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検索対象: 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)
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1. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

俊成は、文治三、四年 ( 一一八七 ~ 一一八 0 、七十四、五歳の時に成立した『千載集』に、自作を三十六首、西行 作を十八首入集させた。その『千載集』の成立後、十七、八年を経て『新古今集』が成立するが、それには、 じえん 俊成作は七十一一首、西行作は最高歌数の九十四首、また、藤原兼実の弟慈円作が西行作に次ぐ九十一一首、兼 よしつね 実の子良経作がそれに次ぐ七十九首の入集を見るのであって、俊成が九条家に歌道の師として迎えられたこ とと『千載集』の撰者になったこととは、『新古今集』の成立にいかに大きくかかわるかがうかがわれるで あろう。 俊成は、『千載集』を撰進したのち、『新古今集』成立の直前、元久元年 ( 一 = 0 四 ) まで、九十歳の長寿を保 ち、実作・歌合判・歌論に熱情をそそぎつづけて、自身の世界を円熟させるとともに、歌壇の潮流を、かれ の創造した「幽玄体」を核とした新風によって高揚させた。それが最高潮に達したのは建仁元年 (IIIOI) で あった。正治二年 ( 一 = (0) 、二十一歳の若さで、俊成の影響下に作歌に専念しはじめた天才歌人後鳥羽院が、 たちまちにして、歌壇を掌握し、最高潮に導いてしまったのである。 後鳥羽院は、正治二年の二度の百首歌の催しをはじめとして、百首歌・五十首歌や歌合などを、驚嘆にあ たいする頻繁さで主催するようになったが、建仁元年六月には、第一線歌人をはじめとする歌人三十名に命 じて、空前絶後の大歌合である「千五百番歌合」のための百首歌を詠進させた。そして、早くも、新しい勅 説 むらかみ てんりやく 撰和歌集の撰定を思い立ち、その直後の七月二十七日には、村上天皇の天暦五年 GFI) に『後撰集』の撰集 わかどころ よりゅうど 解事業のために和歌所が設置された先例にならって、和歌所を二条殿に設置した。寄人 ( 和歌所職員 ) には、 みちちか みちとも ありいえ いえたか まさつね ともちかじゃくれん 藤原良経・源通親・慈円・藤原俊成・源通具・藤原有家・同定家・同家隆・同雅経・源具親・寂蓮・藤原 ひでよしかものちょうめい きょのり たかのぶ 力い - : っ 隆信・同秀能・鴨長明・藤原清範 ( この一名については異説がある ) を任命し、開闔 ( 和歌所書記役 ) には源家 ひんばん

2. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

がない。ただし、たくさんの歌の中に分け入り、たくさん人の心をもあらわし、行って見ない境界外のことをも知る の歌集類を調べて選んでも、空を飛ぶ鳥が網を漏れ、水に のは、もつばらこの和歌の道であるらしい 集住む魚が釣りをのがれるように、選び落した類は、昔もな 〔四〕新古今集編集のそもそも、わたしは、昔は、五度即 みかど 目的と特色 和いわけではないので、今も、また、あるかもしれないので 位を辞退した帝の前例を尋ねて、帝 古ある。すべて、集めた歌は、二千首、二十巻。名づけて位につき、今は、天下を治める帝の名をのがれて、仙洞に 『新古今和歌集』という。 すみかを占めているとはいっても、帝は、嗣子としての道 はるがすみ たったやまはつはな ていしん 春霞の立っ立田山で初花を賞美する を守っており、廷臣たちは、わたしの政治をたすけた深い つま′ ) 〔三〕和歌の本質 ことを始めとして、夏は妻恋いして縁を忘れないで、天下の繁雑な政務が、宮中にいた昔にも かんなび かずらきもみじ ばんみん 鳴く神南備のほととぎす、秋は風で散る葛城の紅葉、冬は変らないままでいるので、万民が、皆なびき従い、四方の あきっしま 白い富士の高嶺に雪が積る年の暮まで、皆、折にふれて感海、秋津島の全天下が静かに治っている。そこで、和歌の たかどの しようがん じた情趣であろう。そうであるだけでなく、高殿で遠くを昔の跡を尋ね、和歌の道を賞翫しつづけて、この集をえら もとしず、く ・一うせい 眺望して民の生活の幸福な時を知り、末の露と本の雫とに んで長い後世に伝えようと思うのである。かの『万葉集』 なぞらえて人の世の無常を悟り、道のほとりで別れを慕い は、和歌の源である。時が移り事柄が隔って、今の人が知 いなか たかま えんぎせいていみよ 遠く離れた田舎からの長い旅路で都を思い、高間の山の雲ることはむずかしい。延喜の聖帝の御代には、四人に勅を くだ てんりやくけんてい のいどころのようなよそに離れている人を恋い、波に朽ち下して『古今集』をえらばせ、天暦の賢帝は、五人に仰せ ながら ごせんしゅう しゅう てしまっても昔ながらに伝えている長柄の橋の名を惜しむ、つけて『後撰集』を集めさせていられる。そののち『拾 きんよう しか せんぎい というようにしても、心が感情となって内に動いて、言遺』『後拾遺』『金葉』『詞花』『千載』などの集は、皆、一 うけたまわ 葉となって外にあらわれないということはない。まして、 人の撰者が、勅を承っているので、聞き漏らし、見およ すみよしみようじんかた でんぎようだいし 住吉明神は「片そぎ」の歌を残し、伝教大師は「わが立つばないところもあることであろう。よって、わたしは、 杣」の思いを述べていられる。このような、知らない昔の 『古今』『後撰』の二集の前例を改めず、五人の人々を定め たみ たかね たぐい みことのり

3. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

そき かのばると、まず連歌にたどりつき、更にさかのばると もありき。殊に愚意に庶幾する姿なり ゅうえん 『新古今集』に達する」という考え方を示され、日本文学と述べられている。俊成の作品には、優艶で、心も深く、 史での『新古今集』の位置の高さを強調された。私は、 しみじみとした哀感を誘うところもあって、殊に後鳥羽院 『新古今集』の歌に魅力を覚えたことも確かであるが、そにとって願い求められる風趣だというのである。俊成は、 ういう能勢先生に刺激されて、『新古今集』の世界を私な政治的・社会的方面から文化的方面にわたって新しい動き りに解明してみたいと思うようになった。 が活発に起っていた白河院院政期に生れ、保元・平治の両 しかし、『新古今集』に取り組み始めてみると、未熟な乱、源平決戦の大動乱を見るといった、古代から中世への 学徒であった私には、わかりにくいところが多かった。 きびしく激しい大変転期を生き、『新古今集』成立の前年 『新古今集』を見つめているだけではわかりにくかったし、 に九十一歳で生涯を閉じたが、和歌を作り始めてから生涯 『新古今集』は『古今集』からの和歌の伝統の上に生れを閉じる直前まで和歌の世界に身を投じ、『新古今』時代 たものであることを知識的に知っても『古今集』と『新古の新風歌人たちを育成した大歌人である。私はそういう俊 今集』とを見くらべてみても容易にはわかりにくかったし、成の創造的歩みのあり方をまず探ってみることが『新古今 きゅうせんぼう わけても、『新古今』時代の前衛的急先鋒であった藤原定集』の世界を解明する重要な鍵であろうと思うようになっ 家の作品などになると手に負えないものがあった。それは、 た。私は東京文理科大学で卒業論文に「藤原俊成の研究」 『新古今』時代の歌人たちが、「何」を「どのような経路」を選んだが、それはそういう思いによるのである。 で追い求めるようになったのかがわからなかったからであ俊成には、幸い、作歌活動と歌論活動との両面にわたっ る。 て、その創造的歩みのあり方を探る手がかりになる資料が ところで、『新古今集』の撰定事業を親裁した後鳥羽院豊富である。 ごくでん とー【り ほりかわ しやくあ の著『後鳥羽院御ロ伝』に、藤原俊成 ( 法号、釈阿 ) を評 白河院院政政治期には源俊頼らによって催された「堀河 して、 百首」と呼ばれている百首歌がある。白河院院政の政治的 釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところ新風にもとづく社会的新動向や『万葉集』への関心の高ま

4. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

し、ししよう 「四季草花下絵和歌色紙帖」は、一 帖、色紙三十六面、江戸時代初期、 たわらやそうたっ 俵屋宗達が下絵を描き、本阿弥光悦 が和歌を重日いたもの。この色紙は、 薄越しに半月が大きく描かれた下絵 に、『新古今集』巻第十、覊施の部、 【、ユ ~ 九六七番、藤原秀能の和歌が書かれ ている。光悦の書は、王朝美の復興 を目指し、宗達の金泥下絵を得て 真価を発揮したといわれるが、和歌 の幻想的な詩境、また豊麗な筆致と、 大胆・奇抜な意匠による下絵とが渾 せ試 殀二体となった名品である 縦一八・一 5 、横一七鰓 四季草花下絵和歌色紙帖 本阿弥光悦筆 , 俵屋宗達絵 東京・五島美術館蔵 したえ さらぬだに秋の 旅ねは悲し 松に吹なり とこの山 ほんなみこうえっ

5. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

「祝い」の趣を詠みました歌 皇太后宮大夫俊成ることだ。 題意を、秋の月を友とする後鳥羽院の長久を寿ぐ意で 君の御代は、「千代」とだけ限 0 てはさすまい。空を出 る月と日との限りがないことだから。 満たした作。本歌を転じ、「高砂の松も昔になりぬべ 集真の永久は、月・日とともにある、と気づいての作。 し」として、院が友とする秋の月の永遠感を高めてい じようとう 和常套的発想を破り、感味が深い。 る。老熟の歌境である。 今 かい・一う そうじよう 新 藤原定家朝臣 千五百番の歌合に 和歌所の開闔になって、はじめて参った日、奏上し ました歌 源家長 9 わが国の和歌の道を守るなら、わが君をも守っているこ 7 とであろう。おまえの千年の年齢を、わが君にお譲り申 1 和歌の浦の波の寄せる藻塩草が、掻き集めても尽きない せ。住吉の松よ。 ように、書き集めても尽きないことでございましよう。 歌道を尊重した後鳥羽院の長久を寿いだ作。本歌の上歌人たちが、わが君の御代の数のように、詠み置いてあり ます和歌は。 句を変えただけであるが、歌道興隆の時代的息吹をこ めた、重厚な歌境。 古来、詠みつづけられて、わが国の生命を伝えている 無数の和歌に、後鳥羽院の御代の数を見ての寿ぎ。歌 八月十五夜、和歌所の歌合に、「月は多秋の友」と 道を興隆させた院から和歌所の開闔に任命された緊張 寂蓮法師 いう題を詠みました歌 感が、抒情に迫力を生んでいる。 高砂の松でも、いっかは年齢がっきて、昔のものとなる 7 にちがいない。やはり、行く末の友は、秋の夜の月であ たかさご ・一とほ か

6. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

こんろんぎん そもそも、和歌は、多くの徳のはじ あるが、やはり、崑崙山の玉は、これを採っても採り尽せ 〔こ和歌の歴史 めであり、多くの福のもとである。 ない、鄧林の材木は、これを伐っても伐り尽せない。物は 天の日や月や星がおのずからできあがり、人間の五際の関昔からこのようである。和歌もまた同じことであろう。 りくじよう さんうえもんのかみみなもとのあそんみちとも 係や六情の感情の理がまだ明らかにならなかったころに、 〔ニ〕新古今集編集のそこで、参議右衛門督源朝臣通具、 すが おおくらきようふじわらのあそんありいえさこんえごんちゅう 企画 素鵝の地が清く、そこに三十一字の短歌を詠むことがはじ 大蔵卿藤原朝臣有家、左近衛権中 おこ じよう さだいえさきのかずさのすけ いえたかさこんえごんしよう めて興った。それ以来、和歌の源流がまことに盛んになっ将藤原朝臣定家、前上総介藤原朝臣家隆、左近衛権少 ちょうか たみ しよう まさつねみことのりくだ きせん て、長歌・短歌などと形は異なっても、あるいは、民の真将藤原朝臣雅経らに詔を下して、身分の貴賤高低を区別 情を詠んで天皇の耳に達し、あるいは、天皇の慈愛を詠んしないで、すぐれた和歌を拾い集めさせた。神の告げられ ゅうえん で民を教化し、あるいは、遊宴にかこつけて思いを書き、 た和歌、仏の詠まれた和歌は、目に見えず、耳に聞えない もみじ しんえん あるいは、花や紅葉の美しい眺めを取りあげて言葉を託し深遠な道の世界を表そうとして、交えて同様にしるすこと 序てきた。まことに、和歌は、世を治め民をいつくしむ大も とした。昔から始めて、今におよぶまで、昔の歌・今の歌 せんじゃ たてまっ 名とであり、心を賞で物事を楽しむ模範となるものである。 をまとめて編んで、撰者のめいめいに奉らせた。そうして、 せんとうごしょ 真このようなわけで、聖天子の治める代や、よく栄えている 仙洞御所の庭の花のかんばしい朝や、仙洞御所のみぎりの 代には、和歌を集めて記録し、それぞれ精密・微細をきわ風の涼しいタ方になるごとに、「難波津」の歌の遺風の中 あさかやま めている。どうして漏れたり抜けたりしようか。そうでは を探り、「浅香山」の歌のかんばしい跡を尋ね、あるいは せいてんし とうりん なにわづ と

7. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

367 巻第七賀歌 はづきじふごやわかどころのうたあはせ つきハたしう / とも 八月十五夜、和歌所歌合に、月多秋友といふこと をよみ侍りし たかさ′ ) 高砂の松も昔になりぬべしなほゆく末は秋の夜の月 くわうたいごうぐうのだいぶとしなり 祝の心をよみ侍りける 一文治六年 ( 一一九 0 ) の「五社百首」のうち、 皇太后宮大夫俊成 「大神宮百首」の作。ニ「さす」に「鎖す あまと 川君が代は千代ともささじ天の戸や出づる月日の限りなければ ( とざす ) 」をかけ、「戸」の縁語。三空。 あま 本歌「天くだる神のしるしに君にみな齢 7 はゆづれ住吉の松」 ( 栄花物語・松のしづ ふぢはらのさだいへのあそん いつばんのみやのこようばう 藤原定家朝臣枝一品宮女房 ) 。「君」は、後三条院。 一わが国の和歌の道。ニ主語は住吉明神と 一体のものとしての「住吉の松」。三「君」は、 すみのえ 後鳥羽院。四大阪市住吉区の海岸。住江。 住吉神社がある。住吉明神は、和歌の守護神。 もっと ↓七一四の注 = 。 0 「尤も興ありておばえ侍り」 ( 千五百番歌合源師光の評 ) 。 本歌「誰をかも知る人にせむ高砂の松も 4 ・ おき 昔の友ならなくに」 ( 古今・雑上藤原興 かぜ 風 ) 。一建仁元年 ( 一一一 (1) 八月十五日の夜、後 鳥羽院主催の「撰歌合」。ニ月は多年の秋の 友。三兵庫県高砂市にある高砂神社の相生 の松で名高い。 そう 一和歌所の次官。書物の出納・記録など 和歌所の開闔になりて、はじめて参りし日、奏し侍り をつかさどった。ニ焼いて、塩を取る みなもとのいへなが し 源家長材料にする海草。「書く」の枕詞。三「書く」 と「掻く」とをかけて、藻塩草を掻く意をもは もしほぐさ三 かず うらなみ たらかせた。四後鳥羽院。五和歌の浦の波。 藻塩草かくとも尽きじ君が代の数によみ置く和歌の浦波 「和歌の浦」は、和歌山市。和歌のことをさし、 同時に、「藻塩草」の縁語。 きみよ せんごひやくばんのうたあはせ 千五百番歌合に 四 よはひ すみよし わが道を守らば君を守るらん齢はゆづれ住吉の松 いはひ かいかふ 四 すゑ つきひ じゃくれんほふし 寂蓮法師 738

8. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

こうせい て、しるし奉らせるのである。その上、わたし自身が手を はこの集の完成を喜び、後世、この和歌の道を仰ぐ者は今 下して、歌を選定し、磨き整えたが、こうしたことは、遠を慕わないことがあろうか もろこし く唐土の文章の道を尋ねると前例があるけれど、わが国で は、和歌が始ってのち、世々にこのような例はなかったこ みかど とである。この世々の集のうち、帝自身の歌を載せている ことは、古くからの同例はあるけれど、十首をこえないで あろう。そのようであるのに、今、あれこれえらんだわた し自身の歌は、三十首余りになっている。これは、皆、人 が目をそそぐような美しさもなく、、いをとめるような珍し さもありにくいために、かえって、どの歌がよいと判別し にくいので、数が積り、捨てられなくなってしまったから で、このことは、和歌の道に熱中する思いが深くて、後世 のあざけりを顧みないということになるのであろう。 げんきゅう 〔五〕編集の完成と歌道時に、元久二年三月二十六日に、ま しる 振興の自負 さに記し終る。目に見る今を軽んじ、 序耳に聞く昔を重んじるあまり、古いすぐれた先例に劣るこ みなもと 名とを恥じるけれど、和歌の流れから学んで、その源を尋ね おこ 仮たために、絶えることのない和歌の道を興したので、この 集は、時節は改っても、散り失せることがなく、年はめぐ っても、曇ることがなくて、今、この盛時にめぐり逢う者 たてまっ かろ

9. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

一伝統と創造 ききかよう じよじよう 和歌は、、 しわゆる「記紀歌謡」を中心とする歌謡を源流として、古代前期奈良時代に、和歌抒情の原点を なす、鮮烈な生命感に満ちた『万葉集』を結晶させたところから始った。 その後、古代後期平安時代に入り、漢詩文全盛期を迎えた時代的潮流に押されて、ひとたび衰微したが、 ほかならぬ漢詩文に刺激されて、和歌としての新しい抒情のあり方を探り当てるとともに、和歌独自の文学 的価値に目覚めた歌人たちによって、『万葉』歌風とはうって変った、知的趣向性を核とする優雅・繊麗な 新風を創造し、最初の勅撰和歌集である『古今集』を誇らかに結晶させた。その『古今集』は、和歌の世界 ごせんしゅう 説に深く根をおろし、強力な伝統を形作って、勅撰和歌集の規範と仰がれつつ、『後撰集』『拾遺集』『後拾遺 しゅうきんようしゅうしかしゅう せんぎいしゅう 集』『金葉集』『詞花集』『千載集』といった集を成立させた。その伝統の中で、中世前期鎌倉時代の初頭に、 解第八の勅撰和歌集として出現したのが『新古今集』である。 しかし、『新古今』歌風は、立っていた伝統からの当然のあり方として『万葉』歌風とはまったく異なっ ているが、そればかりでなく、『古今』歌風ともいちじるしく異なっている。『古今』歌風の包蔵していた方 解説

10. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

に張っても、小鳥がおのずから逃げ、筌を川や湖に並べて帝業を開いてから八十二代を経、わが国には、やはり、ま も、小魚がひそかに漏れる。そのように見落したり聞き漏だ、天皇自身が計画した撰集のあることを聞かないようで らしたりして、きっと、和歌の、やはりまだ残っているこ ある。わたしは、自信を持っている、天下の都人男女が、 したが とがあろう。今はただ、採り集めることができたのに随 この和歌の道がよい時にめぐり逢ってこの集の成ったこと って、かりにしるし終ることにするのである。 を、声をそろえてほめたたえるであろうことを。 ぎよせい らくど そもそも、『古今集』では、その時の天皇の御製を載せ わたしは、たんに、仙洞の自然のままの楽土で、風にた ていない。『後撰集』からして、初めてその時の天皇の御わむれ、月をもてあそんで、和歌を詠むという風雅の楽し げんきゅう 製をくわえている。そうして、それそれの集一部を考えて みをしるすばかりでなく、また、皇室の元久の年に、「古 みると、御製は十首に満たない。そうであるのに、今入れ い事を尋ねきわめて、新しい道を知る」という心のあるこ えら るところのわたしの作は、すでに三十首を越えている。六 とを表そうと願うのである。和歌を撰び整えてこの集を編 義を、もし兼ね備えているならば、一、二首でたりるであ集した趣旨は、ここにあるのではないか。 きのとうしおうしゅん ろうけれど、和歌の姿の絶妙な作がないので、かえって、 聖暦乙丑王春三月、以上に述べたとおりである。 つまらない作が多くくわわるということがある。もつばら、 歌道に熱中する思いによって、多くの人々の批判の目を顧 慮しなかったのである。 序〔四〕新古今集成立のおよそ、この集の取捨したのには、 名意義と自負 和歌を賞で尊ぶあまりに、特にわた 真しのこだわりのない思慮を、いろいろとめぐらした。伏羲 が皇徳の基礎を築いてから四十万年を経、その間、異国で じんむ はおのずから皇帝の作った書物を見るけれど、神武天皇が ふくぎ