いまはむかしうちまろうだいじんまうし ふささきおとどおほむむまごだいなごんまたてまうし 一三真楯の一一男。氏長者。大同元 今昔、内麿ノ右大臣ト申ケル人ハ、房前ノ大臣ノ御孫、大納言真楯ト申ケ 年任右大臣、兼左近衛大将兼侍従。 ひとみこなりみ ざいやむごとな てんじゃうびとほど おほやけつかまったまひ おば 従二位。弘仁三年 ( 八一一 I) 十月没。 ル人ノ御子也。身ノ才止事無クテ、殿上人ノ程ョリ公ニ仕リ給テ、其ノ思工 年五十七。 めでた よひとみなおもうやまひ したがは ものな かたありさまおろか 微妙クナム御ケル。世ノ人皆重ク敬テ、不随ヌ者無力リケリ。形チ有様愚ナル ↓前ハー注一 0 。 またこころうるはしひともちゐられ 一六内麿は天応元年 ( 七八 l) 二十六 事無力リケリ。亦心直クテ人ニ被用テナム御ケル。 歳で叙爵 ( 任従五位下 ) 、翌二年任 とき おとどとしいまわかおはし みやまうたいしおはし しらかべ甲斐守。このころをさしているか 而ルニ、此ノ大臣年未ダ若ク御ケル時ニ、他戸ノ宮ト申ス太子御ケリ。白壁 一九 ひとこころたけ ひとおそれられ おはし ときひとつあしき 宅宝亀二年 ( 七七 I) 立太子。同三 四てんわうみこなりそ 第ノ天皇ノ御子也。其ノ人心猛クシテ人ニ被恐テナム御ケル。其ノ時ニ一ノ悪年母の井上内親王 ( 光仁天皇皇后 ) 語 かならふみかむしか あへひとの の呪咀大逆事件に連座、廃太子。 手むまあり 馬有ケリ。人ノ乗ラムト為ル時ニ、必ズ踏咋。然レバ敢テ人乗ル事無力リケリ 同四年大和国宇智郡に幽閉され、 同六年母と共に没。年十五 ( 二十 ) 。 うちまろめい あしきむまのらし 臣しかあひだか 大而ル間、彼ノ他一尸ノ御子、内麿ニ命ジテ、此ノ悪馬ニ令乗ム。然レパ内麿此ノ死後御霊と化して畏怖された。 いみな 天第四十九代、光仁天皇。諱は たま ・内むまの よろづひとこ おぢおそ うちまろさだ 白壁。 馬ニ乗リ給フニ、万ノ人此レヲ見テ恐怖レテ、「内麿定メテ此ノ馬ニ被咋踏テ、 一九気性が荒く御しがたい馬 3 そんたま いとほしおもあ たま むまかしら 損ジ給ヒナムトス」ト糸惜ク思ヒ合へリケルニ、内麿乗リ給フニ、此ノ馬頭ヲ = 0 きっとお我をなさるだろう。 - 一とな ひとの おはし をさべ おおかがみ うちまろ , - ほん一うき 本話の典拠は未詳。『大鏡』藤氏物語にも内麿略伝を収めるが、第二段と同話は『印本後紀』 一三弘仁三年十月の内麿薨去の条に所見。内麿は前話末にも登場するが、本話はそれを受けて、内 おさべのみこ 麿の略伝をしるすとともに、内麿若年時のエピソードとして、他戸皇子の命によって希代の悍 馬を乗りこなし、諸人の賞賛を浴びたことをしるす。 すとき み ひと おはし をさべ うちまろの そ む か み ふ ま れ ことな そ うちまろこ 0 かん
( 現代語訳一一六五ハー ) うちつづきうみ 一六胤子。寛平五年 ( 八九三 ) 女御 打次テ産テケリ 従四位下。寛平八 ( 九 ) 年六月没。 なりたま なりのばたまひだいなごん たかふぢきみやむごとな 然テ、此ノ高藤ノ君止事無ク御ケル人ニテ、成上リ給テ大納言マデ成給ヒヌ。宅第五 + 九代。 一〈第六十代。元慶九年 ( 八八五 ) 正 そのちいくばくほど ときにようごたてまったま うたのゐんくらゐおは ひめぎみ 彼ノ姫君ヲバ宇多院ノ位ニ御シケル時ニ女御ニ奉リ給ヒッ。其ノ後、幾ノ程ヲ月誕生。寛平九年 ( 〈より延長 一ハ 八年 ( 九三 0 ) まで在位。同年九月崩。 このかみだいなごんみぎ なりをのこごふたり うみたてまったま だい′ ) てんわう 不経ズシテ、醍醐ノ天皇ヲバ産奉リ給ヘル也。男子二人ハ、兄ハ大納言ノ右年四 + 六。 一九 一九高藤の三男 ( 異母兄二人あり ) 。 なりおとうとうだいじんさだ いづみだいしゃうい 、だくに だいしゃう ノ大将ニテ、名ヲバ定国トゾ申ケル。泉ノ大将ト云フ、此レ也。弟ハ右大臣定右大将、大納一言。従二 ( 三 ) 位。延 喜六年 ( 九 0 六 ) 七月没。年四十。 しゆり なりおほぢだいりゃうしゐ さむでううだいじん かたまう 方ト申ス。三条ノ右大臣トフ、此レ也。祖父ノ大領ハ四位ニ叙シテ、修理ノ = 0 高藤の四男。右大将、左大将、 右大臣。従二位。承平二年 ( 九三一 D おほぢたかふぢだい てんわうくらゐつかたま だいご なされ 大夫ニナム被成タリケリ。醍醐ノ天皇位ニ即セ給ヒニケレバ、祖父ノ高藤ノ大八月没。年六 + ( 五 + 七、八 ) 。 ニ一修理職の長官。なお、それま なごんないだいじんなりたま でに漏刻頭、主計頭、越後介、伊 納言ハ内大臣ニ成給ヒニケリ。 予権介など歴任。 いまくわんしゅうじこれなりむかひひむがしやまのほとりそめ てらな いやますいへ 其ノ弥益ガ家ヲバ寺ニ成シテ、今ノ勧修寺此也。向ノ東ノ山辺ニ其ノ妻、 一三「くわじゅうじ」とも。京都市 むつま あは いやます おほやけでら だうたて 堂ヲ起タリ。其ノ名ヲバ大宅寺ト云フ。此ノ弥益ガ家ノ当ヲバ、哀レニ睦シク山科区勧修寺仁王堂町に所在。昌 泰年間、承俊律師開基。 てんわうみさざきそ 第おばしめし ニ三京都市山科区大宅に所在した 語思食ケルニヤ有ケム、醍醐ノ天皇ノ陵其ノ家ノ当ニ近シ。 とい , っ めでたことあ たかがりあまやどりより おも レニ四陵 ( 後山科陵 ) は勧修寺の東南、 内此レヲ思フニ、墓無力リシ鷹狩ノ雨宿ニ依テ、此ク微妙キ事モ有レバ、此 ニ六 京都市伏見区醍醐の地に所在。 かたった 吉回みなぜんしゃうちぎりなり 一宝かりそめの出来事だった鷹狩 皆前生ノ契ケリ、トナム語リ伝へタルトャ。 の雨宿りが縁となって。 ニ六「なり」を補読。 だいぶ あり 0 ニ五 はかな だいご まうし おはしひと いへあたりちか カ いへあたり
↓前ハー注五 いまはむかしほりかはだいじゃうだいじんまうひとおはし ↓三二ハー注五。 今昔、堀河ノ大政大臣ト申ス人御ケリ。御名ヲバ基経トゾ申ケル。此レハ = 基経の四女穏子。天暦八年 ( 九 とし 1 」ろおほやけつかまつり : : っさかーレおはし ぎいならびなく ながら ちうなごんみこなりおとどみ 長良ノ中納言ノ御子也。大臣身ノ才並無シテ心賢ク御ケレバ、年来公一一仕五四 ) 正月崩。年七 + 。 一ニ第六十一代。 なむによ またしそんはんじゃう いとやむ・ことな くわんばくだいじゃうだいじん なりのばたまひ テ、関白大政大臣マデ成上リ給テ、糸止事無力リケリ。亦子孫繁昌ニシテ男女一三第六 + 二代。 一四基経の長男。氏長者。昌泰一一 しゅじゃくのゐんむらかみにだい てんわうおほむきさき おほむむすめだいご みなめでた 皆微妙カリケリ。御娘ハ、醍醐ノ天皇ノ御后トシテ、朱雀院、村上ノ二代ノ天年 ( 〈究 ) 任左大臣兼左大将。正二 位。同九年四月没。年三十九。 わうおほむははなり 一五「本院」は時平邸の称 皇ノ御母也。 一六基経の四男。時平の同母弟 これなりひとり ほんゐんおとどまう ときひらさだいじんまう ひとり 摂政関白。太政大臣。従一位。天 男子ハ、一人ヲバ時平ノ左大臣ト申ス。本院ノ大臣ト申ス、此也。一人ヲバ 一八 暦三年八月没。年七十。 なかひらさだいじん こいちでうおとどまう これなりひとり 第一ただひらだいじゃうだいじんまう 「小一条」は忠平邸の称 語忠平ノ大政大臣ト申ス。小一条ノ大臣ト申ス、此也。一人ヲバ仲平ノ左大臣ト宅 一九 天基経の二男。天慶八年 ( 九四五 ) おとどまう そ ほかあまたおはし なかひらさだいじんびは 没。年七十一。 臣申ス。此ノ仲平ノ左大臣ハ枇杷ノ大臣ト申ス。其ノ外ニ数御ケレドモ、其レハ 一九枇杷を好み、邸内に植えたこ しるさ ひと 政・みなくぎゃういげ とからの称 大皆公卿以下ノ人ナレバ、不註ズ。 ニ 0 祖父冬嗣以来伝領の居邸 ほりかはだいじゃうだい ま ほりかはどのぢうしたま おとど こさむにんありがたこと 堀 先ヅ大臣ニテ子三人、難有キ事ニス。堀川殿ニ住給ヒケレバ、堀河ノ大政大三二ハー注 ここでは方違えなど、陰陽道 との おほむものいみ おとどおほむとのあり かんゐんこ 3 じんまうなり に基づく物忌みをさす。 臣ト申ス也ケリ。閑院モ此ノ大臣ノ御殿ニテ有ケレドモ、其ノ殿ヲバ御物忌ノ をのこご のあとを受け、長良の子で、冬嗣には孫に当る藤原基経とその一家の繁栄をしるした話。基経 伝的性格を持たせ、子女の栄達、居宅の紹介から、基経葬送の夜の挽歌の制作にまで筆が及ん でいる。 ながら みな もとつね そ てん 九
たわけで、「文学性」では計れない日本人的嗜好があった 昭和一一年、岩手県生れ。昭和一一十六年、東京文理科大学 はずである。そこに説話の価値を見るべきではないかとい 卒。中世文学専攻。現在、横浜国立大学教授。主著は ・一ろう うのが私の考えであるが、次第に柔軟さを失って頑迷固陋『新注今昔物語集選』『今昔物語集一 ~ 四 ( 日本古典文学全 になりつつあるわが頭で、なし得ることとも思われない。 集 ) 』 ( 共著 ) など。古美術、なかでも刀剣鑑賞がご趣味 で、お仕事の合間、手入れのひとときを、じっくりと楽 著者紹介 しんでおられる。 馬淵和夫 ( まぶちかずお ) 編集室より 大正七年、愛知県生れ。昭和十七年、東京文理科大学卒。☆第三十七回配本『今昔物語集一』をお届けいたします。 かいりよくらんしん 国語学専攻。現在、中央大学教授。主著は『日本韻学史「怪カ乱神を語らず」とは『論語』に説くところですが、 の研究』『上代のことば』『今昔物語集文節索引』『古『今昔物語集』を手がかりに、本月報で馬淵先生も指摘さ 語辞典』『今昔物語集一 ~ 四 ( 日本古典文学全集 ) 』 ( 共著 ) れている説話好みの日本人的嗜好について考えてみるのも 8 など。テニス歴の長い先生は、今も時々はコートで汗を興味深いことでしよう。 流されるとか ☆次回配本 ( 六十一年二月 ) は『宇治拾遺物語一一』 ( 小林智 国東文麿 ( くにさきふみまろ ) 昭・小林保治・増古和子校注・訳定価千七百円 ) です。 大正五年、東京都生れ。昭和十五年、早稲田大学卒。中ここには、後半、巻八より巻十五にいたる九九話を収録し、 世文学専攻。現在、早稲田大学教授。主著は『今昔物語完結します。巻末付録には、全話について同文話と関連話 集成立考』『今昔物語集一 ~ 四 ( 日本古典文学全集 ) 』 ( 共を対照した「関係説話表」 ( 小林保治編 ) と、地名・人名 著 ) 『今昔物語集一 ~ 九 ( 学術文庫 ) 』『今昔物語作者考』等を洩れなく収めた「固有名詞索引」 ( 増古和子編 ) をま など。『今昔』作者の足跡を追って、京都・奈良のゆか とめ、便宜をはかりました。好評の月報「古典文学散歩」 ちょう′一 しぎさんえんぎ りの地を精力的に歩き回っておられる。 は、『信貴山縁起絵巻』にも描かれた奈良県の信貴山朝護 そんしじ 今野達 ( こんのとおる ) 孫子寺を柳瀬万里氏が訪ねます。ご期待ください。
たま さかたまひだいじゃうだいじんくわんばくせっしゃうな みなこ ちうなごんごしそん などを経て、権中納言。従二位。 マデ栄工給テ、大政大臣、関白、摂政ニ成シ給フモ、皆此ノ中納言ノ御子孫ニ 斉衡三年 ( 会六 ) 七月没。年五十五。 いかにいはむかむだちめ いげひとよひまな 六 ここでは身分低き者の意。 御マス。何況ャ上達部ョリ以下ノ人ハ世ニ隙無シ。 九 セ漢文訓読的用語。まして・ : にらうだいじゃうだいじんなりのばたまひょしふさおとどまう しらかはだいじゃうだいじんまう 〈三位以上の公卿および四位の 二郎ハ大政大臣マデ成上リ給テ、良房ノ大臣ト申ス。白川ノ大政大臣ト申ス、 参議の総称 なりふぢはらうぢ せっしゃう なだいじゃうだいじんなりたま おとどおほむとき 此レ也。藤原ノ氏ノ、摂政ニモ成リ大政大臣ニモ成給フハ、此ノ大臣ノ御時ョ九斉衡四年 ( ) 任太政大臣、 従一位。摂政。貞観十四年 ( 全一 I) はじま おほよこ おとど こころおきひろ みギ、いかし , 、 よろづことひと リ始レバ也ケリ凡ソ此ノ大臣ハ、心ノ俸テ広ク、身ノ才賢クテ、万ノ事人一一没。年六 + 九。 一 0 葬所が白河の地であったこと すぐ おはし またわか めでたよみたまひ おほむむすめ もんとくてんわうおほむきさき からの称。 勝レテゾ御ケル。亦、和歌ヲゾ微妙ク読給ケル。御娘ヲバ、文徳天皇ノ御后ニ 一一心の持ち方。 みのを てんわうおほむははなりそめどのきさきまう これなりそ きさきおほむまへめでたさくら テ、水尾ノ天皇ノ御母也。染殿ノ后ト申ス、此也。其ノ后ノ御前ニ微妙キ桜ノ三第五 + 五代。 一三第五十六代清和天皇。 はなかめさしおかれ ちちだいじゃうだいじんみたまひ なり よみたまひ 一四藤原明子。染殿邸内に住んで 花ヲ瓶ニ指テ被置タリケルヲ、父ノ大政大臣見給テ、読給ケル也、 いたことからの称。昌泰三年 ( 九 0 五 第 0 ) 没。年七十三 ( 一 l) 。 トシフレバヨハヒハオイヌシカハアレドモ花ヲシミレバモノヲモヒモナシ 語 一五古今一、五一一に第三句を「しか 自 5 きさきはなたと よたま おとどか めでたおはし 子ト。后ヲ花ニ譬へテ読ミ給ヘル也ケリ。此ノ大臣ハ此ク微妙ク御ケレドモ、男はあれど」として所収。 一六大鏡良相伝には「五郎」。 ひとりおはせ すゑおはせ きはめくちをしなり よひとまうし 宅西三条に居住。右大臣。正二 大子ノ一人モ不御ザリケレバ、「末ノ不御ヌガ極テロ惜キ也」トゾ世ノ人申ケル。 位。貞観九年 ( 会七 ) 没。年五十五。 さぶらうよしみ うだいじんまうし 嗣 さいさむでう うだいじんまうすこれなりそころほひ 冬 天「大徳」は敬称。三善清行の八 三郎ハ良相ノ右大臣ト申ケル。世ニ西三条ノ右大臣ト申ハ此也。其ノ比、 よかわ 院 男。横川・熊野・金峰山などを遍 閑じゃうぎうだいとく やむごとなぎゃうじゃあり そひと一九いみ おとどせんじゅ 浄蔵大徳ト云フ止事無キ行者有ケリ。其ノ人ト極ジキ檀越トシテ、大臣千手歴苦行し、無双の験者とされた。 康保元年 ( 九六四 ) 没。年七十四。 れいげむかうぶたま っ 0 だらに ひとなり おとどみこ だいなごんうだいしゃう な 一九「トは「ノとありたいところ。 陀羅尼ノ霊験蒙リ給ヘル人也。此ノ大臣ノ御子ハ大納言ノ右大将ニテ、名ヲバ おはし なり よ だんをつ をのこ
たかっかさどのおほむびやうぶしきしがたかかるべし いまはむかしふぢはらのすけなりいふはかせあり 一有国の子。儒者。寛仁元年任 今昔、藤原資業ト云博士有ケリ。鷹司殿ノ御屏風ノ色紙形ニ可被書キ詩ヲ、 文章博士。従三位。永承六年出家。 しつくらせ すけなりのあそむしあまたいり 1 そのみちたっ はかせどもおほたまひ 其道ニ達セル博士共ニ仰セ給テ、詩ヲ作ケルニ、彼ノ資業朝臣ノ詩数入ニケ延久二年 ( 一 0 七 0 ) 没。年八 + 三。 ニ藤原道長の妻倫子の家。 四 0 十 三屏風の面に色紙をかたどった 四 空白を設け、それに詩歌一首を書 第 もんじゃうたっせより そのころほひただのぶみんぶのきゃうのだいなごんいふひとあ きつけるようにしたもの 巻其比、斉信ノ民部卿大納言ト云人有リ。身ノ才有テ、文章ニ達ルニ依テ、 五 四為光の一一男。寛仁四年任大納 そのときふぢ すけなりしあまたいり このしどもえらさだめられ 語仰ヲ承テ、此詩共ヲ撰ビ被定ケルニ、資業ガ詩数入タリケルヲ、其時ニ藤言、万寿五年民部卿兼任。正二位。 六 長元八年 ( 一 0 三五 ) 没。年六十九。 おもひ うぢどの七 おはしまし はらののりただいふはかせあり 五為文の子。儒者。文章博士、 今原義忠ト云博士有テ、此レヲ嫌シク思ケルニヤ、宇治殿ノロニテ御座ケルニ、 大学頭等を経て権左中弁。正四位 きはめことやうしどもなりたしゃう ひやう のりただまうし すけなりのあそむつく 義忠申ケル様、「此ノ資業朝臣ノ作レル詩ハ極テ異様ノ詩共也。他声ニシテ平下。長久二年 ( 籥 l) 没。年三 + 八。 六藤原頼通をさす。 より じどもあ しかれ こすけなりたうじきずりゃう じゃうあら 声ニ非ザル字共有リ。難専ラ多シ。然ドモ、此レ資業ガ当職ノ受領ナルニ依テ、セ官職の明記を期した欠字。 〈↓本話解説。 あり そのときすけなり一四かみ だいなごんそきゃうおうありいれられ ひょうそく 九正格にはずれた詩。平仄が合 大納一一一一口其ノ饗応有テ被入タル也」ト。其時ニ資業ハロ守ニテ有ケル也。 わないことをさしたもの。 しども みなれいくみめう へんえんおこ みんぶのきゃうこ ことったきき 一 0 漢字の四声のうち、平声以外 民部卿此ノ事ヲ伝へ聞テ、攀縁ヲ発シテ、此ノ詩共ヲ、皆麗句微妙ニシテ、 の上声・去声・入声の総称。つま のり うぢどのすこぶのりただこと こころえずおばしめし えらところわたくしな よしまうされ 撰プ所ニ私無キ由ヲ被申ケレバ、宇治殿、頗ル義忠ガ言ヲ不心得思食テ、義り仄韻をさす。上に「平声ナルペ キニ」と補って解するとよい かむばつおほせ ただめし なにゆゑあり かかひがごとまうしことやぶ 忠ヲ召テ、「何ノ故有テ、此ル僻言ヲ申テ事ヲ壊ラムト為ルゾ」ト、勘発シ被 = 四声の一。低く平板に発音す 一九 るものとされ、上平・下平合せて あく としのやよひ ゆるされ しか のりただおそ られ 三十韻がある。平韻。 仰ケル。義忠恐レヲ成シテ蟄リ居ニケリ。明ル年之三月ニナム被免ケル。而ル 一ニ現職の国司。 のりただあ にようばうつけわか 一三資業の饗応 ( 贈賄 ) を受けて。 ニ義忠或ル女房ニ付、和歌ヲゾ奉ケル、 おほせうけたまはり ゃう な なんもはおほ 一八 」 - もゐ なり そねま たてまつり し みぎいあり か す なり
27 淡海公継四家語第 おとど そきさきもと いはゆたむのみねぢゃうゑ きさきゅづたま 后ヲ譲リ給フ。其ノ后本ョリ懐任シテ大臣ノ家ニシテ産ル、所謂ル多峰ノ定恵 = 貞慧 ( 恵 ) とも。鎌足の長男。 白雉四年 ( 六五三 ) 入唐留学。天智四 なりそのちまたおとどみこ いはゆたむかいこう わじゃうまう 和尚ト申ス、此レ也。其ノ後、亦、大臣ノ御子ヲ産メリ。所謂ル淡海公、此レ年 ( 六 3 帰朝。同年 + 月二 + 三日 没。年二十三。多武峰寺開基。 なりかくないだいじんみすておほやっかまったまことかぎりな 一ニ藤原不比等のおくり名。死後、 也。此テ内大臣モ身ヲ棄テ公ケニ仕リ給フ事無限シ。 近江国十二郡を追封したことから たま やまひとぶら たま てんわうおとど いへぎゃうがう しかあひだおとどみやまひう 而ル間、大臣身ニ病ヲ受ケ給ヘリ。天皇大臣ノ家ニ行幸シテ、病ヲ訪ハセ給の称。鎌足の二男。中納言、大納 言などを経て、右大臣。正二位。 ぎゃうがう やまおくり おとどっひうせたまへ そ さうそうよるてんわう ヘリ。大臣遂ニ失給レバ、其ノ葬送ノ夜、天皇、「行幸シテ山送セム」ト有ケ養老四年 ( 七一 (O) 八月没。年六 + 三。 ↓本巻第二話。 ときだいじんくぎゃうあり てんわうおほむみ だいじんさんそうやまおくりれいな レバ、時ノ大臣公卿有テ、「天皇ノ御身ニテ大臣ノ山送ノ山送例無キ事也」ト一三行幸は天智八年十月十日。鎌 足没は同月十六日、年五十六。 なくな いみなせんじ これだいしよくくわんまうす どどそう かへらたま 一四天智紀所引の日本世記による 度々奏シケレバ、泣々ク返セ給ヒテ、謚ノ宣旨ヲ下シテ、此ョリ大織冠ト申。 と、山科の南に仮葬 かまたりまう じちみな 一五野辺送り。もと遺骸を山に葬 実ノ御名ヲバ鎌足ト申ス。 ったことからの語。 だいしよくくわんまう そ ふぢはらうぢこ ごしそんはんじゃう 其ノ御子孫繁昌ニシテ、藤原ノ氏此ノ朝ニ満チ弘ゴテ隙無シ。大織冠ト申ス一六時の大臣・公卿の中のある人 人が、の意。 かたった 宅「葬送」の意。 二此レ也、トナム語リ伝へタルトャ。 天死後に贈る称号。おくり名。 ただし、史実には徴しえない 一九あまねく繁栄した意。「ゴテ」 は「ゴッテ」の促音の無表記。 なり たむかいこうをつぐよっのいへのことだいに 淡海公継四家語第二 くわいにも てうみ 一九 う ひろ うめ ひまな - 一と。なり あり
しや」、第四包・今日と契りし」。 フクカゼノタョリニモハヤキ、テケムケフモチギリシャマノモミヂヲ 一ニ秦氏。永観元年渡唐、寛和一一 またこ ちうじゃうてうねんほふけういふひとたうわた ちうじゃうもときたりきく 亦、此ノ中将、奝然法橋ト云人ノ唐へ渡ラムトテ、此ノ中将ノ許ニ来テ菊年帰朝、一切経を将来。東大寺別 当。長和五年 ( 一 0 一六 ) 没。年七十九。 きき またいづれあきあふべ ちうじゃうかく よみ 一三第二句の「キク」に「菊」と「聞 ノヲ見テ、「亦、何ノ秋カ可会キ」ト云ケルヲ聞テ、中将此ナム読ケル、 く」をかけ、第四・五句は和漢朗 詠集、秋、菊所収の元槇の詩「不二 アキフカミキミダニキクニシラレケリコノ花ノ、チナニヲタノマム 是花中偏愛じ菊此花開後更無レ花 ちうじゃうあるところおほわり′」 いふもの たてまつり ねのび , じ十日菊花元槇」を踏まえている。 亦、此ノ中将、或所ニ大破子ト云物ヲシテ奉ケルニ、子日シタル所ニ止 ひのき 一四破子は檜などの薄板で作った かきつけ 四角な折箱状の容器。 ク圭日付タリ、 一五正月 ( 時に一一月 ) の子の日に行 われた野遊び。不老長生の松にあ キミガヘム世々ノ子日ヲカゾフレバカニカクマッノオヒカハルマデ やかり、」 ハ松の根を引くなどして ちうじゃうにようゐんはっせまゐ たま いでたま いまよふか 三ト。亦、此ノ中将、女院ノ長谷ニ参ラセ給ヒテ出給ヒケルニ、未ダ夜深カリケ長寿息災を祈 0 た。 第 一六道信集に所収。詞書も同趣 しばらおはしましあひだあまたのひとびとありあけつき 五ロ 編レバ、暫ク御座ケル間、数人々、有明ノ月ノ極ク見ュルヲ詠メケルニ、此ノ第四句「・カニカク」は、道信集甲本 和 の「ゑ ( 絵 ) にかく」の方が詞書にび ちうじゃうかく よみ 読 ったりする。 父中将此ナム読ケル、 送 宅東三条院詮子をさす。藤原兼 一九 臣 ソムケドモナヲョロヅョヲアリアケノ月ノヒカリゾハルケカリケル 家の女。円融天皇女御、一条天皇 朝 母后。正暦二年出家。長保三年 ( 一 ひとびといみじこ ほめ 00 一 ) 崩。年四十 ( 一 ) 。 ト。人々極ク此レヲ讃ケリ。 藤 一 ^ 長谷寺参詣は正暦一一年十月 ちうじゃうあ をむなうちさぶらひ かならっ 一九道信集に所収。詞書も同趣 亦、此ノ中将、或ル女ノ内ニ候ケルガ、「内ョリ出デム時ハ、必ズ告ゲム」 第三句の「アリに、 存在の「アリ」 ちぎりいで しらせ またひっとめてかくよみやり と有明の月の「アリ」をかけている。 ト契テ出ケルニ、不知デ出ニケレバ、亦ノ日ノ朝此ゾ読テ遣タリケル、 一 = ロ またこ は み 0 0 またこ また一、一 よよねのび つき うち いみじみ とき なが とつか
おもこころ ひと ミヤコへト思フ心ノワビシキハ力へラヌ人ノアレバナリケリ セ承平四年十二月二十一日出発。 ^ 後文に「館ノ柱」とみえる。 のばりのち そかなしみこころうせあり 上テ後モ、其ノ悲ノ心不失デ有ケル。 九第二、三句、土佐「思ふをも のの悲しきは」、古本説話・宇治 そたちはしらかきつけ うた なまやかうせあり かたった 其ノ館ノ柱ニ書付タリケル歌ハ、生ニテ不失デ有ケリ、トナム語リ伝へタル拾導おもふにつけてかなしきは」。 第四包・カへラヌ人」は死んだ子。 トャ。 一 0 意によってよめば「あざやか ニテ」も考えられるが、「生」字に 即してよめば、「なまやかニテ」が 当ろう。 ( 筆跡が ) 鮮明に、美しく あべのなかまろたうにしてわかをよむことだいしじふし あざやかにの意。 安陪仲麿於唐読和歌語第四十四 こきんわかしゅう 本話の典拠は未詳であるが、『古今和歌集』九羇旅所収同歌の左注は同文的同話で、両者の あべのなかまろ 四 伝承関係は特に注目される。遣唐使安倍仲麿が唐の明州の浜辺で故国をしのび、「天の原」の こほんせつわしゅう こよっ とさにつき 十 和歌をよんだ話。著名な話で、同話は『古本説話集』上の四五、『小世継』四五、『土佐日記』正月二 + 四 ごうだんしよう としよりずいのう こきんわかろくじよう 第 日の条、『江談抄』三の三などにもみえ、「天の原」の歌は『俊頼髄脳』『古今和歌六帖』一、七巻 語 ほうぶっしゅう 歌 本『宝物集』二以下諸書に収録。 和 読 = 船守の子。霊亀三年 ( 七一七 ) 渡 唐 唐。玄宗に登用され、李白・王維 於 麿 とも親交があり、文名が高かった。 いまはむかしあべのなかまろ いふひとあり けんたうし ものならはしめ 今昔、安陪仲麿ト云人有ケリ。遣唐使トシテ物ヲ令習ムガ為ニ、彼国ニ渡大暦五年 ( を ) 唐土で没。年七 + 安 おおやけ 三主格は「公」。 一三藤原清河が該当。遣唐大使と あまたとしへ えかへきたらざ ひとけんたうし 数ノ年ヲ経テ、否返リ不来リケル一一、亦此国ョリ簪凵ト云フ人、遣唐使トシして天平勝宝四年 ( 芸 l) 渡唐。 0 またこのくに ため かのくにわたり
今昔物語集巻第二十四 220 ごしゅういわかしゅう 本話の典拠は未詳。『後拾遺和歌集』一〇哀傷所収の同歌は同文的詞書を持ち、本話の出典 たるにふさわしいが、『後拾遺和歌集』と『今昔物語集』の直接関係が全般的に確認されない ねび 限り、断定をひかえるべきであろう。円融天皇を紫野に葬った時、先年の子の日の御遊をしの ふじわらのあさてる ゆきなり んで、藤原朝光と藤原行成が哀傷の歌をよんだ話。葬送の日が奇しくも御遊と同じ一一月中旬だ ったので、追憶もひとしお深かったわけである。前話に引き続き、貴人没後の哀傷をしるした 歌話で、義孝・行成の親子関係を介して特に前話に密接する。著名な歌話として、同話ないし こよっぎ えいがものがたり じっきんしよう ほうぶっしゅう 部分的同話は『小世継』三九、『栄花物語』見果てぬ夢、『十訓抄』六の一〇、一巻本『宝物集』などに みえるが、同文性の強い『小世継』所収話は伝承的に『後拾遺和歌集』に次いで注目すべきも の。 一第六十四代。退位後出家。正 暦二年 ( 究 D 二月崩。年三十三。 四 ニ京都市北区紫野。 たま むらさきのごさうそうあり いまはむかしゑんいうのゐんほふわうう ここおほむ 今昔、円融院ノ法皇失セ給ヒテ、紫野ニ御葬送有ケルニ、一トセ、此ニ御三永観三年 ( 九 (F) 二月 + 三日の 子の日の御遊。↓巻二八第三話。 こと ねのび たま おも ひとびとあは なげかなしみ かんゐんのさだい ↓二一五ハー注一五。 子日ニ出サセ給ヘリシ事ナド思ヒ出テ、人々哀レニ歎キ悲ケルニ、閑院左大四 五兼通の三男。貞元二年 ( 九耄 ) しゃうあさてるのだいなごんかく よみ 将朝光大納言此ナム読ケル、 任権大納言兼左大将。正二位。長 徳元年 ( 究五 ) 没。年四十五。 おもひ 六「ムラサキのクモノ」は「カケ ムラサキノクモノカケテモ思キャハルノカスミニナシテミムトハ テ」の序詞、「ムラサキノ」に「紫 またゆきなりのだいなごんかく よみ 野」をもかけている。 亦、行成大納言此ナム読ケル、 セ当時行成は左兵衛権佐。 ^ 第二句、後拾遺以下「つねの ヲクレジトツネノミュキニイソギシニ煙ニソハヌタビノカナシサ みゆきは」。第四句の「煙 [ は火葬 カく よみ あはれなり かたった の煙。 ト。此ナム読ケルモ哀也、トナム語リ伝へタルトャ。 0 六 けぶり ひと