245 宿木 つらい昔のことは忘れてしまったというのであろうか 縁もおしまいと思わないではいられないことなのだった。 もうまったくこの世にはいらっしやらなくなった父宮や姉 年寄の女房たちなどは、「もう奥におはいりなさいまし。 冫。しくらなんでもときどきはお目 君とはちがって、宮こま、、 月を見るのは不吉なことでございますのに。それになんと にかかれるのだと思ってよいはずなのに、今宵こうして私 まあ、ほんの少しの御くだものをさえお召しあがりになり を見捨ててお出かけになる恨めしさに、あとさきすべて真ませんのでは、どうおなりになりますことか。ああ、もう っ暗になってたまらなく心細いのが、わが心ながらどうに 拝見してはおられませぬ。不吉なことをも思い出さないで はいられませんのに、ほんとに困ってしまいます」と嘆息 も気持のおさめようもなく、情けなくもあることよ。でも、 生き長らえてさえいたなら、あるいは万が一にも」などと、 をもらして、「それにしても今度のお仕打ちはどういうこ とでしよう。でも、このままおろそかになっておしまいに 我とわが心を慰めようとしていると、なおさらあの慰めか おばすてやま なるようなこともまさかありますまい。なんといっても、 ねる姨捨山の月が澄みのばってくるので、夜が更けるまま にあれやこれやとさまざまに思い乱れていらっしやる。松 もともと深く思いそめた仲というものは、まるで切れてし 風の吹いてくる音も、あの宇治の山里の荒々しかった山お まうものではありませんもの」などと女房たちが言い合っ ろしの風に比べると、じっさいのどかで好ましく気持のよ ているのも、女君には何かと聞くに堪えないお気持から、 いお住いであるけれど、今宵はそう思おうにも思われず、 「今はもうどのようにも取り沙汰してもらいたくはない。 あの山里の椎の葉ずれの音のほうがまだましのように感じ このままじっと黙って宮のお心を見ていよう」とお思いに ないではいられない なるほかないのは、他人にはかれこれ一一 = ロわせたくない、自 山里の松のかげにもかくばかり身にしむ秋の風はなか分一人だけの心でお恨み申しあげていよう、とのおつもり りき なのだろうか。「それにしてもまあ、中納言殿は、あんな ( 宇治の山里の松の陰の住いにも、これほど身にしみて悲し にも情け深いお心でいらっしやったのに」などと、古くか すくせ い秋風の吹くことはなかった ) らお仕えしている女房たちは言い交して、「人の御宿世と
241 宿木 たくい のにぎやかさに返ったようでございます。ああした世に類恋しく悲しくお慕い申しあげられるので、一段と悲しみを のない悲しさと思われましたようなことでも、年月が過ぎ さそわれて何も申しあげることがおできになれず、お涙を てみると、その思いの薄らぐ時がやってくるものだと思い こらえかねておいでになるご様子であるが、こうしてお二 ますにつけ、なるほど万事ものには限りがあるものだと思人は、ともどもに悲しい思いを通わしていらっしやる。 われるのでございます。こうは申しあげますものの、院に 女君が、「『世の憂きよりは』などと昔の人も申しました お別れ申した当時のあの悲しさは、私もまだ幼うございま が、山里に住んでおりましたころはそんなふうに思い比べ した折のこととて、それほど深くは、いにしみて感じなかっ る気持を格別にいだくこともなく長年を過しておりました たのでございましよう。あれに比べて、やはりつい先ごろ、 が、今となっては、やはりなんとかしてあのころのように 亡きお方との夢のようにはかなくお別れした悲しみが、さ 山里で静かに暮したいと思うのでございますが、そうは申 まそ , つにもさましょ , つもなく思われますのは、、 しずれも同しても思うようにもできかねるようでございますので、あ じく人の世の無常ゆえの悲しみとは申せ、後の世のために の弁の尼がうらやましゅうございます。この二十日過ぎの はこちらのほうがいっそう罪障の深さはまさっているので ころは、あの近くのお寺の鐘の声も聞きとう存じますので、 はないかと、そうしたことまでも情けのう存ぜられます」 そっとこの私をお連れいただけないものか、とお願いいた とおっしやって、お泣きになる中納言のご様子が、い力に しとう存じておりました」とおっしやるので、中納言は、 も深いお心のお方とお見受けされる。 「山里のお邸を荒らしてしまわぬようにとお思いになって 亡きお方をそれほどにはお思い申しあげていない人でも、 も、とてもそんなことはおできになれますまい。気軽に出 この中納言のようにこうまでもお嘆きになるご様子を見て かけられる男の身でも行き来するのは容易ならぬ険しい山 は、つい心を動かさずにはいられないだろうに、まして女道でございますから、私も気にかけながら長らくご無沙汰 あじゃり 君は、ご自分もなにかと、い細く思い悩んでいらっしやるに いたしております。故宮のご命日のことは、あの阿闍梨に つけても、常にもましてひとしお亡きお方の面影をしのび、しかるべく御法事のあれこれのことをみな頼んでおきまし
っていらっしやる。 袖ふれし梅はかはらぬにほひにて根ごめうつろふ宿や ことなる 御前近くの紅梅が色も香も懐かしく咲き匂っていて、 うぐいす ( かって私が袖を触れたことのあるこの梅は、今も変らぬ香 鶯でさえ見過しにくそうに鳴き渡ると見え、なおさらの りに匂っておりますのに、それが根こそぎ移って行く京のお 物こと、「春や昔の」と亡き姉宮をしのびつつ悲しみにくれ 氏 住い先はもう私の宿ではないのですね ) ていらっしやるお二人のお話し合 いにつけても、折が折と 源 てしみじみとした思いになられる。風がさっと吹き入るに こらえきれない涙をさりげない体にぬぐい隠して、そう多 さっき はな くはおっしやらず、「これから後もやはり、このよ , つにし つけても、花の香も客人の御匂いも、あの「五月待っ花 たちばな 橘」ではないけれども、昔の人を思い出さすにはいられ てお目にかかりましよう。何事によらず申しあげやすいで ないよすがである。女宮は、「所在ない寂しさを紛らわすしようから」などと申しあげておいてお帰りになった。 のにも、この世のつらさを慰めるのにも、姉君はいつもこ 明日のお移りに際して数々の用意すべきことを、女房た ひげ の梅に心をとめ、もてはやしていらっしやったものを」な ちに仰せおきになる。この山里の留守居役には、あの鬚が とのいびと ちの宿直人などは居残るはずになっているので、このあた どと、せきかねる悲しみに胸がいつばいになられるので、 みしようえん 見る人もあらしにまよふ山里にむかしおばゆる花の香りの近くにあるご自分の御荘園の者たちなどに、その世話 ぞする などもお命じになったりして、あれこれと暮し向きの細か ( もうこれからは見る人もなくなりましようのに、嵐に吹き いことをまでお取り決めになる。 迷わされておりますこの山里に、亡き人を思い出させる花の 〔五〕薫、弁を召して互弁は、「このようなお供をして京へ いに世の無常を嘆く 香が匂っていることです ) まいりますことも、田むいのほかに長 口に出して言うともなく、かすかな声でとぎれとぎれにし生きをいたしましたのが恥ずかしく思わずにはいられませ か聞えてこないのを、中納言はいかにも懐かしそうにロすんし、どなたの目にもさそ忌まわしく見えましようから、 さんでみて、 今はもう私がこの世に生き長らえているということを誰か ( 原文一一一ハー ) ニ一口 な そで むめ
源氏物語 96 ひとがた 慰めん方なきよりはと思ひょりはべる。人形の願ひばかりには、などかは山里一大君の像を作ろうとの発願 ニ大君そっくりの人を、山里の の本尊にも思ひはべらざらん。なほ、たしかにのたまはせよ」と、うちつけに本尊にと思ってよいではないか。 三父宮は浮舟を娘として認知し なかった意。中の君はこの事実を、 責めきこえたまふ。中の君「いさや、いにしへの御ゆるしもなかりしことを、か 浮舟から聞いたことになる。 へぐゑたくみ くまで漏らしきこゆるも、 四父宮の意思に反して言う気持。 いとロ軽けれど、変化のエ匠求めたまふいとほしさ 五薫の「花降らせたるエ匠」 ( 九 にこそ、かくも」とて、中の君「いと遠き所に年ごろ経にけるを、母なる人の愁三ハ , 末 ) を受けて、あなたがそれ ほど切望するのだから、の気持。 はしきことに思ひて、あながちに尋ねよりしを、はしたなくもえ答へではべり六遠国で生い育ったのを。その 母は受領の妻になっているらしい 九 しにものしたりしなり。ほのかなりしかは こや、何ごとも思ひしほどよりは見セ強引につてを求めて来たので。 〈几帳を隔てての対面か。 苦しからずなん見えし。これをいかさまにもてなさむと嘆くめりしに、にな〈劣り腹の境遇の低さからは想 像もできないほど、の気持。 らんは、、 しとこよなきことにこそはあらめ、さまではいかでかはなど聞こえ一 0 母はこの娘の扱いに苦慮して いたようだが。結婚問題をさす。 たまふ。 = 薫の「山里の本尊」を受けた言 い方。薫の思われ人になるのは先 さりげなくて、かく , つるさき心をいかで = = ロひ放つわ、ざもがなと思ひたまへる方として願ってもない幸いだろう が、それに値するほどでもない意。 と見るはつらけれど、さすがにあはれなり。あるまじきこととは深く思ひたま三中の君が何気なく。以下、異 母眛の存在を告げられた薫の、中 けーしトつ へるものから、顕証に、はしたなきさまにはえもてなしたまはぬも、見知りたの君への関心をそらされた気持。 一三中の君の好意に心惹かれる。 まへるにこそはと思ふ心ときめきに、夜もいたく更けゆくを、内には人目いと一四中の君が自分 ( 薫 ) の懸想を。 ほんぞん 六 かる ふ へ 四
めのわらわすだれ 気がすすまぬふうにおあしらいになるのか」とお恨みにな ていて、中納一一 = 口が、いかにもかわいらしい女童の、簾ごし しとね るけれども、親しい御間柄とま、、 。ししながら、中・納一一 = ロはまこ に見えるのを取次としてご挨拶をなさると、中から御褥を とに気のおける立派なお人柄でいらっしやるから、とても さし出して、昔の事情を知っている女房なのであろう、君 語 物無理じいにお勧め申すこともおできにならないのであった。 の前に出てきてご返事をお伝え申しあげる。「朝といわず 源〔一 0 〕薫、ニ条院を訪問花盛りのころ、中納言は、二条院のタベといわず親しくお訪ねすることができそうなほどすぐ 薫・中の君・匂宮の心桜をよそながら眺めていらっしやる近くに住んでおりますが、これといった用件もなくてお伺 と、まず宇治の山里の「主なき宿」のことが思いやられる いいたしますのも、かえってなれなれしすぎるとのお咎め ので、「心やすくや」などと、独り言を口すさまれ、思い もあろうかと、さし控えておりますうちに、世の中がすっ やしき あまって宮の御もとにお越しになった。近ごろの宮はこち かり変ってしまったような気がしてなりません。お邸の むつ こずえかすみ らにばかり落ち着いていらっしやって、女君とじつに睦ま木々の梢も霞を隔てて私どもから見えますが、それにつけ じく暮しておられるので、結構なことと拝するものの、例 ても感慨無量のことが多うございます」と申しあげて、う によって、どうかと思われるような穏やかならぬ気持が起ち沈んでいらっしやるご様子がいかにもいたわしく見える ってくるのは、我ながらなんとも合点しかねることではあ ので、中の宮も、「なるほど姉君がご存命でいらっしやる る。そうはいっても実直なお心からは、まことにうれしく のだったら、お互いに気がねなく行き来して、花の色や鳥 これで安心とお思い申していらっしやるのであった。 の声をもその折々楽しみながら、少しは晴れ晴れとした気 何やかやとお話をお交し申されてタ方になると、宮が宮持で月日を過すこともできたであろうものを」などとお思 い出しになるにつけても、ただひたすらに閉じこもってい 中にまいられるとて、お車のご用意をしてお供の人々が大 勢集ってまいったりするので、中納言はそこをお立ちにな らっしやった山里の住いの心細さよりも、今の暮しのほう り、対の御方へまいられる。女君は山里住いのころの様子がどこまでも悲しく、不本意な気持がいっそうつのってく るのであった。 とはうって変って、御簾の中も風情ゆかしくお暮しになっ ふぜい あいさっ とが
ほどにて、いとさしもしまぬにやはべりけん。なほ、この近き夢こそ、さます一癒しがたい大君との死別を、 ワ】 源氏の死とは区別して、「夢」と表 べき方なく思ひたまへらるるは、同じこと、世の常なき悲しびなれど、罪深き現。「さます , と縁語。 語 ニあまりの悲嘆は往生をも妨げ、 物方はまさりてはべるにやと、それさへなん心憂くはべる」とて泣きたまへるほ仏罰にあたる。↓「これや、いま すこし罪の深さは : ・」 ( 五〇ハー ) 。 源 三悲嘆の気持に、仏罰をこうむ ど、いと、い深げなり。 る苦しみまで加わる意。 五 けしき 昔の人をいとしも思ひきこえざらん人だに、この人の思ひたまへる気色を見四中の君の目に映る薫像。 五亡き大君。下の「この人」は薫。 んには、すずろにただにもあるまじきを、まして、我もものを心細く思ひ乱れ六動揺し、もらい泣きする意。 セまして中の君は。折から匂宮 たまふにつけては、、 しとど常よりも、面影に恋しく悲しく思ひきこえたまふ心結婚の一件で悩んでいるだけに。 ^ 涙をこらえかねている様子。 なれば、いますこしもよほされて、ものもえ聞こえたまはず、ためらひかねた九薫と中の君が。それぞれの憂 愁を確認し合うように、共感する。 一 0 「山里はもののわびしきこと まへるけはひを、かたみにいとあはれと思ひかはしたまふ。 こそあれ世の憂きよりは住みよか 中の君「世のうきよりはなど、人は一一 = ロひしをも、さやうに思ひくらぶる心もこりけり」 ( 古今・雑下読人しらず ) 。 = わびしい山里だったが、世間 とになくて年ごろは過ぐしはべりしを、今なん、なほいかで静かなるさまにての苦悩は知らなかった、の気持。 三物思いに屈している現在。 も過ぐさまほしく思うたまふるを、さすがに、いにもかなはギ、めれば、弁の尼こ一三やはり宇治の山里にこもりた の願いもかなうまい、の気持。 かね そうらやましくはべれ。この二十日あまりのほどは、かの近き寺の鐘の声も聞一四大君の死後、尼となって宇治 の山荘にとどまる。↓早蕨〔六〕。 一七 きわたさまほしくおばえはべるを、忍びて渡させたまひてんやと聞こえさせば一五八月二十日過ぎ。八の宮の命 四 九
ると、中の宮は、「きまりわるいと思わせ申しあげようと 私も引き移ることになっておりますので、親しい同士は夜 はまったく考えておりませんけれども、どうしたことでご中暁でも行き来するもの、などと俗にそれらしき者たちが き、いましょ , つか、 1 刄分もいつものよ , つではなく、こ , っして 口にしているようですが、そんなふうにでも、何事かがご 取り乱した心地では、ますますはきはきしない失礼なことざいました折にはお心やすくご相談くださいましたら、こ も申しあげるのではないかと、気がひけまして」などと、 の世に長らえておりますかぎりは、何かと申しあげもし承 いかにも困っておられるような御面持でいらっしやるけれ りもして過したいと存じておりますが、しかがおばしめさ ども、「このままではあまりにお気の毒でございます」なれましようか。世にある人の心はさまざまなものでござい ますから、かえってご迷惑かなどとも存じまして、ひとり どと女房たちが誰彼となくお勧め申すので、中の襖の入口 でご対面になられる。 決めもいたしかねますがと申しあげられると、中の宮は、 「この山里を離れたくないと思う気持も深うございますが、 中納言は、まったく気おくれしたくなるくらいに優美な この山里から遠のいてご近所になどと仰せになりますにつ 感じで、それにまた、しばらくお逢いしない間こ し今度は一 けても、あれやこれやと心が乱れまして、ご返事の申しあ 段とご立派におなりになったものよと、目も見張るばかり にお美しくなられて、そのまたとないお心づかいなど、な げようもございません」などと、言葉もとぎれがちにたい そうもの悲しくうち沈んでいらっしやる御面持など、まっ んとすばらしいお方か、とばかりお見えになるので、中の たく姉宮そのままに似通っていらっしやるので、中納一言は、 宮は、片時も面影をお忘れにならぬ姉君の御事をまでお思 蕨 い出しになって、しみじみと胸の迫る思いでこの君のお姿自分からこの女宮を他人のものにしてしまったのだと思う と、ほんとに悔まれてならぬお気持になっていらっしやる を拝していらっしやる。中納言は、「お聞きいただきたい けれども、今となってはどうにもならないことであるから、 お話は尽きることなくございますが、今日はご遠慮申すべ あの夜のことはいささかも口にせす、もうきれいに忘れて 四きでございましよう」などとお言いさしになっては、「お やしき ましばらくしましてから しまったのかしらと思われるくらいに、さつばりとふるま 移りあそばすお邸のお近くに、、
さっているお、いのはども悲しゅうございます ) 寄せてお与えになる。心細い山里住いであるけれど、この ようなお見舞が絶えなかったので、この尼君も身分のわり どこまでも古風な詠みくちであるけれども、風情のない歌 っとめ にはほんとに見苦しくなく、心静かに仏前のお勤行に励ん ではないので、中納言はいくらか慰められるお気持になら 語 れるのであった。 物でいたのだった。木枯しが堪えがたいまでに吹き抜けてい こずえ 氏 くので、梢に残る木の葉もなく、みな地上に散り敷いてい 〔三五〕薫、宇治の邸の件中納言が宮の御方へ紅葉をおあげに 源 もみじ で中の君と消息を交すなると、そこにちょうど男宮がおい る紅葉を踏み分けて出入りする足跡もないのを見渡して、 中納言はすぐにはお立ち出でになるお気持にもなれない。 でになっている折なのだった。「南の宮から」と申して、 ふぜい みやまぎ まことに風情のある深山木に宿っている蔦の葉の色がまだ使者がなんの気なしに持ってまいったので、女君は、、 褪せずに残っている。そのこだになどを少し引き取らせな ものように面倒な文言でもありはしまいかと当惑していら みやげ さって、宮の御方へのお土産にするおつもりらしく、これ っしやるけれども、宮の目前でとり隠すこともおできにな を持たせてお帰りになる。 らない。宮は、「みごとな蔦ですね」と意味ありげにおっ やどり木と思ひいでずは木のもとの旅寝もいかにさびしやって、お取り寄せになってごらんになる。中納言から しからまし のお手紙には、 ( 昔宿ったことがあるという懐かしい思い出がないのだった 近ごろはいかがお過しでいらっしゃいましようか。山里 ら、この深山木の下の旅寝もどんなにか寂しいものとなろ へ行っておりまして、ひとしお深い峰の朝霧に憂いの尽 う ) きせぬ思いをいたしましたが、そのお話もいずれお目に と中納言が独り言をおっしやるのを聞いて、尼君は、 かかって申しあげましよう。あちらの寝殿を御堂に造り くちき あじゃり 荒れはつる朽木のもとをやどり木と思ひおきけるほど 変える手はずは阿闍梨に依頼しておきました。あなた様 の悲しさ からお許しをいただいたうえで、建物をよそへ移すこと ( 荒れはてた朽木のような尼の住いを、昔の宿と覚えてくだ も取り計らうことにいたしましよう。弁の尼にしかるべ った
げれば、そんなことかと、きっとがっかりなさいましょ , っ はないように思われました。母親はこの娘をどう扱ったら に」とおっしやるので、中納言は、「亡きお方の魂のあり よいものかと悩んでいたようですが、山里の本尊になると かを尋ねるためとあらば、この世を捨てて海の中へなりと いうのでしたらまったくこのうえもない幸せでしようけれ ニロ 物心のかぎり捜し求めもいたしましようものを、そのお話し ど、しかしまあとてもそこまでは」などとお申しあげにな 氏 る。 のお人がそれほど心をお寄せしてよいお方ではないにして 源 も、ほんとにこのように慰めるすべもない気持でおります 女君がうわべはさりげない様子をしていて、その内心で ひとがた のよりはと、そのつもりになってまいりました。人形の願は自分がこうしてわずらわしくつきまとうのをなんとか振 いの程度には、そのお人をあの山里の本尊にと考えさせて り切ってしまいたいと思っていらっしやるのだと、それが いただいてもよいではございませんか。やはりはっきりと見え見えであるのも、中納言には恨めしく思われるものの、 お教えくださいまし」と、性急にご催促申しあげる。女君なんといってもやはりその心がいたわしく感じられる。女 は、「さあどういたしましよう、亡き父宮もお認めになら君が相手の気持をけしからぬこととは深くお思いになりな なかった人のことを、こうまでお耳にお入れ申しあげますがらも、あからさまにきまりのわるい思いをさせるような のもほんとにロの軽いことではございますけれど、変化の お仕打ちをなさりかねておられるのも、やはりこの自分の たくみ 工匠をお求めになるお気持がおいたわしくて、こうもお話気持をよくお分りになっていらっしやるからなのだと思う し申しあげたのですが」とおっしやって、「まことに遠い と中納言は胸がときめくが、夜もたいそう更けていくのに、 いなか 田舎で長年過しておりましたのを、母親にあたる人が嘆か 御簾の内の女君は、女房たちの手前もじっさい恥ずかしく ふびん わしいことと不憫がって、無理にこちらを頼りにしてまい お感じになって、中納言の油断を見て奥のほうへ入ってお ったのでしたが、すげない応対もいたしかねておりました しまいになったので、男君としては、それも無理からぬと ところ本人が訪ねてまいったのです。ほんのちらと見たせ はよくよく思うけれど、やはりじつに恨めしくもあり残念 いでしようか、万事、想像しておりましたよりは見苦しく でもあって、抑えようにも抑えるすべもない心地がして涙
かにも当てにならぬお、いと思いながらも、おそばにいると るようだけれど、もしも姉君がご存命だったとしたら、や 格別薄情そうなお扱いもなく、心底からかたく約束してく はりまたこの自分と同じようにお悩みになることが起った ださったのに、それがにわかにお気持をお変えになるのだ かもしれない。どうかそんなめにはあうまいと深くお思い 語 物ったら、どうして自分は平気でいられよう。普通の臣下の つめになって、ああもしこうもして中納言の君から離れよ 氏 者の夫婦仲などのように、これですっかり縁が切れてしま うとお考えになって、尼になろうとしていらっしやったで 源 うなどということはないにしても、どんなにか気の休まら はないか。生きておられたなら、きっとそうなっていらっ ぬことが多くなることだろう。やはり自分はまことにった しやっただろうに。今にして思えば、なんという思慮深い みたま ない身の上のようだから、結局のところは山里へ戻ってい お心構えというものだったろう。亡き御魂たちも、今ごろ かなければならないだろう」とお思いになるにつけても、 私をどんなにかこのうえなく軽はずみな者とごらんになっ 「このままあの地に身を隠すというだけならまだしも、こ ておられることだろう」と、面目なく悲しくお思いになる の自分が戻っていくのを山里の人たちが待ち迎えてどう思 けれども、「なんの、どうせいまさらかいのないことなの うだろうか、それがもの笑いの種にちがいなかろう」と、 に、このような気持をどうして宮にはお見せ申されよう いおり しんばう 亡き父宮の御遺言にそむいてあの草の庵を出てきてしまっ か」とじっと辛抱して、何も聞かなかったふりをして過し た軽率さを、つくづく恥ずかしくも情けなくも思い吾らずていらっしやる。 にはいらっしゃれない 宮は、常にましてしみじみとやさしく、起き臥しにつけ 「亡き姫君は、うわべはいかにもはきはきせず頼りなさそ てお約束なさっては、この世ばかりか来世までも幾久しく うにばかり何かにつけてお考えになり、またそうしたおっ 変らぬ心を頼みにしてほしいとばかりお申しあげになる。 しやりかたをなさったものの、心の底のしつかりしたとこ じつは、女君はこの五月ごろからただならぬお体になられ ろはこのうえもないお方ではいらっしやった。中納言の君て、ご気分のすぐれない折もおありなのだった。ひどく苦 しがったりなどはなさらないけれども、常よりもお召しあ がいまだにお忘れになれそうもなく嘆き続けていらっしゃ