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検索対象: 完訳日本の古典 第33巻 今昔物語集(四)
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1. 完訳日本の古典 第33巻 今昔物語集(四)

ふそうりやっき ほんちょうせいき という話。『扶桑略記』二五天慶一一年己亥の条に「或記云」として収め、『本朝世紀』二天慶元年八月 こじだん + 二日丙戌の条、『古事談』五神社仏寺にも同話を収める。本話はこれらと同原の記録に由来する ものであろう。 十 一天暦 ( 九四セ ~ 九五七 ) 年間に限らす、 第 広く第六十一一代村上天皇の治世を 巻 さす。なお、扶桑略記以下では朱 集 四 五 雀天皇治下の天慶元、一一年 ( 九三八 ~ 五ロ いまはむかしてんりやくみよ あはたやまひむがしやましなさときたかたてらあ はじめふぢをでら 1 = 1 ロ 物今昔、天暦ノ御代ニ、粟田山ノ東山科ノ郷ノ北ノ方ニ寺有リ。始テ藤尾寺九 = 九 ) の事件とする。↓本話解説。 昔 ニ↓一八六ハー注六。 そ てらみなみべちだうあ としおい そだうひとり あますみ そあま 今 ト云フ。其ノ寺ノ南ニ別ノ堂有リ。其ノ堂ニ一人ノ年老タル尼住ケリ。其ノ尼三京都市山科区の東部地域。本 集中に南、北山科の地名も見える。 ざいゆたか よろみなおもやう としごろすぐし 四寺を建立した当初に。 財豊ニシテ、万ヅ皆思フ様ニテナム年来過ケル。 かいじゅうせんじ 六 五海住山寺の古称であるが、所 そ あまわか ねむごろはつまんつかまつりつねまうで こころうちおもひ七 其ノ尼若クョリ懃ニ八幡ニ仕テ常ニ詣ケル。心ノ内ニ思ニケル様、「我レ年在地が異なり、別寺。 いわしみず 六八幡大菩薩。ここでは石清水 ごろだいばさったのたてまつり ねむたてまっ おなじわゐ ほとりだいばさつうつ 八幡宮の主祭神、八幡大菩薩 ( 応 来大菩薩ヲ憑ミ奉テ、朝暮ニ念ジ奉ル。同クハ我ガ居タル辺ニ大菩薩ヲ遷シ 神天皇 ) 。本地垂迹説により、八 たてまつり つねづねおもひごとあがうやまたてまっ おもひたちまちそわたりところえらびほうでん 奉テ、常々思ノ如ク崇メ敬ヒ奉ラム」ト思テ、忽ニ其ノ辺ニ所ヲ撰テ、宝殿幡神を護国霊験威力神通大自在王 菩薩の垂迹身とみて大菩薩とする。 めでたくかぎりだいばさつあがめたてまつり としごろあがたてまつり あままたねがおもひ ヲ造リテ微妙荘テ、大菩薩ヲ崇奉テ、年来崇メ奉ケルニ、尼亦願ヒ思ケルセ「ニ」はあるいは「ヒ」の誤写か。 ぶんし ^ 八幡大菩薩の神霊を分祀申し こと ゃう ほんぐう はづきじふごにちほふゑおこなひ はうじゃうゑ あげて。 様、「本宮ニハ毎年ノ事トシテ、八月ノ十五日ノ法会ヲ行テ、放生会ト云フ。 九石清水八幡宮。尼が山科に勧 だいばさつおほむちかひょ されわ みや おなじひこ はうじゃうゑおこな 請した新八幡宮に対する語。 此レ、大菩薩ノ御誓ニ依ル事也。然バ我レ此ノ宮ニモ同日ニ此ノ放生会ヲ行ハ 一 0 「放生」は「殺生」の対。金光明 おもひえ としうちところどころ ほんぐうごと はうじゃうゑおこなひしゅ はらき ム」ト思得テ、本宮ノ如ク、年ノ内ニ所々ニシテ放生会行テ修シテ、八月ノ最勝王経所出の流水長者の放生の とー ) ′ ) と てうば ゃうわとし

2. 完訳日本の古典 第33巻 今昔物語集(四)

こうして、毎年行っているうち、いっしか数年経過した かの新宮に行き、神殿を壊し御神体を奪って、本宮に安置 ほうじようえ 幻が、本宮の放生会はしだいに新宮に劣るようになり、祝儀し奉るべきである」と決め、無数の神人らが雲のようにき なども新宮の方がすばらしいので、舞人・楽人などもみな おい集り、かの粟田口の宮に押し掛け、尼が夜昼あがめ奉 十争ってこの粟田口の放生会に集るようになったため、本宮 る新宮の神殿をみなめちやめちゃに破壊し、御神体を奪っ 第の放生会は幾分すたれた。そこで、本宮の僧俗の神官たち て本宮にお遷しして、護国寺に安置し奉った。それゆえ、 はみなこれを嘆き、相談した上で、使者をかの粟田口の尼その御神体は今も護国寺に鎮座なさって霊験あらたかであ はちまんだいばさっ 語のもとにつかわし、「八月十五日は、これ八幡大菩薩の御る。粟田口の放生会はその後絶えてしまった。 だいえ 昔誓いにより、昔から今に至るまで行われている放生の大会 もともと、朝廷の許可を得て行っている放生会でもなか 今 しかるに、その当 である。人が考え出したものではない。 ったので、その尼は訴え出ることはしなかった。ただ、世 日、また別にそちらにおいて放生会を行うがために、本宮 間では尼を非難した。本宮から、「日延べして別の日に行 の恒例の放生会がまさにすたれようとしている。されば、 え」と言ってきたことに従って、別の日に行ったならば、 そなたの行われる新しい放生会を八月十五日に行わず、く 今でも双方並んで放生会が行われたであろうに。むきにな り延べて他日行うべきである」と通達した。 って言い募り、日延べしなかったのがよくないのだ。しか これに対し、尼は、「放生会は大菩薩の御誓いにより八 しこれもしかるべき冂凵ごとであろうか。大菩薩をあがめ 月十五日に行うことになっています。されば、この尼が行奉るとよ、、 しししながら、古来尊ぶべき法会であるのに、その う放生会も、同様に大菩薩をあがめ奉ってすることですか盛大さを競うようにしたのを、大菩薩がけしからぬとお思 いになったのであろうか ら、やはり八月十五日をもって行うべきです。絶対、別の 日に行うわけにはいきません」と答えた。 その後、本宮の放生会はいよいよ盛大で、今に至るまで 使者が帰り、尼の返事を伝えると、本宮の僧俗の神官た栄え続けている。こう語り伝えているということだ。 ちは一様に大いに怒り、また相談して、「我々はさっそく あわたぐち

3. 完訳日本の古典 第33巻 今昔物語集(四)

神殿を造り、りつばに飾り立てて、大菩薩を勧請し奉った。 第 こうして、長年あがめ奉っていたが、尼はさらにこういう 東山科の藤尾寺の尼八幡の新宮を遷し奉 語 る 願いを起した、「八幡本宮では毎年の行事として、八月十 る語第一 奉 ほうじっえ ーレ 五日に法会を行い、放生会といっている。これは大菩薩の あわたやま やましなの てんりやく 宮今は昔、天暦 ( 村上天皇 ) の御代に、粟田山の東、山科御誓いによるものである。それゆえ、わたしはこの宮にも ふじおでら の郷の北の方に寺があった。この寺は建立と同時に藤尾寺と同じ日にこの放生会を行おう」。こう思いついて、年中行 八名づけられた。その寺の南に別の堂があり、その堂に一人事として、本宮とは別に放生会をとり行うことにして、本 あま のの年老いた尼が住んでいた。その尼はたいそう豊かで、長宮と同じく、八月十五日に放生会を行うことになった。そ の儀式は本宮の放生会とすっかり同じにした。そこで、さ 尾年まったく満ち足りた生活を送っていた。 はちまん 藤 まざま多くの高僧を招き、すばらしい音楽を奏し歌舞を整 この尼は若い時から熱心に八幡に帰依し、常に参詣を怠 の はちまんだいばさっ えて法会を行ったが、この尼はもともと裕福で何の不自由 臨らなかったが、心中、「わたしは長年八幡大菩薩をお頼み 東 し、朝夕祈念し奉っている。同じことなら、わたしの住むもなかったから、招請した僧への布施も楽人の祝儀なども 近くに大菩薩をお遷し申し、思いのまま常にあがめ奉りた十分であった。そんなわけで、本宮の放生会に見劣りしな 、刀学 / いものだ」と思いっき、さっそくその近くに土地を選定し、 さと 今昔物語集巻第三十一本朝付雑事 うつ つつ ) 0

4. 完訳日本の古典 第33巻 今昔物語集(四)

今昔物語集 6 逆 ( 逆 ) 荅 ( 答 ) 絅 ( 網 ) 畋 ( 殺 ) 悪 ( 悪 ) 耻 ( 恥 ) 析 ( 料 ) ( 胸 ) 珎 ( 珍 ) 盖 ( 蓋 ) 撫 ( 極 ) 状 ( 厭 ) 躰 ( 体 ) ( 腰 ) 閇 ( 閉 ) ( 庭 ) ~ 取 ( 最 ) 邃 ( 違 ) 嶋 ( 島 ) 餝 ( 飾 ) 舘 ( 館 ) ( 構 ) 簽 ( 養 ) 癡 ( 痴 ) ミ跡 ) 弊 ( 算 ) 蓑 ( 発 ) 竊 ( 窃 ) 凬 ( 風 ) ( 憑 ) 4 常用漢字に該当しない字はおおむね正字体に改めた。次にその一端を示す。 陀 ( 陀 ) 菴 ( 庵 ) 陳 ( 隙 ) 篝 ( 簀 ) 輙 ( 輒 ) 糎 ( 纏 ) 横 ( 櫃 ) 譛 ( 譖 ) 个 ( 尓 ) 非 ( 菩薩 ) 非 ( 菩提 ) 廿 ( 二十 ) 卅 ( 三十 ) 卅 ( 四十 ) 鋻 ( 鍬 ) 尻 ( 尻 ) ( 搦 ) 5 漢字の踊り字は「々」、片仮名の踊り字は「、」に統一した。 一、片仮名は、もと割り注式双行体で記されていたかと思われるが、すべて単行体として普通の大きさとし 一、底本に誤写・誤字があると認めた時は、まず異本に徴すべきものがあれば、これを探り、他に徴すべき ものがない時は、おおむね元のままとし、正しいと推定される形を脚注で示した。 一、底本に存している空格は、冂凵をもって示し、底本に存していないが、校訂者が推定して置いた空格は、 をもって示した。 、つさいもとのままとした。これは、校訂者が平安 一、底本の仮名づかいは、誤写と認めなかったものは、し 時代に、いわゆる「古典仮名づかい」とは違う一種の仮名づかいが行われていた ( これを「平安仮名づか い」と呼ぶ ) と認めている立場に立っているからである。本書はむしろそういう平安仮名づかいの資料に もなるであろう。

5. 完訳日本の古典 第33巻 今昔物語集(四)

さまよ いまとりつくろひ ・すず・しはかまきょげ 衣、厳気ナル生ノ袴ノ清気ナルナド有付テ、今取蹄タルトモ不見工ズ、様吉一四「頼ーは上の「額」の衍字の見せ 消ちの誤写、「ロ」は「ツ」の古体の ほしゃうなりしか まみひたひ一四 にくから クテ居タル眼見、額頼ロキナド不愡ズ、見マ欲キ様也。然レバ弁、事シモ今日誤写で、原姿は「額ッキ」だろう。 ↓一〇〇ハー注五。 かへすがヘわ はじ ゃう 始メテ見ム人トノ様ニ、「此ヲバ何ド今マデ不見ザリケルゾ」ト、返々ス我ガ一五ただ今日初めて会う相手のよ うに新鮮に美しく感じられて。 さまた ふし おも つきごろへだて こころくちをし きゃうよみたてまっ 心モロ惜クテ、「経読奉ルヲモ取リ妨ゲテ臥ナバヤ」ト思へドモ、月来ノ隔一六相手の了解なしに無理じいを するのも気がひけて。 ゆる おしたた こた とかくものいひかく ニ許サレ無クテ押立ムモ漠マシクテ、此彼物云懸レドモ、答へズ不為ネパ、経一セ「答へズ」と「答へ ( モ ) 為ネパ」 の混態か。なお、「バ」は「ド」とあ うち一 ^ にほひす かたとりかへもの よみはてよろいはむ 読畢テ万ヅ云ズル気色ニテ、打冂凵凵〕タル顔ノ匂、過ヌル方取返ス物ナラバ今りたいところ。↓五五ハー注一八。 一 ^ 「ウナヅキ」の漢字表記を期し のちこ とどま けふ あながちさまあし おば モ取返シッペク、強ニ様悪キマデ思ュレバ、ヤガテ留リテ、「今日ョリ後、此た欠字。了解の意思表示である。 一九法華経第二十三品、薬王菩薩 こころうちょろづせいごんおもひつづ つきごろこころ ほかなり ひとおろかおもひ ノ人ヲ愚ニ思タラバ」ト、心ノ内ニ万ノ誓言ヲ思次ケテ、月来心ョリ外也ツル本事品の略。薬王菩薩が法華供養 のために焼身焼臂した由来を記し、 こた 、しち・まきなり やくわうばむおしかへおしかへ 七 かへすがヘ この品を受持する者は死後安楽世 第事ナドヲ返々ス云へドモ、答へモ不為デ、七ノ巻ニ成テ、薬王品ヲ押返シ々シ 界に往生すると説く。 よみはてたま まうすべきことども 死 みたびばかりよみたてまっ べんな かへし 女クリ返ツ、、三度許読奉レバ、弁、「何ド此クハ。疾ク読畢給へ。可申事共ニ 0 命終して後、ただちに極楽世 界の阿弥陀仏や大菩薩たちが取り おしみやうじうそくわうあんらくせか いあみだぶつだいばさっしうゐねうぢう 臣おほ 朝モ多カリ」ト云フニ、「於此命終即往安楽世界阿弥陀仏大菩薩衆囲遶住巻いている所に往生し、宝池の青 い蓮華の中の宝座の上に生れよう、 ところよみたてまつりめ なむだ しよしゃうれんぐゑちうほうぎしじゃう 師 の意。なお、本句を誦し終って往 弁所青蓮花中宝座之上」ト云フ所ヲ読奉テ、目ョリ涙ヲホロ / 、ト泛セバ 生を遂げた類例に定昭僧都の往生 め みあはせ をむななむだうかび あなうた あまばらやうだうしむつきたまひ 右ペん 弁、「穴転テ。尼原ノ様ニ道心付給タルヤ」ト云フニ、女涙ノ浮タル目ヲ見合譚がある ( 古今著聞集、釈教 ) 。 ニ一ああ、いやだ。↓ 五〇ハー注三。 おもひ おも しもっゅめれ 一三不吉に思われて。 タル、霜露ニ湿タルカト思フニモ、忌々シクテ、「月来何ニ価シト思ッラムー きめいつくしげ とりかへ みひ な けしき つつ な と せ ありつき み み つきごろいかつれな と ペんこと み せ きゃう

6. 完訳日本の古典 第33巻 今昔物語集(四)

は見いだし得ないが、関連記事は『権記』長保元年十二月九日・同十三日・同二年六月二十八日・七月十六日の 条などにみえ、これによると、一条天皇の眼病が妙見菩薩の祟りということで、平癒のため に霊巌寺妙見堂を修理し、妙見像を綵色したとある。 ↓一二七ハー注六。 十 ニ京都府葛野郡にあった寺。妙 第 見堂があり、三月三日には山上に いまはむかしきたやまりゃうがんじ てらあり てらめうけんげんたまところなりてら 巻今昔、北山ニ霊巌寺ト云フ寺有ケリ。此ノ寺ハ妙見ノ現ジ給フ所也。寺ノ灯火をともして北辰を祭。たとい 四 う ( 山城名勝志 ) 。↓本話解説。 まへさむちゃうばかりさり しはかどあ ひとかがまりとほばかりあな あり よろづひとみな 語前ニ三町許去テ巌廉有リケリ。人ノ屈テ通ル許ノ穴ニテゾ有ケル。万ノ人皆 = 北斗七星に対する信仰からそ れを菩薩化したもの。北斗菩薩、 まゐつかまっ げむあらなり そうばうどもあまたっく にぎははことかぎりな 今参リ仕リテ、験新タ也ケレバ、僧房共数造リ重ネテ、シ事無限シ。 北辰菩薩、尊星王とも。これを祈 願すれば国土安穏・延命息災を得、 しかあひだ六 てんわうおほむめやまたま かりゃうがんじぎゃうがうある 而ル間、〔〔凵凵凵ノ天皇御目ヲ病セ給ヒケレバ、彼ノ霊巌寺ニ行幸有ベキ議有またその眼精明らかなことにあや かって、古来の俗信に眼病平癒の いはかどあ みこしとほるべやうな ぎゃうがうえある 利益があるとされる。 ケルニ、「此ノ巌廉ノ有レバ、御輿ノ可通キ様無力リケレバ、行幸否不有マジ 、ーカど 四突き出た大岩塊とも「巌門」の さだめられ てらべったうなり そう ぎゃうがうあ わかなら カナリ」ト被定ケルヲ聞キ、其ノ寺ノ別当也ケル僧、「行幸有ラバ、我レ必ズ意とも取れる。後者なら通り抜け られるようになった自然岩の門 挈とっ ) か , っ なるべ ぎゃうがうな そうがうな ことふよう おもひ ぎゃうがうあ 僧綱ニ可成キニ、行幸無クハ、僧綱ニ成ス事ハ不用ナ」 、リト思テ、行幸ヲ有五「シキ事」とありたいところ。 一一六ハー注五。 いはかどうしな もつおほくしば から ラセムガ故ニ、「此ノ巌廉失ハム」ト云テ、夫ヲ以テ多ノ柴ヲ苅セテ、此ノ巌六天皇の諡号の明記を期した欠 字。権記によるに一条天皇が擬せ かどかみしもつま ひ す てらそうなか としおい ものども られる ( 本話解説 ) 。こ、、こし、霊巌 廉ノ上下ニ積セテ、火ヲ付テ焼ムト為ルニ、其ノ寺ノ僧ノ中ニ、年老タル者共 寺行幸の建議については史実に徴 てらげむたまこと しはかどよりなりそ > はカ′」 ナド有テ「「此ノ寺ノ験ジ給フ事ハ、此ノ巌廉ニ依テ也。其レニ、此ノ巌廉ヲし得ない。 セ行幸なさるわけにはゆくまい げむう てらすたれ いひあひなげ ときべったうわがよろこび 被失ナバ、験失セテ寺廃ナムトス」ト云合テ歎キケレドモ、時ノ別当ノ我喜〈寺全体の寺務を統轄する役僧。 うしなはれ あり ゅゑ つ け か そ ぶ そ かさ ) ) んき 五 ぎあり

7. 完訳日本の古典 第33巻 今昔物語集(四)

ただ はうじゃうゑ・と じふごにちもつはうじゃうゑおこなひ そのぎしきほんぐう 十五日ヲ以テ放生会ヲ行テケリ。其儀式、本宮ノ放生会ニ異ナル事無シ。但故事に基づき、生類を功徳のため に山野や池沼に放っ法会。多くは かぶ ほふゑ もろもろやむ′一とな おほくそうしゃう めでたおむがくそう シ、諸ノ止事無キ多ノ僧ヲ請ジ、微妙キ音楽ヲ奏シ、歌舞ヲ調へテ、此ク法会魚貝を買い取って放流したという。 = 石清水八幡の本宮である宇佐 しゃうぞうふせ がくにんろく あまもと ともしことな おこなひ ぎ一四ゆたか ヲ行ケルニ、尼本ョリ財ヒ豊一一テ乏キ事無力リケレバ、請僧ノ布施モ楽人ノ禄八幡の神託をさす。養老四年 = ひゅ 0 ) 、宇佐八幡は朝廷を加護して日 しかれほんぐう はうじゃうゑおとら いかめし うがおおすみはやと 向・大隅の隼人族の反乱を鎮定し ナドモ器量カリケリ。然バ本宮ノ放生会ニ不劣ザリケリ たが、その後、隼人族殺生の罪障 かくの′ ) と としごとおこなひすであまたとしふ あひだほんぐう はうじゃうゑしんぐうやうや 如此クシテ、毎年ニ行テ、既ニ数ノ年ヲ経ル間、本宮ノ放生会、新宮ノ漸ク消滅のため毎年放生会を行うよう にとの託宣があって、これが八幡 ろく おとり めづら ぶにんがくにん あはたぐちはうじゃうゑみなきほひ 宮放生会の起源とされる。 劣テ、禄ナド珍シカリケレバ、舞人楽人ナドモ此ノ粟田口ノ放生会ニ皆競テ 一八 一ニ挿入句。年中行事として別々 まゐり ほんぐうゑすこすたれ ことほんぐうそうぞくじんくわんらみななげきあひぎ の所で放生会をとり行って、の意。 参ケレバ、本宮ノ会少シ廃ヌ。此ノ事ヲ本宮ノ僧俗ノ神宦等皆歎テ相議シテ、 一三漢文訓読系の文では「ただ」と だいばさっ つかひもっか あはたぐちあまもとっかは はづきじふごにち 第使ヲ以テ彼ノ粟田口ノ尼ノ許ニ遣シテ云ク、「八月ノ十五日ハ、此レ大菩薩ノ同意。「シ」は強意。もつばら。 語 一四「ヒ」は「財」の捨て仮名で「イ」 あら むかし いまにいたるおこなところはうじゃうのだいゑなりひとかまいで 宀呂おほむちかひょり に当てたもの。 新御誓ニ依テ、昔ョリ于今至マデ行フ所ノ放生大会也。人構へ出タル事ニハ非 一五法会に招いた僧。 はうじゃうゑおこな ゅゑ ほんぐうごうれい 八 そ ひまたペちそこところ 遷ズ。而ルニ其ノ日、亦別ニ其ノ所ニシテ、放生会ヲ行フ。故ニ、本宮ノ恒例ノ一六雅楽演奏者への引出物。 宅「新宮ノ」は「新宮ニ」とありた そこおこなはるところい はうじゃうゑはづきじふごにち 尼 はうじゃうゑすですたる いところ。新宮の放生会に、の意。 寺放生会既ニ廃ルニ似タリ。然レバ其ノ被行ル所ノ今マノ放生会ヲ八月ノ十五日 一〈八幡宮は神仏混交だったので 藤 おこなはず のべま、 ーカひもつおこなふべなり 僧俗両様の神官が奉仕していたも 科ニハ不行シテ、延テ他ノ日ヲ以テ可行キ也」ト。 の。「宦」は「官」の当字。 はうじゃうゑだいばさつおほむちかひょり ・一果 - あまこたへいはく 尼答テ云、「放生会、大菩薩ノ御誓ニ依テ、八月ノ十五日ニ行フ事也。然レ一九石清水放生会が神意に由来す る大法会であることを強調して、 なほはづきじふごにちもつおこなふべ あまおこなはうじゃうゑおなじだいばさつあがたてまっゅゑ バ尼ガ行フ放生会モ同ク大菩薩ヲ崇メ奉ル故ナレバ、尚八月十五日ヲ以テ可行尼を威圧したもの。 はづきじふ′一にちおこなことなりさ 0 ととの ことな ′一と カ

8. 完訳日本の古典 第33巻 今昔物語集(四)

139 霊巌寺別当砕巌語第二十 ( 現代語訳一一四七ハー ) 一なら かねおとききおよ ク人モ無クテ十二時ニ鳴ラナマシ。然鳴マシカバ、鐘ノ音ノ聞及バム所ニハ時一 0 「堀開タラムニ」の意で、期日 を越してから掘り出したなら。 とき べったうなり いみじくちを めでた たしかし ヲモ慥ニ知リ、微妙カラマシ。極クロ惜シキ事シタル別当也」トナム其ノ時ノ = 仕掛け。細工。 一ニ「ヲ」は「ハ」とありたいところ。 ひとい 一三寺全体の寺務を統轄する役僧。 人云ヒ謗リケル。 一四あさはかにも。 ふしん ったななりこころおろか かならずか ものねむ しか 然レバ騒シク、物念ジ不為ザラム人ハ、必此ク弊キ也。心愚ニテ不信ナル一五普通の鐘。ありふれた鐘。 一六落ち着きがなく。せつかちで。 いたところなり 宅こらえ性のない人。 ガ至ス所也。 天約束を守らぬことが招いた結 かたった とどむべ よひとこれききゅめゅめふしん 果である。なお、不信を戒める教 世ノ人此ヲ聞テ努々不信ナラム事ヲバ可止シ、トナム語リ伝へタルトャ。 訓は、本巻第一三・一五話末にも みえる。 ひとな そし さわが りゃうがんじのべったういはほをくだくことだいにじふ 霊巌寺別当砕巌語第二十 りようがんじ 本話の典拠は末詳。妙見菩薩の現じ給う所として北山の霊巌寺は栄えていたが、寺の別当が 出世のために天皇の行幸を仰ごうとして門前の大岩塊を破砕したところが、菩薩の霊験もうせ、 寺は荒廃に帰したという話。潤色はあろうが事実談らしく、霊巌寺廃滅に結びつけて伝えられ たのであろう。前話とは、僧の浅慮による霊威の喪失ということでつながっている。別当が岩 へいけものがたり を砕いた時、岩の中から「百人許ガ音ニテ同音ニ咲タリケレバ」とあるところは、『平家物語』 五物怪之沙汰の、福原にいる清盛の岡の御所で、夜半、大木の倒れる音がして、二、三十人の どっと笑う声がしたという話を想起させる。なお、本話が踏まえた霊巌寺行幸問題は直接の証 じふにじ ・一と ひと こと ところ そ 一八 とき

9. 完訳日本の古典 第33巻 今昔物語集(四)

ーかひもつおこなことあるべからず キ也。更ニ他ノ日ヲ以テ行フ事不可有」ト。 一一行後の「御正体」と同じく御 神体のこと。 あまことかた ほんぐうそうぞくじんくわんらみなこれききおほ いカり・亠め 一一下級の神職。神事に奉仕する 使返テ、尼ノ言ヲ語ルニ、本宮ノ僧俗ノ神官等皆此ヲ聞テ大キニ嗔、相ヒ 身分の低い者。 われらすみやかか しんぐうゆき ほうで・《 こほちみしゃうだい ほんぐうあんぢ 三議シテ、「我等速ニ彼ノ新宮ニ行テ、宝殿ヲ壊テ御聖体ヲ取テ、本宮ニ安置シ 三大勢が群がり集って決起する さまの形容。 そ一はく じんにんらくも′」と あつまおこり あはたぐちみやゅ 〕たてまつるべなり 可奉キ也」ト云テ、若干ノ神人等雲ノ如クニ集リ発テ、彼ノ粟田口ノ宮ニ行 0 下の「壊チ棄テ」にかかる。勝 集 四 五 五ロ むかひ 手次第に。やりたい放題に みだりあまよひあがたてまっしんぐう ほうでんみなこほすて みしゃうだい ニ = ロ 物キ向テ、猥ニ尼ノ夜ル昼ル崇メ奉ル新宮ノ宝殿ヲ皆壊チ棄テ、御正体ヲバ取テ = ↓注一。 昔 六 六石清水八幡宮の境内にあった 1 ) こくじ あんぢたてまっ みしゃうだいい ムフほんぐうゐてたてまつり いわゆる神宮寺。もとの寺名は石 本宮ニ将奉テ、護国寺ニ安置シ奉リツ。然レバ其ノ御聖体于今護国寺ニ御マ 清水寺で、石清水八幡宮はその鎮 れいげむあらなりあはたぐちはうじゃうゑそのちたえ シテ霊験新タ也。粟田口ノ放生会ハ其ノ後絶ニケリ。 守社としてまつられたものという。 セ↓②二〇八ハー注八。 あまもと おほやけまう おこなこと 其ノ尼、本ョリ公ニ申シテ行フ事ニテモ無力リケレバ、訴へ申ス事モ無力リ〈もともと朝廷に願い出てその ただよ 許可を得た上でやった放生会では あまそしり ほ , ルぐ - っ のへまかひおこな したがひ なかったので、の意。 ケリ。只世ニゾ尼ヲ謗ケル。本宮ョリ、「延テ他ノ日行へ」ト云ケルニ随テ、 九これ以下、段末まで、尼のや おこなひ あながちきびしいひ のばさ 他ノ日行マシカバ、于今モ並べテ行テマシ。強ニ蜜ク云テ、不延ザリケルガり方に対する非難の評語。 一 0 今もなお本宮の放生会と並び あしなりそ しかるべ だいばさつあがたてまっ わうこのやむごとな 悪キ也。其レモ可然キ冂凵事ニヤ。大菩薩ヲ崇メ奉ルト云ヒ乍ラ、往古止事無行われていたであろうに、の意。 = しいて強く拒絶して。 ゑ きほゃうす だいばさっ あ おばめし キ会ヲ競フ様ニ為ルヲ、大菩薩ノ、「悪シ」ト思シ食ケルニヤ。 一ニこの欠字を無視しても、こう した事態になったのも前世以来の そのの ほんぐう はうじゃうゑいよいげむでう いまにいたる おろかなら かたった 其後チ本宮ノ放生会弥ョ厳重ニシテ、于今至マデ不愚ズ。此ナム語リ伝へタ因縁ごとだろうかの意となり、文 意は通じる。 ルトャ。 一三尼が古来の尊い法会に張り合 ほかひおこなは そ なり ) らま つかひかへり 一ニ ) 一と なら うったまう とり かく ′一とな とり おはし

10. 完訳日本の古典 第33巻 今昔物語集(四)

75 東山科藤尾寺尼奉遷八幡新宮語第一 ひむがしやましなのふぢをでらのあまはつまんのしんぐうをうっしたてまつることだいいち 東山科藤尾寺尼奉遷八幡新宮語第一 本巻をもって本集は終る。三十一巻というのは半端な巻数で、これについてはさまざまな論 議があるが、ともあれ、当初全三十巻で企画され、それが編集途中に本朝部の巻立てに変更が 試みられた結果三十一巻になったという推測は当っていよう。ところで本巻は、他の諸巻に比 して主題的統一性に乏しく、最終巻であることをも考え合せると「拾遺」の巻的性格が強い。 しかし、本巻は正編三十巻に対する「拾遺」一巻ではなく、前巻の巻三十と一グループを形成 するものであろう。編者の手元には、巻二十九までのテーマ別類集の過程で収容し切れない、 しかし割愛するに忍びなかった説話が最後まで相当数残っていた。それを末巻に収容し、そこ にも何らかのテーマ性を持たせようとした結果、まずその一部が巻三十のような形で類集され た。本巻はそれからはみ出した話群の収容のために立てられたものとみたい。当然の帰結とし て本巻は雑纂的なものにならざるを得なかったが、なおかっ編者の主題的統一志向は尾を引き、 本巻では世上に伝えられる奇譚異聞や古伝説・古説話の収集が目立つ。それが前後話の連想に よる説話採択という一貫的編集姿勢と相まって、まがりなりにも本巻にも一個のテーマ性を付 与している。 いわしみずはちまんだいばさつかんじよう 本話の典拠は未詳。粟田山の東の地に石清水八幡大菩薩を勧請して新宮とした老尼が、財カ ほうじようえ にものをいわせて本宮よりも派手に放生会を行ったので、本宮の反感をかい、本宮とは別の日 に放生会を行うようすすめられたが、これを断ったため、本宮の神人によって打壊しにあった あわたやま