なかすたちばな ときこ、、 舟をさし寄せた中州の橘の小島のあたりで、匂 宮と浮舟は歌を交わす。橘にことよせて、心変りをしない ゆくえ と契る匂宮に対して、浮舟はわが身の行方のたよりなさを 歌っている。その後の浮舟の運命は、まさに波に揺られる 小舟で、行方もわからぬ無明の世界へと流されて行く。 これもまた、まさしく「世を憂し」の世界であり、「世 を宇治山と人はいふなり」ならぬ「世を宇治川」の物語で ー古典文学散歩ーー もある。浮舟の物語は、賀茂川でも桂川でもなく、どうし ても宇治川でなければならなかったのだろう。 とはいえ、宇治は新仮名ならうじだが、旧仮名で書けば うぢのわきいらっこ 尾崎左永子 当然うぢである。「応神紀」に登場する菟道稚郎子は、宇 『源氏物語』宇治十帖の八の宮の山荘は、「世を憂し」と遅能和紀郎子とも書かれていて、菟道も宇遅も、うぢであ 思う八の宮の隠棲にふさわしい場所として、宇治に設定さる。濁点のない表記なら「うち」のはずだが、これがいっ 「うし」の掛詞に使われるようになったのかーーー。少なく れたのではないか、とは、前にもちょっと触れた ( 月報 ) 。 うきふね また、八の宮の庶子である浮舟の呼び名は、宇治川とは切とも発音上、ぢからじに移行したのはいつなのだろう。 かか やそうぢかはあじろき 「もののふの八十氏川の網代木にいさよふ波の行くへ知ら っても切れない関わりがある。 たちばなの小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへずも」 ( 萬葉 = 六四柿本人麻呂 ) のころは、まだ「うちーだっ たつみ 知られぬ ( 浮舟 ) た可能性が高いが、「わが庵は都の辰巳鹿ぞ住む世を宇治 におうみやかおる きせん は、浮舟自身の歌である。この時、匂宮は薫と偽って浮舟山と人はいふなり」 ( 古今・雑下喜撰法師 ) になると、これ ときかた に近づき、一夜を明かしたのち、宇治川を渡って侍臣時方はもう「憂し」に掛けてあるにちがいないから、「うし」 やしき の縁者の邸へ隠れ、濃密な二日間を過した。宇治川を渡るであろう。それにしても、浮舟の「ゆくへ知られぬ」は、 日本の古典月報 5 第巻源氏物語九 世を宇治川 いんせい ・昭和年 4 月日
241 宿木 たくい のにぎやかさに返ったようでございます。ああした世に類恋しく悲しくお慕い申しあげられるので、一段と悲しみを のない悲しさと思われましたようなことでも、年月が過ぎ さそわれて何も申しあげることがおできになれず、お涙を てみると、その思いの薄らぐ時がやってくるものだと思い こらえかねておいでになるご様子であるが、こうしてお二 ますにつけ、なるほど万事ものには限りがあるものだと思人は、ともどもに悲しい思いを通わしていらっしやる。 われるのでございます。こうは申しあげますものの、院に 女君が、「『世の憂きよりは』などと昔の人も申しました お別れ申した当時のあの悲しさは、私もまだ幼うございま が、山里に住んでおりましたころはそんなふうに思い比べ した折のこととて、それほど深くは、いにしみて感じなかっ る気持を格別にいだくこともなく長年を過しておりました たのでございましよう。あれに比べて、やはりつい先ごろ、 が、今となっては、やはりなんとかしてあのころのように 亡きお方との夢のようにはかなくお別れした悲しみが、さ 山里で静かに暮したいと思うのでございますが、そうは申 まそ , つにもさましょ , つもなく思われますのは、、 しずれも同しても思うようにもできかねるようでございますので、あ じく人の世の無常ゆえの悲しみとは申せ、後の世のために の弁の尼がうらやましゅうございます。この二十日過ぎの はこちらのほうがいっそう罪障の深さはまさっているので ころは、あの近くのお寺の鐘の声も聞きとう存じますので、 はないかと、そうしたことまでも情けのう存ぜられます」 そっとこの私をお連れいただけないものか、とお願いいた とおっしやって、お泣きになる中納言のご様子が、い力に しとう存じておりました」とおっしやるので、中納言は、 も深いお心のお方とお見受けされる。 「山里のお邸を荒らしてしまわぬようにとお思いになって 亡きお方をそれほどにはお思い申しあげていない人でも、 も、とてもそんなことはおできになれますまい。気軽に出 この中納言のようにこうまでもお嘆きになるご様子を見て かけられる男の身でも行き来するのは容易ならぬ険しい山 は、つい心を動かさずにはいられないだろうに、まして女道でございますから、私も気にかけながら長らくご無沙汰 あじゃり 君は、ご自分もなにかと、い細く思い悩んでいらっしやるに いたしております。故宮のご命日のことは、あの阿闍梨に つけても、常にもましてひとしお亡きお方の面影をしのび、しかるべく御法事のあれこれのことをみな頼んでおきまし
かさに、かつは宮の内の人の見思ふらんことも、人げなきことと、思し乱るる一匂宮づきの人々の見る目にも、 みすばらしく思われよう。 一一薫。前述の、贈物を選定する こともそひて嘆かしきを、中納言の君はいとよく推しはかりきこえたまへば、 語 薫らしい独自な配慮が顧みられる。 あなづ 物疎からむあたりには、見苦しくくだくだしかりぬべき心しらひのさまも、侮る = 親しくない相手だ。たら、立 ち入りすぎてわずらわしいと思わ 源 とはなけれど、何かは、ことごとしくしたて顔ならむも、なかなかおばえなくれかねぬ自分 ( 薫 ) の心づかいも。 四なまじ中の君への懸想かと疑 五 みとが 見咎むる人やあらんと思すなりけり。今ぞ、また、例の、めやすきさまなるもわれるだけだ、とする。 五前の贈物はありあわせ、今夜 六こうちき あやれうたまは のは格別に用意した品である。 のどもなどせさせたまひて、御小袿織らせ、綾の料賜せなどしたまひける。こ 六中の君用。職人に新調させた。 の君しもそ、宮に劣りきこえたまはす、さまことにかしづきたてられて、かた七以下、薫の人となりと生き方。 匂宮に並ぶ世間からの寵遇と、現 はなるまで心おごりもし、世を思ひ澄まして、あてなる心ばへはこよなけれど、世への懐疑的態度は、匂宮巻以来 一貫している。 故親王の御山住みを見そめたまひしよりそ、さびしき所のあはれさはさまこと ^ 八の宮を法の師として親交。 九落魄の親王として世に顧みら な一け なりけりと心苦しく思されて、なべての世をも思ひめぐらし、深き情をもなられぬ境遇。それへの親交を機縁に 薫は世間・人生への目を開かれた。 一 0 語り手の評。薫に対する八の ひたまひにける。いとほしの人ならはしやとそ。 宮のいたわしい影響とか かくて、なま、 いかでうしろやすくおとなしき人にてやみ 0 中の君が匂宮の妻として体面を 〔毛〕中の君、薫の態度 保つのには薫の後見が必要。しか に悩みわずらう しその後見に、彼の恋情がまとい なんと思ふにも従はず、心にかかりて苦しければ、御文な つくのが、中の君を苦しめる。 けしき = やはり、中の君には安心なし どを、ありしよりはこまやかにて、ともすれば、忍びあまりたる気色見せつつ ( 現代語訳一一六七ハー ) お
並大抵でなくおいたわりいただいているのに、そのかいも〔三六〕薫、宇治を訪れ、あの大将殿は、例によって、秋の深 新造の御堂を見る なくご面倒をおかけしていると思うと、つい泣けてきて、 くなっていくころ、それがならわし 「どんなにか所在なく慣れぬお暮しでいらっしゃいましょ になっていたこととてーー・暁の寝覚めのたびに亡き姫宮の 語 物う。しばらく忍んでお過しください」とある手紙のご返事 ことを忘れることもなく、ただしみじみと悲しく思わすに 氏 に、「所在ないのはなんのご心配にも及びません。かえっ はいられないので、宇治の御堂ができあがったとお聞きに 源 て気安うございまして。 なると、ご自身からお出かけになった。久しくごらんにな もみじ ひたぶるにうれしからまし世の中にあらぬところと思 らなかったので、山の紅葉も目新しくお感じになる。取り はオしかば こわした寝殿が、このたびはじつに晴れ晴れしく建てられ ひじり ( もしここがこの憂き世とは別の世界と思うことができます てある。昔、亡き八の宮がほんとに質素に聖同然に暮して ものなら、一途にうれしかろうと存じますものを ) 」 おいでになったお住いを思い出すと、その宮のことも恋し と、 いかにも幼びて詠んであるのを見るままに、母君はほ く思わずにはいらっしゃれず、すっかり模様替えをしてし ろほろと涙をこばして、このように途方にくれてさまよう まったことが惜しまれもするので、例になく虚けたように ようなめにあわせていることと思うと、たまらなく悲しく 沈んでおられる。以前のお部屋のお造作は、宮の御持仏堂 なるので、 にふさわしくまことに尊い感じであったし、また一方のお うき世にはあらぬところをもとめても君がさかりを見部屋はいかにも女人の住いらしく行き届いた造りようであ るよしもがな ったりして、趣向も一様ではなかったのだが、そのころの あじろびようぶ ( 憂き世とは別の世界を捜し求めてでも、なんとしてもあな 網代屏風やなにくれの粗末な調度類は、とくに新築の御堂 たのお栄えになるのを見たいものです ) の僧房で使うようおさせになる。ここにはいかにも山里ら と、ありきたりの歌などを言い交して、心を慰めるのであ しい調度の数々を、わざわざ用意させなさって、さほど簡 略にというでもなく、じつに清浄に重々しくととのえられ うつ な
源氏物語 42 一前述の「いとしどけなげに : ・」 しかど、心の底のづしやかなるところはこよなくもおはしけるかな。中納言の の表面的な印象とは異なる心の底。 君の、今に忘るべき世なく嘆きわたりたまふめれど、もし世におはせましかば、中の君の「心軽さ」 ( 前ハー一三行 ) と も異なって、大君の重々しくしつ かりした思慮深さ。 またかやうに思すことはありもやせまし。それを、いと深くいかでさはあらじ ニ↓四〇ハー一一行。 三もしも大君が存命なら。 と思ひ入りたまひて、とざまかうざまにもて離れんことを思して、かたちをも 四薫とて世の男、大君も悲嘆を 変へてんとしたまひしぞかし。 かならずさるさまにてぞおはせまし。今思ふに、経験しただろうと推測。かって大 あきら 君が、匂宮を根拠に自ら結婚を諦 な いかに重りかなる御心おきてならまし。亡き御影どもも、我をば、、かにこよめたのに類似。↓総角〔一一四〕。 五結婚ゆえの不幸を避けようと。 なきあはつけさと見たまふらん」と、恥づかしく悲しく思せど、何かは、か六万策を講じて薫を避けようと。 セ出家。↓総角 3 〔三四〕。 ひなきものから、かかる気色をも見えたてまつらんと忍びかへして、聞きも入 ^ 存命ならば出家したはず。 九現在の苦境が、当時は気づか なかった大君の深慮を認識させる。 れぬさまにて過ぐしたまふ。 一 0 亡き父宮や大君。「らん」とあ り、冥土から今見られている感じ。 宮は、常よりも、あはれになっかしく、起き臥し語らひ契りつつ、この世の = 以下、中の君の固い決意。自 さっき みならず、長きことをのみぞ頼めきこえたまふ。さるは、この五月ばかりより、分の悲しげなそぶりを匂宮に見せ まいと、がまんを重ねる。 例ならぬさまになやましくしたまふこともありけり。こちたく苦しがりなどは三宮の結婚など聞いていないと 装う。宮との仲を持続させる方途。 したまはねど、常よりも物まゐることいとどなく、臥してのみおはするを、ま一三匂宮は六の君との結婚を目前 に、常よりいっそう中の君に愛着。 ださやうなる人のありさまよくも見知りたまはねば、ただ暑きころなればかく一四来世でもいっしょに、の意。 おも けしき
源氏物語 92 さるべきにやはべりけん、疎きものからおろかならず思ひそめきこえはべりし一親密な関係にはならなかった が、深い思いをかけるようになっ ひじりごころ たのが原因で、の意。結婚できな 一ふしに、かの本意の聖心はさすがに違ひやしにけん。慰めばかりに、 かった大君との関係を回顧 もかしこにも行きかかづらひて、人のありさまを見んにつけて、紛るることもニ本来の念願であった仏道修行 の意。前ハー末「世の中を : ・」に照応。 ゃあらんなど思ひょるをりをりはべれど、さらに外ざまにはなびくべくもはべ大君が道心を揺るがしたとする。 三傷心を慰めるべく女性交渉が らざりけり。よろづに思ひたまへわびては、、いのひく方の強からぬわざなりけあったとする。按察の君 ( 六九ハー ) やその他の召人 ( 四六ハー ) のことだ 、、薫はもともと大勢の召人と関 れば、すきがましきゃうに思さるらむと恥づかしけれど、あるまじき心のかけ 係がある。↓匂宮一三ハー。 てもあるべくはこそめざましからめ、ただかばかりのほどにて、時々思ふこと四あなた以外には心惹かれる人 もいなかった、の気持で言う。 とが をも聞こえさせうけたまはりなどして、隔てなくのたまひ通はむを、誰かは咎五匂宮の妻、中の君への邪恋。 六現在の、自分が中の君の後見 め出づべき。世の人に似ぬ心のほどは、皆人にもどかるまじくはべるを。なほ役であるという関係のまま。 七暗に匂宮をさして言う。 うしろやすく思したれ」など、恨みみ泣きみ聞こえたまふ。中の君「うしろめた ^ 世の常識を超えるほどの誠実 さ。自ら一一 = ロうところが薫らしい 九ここは多感な懸想人らしい趣。 く思ひきこえば、かくあやしと人も見思ひぬべきまでは聞こえはべるべくや。 一 0 以下、薫の言い分を受け入れ、 年ごろ、こなたかなたにつけつつ、見知ることどものはべりしかばこそ、さま相手が出すぎないように釘をさす。 = 血縁縁者ではない後見役。薫 ことなる頼もし人にて、今はこれよりなどおどろかしきこゆれ」とのたまへば、の「世の人に似ぬ : ・」にも照応。 三今ではこちらから相談を持ち かけるほどだ、とする。過日の宇 薫「さやうなるをりもおばえはべらぬものを、いとかしこきことに思しおきて うと たが 六
一自分一人は常陸介の後妻の境 ひとつをよろづにもて悩みきこゆるかな。、いにかなはぬ世には、あり経まじき 遇に甘んじて人並以下に生きてよ しなじな しかし浮舟だけは高貴な別世 ものにこそありけれ。みづからばかりは、ただひたぶるに品々しからす人げな 界にと願っている。↓一三六ジ 語 ャ ) も こころう ニこちらの親戚筋を。父八の宮 物う、たださる方にはひ籠りて過ぐしつべし、この御ゆかりは、心憂しと思ひき 氏 四 に実子と認められなかった恨み。 むつ びん 源こえしあたりを、睦びきこゆるに、便なきことも出で来なば、いと人笑へなる = 当方から親近申したあげくに。 四中の君と匂宮を奪い合うよう - 一と べし。あぢきなし。異ゃうなりとも、ここを人にも知らせず、忍びておはせよ。な不都合。「人笑へ」は、女の身の 破滅になりかねない おのづからともかくも仕うまつりてん」と言ひおきて、みづからは帰りなんと五粗末な家であるけれども。 六生きているのも肩身の狭い身。 す。君は、うち泣きて、世にあらんことところせげなる身と思ひ屈したまへる七「君は : ・」に照応して、親はま た親で。母の、娘思いの切実さ。 さまいとあはれなり。親、はた、まして、あたらしく惜しければ、つつがなく〈何の支障もなく望みどおりに 縁づけてやりたいと。 て思ふごと見なさむと思ひ、さるかたはらいたきことにつけて、人にもあはあ九匂宮に迫られた一件をさす。 一 0 以下、中将の君の人柄。思慮 に欠ける人ではないが、少し怒り はしく思はれ言はれんがやすからぬなりけり。、い地なくなどはあらぬ人の、な つばく、気持を抑えられぬところ かいき、さか。ある。 ま腹立ちやすく、思ひのままにぞすこしありける。かの家にも隠ろへては据ゑ = 常陸介邸。 たりぬべけれど、しか隠ろへたらむをいとほしと思ひて、かくあっかふに、年三そんな隅に。人数ならぬ扱い をしたくない気持。 ごろかたはら避らず、明け暮れ見ならひて、かたみに心細くわりなしと思へり。一三母娘いっしょの生活。 一四母娘が別れ別れに住むのを。 あやふ 中将の君「ここは、まだかくあばれて、危げなる所なめり、さる心したまへ。曹一五造作が整っていない。戸締り 五 六 ざう
源氏物語 46 うなるにつけては、、 しとどっらしとや見たまふらむ」など、つくづくと、人や一大君の死や、中の君を匂宮に 譲ったことを、自分のせいと自責。 りならぬ独り寝したまふ夜な夜なは、はかなき風の音にも目のみ覚めつつ、来 = 自分のことはもちろん、中の 君のことについてまで。 かた 三一時の慰みとして。以下、女 し方行く先、人の上さへあぢきなき世を思ひめぐらしたまふ。 房らとの関係。薫を慕って大勢の 女房が参集。↓匂宮 3 一一一一ハー。 なげのすさびにものをも言ひふれ、け近く使ひ馴らしたまふ人々の中には、 四さつばりしたものだ、の意。 語り手の感想をこめた言辞。 おのづから憎からす思さるるもありぬべけれど、まことには、いとまるもなきこ 六 五視点を変え語り直す。大君・ ときょ きは そさはやかなれ。さるは、かの君たちのほどに劣るまじき際の人々も、時世に中の君も、客観的には薫にとって 女房ほどの位置でしかないとする。 従ひつつ衰へて心細げなる住まひするなどを、尋ねとりつつあらせたまひなど六世の推移に従っては零落し。 セこの「心細げ」は、生活不如意 いと多かれど、今はと世を遁れ背き離れんとき、この人こそと、とりたてて心零落した名門の娘で三条宮に女房 として出仕している者も多い ほだし とまる絆になるばかりなることはなくて過ぐしてんと思ふ心深かりしを、いで〈薫の念頭には常に出家があり、 特定の女性への情愛が出家の絆に さもわろく、わが心ながらねぢけてもあるかななど、常よりも、やがてまどろなるのを恐れている。 九見苦しく悩まねばならぬとは、 あした 一 0 まがき 自分ながら見苦しいことよ。大君 まず明かしたまへる朝に、霧の籬より、花の色々おもしろく見えわたる中に、 へのかたくななまでの執着。 朝顔のはかなげにてまじりたるを、なほことに目とまる心地したまふ。「明く一 0 霧の立ちこめた垣根 = 今の朝顔と同じ。歌語として、 かうし はかなさ、または朝の素顔を象徴。 る間咲きてーとか、常なき世にもなずらふるが、心苦しきなめりかし、格子も ここは前者。無常の念を誘発する。 ふ 上げながら、いとかりそめにうち臥しつつのみ明かしたまへば、この花の開く三「朝顔は常なき花の色なれや のが ひら
91 宿木 薫「胸はおさへたるはいと苦しくはべるものを」とうち嘆きてゐなほりたまふのは苦しい、の意を言いこめる。 天少将の接近に感づいて、あわ 一九 した てて居ずまいを正す。 ほども、げにぞ下やすからぬ。薫「いかなれば、かくしも常になやましくは思 一九語り手が、薫の言葉を受けて、 さるらむ。人に問ひはべりしかば、しばしこそ、い地はあしかなれ、さて、また、薫の内心は穏やかならぬ、と評す。 つわり ニ 0 悪阻について言う。乳母など から聞いた知識であろう。 よろしきをりありなどこそ教へはべしかあまり若々しくもてなさせたまふな ニ一子供じみているせいだろう。 めり」とのたまふこ、 しいと恥づかしくて、中の君「胸はいっともなくかくこそはニニ懐妊にふれられたのを恥じて、 胸の病は持病だと話題をそらす。 はべれ。昔の人もさこそはものしたまひしか。長かるまじき人のするわざとか、ニ三大君も胸の病で死んだとする。 ↓六五ハー五行。 たれちとせ ニ五「憂くも世に思ふ心にかなは 人も言ひはべるめるーとそのたまふ。げに、誰も千年の松ならぬ世をと思ふに ぬか誰も千年の松ならなくに」 ( 古 今六帖四 ) 。世の無常を根拠に、 しいと心苦しくあはれなれば、この召し寄せたる人の聞かんもつつまれず、 生きている限りの親交を求める。 かたはらいたき筋のことをこそ選りとどむれ、昔より思ひきこえしさまなどを、ニ六「とどむれ」まで挿入句。聞か れて困るような話題は避けるが。 毛中の君にだけは自分の真意が かの御耳ひとつには心得させながら、人はまたかたはにも聞くまじきさまに、 分るような話し方で、他の人が聞 してもおかしくないように。 さまよくめやすくそ言ひなしたまふを、げにありがたき御、いばへにもと聞きゐ いんべい ニ〈薫の真意が隠蔽されているの で、中の君への厚意をいかにも殊 勝なものと、少将は感動的に聞く。 し。レオカニ九亡き大君は、薫と中の君に共 何ごとにつけても、故君の御事をそ尽きせず思ひたまへる。薫「、まナよゝ 通した切実な話題。↓八九ハー九行。 三 0 薫に一貫する現世離脱の信条。 りしほどより、世の中を思ひ離れてやみぬべき心づかひをのみならひはべしに、 ニ六 ニ七 ニ九 え
源氏物語 368 一睡もせぬまま夜を明かし、早朝目にとめた朝顔に無常を 宿木 、この歌句を口ずさむ。大君の早世を嘆く気持もこも っていよ , っ ・・凵などてかくあふごかたみになりにけむ水漏らさ ( 伊勢物語・一一十八段 ) じと結びしものを 里はあれて人はふりにし宿なれや庭もまがきも ( 古今・秋上・ = 哭僧正遍照 ) どうしてこうも逢うことがむずかしくなってしまったのだろ 秋の野らなる うか。水も漏すまいと、堅く約束しあっていたのに。 里も荒れさびれて、その住人も年老いてしまった家だからか、 庭も垣根も一面の秋の野らである。 前出 ( ↓藤裏葉 3 四一三ハー上段 ) 。物語では、タ霧が娘の六の 君の縁談を考える一節で、水も漏さぬ夫婦仲のよさ、の意前出 ( ↓タ顔田四四六ハー下段 ) 。薫が中の君に、宇治を訪れ まがき で弓く。 た折の様子を報告する言葉に、「庭も籬もまことにいとど やしき ・ 1 かねてよりつらさを我にならはさでにはかにも荒れはてて」と引かれる。折から秋、荒廃した宇治の邸だ ( 異本紫明抄 ) とする。 のを思はするかな 前々から私をつらい仕打ちに慣れさせてもおかず、あなたは ・・間山里はもののわびしきことこそあれ世の憂きょ ( 古今・雑下・九四四読人しらず ) 今になって急に物思いをさせるお方だ。 りは住みよかりけり 山里での暮しは、どこか心細くはあるものの、俗世でのつら 出典未詳。前出 ( ↓若菜上圈三九六ハー下段 ) 。六の君との婚儀 よが い生活よりも住みよいものなのだった。 の近づいた匂宮が、中の君への夜離れを今から慣れさせよ とのい うとして、しばしば宿直に参内した。「かねてよりならは物語では、中の君が宇治を訪ねたいと、薫に懇願する言葉 に、「世のうきよりは」と引かれた。匂宮と六の宮の結婚 し」たと引かれている。 、とする。中 朝顔は常なき花の色なれや明くる間咲きてうつ に悩むよりも、「わびし」い宇治のほうがいし かちょうよせい ろひにけり ( 花鳥余情 ) の君にとって、「もののわびしき」「山里」である宇治こそ、 朝顔は無常の世を表す花の色だというのだろうか、夜の明け 心の故郷だと思われている。 あま 4 ・ . っ る時分に咲いてすぐにまた色あせてしまうものだった。 5 1 幾世しもあらじわが身をなそもかく海人の刈る ( 古今・雑下・九三四読人しらず ) 出典未詳。「朝顔」は、ここでは無常を象徴する花。物語藻に思ひ乱るる どれほどの年月とて生きもしないのに、わが身はどうしてこ では、中の君を匂宮に譲ったことをいまさらに悔む薫が、