引歌一覧 : 各巻の系図 : 官位相当表・・ 図録 : ロ絵目次 源氏物語図扇面 / 桐壺・空蝉 : ・ 源氏物語若紫図屏風 : ・ 源氏物語タ顔図色紙 : ・ 〈装丁〉中野博之 ・ : 四三七 ・ : 四五四 ・ : 四五八
《著者紹介 の中心として活躍されている。 阿部秋生 ( あべあきお ) 鈴木日出男 ( すずきひでお ) 明治四十年、福岡県生れ。昭和十一年、東京大学卒。平昭和十三年、青森県生れ。昭和四十六年、東京大学大学 安文学専攻。現在、東京大学名誉教授・実践女子大学教院卒。古代文学専攻。現在、成城大学教授。「古代和歌 授。主著に『書紀集解首巻』『源氏物語研究序説』『国文 における心物対応構造」「古今的表現の形式」「浮舟物語 学史概説・中古篇』『源氏物語』 ( 全六巻共著 ) など。 試論」「光源氏の須磨流謫」など論文多数。万葉集から 学問の市民公開にも熱心にとり組まれ、その温い講義に 源氏物語まで、古代文学を対象に研究されている。 は定評がある。 秋山虔 ( あきやまけん ) 編集室より 大正十三年、岡山県生れ。昭和二十二年、東京大学卒。☆第二回配本『源氏物語一』をお届けいたします。平安文 平安文学専攻。現在、東京大学教授。主著に『紫式部日学研究の中に「源氏学」といわれるジャンルがあるくらい 記』『源氏物語の世界』『王朝女流文学の世界』『源氏物多くの学者により研究されている源氏は、汲めども尽きぬ 語』 ( 全六巻共著 ) 『更級日記』など。多くの全集・シ泉のように読みこむほどに新鮮な感動を与えてくれます。 丿ーズの監修・編集に携るとともに、平安文学界の中心☆次回 ( 五十八年二月 ) 配本は『竹取物語・伊勢物語・土 となって活躍されている。 佐日記』 ( 片桐洋一・福井貞助・松村誠一校注・訳・定価 今井源衛 ( いまいげんえ ) 千七百円 ) です。 大正八年、三重県生れ。昭和二十二年、東京大学卒。現紫式部が「物語の出で来はじめの親」 ( 『源氏物語』絵合 在、九州大学名誉教授・梅光女学院大学教授。主著に巻 ) と評した竹取、愛と信実を貫く男の生涯を和歌を中心 『源氏物語の研究』『紫式部』『花山院の生涯』『王朝文学とした短編で綴った伊勢、貫之が女に仮託して「男もすな の研究』『源氏物語』 ( 全六巻共著 ) 『紫林照径』など。 る日記といふものを・ : 」の書出しで、あまりにも有名な土 幅広く平安文学を研究されるとともに、西日本国文学会佐、の三作品を収めました。
どうじよう て、連歌師が堂上に進出、前記のような正統的学者と伍して注釈作業に携ることができるようになったとも いえるだろう。 しつけ 語第三の教訓書というのは、中世には、いわゆる女訓物といわれる女子教訓の躾の書がかなり出ている。 ちくばしよう 物めのと 氏『乳母の文』 ( 阿仏尼著 ) をはじめとして、『めのとのさうし』『身のかたみ』『竹馬抄』などがそれで、たとえ きのないし 源ば阿仏尼は、娘の紀内侍によくよく『源氏物語』を読むことを勧めて、定家の『奥入』や「目録」まで添え て贈っており、また末摘花のようにひっこみ思案ではいけないとか、明石の君の例を引いて、気位を高く持 てほしい、などと戒めている。また、ほかの本では、嫉妬は女として大切なことの一つだが、紫の上の優 雅なさまを見習えと、詳しくその文例まで挙げて戒めたり、浮舟や女三の宮が間違いを犯したのは侍女の右 近や小侍従がいけなかったためだから召使にはよくよく気をつけよ、などというのである。『身のかたみ』 は兼良の作といわれているが、その一節に「この物語を御覧じても、女房の進退、御立居に御心掛け候べく 候などといって、『源氏物語』が女子教育書として最上のものと考えていたことがよく分るのである。 力いいーれ もちろん、一方では、中世を通じて、『源氏物語』は誨淫の書、つまりみだらなことを唆す書物とされて、 そのために紫式部は地獄に堕ちた、という俗信も強く、それを救い出そうというので、『源氏物語供養表白』 こ共える表白文まで作られてもいるので、この両者の矛盾は著しい ( 聖覚作 ) という仏前しイ しかし、そういう相互に矛盾だらけの、多様な受け取り方があり得たことこそ、この物語の強くしたたか な生命を物語るものともいえる。特定の視野や固定観念から解釈されて、そのままつぶれてしまうには、あ まりにも『源氏物語』の世界は豊かでありすぎたのである。 近世に入って、幕藩体制の強化とともに朱子学による倫理統制が文化・芸術にも及ぶや、『源氏物語』に あぶつに お そそのか
は、明治以前『源氏物語』に対する伝統的な評価の核心をなしていたのである。 しかし明治以降、西洋の文学理論やその実体が紹介されるにつれて、それとは異なった見解が現れるよう になる。森鵐外は暗に源氏の文章に対する反感を表明したかにいわれているし、正宗白鳥は、英文に訳され たものを読んではじめてこの物語に興味を感じたという。現代の作家や批評家にも、『源氏物語』とは無縁 ひょうばう の存在であることを自ら標榜する人も少なくはないらしいし、積極的に嫌いだという人もある。 ふめいせき あいまい その理由もまちまちだろうが、主としては、その文章が不明晰、あるいは曖昧だという点にあるらしい もうろうたい そして、朦朧体とか朧写とか、概して悪意による評が加えられるのである。 近代市民社会の産物である西洋的散文は、対象に即した明晰な客観的あるいは分析的な記述を旨とするも のであり、それに比べると、『源氏物語』の文章は、対象をとらえるにあたって、表現主体と客体とをきび しく分っことがなく、むしろ主・客を主情的に包摂し全体としてのムードをゆたかに再現することに主眼が あるものが多い。それが、西洋風の乾燥した散文に比べて、曖昧・不明晰なものと感じられるのである。そ れに加えて、複雑な補助用言を多用する敬語表現が、対象自体の伝達にヴェールを覆う、今日としては好ま しくない身分社会の遺風かのように受け取るむきもあろう。批評する側の主観や価値判断もともなって、こ きよほうへん の毀誉褒貶の本質は簡単なものではない。 説 しかし、我々は、そうした性急な評価を下す前に、『源氏物語』の文章そのものがはたしてどういう性格 解のものかを、落ち着いて観察する必要があるだろう。 問題のいとぐちは、まず『源氏物語』の文章がはたして散文か否か、ということであろう。もしそうなら 。いかなる散文なのか。
にひたりきっているわけだが、 それこそ読者のいつの時代にも変らぬ姿であり、『源氏物語』はそうした女 性を主柱として支えられてきたことを思わせるのである。 そのほかのものも基本は大体同じであるが、『十番の物あらそひ』などは、『源氏物語』に託して、女性の 自由な恋愛の夢想を極限にまで拡大しようとするような趣さえ見えていて、この物語が、男性へのきびしい 隷属を強いられた当時の女性たちにとって、心の救いであり得たことを物語っている。 第二の梗概本というのは、鎌倉期以降、貴族社会の崩壊と、社会・文化の変容にともなって、人々は長大 な『源氏物語』全編を読み通すことが困難となっていった。また一方には、鎌倉初期歌人の教養として『源 氏物語』が必読書とされていたことは先述したが、新しい文芸様式である連歌の付合にもそれは必須の知識 であったから、『源氏物語』の梗概のみを記したもの、ただし和歌だけは全部を収載したものが広く求めら れるようになったのである。こうした中世の梗概本は「源氏一部歌」「源氏大鏡」「源氏大綱抄」などといっ たさまざまの名称で数多く残されている。これは前記の学者の仕事ではないから、南北朝末ごろまでのもの は多くは別本系統の本文を用いているのである。 その中、特に連歌の付合の参考書として用いられたものに『源氏小鏡』が広く流布している。これは、た とえば、「松風」と前句に出たら、「桂の里」とか「大井の里」とか「琴の音」とか付けよ、というわけで、 すべて松風の巻の材料を用いるわけである。祐徳神社蔵の『源氏之物語次第』 ( 『源氏小鏡』 ) の奥書に「是は 解宗牧袖中出ざる書を以うっし置也」とあるが、宗牧のみならず連歌の会衆は、おそらくこの種の冊子をひそ ふところ かに懐にしのばせて席にのそんだことも多かったであろう。『源氏物語』が地下以下の人々の間に広く親し まれてゆく過程には、このことが特に大きな力を持っていたのである。またこうした人々の層が基盤となっ
源氏物語一 源氏物語一 完訳 14 小学館 ~ ~ 日本の古典Ⅱ 発刊記今 特別定指 1 350 円昭和 58 年 3 月末まで ) 定価 1 , 700 円 工 SBN4-09-556014 ー 2 C1393 \ 1700E
最後に、現代における『源氏物語』の研究・享受について、簡単に触れておく。 説 明治以降一世紀あまり、我が国は閉鎖された封建国家から西欧的な近代国家に変貌するため、ただひたす 解ら脇目もふらずに歩み続けてきたのであり、いわゆる後進国の常として、その間に伝統的文化や習俗の多く ・一ら′む は破壊あるいは修正を蒙るほかなかった。日本が経済大国と呼ばれる今日においても、この情況は基本的に は変っていない くまぎわばんぎん ついても、一方では女子供に有害としてしりぞけながら、一方ではまた熊沢蕃山 ( 一六一九 ~ 一六九 D のように、 からにしき 王朝礼楽の書としてもてはやす人も現れる。また、蕃山と同年代の、前にも触れた成瀬維佐子の『唐綿』は、 中世女訓書の集大成ともいえるものであるが、ここでも「正しき学びを知らぬ女などの、心をそめつべきこ とには非ずなん」と、子女には無益であると断じながら、一方では、『史記』に劣らぬ名文だと激賞して、 しばしば『源氏物語』を引用しているのである。 旧大名家などには今日もなお多量の『源氏物語』写本が蔵されており、その多くは、いわゆる「嫁入本」 と呼ばれる華麗な装釘のものが多い。これは奥方たちが嫁入道具の一つとして持参したものなのである。そ の習慣の起りは、おそらくこうした子女の躾の書としてであったであろう。 しかけんろしゅう またこうした類の変種として、室町時代に成った『詞花懸露集』のような恋文範例集にも『源氏物語』の 用語が頻用され、この物語にはそういう点での実用性もあった。女子教育には当然そうした面も含まれるか らである。 しつけ
409 解説 本文が以上のようにして伝わってゆく一方では、それに対する享受、あるいはさらに進んで研究の仕事が 起るのは当然である。数多い古典作品の中でも、『源氏物語』はその研究・注釈、あるいは評論・享受関係 そうへき の資料が多い点で、『伊勢物語』と双璧であり、断然他を引き離している。それは、この物語が書かれた当 み↑カら、 いかに人々から愛好され、その興味と関心とをかき立てたかの証拠である。 すがわらのたかすえのむすめ 一条天皇や公任のことはすでに述べたが、『更級日記』の作者菅原孝標女が、少女のころ常陸から都へ 上って、叔母から櫃に入った『源氏物語』一揃いをもらい日夜読みふけったのは、彼女の言うところでは、 ためのぶしゅう また『為信集』 治安元年 (IOIII) というから、『源氏物語』が完成してからまだ十年しかたってはいない。 という歌集は、どうやら寛弘六年 ( 一 00 九 ) ~ 八年の間の成立と思われるが、それには『源氏物語』に現れる おもしろい記事、たとえば帚木の巻「雨夜の品定め」の「ひる食い」の女の話そのほか十数条を借用して、 とうろくしゅう 贈答歌のようなものを作り上げて楽しんでいる。『藤六集』という私家集にも、「子烏」という題で、「とむ れども色はこからす見ゆるかな若紫にあればなるべし」という物名歌が見える。『源氏物語』若紫の巻北山 からす の条に、逃げた雀の子を案じて、女房が「烏などもこそ見つくれーと言うのをうまく「濃からず」にかけて 使ったのであろう。『藤六集』は、ちょうどこのころ平安中期の成立といわれている。 きょすけしゅんぜい 以来、平安末期になれば、定型化した歌題「寄源氏恋」が生れ、清輔・俊成そのほか多勢の人が、その歌 を読み、歌林苑などは、そうした風潮の中心をなしていたらしく、源氏の巻名を歌にとり入れたものも多い よしつね そういう中で、藤原俊成の「源氏見ざる歌よみは遺恨の事なりー ( 『六百番歌合』の判詞 ) とか、良経の「紫式 ひっ
一あらすじ 『源氏物語』は、今日もはや日本人だけの古典ではない。それは広く世界の古典であり、不滅の人類の財宝 である。 しかし、『源氏物語』がそのような高い評価を受けている理由は、たとえば古代人の遺跡を前にした時の ように、それを知識として人から教えられるからではない。それはひたすら具体的な各個人個人の体験その ものに属することである。人々はめいめい自分で文字を追い、または声をあげて読み、あるいは聴き取るこ とによって、しだいに物語の世界に進み入り、その内容のおもしろさや微妙な味わい、複雑な彩りに魅了さ れつっその間に物語の世界を追体験する、それが、この物語の作品としての存在を支える唯一の行為なので 説 ある。すべての議論の前に、物語の世界を我が手につかみ取り、胸にしまいこむことが、『源氏物語』を知 みち 解るただ一つの途である。 その意味で、解説に先立って、物語のごくあらましをかいつまんで紹介することにしよう。全編を三部立 てと考えるのが今日の通説なので、それに従って述べる。 刀牛兇 一三ロ
の発条となったものは、生命の危機にさらされた孤独な中年女性が、積極的に生きようと我が境遇を逆手に とって居直ったところに求められよう。 こうして生れた『源氏物語』の主人公光源氏が、前述のように、女心の喜びを彼とともに仮構の世界で生 きることに見いだした理想の男性であり、女の憧れの的であったことは、当然であった。 宣孝の死後数か月を経て、『源氏物語』はこうして書き始められた。その内容について、第一部が、いわ ば女の憧れの世界、皇室圏の雲上絵巻といわれるのも、また自然の成行きといえる。 2 宮仕え以後 こうして『源氏物語』を書き始めてから四年たち、寛弘二年 ( 一 00 五 ) 十二月二十九日に、式部は一条天皇 し・ようし 中宮の道長女彰子のもとに出仕することとなった。もっともこれには、翌三年の年末説、翌々四年の年末説 っちみかど など異説もある。寛弘二年十二月ならば、彰子は直前十一月の内裏の火災で、天皇とともに道長の土御門邸 うつ ( 上東門邸とも ) に遷っていた。この出仕は、『源氏物語』を書き始めて数年、その間にその評判が高くなっ て、その作者を道長が彰子の女房として召し出したものと思われる。それには年若い彰子の家庭教師のよう 説な役割も期待されたらしい。当時宮仕え女房として出仕することは、必ずしも名誉なことではなく、ことに 上流貴族ではこれを父祖の名を汚すものとする考えが強かった。式部も、中流貴族の家庭ではあるが、やは 解り気乗りはしなかったらしいが、道長の要望とあれば従うほかなかっただろう。 しかし、こうして出仕してみると、はじめて見る宮廷のきらびやかさには目を驚かされたけれど、その心 の中には一方でいつまでも憂愁の思いが消えず、とまどうのであった。こうして、はなやかで社交的な宮廷 ばね