題知らず いはねひさ 歌川山風は吹けど吹かねどしら波の寄する岩根は久しかりけり 七 第 ぶんぢ くわうたいごうぐうのだいぶとしなり にようごじゅだいのびやうぶ 文治六年、女御入内屏風に 皇太后宮大夫俊成 ちょ そで やまびと 仙人の折る袖にほふ菊の露うちはらふにも千代は経ぬべし えんぎのおほんときびやうぶのうた 紀貫之 延喜御時、屏風歌 ながっき 祈りつつなほ長月の菊の花いづれの秋か植ゑて見ざらん ていしんこうのいへのびやうぶ 貞信公家屏風に かみなづきもみぢ ときはぎ みねしらくも 神無月紅葉も知らぬ常磐木に万代かかれ峰の白雲 やまかぜ ごいちでうのゐん ながっきニ 後一条院生れさせ給へりける九月、月くまなかりける 四 よだいにでうのくわんばくちゅうじゃう 夜、大二条関白、中将に侍りけるに、若き人々誘ひ なみ 四 よろづよ へ きの ながっき 一七一 = の歌と同じ時の作。題「九月、菊」。 ねんぞう ニ「年三 ( ネゾウとも ) 」といい、正月・五 月・九月を、仏事を行い、仏に祈る月として いた。三なお、その上に、長寿を願う九月 「長月」の「長」に「命長くあれ」の「長」をかけた。 本歌「濡れてほす山路の菊のつゆのまに 9 ちとせ いっか千年を我は経にけむ」 ( 古今・秋下 素性法師 ) 。人が、菊を分け入って、仙宮 ( 仙 人の家 ) に着いた絵に詠んだ歌。「露」に、菊 の露と、ちょっと、の意とをかけた。一 六五一の注一。この作は、九月の、菊の絵に詠ん きょはらのもとすけ 清原元輔だもの。「文治」は、後鳥羽天皇時代の年号。 ニ山人。山中に住み、不老・不死・神変自在 の法を修めた人。三うちはらうちょっとの 間に。も ただひら 一藤原忠平。ニ十月。初冬の月。三紅 葉することも知らぬ常緑樹。四かぎり なくつづく代。 つらゆき せ 721 一「白波」と「知らな ( 知ったことではなく、 かかわりなく ) 」とをかけた。ニ岩。 へ
369 巻第七賀歌 本歌・うれしさを昔は袖につつみけり今 建久七年、入道前関白太政大臣、宇治にて人々に 4 よひ 宵は身にも余りぬるかな」 ( 和漢朗詠集・ むしろ さきのだいなごんたかふさ 前大納言隆房慶賀読人しらず ) 、「さ筵に衣片敷きこよひ 歌よませ侍りけるに もや我を待つらむ宇治の橋姫」 ( 古今・恋四 うぢはしひめ そで かたし うれしさや片敷く袖につつむらん今日待ちえたる宇治の橋姫読人しらず ) 。一一一九六年。「建久 , は、後 鳥羽天皇時代の年号。ニ藤原兼実。三京都 ↓四 = 0 の注五。 府宇治市。四↓九の注三。五 なれ かすいひさシク かおう 本歌「ちはやぶる宇治の橋守汝をしぞあ 嘉応元年、入道前関白太政大臣、宇治にて、河水久 7 はれとは思ふ年の経ぬれば」 ( 古今・雑上 きょすけのあそん すム 一一六九年。「嘉応」は高倉 清輔朝臣読人しらず ) 。一 澄といふことを人々によませ侍りけるに 天皇時代の年号。ニ『清輔集』によると、松 と いく・よ みづみなかみ はし・もり もとふさ 殿関白基房。三宇治橋の番人。 年経たる宇治の橋守こと問はん幾代になりぬ水の水上 一滋賀県大津市坂本、琵琶湖畔にある日 かんめし 吉神社の神官。「禰宜」は、神主の下に位 はふりべの する神官。ニ祝部成仲。三「みつ」に、「満 つ」と「御津」とをかけた。「御津の浜」は、日 吉神社前の琵琶湖畔一帯。四松の樹齢。 本歌「八百日ゆく浜の真砂とわが恋とい 4 ・ づれまされり沖っ島守」 ( 拾遺・恋四読 ありそうみ 人しらず ) 、「荒磯海の浜の真砂をみなもがな ひとり寝る夜の数に取るべく」 ( 後拾遺・恋四 ごとくだいじのさだいじん さがみ さねさだ ひやくしゅのうた 後徳大寺左大臣相模 ) 。一藤原実定。ニ幾百日もの日数を 百首歌よみ侍りけるに 五 かけて行く長い長い浜。三細かい砂。 おきしまもり 四「数に取る」は、数を数える時、石などを心 八日ゆく浜の真砂を君が代の数に取らなん沖っ島守 覚えのしるしとして取ること。五沖の島の 番人。 0 参考↓七一 0 。 ひょしのねぎなりなかしちじふのが 日吉禰宜成仲、七十賀し侍りけるに、遣はしける ななそぢ三 七十にみつの浜松老いぬれど千代の残りはなほぞはるけき へ カ けんきう にふだうさきのくわんばくだいじゃうだいじんうぢ まさ′ ) きみよ 四 四 ひ
467 巻第十羇旅歌 みあれのせんじ 題知らず 御形宣旨 くもゐ 都にて越路の空をながめつつ雲居といひしほどに来にけり おほんとも うた うだ 一宇多法皇。ニ出家されて。三仏道の ろ、御供に侍りて、和泉国日根といふ所にて、人々歌 たちばなのよしとし 修絎。四もと、大阪府泉南郡日根野。 よみけるによめる 橘良利現在の泉佐野市。五底本に、「よしとし」と 記し、「良利」と注記。六「たびね」の「ひね」 ふるさと六 に、地名の「日根」をかけた。 0 『大和物語』 故郷の旅寝の夢に見えつるは恨みやすらんまたと訪はねば 二段によると、亭子の帝が、「ひねといふこ とを歌によめ」と命じたので詠んだ歌。 ははきぎ しなの そのはら たびびと 本歌「園原や伏屋に生ふる帚木のありと 信濃のみ坂のかたかきたる絵に、園原といふ所に旅人 9 は見えて逢はぬ君かな」 ( ↓究七 ) 。一長 やど みさか あか ふぢはらのすけただのあそん 宿りて、立ち明したる所を 藤原輔尹朝臣野県下伊那郡神坂。ニ長野県下伊那郡阿智村。 みさかとうげ 近くの岐阜県との県境に神坂峠がある。 こよひ そのはらふせや ル立ちながら今宵は明けぬ園原や伏屋といふもかひなかりけり三園原の伏屋。「や」は「の」を兼ねた詠嘆。 「伏屋」は、低い粗末な家の意であるが、官設 の無料宿泊所である「布施屋 [ をかけて、さら に ( 寝る意の「臥せ」をもかけた。 ほくろくどう 一北陸道のこと。ニ雲のいる所。遠い 空のかなた。三あたり。 一永観元年 ( 九会 ) 八月。「入唐」は、ここ につそう では「入宋 , の意。ニ「立ち」に「裁ち」を かけ、「旅衣」を、「立ち」の枕詞とし、同時に、 旅立つ意をもはたらかせた。三海路。 四「いさ : ・知らず [ で、さあわからない、 う意になる。「しら ( 白 ) 雲」の「白」と「知ら」と ほっけうてうねん 法橋奝然をかけ、「いさ知ら ( す ) : ・知られずと重ねて いる。「しら雲の」は、果てしれぬ白雲のよう に。「ほど」は、帰る時期。 にったう 入唐し侍りける時、「いつほどにか帰るべき」と人の 問ひ侍りければ たび′ ) ろも なみぢ 旅衣立ちゅく波路遠ければいさしら雲のほども知られず みやこ さか 2 づみのくにひね 四 く。も と
四 歌しきたへの枕の上に過ぎぬなり露を尋ぬる秋の初風 四 第 巻 一後白河天皇の皇子。この五十首歌は、 建久九年 ( 一一九 0 に催されたもの。ニ袖。 さいだいじ 三菅原の伏見の里。奈良市菅原町の西大寺の あたり。「伏見」の「伏」に「臥し」をかけた。 ◆参考「いざここにわが世は経なむ菅原や伏 見の里の荒れまくも惜し」 ( 古今・雑下読人 せんごひやくばんのうたあはせ 千五百番歌合に 摂政太政大臣しらず ) 。 本歌「今ぞ知るくるしきものと人待たむ - ふかく、四 里をば離れずとふべかりけり」 ( 古今・雑 深草の露のよすがを契りにて里をば離れず秋は来にけり 下在原業平、伊勢物語四十八 ) 。一建仁元 年 ( 一 = (I) から翌年にかけて、後鳥羽院が主催 よしつね した歌合。ニ藤原良経。三京都市伏見区。 うゑもんのかみみちとも 右衛門督通具草深い意をかけた。四露という、わずかで はかないよりどころ。五約束ごと。縁。 そでニのはら 六離れないで。見捨てないで。 あはれまたいかに忍ばん袖の露野原の風に秋は来にけり 一ああ、今年もまた。ニ秋の哀れさで こばれる涙を暗示。「秋ーの縁語。 一「枕」の枕詞。ニ枕のあたりに。三吹 き過ぎたようだ。四秋風のゆかりの露 である。 本・雁がねの寒く鳴きしゅ水茎の岡の 9- 葛葉は色付きにけり」 ( 万葉・巻十作者 おうみ 未詳 ) 。「鳴きしゅ」は鳴いてから。一近江 ちくぜん ( 滋賀県 ) ・筑前 ( 福岡県 ) のどちらかの地名と 顕昭法師もされるが、「水茎の」で「岡ーの枕詞か。 ニなんとなく悲しい。「うら」に「裏」をかけ、 秋風で裏返る「葛葉」の縁語とした。 しゆかくほふしんわうごじっしゅのうた 守覚法親王、五十首歌よませ侍りける時 ころもで すがはらふしみ はつかぜ 明けぬるか衣手寒し菅原や伏見の里の秋の初風 みづぐきをかくずば 水茎の岡の葛葉も色づきて今朝うらがなし秋の初風 まくらうへ ちぎ さと か せっしゃうだいじゃうだいじん ふぢはらのいへたかのあそん 藤原家隆朝臣 みなもとのともちか 源具親 けんぜうほふし 294
53 巻第春歌上 さいぎゃうほふし ききがきしゅう むか 題知らず 一『聞書集』の詞書は、「梅ニ対ヒテ客ヲ 西行法師 待ツ」。ニ尋ねてきてくれよ。「わが宿 とめ来かし梅さかりなるわが宿を , っときも人は折にこそよれを、につづく。三疎遠にするのも。 0 場合 によるものだ。枝を折るの「折りをかけてい みもすそがわ えん る。 0 藤原俊成は、「御裳濯川歌合」で、「艶」 であり、「をかしきさま」に見える歌だと評し 一後鳥羽院主催の「正治一一年初度百首」。 ニもの思いをしながら梅を見入っていた 今日。三わたしが亡くなって、昔になって しまっても。四軒近い所。 0 参・東風吹 かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春 すがわらのみちぎね を忘るな」 ( 拾遺・雑菅原道真 ) 。 本歌「折りつれば袖こそにほへ梅の花あ りとやここにうぐひすの鳴く」 ( 古今・春 みちちか 上読人しらず ) 。一源通親。建仁元年 ( 一一一 (I) 三月に、その邸で「影供歌合」が催された。 「影供歌合」↓一八 0 。ニ袖に移って残ってい る梅の香だけであるのに。 三梅の花がまだ はちでふのゐんのたかくら 題知らず 八条院高倉袖にあると思って。 たれ 四 本歌「君ならで誰にか見せむ梅の花色を と も香をもしる人ぞしる」 ( 古今・春上紀 一ひとりのみながめて散りぬ梅の花知るばかりなる人は訪ひ とものり 友則 ) 。一ただわたしひとりだけで。ニも いろか の思いをしながら見て。三梅の花の色香の 来で 趣がわかるほどの人。四尋ねてきてくれな ひやくしゅのうた しよくしないしんわう 百首歌奉りしに、春の歌 式子内親王 けふ ながめつる今日は昔になりぬとも軒端の梅はわれを忘るな っちみかどのないだいじんのいへ うめ / かとどマルそでニ 土御門内大臣家に、梅香留レ袖といふことをよみ侍 ふぢはらのありいへのあそん り ( けら 0 冖」 藤原有家朝臣 散りぬればにほひばかりを梅の花ありとや袖に春風の吹く 四 のきば そで 四 をり っ ) 0 きの
みなもとのしげゆき 一大儀そうに散りかかる雪。ちらほら降 源重之 る雪をいった。ニ春の名誉のために。 なだ 囲梅が枝にものうきほどに散る雪を花ともいはじ春の名立てに春の名折れになることだから。 0 『重之集』 に、第三句「散る雪は」。 0 参煮・まだ咲かぬ 枝にぞさゆる白雪は花ともいはじ春の名立て に」 ( 重之集 ) 。 一「春」の枕詞。ニ家を構えて住んでい あづさゆみ て。 0 『万葉集』の原歌は「梓弓春山近く を 家居れば継ぎて聞くらむうぐひすの声」 ( 作者 未詳 ) 。『赤人集』では、本集の歌形に近いが、 第四包・たえず聞くらむ」。 一飛びまわっている。ニ羽をまっ白に あわゆき して。・淡雪」は『万葉集』では「沫雪」。 き うぐひす 本・雪のうちに春は来にけり鶯のこほ しろたへあはゆき にじ、うの れる涙今やとくらむ」 ( 古今・春上一一条 引梅が枝に鳴きてうつろふ鶯のはね白妙に淡雪ぞ降る きさき 后 ) 。一後鳥羽院主催の「正治一一年初度百首」。 ニ冬の間わびしくてこばした涙が凍っていた、 その氷。 ひやくしゅのうた これあきらしんわう 一『万葉集』には「志貴皇子の懽びの御歌」 百首歌奉りし時 惟明親王 とある。ニ岩に流れをそそぐ。三滝。 歌引うぐひすの涙のつららうち解けて古巣ながらや春を知るらん 0 ほとり。 = 芽を出したばかりの蕨。 春 0 『万葉集』の原歌は、初包・石ばしる」、結句 「なりにけるかも」。「石ばしる」は、岩をほと 第 ばしり流れる意。「垂水」は、他本に「たるひ 巻 しきのみこ 題知らず 志貴皇子 ( 垂氷 ) 」となっているものがあり、『古今六 四 帖』『和漢朗詠集』その他、「垂氷」または「た たるみうへ五わらびも -4 るひ」になっているものが多い 引岩そそく垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかな うめえ はるやま 四あづさゆみ春山近く家居してたえず聞きつる鶯の声 いへゐ と ふるす うぐひす やまべのあかひと 読人しらず 山辺赤人
一後鳥羽院主催の「正治一一年初度百首」。 ニ秋の草花の美しさ。三や竹などで 粗く編んで作った垣根。四草花が、籬でし だいに枯れていくようすをいった。 本歌「鈴虫の声のかぎりを尽くしても長 き夜あかずふる涙かな」 ( 源氏・桐壺靫 だいじゃうてんわう いのみようぶ 秋の歌の中に 太上天皇負命婦の歌 ) 。一後鳥羽院。ニ秋の哀感で もよおす涙を暗示した。 たもと むす ありあ 本歌「有明けのつれなく見えし別れより 4 ・ 秋の露や袂にいたく結ぶらん長き夜あかず宿る月かな 暁ばかり憂きものはなし」 ( 古今・恋三 みぶのただみね 壬生忠岑 ) 。一「月」には、そ知らぬようすを 見せている意で、「秋の夜の空」には、無情に せんごひやくばんのうたあはせ さゑもんのかみみちてる 千五百番歌合に 左衛門督通光も月の光を消しながら明けてくる意ではたら いている。 くれ よ 一建久六年 ( 一一空 ) 正月の「民部卿家歌合」。 さらにまた暮を頼めと明けにけり月はつれなき秋の夜の空 みつふさ 経房は、藤原光房の子。ニ一般に。だ れでも。三「露ーは、涙を暗示。四「有明」の 「有」に、「袖にあり」の「あり」をかけた。 つねふさきゃうのいへのうたあはせげうげつ にでうのゐんのさめき 経房卿家歌合に、暁月の心を 一一条院讃岐・民部卿家歌合」で、藤原俊成は、「心殊に 四 深くも侍るかな」と評した。 ねぎ っゅ そでありあけ -6 本歌「涙川流す寝覚めもあるものを払ふ 歌おほかたに秋の寝覚めの露けくはまたたが袖に有明の月 4 ばかりの露や何なる」 ( 後撰・恋三読人 四 しらず ) 、「抜き乱る人こそあるらし白玉の間 第 巻 なくも散るか袖のせばきに」 ( 古今・雑上在 ごじっしゅのうた ふぢはらのまさつね 五十首歌奉りし時 藤原雅経原業平、伊勢物語八十七 ) 。一建仁元年 ( 一一一 0 ろうにやく 一 ) 、後鳥羽院主催の「老若五十首歌合」の歌。 ニ涙を暗示。 4 はらひかねさこそは露のしげからめ宿るか月の袖のせばきに やくしゅのうた あきのうた 百首歌奉りし時、秋歌に まがき四 ねやっきかげ 秋の色は籬にうとくなりゆけど手枕なるる閨の月影 たまくら よ しよくしないしんわう 式子内親王 ・一と
本歌「宮人に行きて語らむ山桜風よりさ きに来ても見るべく」 ( 源氏・若紫 ) 。 一高倉天皇の皇子。ニ盛りが過ぎ、散りが たになってしまった。 一思いやりがないことだ。ニ「十重」を かけて、「八重」の縁語とした。 本歌・・世の中は夢かうつつかうつつとも 夢とも知らずありてなければ」 ( 古今・雑 下読人しらず ) 。一建仁元年 ( 一一一 (1) 一一月、 ろうにやく 後鳥羽院主催の「老若五十首歌合」の作。 ニ夢であったのか、現実であったのか。 下 三「白雲」の「白」に「知らす」の「知ら」をかけて 歌 春 いる。「白雲」は、桜の花と思って見た白雲。 ふぢはらのいへたかのあそん 五十首歌奉りし時 藤原家隆朝臣四常無き。無常の。・老若五十首歌合」・ 第 本集ともに、第四句・・絶えてつれなき」となっ しら・くも 】さくらばなニ ている伝本がある。その場合は、「風吹けば 桜花夢かうつつか白雲の絶えてつねなき峰の春風 峰にわかるる白雲の絶えてつれなき君が心 みぶのただみね か」 ( 古今・恋一一壬生忠岑 ) も、本歌となる。 せっしゃうだいじゃうだいじん 摂政太政大臣 あす しらゆき さそはれぬ人のためとや残りけん明日よりさきの花の白雪 138 やヘぎくら これあきらのみこ 家の八重桜を折らせて、惟明親王のもとに遣はしけ しよくしないしんわう る 式子内親王 八重にほふ軒端の桜うつろひぬ風よりさきに訪ふ人もがな 惟明親王 つらきかなうつろふまでに八重桜訪へともいはで過ぐる ごじっしゅのうた のきば と と これあきらしんわう 本歌は、一三四の本歌と同じ。一返歌。 -6 よしつね ニ藤原良経。三 ( 後鳥羽 ) 院様のお花見 のお誘いを受けなかったわたし。四本歌に、 明日は雪となって降るにちがいないといって いる、その明日より前の今日。 137 138 とへ
うりんゐん むらさきの 一京都市北区紫野にあった天台宗の寺。 雲林院の桜見にまかりけるに、みな散り果てて、わづ ニ片方の枝。三次の春。 0 『続詞花集』 かたえ りゃうぜんほふし うずぎくら かに片枝に残りて侍りければ 良暹法師によると、雲林院の雲珠桜を見に行ったとこ ろ、みな朽ち果て、残っている片枝に美しく ちぎ のち 尋ねつる花もわが身もおとろへて後の春ともえこそ契らね咲いていたので、詠んだのだという。 一帰ろうと心にきめて飛び立っ鳥。「思 ひ立つ」の「立つ」に、飛び立つ意の「立 つ」をかけた。 0 参考ー花は根に鳥は古巣に じゃくれんほふし 寂蓮法師帰るなり春のとまりを知る人ぞなき」 ( 千載・ 春下崇徳院 ) 。 0 ー千五百番歌合」に、藤原 俊成の評「なれぬる花の跡の夕暮、よろしく 侍りけるにや」。 一感動詞。ニ恨みの相手が、ほかのだ れだというので。・千五百番歌合」で、 藤原俊成は、「あはれうらみのたれなればな どいへる、心もよろしく侍るにや」と評した。 本歌ーあづさ弓いるさの山にまどふかな 1 ほのみし月の影や見ゆると」 ( 源氏・花宴 ) 。 ごんちゅうなごんきんつね 権中納言公経一「尋ね入る」の「入る」と「入佐の仙 % 「入」と をかけた。「入佐の山」は、兵庫県出石郡宮内 にある山。・千五百番歌合」で、藤原俊成 歌春深く尋ねいるさの山の端にほの見し雲の色そ残れる は、「姿・詞とがなくは侍る」と評した。 一後鳥羽院主催の「正治一一年初度百首」。 第 よしつわ 巻 ニ藤原良経。三奈良県桜井市初瀬にあ ひやくしゅのうた せっしゃうだいじゃうだいじん 百首歌奉りし時 摂政太政大臣る山。平安時代から都の人に親しまれた長谷 でら 0 寺 ( 初瀬寺 ) がある。四散っていく桜の花で。 はっせやま四 五花に見あやまられた雲。 初瀬山うつろふ花に春暮れてまがひし雲ぞ峰に残れる せんごひやくばんのうたあはせ 千五百番歌合に ふるす 思ひ立っ鳥は古巣も頼むらんなれぬる花の跡の夕暮 散りにけりあはれ恨みのたれなれば花の跡訪ふ春の山風 は あとゆふぐれ と 153
一都から東国に行く道。東海道筋。 ニ佐夜の中山。「さよのなかやま」と同じ。 かなやちょう 静岡県掛川市と榛原郡金谷町との間にある坂 道。第一・二句、「さやかにも」の有意の序詞。 ・一と 本歌・名にしおはばいざ言問はむ都鳥わ が思ふ人はありゃなしやと」 ( 古今・羇旅 ゆりかもめ 在原業平、伊勢物語九 ) 。「都鳥」は、百合鷸 のことという。一三重県伊勢市。この歌は、 晩年の貞元二年 ( 九耄 ) に、斎宮となった規子 内親王とともに下ってからの作であろう。 すがはらのすけあき 題知らず 菅原輔昭ニ昔の人が、都鳥に問いかけたように。 三無事でいるかとだけでも。 ふるさとびと 一故郷に帰れないでいることをまだ知ら まだ知らぬ故郷人は今日までに来んと頼めしわれを待つらん ない。ニ約束した。 一「ゐな」の枕詞。息長鳥。水鳥の名で、 「かいつぶり」のことかという。この鳥が 読人しらず居並ぶので、「ゐな」の枕詞として用いられた。 ニ大阪府池田市から、兵庫県尼崎市にかけて ありまやまゆふぎり やど 流れる猪名川沿岸の野。三兵庫県神戸市、 しなが鳥猪名野をゆけば有馬山タ霧立ちぬ宿はなくして 有馬温泉付近の山の総称。 0 『万葉集』の原 歌 旅 歌は、第二句「猪名野を来れば」、結句は、旧 やど 羇 訓で本集と同じ、新訓「宿りはなくて」。 ごのだんおち 0 『万葉集』によると、碁檀越が伊勢国に 計川神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝やすらん荒き浜べに 巻 9 行った時、都の妻が詠んだ歌。一「伊 勢」の枕詞。ニ浜べの荻。本集時代の歌人た ちは、「浜荻」は蘆のことをいうと解していた。 やまやまてらでらすぎゃう 0 参・はま荻はあしの名也」 ( 奥儀抄 ) 。 亭子院、御ぐしおろして、山々寺々修行し給ひけるこ あづまぢニ くもゐ 東路のさやの中山さやかにも見えぬ雲居に世をや尽くさん かみかぜ によう′ ) きしぢよわう 伊勢より人に遣はしける 女御徽子女王 みやこどり三 人をなほ↑ 艮みつべしや都鳥ありやとだにも問ふを聞かねば ていじのゐんみ どりゐなの せ なかやま はまをぎ たびね っ