門に討たれたので、この折に家の仇を討とうと思い、当時としたが、どうにもできない 。ところが、この玄明が将門 まのじよう 貞盛は在京して朝廷に仕え、左馬允であったが、その公務の配下になり、力を合せて国司を国庁から追い払った。国 きゅうきょ をも捨てて急遽帰国したものの、将門の威勢に敵対できそ 司はそのままどこかに身を隠してしまった。 五 十うもないので、本望を遂げ得ず、国内に隠れていた。 そこで、興世王が将門に相談をかけた、「一国を奪い取 第このように、始終合戦が行われていたが、ここに武蔵るだけでも罪は免れまい。だから、同じことなら関東一円 ごんのかみおきょのおう 権守興世王という者がおった。これは将門に同心の者で を強引に奪い取り、その成行きをみたらいかがでござろ 語ある。正式に国司に任ぜられたわけでなく、自分勝手に赴う」。こう言うと将門は、「いや、わしの考えも正にその通 とう 昔任して来た。その国の郡司がこれを違例のことだといって りだ。東八か国をはじめとして都をも奪おうと思っている。 今 拒んだが、興世王はそれを無視し、かえって郡司を罰した。 いやしくもこの将門は桓武天皇五代の末孫だ。まず、諸国 すけ ずりよう そこで郡司は身を隠してしまった。これを見たその国の介の印鎰を奪い取り、受領を京に追い返そうと思う」と言い つねもと である源経基という者が、ひそかに京にせ上り、朝廷に 謀議が終って大軍を率い、下野国に押し出す。早くもその 対し、「将門はすでに武蔵権守興世王と結んで謀反を起そ国の国庁に着き、国王即位の儀式を執り行った。 ひろまさ おおなかとみのむねゆき うとしております」と訴えた。天皇はこれを聞いて驚かれ、 この時、国司藤原弘雅・前国司大中臣宗行などが国庁 事の実否を尋問なさったが、将門は無実である旨を申し、 にしたが、前々から将門が国を奪おうとする様子を見てと ひたちしもうさしもつけ かずさ 常陸・下総・下野・武蔵・上総五か国の国司が証明した上り、進んで将門を拝し、直ちに印鎰を捧げ、地にひざまず 第 : っけのくに 申書を取り集めて朝廷に奉った。天皇はこれを諒とされ、 いてこれを献じ、逃げ去った。将門はここから上野国に進 将門はかえっておほめにあすかった。 む。即座に上野介藤原尚範の印鎰を奪い、使者を付けて京 ふじわらのはるあきら さてまた、常陸国に藤原玄明という者がいた。その国の に追いやった。そして、国府を占領し国庁にはいり、陣を これちか じもく 国司は藤原維幾であったが、玄明は何事によらず反抗の態固めて諸国の受領を任命する除目を行った。その時、一人 はちまんだいばさっ 度を示し、租税を国司に納めない。国司は怒って罰しよう の男が、神がかりの状態で、「われは八幡大菩薩の御使な ( 原文一一〇ハー ) いんやく たかのり
藤原親孝盗人の為に質に捕へられ頼信の言に依りて免す語第十一 源頼信の朝臣の男頼義馬盗人を射殺す語第十一一・・ 源頼義の朝臣安陪貞任等を罸っ語第十三 : 源義家の朝臣清原武衡等を罸っ語第十四・・ 今昔物語集巻第一一十六本朝付宿報・ : 但馬の国に於て鷲若子を馴み取る語第一・ 東の方に行く者蕪を娶ぎて子を生ずる語第二・ 美濃の国の因幡の河水出でて人を流す語第三 : 藤原明衡の朝臣若き時女の許に行く語第四 : 陸奥の国の府官の大夫の介の子の語第五 継母に託きたる悪霊人の家に継娘を将て行く語第六・ 美作の国の神猟師の謀に依りて生贄を止むる語第七 : 飛弾の国の猿神の生贄を止むる語第八 : 加賀の国の蛇と蜈と諍ふ島に行く人蛇を助けて島に住む語第九 : 土佐の国の妹兄知らぬ島に行きて住む語第十 : 参河の国に犬の頭の糸を始むる語第十一 能登の国の鳳至の孫帯を得る語第十一一 : 兵衛佐上矮の主西の八条に於て銀を見て得る語第十三 : 六平 : ・ : 一宅三 ・ : 三七四 ・ : 三七六 ・ : 三七九 ・ : 三九四 ・ : 四 9 一 ・ : 四 0 六 ・ : 四 0 八 ・ : 四 0 九 ・ : 八七
までしぶしぶついてきた従者はまた思い直し、精出して奉 されば、人に対してはやたらと憎しみを持ってはならな 仕に努めるようになった。さて、男は部屋に帰り、行李を 。また、仏神の加護でもあったのだろうか、この男は思 開いて小瓶のロをこじあけ、黄金百両を取り出して持って いもよらず黄金を見つけ豊かに過すことになった。これも 行き、守に与えると、守は喜んだのなんの、 いいようもな前世の福報によるものであろう、とこう語り伝えていると いほどもてなしたので、陸奥国にいるよりはかえってよい い , っことた。 五 第目をみることになった。 やがて、越後守は陸奥守より前に任期が終り、この男は 能登の国の鐡を堀る者佐渡の国に行きて を大金持になって上京した。京でも、金をしこたま持ってい 金を堀る語第十五 うどねり てるので悠々と〔暮している〕うち、内舎人になった。こう のとのくに 今は昔、能登国では鉄の原鉱石とかいうものを掘り出し、 行して朝廷に仕えていたが、天皇の代が替って、不破の関の 卸冂凵という役になってこの関に下り、警護に当った。その国司に納める習わしになっていた。 さねふさ さて、〔実房〕という国司の在任中、その鉄を掘る人夫 渡折、かの陸奥守が中上りということで、奥方や娘などとと かしら が六人いたが、仲間同士で話をしている時、その頭立った 者もに上京してきて、関を警護している所にさしかかり、 堀「お前は朝廷にお仕えすべき者であったな」と言って通ろ者が、「佐渡国には黄金の花の咲いている所があったそ」 と言ったのを、守が人づてに聞き、その頭を呼び寄せ、物 鐡うとしたが、通してなるものか。通ろうにも通さず、引き 国返そうにも引き返させない。につちもさっちもゆかせず苦を与えて尋ねると、「佐渡国には黄金があるのでしようか、 登しめて、関にとどめて〔虐待し〕たので、守は朝廷に訴え黄金が取れそうに見える所がありましたので、事のついで たが、すぐにはご沙汰もなく、そのうち、供の人夫共も主 に仲間話としていたしましたのを、お聞き及びになったの でございましよう」と言った。すると守が、「では、その 人を捨てて逃げ去った。馬共もみな飢え死にさせ、十分に 恥をかかせひどい目にあわせてやった。 ように見えた所に行って取って来てくれぬか」と言うので、
( 原文一二一 が、のがれようもないことなので、月日のたつにつれ、命 はしだいに縮まってゆく、こうして、親子が顔を合せるこ とも残り少なになっていったので、その日を指折り数えて は、互いに泣き悲しむよりほかのことはなかった。 ちょうどそのころ、東国の方から何かの用でこの国にや いめやま 美作の国の神猟師の謀に依りて生贄を止 ってきた男がいた。この男は犬山といって、多くの大を飼 むる語第七 第 、山にはいってその犬に猪や鹿を食い殺させて猟をする 語 る ことを仕事にする男であった。なかなか勇猛で物おじなど みまさかのくにちゅうざんこうや しない男である。この男がこの国にしばらくとどまってい 止今は昔、美作国に中参・高野という二神が鎮座していた。 贄そのご神体は、中参は猿、高野は蛇でいらっしやった。毎るうち、いっかこの話を耳に入れた。 、ナ冖 - ん て年一度のお祭には生贄を供える習わしがあったが、生贄に ある日、用があってこの生贄の親の家に行き、案内を乞 しとみどすきま は、その国の未婚の娘を立てることになっていた。これは 依 うて待っている間、縁に腰をかけて蔀戸の隙間から家の中 をのぞくと、この生贄の娘が一人うち伏しているのが目に 諏昔から最近まで長い間の慣習であった。 師さて、この国に、さほどの家柄ではないが、年のほど十はいった。まことに美しく、色白でかわいらしく、髪も長 いなかびと くて、とても田舎人の娘とは思われぬほど上品である。そ 神六、七の美しい娘を持っている人がおった。父母はこの娘 国をたいそうかわいがり、わが身に替えていとおしんでいたれが悲しげな様子で、髪を乱して泣き伏しているのを見て、 この東国の男は哀れにもまたいいようのない同情の念にか 作が、これがその生贄に当てられた。ところで、生贄はその 美 年の祭の当日名ざしされると、その日から一年間よく養い られた。やがて、親と会っていろいろ話をしているうち、 太らせて、翌年の祭の日に捧げるのである。この娘が名ざ親は、「たった一人の娘をこのような生贄に当てられ、朝 しされてからというもの、父母はこの上なく嘆き悲しんだ にタに嘆き悲しんでいましたが、月日のたつにつれ、別れ 継母に託きたる悪霊人の家に継娘を将て 行く語第六 ( 本文欠話 )
とした。 その後、将門は常に事あるごとに親類一門とたえす合戦 平将門謀反を発し誅せらるる語第一 を続けていた。そのため、あるいは多くの人家を焼き捨て、 たいらのまさかど すざくてんのう 今は昔、朱雀天皇の御代のこと、東国に平将門という武あるいは多くの人命を奪った。このような悪行ばかりを事 かんむてんのう たかもちのしんのう としたので、その近隣の国々の多くの民は農耕もできす、 語人がおった。これは桓武天皇の御孫の高望親王と申す方の よしもち る子に当る鎮守府将軍良持という人の子である。将門は常租税労役を勤める暇もない。そこで、国々の民はこれを嘆 。しもろ′さのくに せ陸・下総国に住み、弓矢の道を自己の身上として多くの勇き悲しみ、国司の上申書をもってこれを朝廷に報告したと ころ、天皇は聞いて驚かれ、即座に将門を喚問せよとの宣 し猛な武士を集め、これを配下として合戦をするのを日ごろ 旨を下された。将門は召しにより直ちに上京し、自分の無 をの事としていた。 よしかめ 反 はじめ、将門の父良持の弟に下総介良兼という者がいた。実を陳弁したが、数度にわたる審議の結果、将門は無実で 謀 あるとのご認定があり、数日後許されて本国に帰って来た。 将門は、父の死後、その叔父良兼とささいなことで行違い 平 だが、その後また、どれほどもたたぬうちに合戦に明け があり、仲が悪くなった。ついで、父の故良持の荘園の所 よしまさ みなもとのまもるたすく 有権争いから、ついに合戦にまでたち至ったが、良兼は道暮れるようになり、叔父良兼や良正および源護・扶など さだもり と日夜合戦を行った。また、平貞盛は、以前父の国香が将 心深く、仏法を尊んでいたので、合戦はなんとか避けよう 今昔物語集巻第一一十五本朝付世俗 ひた いとま
おんし るそーとロ走りながら、「わが位を蔭子平将門に授ける。 あわてて京に上った。新皇は武蔵国・相模国などにまで回 すみやかに音楽を奏してこれを奉迎せよ」と告げる。これ って行き、国の印鎰を取り上げ、租税労役を勤めるよう国 を聞いて、将門は二度礼拝する。まして彼に従う大勢の軍庁の留守役の者に命じた。その上、自分が天皇の位につく 兵共は皆歓声を上げた。ここに至って、将門はみずから上旨を、京の太政官に通達した。これを得て、天皇をはじめ 奏文を作って新皇と称し、これを直ちに天皇に奏上した。 として百官ことごとく驚愕し、宮廷内は大騒動になった。 ま * 、ひら ところで、新皇の弟に将平という者がいた。これが新皇天皇は、「もはや仏の加護にすがり、神の助けをこうむる に、「帝王の位につくのは天が与えるところなのです。この ほかはない」とお思いになり、山々寺々に対し顕教、密教 きとう ことをよくお考えください」と言った。だが新皇は、「わを問わず、数多くの祈疇を行わせ、また神社という神社に しは弓矢の道に達している。今の世は討ち勝つ者を君主と祈願を命ぜられたが、じつにえらいことであった。 一方、新皇は相模国から下総国に帰り、いまだ馬の足も 一するのだ。何の遠慮があろう」と言って承知せず、直ちに まさより 語諸国の受領を任命した。下野守には弟の将頼、上野守には休めぬうちに、残りの敵をすべて討ち滅そうと、大軍を引 はるもち あわの つったじのつねあき る多治常明、常陸介には藤原玄茂、上総介には興世王、安房き連れて常陸国に向った。これを知った藤原の一族たちは ふんやのよしたっ さがみのすけ まさたけ らかみ 国境に待ち受けて、山海の珍味を備えて新皇をもてなした。 せ守には文屋好立、相模介には平将文、伊豆守には平将武、 まさなり し下総守には平将為等である。また、都を下総国の南の亭に 新皇はこれに、「藤原氏の者共よ、平貞盛らのいる所を教 いそっ を建設するよう議定した。また、磯津の橋を京の山崎の橋に えよ」と言うと、「彼らは、聞くところによりますと、浮 謀見なし、相馬郡の大井の津を京の大津に見立てた。そして、雲のように居場所を転々と変えております」と答えた。 やがて、貞盛・護・扶などの妻が捕えられた。新皇はこ 楙左右の大臣・納言・参議・百官・六弁・八史などみな定め、 平 天皇の印や太政官の印を鋳造するための寸法・字体も定めれを聞き、その女たちがはずかしめを受けぬよう命じたが、 ) よみ この命が届く前に、兵士たちによって犯されてしまった。 たたが、暦博士についてはどうしようもなかったようだ。 ところで、諸国の国司たちはこのことを漏れ聞いて、皆 だが、新皇はこの女たちを解き放ち、みな家に帰してやっ まさぶみ
時には必ず射殺してやるそ」と言って、杖で二十度ばかり ずつ順々に殴りつけ、里の者をみな呼び集めて例の社にや 加賀の国の蛇と蜈と諍ふ島に行く人蛇を り、焼け残った祠もみなこわしてひと所に集め、火をつけ 助けて島に住む語第九 十て焼き払った。猿は四匹とも打ち叩いて追っ払った。猿は 今は昔、加賀国ロ郡に住む下賤の者七人は仲間を組んで、 第片足を引きながら山深く逃げ入り、その後は二度と姿を現 さなかった。 いつも海に出て釣りをするのを長年仕事にしていたが、あ 集 語 この生贄の男はその後この里の長者となり、人々を手足る時、この七人が一つ船に乗って漕ぎ出した。この者たち 物 は釣りをしに出たのだが、おのおの弓矢や刀剣を持ってい 昔のように使い、かの妻とむつまじく暮した。 今 こちらの国の方にも、時々ひそかに通って来たので、こ はるかの沖に漕ぎ出して、陸地も見えぬあたりまで来る のことを語り伝えたのであろう。あちらにはもとは馬も牛 と、思いがけず突然大風が吹き出し、どんどん沖の方に吹 も犬もいなかったが、猿が人に悪さをするというので犬の き流されてゆく。あれよあれよといううちに流されてゆく 子とか、また用を足すためにとて馬の子とかを連れて行っ すべ たので、それらがみな子を産んで、数多くになった。飛弾ので、どうする術もなく、櫓も引き上げ、風のまにまに、 しなののくに 国の近くにこのような所があると聞いていたが、信濃国のもう死を待つばかりと泣き悲しんでいる時、行く手に遠く みののくに 人も美濃国の人も行ったことはなかった。そこの人はこち大きな離れ島が目にはいった。「島があったぞ。なんとか あの島に上がり、しばらくでも命が助かりたい」と思って らにひそかに通って来るようだが、こちらの人は向こうに いると、人がわざと引き寄せるかのように、船がその島に 行くことはなかった。 思うに、かの僧がそこに迷い込み、生贄をやめさせ、自近寄って行くので、「まずまず、しばらくの命は助かった ようだ」と思い、喜んで我先に飛び降り、船を岸に引き上 分もそこに住み着いたというのも、みな前世の因縁であろ くだもの げ、島の様子を見回すと、水が流れ出ていて、果物の木な , つ、とこ , っ語り伝えているとい , っことだ。 ( 原文一四〇ハー ) っえ かがのくに
それからしばらくして、例の男が片足を引きずって、ひ途中の食糧など船に積み込んで船出させると、島の方から どく苦しそうな様子をし、顔は傷つき、血を流しながら現 にわかに風が吹きはじめ、たちまちのうちに加賀国に走り れた。今度も食べ物など持って来て漁師たちに食べさせ、 渡った。 七人の者たちはおのおのもとの家に帰り、かの島に行こ 九言葉を尽して感謝する。そしてむかでをばらばらに切り放 うという者はみな誘って引き連れ、ひそかに出かけようと 語ち、その上に山の木を〔切り〕かぶせて焼いてしまい、そ 船七艘を用意し、作物の種などことごとく調えて、まず熊 住の灰や骨などを遠くに投げ捨ててしまった。 ・も、つ・ 田宮に詣で、事の次第を申し上げて船に乗り、沖に漕ぎ出 そして漁師たちに向い、「わたしはあなた方のおかげで、 この島には田すと、またにわかに風が吹き出し、七艘とも島に渡り着い けこの島を無事に所有できて本当にうれしい をを作る所が多く、畑も至る所にあり、果物の木も数知れずた。 あります。ですから、なにかにつけて住みやすい島なので その後、七人の者たちは島に住み着き、田畑を耕し、し 馗 だいに繁栄して子孫が数知らすふえ、今もそこに住んでい 行す。あなた方もこの島に来てお住みになったらと思うので る。その島の名を猫の島という。その島の人は年に一度加 島すが、いかがでしよう」と言う。漁師たちは、「それはた 諍いそうありがたいことですが、妻子はどうしたらいいでし賀国に渡り、熊田宮の祭をするということで、この国の人 がそれを知り、様子をのぞき見しようとするそうだが、ど 蜈よう」と一言うと、男は、「それは迎えに行って来たらよろ うしても見つけることができなかった。島の者は思いもか 蛇しいでしよう」と言う。漁師たちは、「だが、それをどう 国したらここへ連れて来られますか」ときくと、男は、「向けぬ夜中などに渡って来て、祭をして帰ってしまうので、 そのあとで、いつものように祭をしたのだと気がつくとい 賀こうへ渡る時は、こちらから風を吹かせて送りましよう。 くまだのみや 加 こちらへ来る時には、加賀国に熊田宮と申す社があり、そ う。その祭は例年行われ、今も絶えず続いている。その島 れはここの分社でおありですが、その宮をお祭りすれば、 は能登国ロ郡の大宮という所からよく見えるそうで、く たやすくこちらに来ることができます」など詳しく教え、 もった日に眺めると、はるかかなたに、西側が高く、青み
まさかどむじちよしまうし ひたちしもっさしもつけむさし 否ヲ被尋ルニ、将門無実ノ由ヲ申テ、常陸、下総、下野、武蔵、上五箇国ノ一証拠をあげて判定すること。 ニ「聞食スニ、直ニシテ」の意。 しよらノばんこくげ おほやこれきこしめただち まさかどかへりぎよかむあり 三天皇のおほめ。御嘉賞。 證判ノ国解ヲ取テ上グ。公ケ此ヲ聞食シ直ニシテ、将門返テ御感有ケリ 五 四 五 六 四伝未詳。 そのくに かみはふぢはらのこれちかなりはるあきらたいかんむね 十・そののちまたひたちのくにふぢはらのはるあきらいふものあ 五清夏の子。旧名真衡。常陸・ 一一其後亦常陸国ニ藤原玄明ト云者有リ。其国ノ守藤原維幾也。玄明対捍ヲ宗 讃岐介、武蔵守。従五位上。 くわんもっこくしわきまへ あへかな ( は ) ずしか 巻 トシテ、官物ヲ国司ニ不弁ズ。国司嗔ヲ成テ責ムト云へドモ、敢テ不叶ハ。而六手向うこと。反抗。 そようちょう 集 セ租・庸・調の税物。 ロ はるあきらまさかどしたがひ まさかどちからあは たちお すなはちこくし ルニ、玄明将門ニ随テ、将門トカヲ合セテ、国司ヲ館ヲ追ヒ去ケリ。即国司〈弁済しなか 0 た。 九国司を国府から追放した。 ムフかくうせ 一 0 免れまいの意。 隠レ失ヌ。 = 足柄坂以東で、関八州と同意。 しかるあひだおきょのわうまさかどはかり いふ すぎじ 而間、興世王将門ニ議テ云ク、「一国ヲ打取ルト云トモ、其ノ過ガ不過。一 = 不法に領有する意。 一三いわゆる関八州で、相模・武 おなじばんどうあふりゃう そのけしきみたま まさかどこたへていはくわ おもところただ レバ同ク坂東ヲ押領ジテ、其気色ヲ見給へ」ト。将門答云、「我ガ思フ所只蔵・安房・上総・下総・常陸・上 一四野・下野の八国の総称。時に一国 なりとうはちこく わうじゃうりゃう おも いやし まさかどかしはばらのてんわうご 此レ也。東八ヶ国ョリ始メテ王城ヲ領ゼムト思フ。苟クモ将門柏原天皇ノ五を除いて伊豆を加えることもある。 一四将門は桓武天皇の皇子葛原親 とり し・よ、一く いんやくば じゅりゃうきゃうおひのばせ をはりおほく 世ノ末孫也。先ヅ諸国ノ印鎰ヲ奪ヒ取テ、受領ヲ京ニ追上ム」ト議シ畢テ、多王より五代目。 いんじ 一五印璽とかぎ。国司の統治権の ぐんそっ しもつけのくにわた すでくにのちゃうつき そぎしきは 象徴。 ノ軍ヲ率シテ、下野国ニ渡ル。既ニ国庁ニ着テ、其ノ儀式ヲ張ル。 一九 一六下野国府は都賀郡に所在した。 そのときくにつかさふぢはらのひろまさぜんじおほなかとみむねゆきらたちあり かね 其時ニ国ノ司藤原弘雅、前司大中臣ノ宗行等館ニ有テ、兼テ国ヲ奪ムトスル宅王位につく儀式を執行する意。 一 ^ 春茂の子。式部大丞、下野・ まさかどはい すなはいんやくささげぢひぎまづきさづけ それ 越中守。従五位下。 気色見テ、先ヅ将門ヲ拝シテ、即チ印鎰ヲ捧テ地ニ跪テ授テ、逃ヌ。其ョリ ニ 0 一九「完行・全行」とも。安則の子。 そののち かむつけのくにうっすなはちすけふぢはらのたかのりいんやくばひ つかひつけきゃうお 伊予掾、勘解由次官、下野守。 上野国ニ遷ル。即介藤原尚範ガ印鎰ヲ奪テ、使ヲ付テ京ニ追ヒ上ツ。其後、 ( 現代語訳三三八ハー ) ぶたづねらる けしきをみ せいばっそんなりま ま とりあ こくしいカりなしせ いっヤ」く うちと 九 そと のけ ぎ か む 、むさ か く のばせ 0 し
た。そこで、天皇は公忠の弁をたいそうおほめになった。 でだれとはわからないが、下賤な者ではあるまいと思い この弁は、武人の家柄の者ではないが、聡明で思慮深く その前に膝をついてかしこまると、その人が、「そなたは 物おじしない人物であった。だから、このような怪物をも このわしを知っているか」と言う。男が、「存じ上げませ すき 十恐れずに、隙を見て蹴ったのである。他の者なら、どのよん」と答えると、その人がまた、「わしはな、昔この国に とものよしお 第うな仰せがあろうとも、あれほどの闇の中で、紫宸殿の物おった大納言伴善雄という者だ。伊豆国に流されて、ずつ えやみのかみ 陰にたった一人でひそんでいられるものではない。 と以前に死んでいる。それが行疫神となったのだ。わしは 集 語それ以後、この御灯油を盗むことはまったくなくなった、 心ならずも朝廷に対して罪を犯し、重い罰をこうむったが、 昔とこう語り伝えているということだ。 朝廷に仕えている間は非常に国の恩を受けた。それゆえ、 今 まんえん 今年は国じゅうに悪疫が蔓延し、人々が皆病死するはすに 或る所の膳部善雄の伴の大納言の霊を見 なっていたが、わしが咳病ぐらいにとどめるよう指示した る語第十一 のだ。だから、世間至る所咳病が流行しているのだ。わし はこのことをお前に伝えようと思い ここに立っていたの しわぶきやみ 今は昔、冂凵のころ、国じゅうに咳病が大流行し、ひと だ。そなたは別にこわがることはない」と言って、かき消 ころはこれにかからぬ者とてなく、上中下のすべての人がすように見えなくなった。 病み伏した。 調理人の男はこれを聞いて、こわごわ家に帰り、人々に そのころ、ある屋敷で調理人をしていた男が、その日の 語り伝えた。それ以来、人々は伴大納言が行疫神になって しることがわかった。 仕事がすっかり終ったのでわが家に帰ろうとして、亥の時 ( 午後十時 ) ごろ、人がみな寝静まってから屋敷を出ると、 それにしても世には人も多いのに、どうして特にこの調 門の所で、赤い上衣に冠を着けた、たいそう気高く恐ろし理人の男にこのことを告げたのであろう。それにもきっと げな人に出くわした。見たところ、人品卑しからぬ人なの何か訳があるのだろう。こう語り伝えているということだ。 やみ ひぎ