風 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)
529件見つかりました。

1. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

守覚法親王が五十首の歌を詠ませました時 藤原家隆朝臣 夜がもう明けてしまったのか。袖が寒い。菅原の伏見の 集里の秋の初風よ。 和荒れた菅原の伏見の里で、旅寝をして迎えた立秋の夜 今 古 明けのわびしさを、秋の初風の寒さで強調した。 新 千五百番の歌合に 摂政太政大臣 3 草深い深草の里の露というわずかではかないよりどころ 2 を縁として、この深草の里を見捨てないで、秋は来たこ とだ。 草に露が置く時は秋が来る時である。そういう自然の ようえい 約束ごとを、本歌を揺曳させながら、男がわずかな縁 で女を見捨てないで尋ねるという物語的発想で、哀艶 な趣にして詠んでいる。 右衛門督通具 ああ、今年もまたどのように耐えようか。袖の涙を。野 原を吹く風に秋は来たことだ。 295 源具親 わたしの枕のあたりに吹き過ぎたようだ。ゆかりの露を 尋ねる秋の初風よ。 枕は早くも、秋の哀感でこばれる涙で濡れている、そ の涙を、秋の初風が、ゆかりの露かと思って訪れたら しいというのである。秋の初風を擬人化して、優艶な 趣をかもしだしている。 顕昭法師 みずぐき もみじ 水茎の岡の裏返る葛葉も紅葉しはじめて、立秋の今朝は、 2 なんとなく悲しい。秋の初風の中で。 本歌にたよった古調の作だが、「水茎」と「秋の初風」 の響き合い、葛葉の裏返る情景を生かした主観句「今 朝うらがなし」が、抒情を新鮮にした。 今年もまた哀感に耐えられない秋が来たというのであ る。「袖の露」に、涙と野原の風にこばれる露との印 象が重なって、感を深めている。

2. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

藤原季通朝臣 7 この寝た一夜の間に、秋は来たらしい。夜明けがたの風 が、夏であった昨日の風とはうって変って感じられるこ 集とだ。 和本歌が、立秋後の自然に即した、ある夜明けの風の涼 今 しさの驚きであるのに対し、これは、立秋の夜明けの 古 新 意識が発見した風の変化の驚きで、新しい じゅだい 後徳大寺左大臣 文治六年、女御入内の屏風に 8 その風の音をいつも聞いている同じ麓の里だと思うのだ 2 けれど、立秋の今日は、夏であった昨日とはうって変っ て聞える山颪の風よ。 絵の中の人家の人になっての作。「昨日に変る山颪の 風」が、前の歌の、「朝けの風の昨日にも似ぬ」と同 様の発想である。 藤原家隆朝臣 百首の歌を詠みました中に ~ 夏であ 0 た昨日でさえ尋ねようと思 0 た津の国の生田の 森に、今日、秋は来たことだ。 やまおろし ふもと 本歌を背景として、秋を迎えた生田の森の趣を、「昨 日だに訪はんと思ひし」で、感深くしている。 ふすま 最勝四天王院の襖に、高砂を描いてある所 藤原秀能 吹く風の色は秋とは見えないが、高砂の峰の松に、秋は 来たことだ。 絵の中の人になっての作。一見淡々としているが、 「吹く風の色こそ見えね」は、高砂の松の緑と秋風の 音とを暗示して、余情を豊かにしている。 皇太后宮大夫俊成 百首の歌をさしあげた時 伏見山の松の木陰から見わたすと、夜の明ける田の面に、 秋風が吹いていることだ。 いなだ 夜のほのばのと明けゆく一面の稲田の稲を、さわやか になびかせて吹く秋風の情景が目に浮ぶ。 たかさご

3. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

一伝統と創造 ききかよう じよじよう 和歌は、、 しわゆる「記紀歌謡」を中心とする歌謡を源流として、古代前期奈良時代に、和歌抒情の原点を なす、鮮烈な生命感に満ちた『万葉集』を結晶させたところから始った。 その後、古代後期平安時代に入り、漢詩文全盛期を迎えた時代的潮流に押されて、ひとたび衰微したが、 ほかならぬ漢詩文に刺激されて、和歌としての新しい抒情のあり方を探り当てるとともに、和歌独自の文学 的価値に目覚めた歌人たちによって、『万葉』歌風とはうって変った、知的趣向性を核とする優雅・繊麗な 新風を創造し、最初の勅撰和歌集である『古今集』を誇らかに結晶させた。その『古今集』は、和歌の世界 ごせんしゅう 説に深く根をおろし、強力な伝統を形作って、勅撰和歌集の規範と仰がれつつ、『後撰集』『拾遺集』『後拾遺 しゅうきんようしゅうしかしゅう せんぎいしゅう 集』『金葉集』『詞花集』『千載集』といった集を成立させた。その伝統の中で、中世前期鎌倉時代の初頭に、 解第八の勅撰和歌集として出現したのが『新古今集』である。 しかし、『新古今』歌風は、立っていた伝統からの当然のあり方として『万葉』歌風とはまったく異なっ ているが、そればかりでなく、『古今』歌風ともいちじるしく異なっている。『古今』歌風の包蔵していた方 解説

4. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

513 解説 に二様もしくはそれ以上の意味を兼ねさせるもの ) ・縁語 ( 掛詞によって、縁のある語を照応させて修飾するもの ) の ほんかど 技巧が活用されているが、特にいちじるしい特色を発揮しているのは、句切れと体言止めと本歌取りとの手 法である。 『万葉』歌風では、荘重な五七調が主調であったので、句切れは、おのずから七音句に生じやすく、したが って、短歌では、第二句・第四句に生じやすかった。短歌が中心となった『古今』歌風からは、軽快な七五 調への傾向が生じ、それがいちじるしくなるにつれて、句切れも、おのずから五音句に生じやすく、したが って、第一句 ( 初句 ) ・第三句に生じやすくなった。その傾向の絶頂に達したのが『新古今』歌風であった。 第一句で切れるのを「初句切れ」もしくは「一句切れ」といい、第三句で切れるのを「三句切れ」という。 体言止めは、「名詞止め」ともいし 一首の終りが体言で止められるのをいうのであって、『万葉』歌風から 現れているが、その現れ方は、初句切れ・三句切れと同様に、『新古今』歌風で絶頂に達した。 そら おと 聞くやいかにうはの空なる風だにも松に音するならひありとは ( 恋三宮内卿↓一一究 ) ふもと のきばすぎ 待つ人の麓の道は絶えぬらん軒端の杉に雪重るなり ( 冬藤原定家↓六七一 D せきゃいたびさし 人住まぬ不破の関屋の板廂荒れにしのちはただ秋の風 ( 雑中藤原良経↓一五究 ) とをち , 一ろも 更けにけり山の端近く月冴えて十市の里に衣打っ声 ( 秋下式子内親王↓四会 ) きょたきがは しらなみ 降り積みし高嶺のみ雪解けにけり清滝川の水の白波 ( 春上西行↓ = 七 ) よしの あらし み吉野の高嶺の桜散りにけり嵐も白き春のあけばの ( 春下後鳥羽院↓一三三 ) まき さび 寂しさはその色としもなかりけり槙立っ山の秋の夕暮 ( 秋上寂蓮↓三六 D きのふ あと 思ひ出でよたがかねごとの末ならん昨日の雲の跡の山風 ( 恋四藤原家隆↓一一一九四 ) ひと たかね たかね すゑ おも えんご

5. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

向を深めた歌風であるにはちがいないが、『新古今集』を支えた歌人たちは、『古今』時代の歌人たちはもち ゅうみよう ろん、それ以後の歌人たちも、おそらく思いもよらなかったはずの幽妙な抒情の新風を創造しているのであ 集る。 その歌風を、今日、一般に、「象徴的歌風」と呼んで、『万葉』歌風・『古今』歌風とならぶ、古典和歌三 今 新大歌風の一つとしている。歌人たちをそのような創造性に目覚めさせ、突き動かしたものは、古代から中世 への社会的激動を背景とした天才的歌人の出現であった。 ごくでん しゅんぜい さいぎよう しやくあ 『新古今集』の撰定事業を親裁した後鳥羽院の著『後鳥羽院御ロ伝』に、藤原俊成 ( 法号、釈阿 ) ・西行の そき 両歌人を評して、「釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿 なり。西行は、おもしろくて、しかも、心も殊に深く、ありがたく、出で来がたき方も共に相兼ねて見ゅ。 しゃうとく じゃうず 生得の歌人とおばゅ。おばろげの人まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」と述べられている。 俊成・西行の共通性として指摘されているところは詩情の深さであって、俊成の方は、それにもとづく、哀 感を誘うところもあり、西行の方は、その深さが格別だとされている。それぞれの特殊性として指摘されて いるところは、俊成には優艶な趣があり、西行にはおもしろい趣があるということである。 特に注目されるのは、俊成の歌境は後鳥羽院にとって願い求められるものであり、西行の歌境は、並大抵 の歌人にはまねることのできない、超天才のものだ、とされていることである。それは、俊成の歌境が『新 古今集』の抒情のあり方の最もすぐれた中軸を示しており、西行の歌境が、『新古今集』の抒情のあり方と 一体でありながら、自由な高さにまで抜け出ていることが確認されているということにほかならない。 ところで、俊成は、永久二年 ( 一一一四 ) に生れ、元久元年 ( 一一一 0 四 ) に九十一歳で没した。西行は、俊成に四 えん

6. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

題知らず 七条院権大夫た夏の扇の風が、秋の初風になって。 秋が来たと、松を吹く風の音も知らせることだ。秋を知 立秋の夜明けがた、扇を使いながらうたた寝をした袖 3 らせるものはきまって荻の上葉だといわれている、その の風が、秋の初風に変っていた、というのである。繊 集荻の上葉ではないけれど。 細な感覚を生かした妙味がある。 和 秋を告げる風の音を、まず、軒の荻の葉に聞くという 題知らず 古意識が強く支配していた中で、松に聞きとめたという 相模 新 のは、鋭い感覚の発露で、新鮮である。 手もだるくなるまで鳴らして使い慣れた扇の、置き場所 も忘れるほどに、今、秋風が吹くことだ。 探題によって、人々が歌を詠んだ時に、「信太の杜 「手もたゆくならす扇」に、暑かった夏を暗示し、そ の秋風」を詠んだ歌 藤原経衡 れを忘れるほどの秋風に、迎えた秋の涼しさを暗示し 日がたつにつれて音が強くなることだ。和泉国にある信 て、巧みである。 0 太の森の、数限りない枝に吹く秋風よ。 本歌は、題中の「信太の杜」の数限りなく枝をさし交 している情景を自然にしている。その枝に鳴る風が、 日に日に秋の進行を感じさせる趣は、幽玄。 百首の歌に 式子内親王 弼うたた寝をしていた夜明けがたの袖に、今までとは変 0 ているようだ。鳴らして使い慣れ、十分に使い飽きてい たんだい 大弐三位 0 秋風は吹いて露を結んでいるけれど、白露がしげく置き 乱れていない草の葉はないことだ。 秋風の吹き結んだ白露が草の葉に置き乱れているとい うので、「結ぶ」と「乱れ」との言葉の上の矛盾で興

7. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

せんごひやくばんのうたあはせ くわうたいごうぐうのだいぶとしなりのむすめ 下 千五百番歌合に 皇太后宮大夫俊成女 歌 四 春ニかよねぎ そで五 よ 二風通ふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢 第 巻 109 やまべのあかひと 題知らず 山辺赤人 を Ⅷ春雨はいたくな降りそ桜花まだ見ぬ人に散らまくも惜し したかげニ Ⅲ花の香に衣は深くなりにけり木の下陰の風のまにまに くわんびやうのおほんとききさいみやうたあはせ 寛平御時、后の宮の歌合の歌 かすみ さくらばな三 霞立っ春の山べに桜花あかず散るとや鶯の鳴く はるさめニ しゆかくほふしんわうごじっしゅのうた 守覚法親王、五十首歌よませ侍りける時 ′ : つも か まくら うぐひす 一↓一 00 の注一。ニ風が庭から吹き通っ てくる。三眠りから覚めること。四袖 が。五桜の花の香でかおる。袖がかおると と・もに枕もかおる、とい , つよ , つにはたら / 、。 ただよし ・千五百番歌合」で、藤原忠良は、「姿をか ふぢはらのいへたかのあそん 藤原家隆朝臣しく侍り」と評した。 きの 読人しらず つらゆき 紀貫之 一山部赤人。『万葉集』の原歌は、作者未 詳。ニひどく降るなよ。三「散らんこ とも」と同じ。「ま」は推量の助動詞「む ( ん ) 」 の古い末然形。「く」は活用語を名詞化する接 尾語。 0 『万葉集』の原歌は、下包・いまだ見 なくに散らまく惜しも」。本集の歌形は、『赤 人集』と同じ。 一花の香で、衣は香が深くなってしまっ たことだ。「花」は桜。ニ花の香を運 んでくる風につれて。風が木の下陰を吹く風 であるので、花は、散り敷いている花とわか る。 一宇多天皇時代の年号。ニ宇多天皇の 0- はんし 母、皇太后班子女王主催の歌合。三見 たりないうちに散るといってか。

8. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

式子内親王 百首の歌をさしあげた時、秋の歌 0 桐の落葉も、踏み分けにくいほどに深く積ってしまった ことだ。きっと来るにちがいないと思って、人を待って 集いるというのではないのだけれど。 和桐の葉をとらえたのは漢詩により、発想の原形は本歌 今 にある。桐の落葉が道を埋めた情景と、思いの機微と 古 新 の交感に、孤独な作者の心が深々と生き、香気がある。 曾禰好忠 題知らず 人はだれも訪れず、風で木の葉は散 0 てしま 0 て、夜ご とに、虫は声が弱っていくようだ。 晩秋のわびしさを、人と木の葉と虫との状態で具体化 した作。素朴な詠風が珍しさを感じさせる。 守覚法親王の五十首の歌を詠みました時に 春宮権大夫公継 ときわぎ 紅葉の色のままに、紅葉しない常磐木も、風で色が変る 秋の山であることよ。 本歌の知的趣向を、常磐木の色も、風で紅葉の色のま まに変るという、感覚美の世界に高めている。 藤原家隆朝臣 千五百番の歌合に もるやま しぐれ 露も時雨も漏れる守山の、山陰の下葉の紅葉よ。濡れる とも折り取ろう。秋の形見として。 美に生きる作者の、秋の哀艶な情趣への愛惜の情が、 本歌にもとづく守山の「下紅葉」への愛惜の情に集中 した、といった趣の歌境である。

9. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

新古今和歌集 80 110 紀貫之 桜の花の香で、衣は香が深くなってしまったことだ。桜 〔の木の下陰の花の香を吹き送る風につれて。 きさいみや 寛平の御代、后の宮の歌合の歌 読人しらず 薫香の焚きしめられていた衣。その衣の香が、桜の花 の香によっていよいよ深くなったという趣で、香気豊 …霞の立 0 ている春の山のほとりで、桜の花が見たりない , っちに散るといってか、しきりに鶯の鳴いていることよ かである。 「あかず散るとや」に眼目があるが、知的発想のさら りとした趣にとどまっている。 千五百番の歌合に 皇太后宮大夫俊成女 2 風が庭から吹き通ってきて、ふと目覚めたわたしの袖が、 題知らず 山辺赤人 1 風の運んできた桜の花の香でかおっており、枕もまたそ 春雨はひどくは降るなよ。桜の花が散ることは、それを の花の香でかおっている、この枕で、今まで見ていた春の まだ見ていない人のために惜しいことだ。 夜の美しい夢よ。 原歌にくらべ、下句が優雅な表現に変っているが、花 三十一音の短詩形での言葉のはたらきの極限的世界で、 を惜しむ実感がこもっている。 風も袖も枕もかおる桜の花の香と春の夜の美しい夢の 余情とを融合させ、華麗・豊艶である。 くんこうた - 」うき

10. 完訳日本の古典 第35巻 新古今和歌集(一)

新古今和歌集 18 新古今和歌集巻第四 秋の歌上 中納言家持 題知らず かんなび みむろ 神南備の三室の山の葛の葉を、風が吹き裏返す秋は来た ことだ。 もみじ 神域「神南備の三室の山」は秋の美しい紅葉で彩られ る山であるが、まず、立秋を告げる風が、その山の葛 の葉を白々と吹き裏返しはじめたのである。古調の中 ゅうげんみ に幽玄味を感じさせる。『新古今』時代の歌人たちの 好んだ歌境と言えるであろう。 百首の歌に「初秋」の趣を 崇徳院御歌 いつの間にか、荻の葉が一方に向けてなびき、風も、そ そと音をたてて、さては秋だと聞えることだ。 おもむき のキ、ば 軒端の荻の初秋の趣。秋風の音の「そそや」は、本歌 の「荻の葉にそそや秋風吹きぬなり」によったのであ るが、「荻の葉向けの片よりに が独創的で、歌境を 清新にした。