、夜もだんだんふけて夜中ごろになってしまったれるかどうかと、いぶかしくも思ったりなどしているうち 六日の物忌も過ぎて、七月三日になってしまった。 時分に、あの人が「方角はどちらがふさがっているかね」 と尋ねるので、日を数えて確かめてみると、案のじよう、 三四〕またも兼家の途絶昼ごろ、「殿がおいでになるはずで えがちな生活 す。『こちらに控えているように』 あの人の邸からこちらの方角がふさがっているのだった。 「どうしたものだろう。ほんとに困ったことだなあ。さあ、 と仰せがございました」と言って、あちらの従者たちも来 かたたが たので、侍女たちが騒ぎたち、日ごろ乱雑になっていたあ あなたもいっしょにどこか近い所へ方違えに」などと言う ちこちまでも、ばたばたととりつくろっているのを見ると、 ので、わたしは、返事もせずに、なんとまあ正気の沙汰で はない、それではまるつきりあべこべで、とんでもないこ とても心苦しくつらい思いで一日を過したが、すっかり暮 とだわ、と思って、横になったまま、 いっこうに動こうとれてしまったので、来ていた従者たちが、「お車の用意な どもすっかりしてあったのに、どうして今になってもまだ もしないでいると、「これから一人で行くのは面倒だが、 おいでにならないのだろう」などと話しているうちに、だ 方違えは無理にでもしなければならないだろう、方角があ んだん夜もふけてきた。侍女たちが、「やはりおかしいで いたらすぐに伺うというほうが妥当なように思うのだが、 ものいみ 巻 すよ。どれ、だれか様子を見に参らせましよう」などと言 例の六日の物忌になる予定なのだ」など、つらそうに言い って、見せにやると、その使いが帰ってきて、「ただ今、 ながら、出ていってしまった。 みずいじん 中 お車の支度を解いて、御随身たちもみな解散してしまいま 翌朝、手紙が来た。「昨夜は夜がふけてしまったので、 した」と言う。やはりそんなことだったと、またしても思 3 けさは気分がとてもすぐれなくてね。あなたのほうはいカ たゆう ーに 4 うじん うと、居たたまれない心持がするので、思い嘆かれること が。早く精進落しをなさるがよろしかろう。この大夫が、 やしき
( 原文一二五ハー ) ても、今さら出ていっては笑いものになるにちがいない、 次第で」と知らせると、「さしあたりは、よかろう。ひっ おっとめ そう考えて下山しないのであろうと思っているらしいあの そりと、そうしてしばらく勤行なさるのは」と返事があっ 人がずけずけと言わせているのだろう、そんなふうでは、 たので、とても気が楽になる。 おっとめ 里にもどっても、勤行よりほかに何をすることがあろうか あの人は、やはり、ちょっとわたしの気を引いてみよう と思ったので、「こうしていられる間だけはと思っている とも思って、もう一度迎えに行くなどということを、ふと のです」と言うと、「際限もなくお考えなのですね。何は ロの端にのせたりもするのだろうが、すっかり腹を立てた しようじん さておき、この若君がこんないわれのない精進をしておい 様子で、山籠りをしているところを見届けて帰ったまま、 どうしているかとも尋ねてよこさない。わたしにもしもの でなのがお気の毒で」と、さすがに泣きながら車に乗るの で、こちらの侍女たちが見送りに出たところ、「あなたた ことでもあれば、かまってくれるというのか、どうなって ちもみな、殿のおとがめをお受けです。よくお話し申しあ もかまってくれそうにないと思うと、これよりもっと山奥 げて、早く山からお出し申しあげるようになさい」など、 へはいろうとも京へは帰るまいと思ったのだった。 ーム、つ・じんけっさい さんざん言って帰ってゆく。にぎやかな一行だっただけに、 ニ九〕兼家との交信侍今日は十五日、精進潔斎などして過 今回の使いが帰ったあとの気持は、これまでにもまして格女たちの交信 す。子どもに無理に勧めて、「魚な 別に心さびしい感じで、そんなさびしさを味わうゆとりさ ど食べておいで」と言って、けさ、京へ送り出して、物思 えないわたしはともかくも、ほかの者たちは、今にも泣き いにふけっていると、空が暗くなってきて、松風の音が高 出しそうな思いでいた。 くなり、雷がごろごろと鳴る。今にもまた降ってきそうな このように各人各様に、あれこれと下山するように勧め様子だというのに、途中で雨が降りはしないだろうか、雷 中 られるが、わたしの気持は動かなかった。父の言葉は、悪 がいっそうひどく鳴りはしないだろうかと思うと、とても いと言われても良いと言われても、反対できないのだが、 心配で悲しくなって、み仏にお祈りした、その効があった その父は、このごろ京においででなく、手紙で「こういう のか、晴れて、まもなく帰ってきた。「どうだった」と尋
絶えぬるか影だにあらば問ふべきをかたみの水は水草 のんびりした気分で過していたある日、些細なことを言 「ゐ〔に・け・ . り . い合ったあげくに、わたしもあの人も気まずくなるような ( 二人の仲はもう絶えてしまったのだろうか。せめてこの水 ことまで言ってしまって、あの人がぶつぶつ言って出てゆ にあの人の影なりとも映っていたら、尋ねることもできるだ くはめになってしまった。縁先のほうに歩み出て、子ども ちり ろうに、形見の水には、水草がはえているみたいに塵が浮い を呼び出し、「わたしはもう来ないつもりだ」などと言い て、影を見ることさえできはしないのだった ) 残して出ていってしまうとすぐに、あの子が奥にはいって などと思っていたちょうどその日に、あの人が姿を見せた。 。しったいどうしたの」 きて、大声をあげて泣く。「これよ、、 っしょにいながらしつくりと、いとけな つものよ , つに、、 と言葉をかけても、なんの返事もしないで泣いているので、 いままで過してしまった。こんなふうにはらはらする不安 きっとあの人がひどいことを言ったのであろうと察しはっ な時ばかりで、すこしも心休まることのないのが、やりき くけれども、まわりの人に聞かれるのもいやな、まともで ないさまなので、尋ねるのはやめて、あれこれと言いなだれないことであった。 めている、そのうちに、五、六日ばかり過ぎたが、なんの 三 = 〕稲荷と賀茂へ詣で、九月になって、野山の景色はすばら ものもう 和歌を奉納 しいことだろう、物詣ででもしたい 音沙汰もない。例の隔りどころではなくなってしまったの ものだ、こんなはかない身の上のことも神さまに訴え申し で、まあ、なんて気違いじみていること、冗談だとばかり あげよう、などと決心して、こっそりと、ある所 ( 稲荷神 わたしは思っていたのに、はかない二人の仲だから、この ひとくしへいはく 巻 と ) 田 5 , っ 社 ) にお参りに出かけた。一串の幣帛に、こんな歌を書し まま絶えてしまうようなこともあるかもしれない、 しもみやしろ て結びつけた。まず下の御社に、 と、心細くてばんやり思い沈んでいる時に、ふと見ると、 ゆするつき 上 いちしるき山口ならばここながらかみのけしきを見せ あの人が出ていった日に使った淋坏の水は、そのままにな よとぞ思ふ 3 っていた。水面にほこりが浮いている。こんなになるまで ( 霊験あらたかな神の山の入口でございますなら、この下の と、あきれて、 みくさ
組が、若君の矢のおかげで、引分けにもちこみました」と、「どうも妙に気分がすぐれない」ということで、いつもの 引また告げ知らせてくれる人もいる。引分けになったので、 ようにも通ってこず、七、八日目程度の訪れで、「からだ りようおう がまん 先手組から先に陵王を舞った。その子も同じ年ごろの少年のつらいのを我慢して来たよ。気がかりだから」などと言 おい 日で、わたしの甥である。練習していた間、ここで見たり、 ったり、「夜分でもあるから、こっそりやってきた。こう さんだい 蛉 あちらで見たり、お互いにしあった。そこで、陵王に答え苦しくては、どうしようもない。参内もしていないので、 蜻 みかどぎよい てわが子が舞い、好評を博したからか、帝から御衣を賜っ こうして出歩いていたと人に見られては、具合が悪かろ た。宮中からは、そのまま、あの人が陵王を舞った甥も同 う」と言って帰ったりなどしたあの人は、病気がよくなっ たと聞いたのこ、、 車させて退出し、こちらへ来てくれた。事の次第を語り、 ししくら待っても来てくれそうな気配がな 大いに面目をほどこしたこと、上達部たちがみな涙を流し どうしたのだろう、と思い、ひそかに今夜はどうか様 ていとおしがったことなど、繰り返し繰り返し、泣きなが子をみてみよう、と思っているうちに、遂には手紙さえよ ら次々と口をついて出てくる。弓の師匠を呼びにやり、来 こさず、そのまま長い日数が過ぎてしまった。こんなこと うわべ ると、またここで何やかやと褒美を与えるので、わたしは ってあるものか、変だと思いながらも、表面は平気をよそ つらい身の上かなどということも忘れて、うれしく思うこ おいつづけていたけれども、夜はよその世界の車の音がす とは、比べるものがないほどである。その夜はもちろん、 るたびに、でももしやと胸をどきどきさせ、時々は寝入っ その後の二、三日まで、知り合いという知り合いはすべて、 て朝を迎え、訪れもないままに夜が明けてしまったよと思 ′ ) んじよう ばうぜん 法師にいたるまで、若君のお喜びを言上にと、次々に使者うにつけ、これまでにもまして茫然たる思いになる。子ど をよこしたり、言いに来たりするのを聞くにつけても、自 もが行くたびに聞いてみるが、実のところ、当のあの人は、 分でも不思議なくらいにうれしかった。 これといって格別変ったこともないらしい。ど、つしている かとさえ、わたしの様子を尋ねることもないとのこと。向 〔 ^ 〕来ぬ夜が三十余日、こうして四月になった。その十日か 昼が四十余日 ら、またしても、五月十日ごろまで、 こうがそうなら、なおさら、こちらからは、なぜ来てくだ ( 原文八五ハー ) 一三ロ ほうび かんだちめ