るのですか」と申し上げた。天皇はこの企てを前もってごわれる方である。こうして、内大臣も身を捨てて心から天 皇にお仕えした。 存じない上に、女帝でいらっしやったので、恐れられて、 そのうちに、大臣が病気になられた。天皇は大臣の家に 高御座のとばりを閉じなさったので、首はとばりに当って 行幸してお見舞なさったが、大臣はとうとう亡くなられた。 下に落ちた。 その葬送の夜、天皇が行幸し、みずから野辺の送りをしょ それを見た入鹿の従者は家に走り帰り、父の大臣に報告 うとなさったが、時の大臣や公卿が、「天皇の御身で大臣 した。大臣はこれを聞き、驚くとともに泣き悲しみ、「も の葬送に野辺の送りをなさるという先例は、いまだかって はやこの世に生きている甲斐もない」と言って、みずから ないことでございます」とくり返し奏上したので、天皇は 家に火をかけ、家の中で、家もろとも焼死した。思いのま 泣く泣くお帰りになり、宣旨により諡号を賜った。これ以 まにため込んであった多くの朝家の財宝もみな焼け失せた。 神代以来伝わる朝家の財宝は、この時すべて焼失したので来大織冠と申すようになった。実名は鎌足と申し上げる。 その子孫は繁栄し、藤原氏は他氏のはいり込む隙間もな 二ある。 いほどわが国に満ち広がっている。世に大織冠と申し上げ 語その後しばらくして天皇が崩御されたので、皇太子が即 家位なさった。天智天皇と申し上げるのがこの方である。大る方はじつにこの方である、とこう語り伝えているという っ織冠をさっそく内大臣に任命された。そこで、大中臣の姓ことだ。 四 を改めて藤原とした。わが国の内大臣はこれが始めである。 ちょうあい 淡海公を継ぐ四つの家の語第一一 をさて、天皇はひとえにこの内大臣を寵愛されて、国の政務 海を一任なさり、ご自分の后をお譲りになった。この后はす たんかいこう とうのみねじよう 淡 今は昔、淡海公と申し上げる大臣がおいでになった。実 でに懐妊しておって、大臣の家で出産された。多武峰の定 ふひと えわじよう 恵和尚と申されている方がこれである。その後、また大臣名は不比等と申し上げる。大織冠 ( 藤原鎌足 ) のご長男で、 きさき たんかいこう ふひと 母は天智天皇のお后である。 の子をお産みになった。これが淡海公 ( 藤原不比等 ) とい おおなかとみ な
凡例 : 今昔物語集巻第一一十一〔諸本欠〕 : 今昔物語集巻第一一十一一本朝 大織冠始めて藤原の姓を賜はる語第一・ 淡海公を継ぐ四つの家の語第一一 : 房前の大臣北家を始むる語第三 : 内麿の大臣悪しき馬に乗る語第四・ 閑院の冬嗣の右大臣拜に子息の語第五 : 堀河の大政大臣基経の語第六、 高藤の内大臣の語第七 : 時平の大臣国経の大納言の妻を取る語第八 : 目次 原文現代語訳 : 一一五三 ・ : 三四 :
ふかくさやま ついにこの大臣も亡くなられた。さて、深草山に葬り奉っ しようえんそうず 2 たその夜、勝延僧都という人がこのような歌をよんだ。 うっせみはからをみつゝもなぐさめつふかくさの山け 十 むりだにたて 第 ( 嬋は命のはかないものではあるが、その残した抜けがらを 高藤の内大臣の語第七 巻 見れば心が慰められる。だが、基経公は火葬に付して、その 集 かんいんのみぎのおとど 語 遺骸さえとどめないのはこの世に残った者には耐えられぬ悲 今は昔、閑院右大臣と申す方がおいでになった。御名を 物 ふゆっ 昔 しみだ。せめて深草山に立っ火葬の煙だけでも残って立ち上 冬嗣と申し上げる。世間の評判もたいへんよく、生れつき 今 っていてくれよ。それを公の形見と思って心を慰めようか 非常に賢明な方でおありだったが、まだお若くしてお亡く ら ) なりになった。御子たちはたくさんいらっしやった。長兄 ながらのちゅうなごん よしふさだいじようだいじん こうずけのみねお は長良中納言と申し上げ、次兄を良房太政大臣と申し上げ、 また、上野峰雄という人はこのようによんだ。 よしみ うどねりのよしかど ふかくさの その次を良相左大臣、次を内舎人良門と申し上げた。昔は、 深草の野べの桜し心あらばことしばかりはすみそめに さけ かように高貴な家の者も、最初は内舎人に任じられたので ( 深草の野に咲く桜よ、もしもお前に心があるならば、基経ある。 たかふじ 公の亡くなられた今年だけは喪服の色である墨染色に咲いて、 ところで、その内舎人良門の御子に高藤と申す方がおい でになる。ご幼少の時から鷹狩がお好きであった。父の内 公の死をいたみ悲しんでくれ ) くにつねのだいなごん この大臣の御兄に国経大納言という方があった。この方舎人も鷹狩がお好きであったので、この若君も父ゆずりで お好きなのであろう。 はこの大臣が亡くなられて後、たいへん高齢で大納言にな さて、十五、六歳ぐらいの時のこと、九月ごろ、この若 り、それで終ってしまわれた。ほかにも、大臣のご兄弟は みなみやましな たくさんおありだったが、みな納言以下の人であり、ただ君は鷹狩に出かけられた。南山階という所の、渚の山のあ ( 原文三六ハー ) せみ さくらこころ この大臣だけがこのように最高の官位をきわめなさって、 子孫が繁栄しておいでになる、とこう語り伝えているとい , っことだ。 なぎさ
父の太政大臣がご覧になってこうおよみになった。 ならび としふればよはひはおいぬしかはあれども花をしみれ 閑院の冬嗣の右大臣井に子息の語第五 ばものをもひもなし かんいんのうだいじんふゆっぎ ( 年月がたったのでこのわしもすっかり年老いてしまったよ。 十今は昔、閑院右大臣冬嗣と申し上げる方にたくさんの御 ながらのちゅうなごん だが、この美しい満開の花、それにも比すべきそなたの美し 第子たちがおいでになった。長兄を長良中納言と申し上げる。 い晴れやかな姿を見れば何一つ悲しむべきことはないぞ ) どういうわけなのか、この中納言は長男でいらっしやった が、弟二人より官位が低くおありだった。しかし、この中これは后を花にたとえておよみになったものである。この 昔納一言のご子孫はずっと繁栄を続け、現在に在るまでお盛ん大臣はかようにすばらしくおありだったが、男子が一人も 今 おいでにならなかったので、世間の人は、「跡継ぎがおあ で、太政大臣・関白・摂政におなりなさるのも、みなこの かんだちめ りでないのがまことに残念だ」と申していた。 中納言のご子孫でいらっしやる。ましてや、上達部より以 よしみのうだいじん 三男は良相右大臣と申し上げる。世に西三条右大臣と申 下の人はこの世に隙間もないほどおられる。 じようぞうだいとく よしふさのおとど 二男は太政大臣まで出世なさって良房大臣と申し上げる。すのはこの方である。そのころ、浄蔵大徳というすぐれた 修験曽 ; イカいた。良相右大臣はこの人と深い檀家関係にあっ 白川の太政大臣と申すのはこの方である。藤原氏が摂政に せんじゅだらに て、この人により、大臣は千手陀羅尼の霊験をこうむりな もなり太政大臣にもなられるのは、この大臣のおん時から 始ったのであった。およそこの大臣は度量が広く賢明な方さったことがある。この大臣の御子は大納言右大将で、名 つねゆき で、万事において人にすぐれておいでになった。また、和を常行と申し上げる。ところで、この大将の御子が二人あ てんやくのすけ 歌をたいへん上手におよみになった。御娘 ( 明子 ) は文徳り、兄は六位で典薬助になり、名を名継といった。弟は五 そめどのの とのものかみ むねくに みのお 天皇のお后で、水尾天皇 ( 清和天皇 ) の御母に当る。染殿位で主殿頭になり、名を棟国といった。みな身分の低い人 きさき であったので、その子孫はないに等しい 后と申すのはこの方である。ある時、この后の御前にすば こういうわけで、かの長男、長良中納言は弟二人より官 らしく美しい桜の花を瓶に差してお置きになってあったが、 なつぐ
年のほど四十余りの小柄でこぎれいな、いかにもこのよう な大領の妻といった様子の女が、薄黄色のごわごわした着 物を着、垂れ髪をその下に着こめた姿で乗り込んだ。こう してお屋敷に連れておいでになり、〔部屋などしつらえ〕 て車から降しなさった。その後はほかの女には見向きもせ ず仲良くお暮しなさっていたが、やがて男の子が二人続い て生れた。 さて、この高藤の君はたいへんごりつばな方で、しだい ほんいんのさだいじん 今は昔、本院左大臣と申し上げる方がおいでになった。 に出世なさり、大納言にまでなられた。あの姫君は、宇多 しようせんこう ときひら 語 を院がご在位の時、その女御に奉った。その後まもなく、醍御名を時平と申し上げる。昭宣公 ( 藤原基経 ) と申し上げ る関白の御子である。この方は本院という所に住んでおら を醐天皇を産み奉った。男子一一人のうち、兄は大納言右大将 のとなり、名を定国と申した。泉大将というのはこの方であれたが、年はわずかに三十歳ぐらいで容貌・容姿どことい さだかた 言 って非の打ち所がなかった。そこで、延喜天皇 ( 醍醐天皇 ) 納る。弟は右大臣定方と申した。三条の右大臣というのはこ しゆりのだいぶ はこの大臣をすぐれた人物と思っておいでになった。 のの方である。祖父の大領は四位に叙せられ、修理大夫にな さて、天皇が政治をとっておられた時のこと、ある日こ 国された。その後、醍醐天皇が位におっきになると、その外 の大臣が参内なさったが、禁制を無視して格別美々しく飾 大祖父に当る高藤大納言は内大臣になられた。 かんじゅじ った装束をつけておいでになった。天皇はそれを櫛形の小 平あの弥益の家は寺にしたが、今の勧修寺がこれである。 くろうど じとみ 時 その向いの東山のほとりに、妻が堂を建てた。その名を大蔀からご覧になり、ひどくご機嫌を損じられ、直ちに蔵人 しやし やけでら をお呼びになって、「最近、世間には厳重に奢侈の禁制を 宅寺という。この弥益の家のあたりをなっかしく慕わしい ものにお思いになったからであろうか、醍醐天皇のご陵は通達してあるにもかかわらず、左大臣が、たとえ首席の大 さだくに おお その家の近くにある。 考えてみると、かりそめの鷹狩の雨宿りによって、この ようなめでたいことにもなったので、これはみな前世の契 りであったのだ、とこう語り伝えているということだ。 時平の大臣国経の大納言の妻を取る語第 八 ( 原文四五ハー ) くしがたこ
27 淡海公継四家語第 おとど そきさきもと いはゆたむのみねぢゃうゑ きさきゅづたま 后ヲ譲リ給フ。其ノ后本ョリ懐任シテ大臣ノ家ニシテ産ル、所謂ル多峰ノ定恵 = 貞慧 ( 恵 ) とも。鎌足の長男。 白雉四年 ( 六五三 ) 入唐留学。天智四 なりそのちまたおとどみこ いはゆたむかいこう わじゃうまう 和尚ト申ス、此レ也。其ノ後、亦、大臣ノ御子ヲ産メリ。所謂ル淡海公、此レ年 ( 六 3 帰朝。同年 + 月二 + 三日 没。年二十三。多武峰寺開基。 なりかくないだいじんみすておほやっかまったまことかぎりな 一ニ藤原不比等のおくり名。死後、 也。此テ内大臣モ身ヲ棄テ公ケニ仕リ給フ事無限シ。 近江国十二郡を追封したことから たま やまひとぶら たま てんわうおとど いへぎゃうがう しかあひだおとどみやまひう 而ル間、大臣身ニ病ヲ受ケ給ヘリ。天皇大臣ノ家ニ行幸シテ、病ヲ訪ハセ給の称。鎌足の二男。中納言、大納 言などを経て、右大臣。正二位。 ぎゃうがう やまおくり おとどっひうせたまへ そ さうそうよるてんわう ヘリ。大臣遂ニ失給レバ、其ノ葬送ノ夜、天皇、「行幸シテ山送セム」ト有ケ養老四年 ( 七一 (O) 八月没。年六 + 三。 ↓本巻第二話。 ときだいじんくぎゃうあり てんわうおほむみ だいじんさんそうやまおくりれいな レバ、時ノ大臣公卿有テ、「天皇ノ御身ニテ大臣ノ山送ノ山送例無キ事也」ト一三行幸は天智八年十月十日。鎌 足没は同月十六日、年五十六。 なくな いみなせんじ これだいしよくくわんまうす どどそう かへらたま 一四天智紀所引の日本世記による 度々奏シケレバ、泣々ク返セ給ヒテ、謚ノ宣旨ヲ下シテ、此ョリ大織冠ト申。 と、山科の南に仮葬 かまたりまう じちみな 一五野辺送り。もと遺骸を山に葬 実ノ御名ヲバ鎌足ト申ス。 ったことからの語。 だいしよくくわんまう そ ふぢはらうぢこ ごしそんはんじゃう 其ノ御子孫繁昌ニシテ、藤原ノ氏此ノ朝ニ満チ弘ゴテ隙無シ。大織冠ト申ス一六時の大臣・公卿の中のある人 人が、の意。 かたった 宅「葬送」の意。 二此レ也、トナム語リ伝へタルトャ。 天死後に贈る称号。おくり名。 ただし、史実には徴しえない 一九あまねく繁栄した意。「ゴテ」 は「ゴッテ」の促音の無表記。 なり たむかいこうをつぐよっのいへのことだいに 淡海公継四家語第二 くわいにも てうみ 一九 う ひろ うめ ひまな - 一と。なり あり
さて、大織冠がお亡くなりになって後朝廷にお仕えなさ物は絶えてしまっている。ただ、侍程度の身分ではいるで ったが、非常にすぐれた才能がおありだったので、左大臣あろうが。 それゆえ、ただ二男の大臣の北家だけがすばらしいご繁 にまで出世なさって国政を一手に握っておいでになった。 さほどの やましなでら たけちまろ 栄ぶりで、山階寺の西にある佐保殿という所は、この大臣 十男子が四人おありになったが、長男は武智麿と申し上げ、 ふささきおとど のご邸宅であった。そこで、この大臣のご子孫が氏の長者 第この方も大臣まで出世なさった。二男は房前の大臣と申し つまかい 上げた。三男は式部卿で、宇合と申し上げる。四男は左右としてその佐保殿においでになった時は、まず庭において 集 まろ 礼拝してから上にお上がりになる。というのは、房前大臣 語京の大夫で、麿と申し上げる。この四人の御子のうち、長 のご肖像がその佐保殿に模写して置かれているからである。 昔男の大臣は、親のご邸宅からは南の方に住んでおられたの たんかいこう 今 されば、淡海公のご子孫は以上のようでおありなさる、 で、南家と称した。二男の大臣は親のご邸宅から北の方に 住んでおられたので、北家と称した。三男の式部卿は官職とこう語り伝えているということだ。 が式部卿なので、式家と称した。四男の左京大夫は官職が 房前の大臣北家を始むる語第三 左京大夫であるから、京家と称した。 この四家おのおのの子孫がわが国に隙間もなく満ち広が ふささきのおとど 今は昔、房前大臣と申し上げる方がおいでになった。こ っている。そのうちでも、二男の大臣のご子孫は、氏の長 の方は淡海公 ( 藤原不比等 ) の三男である。生れつき非常 者を継いで、今も摂政関白として栄えておられる。国政を にすぐれた才能を持っておられたので、淡海公が亡くなら ほしいままにし、天皇のご後見役として政務をとっておら れるのは、ただこの大臣のご子孫である。長男の大臣の南れて後、世の中の評判もたいへんよく、すぐに大臣まで出 家にも人物は多いが、子孫の末になっては大臣や公卿など世なさった。 淡海公のお子さんが四人おありなさったなかで、この大 になる人はほとんどない。三男の式家にも人物はあるが、 公卿などになる人はない。四男の京家は、これといった人臣が家を継いだが、この方を北家の祖と申し上げる。現在 ( 原文二九ハー )
たま さかたまひだいじゃうだいじんくわんばくせっしゃうな みなこ ちうなごんごしそん などを経て、権中納言。従二位。 マデ栄工給テ、大政大臣、関白、摂政ニ成シ給フモ、皆此ノ中納言ノ御子孫ニ 斉衡三年 ( 会六 ) 七月没。年五十五。 いかにいはむかむだちめ いげひとよひまな 六 ここでは身分低き者の意。 御マス。何況ャ上達部ョリ以下ノ人ハ世ニ隙無シ。 九 セ漢文訓読的用語。まして・ : にらうだいじゃうだいじんなりのばたまひょしふさおとどまう しらかはだいじゃうだいじんまう 〈三位以上の公卿および四位の 二郎ハ大政大臣マデ成上リ給テ、良房ノ大臣ト申ス。白川ノ大政大臣ト申ス、 参議の総称 なりふぢはらうぢ せっしゃう なだいじゃうだいじんなりたま おとどおほむとき 此レ也。藤原ノ氏ノ、摂政ニモ成リ大政大臣ニモ成給フハ、此ノ大臣ノ御時ョ九斉衡四年 ( ) 任太政大臣、 従一位。摂政。貞観十四年 ( 全一 I) はじま おほよこ おとど こころおきひろ みギ、いかし , 、 よろづことひと リ始レバ也ケリ凡ソ此ノ大臣ハ、心ノ俸テ広ク、身ノ才賢クテ、万ノ事人一一没。年六 + 九。 一 0 葬所が白河の地であったこと すぐ おはし またわか めでたよみたまひ おほむむすめ もんとくてんわうおほむきさき からの称。 勝レテゾ御ケル。亦、和歌ヲゾ微妙ク読給ケル。御娘ヲバ、文徳天皇ノ御后ニ 一一心の持ち方。 みのを てんわうおほむははなりそめどのきさきまう これなりそ きさきおほむまへめでたさくら テ、水尾ノ天皇ノ御母也。染殿ノ后ト申ス、此也。其ノ后ノ御前ニ微妙キ桜ノ三第五 + 五代。 一三第五十六代清和天皇。 はなかめさしおかれ ちちだいじゃうだいじんみたまひ なり よみたまひ 一四藤原明子。染殿邸内に住んで 花ヲ瓶ニ指テ被置タリケルヲ、父ノ大政大臣見給テ、読給ケル也、 いたことからの称。昌泰三年 ( 九 0 五 第 0 ) 没。年七十三 ( 一 l) 。 トシフレバヨハヒハオイヌシカハアレドモ花ヲシミレバモノヲモヒモナシ 語 一五古今一、五一一に第三句を「しか 自 5 きさきはなたと よたま おとどか めでたおはし 子ト。后ヲ花ニ譬へテ読ミ給ヘル也ケリ。此ノ大臣ハ此ク微妙ク御ケレドモ、男はあれど」として所収。 一六大鏡良相伝には「五郎」。 ひとりおはせ すゑおはせ きはめくちをしなり よひとまうし 宅西三条に居住。右大臣。正二 大子ノ一人モ不御ザリケレバ、「末ノ不御ヌガ極テロ惜キ也」トゾ世ノ人申ケル。 位。貞観九年 ( 会七 ) 没。年五十五。 さぶらうよしみ うだいじんまうし 嗣 さいさむでう うだいじんまうすこれなりそころほひ 冬 天「大徳」は敬称。三善清行の八 三郎ハ良相ノ右大臣ト申ケル。世ニ西三条ノ右大臣ト申ハ此也。其ノ比、 よかわ 院 男。横川・熊野・金峰山などを遍 閑じゃうぎうだいとく やむごとなぎゃうじゃあり そひと一九いみ おとどせんじゅ 浄蔵大徳ト云フ止事無キ行者有ケリ。其ノ人ト極ジキ檀越トシテ、大臣千手歴苦行し、無双の験者とされた。 康保元年 ( 九六四 ) 没。年七十四。 れいげむかうぶたま っ 0 だらに ひとなり おとどみこ だいなごんうだいしゃう な 一九「トは「ノとありたいところ。 陀羅尼ノ霊験蒙リ給ヘル人也。此ノ大臣ノ御子ハ大納言ノ右大将ニテ、名ヲバ おはし なり よ だんをつ をのこ
まで氏の長者として栄えておられるのは、ただこの大臣の ところで、この大臣がまだお若くていらっしやった時、 さんしようのもん おさべのみや ご子孫である。この大臣のことをまた三咲門とも申し上げ他戸宮と申す太子がおいでになった。白壁天皇 ( 光仁天皇 ) こうちのおとど こうちのくにしぶ る。また、河内大臣とも称した。というのは、河内国渋の皇子である。この方は猛々しい性格の方で、人に恐れら のさと 人が 河郡〔凵凵郷という所に別荘を造り、すばらしく風流なれておいでになった。当時、一頭のあばれ馬がいた。 ありさまでお住みになったからである。 乗ろうとすると必ず踏み倒しかみつく。だから、人は絶対 この大臣の御子には大納一一 = ロ真楯と申す方がおいでになる。乗ろうとしなかった。ところが、かの他一尸皇子が内麿に命 じてこのあばれ馬に乗らせた。そこで内麿はこの馬にお乗 この大納言は年若く、大臣にもなられないで亡くなられた うちまろ りになったが、すべての人はこれを見て恐れおののき、内 ので、その御子である内麿と申し上げる方が大臣にまでな って、その家をお継ぎになった、とこう語り伝えていると麿はきっとこの馬にかみつかれ踏み倒されて、大怪我をな い , っことだ。 さるだろうと気の毒に思い合っていたところ、内麿がいざ 四 お乗りになると、この馬は頭を垂れて身じろぎもしない。 第 語 それで、内麿は難なくお乗りになれた。そのあと、何度も 内麿の大臣悪しき馬に乗る語第四 る 乗 鞭でお打ちになったが、それでもあばれる気配もない うちまろのうだいじん ふささきのおとど 馬 今は昔、内麿右大臣と申し上げる方は、房前大臣のお孫うして、何回も庭を乗り回してからお降りになった。この またて 悪に当り、大納一言真楯と申した方の御子である。生れつきす様子を見聞きした人は内麿をほめたたえ、「この方はただ の人ではおありなさらない」と思ったことであった。 大ぐれた才能をお持ちで、殿上人のころから朝廷にお仕えな 昔はこのような人がおいでになった、とこう語り伝えて 麿さって、すばらしく重んじられておいでになった。世間の 内 しるとい , っことだ。 人もみな深く敬い、従わぬ者とてなかった。容姿は非の打 ち所なく、また、、いうるわしく、人々に重用されておいで こよっこ。 かわのこおり またて
こころえ なんこふるひたま とひ へうよみこ ハ此ノ事ヲ不心得ズシテ、「何ゾ此ハ篩給フゾ」ト問ケレバ、表読ム御子、「天一皇極紀・家伝上には、傷つい た入鹿が玉座に近づいて無実を訴 おく ふるはるなり わう・おほむまへいで こたへ えたとするだけで、首の哀訴はし 皇ノ御前ニ出タレバ、憶シテ被篩ル也トゾ答ケル。 るさない。入鹿の怨念を誇張した しかあひだだいしよくくわんみづかたちめき はし・より いるか かたうちおとたま 怪異性の成長で、舞の本「入鹿」に 一一而ル間、大織冠自ラ大刀ヲ抜テ、走リ寄テ、入鹿ガ肩ヲ打落シ給ヒッレバ、 第 なると、入鹿の首なし死体が走り いるカ くびうちおとたま みこたち もっ くびとび たかみ いるかはしにぐ 入鹿走リ逃ルヲ、御子大刀ヲ以テ入鹿ガ頸ヲ打落シ給ヒッ。其ノ頸飛テ、高御寄って哀訴したとする。 集 一一高御座。大極殿中央の玉座。 ころさる こと ロくらもとまゐりまう つみな なに′ ) とより てんわうこ 褫蔵ノ許ニ参テ申サク、「我レ罪無シ。何事ニ依テ被殺ルゾト。天皇此ノ事ヲ三「點」の当字で、点火の意。 四「リ」は「ル」の誤写で、「伝ル」 おはし おぢ とぢ あは によだい たまひ たかみくらと ったはれ △フかねしろしめさ 兼テ不知食ヌニ合セテ、女帝ニテ御マシケレバ、恐サセ給テ、高御蔵ノ戸ヲ閉または、「伝ル」か。 五皇極天皇は本事件後退位し、 たま かしらそと あたりおち じゅうそ 次の孝徳天皇退位後重祚。本事件 サセ給ヒッレバ、頭其ノ戸ニゾ当テ落ニケル。 より十七年後の斉明七年 ( 六六一 ) 七 いるか ちちおとどこ おとどこ じゅしゃいへはしゆき ことっ 其ノ時ニ、入鹿ガ従者家ニ走リ行テ、父ノ大臣ニ此ノ事ヲ告グ。大臣此レヲ月崩。↓二四ハー注一。 六鎌足が大織冠・内大臣・藤原 きき いまよ さし おどろな かなし あるな みづかいへひ 聞テ、驚キ泣キ悲ムデ、「今ハ世ニ有モ何ニカセムート云テ、自ラ家ニ火ヲ指姓を授けられたのは、天智八年 ( 六 六九 ) 十月十五日で、鎌足没の前日 いへうち いへともやし おほくおほやけのたからどもこころまか うちつおみ テ、家ノ内ニシテ家ト共ニ焼ケ死ヌ。多ノ公財共、心ニ任セテ取置タリケル、任内臣は本事件直後の皇極四年 ( 六 四 四五 ) 六月十四日。 みなやけうせ かみみよ ったはおほやけのたからどもそ ときみなやけうせ セ「始ム。然ル間」の短絡形か 皆焼失ヌ。神ノ御代ョリ伝リ公財共ハ其ノ時ニ皆焼失タル也。 ^ 同様の記事は大鏡、帝王編年 みこくらゐつかたま そのちてんわうほどな たまひ てんちてんわうまう 其ノ後、天皇程無ク失サセ給ヌレバ、御子位ニ即セ給ヒヌ。天智天皇ト申ス記にも所見。「后」は車持国子の女、 よしこのいらつめ 与志古娘。ただし両書ともに生 おほなかとみしゃうあらためふぢはら なりだいしよくくわんもっすなはないだいじんなされ ふひと 此レ也。大織冠ヲ以テ即チ内大臣ニ被成ヌ。大中臣ノ姓ヲ改テ藤原トス。此ノれた子を不比等とする。 九正字は「妊」。 くにまつり′ ) とまかたま てうないだいじんここはじあひだてんわうひとへこ 一 0 「多武峰ーとも。 朝ノ内大臣此ニ始ム間、天皇偏ニ此ノ内大臣ヲ寵愛シテ、国ノ政ヲ任セ給ヒ、 そとき うせ わ ないだいじんちょうあい なり そ とりおき てん ったは