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検索対象: 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記
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1. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

発言をするという書き方になっているということなのである。前述した古い素材を新しく語り直すという、 現『竹取物語』にふさわしい書き方と言うべきであろう。 にせもの ところで、 O の石作の皇子は「三年ばかり」の後、偽物を持ってかぐや姫の前に現れたとある ( 一七ハ -) 。 さをととしきさ、りギ ) また、圓のくらもちの皇子も、「一昨々年の二月の十日ごろに」船出し ( 二一ハー ) 、玉の枝の製作を命ぜられ もうしぶみ たあやべの内麻呂の申文にも「千余日を」費したとある ( 二三ハ -) 。、国、肉の話には何年を要したか明記 されていないが、 O 、圓から見て、三年の枠の中に入るとしてよかろう。 O から肉までの求婚譚は、すべて 「三年」という一つの枠の中に入ってしまうのである。 なぐさ みこころ いつばう、①のかぐや姫昇天の前に、「かやうにて、御心をたがひに慰めたまふほどに、三年ばかりあり て」 ( 四六ハー ) とある。この話は、だから次の「三年」の枠の中に入るのである。 求婚譚、昇天譚が、それそれ「三年」という枠の中に構成されているのに対し、のかぐや姫生育譚はい をのこ かがであろうか。三か月ほどで成人となって裳着をする異常な生育ぶりであっても、「世界の男、あてなるも、 賤しきも」こそってかぐや姫を求めたわけだが、多くの人はしだいに断念していったという過程を考えてみ ると ( それほどすばらしい姫を簡単に断念したというのでは話にならぬから ) 、やはり三年ぐらいが必要なのではな ハ -) 、「三月 説いか。ちなみに、この部分、竹の中から見出された姫が「三寸ばかり」であったと記され ( 一一 ばかりになるほどに」成人になったとし ( 一二ハー ) 、成人式のとき「三日、うちあげ遊」んだ ( 一二ハー ) とあ 解るから、全体的に「三」という数字が基盤になっていて、この部分の枠が、やはり三年を内包すると考えて よいのではないか。このように見てくるならば、現『竹取物語』の構成は、「 C かぐや姫生育譚ⅱ三年」、 「Ü国肉の求婚譚ⅱ三年」、「②帝の求婚とかぐや姫の昇天Ⅱ三年」ということになる。この枠組みをこ たん

2. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

竹取物語 98 きな論拠は、、 なのである。 三成立年代と作者 現在の『竹取物語』に先行して求婚者三人の『竹取』があったであろうことは以上のごとくであり、さら にその前に数々の民間伝承があったであろうことも容易に想像できるのであるが、現在の『竹取物語』自体 の成立は意外に新しい をぐら しらやま をぐら たとえば、地名の「小倉の山」と「小暗し」を掛け、「白山に「白し」を掛ける歌枕表現 ( 一七 ~ 一八ハー ) が一般的になったのは、八五〇年前後の六歌仙時代より後であるというように、『竹取物語』の和歌表現は えあわせ 九世紀後半以降のそれを思わせる。また『源氏物語』絵合の巻にいう紀貫之筆の「竹取物語絵巻」はおそら く二番煎じ、三番煎じではなく第一次的なものとして書かれているであろうから、紀貫之が活躍した西暦九 〇〇年前後にこの物語が成立したと紫式部が理解していたと見てよかろう。ちなみに、この見解は、①大伴 おうてんもん の大納言の扱いから見て、応天門の変で大伴氏が権力を失った貞観八年 ( 八六六 ) 以後の作、②かぐや姫昇天 くろうどどころ とうのちゅうじよう の部分に「頭中将」 ( 蔵人の頭を兼任する近衛中将 ) とあることから蔵人所の置かれた弘仁元年 ( 八一 0 ) 以後の まきえ 作、③大伴の大納言の話に見える「蒔絵」は延喜 ( 九 (1) ごろからとくに流行したものであるから、それ以 後の作、というような在来の説によっても、さらに補強されるのである。 いんべ なお、この物語の作者についても多くの説がある。忌部 ( 荒井義雄氏、『国学院雑誌』昭和十九年四月号 ) や漆 しうまでもなく現在の『竹取』が求婚者三人の『今昔竹取』を母胎にして成立したということ うるし

3. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

みやづか むかし、男、かたゐなかにすみけり。男、宮仕へしにとて、別れ惜しみてゆ一「かた」は接頭語で、片よった、 の意。京を離れた辺地の田舎。 みとせこ ニ宮廷あるいは貴人に仕えるた しとねむごろにい きにけるままに、三年来ざりければ、待ちわびたりけるに、、 めに、京に行ったのである。 語 物ひける人に、「今宵あはむ」とちぎりたりけるに、この男来たりけり。「この戸三夫が消息不明で三年もたてば、 勢 他に嫁してもかまわない法令・習 慣があった。『令』戸令による。 伊あけたまへ」とたたきけれど、あけで、歌をなむよみていだしたりける。 四男女が夫婦として交わること。 五「あらたま」は、年に掛かる枕 あらたまのとしの三年を待ちわびてただ今宵こそ新枕すれ 詞。初めて夫婦が「新枕」を交す。 あずさ まゆみ 六「あづさ弓」は梓、「ま弓」は檀、 といひいだしたりければ、 つき 「つき弓」は槻の木で作った弓。弓 ゆみ は月を連想させるゆえ、「つき弓」 あづさ弓ま弓つき弓年を経てわがせしがごとうるはしみせよ から「年」を導き初一一句は序詞とな かぐらうた る。他に神楽歌「弓といへば品な といひて、いなむとしければ、女、 きものを梓弓ま弓槻弓品こそある らしを本歌とし、品々憂きこと あづさ弓引けど引かねどむかしより、いは君によりにしものを があった年を経て、の説、男の持 といひけれど、男かへりにけり。女いとかなしくて、しりにたちておひゆけど、物の弓を女にたとえる説がある。 七『万葉集』一一九会、『古今六帖』第 しみづ えおひっかで、清水のある所にふしにけり。そこなりける岩に、およびの血し五に類歌がある。「あづさ弓」は引 く ( 女の心を引く ) に掛かる枕詞。 「よる」は、本末が寄るので「弓」の て書きつけける。 か 八水を飲もうとしたのであろう。 あひ思はで離れぬる人をとどめかねわが身は今ぞ消えはてぬめる 九指から出た血でもって。 一 0 お互いに思い合わないで。思 と書きて、そこにいたづらになりにけり。 こよひ四 へ きみ にひまくら 九 1 一 1 ロ

4. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

219 伊勢物語 やって、 めて求婚してきた人に、「今夜逢いましよう」と結婚の約 君があたり見つつを居らむ生駒山雲なかくしそ雨はふ束を交した、そこへこの男が帰ってきた。男は、「この戸 るとも をあけてください」とたたいたが、女はあけないで、歌を ( あなたのいらっしやるあたりを望み見ていましよう。雲よ、詠んで男に差し出したのだった。 にひまくら 大和との間の生駒山を、隠してくれませんように、たとい雨 あらたまのとしの三年を待ちわびてただ今宵こそ新枕 は降っても ) すれ なが と歌を詠んで眺めていると、ようやく大和の国の男は、 ( 三年もの間待ちくたびれて、私はちょうど今夜、新枕を交 すのです ) 「来よう」と言ってきた。女は喜んで待つけれど、予告ば かりで、たびたびぬか喜びだったので、 と詠んで差し出したところ、 たの ゆみ 君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひ あづさ弓ま弓つき弓年を経てわがせしがごとうるはし ふ つっそ経る みせよ ( あなたが来ようとおっしやったその夜がくるごとに、お待 ( 年月を重ねて、私があなたを愛したように、新しい夫に親 ちしますが、いつもむなしく過ぎてしまいますので、あてに しんでくださいよ ) はせぬものの、恋しい思いで月日を過します ) と男は詠んで、立ち去ろうとしたので、女は、 かよ と歌を詠んだが、男は通ってこなくなってしまった。 あづさ弓引けど引かねどむかしより心は君によりにし ものを 二十四梓弓 ( あなたのお心はどうであっても、私の心は昔からあなたに かたいなか お寄せしておりましたのに ) 昔、男が、片田舎に住んでいた。男は、宮中勤めをしに 行くと言って、女と別れを惜しんで出かけたまま、三年帰と詠んだが、男は帰ってしまった。女はひどく悲しく思い、 しみずわ ってこなかったので、女は待ちくたびれて、とても心をこ あとから追っていったが、追いつけず、清水が湧いている いこまやま へ きみ

5. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

一初句、心にかける意をこめる。 歌をよみて、書きつけておこせたり。 第二句、言ったそのままにも。 「なくに」↓一一七ハー注一一一。「秋」に 秋かけていひしながらもあらなくに木の葉ふりしくえにこそありけれ 「飽き」、「えには「江に」と「縁」と 語 物と書きおきて、「かしこより人おこせば、これをやれ」とていぬ。さてやがてを掛けている。「えに」↓一六三ハー 勢 注一四。 伊のち、つひに今日までしらず。よくてやあらむ、あしくてやあらむ、いにし所 = 男の所をいう。 三「天の逆手」は『古事記』上に大 あまさかて 四 くにめしのかみ ことしろめしのかみ もしらず。かの男は、天の逆手を打ちてなむのろひをるなる。むくつけきこと。国主神の子の事代主神が「天の逆 あをふしがき 手を青柴垣に打ち成し」たとある が、その打ち方は不明。普通の拍 人ののろひごとは、おふものにゃあらむ、おはぬものにゃあらむ。「いまこそ まじな 手とは異なる、呪いの打ち方か。 四この「なり」は伝聞推定の意。 は見め」とそいふなる。 本段末尾の「なる」も同じ。 五藤原基経。↓一一一一ハー注一五。 「おほいまうちぎみ」は大臣。 九十七四十の賀 六四十歳の祝賀。以後十年ごと に祝う。基経四十歳の年は貞観十 ほめ・ . かは しじふが七 むかし、堀河のおほいまうちぎみと申す、いまそがりけり。四十の賀、九条七年 ( 八七五 ) 。 セ京の九条に別邸があったか。 ^ 貞観十七年には業平五十一歳。 の家にてせられける日、中将なりけるおきな、 『三代実録』にはこの年の正月、右 九 ち くもお 近衛権中将に任ぜられたとあるが、 桜花散りかひ曇れ老いらくの来むといふなる道まがふがに 誤りらしい。『実録』元慶四年の記 事に元慶元年 ( 八耄 ) に任ぜられた とあるが、基経四十賀の一一年後。 九十八梅の造り枝 九『古今集』賀に、基経四十賀に おお

6. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

わさないかぎり、たとえば求婚譚が三年という枠からはみ出さないかぎり、求婚者が三人から五人になって も、物語の構成には変りがないのである。加えて言えば、求婚者相互の交渉がまったくないのもおかしい 語自分が難題を成就するか否かということと同時に、他の四人がどうしているかということが気になるはずだ 取が、その点はまったく記さない。やはり初期の物語であるというほかはないのである。 五方法と文学性 『竹取物語』は、このように「けり」を用いる語り手の文章によって、昔から伝わってきた話をそのままに 伝えようとするポーズをとっているのだが、早く田中大秀が指摘した実在人物の名前の利用も、このような 立場からとらえるべきであろう。 あべのみうし おおとものみゆき すなわち、現『竹取物語』の求婚者のうち、右大臣阿倍御主人と大納言大伴御行が天武・持統両朝の実在 ーしよくにほんギ一 つばくらめこやすがい いそのかみのまろたり 人物として『日本書紀』『続日本紀』に活躍し、燕の子安貝を求めた中納言石上麿足も、前二者と同時代 一そのかみのまろ に石上麿という人物がおり、中納言、大納言を経て大宝四年 ( 七 0 四 ) に右大臣、さらに慶雲四年 ( 七 0 七 ) には 左大臣になっている。この物語では、皇子二人につづいて右大臣・大納言と求婚者が並べられているので、 中納言とし、名前のほうも少し変えたのであろう。いずれにしても、『日本書紀』『続日本紀』をよく読んで いた男性知識人の作者が、『日本書紀』の末尾と『続日本紀』の冒頭に活躍する三人の貴人の名を利用して 内枠を作り、過去に実際にあった話をそのままに伝承したという形にしたのである。 『竹取物語』の文学性は、天上の無限性と地上の有限性を前提とした「人の世のはかなさ」「愛のはかなさ」

7. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

2 年譜 文徳 清和 貞観元八五九 ( 2 ・幻 ) 〇一月七日、従五位下 ( 続後紀・古目 ) 。〈一段 ( 初冠叙爵説 ) 〉三月二十六日、興福寺の僧、仁明天 三月一一十五日、惟仁親王 ( 清和 ) 誕生。 皇宝算四十を賀し大長歌を奉る。 三月二十一日、仁明天皇崩。四十一歳。 三月一一十八日、良岑宗貞 ( 遍照 ) 出 家。 四月十七日、文徳天皇即位。 七月、多賀幾子女御となる。 十一月二十五日、惟仁親王 ( 清和 ) 立太子。 仁寿三八五三 二月三十日、藤原良房邸に行幸。 天安元八五七芻二月十九日、良房太政大臣。〈九十八段↓〉 二八五八八月二十七日、文徳天皇崩。三十二歳。 十一月七日、清和天皇即位。同日、良房摂政。 十一月十四日、女御多賀幾子卒。〈七十七・七十八段↓〉 五月七日、人康親王出家。 十月五日、恬子内親王伊勢斎宮にト定。十四歳。〈六十九段 一一月一一十五日、五条后 ( 順子 ) 大原野行啓。 九月十九日、伊都内親王薨。〈↑八十四段〉 四八六一一〇三月七日、従五位上 ( 三実ー「授正六位上在原朝臣業平従五 位上」とあるが、正六位上は誤りであろう ) 。 七月、真如 ( 高丘 ) 親王入唐。 〇二月十日、左兵衛権佐 ( 三実 ) ( 古目ー四年四月 ) ( 歌仙伝ー 五年一一月左兵衛佐 ) 。〈八十七段↓〉 〇三月二十八日、次侍従 ( 三実 ) 。 〇三月八日、左近衛権少将 ( 三実 ) ( 古目ー右近衛権少将 ) ( 歌五月、富士山噴火。 仙伝ー右近衛少将 ) 。 〇三月八日、在原行平左兵衛督。四十七歳 ( 左兵衛督は貞観 十四年まで ) 。〈百一段↓〉 七八六五れ〇三月九日、右馬頭 ( 三実・古目・歌仙伝 ) 。〈七十七・七十 二八四九 一一一八五〇 六八六四 一 0 五月十日、渤海の使来着。

8. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

えんりやく 一延暦三年 ( 天四 ) 奈良の京より 8 長岡に遷都、同十三年 G 九四 ) 山城 二西の京 の平安京に遷都。この京は平安京 をさす。『伊勢物語』はここで書か 語 きゃう 物むかし、男ありけり。奈良の京ははなれ、この京は人の家まだ定まらざりけれ、都人の意識が濃厚である。 勢 ニ平安京の中央を南北に走る朱 よひと ぎくおおじ 伊る時に、西の京に女ありけり。その女、世人にはまされりけり。その人、かた雀大路から西半分をいう。西の京 は東の京よりもさびれていた。 ちよりは心なむまさりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。それをかのま三通って来る男がいた事を示す。 四実意のある男。本作の主人公。 やよひ ものがた 五底本「そをふる」で、平安古音 め男、うち物語らひて、かへり来て、いかが思ひけむ、時は三月のついたち、 を伝える。しよばしよば降る。 六『古今集』恋三、業平。『新撰 雨そほふるにやりける。 和歌』第四。『古今六帖』第一、同 第五、業平。「ながめ」は「眺め」と おきもせず寝もせで夜を明かしては春のものとてながめくらしつ ながめ 「長雨」とを掛けた。 セ「懸想ず」は、思いを懸ける事。 ^ 「鹿尾菜ヒスキモ」 ( 和名抄 ) 。 三ひじき藻 今のヒジキ。次の歌をつけて贈る。 九「むぐら」は、カナムグラ・ヤ 一けきつ エムグラなどの蔓草の総称。「ひ むかし、男ありけり。懸想じける女のもとに、ひじき藻といふものをやると ひじきもの じきもの」は、「引敷物」に「ひじき 藻」の意を掛けている。 一 0 一一条后高子 ( 会一一 ~ 九一 0) 。藤原 そで やど せいわ 長良女。貞観八年 ( 八六六 ) 清和女御 思ひあらばむぐらの宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも 一一仁明女御の五条后順子 ( 八 0 九 ~ にでうきさき 二条の后の、まだ帝にも仕うまつりたまはで、ただ人にておはしましける時の <?I)O 文徳の母。二条后の叔母。 て、 五 みかど よる つか たかいこ か

9. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

一男性も変体漢文で書くと聞い ている日記。「なる」は伝聞。 ニ女性も仮名の和文で書いてみ よう。作者を女性であるかのよう に見せかけた。「なり」は断定。 さきかみしたくにびと 三貫之自身をさす。作者に擬し 帰る前の守、慕う国人 た女性から見て、こう言った。 四任国土佐のこと。 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するな五延長八年 ( 九三 0 ) 一月、土佐守 〔一〕船出の準備に、人 きみあき に任ぜられ、後任島田公鑒は承平 人別れを惜しむ 四年 ( 九一一一四 ) 四月二十九日の任命。 六国司交代の際の一定の事務。 それの年の、十二月の、二十日あまり一日の日の、戌の時に門出す。そのよ七前任者に過怠のなかったこと げゅじよう を証明して後任者が書く由状 し、いささかに、ものに書きつく。 〈官舎。高知県南国市比江。 四 五 九高知市大津。 ある あがたよとせいっとせ 一 0 うまが合って親しく付き合っ 或人、県の四年五年はてて、例のことどもみなし終へて、解由など取りて、 ていた人々。 たち 住む館より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。 三海路の危険な大阪府南部まで。 一三無事であるように。 己年ごろ、よく比べつる人々なむ、リ 男れ難く思ひて、日しきりに、とかくしつつ 1 三ロ 日 一四陸路でもないのに馬のはなむ 佐ののしるうちに、夜ふけぬ。 け ( 餞別 ) をしたというしゃれ。 土 一五「あざる」には、「ふざける」 いづみ たひらぐわんた ふなぢ 二十二日に、和泉の国までと、平かに願立つ。藤原のときざね、船路なれど「腐る」の両義があるところから、 物が腐るはずのない塩辛い海辺で っむま かみなかしもゑあ 馬のはなむけす。上中下酔ひ飽きて、いとあやしく、塩海のほとりにてあざれふざけあっているというしゃれ。 しはす がた ひとひ ふぢはら ひ ほ五 う かどで

10. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

かなじよ どと共に『古今和歌集』の編集に参加し、巻頭に載せられた「仮名序」に仮名文で文学論を展開するなど早 おおいがわぎようこうわかのじよ くも異彩を放っ活躍ぶりであった。延喜七年には、またも仮名文で「大堰川行幸和歌序」を書いて、仮名文 に対する強い関心を示している。少内記、大内記などを歴任して、五十歳ごろの延喜十七年 ( 九一七 ) によう やく従五位下に叙せられたことでも分るように、官位の昇進は決して早くはなかったが、歌人としてまた名 ていじいんのうたあわせ だいりきくあわせ 筆としての声価はますます高く、延喜十三年三月十三日の『亭子院歌合』や十月十三日の『内裏菊合』など だいけんもつうきようのすけ の有名な歌合に加わり、また、たびたび屏風歌を召されて詠進している。大監物、右京亮などを経て、延長 とさのかみ 八年 ( 九三 0 ) 正月二十九日土佐守に任ぜられた時には、既に六十歳を過ぎていたと推定される。 だいご 土佐の国府に着任したのは八、九月ごろであったが、京都では九月二十九日に醍醐天皇が譲位の後崩御さ かねすけ れた。かねて貫之は、『古今和歌集』の秀歌を選び出すようにという勅命を、後援者である藤原兼輔 ( 八七七 ~ 九三三 ) を通じて受けていたが、天皇に次いで兼輔も承平三年 ( 九三一 (l) 二月十八日に亡くなってしまった。土佐 守としての政務の余暇をその編集に充てて、望郷の念を紛らしたことであろう。通常の政務のほかに、その ころ政府がたびたび南海道諸国に命じた海賊の追捕にも従事し、廉直、清潔な国司として終始したようであ る。 だいげき きみあき 四年の任期が終り、承平四年 ( 九三四 ) 四月二十九日に大外記島田公鑒が後任に決ったが、その着任が遅れ 説 たために、貫之が帰京の途についたのは十二月二十一日、翌年二月十六日にようやく懐かしい京の自宅に帰 解着した。 『土佐日記』を書き上げたほかに、たびたび、賀の歌、屏風歌を詠進するなど歌人としての活躍は著しく、 すざくいんのべっとう てんぎよう げんばのかみ 官位の方も朱雀院別当を勤めたり、天慶三年 ( 九四 0 ) 三月玄蕃頭に任ぜられたりした後、同六年正月七日に あ