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検索対象: 完訳日本の古典 第31巻 今昔物語集(二)
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1. 完訳日本の古典 第31巻 今昔物語集(二)

虔志彌雄 弘五一 集山山保木 秋小神鈴

2. 完訳日本の古典 第31巻 今昔物語集(二)

集したと思われていた説話も、ほとんどが文献よりの取材であることが、間接的に証明または類推されたの である。その結果、一部百巻とか、数十巻というような大部の文献は、例外なく直接の取材源ではないこと 集が判明した。上記の『法苑珠林』とか『経律異相』は、かっては天竺部と震旦部仏法諸巻にまたがる主柱的 五ロ 1 三ロ 物取材源と見られていたが、現在では直接の取材関係は認めがたいことが確かめられた。天竺部の有力な典拠 昔 かこげんギ ) いいんがきよう けんぐきようぞうほうぞうきようせんじゅうひやくえんぎようだいはつねはんぎよう とされてきた、『過去現在因果経』『賢愚経』『雑宝蔵経』『撰集百縁経』『大般涅槃経』以下多数の漢訳経 だいとうさいいきき ごかんじよ 典や、『大唐西域記』などについても同様である。震旦部についてみても、『史記』『漢書』『後漢書』のごと そうじ かんびし はくしーもんじゅう もうぎゅうそうじんき き大巻は言うまでもなく、『荘子』『韓非子』などの諸子類から、『白氏文集』『蒙求』『捜神記』などの俗書 に至るまで、何一つ直接の典拠とはしていないのである。それらは説話のルーツとはなり得ても直接の典拠 ではなく、編者が取材したのは、そうした原典との間に、 一つまたはいくつかのクッションを置いた、末流 の文献であった。『今昔』の成立に先立って、わが国では仏典や俗書から要文や故事などを抜き出し、それ を一書にまとめ上げたようなものが少なからず作り出されていた。その手本は、すでに中国にあって、早く から伝来していた。それらは、僧侶の教学用の便覧として、あるいは説教の資料として、あるいは子弟の教 訓啓蒙用に編集されたもので、いわゆる経典類の要集とか、説教用の説話を集録した因縁集と称されるたぐ ちゅうこうせん いがそれである。近年紹介されて、天竺・震旦部の有力な出典であることが確認された、『注好選』のごと きも、その種の教材的啓蒙書の一つであった。『大唐西域記』などから、説話部分を中心に抄出した唱導用 の小冊子もあったのである。天竺部・震旦部の取材には、実はこうした便利な一類の文献が大きな役割を果 さんばうかんのうようりやくろく したのであった。もちろん、原典に直接取材したケースもあったが、それらは『三宝感応要略録』とか、 みようほうき きようしでん 『冥報記』『孝子伝』といった、せいぜい数巻どまりの小規模な文献に限られていたようで、五十巻、百巻と

3. 完訳日本の古典 第31巻 今昔物語集(二)

完訳日本の古典 31 今昔物語集一 本朝世俗部 0 0 小学館

4. 完訳日本の古典 第31巻 今昔物語集(二)

今昔物語集巻第二十七 318 かうやがはのきつねをむなにへんじてむまのしりへにのることだいしじふいち 高陽川狐変女乗馬尻語第四十一 本話の典拠は未詳。女の子に化けて高陽川 ( 紙屋川 ) のほとりに出没し、通行人の馬に乗せて もらっては途中で逃げ出す狐がいた。それが滝ロの本所で話題となった時、捕縛方を買って出 た滝ロの武士が、初度の失敗に懲りて二度目には警戒を厳にし、見事滝ロの本所まで捕えて来 て、さんざんいたぶった末に逃してやった話。彳 = = 麦日譚として、それから十余日後、滝ロの武士 が例の狐に会って馬に乗るようすすめたところ、狐はもう懲り懲りと答えて消えうせたことが 付記されている。結果的には前話同様人間に化けて失敗した狐妖譚であるが、人間との対決は 一勝一敗というプロセスを経て複雑な二段構造をとっている。本話をもって一応本巻の本格的 狐妖譚は終るが、これらに限らず、古代・中世の狐の妖異譚は本集以外の説話集・物語・記録 おおえのまさふさ ちょう こびき ・随筆類に多数散見し、特に大江匡房の『狐媚記』は成立時代も本集に近いだけに、妖狐の跳 りよう 梁した時世相を推測させる好資料である。なお、本話の説話構造の類型性とその文学史的意義 については本巻第一三話の解説参照。 一京都市右京区御室大内町に所 在。光孝天皇の勅願寺で、仁和一一 年 ( 八会 ) 創建。宇多法皇が住して いまはむかしにんわじひむがしかうやがは かはあ そかは ほとりゆふぐれがたな 御室と称された。 今昔、仁和寺ノ東ニ高陽川ト云フ川有リ。其ノ川ノ辺ニタ暮方ニ成レバ ニ京都市北区鷹が峰に発して桂 わかめ わらはみめきたなげな むまのりきゃうかたすぐひとあ かみやがわ リに注ぐ。「紙屋川」の転。 若キ女ノ童ノ見目穢気無キ立リケルニ、馬ニ乗テ京ノ方へ過ル人有レバ、其ノ 四 三見た目の意で、容貌。外貌。 めわらはそ むましりのりきゃうまか 四「行カム」の謙譲表現。 女ノ童、「其ノ馬ノ尻ニ乗テ京へ罷ラム」ト云ケレバ、馬ニ乗タル人、「乗レ」 たて の ひと の

5. 完訳日本の古典 第31巻 今昔物語集(二)

信友がそれを調べたところ、巻第二十七の第四十一丁の第四十二丁目との間のとじ目に、 一見畢南井坊内総六丸此比春日太神開門尤以目出タシ八月中一日新造屋ノサンロウ 集とあるのを見つけた。このことは酒井憲二氏によって昭和四十八年に報告された。それからこの記事につい 語 物ての考究が始った。その結果現在のところ大体左のようなことになっている。 昔 今 「一見畢」とは「書写ーではないから、「校合」か、しからずんばとじ直しの際に一見したものであろう。 後者の方が可能性が高い ( 平林盛得氏「『今昔物語集』原本の東大寺存在説について」『聖と説話の史的研究』所収 ) 。 「南井坊」というのは興福寺菩提院方の一僧房である ( 田口和夫氏「今昔物語集『鈴鹿本』興福寺内書写のこと」 『説話』第六号 ) 。 「総六丸」については南井坊にいた、当時十九歳の童子であった ( 酒井憲二氏 ) こと以外は未詳。 「春日太神開門」とは、南都の強訴の終止によるものであり、八月十一日に開門があったのは文安三年 ( 高 四六 ) のことで、おそらくその時のことであろうと思われる。 「新造屋」は、いわば普通名詞で、特定するのは難しいが、あるいは東大寺のものといい ( 平林盛得氏 ) 、興 福寺のものという ( 田口和夫氏 ) 。春日神社との関係からいって、興福寺の方が妥当か こうしてみると、鈴鹿本は鎌倉時代に書写されて、室町時代文安三年に興福寺南井坊で修補 ( とじ直し ) が行われたのであろう。 文安三年に修補が行われたとすれば、これが流布する契機をなしたということが考えられる。ことに、総 六丸カ 此一条ハ尤以コワキ事也有覚悟 / 、 / 、

6. 完訳日本の古典 第31巻 今昔物語集(二)

一〇「鈴鹿本」の流布の状況 説 解『今昔物語集』というものは、奈良の、おそらく興福寺あたりに未定稿本のまま眠っていたのであろう。興 福寺あたりといったのは、鈴鹿本はもと奈良にあって、天保十五年 ( 一会四 ) 頃、鈴鹿連胤が奈良から購入し たものである ( 酒井憲二氏「伴信友の鈴鹿本今昔物語集研究に導かれて」『国語国文』一九七五年十月号 ) 。そして伴 一・二十三・二十四の三巻は中間本か流布本によって補うことができる。そこで、本書では次のような底本 を用いた。 巻二十二実践女子大二十六冊本 巻二十三東京大学国語研究室二十一冊本 巻二十四実践女子大二十六冊本 巻二十五東京大学国語研究室十五冊本 巻二十六同 巻二十七鈴鹿本 巻二十八東京大学国語研究室十五冊本 巻二十九鈴鹿本 巻三十東京大学国語研究室十五冊本 巻三十一同

7. 完訳日本の古典 第31巻 今昔物語集(二)

世本 今昔物語集部一一 日本の古典訂学 日本の古典訂 定価 1 , 900 円 I S B N 4 ー 0 9-5 5 6 0 51 ー 2 , C 1 5 9 引 \ 1 9 0 0 E

8. 完訳日本の古典 第31巻 今昔物語集(二)

て時に神怪にわたることの多かった前巻の展開として自然であろう。登場する霊鬼・妖怪は多種多様で、そ の暗躍跳梁はまさに説話で描いた王朝百鬼夜行絵巻を見る思いがし、霊妖との対決におののいた世情人心を うかがうに足りる。巻二十八は一転して笑いの巻で、洛中洛外に取り沙汰されたユーモラスな話を総集する。 演ずる笑いの諸相も多彩を極めて、王朝貴族官人社会に伝承された笑話珠玉選に接する感がある。怪異を説 いた前巻の後に、陰陽対照的な笑話の巻を配したのも、構成の妙と一一 = ロえよう。巻二十九は悪行の巻。盗賊談 を主とする種々の犯罪談を収め、巻末に動物談を一括する。王朝社会の暗黒面に焦点を当て、そこに展開す る強盗・殺人・傷害・謀略・詐術・忘恩など、もろもろの犯罪的、背徳的行為を摘出したもので、内容は、 京都内外の巷談的話題を中心に、花山院女王殺害事件のごとき史実談をも含んでいる。治安が乱れ、群盗が 横行する不安な世情と、それに対処する多様な人間の生きざまを活写した出色の説話が目立つ。巻末の動物 * ) つりく 談は、闘争・殺戮・報恩・復讐・邪淫など、種々のモチーフから成るが、これを悪行に一括したのは、動物 界を畜生道の境界と見、その生態や行為を悪業の結果とする仏教的解釈に立つものであろう。結びの巻三 十・三十一は共に雑事の巻で、前巻までのテーマ別類集に組みこめなかった世俗的説話を、話性によって分 ・あしかり・ 割集録する。巻三十は、男女の情愛をモチーフとする古物語的、歌物語的説話が多く、平中好色談や蘆刈説 説話などは著名である。巻三十一は、京都周辺の巷説的話題を始めとして広く諸国の奇談異聞を取り上げ、さ らに竹取説話や近江の巨木説話のごときロ碑・伝説にも及んでいる。他巻に比してやや雑纂的傾向が見られ 解るのは、雑事の編目が示すように、編者が雑纂性を承知の上で、捨てがたい採集話を出来るだけ収載しよう とした結果であろう。 かくて『今昔物語集』は、当時のわが国人にとっての全世界、天竺・震旦・本朝三国の説話の組織的一大 ぎっさん

9. 完訳日本の古典 第31巻 今昔物語集(二)

あきむね あわのかみふじわらの いる顕宗という者の父である。この佐大夫は阿波守藤原れた。この男は海に落ちて死んだと聞いたが、どうしてや さだなりのあそん ってきたのだろうと、夢、い地にも恐ろしく思いながら出て 定成朝臣の供をして阿波に下る途中船が沈み、守とともに こうちのぜんじ 行って会ってみると、佐大夫が、「わたしは死んで後、こ 海に落ちて死んでしまった。その佐大夫は河内禅師という の家の東北の隅に住んでいますが、あれから日に一度、 人の親類である。 そのころ、その河内禅師の家に黄まだらの牛がいた。そ〔樋〕集橋のたもとに行って苦しみを受けているのです。 ところが、わたくしは罪が深くて非常にからだが重いので、 の牛を知人が貸してほしいというので淀にやったところ、 つめばし 〔樋〕集橋の上で牛飼が車の扱いを誤って、片方の車輪を乗物が乗せられず、しかたなく歩いて行くのですが、苦し 七橋から落し、そのはすみで車も橋から落ちかかった。やれくてしかたありません。この黄まだらの御車牛は力が強く、 二車が落ちる、と思ったのか、牛は踏みはだかってこらえたわたしが乗っても大丈夫なので、しばらく拝借して乗らせ むながい ていただいていましたが、あなたがたいそうお捜しになっ 語ので、鞅が切れ、車は落ちてこわれてしまったが、牛はそ ておられるので、これから五日後、六日目の巳の時 ( 午前 るのまま橋の上にとどまっていた。車にはだれも乗っていな 十時 ) ごろ、お返しいたします。あまり大騒ぎしてお捜し 借かったので、怪我人はなかった。つまらぬ牛ならば、車に なされますな」と言う。こう夢に見て目が覚めた。河内禅 為引かれて、牛も傷ついたであろう。そこで、「すごく力の 師は、「わたしはこんな不思議な夢を見ましたよ」と人に 霊強い牛だ」と、そのあたりの人もほめたたえた。 とういうわ語って、牛は捜さずにいた。 のその後、その牛をたいせつに飼っていたが、・ その後、その夢に見た六日目の巳の時ごろ、この牛がに 禅けか知らず、姿を消してしまった。河内禅師は、「いった の どうしたことだろう」と、大騒ぎして搜したけれど見わかにどこからともなく歩いて帰って来た。何かひどく大 内し 河 仕事をしてきたような様子であった。 つからない。どこかへ逃げて行ったのかと、近くから遠く とうしても見つからないので、捜し すると、あの〔樋〕集橋で車は下に落ち、牛だけ橋の上 まで捜させてみたが、、、 に踏みとどまったのを、かの佐大夫の霊がたまたまそこに あぐねているうち、河内禅師の夢にあの死んだ佐大夫が現

10. 完訳日本の古典 第31巻 今昔物語集(二)

今昔物語集巻第二十五 38 たいらのこれもち 本話の典拠は未詳。前話に登場した平維茂の武勇に焦点を当て、領地争いに端を発した維茂 ふじわらのもろとう と藤原諸任の死闘の潁末を伝えた話。本集屈指の長編で、構成・内容ともに抜群の秀作。特に おおぎみ 全編を覆う迫真的な合戦描写と、弱肉強食の東国に生きた維茂・諸任・大君の三様の武人像を 描き分けた筆力は出色で、一個独立の戦記作品としてみても、優に中世軍記物語に比肩するも のがある。なお、死地を脱した維茂が寡兵をもって諸任を急追し、その首級を挙げた条は、後 でんがくはぎま ほうふつ きすう 世の織田信長の田楽狭間 ( 桶狭間 ) の一戦を彷彿とさせ、一方、合戦の帰趨を洞察し、二強の ほら 間に処する道を誤らなかった大君の分別は、戦国に対処した徳川家康の深慮や、洞が峠の筒井 順慶の老練さを想起させる。 一藤原氏。師尹の孫、定時の子。 長徳元年 ( 究五 ) 任陸奥守。同四年 十一月任国で没。歌人。実方集が いまはむかしさねかたのちうじゃういふひとみちのおくのかみなり 今昔、実方中将ト云人陸奥守ニ成テ、其ノ風ニ下ダリケルヲ、其ノ人ハある。 ニ酒食をもてなしてご機嫌をと やむごとなきむだち うちしかるべつはものどもみなさきぎきかみ かみ ること。 止事無キ公達ナレバ、国ノ内ノ可然キ兵共、皆前々ノ守ニモ下似、此ノ守ヲ 三↓三二ハー注五。 きゃうおう よひ たちみやづかへおこたことな 四 饗応シテ、夜ル昼ル館ノ宮仕怠ル事無力リケリ。 ↓一九ハー注一九。 五第四話には繁茂とみえる。正 しかあひだそ くにたひらのこれもちいふものあり これたんばのかみたひらのさだもりいひ つはもの 而ル間、其ノ国ニ平維茂ト云者有ケリ此ハ丹波守平貞盛ト云ケル兵ノしくは繁盛。↓三二ハー注 = 。 六 六 ↓三二ハー注一。 おとうとむさしのごんのかみしげなり いふこかむっさのかみかねただたらうなりそれおほおほぢをぢさだもりをひ ↓三二ハー注四。 弟ニ武蔵権守重成ト云ガ子上総守兼忠ガ太郎也。其ヲ曾祖伯父貞盛ガ甥 ^ 伝未詳。分脈は、秀郷より七 ならびをひこ みなと あっ ゃうじ これもちをひ またなか 井ニ甥ガ子ナドヲ皆取リ集メテ養子ニシケルニ、此ノ維茂ハ甥ナルニ、亦中ニ代目の孫師種に「沢俣、余五将軍 敵人」と注するが、分脈の系譜が としわか じふごらうたてやうじ よごのきみ 年若カリケレバ、十五郎ニ立テ養子ニシケレバ、字ヲバ余五君トハ云ケル也。正しければ時代が下り過ぎる。 あぎな ひと