心地もなく絶え入りそうにしていらっしやるのをごらんに子だが、まことに苦しそうでいかにも大儀らしいので、帝 はいっそこのままで、どうなるにしてもなりゆきをお見届 なると、帝は、あとさきのご分別もおなくしになって、あ らんかぎりのことを泣く泣くお約束あそばすけれども、更けになりたいとおばしめすが、「今日から始めることにな 語 きとう っております数々の祈疇を、しかるべき験者の人々が仰せ 物衣はお答え申しあげることもおできにならず、まなざしな ども、ひどくだるそうにしてふだんよりもいっそうなよな つかっております、それを、今晩から始めますのでーと、 源 よと、正体もない有様で横たわっているので、帝はどうしせきたて申しあげるので、帝はたまらないお気持ながら、 てぐるま たものかと途方にくれておいでになる。輦車をお許しにな更衣の退出をお許しになる。 やす せんじ る宣旨などを仰せ出されてからも、またお部屋におはいり 帝は胸がいつばいにふさがって、とろりともお寝みにな みじかよ になっては、どうしてもお手放しになれない。「決められれず、夏の短夜を明かしかねておいでになる。まだお見舞 ている死出の道にさえわたしたちはいっしょにと、お約束のお使いが行き来するほどの時間でもないのに、それでも もら なされたではないか。いくらなんでも、このわたしを残し しきりに気がかりなお気持をお漏しになっておられたが、 てはゆけますまいね」と仰せになるのを、女も帝のお気持「夜中を過ぎるころに、とうとう息をお引き取りになりま をほんとにおいたわしく存じあげて、 した」と言って里の者が泣き騒ぐので、お使いもまったく 「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命な気落ちして宮中に帰参した。このお知らせをお聞きあそば . り . け・ . り . す帝の動転するお気持、もうなんのご分別もっかぬ体で、 ( いまは、それが定めとお別れしなければならない死出の道ただお部屋に閉じこもっておいでになる。 が悲しく思われますにつけて、私の行きたいのは生きる道の 〔五〕無心の若宮、更衣帝は、若宮をば、このままおそばに の里に退出する ほうでございます ) とどめて置いてごらんになっていた もちゅう ほんとに、こんなことになろうとかねて存じているのでし いと願われるけれども、こうした母君の喪中に、宮中にお たら」と、息も絶え絶えに申しあげたそうなことのある様 いでになるのは前例のないことなので、ご退出ということ - 1 う てい
229 桐壺 だい れよ。 るほかなかったが、だんだんと気持が静まってくるにつけ、 などと、お心こめてお書きになってある。 かえって、夢ではないのだから覚めようはずもなく、こら おとこはぎ みやぎの 宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそ えきれぬ悲しさは、どうしたらよいのか、それを相談でき やれ る人さえいないのだから、そなたが内々で宮中にまいられ ( 宮城野ー宮中を吹き渡る風の音に涙が催されるにつけても、 ぬものか。若宮がひどく気がかりな有様で、涙がちの里で さん 小萩ー若宮はどうしていることかと思いやられます ) 暮しておいでになるのもいたわしくてならぬから、早く参 内なされよ』などと、はきはきとしまいまで仰せになれず、とあるけれども、とても終りまではごらんになれない。 「長生きがほんとにつらいものであると、身にしみて思い 何度も涙におむせかえりになっては、それでも、人目にお 気弱なと思われるだろうと、気がねなさらぬでもないご様知られますにつけても、例の高砂の松がどう思うだろうか と、そのことだけでも気のひける思いでございますので、 子がおいたわしくて、仰せ言を終りまで承りきらぬような 有様で退出いたしました」と言って、帝のお手紙をさしあ人目多い宮中にお出入りいたしますようなことはなおさら げる。 はばかり多うございまして。畏れ多い仰せ言をたびたび頂 「悲しみに目も見えませぬが、このように畏れ多い仰せ言戴していながら、私自身は、とても参内を思い立たせてい ただけそうもございませぬ。若宮はどこまでお分りでいら を光といたしまして」と言って、母君はごらんになる。 時がたてば、多少は紛れることもあろうかと、そのこと っしやるのか、参内なさることばかりをお急ぎのご様子で を心待ちに過している月日のたつにつれて、まったく悲すので、それもごもっともと悲しく拝見しておりますなど と、内々に考えさせていただいておりますよしをご奏上く しみに堪えきれないのは困ったことです。幼い宮を、ど ふきっ うしているかといつも案じながら、あなたといっしょに ださいませ。不吉な私の身でございますので、こうしてこ こで若宮がお暮しになられるのも、縁起がわるく、畏れ多 養育できないのが気がかりでならないのです。今は、や いことで」とおっしやる。 はりこのわたしを、亡き人の形見と思って宮中にまいら たかさ 1 」
源氏物語 40 思しいたっく。 一かって母が局としていた桐壺。 ニ宮中で与えられた個人の部屋。 みざうし 内裏には、もとの淑景舎を御曹司にて、母御息所の御方の人々まかで散らず三母更衣に仕えていた女房たち。 六 四母の里邸。祖母死去 ( 源氏六 すりしきたくみづかさせんじくだ さぶらはせたまふ。里の殿は、修理職、内匠寮に宣旨下りて、二なう改め造ら歳 ) 以来、ほとんど人が住まない。 五宮中の修理造営を担当。 せたまふ。もとの木立、山のたたずまひおもしろき所なりけるを、池の心広く六宮中のエ匠・装飾・器物のこ となどを担当。中務省に属す。 しなして、めでたく造りののしる。かかる所に、思ふやうならむ人を据ゑて住セ二つとないくらい立派に つきやま 〈以前からの立木や築山の配置。 まばやとのみ、嘆かしう思しわたる。 九池を広くする。「心」は中心。 一 0 大騒ぎをして立派に造営する。 こまうど 「ののしる」は、騒ぐ意。 光る君といふ名は、高麗人のめできこえてつけたてまつりけるとぞ言ひ伝へ = 自分の理想であると思う人。 たるとなむ。 藤壺その人でないにしても、藤壺 のような人。この「据う」は、妻と して住まわせる意。 一ニこの「わたる」は、・ : し続ける。 源氏の絶えることなき藤壺思慕。 前にも「世の人光る君と聞こ ゅ」 ( 三五ハー ) とあり、この繰返し で、並外れた人生の可能性を強調。 一四前出の高麗人 ( 三一 ハー六行 ) と 同一人とは限らない。 一五語り伝えられてきた話だとし て、作者がその語り手に扮しなが ら、物語を進行させる趣である。 こだち す
のうし のよ , つに、 ここが不足というところをお持ち合せでいらっ であり、畏れ多いことである。命婦の君が、君の御直衣な しやらなかったのだろうと、そのことをつい恨めしくまで どを、とり集めて持ってきている。 お思いになる。 ニ巴源氏・藤壺の苦悩君はお邸にお帰りになって、泣き寝 語 物君は、申しあげたい万々をどうして申しあげつくすこと藤壺懐妊、宮中に帰参に臥してお暮しになった。宮にさし くらぶ がおできになろうか、夜明けを知らぬ暗部の山に宿りたい あげられたお手紙なども、いつものように、ごらんになろ 源 みじかよ くらいであるけれども、あいにくにも折からの短夜とて、 うとはなさらぬよしのご返事ばかりがあるので、例のこと ばうぜん 願いに反し、かえって嘆かわしさがつのるばかりである。 ながら恨めしくて、ひどく茫然とお思いつめになり、宮中 見てもまたあふよまれなる夢の中にやがてまぎるるわ にもまいらず二、三日引きこもっておいでになると、また が身ともがな どうしたわけなのかと父帝がご心配あそばすにちがいない ( こうしてお逢いすることができてもまたお目にかかれる夜 につけても、ひたすらに犯した罪を恐ろしくお思いになる。 はめったにないのですから、 いっそこの夢の中にこのまま私 宮も、やはりまことに情けない身の上ではあったとお嘆 は消えてしまいとうございます ) きになるにつけても、ひとしおご気分もおわるくなられて、 と、涙にむせかえっていらっしやるご様子も、さすがにひ 宮中からは早く参内なさるようにとのお使いがしきりであ どくいじらしいので、 るけれども、とてもその気にはおなりにならない。はたし てご気分が平素と違っていらっしやるのは、どうしたわけ 世がたりに人や伝へんたぐひなくうき身を醒めぬ夢に なしても かと、心ひそかにお思いあたられることもあったので、情 ( 後々の世までの語りぐさとならないでしようか。この類な けなくて、ただ、これから先どうなることだろうとばかり くつらい私の身を覚めることのない夢の中に消してしまって 思い悩んでいらっしやる。暑いうちはますます起き上がり みつき も ) もなさらない。三月になられると、まことに人目にはっき 思案に乱れていらっしやる宮のご様子もまことにもっとも り分るようになって、お付きの人々がお見受けしてそれと たぐい おそ やしき
「いか」は、「行か「生か」の 更衣「かぎりとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり 掛詞で、私の行きたいのは生きる いとかく思ひたまへましかばと、急も絶えつつ、聞こえまほしげなることは道、の意。生へのはげしい執着を 語 通して、死を絶望的に表現した歌。 物ありげなれど、 いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを「別れ路はこれや限りの旅ならん さらにいくべき心地こそせね」 ( 新 のり 源 御覧じはてむと思しめすに、「今日はじむべき祈疇ども、さるべき人々うけた古今・離別道命法師 ) 。 ニ反実仮想の構文「ましかば : こよひ まし」の後半を略した形。なまじ まはれる、今宵より」と聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせた 帝のご寵愛をいただかなければよ かったろうに、ぐらいを補い読む。 まふ。 三帝は、いっそこのままで、更 六つかひゅ 御胸っとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使の行衣のなりゆきを見届けようと。帝 の、宮中の禁忌をも無視する気持。 よなか きかふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、「夜半うち四病気平癒のための加持祈疇。 母君は、自邸での今宵からの計画 を述べて、更衣の退出を催促する。 過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへな みじかよ 五夏の短夜ながらも、の気持。 、一も くて帰り参りぬ。聞こしめす御心まどひ、何ごとも思しめしわかれず、籠りお六お使者が行って宮中に帰参す るだけの時間もたたないのに。 セ「いぶせさ」は晴しがたい憂鬱。 はしオす・。 ^ 「あへなし」は、不可抗力の事 皇子は、かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどに態に、がつくりカの抜けた気持。 〔五〕無心の若宮、更衣 0 この更衣の死は、女御藤原沢子 の里に退出する さぶらひたまふ例なきことなれば、まかでたまひなむとす。の死去 ( 『続日本後紀』仁明天皇承 和六年六月三十日 ) と酷似する。 何ごとかあらむとも思したらず、さぶらふ人々の泣きまどひ、上も御涙の隙な九服喪のため、宮中を退出する れい い四 九 ひま
73 帚木 りこみつつ、すさまじきをりをり詠みかけたるこそ、ものしきことなれ。返し宅端午の節会。陰暦五月五日。 あやめ 宮中でも民間でも、菖蒲を軒に挿 なき一け せちゑ さっきせち ねあわせ せねば情なし、えせざらむ人ははしたなからむ。さるべき節会など、五月の節す。また宮中で菖蒲の根合を行う ところから、菖蒲の根を縁語とす あした ニ 0 る歌が多く詠まれた。 に急ぎ参る朝、何のあやめも思ひしづめられぬにえならぬ根を引きかけ、九日 一 ^ 「五月の節」の縁で、分別の意 いとま の宴にまづ難き詩の心を思ひめぐらして暇なきをりに、菊の露をかこち寄せなの「あやめ」に「菖蒲」をひびかす。 参内直前の気ぜわしい状態をいう。 のち 一九立派な菖蒲の根にかけて歌を どやうの、つきなき営みにあはせ、さならでも、おのづから、げに、後に思へ 詠みかけてきたり。 ニ四 ちょうよう ば、をかしくもあはれにもあべかりけることの、そのをりにつきなく目にとまニ 0 重陽の節会。陰暦九月九日。 宮中では探韻 ( 韻字をあてられて 詩を作ること ) が行われた。 らぬなどを、おしはからず詠み出でたる、なかなか心おくれて見ゅ。 ニ一民間でも不老を願い、特に女 ニ五 ニ六 たちは菊の露で顔のしわを拭いた よろづの事に、などかはさても、とおばゆるをりから、時々、思ひ分かぬば それによせて嘆老の歌が詠まれた。 ニ七 かりの、いにては、よしばみ情だたざらむなむめやすかるべき。すべて、、いに知一三その折に不相応な詠歌のお付 合いを相手に強いて。 れらむことをも知らず顔にもてなし、言はまほしからむことをも、一つ二つのニ三何もその折に詠まずともと。 ニ四先方が顧みる余裕もない事情 ふしは過ぐすべくなむあべかりける」と言ふにも、君は人ひとりの御ありさまニ五そんなことをしては具合が悪 かろうと思われる場合や時。 うち ニ九 を心の中に思ひつづけたまふ。これに、足らず、また、さし過ぎたることなくニ六見分けがっかない程度の分別 毛気どりや風流ぶりは禁物 夭藤壺。「ひとり」の強調に注意。 ものしたまひけるかなとありがたきにも、 いとど胸ふたがる。 ニ九左馬頭の意見に照らしてみて。 いづ方に寄りはっともなく、はてはてはあやしき事どもになりて明かしたま三 0 明確な結論がなかったとする。 三 0 かた 一セ
きさきばら 后腹の妹宮でいらっしやったので、どちらから見ても、ま るけれども、どこか性に合わぬところがあるようにお感じ ことに結構でいらっしやるが、この源氏の君までが婿君と になり、藤壺のことを幼心の一筋に思いつめて、まったく して加わられたのだから、東宮の御祖父で、将来は天下の胸の痛くなるくらいに悩んでいらっしやるのであった。 語 物政治をおとりになるはずの右大臣のご威勢は、ものの数で 元服なさってから後は、帝も今までのように君を御簾の かんげん もなくけおされておしまいになった。左大臣は、たくさん中にもお入れにならないので、管絃の催しのある折などに、 源 のお子たちを腹々にもうけていらっしやる。姫君と同じ母藤壺の琴に合せて笛を吹いてお聞かせしては互いに心を通 なか くろうどの。しトっしよう 宮のお腹のお子は、蔵人少将で、いかにも若く美しい方わせ、かすかに漏れてくる宮のお声を慰めとして、宮中で なので、右大臣は、左大臣家とのお仲はあまりよくないけのお暮しばかりを好ましく思っていらっしやる。五、六日 れども、お見過しになれず、大事にお育ての四の君の婿と宮中にお勤めになって、左大臣家には二、三日というよう してお迎えになられたのだが、こちらで源氏の君をたいせ に、とぎれとぎれにご退出になるけれども、今は幼いお年 とが つにしておられるのに劣らず、この君を丁重におもてなし ごろだから咎めだてするほどのこともないと左大臣はお考 む・一しゅよノレ」 しているのは、それそれに申し分のない婿舅のお間柄で えになって、手を尽して丁重にお世話申しあげておられる。 はある。 君と姫君のそれそれにお仕えする女房たちは、並々ならぬ え ニを源氏、一途に藤壺源氏の君は、帝がいつもお召しにな者ばかりを選りすぐってお仕えさせなさる。君のお気に入 ねんご の宮を恋慕する ってはおそばをお離しにならないの るような催しをして、懇ろにいたわっておられる。 みやすどころ で、気楽に里住みをなさることもおできにならない。その 宮中では、もとの淑景舎をお部屋にあてて、母御息所に ふじつば 心の中では、ただ藤壺の御有様をこの世に唯一のお方とお お仕えしていた女房たちを、散り散りにならぬよう引き続 やしきすりしきたく 思い申しあげて、このようなお方をこそ妻にしたいものだ、 いて君にお仕えさせなさる。御息所の里の邸は修理職や内 みづかさ またとなくすぐれていらっしやることよ、左大臣家の姫君匠寮に帝からの仰せが下って、またとないくらいにすばら は、たいせつに育てられた、いかにも美しい人とは思われしく改造をさせなさる。以前からの立木や築山の配置など つきやま
紫式部の出生年度について、確実な証拠というべきものはないが、私はそれを天禄元年 ( 九七 0 ) と推定し ている。それは、寛弘七年 ( 一 0 一 0 ) の日記の中に、「年もはたよきほどになりもてまかる。いたうこれより 老いほれて、はた目暗うて経よまず、心もいとどたゆさまさりはべらんものを」と書いているが、老眼が現 れるのは、現在医学界の定説として、一般に平均四十五歳とされており、平安時代で、室内生活にとじこも りがちだった女性ということや、また、この文章では、まだ老眼に入ったわけではなく、それの発現の可能 きぐ 性を目前にした人の危惧の述懐ということなどを加え、そのほかの老いの意識の見える記事も合せて、今年 満四十歳かと見たのである。それに対して、岡一男氏は九七三年出生説、また旧来は九七八年出生説などが 一般であった。しかし、九七八年説は安藤為章の説を誤解したもので、明らかに誤りであり、岡氏の説と私 の説との三年の差をめぐって、なお論議を重ねるというのが学界の大勢と考えられる。以下は、いちおう私 の九七〇年出生を基準にして話を進めてゆく。 紫式部の幼少年期にもっとも重大なことは、先述のように、母親が物心のつく前に亡くなって、母なし子 として育ったことである。父の為時は、そのいとしさもあったのであろう、ちょうど式部の少女期十年間ほ ひま どは、為時もいわば失職時代で閑もあり、子女の教育に心を注いだらしい。式部は、そのころの思い出を日 己こ、「父は童の准規に本を読ませたが、なかなか覚えられず、傍で聞いていた私のほうがふしぎなほどよ 説旨ロ く覚えるので、この子が男だったらよかったのに、といつも嘆いていた」と述べている。 解 なお、この父為時の失職云々というのは、前述のように、為時は、花山天皇即位とともに天皇の伯父にあ たる義懐が政権を握ると、そのってによってはなやかな式部丞の職に就いた。しかし、花山天皇の在位はわ ずか二年余りで、寛和二年 ( 九会 ) 六月天皇は宮中を夜中にぬけ出すという劇的事件が起ってにわかに退位 もの′」ころ
『手を折りてあひみしことを数ふればこれひとつやは のだが』などと、我ながらうまく訓戒したものだと思いま 君がうきふし して、調子にのって存分に言いますと、女は薄笑いをして、 ( 指を折って連れ添ってきた間にあったことを数えてみると、 『これまで、どこから見てもみすばらしく、うだつのあが しんばう あなたの悪い癖はこれ一つだけなものか ) らない今の有様を辛抱してきて、いずれ人並に出世する時 期もあろうかと待っことにかけては、それがいつになろう人を恨めた義理じゃあるまい』などと言いましたところ、 あせ さすがに泣きだして、 とて別に焦るつもりもないのですから、苦にもなりません。 うきふしを心ひとつに数へきてこや君が手を別るべき けれど、あなたの薄情な心をがまんして、それが直ってく をり れる折もいっかは来ようかと、あてにならないことを頼み ( いやなところを胸一つに収めていつもがまんしてきました に年月を重ねていくのは、ほんとにつらくてならないでし が、今度という今度こそあなたとお別れしなければならない ようから、この機会に、お互いにれるほうがいいのでし ときです ) よ , つよ』と、 いまいましげに一一 = ロ , つものですから、こちらも などと、言い合いましたが、じつのところ、別れようとも かっとなって、憎まれ口をさかんにたたきましたところ、 女も黙ってはいられぬ性分で、私の指を一本引き寄せて噛思っておりませんでしたものの、しかし幾日もの間便りも じようがく みつきましたので、大げさに文句をつけて、『こんな傷まやらず、あちこち浮かれ歩いているうち、臨時の祭の調楽 みぞれ でつけられてしまったからには、、 しよいよもって勤めにも で夜も更けて、ひどく霙の降る夜、同僚の誰彼とそれぞれ 出られなくなった。そなたがばかになさるらしいわたしの に宮中を退出して別れる所で、思いめぐらしてみますと、 やはり家路と頼む行く先は、この女のところ以外にはない 官位も、これではますますどうやって人並になれますか 出家してしまうよりほかに道がなかろう』などとおどしをのでした。宮中に泊るのも興のないことだろうし、また気 どり屋の女の所などうすら寒いことだろうし、と思われま 言って、『それでは今日という今日がいよいよお別れらし いな』と、この指を曲げたまま引きあげてきました。 したので、女がどう思っているかと、様子も見がてら、雪
427 巻末評論 では、その時代設定の具体的な内容はどうか。宣長は、前述のように、その無意味さを強調したのである が、もちろん一概にそういっては済ませないことである。以下該当する具体例を挙げていけばかなりある。 うだのみかど ていじのいん 桐壺帝は、更衣の死後「亭子院」 ( 宇多天皇 ) の描いた長恨歌絵を眺めて暮した。また彼は「宇多帝ーの戒 、」まうど えんぎのみかど めによって、高麗人を宮中に召すことを止めた。また朱雀院は「延喜帝」 ( 醍醐天皇 ) が説明書きを加えた絵 さき うめがえ きんただ 巻に自身で当代の出来事を書かせた。梅枝の巻には、源公忠が朱雀帝に奉った「前の朱雀院」愛用の香のこ げんちゅうさいひしよう とがあり、これは『原中最秘抄』によれば、天慶六年 ( 九四三 ) 二月二十一日の史実で、史上「前の朱雀院」 の呼称があるのは、延長八年 ( 九三 0 ) に崩じた宇多上皇だけとは、石田穣二氏の説である。これも、朱雀院 ちえだつねのり すま 即朱雀天皇の有力資料である。また、須磨の巻に「このごろの上手にすめる千枝・常則などを召して、作り てんりやくぎよき 絵仕うまつらせばや」とあるが、この二人の絵師の名は、『天暦御記』応和四年 ( 九六四 ) 四月九日条に見える 実在の人物である。また書には「道風」がある。小野道風は康保元年 ( 九六四 ) 没、七十歳だから、これも問 、ずれも、延喜・天暦准拠説を支えるものといえる。 題まよ、 もっとも、明石の巻に、明石の入道が、琵琶の手は「なにがし、延喜の御手より弾き伝へたること三代に そう なん」云々と言うが、この「三代」につき『河海抄』などは、箏相承の系譜を掲げなどして、説明に大汗を かいている。しかし、これなどはもともと紫式部にそこまで細かい年代的計算や系譜の観念があったかどう か疑わしいだろう。 こういう材料を並べてみると、大まかにいって、桐壺帝は実在の宇多天皇の子で醍醐天皇、朱雀院はその 子の朱雀天皇のことと察せられよう。しかし、だからといって、この該当度がそれぞれの人物造型の何バ セントを支配しているか、と尋ねればまた問題は別である。桐壺帝の言動の一つ一つについて醍醐天皇のそ びわ