田天皇年号西暦 事 項 花山寛和元九八五五〇歳十一月、道綱母、為雅の娘に代って参議義懐へ歌をやる。 一三ロ 日一条寛和一一九八六五一歳六月十日、内裏歌合に道綱が母の詠作を出す。 六月二十四日、右大臣兼家、摂政。八月、三宮に准ぜらる。七月、詮子、皇太后となる。 蛉 十月十五日、道綱、右中将となる。 永延元九八七五二歳十月十四日、一条天皇、兼家の東三条邸に行幸。 九月、道長、非参議、従三位。 十一月二十七日、道綱、非参議、従三位。 永延一一九八八五三歳三月十六日、法性寺において兼家六十の賀。 永祚元九八九五四歳十二月二十日、摂政兼家、太政大臣となる。 正暦元九九〇五五歳七月一一日、太政大臣兼家没す。 十月五日、道綱、中宮権大夫を兼ねる。 十二月八日、皇太后詮子、亡母時姫のために法華八講を修す る。道綱母、その捧げ物として蓮の実の数珠を奉る。 正暦一一九九一五六歳九月七日、道綱、参議となる。 九月、道兼は内大臣、道長は権大 納言となる。 正暦四九九一一一五八歳五月五日、道綱母、東宮帯刀陣歌合に詠進。 長徳一兀九九五六〇歳五月一一日、道綱母没す。 四月、道隆没。五月、関白道兼没。 道長に内覧の宣旨。 長徳一一九九六 四月二十四日、道綱、中納言となる。 四月、内大臣伊周と隆家、配流。 五月一一日、道綱、亡母の周忌法事を行う。 七月、道長、左大臣となる。 十二月二十九日、道綱、右大将を兼ねる。 七月五日、道綱、大納言となり、右大将・東宮大夫を兼任。四月、伊周・隆家、召還。 一月二十八日、道綱、東宮傅を兼ねる。 六月十三日、道綱、東宮傅を辞す。 十月十六日、大納言道綱没す 長徳一一一九九七 寛弘四一〇〇七 三条寛弘八一〇一一 後一条寛仁四一〇二〇 道綱母 推定年齢 六月、太政大臣頼忠没。 一月、一条天皇元服。定子入内。 五月、道隆、摂政関白となる。 参考事項
んだ。道綱母の代表歌の一つである。この歌は「巻末歌集」にも所載 ( 二三一ハ -) 、そこでは詞書を「絵のと かんな うたあはせ ころに、山里にながめたる女あり、ほととぎす鳴くに」とし、さらに左注に「この歌は、寛和二年歌合にあ ふのだいなごんどのの り」と加える。「巻末歌集」は、それとほば同内容のものが、上に触れた『道綱母集』、および『傅大納言殿 びようぶえ ははうえのしゅう 母上集』の二本伝わっているが、それらにはこの左注を欠く。道綱母が女絵か屏風絵に添えて詠んだ歌 を、後に道綱のために歌合に提出したのであろうか。およそ「巻末歌集ー『道綱母集』『傅大納言殿母上集』 の原型となった歌集は、『蜻蛉日記』の拾遺として、長能あたりが編纂したのではないかといわれ、とくに 長能に、寛和二年以前に詠んだと思われる「都には待つ人あらむほととぎすすさめぬ草の宿にしも鳴く」と いう歌があって、道綱母の「都人ーの歌の影響が見られるので、とすれば、「巻末歌集」の詞書のようなそ の詠作事情をもすでに承知していておかしくない長能を、編者とする可能性がいっそう強められてくる ( 水 野隆氏「蜻蛉日記巻末歌集の編纂者についての試論」『文化女子大学室蘭短期大学研究紀要』第二号 ) 。その長能の歌が 道綱母の「いまさらにいかなる駒かなっくべきすさめぬ草とのがれにし身を」 ( 二三一一ハー ) の歌の発想を受け ることも説かれているが、この歌が唯一『蜻蛉日記』と重複しているのも、単なる誤入かもしれないけれど も、あるいはこの歌への長能の特別な関心が、何らかの意味で重複の結果を招いたとも考えられよう。とも あれ、道綱母と長能とが異腹姉弟だとすれば、身内的な親しみもさることながら、とくにお互いに歌人とし て親密になっていたのではあるまいか。『古本説話集』には、「長能は、かげろふの日記したる人のせうと、 解伝はりたる歌よみ」と書かれている。 そんびぶんみやく さて『尊卑分脈』のあげる倫寧の子女には、理能・長能・道綱母、およびいま一人、藤原為雅の妻となっ ながら きよっね て中清を産んだ女子がある。為雅は、長良の子清経、つまり道綱母の曾祖父高経の弟に当たる清経の曾孫。 ためまさ
『蜻蛉日記』の上巻天暦十年三月、為雅と兼家がいっしょに道綱母姉妹のもとへ訪れており ( 一八ハー ) 、その のりゆみ りようおう 4 後間もなく為雅はこの妻を別の住居に連れていく。また中巻の天禄元年、内裏の賭弓の段で陵王を舞った をひ 1 = 一口 「わが甥」 ( 八五ハー ) に、従来この姉の子の中清を当ててきた。そうも考えられるが、「巻末歌集」に「卯の たちはきのじん 蛉花」以下十首を載せる「歌合」歌 ( 二三一 ) 、すなわち「正暦四年五月五日東宮居貞親王帯刀陣歌合」の ためたか 蜻歌について、理能男、為孝がその時の帯刀長で、その依頼による道綱母の代作とする説 ( 水野氏「道綱の母の 晩年についてーー・ー巻末歌集の二三の記事をめぐってーー」『国文学研究』第五十三集 ) に従うとすれば、賭弓の段の 「わが甥」も同じく為孝かと推定されるので、本文の脚注にはそのように記した。ところで、為雅の娘の一 人は義懐の室となった。「巻末歌集」に道綱母がこの娘のために代って詠んでやった義懐への歌がある ( 二 二九ハ -) 。中清と同様、この娘も道綱母の姉の腹と推定されているとおりであろう。また長能は義懐に親近し ためのぶ ており、ともかく道綱母の一族は、為雅の一家や義懐と、親しい間柄にあった。なお最後に、為雅の弟為信 の娘が藤原為時の妻で紫式部の母になること、すなわち紫式部からいえば、道綱母は義理の大伯母の妹にな ることを付け加えておく。 『蜻蛉日記』を見ると、この為雅室の外に、やはり同母と思われる姉妹が、もう一人ないし二人いる。まず なるたき 中巻冒頭に「はらからとおばしき人」 ( 六九ハー ) とあり、鳴滝へ道綱母をたずねてきた「わがもとのはらか みなみおもて ら」 ( 一二二ハー ) も、この同じ妹であろう。さらに天禄元年十二月の条に「南面にこのごろ来る人あり」 ( 一〇 五ハー ) とあるのは、道綱母と同居している妹のもとへ男が通ってくることを述べているようだし、「えさら うぶや 、「思ひ障りしこともたひらかになりにしかば」 ( 一一〇ハー ) とい ず思ふべき産屋のこと」 ( 一〇八ハー ) といし うのは、この妹のお産らしい。一説では、すべて同一人物とするが、鳴滝へたずねてきた妹には、兼家の長 いやさだ
432 『蜻蛉日記』には、康保元年 ( 九六四 ) 作者の母の死がこまごまと描かれている ( 上巻第一六段 ) 。そこでの作者 の追想の心理などを見ると、母はまた父とは違い、彼女の日常的な保護者、話し相手として、大切な存在で ま一とうながとう 記あったにちがいない。ところで、道綱母の兄弟に理能・長能があり、かれらの官位も父倫寧と大差なく、理 とのものかみ がのかみ せのかみ ひぜんのかみ 蛉能は従五位下肥前守に、長能は従五位上伊賀守 ( もしくは伊勢守 ) にな 0 ているが、理能の母は主殿守春道の 蜻娘、長能の母は源認の娘で、二人は異母兄弟、道綱母はそのどちらかと同腹と思われる。『道綱母集』の勘 注に「母刑部大輔認女」とあるから、そのまま信ずれば、長能と同腹になる。それを認めようとする説もあ る。しかし道綱母と長能との年齢の隔りなどから、理能と同腹とする説のほうがいずれかといえば有力であ もとす・け る。『蜻蛉日記』の中に「せうと」として登場する人物はだいたい理能としてよい。理能の妻に清原元輔の 娘がおり、元輔は清少納言の父で、したがってそれは清少納言のおそらく異母姉となろう。その他理能の事 跡を知る材料はほとんどない。 長能は歌人として有名である。かれは、花山天皇の時代にその寵臣で朝廷の実権を握った権中納一一一一口義懐と くろうど 親しく、その推挙によったのであろうか、花山天皇践祚の永観二年 ( 九八四 ) 、蔵人に補せられ、かつまたこう した義懐との交誼を通して、花山院の恩顧を受け、院をめぐる歌壇においてことにめざましい活躍をした。 花山院を中心として成った『拾遺集』の編纂に、長能が有力な協力者であったろうということも、早くから かんな いわれており、その『拾遺集』以下勅撰集に五十九首入集、また家集に『長能集』がある。寛和二年 ( 九八六 ) 六月十日 ( もしくは九日 ) 内裏歌合には、「山吹」の題で、「一重だにあかぬ心をいとどしく八重かさなれ きんとう る山吹の花」の歌を詠み、しかも左方公任とならんで右方の講師を務めている。この歌合には道綱も出席、 兼題であったから、道綱母が代作して、「都人寝で待つらめやほととぎす今そ山べを鳴きて過ぐなるーと詠 かぎん せんそ ひとへ ちょうしん よしちか
られる。そのことが道綱母の憤懣をひとしお掻きたてたと同時に、ひとしく正式の妻である時姫に対する道 綱母の感情と、彼女らへのそれとが異なるのは、上述のごとく、時姫が他の妻たちと格を異にしてきたため はかりでなく、より根本的には、夫兼家が町の小路の女や近江に対して、そう長続きはしなかったとしても、 熱情を注いだことが、道綱母の心を深く傷つけたからではなかろうか。それほどまでに兼家に密着し、兼家 に振り回され、にもかかわらず兼家とは隔絶した人生を歩まねばならなかった、道綱母の悲哀が、『蜻蛉日 = = ロ』からまざま、と察知されるのである。 いやさだ たちはきのじん 『蜻蛉日記』以後の道綱母は、寛和一一年 ( 九八六 ) 内裏歌合・正暦四年 ( 究三 ) 東宮居貞親王帯刀陣歌合への出 詠、正暦元年詮子の亡母時姫追善供養法華八講の際の詠進、貞元二年 ( 九耄 ) 父倫寧の死去に際して、長 かうぶやしない 能・為雅と取り交した歌、天元三年 ( 九八 0 ) 七月二十日、懐仁親王 ( 一条天皇 ) 五十日の産養に猪の置物にこ だいじようえ とよせた祝賀の歌、おそらく寛和元年 ( 九会 ) 花山天皇の大嘗会の時のことであろうが、姪の為雅の娘に、 よしちかひかげかずら 途絶えていたその夫義懐が日蔭の鬘をよこした返事の歌の代作、それくらいが年次のはっきりしたものであ る。歌人としての彼女の声価は、すでに『蜻蛉日記』の中に、藤原師尹五十賀の屏風歌を、その甥の頼忠に 頼まれて詠作していること ( 中巻第六段 ) や、「巻末歌集」などに見えるこれらの歌によって察せられ、また 説『拾遺集』以下勅撰集入集歌は三十八首 ( 作者名を道綱および兼家と誤っている二首を入れて数え、重複歌を除く ) 、 その中に「巻末歌集」を含めて『蜻蛉日記』に見えない歌が四首ある。なお中古三十六歌仙の一人に数えら 解れている。 最後に、彼女の没年は、『小右記』長徳二年 ( 究六 ) 三月二日の条に「道綱重服ノ人」とあり、同五月二日 の条に「新中納言道綱亡母周忌ノ法事」とある記事により、その前年長徳元年 ( 九空 ) 五月二日、もしくは ふんまん かんな かねひと
457 蜻蛉日記年譜 ひいなぎめ 五月四日、稲荷に詣で、雛衣に歌をつけて奉る。 遠度、たびたび道綱を呼びつける。 十日ごろ、遠度来訪。困惑して兼家からの文を見せる。 一一十七日、左京大夫遠基没。 遠度、時々文をよこす。 七月二十日ごろ、遠度が人の妻を盗み取ったとのうわさ。 は・つ攣トっ 八月二十日ごろ、皰瘡流行。道綱もわずらい、兼家にも知ら八月、皰瘡のため内裏の大祓。 せる。九月上旬になおる。 九月十六日、伊尹の息、両少将 ( 挙賢・義孝 ) 皰瘡で死去。 道綱、大和だっ女に歌をやる。 十月二十余日、近江の出産 ( 綏子誕生か ) のことを聞く。その 夜、太政大臣兼通からの歌が届けられ、父の勧めで返歌。 十一月二十一日、道綱、にわかに賀茂臨時祭の舞人に召され十一月二十三日、賀茂臨時祭。 る。二十三日、祭見に行く。 道綱、八橋の女と歌の贈答。 十二月、倫寧・為雅・源順ら、受 この年、道命 ( 道綱の長男、母は源広の娘 ) 誕生 大晦日、魂祭、追儺。 ( 『蜻蛉日記』の記事、この年で終る ) 領の補任について奏状。 あぜち 三月、尚侍登子没。 天延一一一九七五四〇歳一月二十六日、兼家、按察使を兼ねる。 貞元一一九七七四二歳一月二十八日、道綱、左衛門佐となる。 十月十一日、兼家は治部卿、道綱は土佐権守におとされる。十月、左大臣頼忠、関白となる。 十一月、太政大臣兼通没。 この年、父倫寧没。 八月、詮子 ( 兼家一一女 ) 入内。 天元元九七八四三歳十月二日、兼家、右大臣に昇進。 十月十七日、道綱、左衛門佐に復任。 一月、時姫没。 天元三九八〇四五歳一月九日、道綱、昇殿。 か 六月、懐仁親王 ( 一条帝 ) 誕生。 七月二十日、道綱母、懐仁親王の御五十日に賀歌を奉る。 永観一兀九八三四八歳二月二日、道綱、左近衛少将となる。 この年、斉祇 ( 道綱の二男、母は藤原季孝の娘か ) 誕生。
上旬に死んだと推定されている。さきに仮定した年齢では六十歳になる。 あんな わらわてんじよう 道綱について付け加えておこう。天暦九年 ( 九五五 ) 誕生 ( 一六ハー ) 、安和二年 ( 九六九 ) 童殿上、翌天禄元年叙 うまのすけ しようあい 爵 ( 一〇三ハ -) 、天延二年 ( 九七四 ) 右馬助 ( 一九一ハ -) 、母のかけがえのない一子として鍾愛を受け、ここまで成 やまと 蛉長してきた模様は、事にふれて『蜻蛉日記』に記され、また母の手も加わっているらしいが、「大和だっ」 かみ とおのり 女 ( 一七二ハー ) や「八橋」の女 ( 二一八ハー ) との恋愛贈答があり、右馬頭で兼家の異母弟になる遠度が、作者 こ昇進して、右 の養女へ求婚してきた一件では、仲に立って苦労をしているさまが描かれている。以後順調レ 大将から大納言となり、東宮大夫・東宮傅などを経て、寛仁四年 (IOIIO) 正二位大納言皇太后宮大夫をもっ て死去した。異母兄弟の道隆・道長のような、豪放な、もしくは強靭な政治家的気質もなく、『小右記』寛 仁三年六月十五日の条に、道綱が道長に一、二か月でよいから大臣を貸してくれと頼んだという逸話があっ て、著者実資から「一文不通ノ人」では大臣になれまいと酷評されたのは有名であるが、実資の道綱への強 い対抗意識があったとはいえ、いかにも単純な道綱の虚栄心のほどがうかがえる。父兼家の庇護、ついでは 弟道長の支援を受ける反面、適当に利用もされて、しかるべき地位を得、凡俗な生涯を送ったのであろう。 三作者の人生と『蜻蛉日記』の世界 作者道綱母の体験に即した個々の事実が書き連ねられていく中から、さらに深い人生の真実が形象化され てくる。それが『蜻蛉日記』の世界なのである。上に掲げた「序」につづいて、次のごとき一文がある。 かしはぎこだか さて、あへなかりしすきごとどものそれはそれとして、柏木の木高きわたりより、かく言はせむと思ふ 440
448 蜻蛉日記 藤原房前 基経 ( 良房の養子 ) 蜻蛉日記関係系図 真楯ーーー内麿ーー・冬嗣長良高経・・・ー惟岳ーー倫寧 魚名ーー鷲取ーーー藤嗣ーー高房ーーーー山蔭ーー中正 伊尹 ( 長良の実子 ) 頼 , ーー頼忠兼通 良房ーー基経・ーー忠平師 師氏 遠度 師尹 遠基 光 安子 登子 慧子 愛宮 子 ( 菅原孝標室 ) 中清 清経ーー一兀名文範ーーーー・為雅女子 国章 女子 挙賢 義孝 理能 長能 女子 義懐 女子 ( 近江 ) 兼家 女子 ( 道綱母 ) 道隆 道兼 道長 超子 詮子 女子 ( 道綱母の養女 ) 女子 ( 時姫 ) 綏子 道綱
集四の宮の御子の日に、殿に代はりたてまつりて、 歌 末峰の松おのがよはひの数よりもいまいく千代そ君にひかれて 殿、離れたまひてのち、久しうありて、七月十五日、盆のことなど、きこえ のたまへる御返りごとに、 かかりけるこの世も知らずいまとてやあはれの露を待 0 らむ 一『蜻蛉日記』の拾遺として編集 された歌集が、後に日記の巻末に 付載されたものか。道綱母に敬語 を用いており、明らかに他撰。道 綱を「傅の殿」と呼んでいるので、 寛弘四年 ( 一 00 七 ) 以後の成立。編者 ながとう に藤原長能が有力視されており、 また道綱が直接編者ではありえな いが、編纂計画にかかわるとする 説もある。 ぶつみやうゑ ニ「仏名会」の略。諸仏の名号を 唱え、罪や穢れを払う行事。 っとめて 三「勤めて」に「翌朝」をかける。 四「きこゅ」は道綱母への、「の たまふ」は「殿 ( 兼家 ) 」への敬語。 五仏の恵みに、盆供養の意を重 ねる。「待っ」のは亡き母。 六村上天皇の第四皇子為平親王。 はつね セ正月初子の日、 小松を引いて 長寿を祈り、野に遊宴する行事。 これは、康保元年 ( 九六四 ) 二月五日。 ^ 松が引き抜かれる意と、君の 長寿にあやかる意とをかける。 九行事の記録。仮名の日記か。 一 0 村上天皇の皇后安子。為平親 王の母。康保元年四月二十九日崩 き一い その子の日の日記を、宮にさぶらふ人に借りたまへりけるを、その年は、后御 ( 日本紀略 ) 。 ぶつみやう 巻末歌集 仏名のあしたに、雪の降りければ、 年のうちに罪消っ庭に降る雪はっとめてのちは積もらざらなむ ねび か 七ねび ち
そんびぶんみやく みちつなのはは 道綱母は「本朝第一美人三人内也」と『尊卑分脈』にすぎす、彼女の容貌を知るよしもないが、これ とうでんぎようひっ にあり、『榻鴨暁筆』 ( 一条兼良作か ) によれば、光は江戸時代以降、百人一首絵として数多く描かれ ) 】すざくいんによう ) 」 明皇后・藤原頼宗の娘後朱雀院女御延子とならんた画像の一つである「なげきつつ」の歌と、上方 で、三美人とされたとい、つ。もとより後世の伝説には閉ざした門戸を描くか 右大将道綱母イ象東京国立博物館蔵