さて、守が館にいて多くの男女の下人が物を持ち運ぶの 申したではございませんか、あのように申し出た者と一緒 。 : まかの下人とは を見ていたが、その中でこの「京の」カ にお下りなされと。このままではつらいことばかりでござ こどねりわらわ いましようよ」と言いくるめたので、女も、本当にどうし違いなんともいえず上品に見えたので、守は小舎人童を召 たらよいかと思案する。その様子を尼は見て取り、その夜し、「あれはどういう女か。それをきいて、夕方連れてま いれ」とひそかに命じた。小舎人童がきいてみると、これ こっそり男を呼び入れた。 これの郡司の使用人であるとわかり、郡司に、「守殿のお その後は、男は女にすっかり夢中になり、こういう女は 生れてはじめてのことなので離れがたく思い、近江に連れ目にとまって、かよう仰せられる」と言ったところ、郡司 は驚いて家に帰り、「京の」に湯を使わせ、髪を洗わせ、 四て下ったが、女も、こうなったからにはしかたがないとあ 語きらめて、一緒に下った。ところで、この男には前々から念入りに磨きたてて、妻に向い、「これ見ろ、『京の』が着 成国に妻があり、その親の家に住んでいたが、そのもとの妻飾った姿のなんと美しいこと . と言った。 こうして、その夜、着飾らせてさし出した。ところが、 婢がひどく嫉妬してわめき散らしたので、男はこの京の女の ひょうえのすけ なんと、この守はこの「京の」のもとの夫、兵衛佐だった 司所には寄り付かなくなった。そこで、京の女は親の郡司の のもとに使われていたが、この国に新任の国司が下って来ら人がなっていたのだった。守はこの「京の」を近く召し寄 せて顔を見ているうち、どうもいっかどこかで見たことが れるというので、国をあげて大騒ぎになった。 こうのとの あるような気がしてならないので、そのまま抱き寝をした のそうこうするうち、「はや守殿がお着きになったそ」と 太言う声がすると、この郡司の家でも騒ぎ合って、果物や食ところ、まことになっかしい思いがする。「お前はどうい う素姓の者か。どうも昔見た女のように思われるがね」と 務物などりつばにととのえて国司の館に運ぶ。郡司はこの京 中 の女を「京の」と名づけてずっと使っていたが、この日館言ったが、女は昔の夫だとは気がっかず、「わたくしはこ の国の者ではありません。以前は京におりました」と言葉 に物を運ぶのに大勢の男女を必要としたので、この「京 少なに答える。守は、「すると、京の者が来て、郡司に使 の」にも物を持たせて館にやった。
れに住んできたが、それでは生きている甲斐もないことだ ) われているだけなのだろう」とぐらいに考えたが、女の美 四しさにひかれ、毎夜毎夜召し出したところ、前にもまして とよんで、「わしはまぎれもなくそなたの夫ではないか」 不思議になっかしく、昔会ったことのある人のように思わと言って涙を流したので、女は、「では、この人はわたし 十 三れてならない。そこで、守が女に、「それにしても、京で のもとの夫だったのだ」と気がつくと、恥ずかしさに堪え 巻はどういう暮しをしていたのか。前世の因縁なのか、どう られなかったのか、物も言わず、どんどんからだが冷えす 集にもいとしい気がするのできくのだ。隠さずに言いなさ くんでいった。守は、「これはまたどうしたこと」と大騒 語 物い」と尋ねるので、女は隠しきれず、「じつはこうこうい ぎをしているうち、女は急絶えてしまった。思えば、なん 今う者でございます。あなた様がもしゃ昔の夫のゆかりの方ともかわいそうなことである。 でいらっしやるかと思い 常日ごろはロにしませんでした 女が、「昔の夫だったのか」と気づくや、わが身の宿世 が、しいてのお尋ねゆえ申した次第でございます」と、あ が思いやられ、恥ずかしさに堪えられず死んでしまったに りのままに語って泣く。守は、「だからこそ不思議に思わ違いない れていたのだ。やはり、おれの昔の妻だったのだ」と思う 男は考えが足りなかったのだ。それを明かさす、ただよ と胸一杯になって涙がこばれ出るのを、しいてさりげなく く面倒をみてやればよかったのに、と思われる。 振舞っているうち、湖の波音が聞えてきた。女がそれを聞 この話については、女が死んでから後のことはどうなっ たかわからない、 とこ , っ五り」怯 , んているとい , っことだ。 いて、「あれは何の音でしよう。恐ろしいこと」と言った ので、守は、 これぞこのつひにあふみをいとひっゝ世にはふれども 身貧しき男を去る妻摂津守の妻と成る語 いけるかひなし 第五 ( これは近江の湖の波音です。その「あふみ」の名のように、 二人もついには「逢ふ身」でありながら互いに避けて別れ別 今は昔、京にいたって貧しく、さして身分の高くない男 ( 原文三六ハー )
1 一 1 ロ じようぞうだいとく あぐねていた。ちょうどそのころ、浄蔵大徳というすぐれ て帰って行った。こんなことになったのも、男に思いやり た有験の僧がおり、まことに霊験・行徳のあらたかなこと がなかったためである。どんな事情があるにせよ、「こう 仏のごとくであったので、世をあげてこの上なくこの人を いう事情ができて」と言ってやることはたやすいことなの に、そうも言わずに五、六日も過ぎれば、女がつらいと思尊んでいた。 そこで近江守は、この浄蔵に娘の病気の加持をさせよう うのは当然である。 と田い、、礼を厚くして迎えたので、浄蔵は出かけて行った。 だがまた、女に前世の報いがあり、そのためこのように 守は喜んで娘の病気を加持させると、即座に物の怪が現れ 出家したのであろう、とこう語り伝えているということだ。 て病気は治ったが、「もうしばらくここにおいでになって ご祈疇をしてください」と父母が懇願するので、浄蔵は言 近江守の娘浄蔵大徳と通ずる語第三 われるままにしばらくとどまっているうち、浄蔵ははから おうみのかみ 第 今は昔、近江守の冂凵〕という人がおった。家は豊かでずもこの娘をほのかにかいま見てしまった。すると、たち まち愛欲の情が生じ、そのほかは何一つ考えられなくなっ すたくさん子供があったその中に娘が一人いた どその娘はまだ年若く、顔形も美しく髪も長く、物腰もすた。また、娘の方もその気配に気づいたのだろう、こうし て数日いるうち、どんな隙があったのか、ついに契りを結 尢ばらしかったので、父母はたいそうかわいがり、片時も目 浄を離さず育てていた。それを知って、高貴な皇子や上達部んでしまった。 いっとはなしに その後は、このことを隠そうとしたが、 のなどが次々と求婚してきたが、父の守は身の程もわきまえ 江ず、天皇に奉ろうと思い、婿取りもせずたいせつに育てて人に知れ、世間にも広まった。そこで、世間の人がこのこ ものけ 近 とをとやかく取沙汰するようになったのを浄蔵は聞いて恥 いるうち、この娘が物の怪を患い、何日も病床に臥すこと になった。父母は一方ならず嘆き、そばに付き添ってあれじ、その家に行かなくなった。「わしはこんな悪評をこう しるし きとう むった。もはや世間付合もできまい」と言って、いずこと これと祈疇をさせたが、何の験も見えなかったので、思い うげん
^ 注五を採れは、別れて後は夫 なども持たずにいた、の意。 いまはむかしをはり かみ四 ひとあり をむなあり 今昔、尾張ノ守「凵」ノ冂凵ト云フ人有ケリ。其ノ冂凵凵ニテ有ケル女有ケ九国や郡などの管理をまかせて 六 いたので。尾張守は現地に赴任し 、ご ) ろ うたよみうち いとをかし あり ない、遥任の国司だったのだろう。 三リ、歌読ノ内ニテ、心バへナドモ糸可咲クテ、男ナドモ不為デナム有ケル。 第 一 0 裕福に暮していた。 をはり かみこれあはれむ あづ あり あり 語 ん尾張ノ守此ヲ哀デ、国ニ郡ナド預ケテ有ケレバ、便リ有テナム有ケル。子 = 「有ケレド」とありたいところ。 出 本集に散見する接続助ード」 ふたりみたりあり ふかくもの みなほか くにまど 部二三人有ケレバ、母ニモ不似ズ、極タル不覚ノ者ニテ有ケレバ、皆外ノ国へ迷「バ」混用の一例。↓五五ハ、注一八。 一ニ物の道理をわきまえぬふらち ははとしおいおとろへ あまなり のち をはり かみとは ヒ失ニケリ。其ノ母ハ年老テ衰ケレバ尼ニ成テケルニ、後ニハ尾張ノ守モ不問者。愚か者。↓田二五〇ハー注八。 一三主人公の「女」をさす。 。ものかか すぎ あひだ たへがたことおほ ズ成ニケリ。畢ニハ兄也ケル者ニ懸リテ過ケル間ニ、難堪キ事多カリケレドモ、一四面倒をみなくなってしまった。 尾 一五教養のある人。 一もと い、つし - よく ったなこと なほみ もち・あげこころにくさつくりすぐ 本ョリ有職ナル者ニテ弊キ事ヲバ不為ズシテ、尚身ヲ持上テ心應ヲ造テ過シケ一六品位を高くたもって。 宅奥床しくふるまうように、いが ほど みやまひっき けて。 ル程ニ、身ニ病付ニケリ。 うせ そ はて 本話の典拠は未詳。尾張守某の身内に歌人の女がいて尾張守の庇護を受けていたが、子供が だれ一人面倒をみず、女は老い衰えて尼になった。やがて尾張守からも見放され、兄に養われ しえ きよみず ているうちに病気になり、重態になると、兄は死穢を恐れて家から追い出した。そこで清水辺 とりべの の昔の友達をたよって行くと、そこでも迷惑がって引き取ってくれないので、やむなく鳥部野 に行き、畳の上に横になって死を待ったという話。本話は不人情を説いて前話の人情話と対照 させ、死者・瀕死の者を戸外に出すという共通のモチーフでつながっている。なお、死穢をき らって重病人を戸外に出すのは古来の風習で、巻二六第二〇話にもみえる。 もの あになり きはめ せ をと ) ) そ たよあり 五 あり せ あり
五り伝えているとい , っことだ。 が増水し、その水が池に満ちあふれたものだから、ついに その穴がもとになって、堤が決壊してしまった。そこで、 池の水がすっかり流れ出てしまい、その国の人の家・田畑 多武峰比叡山の末寺と成る語第二十三 十などことごとく流失した。多くの魚も流れ出て、あちらこ そんえいりつし 今は昔、比叡山に尊睿律師という人がおった。長年山に 第ちらでみな人に取られてしまった。その後は、池の中心に 住み、顕密の二教を学んで高僧の誉れが高かったが、また、 水が少し残っていたが、やがてその残っていた水もすっか うりんいん すぐれた観相家でもあった。後には京に下って雲林院に住 言り涸れて、今では池の跡形もなくなっているという。 昔 んでいた。 思うに、この池は守の欲心によって消滅したのである。 むどうじきようみようざす あじゃり ところで、無動寺の慶命座主がまだ年若く、阿闍梨であ されば、この守はこれにより、どれほど量り知れぬ罪を得 - 一うや たことであろう。さしも尊い権化の人、高野の大師が、人ったころ、この尊睿律師が慶命阿闍梨を見て、「御房は格 別高貴な相をすべて備えたお方じゃ。必ずこの山の仏法の 助けのために築きなされた池をつぶしたことだけでも量り 指導者となるべき相がはっきり現れておる。されば、拙僧 知れない罪である。その上、この池が決壊したことにより、 はすでに年老い、この地位を保っても何の甲斐もない身ゅ 多くの人家を破壊し、多くの田畑を流失した罪も、ただこ の守一人が負うべきであろう。まして、池の中の無数の魚え、拙僧の僧綱の位を御房にお譲り申そう。御房は関白殿 が人々に取られた罪も、ほかのだれが負うというのか。何 ( 藤原道長 ) に親しくお仕えして、お覚えめでたい方じゃ。 この旨を言上なされ」と言ったので、阿闍梨は心中うれし ともつまらぬことをした守ではある。 く思 このことを殿に申し上げた。殿と申すのは御堂の されば、人は絶対むやみな欲心を抱くべきではない。ま ちょうあい ことである。殿は慶命阿闍梨を寵愛なさっていたので、こ た、国の者たちも今に至るまでその守を憎み非難している とい , っことだ。 のことをお聞きになり、「それはまことに結構なことじゃ」 と仰せられて、慶命阿闍梨は尊睿の〔推挙〕により律師に その池の堤などの痕跡はまだ失せず残っている、とこう
今昔物語集巻第三十 26 一近江守の姓名の明記を期した いまはむかしあふみかみ一 いふひとあり こどもあまたあり 欠字。上の空格を他例に準じて補 今昔、近江ノ守ノ冂凵〔下云人有ケリ。家豊ニシテ子共数有ケル中ニ、一 う。大和・後撰集によれば「平中 りむすめあり 興」。中興は、右大弁季長の子。 人ノ娘有ケリ 遠江・讃岐・近江守など歴任。正 としいまわか かたびれい ありさまめでた 五位下。古今・後撰集の歌人。延 ぶもこ かなし 年末ダ若クシテ、形チ美麗ニ、髪長ク、有様微妙カリケレバ、父母此レヲ悲長八年 ( 〈 = 0 ) 没。 四 五 六 あい かたときめ やしなひ ほど やむごとな ニ平中興の娘。歌人で後撰集に みこかむだちめ あまたよ ビ愛シテ、片時目ヲ放ッ事モ無クテ養ケル程ニ、止事無キ御子上達部ナド数夜 = 一首所収。うち一首は本話の「ス ばひ ちちかみあり おほけな ミゾメノ : ・」の歌。 てんわうたてまっ おもひ むことり せかしづき 這ケレドモ、父ノ守有テ、唏ク、「天皇ニ奉ラム」ト思テ、聟取モ不為デ傅ケ = 以下は、女性の容姿美を形容 する常套句。 むすめものけわづらひひごろなり ぶもこれなげあっかひかたはらっき ルニ、此ノ娘、物ノ気ニ煩テ日来ニ成ニケレバ、父母此ヲ歎キ繚テ、傍ニ付テ 四皇子。 きたうどもせさ おもあっかひ 五三位以上の公卿および四位の そのときじゃうぎうだい 祈疇共ヲ為セケレドモ、其ノ験モ無力リケレバ、思ヒ繚ケルニ、其時ニ浄蔵大参議の総称。 0 ほっしんしゅう しじゅひやくいんねんしゅう まえた記事は『発心集』四の五にもみえ、それは『私聚百因縁集』九の二一に転載されている。 近江守某の娘の病気を加持平癒させた浄蔵が、情欲に駆られて娘と通じ、世間のロを恐れて鞍 馬山に籠ったが、なお意馬心猿はやまず、その後も情事が続いた結果、醜聞ますます高く、娘 は親からも見放されてしまったという話。情事がもとで、女が一生を棒に振ったという共通の 要素を介して前話につながる。近江守の娘が色好みで、浄蔵以外の人々とも交渉があったらし ごせんしゅう いことは『後撰集』『大和物語』にうかがわれ、一方の浄蔵についても破戒を伝える話が少な さんごくでんき くないが、特に巻三一第三話と同型の『三国伝記』六の九、『修験道名称原儀』所収話などは注 目すべきもの。なお、女人の病気治療にあたった祈疇僧が女人に恋慕するというモチーフは類 型的で巻一一〇第七話にも所見。 そ ′一とな しるしな かみなが いへゆたか ひと
この妻は年も若く、姿形も美しかったので、その後、ロ がおった。知人もなく、父母・親族もなく、どこといって の「〔〔凵という人のもとに身を寄せ、そこで使われていたが、 宿る所もないので、人のもとに身を寄せて仕えることにし もともとやさしい心の持主なので、主人にもかわいがられ たが、そこでも少しも重んぜられず、もしかしたらもっと て使われているうち、主人の妻が死んだ。そこで、この女 よい所もあろうかと、あちこち主人を変えてはみたものの、 に身の回りの世話をさせ、やがて自分のかたわらに寝かせ どこでも同じことで、つししし 、こま人に仕えることもようせず、 たりしていると、しだいに憎からず思われてきて、ずっと どうしようもないありさまになってしまった。ところが、 その妻は年若く、姿形も美しく、しかもやさしい心の持主そのようにして過していたが、後にはすっかりこの女を妻 として取り扱い、家事万端まかせるようになった。 五だったので、この貧しい夫につき従っていたが、夫はいろ せつつのかみ そのうち、この主人が摂津守になった。女はますますは 語いろ悩んだ末、妻にこう言った、「この世にある限り、こ なやかな日々を送りながら年月を重ねていた。もとの夫は 成うして一緒に暮して行こうと思っていたが、日がたっとと 妻と別れ、自分の運をためしてみようと思っていたところ、 妻もにますます貧しくなって行くのは、もしかしたら夫婦一 守緒にいるのが悪いのかも知れぬ。ここで別れて、互いに運その後はいっそうひどく落ちぶれて行き、とうとう京にも いられず、摂津国のあたりまで流れて行き、まったくの卑 贇をためしてみたらと思うが、どうだろう」。すると妻は、 る「わたしは決してそうは思いません。これもみな前世の報しい農夫になり下がって人に使われるようになったが、 、と思って「〔凵に下人のする田畑の耕作も木こり仕事も慣れぬことと をいですから、お互いに飢死にするならしてもいし なにわ あしか 男 てようできずにいると、雇い主はこの男を難波の浦に葦刈 きいました。だがそれにしても、こうもひどいありさまばか りにやった。そこで、出かけて行って葦を刈っていると、 貧り続くのですから、おっしやる通り、一緒にいるのが悪い 身 かの摂津守が妻を連れて摂津国に下って来た。難波のあた のかどうか、別れておためしになったらよろしいでしょ かばく りに車を止めて野遊びをさせ、多くの郎等や家僕たちとと 、と思い、互いに再会を 7 う」と言ったので、男はそれがいし もに食事をしたり酒を飲んだりして遊び戯れていたが、守 約して泣く泣く別れることにした。
( 原文一六六ペ その後十日ばかりして、頭中将の夢に、亡き式部丞の蔵気だてなどもたいそうやさしく、定まった夫なども持たす 人と内裏で出会った。近寄って来たのを見ると、さめざめ 尾張守はこの女を哀れんで、国や郡などの管理をさせて と泣きながら何か言っている。聞けば、「わたしの死の恥 をお隠しくださったご恩は生々世々忘れがたいことでござ いたので、生活は豊かであった。子供が二、三人いたが、 これは母にも似ずまるつきりの愚か者だったから、みなよ います。あれほど多くの人が見物に集っておりましたので、 もし西から運び出してくださいませんでしたら、多くの人その国に流れて行って消息を絶ってしまった。その母のほ のさらし者になって、この上ない死の恥を見るところでご うもやがて年老い、からだも衰えたので尼になったが、の ちには尾張守も面倒をみなくなった。しまいには、兄にあ 十ざいました」と言って、泣く泣く手を合せて喜んだ。こう たる者の厄介になって日を過していたのでつらいことが多 第夢に見て目がさめた。 かったが、もともと教養のある者で、見苦しい振舞はせす、 されば、人にはもつばら情けをかけてやるべきである。 出思うに、頭中将はじつにりつばな方であったから、とっ相変らず気位を高く保ち、奥床しいさまに振舞って過して しるうち、いっか病にかカた 人さにご判断なさって、お指図なさったのだと、これを聞く 日がたつにつれ、病はしだいに重く、意識もはっきりし 於人はみな頭中将をほめたたえた、とこう語り伝えていると なくなったように見えたので、兄は、絶対家では死なせま 野いうことだ。 部 いと思って家から追い出したところ、女はそれでも、わた しを何とかしてくれるだろうと思い、昔友達だった者が清 尾張守冂凵鳥部野に於て人を出だす語第 みず 水のあたりに住んでいたが、それをたよって、車に乗って 三十 張 尾 出かけて行った。だが、たよって行った所でも考えを変え おわりのかみ て、「ここで死んでは困ります」と言うので、どうにもし 今は昔、尾張守冂凵の冂凵という人がおった。その - 」うらい かたなく、鳥部野に行ってこざっぱりした高麗べりの敷物 〔〕凵凵凵一であった女がいたが、歌よみとして知られており、 とりべの
凡例 : 今昔物語集巻第一一一十本朝付雑事・・ 平定文本院の侍従を仮借する語第一・ 平定文に会ふ女出家する語第一一 近江守の娘浄蔵大徳と通ずる語第三 : 中務の太輔の娘近江の郡司の婢と成る語第四 : 身貧しき男を去る妻摂津守の妻と成る語第五 : 大和の国の人人の娘を得る語第六 右近少将冂凵甄西に行く語第七・・ 大納言の娘内舎人に取らるる語第八 : 信濃の国の姨母棄山の語第九 : 下野の国に住みて妻を去りて後返り棲む語第十 : 目次 原文現代語訳 ・ : 一一 0 九
あった。これでその高さのほどが推測されよう。その死人て来るでしよう。そうなれば、その接待が大変厄介なこと になります。このことはただ隠しておくべきです」と言っ は首から切断されていて、頭がなかった。また、右手・左 たので、守も報告せすに隠し通してしまった。 足もなかった。これは鰐などが食い切ったのであろう。そ ところが、その国に冂凵の冂〔〔〔〔〕という武士がいた。この れらがもとのように付いていたなら、さそ大変なものであ 巨人を見て、「もしかような巨人が攻め寄せて来たら、ど ったろう。また、うつ伏せになって、砂に埋れていたので、 うしたらよかろう。矢が立つかどうか、ひとっためしてみ 男女いずれともわからなかった。だが、身なりや肌つきは よう」と言って、矢を放ったところ、矢は深々と立ち込ん 女のように見えた。国の者共はこれを見て、みな驚きあき だ。そこで、これを聞いた者は、「あつばれよくためした」 れ、回りを取り巻いて大騒ぎをした。 むつのくに かいどら・ やまた、陸奥国の海道という所で、このような巨大な死人とほめそやした。 さて、その死人は日がたつにつれ腐乱してきたので、あ 語が打ち寄せられたと聞いて、国司ロの冂凵という人も家来 たり十町二十町の間は人も住めず、近づこうとしなかった。 船をやって検分させた。砂に埋れていたので、男女の区別が あまりの臭さに堪えられなかったからである。 をつかない。女だろうとは見たが、学識ある僧などが、「こ このことは隠していたが、守が上京したので、いっか世 らの全世界の中にこのような巨人が住む所があるとは仏も説 あしゆらめ 間に伝わり、こう語り伝えているということだ。 寄いておられない。思うに阿修羅女などでもあろうか。身な 打りなどがたいそうきれいなのは、ひょっとするとそうかも 越後の国に打ち寄せらるる小船の語第十 卸知れぬ」と推測した。 八 後さて、国司は、「これはまことに珍事であるから、何は 越 さておき、朝廷に報告書を奉らねばならぬ」と言って、ま えちごのかみ みなもとのゆきとうのあそん 今は昔、源行任朝臣という人が越後守としてその国に 恥さに京に使者を立てようとしたところ、国の者共が、「報 告書をさし出されたならば、必ず朝廷の使者が検分に下っ在任中、「〔〔「凵〕郡の浜に小さな船が打ち寄せられた。幅二