出 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記
341件見つかりました。

1. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

ていでていぬ。男、泣く泣くよめる。 一『古今一ハ帖』第四、初包いと ひては」。厭になったのなら、の 意で、塗籠本・阿波文庫本等はこ いでていなばたれか別れのかたからむありしにまさる今日は悲しも の本文。「いな」は「去ぬ」の未然形。 語 物とよみて絶え入りにけり。親あわてにけり。なほ思ひてこそいひしか、いとか「ありし - は以前の状態。 勢 ニ息が絶え絶えになる。 しんじち ぐわん 三子の回復を神仏に祈誓した。 伊くしもあらじと思ふに、真実に絶え入りにければ、まどひて願立てけり。今日 四日没ごろをいう。 のいりあひばかりに絶え入りて、またの日の戌の時ばかりになむ、からうじて五午後七時から九時ごろをいう。 六「生き出で」。一説「息出で」。 わかうど いきいでたりける。むかしの若人は、さるすける物思ひをなむしける。今のおセ一途に恋に耽溺して思い悩む。 ^ 昔の若人に対して、今の老人 きな、まさにしなむや。 めいた者という。「しなむ」は「為 なむ」。別に「死なむ」の説あり。 九袍。男性貴族の正装の表衣。 位階により色の定めがある。袍を 四十一紫 洗うのは新年の用意である。 のり 一 0 洗った衣を糊づけして張る。 むかし、女はらから二人ありけり。一人はいやしき男のまづしき、一人はあ = 「にーは格助詞で意味を強める。 三「緑衫」は「ろくさむ」の音が転 てなる男もたりけり。いやしき男もたる、十二月のつごもりに、うへのきぬをじたもの。緑色の袍で六位の着用。 一三『古今集』雑上、業平。詞書に 洗ひて、手づから張りけり。、いざしはいたしけれど、さるいやしきわざも習は「めのおとうとをもて侍りける人 うへのきめ に、袍を贈るとてよみてやりけ かた るーとあり、『古意』に説くように ざりければ、うへのきぬの肩を張り破りてけり。せむ方もなくて、ただ泣きに 業平の妹を妻とした人だから同じ きょ 泣きけり。これをかのあてなる男聞きて、いと心ぐるしかりければ、いと清ら紫の袍を贈ったのであろうが、 た や しはす

2. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

分らないからここには書けない。 しろたへの波路を遠くゆき交ひてわれに似べきはたれならなくに 一六都へ帰る私と行き違いにやっ 一セ 異人々のもありけれど、さかしきもなかるべし。とかくいひて、前の守、今のて来て、この遠隔の地でつらい四 年を過す私と同じ境遇になるのは、 さき お ゑ ′一とこころよ ほかならぬあなたです。 も、もろともに下りて、今の主も、前のも、手取り交はして、酔ひ言に快げな 宅大した歌もなかっただろう。 こと 一 ^ あれこれと語り合って。 る言して、出で入りにけり。 一九庭に下りて。 うらど 二十七日。大津より浦一尸をさして漕ぎ出づ。かくある , っちニ 0 酔った口調に紛らせ、相手の 〔ニ〕亡き娘に心をひか ニ四 耳に快く響くお世辞を述べて。 きゃう をむなご れつつ船出 、京にて生まれたりし女子、国にてにはかに失せにしか一 = 貫之は出て行き、守は官舎の 内に入った。 なにごと ば、このごろの出で立ちいそぎを見れど、何言もいはず。京へ帰るに、女子の一三高知市浦戸。湾ロ近くの内側 ニ七 西岸にある小港。 あ ある こうして帰京の旅をする一行 なきのみぞ、悲しび恋ふる。在る人々もえ堪へず。この間に、或人の書きて出 = 三 の人々の中で、ある人 ( 貫之 ) は。 ニ四土佐へ来る前、京にいるとき だせる歌、 に生れていた女の子が。 ニ五任国。ここでは土佐国。 みやこへと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり 一宍出発準備の慌ただしさ。 毛貫之をさす。 己また、或時には、 1 三ロ ニ ^ まだ生きているような気がし 日 て、死んだことを忘れては尋ね、 佐 あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける 土 忘れては尋ねする。 さき はらから ニ九どこにいるのかと。 といひける間に、鹿児の崎といふ所に、守の兄弟、また異人これかれ、酒なに 三 0 高知市大津鹿児。 三一「など」の原形。 と持て追ひ来て、磯に下りゐて、別れ難きことをいふ。守の館の人々の中に、 なみぢ 三 0 おほっ がた ニ九 か ニ 0

3. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

そでなみだがは よ ゆく人もとまるも袖の涙川みぎはのみこそ濡れまさりけれ 一幼い子供がこうも上手に詠ん だものだ。 となむよめる。かくはいふものか。うつくしければにゃあらむ、いと思はずなニかわいい子供と思っているか らなのか、全く意外である。 わらはごと おむなおきなてお あ 。いくら上手で 日り。「童言にては何かはせむ。媼、翁手捺しつべし。悪しくもあれ、いかにも三子供の歌でま、 佐 ーもかっこ , つがっノ、オい たより 土あれ、便あらばやらむ」とて、置かれぬめり。 四大人が署名捺印すべきだ。 五作者に擬した女性の貫之に対 こよひ 八日。障ることありて、なほ同じ所なり。今夜、月は海にそ入る。これを見する敬意を表す助動詞。 六 六在原業平 ( 八 = 五 ~ 八八 0 ) 。 なりひら て、業平の君の「山の端逃げて入れずもあらなむ」といふ歌なむ思ほゆる。もセ「飽かなくにまだきも月の隠 るるか」 ( 古今・雑上業平 ) の下 うみべ し、海辺にてよまましかば、「波立ち障へて入れずもあらなむ」とも、よみて句。『伊勢物語』八十二段にもある。 貫之は業平の人柄を尊敬し、二月 ある 九日にも取り上げる。 ましゃ。今、この歌を思ひ出でて、或人のよめりける、 ^ 波が立ってじゃまをして。 みなと あまがは 九貫之。 照る月のながるる見れば天の川出づる水門は海にざりける 一 0 河口。 = 「にそありける」。 あきなはり 三高知県安芸郡奈半利町。 とま なは 九日のっとめて、大湊より「奈半の泊りを追はむ」とて漕一三郡のこと。国府のある長岡郡 ものべ 〔五〕漕ぎ離れる船船 は物部川まで。川の東は香美郡。 たがひ 酔いの耳に聞く船歌 ぎ出でけり。これかれ互に、「国の境のうちは」とて、見せめてこの郡の境の内は。 一四作者に擬した女性の、貫之に たちばな はせべ 送りに来る人あまたが中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきま対する敬意。 一五いかに誠意ある人々でも、物 たう さらなむ、御館より出で給びし日より、ここかしこに追ひ来る。この人々部川を渡っていつまでも後を追う 一三ロ 302 とや。 一は みたち 七 : 」めか は おほみなと

4. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

のち ニ 0 そのとおり口で言ってみよう しかならむ。 日だにいひ難し。まして後には、 ン「して。も。 三字に書いたとしてもちゃんと 十九日。日悪しければ、船出ださず。 くだ 読み下すことはむずかしいだろう。 うれ きのふ はつか 一一十日。昨日のやうなれば、船出ださず。みな人々憂へ嘆く。苦しく心もと一三今日でさえ言いにくい。まし て後日になったらどんなであろう。 けふいくか みそか かぞ かず いつになったら出帆できるか なければ、ただ、日の経ぬる数を、「今日幾日」、「二十日」、「三十日」と数ふニ三 ニ四 と、気がかりなので。 よる およびそこな 一西何度も繰り返して指を折って れば、指も損はれぬべし。 いとわびし。夜はいも寝ず。二十日の夜の月出でに 日数を数えるものだから、指も傷 んでしまいそうだ。 けり。山の端もなくて、海の中よりそ出で来る。かうやうなるを見てや、昔、 一宝こんな光景を見てのことだろ もろこし ニ七 、つカ 阿倍の仲麻呂といひける人は、唐土に渡りて、帰り来ける時に、船に乗るべき ニ六霊亀二年 ( 七一六 ) 留学生として くにびとむま げんそう 所にて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの漢詩作りなどし渡唐、玄宗に仕え、天平勝宝五年 ( 芸 (l) 帰国の途中遭難、安南に漂 着、長安に帰って再び唐朝に仕え、 ける。飽かずやありけむ、二十日の夜の月出づるまでぞありける。その月は、 宝亀元年 ( 耄 0 ) にかの地で死んだ。 海よりそ出でける。これを見てそ、仲麻呂の主、「わが国に、かかる歌をなむ、毛『古今集』には明州とあるが、 蘇州が正しいという説がある。 かみよ かみなかしも 神代より神もよん給び、今は上中下の人も、かうやうに別れ惜しみ、喜びもあニ ^ 「詠み」の音便。 旨ロ ニ九「天の原」 ( 古今・羇旅 ) 。眼前 日 の情景に合せて変更した。 佐り、悲しびもある時には、よむ」とて、よめりける歌、 ニ九 土 三 0 日本語を知らないから聞いて あをうな かすが みかさ も分るまいと思われたけれども。 青海ばらふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも 三一歌の意味を、漢字で大略を書 こと 三 0 とそよめりける。かの国人聞き知るまじく、思ほえたれども、言の心を、男文き出して。 ニ六 なかまろ あ ニ ^ た へ よ はつか をとこも

5. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

一誠意があるというように。 この来たる人々そ、心あるやうには、いはれほのめく 四 ニ「れーは自発の助動詞。つい貫 うみべ くちあみもろも かく別れ難くいひて、かの人々の、ロ網も諸持ちにて、この海辺にて担ひ出之の口から出そうになり。 三声をひそめる。守への遠慮。 11 = ロ 四漁師が総がかりで網を担ぎ出 日だせる歌、 佐 すように、声を合せ足拍子をそろ 一あーしがも えて歌い出した歌。李白の詩「汪 土惜しと思ふ人や留ると葦鴨のうち群れてこそわれは来にけれ まさ 倫ニ贈ル」の「李白舟ニ乗ッテ将ニ 行カムトスルヤ、タチマチニ聞ク といひてありければ、いといたく賞でて、ゆく人のよめりける、 たふか 岸上踏歌ノ声」による。 五「鴛鴦」の掛詞。「葦」は縁語。 さをさせどそこひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな 六京へ行く人。貫之のこと。 たうくわ かぢと八 といふ間に、楫取りもののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、早くセ上述の李白の詩の続き「桃花 潭ノ水深キコト千尺、汪倫ガ我ヲ 送ルノ情ニ及パズ」による。「そこ 去なむとて、「潮みちぬ。風も吹きぬべし」と騒げば、船に乗りなむとす。 ひ」は底。「わたつみは海。 からうた この折に、在る人々、折節につけて、漢詩ども、時に似つかはしきいふ。ま〈李白の詩を踏まえた歌を詠み、 惜別の情に無量の感慨を催してい ふなやかたちり かひうた ある た或人、西国なれど甲斐歌などいふ。「かくうたふに、船屋形の塵も散り、空る貫之の気持も分らないで。 九自分自身は。「しは強意。 ただよ 一 0 季節に即して。 ゆく雲も漂ひぬ」とそいふなる。 = 別れの時にふさわしいのを。 - 一と たちばな ここは西国なのに東国の甲斐 今夜浦戸に泊る。藤原のときざね、橘のすゑひら、異人々追ひ来たり。 」六 ( 山梨県 ) の歌を歌うというしゃれ。 おほみなと一セ 一三虞公の美声が梁の塵を動かし 二十八日。浦戸より漕ぎ出でて、大湊を追ふ。この間に、 もんぜん 〔三〕歯固めも調わず押 たという故事 ( 『文選』李善註所引 りゅうきよう 鮎のみの元日 『劉向別録』 ) による。船中なので 早くの守の子、山口のちみね、酒、よき物ども持て来て、 298 こよひ , 、しぐこ がた とま 一ハ 一 0 をりふし かみ め む 0 たん ぐ さい ) ) く

6. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

は′」ろも の詠嘆にあると私は思う。それは羽衣説話のごとき日本古来の伝承として伝えられたり、俗を去り神仙の気 えどおんり じようどごんぐ 味を求め ( 五四ハー注一 0) 、穢土を厭離し浄土を欣求する ( 五三ハー注一一四 ) 形で伝えられたりするが、要するに人間 の根源的なものの詠嘆から発しているのである。くり返すようだが、このテーマのためには、姫を最初に発 見した竹取の翁自身が人間界を代表して求婚者となってもよく、また鎌倉時代の『古今和歌集』注釈書類に しじ。よう ばんじよう・ 見られるかぐや姫説話のごとくに ( 一〇八 ~ 一〇九ハー資料三・四参照 ) 、万乗の君たる帝王だけが人間界の至上 の人として代表となってもよいが、三人ないしは五人の求婚者は、天上界に対する人間界の代表にはどう考 えてもなり得ない。やはり、この五人の求婚者はあくまでも副次的なものとすべきであろう。 『竹取物語』のすばらしさは、民族の伝承のすばらしさである。そしてその民族の伝承が多少の脚色・付加 などがあっても、すばらしいものをそのままに伝える平安時代物語文学の方法と調和することにより保たれ たすばらしさであると私は思うのである。 六伝本と底本 おや 「物語の出で来はじめの祖」と『源氏物語』の作者に言われた『竹取物語』であるが、室町時代のごく末期 説 にあたる天正二十年 ( 一五九一 l) に書写された天理図書館所蔵の武藤元信氏旧蔵本がもっとも古く、しかも、そ 解れは他の多くの本と同じく、本文上の欠陥をかなり持っているのである。 この本をはじめとする普通の『竹取物語』の写本や版本を通行本系統と呼んでいるが、本書では、そのう ち、近世の写本や版本に、もっとも大きな影響を与えた古活字十行本を底本に用いた。それは、巻末に

7. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

ことなら ありさまみめう たまふまこと ルニ、家ノ有様微妙ナル事、王ノ宮ニ不異ズ。女ヲ召出ルニ即チ参レリ。天皇此レヲ見給ニ、実ニ世ニ可譬 めでた ちかづか うれしおばめし キ者無ク微妙カリケレバ、「此レハ我ガ后ト成ラムトテ、人ニハ不近付ザリケルナメリ」ト喜ク思シ食テ、 ぐ のたま かへり わ な かぎりな 語「ヤガテ具シテ宮ニ返テ后ニ立テム」ト宣フニ、女ノ申サク、「我レ、后ト成ラムニ無限キ喜ビ也ト云へドモ、 まこと あら おの のたまは なん いかなる 取実ニハ己レ人ニハ非ヌ身ニテ候フ也」ト。天皇ノ宣ク、「汝ヂ、然ハ何者ゾ。鬼カ神力」ト。女ノ云ク、 あら あら おの ただおのれただいま きたりむかふペ すみやかかへ たま 竹「己レ鬼ニモ非ズ、神ニモ非ズ。但シ己ヲバ只今空ョリ人来テ可迎キ也。天皇速ニ返ラセ給ヒネ」ト。天皇 きき ただいま あら きたりむかふべ わ いな 此レヲ聞給テ、「此ハ何ニ云フ事ニカ有ラム。只今空ョリ人来テ可迎キニ非ズ。此レハ只我ガ云フ事ヲ辞ビ し・は。しばかりあり おばしたまひ おほく きたりみこしもてきたり ムトテ云ナメリ」ト思給ケル程ニ、暫許有テ、空ョリ多ノ人来テ輿ヲ持来テ、此ノ女ヲ乗セテ空ニ昇ニケ そのむかへきた 其迎ニ来レル人ノ姿、此ノ世ノ人ニ不似ザリケリ。 まこと ・ものに おば たまひ のち 其ノ時ニ天皇、「実ニ此ノ女ハ只人ニハ無キ者コソ有ケレ」ト思シテ、宮ニ返リ給ニケリ。其ノ後ハ、天 まこと めでた たまひ かた いでわり おば おば 皇、彼ノ女ヲ見給ケルニ、実ニ世ニ不似ズ、形チ、有様微妙カリケレバ、常ニ思シ出テ破無ク思シケレドモ、 やみ 更ニ甲斐無ク止ニケリ。 つひいかなるもの また なれ あり す こころえ 其ノ女遂ニ何者ト知ル事無シ。亦翁ノ子ニ成ル事モ何ナル事ニカ有ケム。惣べテ不心得ヌ事也トナム世 かかた おもひ かか ノ人思ケル。此ル希有ノ事ナレバ、此ク語リ伝へタルトャ。 資料ニ ( 鎌倉時代 ) 海道記 たけとりのおきな むすめかぐやひめ うぐひすをんなのかたち 昔、採竹翁ト云フ者アリケリ。女ヲ赫奕姫ト云フ。翁ガ宅ノ竹林ニ鶯ノ卵女形ニカへリテ巣ノ中ニア ひととなかほよ たぐひ かたはら せんけん りようびん せみはねゑんてん リ。翁養ヒテ子トセリ。長リテ好キ事、比ナシ。光アリテ傍ヲ照ラス。嬋娟タル両鬢ハ秋ノ蝉ノ翼、宛転タ さ ら ひ 0 めしいづ あり なり のばり たとふべ

8. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

みよしののたのむの雁もひたぶるに君が方にぞよると鳴くなる むこがね、返し、 わが方によると鳴くなるみよしののたのむの雁をいっか忘れむ となむ。人の国にても、なほかかることなむやまざりける。 十一空ゆく月 語むかし、男、あづまへゆきけるに、友だちどもに、道よりいひおこせける。 物 一セ 勢 忘るなよほどは雲居になりぬとも空ゆく月のめぐりあふまで 伊 十二盗人 り。父はこと人にあはせむといひけるを、母なむあてなる人に、いつけたりける。一 0 住んでいる女。 = 求婚した。↓一二〇ハー注九。 びと 三当時、藤原氏の出ということ 父はなほ人にて、母なむ藤原なりける。さてなむあてなる人にと思ひける。こ は素姓の貴さを示すものであり、 のむこがねによみておこせたりける。すむ所なむ入間の郡、みよしのの里なり地方では尊重された。この母は地 方官などで赴任したまま、土着し ナる。 た人の家族などに相当しよう。 一三埼玉県入間郡に三芳野の地名 を残すが、「みよしのの里」は川越 近辺ともいわれ、所在は不明。 一四『古今六帖』第六。「たのむ」は 「田の面」の方言との説もあり、 「頼む」の意をこめている。「ひた ひたぶ ぶるに」は「引板振るに」で、ひた すらの意を掛けた。引板は田の鳥 を追う鳴子。季節は秋。 一五『古今六帖』第六。「鳴くなる」 は「鳴く」の終止形に助動詞「なり」 がっき伝聞推定の意。連体形につ いたと見ると断定の意。 一六男女関係をいう。歌を詠む風 流事と解しても、好色事に関わっ ているのはもちろんである。 宅『拾譴襍」囃共『拾遺抄』雑下 に見える橘忠幹の歌。忠幹は天 暦 ( 九四七 ~ 九五七 ) のころ駿河守になり 下向している。 一五かた くもゐ きみかた いるま

9. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

土佐日記 356 ぎる時に無量の感慨をこめてこの話を伝えている。また『伊勢物語』八十三段には、失意の惟喬親王が出家 して小野に住んでおられたところを、雪を踏み分けて業平が訪ねて行った感動的な場面が語られていて、有 名である。 紀氏略系図 ( 目崎徳衛氏・萩谷朴氏による ) 梶長 船守 猿取 本道 ( ー八八 0 ) 望行 女子 ( 業平妻 ) 有常 1 八一五ーへ七 ) 女子 ( 敏行妻 ) 種子 静子 女子 ( 富士麿妻、敏行母 ) じようがん 紀貫之の生年は明らかでないが、その閲歴から推定して貞観十年 ( 八六八 ) と仮定すれば、惟喬親王や有常、 もちゅき 業平に接する機会があったことになる。父の望行を早く失い、十五歳ごろに大学寮に入って約九年間勉学し た後、下級官人から出発した。名門紀氏の出であっても官位の速やかな昇進はもはや望めない時代になって ふじわらのとしゆき きの 、た。しかしその身辺には、業平のほかにも同じように有常の娘を妻にした藤原敏行 ( ~ 九 (1) や従兄の紀 とーものり 友則などの優れた歌人がいて、その影響を受けて立派な歌人として成長することができたのは幸せであった。 かんびよう 歌人としての貫之の名が初めて世に広く知られたのは、寛平五年 ( 八九一 (l) 九月以前に行われたと推定される かんびようのおおんとききさいのみやのうたあわせ これさだのみこのいえのうたあわせ 『是貞親王家歌合』や『寛平御時后宮歌合』に参加した二十五歳ごろのことであるが、その後しだい えんぎ ごしょのところのあずかり に実力が認められて十世紀に入った延喜初年には御書所預となり、次いで延喜五年 ( 九 0 五 ) には紀友則な ( 七五四ー八実 ) 7 名興 ( ー公一四 ) 貫友 之則

10. 完訳日本の古典 第10巻 竹取物語 伊勢物語 土佐日記

( 原文四一ハー ) これを聞いて、かぐや姫は、すこし気の毒にお思いにな 会いしなさい」と言うと、かぐや姫は、「私はすぐれた容 ちよくし った。そのことから、すこしうれしいことを「かい ( ひ ) 貌などではございません。どうして勅使に見ていただけま あり」と言うようになったのである。 しようか」と言うので、嫗は、「困ったことをおっしやる。 帝の御使いを、どうしておろそかにできましようか」と言 かぐや姫、帝の召しに応ぜず昇天す うと、かぐや姫の答えるには、「帝が召すようにおっしゃ ることは、恐れ多いとも思いません」と一言って、いっこ , っ 〔一六〕帝、かぐや姫に執このような事件によって、かぐや姫 に内侍に会いそうにもない。嫗も、平素は自分が産んだ子 ようばう たぐい の容貌の、世に類なく美しいことを、 のよ , つにしているが、このときばかりは、こちらが ~ 刄がね ないしなかとみ 帝がお聞きあそばされて、内侍中臣のふさ子におっしやる させられるぐらしし ) 、こそっけないようすで言うものだから、 には、「たくさんの人が身をほろばすまでにつくしても結自分の思いのままに強制もしかねる。 婚しないというかぐや姫ま、、 。しったいどれほどの女か、出 嫗は、内侍のいる所に帰ってきて、「残念なことに、 1 」うじようもの かけて見て来い」とおっしやる。ふさ子は、命令をうけた の小さい娘は、強情者でございまして、お会いしそうにも まわって、退出した。 ございません」と申しあげる。内侍は、「かならずお会い おきな 竹取の翁の家では、恐縮して内侍を招き入れてお会いすして来いとのご命令がありましたのに。お会いできぬまま おうな る。応待に出た嫗に、内侍がおっしやる、「帝のお言葉に、 では、どうして帰参いたせましようか。国王のご命令を、 語『かぐや姫の容貌がすぐれていらっしやるとのことだ。よ この世に住んでいられる人が、どうしてお受け申しあげな すじ 物 く見て参るように』とおっしやられたので、参りました」 さらないでいられましようか。筋の立たぬことをなさって 取 竹と言うと、嫗は、「それでは、姫にそのように申しましょ はいけません」と、相手が恥ずかしくなるほど強い言葉で う」と言って、姫のいる所へはいった。 言ったので、これを聞いて、なおさら、かぐや姫は承知す おんししゃ かぐや姫にむかって、嫗が、「はやく、あの御使者にお るはずもない。「国王のご命令にそむいたというのなら、 みかど