藤原 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)
299件見つかりました。

1. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

新古今和歌集 526 ・安応 21 号 西 七七 天 院 政 四一一七四 安元元一一七五 治承元一一七七 ( 8 ・ 4 ) 一一七八 十月十七日、広田社歌合 ( 藤原俊成判 ) 。 藤原公通没 ( 五十七歳 ) 。八月十五日、三井寺新羅 社歌合 ( 藤原俊成判 ) 。 六月六日、藤原清輔の家焼失。 ニ月一一十七日、源雅通没 ( 五十八歳 ) 。閏九月十七春、源空 ( 法然 ) 、専修念仏を唱える。九月十 日、右大臣 ( 藤原兼実 ) 家歌合 ( 藤原清輔判 ) 。「清二日、京都大風。十一月二十八日、平重盛、 輔・頼政為二棟梁一」 ( 『玉葉』 ) 。十月十日、右大臣大納言。 家歌合 ( 清輔判 ) 。この年、兼実邸の歌会が頻繁に 催される。 九月一一十八日、藤原俊成、出家。法名、釈阿。 六月一一十日、藤原清輔没 ( 七十四歳 ) 。『清輔朝臣三月五日、平重盛、内大臣。同六日、源為朝、 集』。十月十六日、覚忠寂 ( 六十歳 ) 。 伊豆大島で自殺。四月一一十八日、京都大火。 内裏被災、焼死者数千人といわれる。六月一 日、平氏打倒の鹿ヶ谷の陰謀発覚。平清盛、 藤原成親を備前に配流ののち藤原師光ととも に殺し、藤原成経・平康頼・俊寛を鬼界ヶ島 に配流。 三月十五日、別雷社歌合 ( 俊成判 ) 。六月二十三日、七月三日、天下に大赦、流人藤原成経・平康 俊成、はじめて藤原兼実邸を訪れる。「五条三位頼を召還。 入道俊成解来。於 = 和歌之道一、為 = 長者一」 ( 『玉 葉』 ) 。三月から六月にわたり、右大臣家百首。こ 和歌事項 六日、建春門院北面歌合 ( 俊成判 ) 。 の 一般事項 衡、鎮守府将軍。 十ニ月八日、平重盛、権大納言に更任。平清 盛の女徳子、十四日、入内、二十六日、女御 となる。 ニ月十日、平徳子、中宮となる。

2. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

533 年表 承元元一二〇七 四 〇 三一二〇九 から『新古今集』に九首入集する。十一月十三日、 後鳥羽院の作が『新古今集』に切り入れられる。 三月七日、鴨御祖社歌合 ( 無判 ) ・賀茂別雷社歌合ニ月十八日、専修念仏を停止、源空 ( 法然 ) が ( 無判 ) 。四月五日、藤原兼実没 ( 五十九歳 ) 。同八土佐に、親鸞が越後に流される。十一月二十 日、藤原定家の作二首が『新古今集』に切り入れら七日、後鳥羽院、最勝四天王院を造営、供養 れる。六月二日、『新古今集』から歌が少し切り出が行われる。 される。九月二十四日、最勝四天王院障子和歌が 選定される。この障子和歌から『新古今集』に十三 首入集する。 九月十九日、藤原経家没 ( 六十一歳 ) 。十一月一日、 藤原光範没 ( 八十四歳 ) 。藤原隆房没 ( 五十九歳 ) 。 この年、藤原定家、『近代秀歌』を源実朝に贈る。 九月、『新古今集』から切り出される。今日までに 知られている切り継ぎ作業の最後のもの。 閏四月十五日、京都大火。

3. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

0 年号西暦天皇院政 建久四一一九三 集 歌 和 今 新 ( 4 ・幻 ) 正治元一一九九 一二〇〇 七月五日、天皇、延暦寺衆徒の訴えにより、 栄西らの禅宗布教活動を停止させる。栄西に 『興禅護国論』がある。幕府、東海道に新駅を 増置、駅夫の員数を定める。 一一九五 正月一一十日、民部卿 ( 経房 ) 家歌合 ( 藤原俊成判 ) 。三月十一一日、東大寺供養。天皇行幸、源頼朝 も臨席。この年、栄西、筑前に聖福寺を建立。 七月二十二日、藤原家房没 ( 三十歳 ) 。 八一一九七 七月一一十日、藤原俊成、『古来風躰抄』を執筆完成、 式子内親王に献進。 九一一九八土御門後鳥羽五月一一日、後京極殿 ( 藤原良経 ) 御自歌合 ( 藤原俊一月十一日、後鳥羽院院政開始。 Ⅱ ) 成判 ) 。良経の後記に、俊成について、「三品禅門 なり 者、当世之貴老、我道之師匠也」と記す。夏、守 覚法親王家五十首。この年のころ、慈鎮和尚自歌 合 ( 俊成判 ) 成立。 五一一九四 和歌事項 ニ月二十一日、藤原公衡没 ( 三十六歳 ) 。『三位中八月十七日、源頼朝、源範頼の異図あるを疑 将公衡集』。三月十六日、藤原実家没 ( 四十九歳 ) 。 伊豆に追い、殺す。 『実家卿集』。秋、藤原良経主催の六百番歌合 ( 藤 原俊成判 ) 。旧風の六条家と新風の御子左家とが 対立、六条家の顕昭に、俊成の判を不服とした 『六百番陳状』がある。 正月十三日、源頼朝没 ( 五十三歳 ) 。同二十六 日、源頼家、勅命により、頼朝の遺跡を継ぐ。 ニ月五日、御室撰歌合 ( 藤原俊成判 ) 。守覚法親王閏ニ月十三日、源頼朝の妻北条政子の発願、 家五十首による撰歌合。九月三十日、院主催歌合栄西を開山とし、鎌倉五山の一つ、寿福寺を ( 俊成判 ) 。九月下旬か十月初旬ごろ、仙洞十人歌建立。 の 一般事項

4. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

529 年表 四一一八八 五一一八九 建久元一一九〇 ( 4 ・ ) 建の勧進のため、伊勢を発ち、奥羽に赴く。八月 十五日、西行、鎌倉の源頼朝に会い、和歌・武芸 について語る。十月二十二日、歌合 ( 衆議判 ) 。こ の年、西行、藤原定家・家隆・慈円・寂蓮らに百 首歌を勧進。一一見浦百首。 春、皇后宮 ( 殷富門院 ) 大輔、藤原定家・家隆・寂源義経、頼朝と不和となり、ニ月、陸奥の藤 蓮らに百首歌を勧進。九月二十日、『千載集』一応原秀衡のもとにのがれる。三月、栄西、再度 成立、奏覧か。秋ごろ、西行、御裳濯川歌合の判渡宋。 を藤原俊成に依頼、判詞間もなく成るか。十一月 三十日、慈円、厭離百首。冬、定家・家隆、閑居 百首。この年のころ、顕昭、『袖中抄』を守覚法親 王に献進。 四月二十二日、『千載集』奏覧。その後、撰者詠を 追加して完成。 十月ごろ、西行の宮河歌合に藤原定家の判詞成る閏四月三十日、源義経、衣川館で藤原泰衡に 討たれる。 正月六日、女御 ( 藤原兼実の女任子 ) 入内御屏風和十月十九日、東大寺上棟。源頼朝、十一月九 歌の選定。作者、藤原兼実・実定・実房・良経・日、権大納言、十ニ月四日、辞する。 季経・隆信・定家・俊成。春、俊成、五社百首清 書。 正月十二日、賀茂重保没 ( 七十三歳 ) 。三月三日、七月、栄西、宋から帰朝、臨済宗を伝える。 若宮社歌合 ( 顕昭判 ) 。同十日、藤原長方没 ( 五十 三歳 ) 。『按納言集』。十月十三日、祝部成仲没 ( 九 十三歳 ) 。閏十ニ月十六日、藤原実定没 ( 五十三 歳 ) 。『林下集』。この年ごろまでに、俊恵没。 三月十三日、後白河院崩 ( 六十六歳 ) 。 七月十一一日、源頼朝、征夷大将軍となり、最 初の武家政権としての鎌倉幕府を開く。

5. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

表 年 ( 4 ・ 8 ) 永万元一一六五六条 ( 6 ・ 5 ) ( 6 ・ ) 応保元一 ( 9 ・ 4 ) 長寛元一一六三 ( 3 ・四 ) 仁安元一 ( 8 ・ ) 嘉応元一一六九 一一六四 一一七〇 ( 2 ・四 ) 八月十一日、藤原公能没 ( 四十七歳 ) 。 九月十三日、平清盛、権中納言。 五月一一十七日、源雅定没 ( 六十九歳 ) 。六月十八日、四月七日、平清盛、皇太后宮権大夫を兼ねる。 藤原忠実没 ( 八十五歳 ) 。七月一一十八日、藤原実行十月一一十八日、平重盛、右兵衛督。 没 ( 八十三歳 ) 。 ニ月十九日、藤原忠通没 ( 六十八歳 ) 。『田多民治十ニ月十七日、後白河院、平清盛に造営させ 集』。八月二十六日、崇徳院、讃岐で崩 ( 四十六た蓮華王院の供養。 歳 ) 。 四月二十六日、藤原範兼没 ( 五十九歳 ) 。八月二十七月二十八日、二条天皇崩 ( 二十三歳 ) 。八月 三日、藤原親隆没 ( 六十七歳 ) 。『親隆集』。この年十七日、平清盛、権大納言。 のころ、『続詞花集』 ( 藤原清輔撰 ) 『今撰集』 ( 顕 昭 ) が成る。 この年、中宮亮重家朝臣家歌合 ( 藤原俊成判 ) 。平重盛、四月六日、左兵衛督、七月十五日、 「風体は幽玄調」の判詞が見える。 権中納言。十一月十一日、平清盛、内大臣。 十ニ月一日、京都大火。 八月、太皇太后宮亮平経盛朝臣家歌合 ( 藤原清輔平清盛、ニ月十一日、太政大臣、五月十七日、 判 ) 。 辞する。ニ月十一日、平重盛、権大納言。 十月十日、西行、四国へ旅立つ。 ニ月十一日、平清盛出家。ニ月十三日、京都 大火。栄西、四月、渡宋、九月、帰国。十ニ月 十三日、平重盛、病により権大納言を辞する。 六月十七日、後白河院出家。七月、式子内親王、 斎院を辞する。十ニ月十一日、覚性法親王寂 ( 四 十一歳 ) 。『出観集』。 五月二十九日、左衛門督実国卿家歌合 ( 藤原清輔平重盛、四月二十一日、権大納言に更任、十 判 ) 。十月九日、住吉社歌合 ( 藤原俊成判 ) 。同十ニ月三十日、辞する。五月二十五日、藤原秀

6. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

新古今和歌集年表 集 歌 和 古 新年号西暦天畠院政 久寿二 一一五五後白河 ( 7 ・ 4 保元元一一五六 一一五七 一一五八二条後白河 ( 8 ・ ) ( 8 ・Ⅱ ) 平治元一一五九 ( 4 ・ ) 永暦元一一六〇 一、本年表は、『新古今』時代を理解するためのもので、後白河天皇時代から土御門天皇 時代までを範囲とした。 一、年号・西暦・天皇・院政・和歌事項・一般事項の欄を設けた。 一、特に和歌事項の欄は、歌壇の主要動向、ならびに『新古今集』に作の入集している歌 人の死 ( 没年齢は数え年による ) ・業績などを取りあげ、一般事項の欄は、保元の乱・ 平治の乱をはじめとする、時代の性格を表す事件を中心として取りあげた。 和歌事項 一般事項 五月七日、藤原顕輔没 ( 六十六歳 ) 。『左京大夫顕七月二十三日、近衛天皇崩 ( 十七歳 ) 。 輔卿集』。 七月一一日、鳥羽院崩 ( 五十四歳 ) 。 七月、保元の乱。崇徳院・藤原頼長側は源為 義・同為朝父子の軍、後白河天皇・藤原忠通 側は平清盛・源義朝の軍を主力として戦い 崇徳院側が敗れる。七月十四日、頼長没、二 十三日、崇徳院、讃岐に配流され、三十日、 為義ら斬罪、八月三日、為朝、伊豆大島に配 流される。 八月十一日、後白河院院政開始。 十月三日、藤原清輔、『袋草紙』を一一条天皇に献進。十ニ月、平治の乱。藤原信頼と藤原通憲 ( 信 藤原成通、この年没したか ( 六十三歳 ) 。『成通卿西 ) 、源義朝と平清盛、それぞれの対立が原 集』。この年、式子内親王、斎院にト定。 因。信頼・義朝が謀叛して敗れ、信頼は十ニ 月二十七日斬罪、義朝はのがれる。 七月、太皇太后宮大進清輔朝臣家歌合 ( 源通能判 ) 。一月四日、源義朝、尾張で殺される。三月十 一日、義朝の子、頼朝、伊豆に配流される。 九月一一十日、平清盛、右衛門督。 九月二日、藤原実能没 ( 六十二歳 ) 。

7. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

俊成は、文治三、四年 ( 一一八七 ~ 一一八 0 、七十四、五歳の時に成立した『千載集』に、自作を三十六首、西行 作を十八首入集させた。その『千載集』の成立後、十七、八年を経て『新古今集』が成立するが、それには、 じえん 俊成作は七十一一首、西行作は最高歌数の九十四首、また、藤原兼実の弟慈円作が西行作に次ぐ九十一一首、兼 よしつね 実の子良経作がそれに次ぐ七十九首の入集を見るのであって、俊成が九条家に歌道の師として迎えられたこ とと『千載集』の撰者になったこととは、『新古今集』の成立にいかに大きくかかわるかがうかがわれるで あろう。 俊成は、『千載集』を撰進したのち、『新古今集』成立の直前、元久元年 ( 一 = 0 四 ) まで、九十歳の長寿を保 ち、実作・歌合判・歌論に熱情をそそぎつづけて、自身の世界を円熟させるとともに、歌壇の潮流を、かれ の創造した「幽玄体」を核とした新風によって高揚させた。それが最高潮に達したのは建仁元年 (IIIOI) で あった。正治二年 ( 一 = (0) 、二十一歳の若さで、俊成の影響下に作歌に専念しはじめた天才歌人後鳥羽院が、 たちまちにして、歌壇を掌握し、最高潮に導いてしまったのである。 後鳥羽院は、正治二年の二度の百首歌の催しをはじめとして、百首歌・五十首歌や歌合などを、驚嘆にあ たいする頻繁さで主催するようになったが、建仁元年六月には、第一線歌人をはじめとする歌人三十名に命 じて、空前絶後の大歌合である「千五百番歌合」のための百首歌を詠進させた。そして、早くも、新しい勅 説 むらかみ てんりやく 撰和歌集の撰定を思い立ち、その直後の七月二十七日には、村上天皇の天暦五年 GFI) に『後撰集』の撰集 わかどころ よりゅうど 解事業のために和歌所が設置された先例にならって、和歌所を二条殿に設置した。寄人 ( 和歌所職員 ) には、 みちちか みちとも ありいえ いえたか まさつね ともちかじゃくれん 藤原良経・源通親・慈円・藤原俊成・源通具・藤原有家・同定家・同家隆・同雅経・源具親・寂蓮・藤原 ひでよしかものちょうめい きょのり たかのぶ 力い - : っ 隆信・同秀能・鴨長明・藤原清範 ( この一名については異説がある ) を任命し、開闔 ( 和歌所書記役 ) には源家 ひんばん

8. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

新古今和歌集 532 建仁二一二〇一一 建永元一二〇六 元久元一二〇四 ( 2 ・ ) 年号西暦天皇院政 二一二〇五 和歌事項 朝「姑射山之花下、各逢 = 風雅之中興「和歌所 / ニビル のせんしようヲ 之月前、再見 = 天暦之先蹤一」と記す。九月十三日、 院主催水無瀬殿恋十五首歌合 ( 藤原俊成判 ) 。九月 一一十六日、若宮撰歌合 ( 水無瀬殿恋十五首歌合か らの撰歌合。後鳥羽院判 ) 。水無瀬桜宮十五番歌 合 ( 若宮撰歌合と同じ撰歌合。俊成判 ) 。十月一一十 一日、源通親没 ( 五十四歳 ) 。 六月十六日、院主催和歌所影供歌合 ( 判者不明 ) 。比企能員、源頼家と、北条氏を滅そうと謀り、 七月十五日、八幡若宮撰歌合 ( 藤原俊成判 ) 。八月北条時政に殺される。九月七日、源実朝、征 十五日、和歌所で、俊成九十の賀屏風和歌の選定。夷大将軍となり、時政、執権となる。頼家、 十一月二十三日、院、和歌所で、俊成九十の賀宴出家。同二十九日、時政、頼家を伊豆修禅寺 を催す。 に幽閉 七月一一十一一日、和歌所で、『新古今集』の撰歌部類七月十八日、源頼家、伊豆修禅寺で暗殺され 開始。十一月十日、院主催春日社歌合 ( 衆議判 ) 。る。 同十一日、院主催北野宮歌合 ( 衆議判 ) 。同三十日、 藤原俊成没 ( 九十一歳 ) 。 ニ月二十七日、藤原隆信没 ( 六十四歳 ) 。『隆信朝閏七月十九日、北条時政、源実朝の暗殺を謀 臣集』。三月二十六日、『新古今集』一応成立、そり、失敗して出家、北条義時が執権となる。 の竟宴が催される。撰者、源通具・藤原有家・ 定家・家隆・雅経の五名。六月十五日、院主催元 久詩歌合 ( 判者不明 ) 。この詩歌合から『新古今集』 に八首入集する。この年のころまでに、宮内卿没 ( 二十歳前後 ) 。 三月七日、藤原良経没 ( 三十八歳 ) 。『秋篠月清集』。 七月一一十五日、卿相侍臣歌合 ( 衆議判 ) 。この歌合 一般事項

9. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

表 年 養和元一一八一 ( 7 ・ ) の年の夏、俊成、家集『長秋詠藻』を守覚法親王に 献上。七月、俊成、右大臣家百首を詠進。八月一一 十三日、俊恵の家集『林葉和歌集』成立。八月、一一 十二番歌合 ( 顕昭判 ) 。九月一一十日、右大臣家百首 披講。十一月十二日、藤原盛方没 ( 四十二歳 ) 。 十月十八日、右大臣家歌合 ( 藤原俊成判 ) 。この年平重盛、三月十一日、病により内大臣を辞し、 ごろまでに治承三十六人歌合が成る。 七月二十八日、出家、二十九日没 ( 四十二歳 ) 。 『公卿補任』によると、八月一日没。十一月十 七日、平清盛、太政大臣藤原師長以下、後白 河院の近臣を解官、一一十日、後白河院の院政 を停止、院を鳥羽殿に幽閉。 四一一八〇安徳高倉五月二十六日、源頼政没 ( 七十七歳 ) 。『従三位頼ニ月一一十一日、高倉院院政開始。四月九日、 幻 ) 政卿集』。九月、藤原定家、『明月記』に、「世上源頼政、以仁王を奉じ、諸国の源氏を誘い、 ハあらズガ いへどモットニ 乱逆追討雖レ満レ耳不レ注レ之、紅旗征戎非ニ吾平氏打倒を企てる。同二十九日、京都大辻風。 事こと記す。十一月十日、藤原永範没 ( 八十一歳 ) 。五月二十六日、以仁王・頼政、平氏の軍と宇 治川に戦い、敗死。六月二日、平清盛の奏請 により、福原に遷都。八月十七日、源頼朝、 伊豆に挙兵。九月七日、源義仲、信濃に挙兵。 同二十九日、平維盛ら、頼朝追討のため京都 を発し、源平決戦の動乱始る。十月六日、頼 朝、鎌倉に入る。同二十日、頼朝、平氏の軍 と富士川に対陣、平氏潰走。十一月二十六日、 京都に還都。十ニ月十八日、清盛、後白河院 の院政を請う。同二十八日、平重衡、東大寺 ・興福寺を焼く。 後白河高倉院崩 ( 一一十一歳 ) 。四月、藤原定家、初学百首。一月十七日、後白河院院政復活。閏ニ月四日、 平清盛没 ( 六十四歳 ) 。この年、平氏、源氏追 一一七九

10. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

てんじようびと 一殿上人たち。ニ夜明けがたに山の雪 0 を遥かに眺める。三京都市東山区の東 方、滋賀県との境にある山。四はっきりと 見せる。五もう夜が明けた。六鶏。 一散り敷いていた上に。ニ一条天皇の みちなが しようし 中宮。藤原道長の娘、彰子。三官女。 四ひょっとしたら、道も見えないほどになっ てしまっていることであろうか。 0 『家経 集』の詞書には、「もみぢに初雪の降りかかり てあるを見て、白河院にさぶらふ女のもとに やる」とある。 やてい / ゆき ふぢはらのくにふさ いなか 野亭雪をよみ侍りける 0- 一田舎の宿の雪。ニ底本に、「藤原く 藤原国房 ふさ」と書き、「国房」と注記している。 さび 寂しさをいかにせよとて岡べなる棆の葉しだり雪の降るらん三このうえどうせよというので。四岡のほ なら とりに立っ棆の葉を垂れさせて。 本歌「苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭 野の渡りに家もあらなくに」 ( 万葉・巻三 ひやくしゅのうた ふぢはらのさだいへのあそん ながのいみきおきまろ 百首歌奉りし時 藤原定家朝臣長忌寸奥麿 ) 。結句、家もないのに、の意。 一「正治二年初度百首」。ニ雪の降りかかっ ゅふぐれ た袖。三物陰。四和歌山県新宮市内。三輪 歌駒とめて袖うちはらふ陰もなし佐野のわたりの雪の夕暮 崎の南西、木ノ川の沿岸。「わたり」は、あた り、の意。本歌によると、川を渡る場所。 第 ゅうがくしゅうどうふうけん 巻 0 世阿弥は『遊楽習道風見』に、「名歌なれば、 元より面白く聞えて、さて面白き所を知ら ず」と評し、能の達人の妙風の境に通じると 00 おとはやま四 しらゆき五 音羽山さやかに見する白雪を明けぬと告ぐる鳥の声かな 670 もみぢ一 紅葉の散れりける上に、初雪の降りかかりて侍りける じゃうとうもんゐん によ - つばう ふぢはらのいへつねのあそん を見て、上東門院に侍りける女房に遣はしける 藤原家経朝臣 やまぎと四 もみぢ 山里は道もや見えずなりぬらん紅葉とともに雪の降りぬる せっしゃうだいじゃうだいじんだいなごん さんか / ゆき 摂政太政大臣、大納言に侍りける時、山家雪といふ ことをよませ侍りけるに そで 、力し 四 をか 四 さの ならは ぜあみ