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検索対象: 完訳日本の古典 第25巻 夜の寝覚(一)
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1. 完訳日本の古典 第25巻 夜の寝覚(一)

いとおしく悲しいので、積りに積った胸の思いも言葉に出す』と申しあげてください」と言うのを聞いて大納言は、 何とも言いようがないほど辛く、「これは、ひどい。あれ して言うことができず、ただ涙にむせ返るのを、姫君は、 あの夜にも劣らず、ひどく恐ろしいことに思われて、大納をお聞きなさい。かまうものか、私はこのまま動きません よーと色をなす、その言葉も果てぬうちに、「大納言様、 言にびったりと一つに抱きすくめられて、汗と涙でぐっし お願いですから、今夜はお帰りになってくださいませ。こ よりとなり気を失いかけている様子、それがまた大納言に はたまらなくいとおしく、かわいらしいのを、まだ何ともれから先いつでも、このくらいの暇ならば : : : 」と、対の いとま 君は困りきって気をもむので、「一応の返事をしておけば なだめ慰める暇もないうちに、あちらの方から、「ただ今、 しやく よいものを」と、ひどく憎くもあり、癪にもさわるのだが、 北の方様がお湯殿からお上がりあそばして、『今日は中の しばらくして、北の方がお越しになるというので、はや、 君の御気分はいかがでいらっしゃいましよう。たいへん心 おもて きぬ さやさやと衣ずれの音が近く聞えるのを、「わざと事を表 配ですので、苦しそうになさっておられるなら伺いましょ 沙汰にしようとお思いになるからこそ、お越しくださいと う。それほどお悪い御様子でなければ、今夜は寝むことに いたしましよう。御様子をしかとおうかがいして来るようおっしやっているのだろう。どうして出たりするものか」 に』との仰せです」と言う声が聞える。大納言は、「『御気と、だだをこねながらも、大納言は、中の君の御様子が、 ほんとうに消え果ててしまいそうなのが心苦しくて、いっ 分は、今日はよろしくていらっしゃいます。お寝みくださ までも共にありたい思いにかられながら別れ行く時、まこ いますよう』など答えてくれればよいが : : : 」と願い、ま とわが身を裂いて残して行くような気持のまま、南のかど た、「そう答えるだろう」と期待してお聞きになっている ちょうだい ちょうだい から帳台を出て、隅の間の部屋の内にお人りになって、少 と、対の君は、大納言が帳台からお出になりそうな気配の 巻 ないのに困りはてて、「『いつもよりも、今日はたいそう苦将が、人目につかないようにお通りになる道を暗くしよう もすそ とのあぶら として、御殿油の灯を加減しようと立った、その裳の裾を しそうでいらっしゃいます。やはりお越しくださいませ。 見舞ってさしあげてくださいませ。まことに困っておりまっかんで引っ張ったので、少将が近寄ったところを、部屋

2. 完訳日本の古典 第25巻 夜の寝覚(一)

みやづか 念じて、中宮に申して召し取らせたてまつりて、宮仕ひざまにて見む。さだに一 = 「かたは ( 片端 ) なり」は、見苦 しい、不体裁である、の意。 いざな はな 出で離れなば、ほかに誘ひ出でなどして、また思ひ増すかたなき心のとまりに一四「中宮」は、帝の后の称。現在 の中宮は関白の娘で、中納言の同 て、さるわたくしものに忍びて見む。さては人の耳立つべきことにもあらず。母妹。↓一六。 女房として出仕させたうえで、 みやづかびと みかど 一七 うねべ 采女を召す帝は、なくやはありける。これはまして、宮仕へ人を限りなくもて恋人にしようというのである。 一六「采女」は、諸国から宮中に召 むすめ なし思はむ、咎にもあらず。さのみこそはあれ。ただ女にては、くだれる窓のされた女官。帝が采女を愛された 話は『大和物語』などにも見える。 宅臣下である私の場合はまして。 うちに忍びて通はむこそ、いと見苦しかるべけれ」と、おぼしなりぬ。 穴十七日。中の君の物忌の当日。 けふ 今日かならず内に参りたまふべければ、いそぎ帰りたまふとても、竹のうち一九「げに・ : べし」は挿入句。 ニ 0 物忌の最中に恋文を送るのも きゃう 一九ものいみ へ人りて見たまへば、げに物忌かたかるべし、格子どもみな下ろして、経の声心ない仕打と思うが。「こそ・ : 已 然形」は強調、逆接。 せうそこ なさけ = 一「うひうひし」は、初心者めい のみぞ聞こゆる。「情なきゃうにこそ思へ、誰ともなくて消息せばや」と思へ て気恥ずかしい意。 たた ど、人寄るべくもあらぬに、打ち叩かせむもうひうひしくて、おぼっかななが = = 菅原道真の「君が住む宿の木 末の行く行くとかくるるまでにか やどこず へりみしはや」 ( 拾遺・別 ) を踏んだ ら帰りたまひぬ。宿の木末は、げに隠るるまでぞ、返り見られたまひける。 表現。「げに」で引歌表現であるこ おきおとど けふ とを示している。 殿におはし着きて、太政大殿に、今日、はじめて御文きこ 〔一巴中納言心ならすも 一三太政大臣家の大君へ。 ニ四 巻大君に初めて消息する 品中納言の父関白が。 えたまふべき日とらせたまひて、そそのかしきこえたまへ ニ五「今宵ーは今夜の意が普通だが、 ば、「恥づかしきあたりを」と、いたく用意して筆取り心みわたしたまふも、今昨夜から今朝までの時間にもいう。 一四 とが た かうし ふみ

3. 完訳日本の古典 第25巻 夜の寝覚(一)

8 けふ こえぬに思ひわびて、「『つねよりも、今日はいと苦しげになむ。なほ渡らせた = 大納言の心中表現。「中の君 の御気分は、今日はよろしくてい まへ。見たてまつらせたまへ。いとわりなくなむ』と申したまへ」と言ふを聞らっしゃいます。お寝みください ませ」など答えてほしい。 みちょうだい くに、言はむかたなくいみじければ、「あな、いみじ。かれ聞きたまへ。さは一 = 大納言が中の君の御帳台から お出になりそうな気配のないのに れ、ただかくてはべらむよ」と言ひあへたまはず、「あが君、今宵は出でさせ困りはてて。 三かまうものか、私はこのまま ひま 一五 こうしておりますよ。「さはれ」は たまひね。いつも、かばかりの隙は」と、焦られわぶれば、「さてありぬべか 「さはあれ」の約。 一四対の君の言葉。大納言に退室 りつることを」と、いといみじく憎く、心もっきなけれど、とばかりありて、 を懇願するのである。 あらは おと 渡らせたまふとて、うちそよめく音の近く聞こゆるに、「ことさらに現してむ贏大納言の心。一応の返事をし ておけばよかったものを、の気持。 とおぼせばこそ、渡りたまへ、とのたまふらめ。なにかまかり出でむ」と、あ一六北の方がこちらにお越しにな るというので。 やにくがりながら、女の御気色の、まことに消えはてぬばかりなるが心苦しさ宅以下、対の君の応対を責める 大納言の言葉。 一九 に、飽かず引き別るるほど、まことに身を分かちとどむる心地ながら、南のそ穴出て行ったりするものか、の ニ 0 気持。反語表現。 ざうし すみま ばより出でて、隅の間の曹司の内に人りたまひて、少将が、渡りたまふべき道一九「そば」は、物のかど。 ニ 0 「曹司」は、部屋。 もすそ とのあぶらか ニ一少将が、人目につかないよう 暗くなすとて、御殿油掻き直すとて立ちたる裳の裾を、取りて引きたれば、 に大納言がお通りになる道を暗く さし寄りたるを、曹司の内へ引き人れて、対の君の今宵のあさましさを言ひ遣しようとして、御殿油の灯を加減 しようと立った、その裳のを。 うっしごころ りたまはず、泣く泣く、「今は現心もなくなむなりにたれば、人の聞き思はむ = = 少将が近くに寄ったのを。 わ い 一四 一七

4. 完訳日本の古典 第25巻 夜の寝覚(一)

れて、手紙をさえ数多くは遣わしません。自分では、『私 い思いは我慢できそうにもない。激しく嘆かずにおれない 2 は私。外聞なんか』と思っても、『あんな人の娘をひどく 心のやましさに、「中将がどう気を回すだろう」と思う恥 けそう とりざた 懸想しているそうだ』などと、まことしやかに取沙汰されずかしさを言い紛らわして、「まことに行き届いたお考え 寝る風評が、数ならぬ私のような身分の者にとってもやはり ですね。面倒を起さず、恋愛の機徴を極めたお心よと感心 の やりきれなく存じまして、あの娘との交際は絶ってしまっ してうかがっておりました」と、ほほえんでおっしやると、 夜 たのです」と語る宮の中将の自負の強さ、ーー女を想う気中将は中将で、「どうして今夜に限ってそんなふうにお尋 持のうえで中納言よりはるかに遠いと言わねばなるまい。 ねになったのでしよう」などと不審がる、こんな具合に、 「まあ気の毒に。どんな身分だというので、そんなにひど たわいもない話を、何やかやと言い紛らわして、二人は夜 みくだ く見下されているのでしよう。女のほうでは正妻に次ぐ愛をお明かしになった。しかし、ひとり中納言の胸の内は、 人にでもと期待する心があったかもしれませんよ」と、中明けるどころか、恋慕の闇に苦しく閉ざされるばかりだっ た。 納言はさりげなくとりなすが、内心には、「これは見識だ。 ものいみ この人は、まるで私が考えるとおりに筋の立っ話をするこ 〔一 0 問わせても九条の「今日も物忌だろうか」と九条の女 とだ。やはり優れた男だな。それにしても、この人でさえ、隣家にすそに人なし がお心にかかると、もう「中宮がた 同じ考えだったなあ。ほんとうに、今夜一晩明かすだけで いへん関心をお寄せなのに : 。今日は物忌も終っている ゆきより も、苦しくどうしてよいかわからないくらいだが、自分の だろう」と御自分の期待のほうが先に走って、行頼に隣の けさ 名を知られて尋ねあぐみ、かかずらいまごっくというのも、様子をお聞せになると、「今朝、明け方に帰りました様子 まことに人の聞えが軽々しく、具合が悪いことだろう。よ でございます。娘の兄が迎えに参っておりました。たいそ なの くぞ情に任せて名告ったりしなかったものだ。この中将が う早くまだ暗いうちに帰って行く音がいたしました。その うわさ こうし そんな噂を聞いたら、さぞ軽蔑したに違いない、そう思う後見ましたところ、格子もすっかり下ろして、誰もおりま しず だけでも恥ずかしい」と、心を鎮め固めてはみても、恋し せんでした」と申しあげる。「娘は私のことを宮の中将と ( 原文三七 )

5. 完訳日本の古典 第25巻 夜の寝覚(一)

( 原文一一三 ) です。お出でにならないのを、薄情だ、などと誰も思うは の御様子を、はっきり確かめてから京にお戻りなさい。ど ずがありません。大納言殿がもしこちらにお出かけになろ ちらに転んでも今夜じゅうにきっとはっきりすると思う』 うとされたら、必ず必ず、お前がお止めせよ』と、おっし と、宰相がおっしゃいましたので、とどまっておりました とりし J を、 ゃいました」と報告すると、大納言は目の前が明るくなる ところ、酉の刻ごろでございます、『母子ともに御無事で、 思いだが、今度はこの目で様子が見たく、遠く場所を隔て 女の御子でいらっしゃいます』と、承りました。その間私 ているいらだちをどう抑えることもできなかった。 は、狭い場所に隠し置かれまして、心配に精根を使い果し あんど ました。無事に御出産があって、しばらくして、また、 〔一三〕大納言母子の身を大納言は、今日は心から安堵の思い 案じ頻繁に便りするに気持も和むのだが、ただ一つ石山 『意識がなくなられました』と言って騒いだことでしたが、 その後は、変ったこともおありにならないようです。宰相のその後の様子だけが気にかかって不安で、といって事実 うるさい人目を避けてお出かけになるすべもなく、辛くお が、『夜が明けてから帰参せよ』とおっしやってください ましたが、『どうしてそのようなことが・ 。主人が心配 思いになるばかり。今日の暁に石山にお遣わしになった使 いの者が、夕方、手紙を持って戻って来た。中将からのも に思っておられることでしよう』と申しますと、『非常な ので、 折とて、お手紙は書いておられません。お前が報告してく ゆきよりあそん 「詳しいことは、行頼の朝臣が、申しあげていることと れるなら同じこと。この後どうなるかはわからぬが、ただ 思います。その後、変ったことはございません。ここ幾 今のところ、無事でおいでのようですので、今までの苦労 月の間衰弱を重ねた中の君のことは、いつもの容態のま はすべて忘れてしまった気がしております。大納言殿は、 まですが、御子の愛らしい御様子に、すっかり気持を明 決して、お出でになろうとはお考えくださいますな。私は 巻 るくしております。明日、出る予定でおりますので、細 明後日の暁には、ここを出ることになっておりますので、 かなことは、私自身が直接お話し申しあげましよう」 その折に私自身が詳しく申しあげましよう。道中、下賤の と書いてある。お読みになるうちに思わずほほえみが浮ん 者の見る目も軽々しいお忍び歩きは、もってのほかのこと げせん

6. 完訳日本の古典 第25巻 夜の寝覚(一)

夜の寝覚 一別人のように細く弱々しくな とまろに、うつくしう肥えたりし手あたりの、ひきかへたるやうに細くあえか ってしまって。このあたりから になりたるに、腹いとふくらかなるを、はかなく引き結はれたる手あたりなど、「・ : 世のつねの心地せじを、まい て」あたりまでは地の文的。 あ 慎むことなし。明け暮れ見むにてだに、かかる人をまだ近くては見ざりつるに、 = 腹帯でく結ばれている手当 りなど、身重の様子は隠れようも ここち ない。 めづらしく、世のつねの心地せじを、まいて、あないみじ、これをさりげなく 三明け暮れ世話のできる場合で もて紛らはす心地、いかに、げにいみじくわびしかるらむ」と思ふさへ、あはさえ。「めづらしく : こにかかる。 妊娠している女性をいう。 や = 大納言に抱きすくめられてび れに悲しくいみじきに、ここら思ひ積もることも言ひ遣るかたなく、むせかへ ったりと一つになって。「まろが る」は、丸くなる、一つになる意。 るを、姫君は、ありし夜にも劣らず、そら恐ろしくいみじきに、一つにまろが 六流れる汗と涙で体が浮き出し けしき れて、汗と涙とに浮かび出でぬばかりの気色に消えかへりたるさま、言ひ知らてしまうばかりの体で気を失いか けている様子は。 ずあはれげに、うつくしきを、こしらへやらぬほどに、あなたより、「ただ今、セ大納言が中の君をなだめ慰め る言葉も尽さぬうちに。「こしら 御湯より上がらせたまひて、『今日は御心地いかがおはしますらむ。いとおぼふ」は、なだめる、言い繕う意。 このあたりまで大納言にも中の君 つかなきを、苦しげにせさせたまはば参り来む。よろしくものせさせたまはば、にも敬語が省略されている。二人 だけの切迫した場面のゆえか。 ありさま こよひ 今宵はうちやすみはべりなむ。御有様たしかに承りて』」と言ふなり。「『御心 ^ 北の方様 ( 大君 ) が御湯殿から お上がりあそばして。 こた けふ 地、今日はよろしくなむ。うちやすませたまひてを』など答へよかし」と思ふ九以下大君からの見舞の伝言。 一 0 「なり」は伝聞。使いの女房の たい に、また、「さぞ言はむ」と聞きたまふに、対の君、出でたまふべき気色の聞声が大納言に聞えるのである。 つつ よ っ

7. 完訳日本の古典 第25巻 夜の寝覚(一)

やまぢ けふあす 一中の君を連れ出す計画をいう。 「かの事、今日明日の程にも。世の憂きめ見えぬ山路をなむ尋ね出でたる」 一一「世の憂きめ見えぬ山路」↓一 四 と言ひやりたまへど、日に添へて憂さのみまさる世なれば、なにのあはれも醒〇九注一七。ここは隠れ家をいう。 三少将のもとに言っておやりに なったが。 寝めて、御返りもせず。あやしく、おぼっかなしとおぼす。 の 『校注』は、「日にそへて憂さ 夜 のみまさる世の中に心つくしの身 いと忍びやかに広沢に渡りたまふに、「音なからむもいか 〔五 0 〕中の君昔を偲び、 をいかにせむ」 ( 落窪物語・巻一 ) を どこちれい 涙のうちに広沢へ赴く が」とおぼせば、知らず顔にて、「日ごろ、乱り心地も例踏む表現とする。 五恋のあわれも何もみな醒めて、 けふ ならずはべるに、寺より、『渡れ』とはべれば、今日なむーと、大納言殿の上少将はご返事もしないのである。 六大納言は。 たいめん にきこえたまへれど、御返りもきこえたまはず。まいて、渡り、対面しなどは、セ中の君は。 ^ 同じ邸内にいる姉君にご挨拶 思ひ寄らずなりぬるを、ことわりながら、「人の御心の憂きもつらきも、げにしないのもどうか、の気持。 九日ごろ悪口を言われているの はし 我から」と、忍びがたくて、起き上がりて、車など寄するほど、端に出でて見も知らないふうに装って。 一 0 広沢の父人道の住い。御堂を ここち けふ 渡したまへれば、今日を限る心地して、なにの草木も目とまるに、年ごろあの中心にみて「寺」といったもの。 一一大君が中の君の部屋にお越し おもかげ あ こうへ 御方ともろともに、明け暮れながめつつ、故上の御面影の我は覚えぬを、言ひになって対面することなどは。 一ニ「海人の刈る藻に住む虫のわ ことね 出でなどしたまひつつ、月をも花をももろともにもてあそび、琴の音をも同じれからと音をこそ泣かめ世をば恨 みじ」 ( 古今・恋五藤原直子 ) を踏 心に掻き合はせつつ過ぎにし昔の、恋しきに、「残りなく飽き果てられぬる世まえた表現。 一三今日が見おさめの気がして。 一七 なれば、いよいよ山より山にこそ人りまさらめ。またしも帰り見じかし」とお一四姉大君をさす。 しの 六 一五 うへ あいさっ

8. 完訳日本の古典 第25巻 夜の寝覚(一)

い時に、ひそかに姫君を偲んでおいでなのが、お気の毒で らなくなったのを、その冷たさも無理からぬことではある : 』などと、話しておりました」と申しあげる。その言 が、「姉上のお心の辛さも冷たさも、ほんに、私のことか 葉をお聞きになるや、はらはらと涙を落して、「そのよう ら : : : 」と、悲しさに堪えず、起き上がって、車などを寄 になりと思ってくれるのなら、私から離れることはできなせる間、縁先に出て外を御覧になると、今日が見おさめの いだろう。この子を、気兼なく見たいと思わないはずはな ような気がして、何ということもない草や木にも目がとま い」と、先行きが頼もしく感じられてきて、 るにつけて、これまでの年月いつも姉君といっしょに、朝 なが 「例の計画、今日明日のうちにもと思います。辛い思い晩この景色を眺めながら、自分は覚えていない亡き母上の をしないですむ隠れ家を見つけ出しました」 面影を、お言い出しなどなさっては、月をも花をも共に愛 と言っておやりになったが、中の君のほうでは、日ごとに で楽しみ、琴も心を合せて合奏しながら暮してきた昔が、 きら いやなことばかりが積る世の中なので、恋のあわれも何も恋しくて、「すっかり嫌われぬいた身の上なのだ。広沢に みな醒めて、御返事どころではない。大納言は、さつばり 行ったらますます山に深く入ってしまおう。二度とここに 訳がわからず、あちらの態度を不安にお思いになる。 戻って見ることはあるまい」とお思いになると、池に浮ぶ つがい うらや 〔五 0 〕中の君昔を偲び、中の君は、ごくお忍びで広沢にお移水鳥が、昔に変らず仲よく番で遊んでいるのも羨ましく、 あいさっ 涙のうちに広沢へ赴くりになるのだが、「御挨拶しないの ただもう涙にくれながら、 もどんなものか」とお思いになるので、何も知らぬふうに 立ちも居もはねをならべしむら鳥のかかる別れを思ひ さりげなく、「日ごろ、気分もすぐれずにおりましたとこ かけきや ( 立つにつけ座るにつけ、いつも仲よく一緒に暮していた私 ろ、父上から、『こちらに来なさい』と言ってまいりまし 巻 たちが、こんな辛い別れをしようとは田 5 ってもみないことだ たので、今日参ります」と、大納言の北の方に消息なさっ った ) たが、北の方のほうでは御返事もなさらない。まして、中 の君の部屋に出向いて、顔を合せることなどは、思いもよ 自分の身の上が、どれ一つ現実の手ごたえがなく、まるで しの しの

9. 完訳日本の古典 第25巻 夜の寝覚(一)

の誤り ) 。父右大臣 ( 男君 ) や祖父入道の喜びは並ひと通りでない ( 〔原〕一九四・二〇六など ) 。寝覚の上も にが かんきみ 付き添って、再び宮中に参内したことと思われるが、かっての督の君人内の折の苦い経験はあり ( 〔原〕四 ちゅうちょ 覚一蓍以下 ) 、帝の執心と夫右大臣の嫉妬の深さを知るだけに、参内は躊躇されたに違いない ( 〔改〕 ) 。東宮の の愛はひとり石山の姫君に注がれ、やがて帝の退位、東宮の即位、石山の姫君の立后、督の君の若宮の立太子 夜 が続く ( 〔無〕〔改〕 ) 。 じゅんこう 今や、寝覚の上は中宮の母、東宮の祖母である。右大臣は関白に進み、寝覚の上自身も准后と呼ばれる ( 〔風〕 ) 。この「后の宮、春宮など一度に立ちたまふ折」には、寝覚の上も喜びを禁じ得ず、 ねざめせし昔のことも忘られて今日のまどゐにゆく心かな ( 〔無〕 ) とうび と詠んだという。現存巻五掉尾の述懐にもうかがえる彼女の絶望的な孤愁の心境と、この満足感表明との違 和感から、『夜の寝覚』の主題は第三部で完結したもの、第四部はすでに主題を放棄した読者奉仕のための 続編にすぎぬ、との見解もあるのだが、ここは、女主人公の、母としての心が表面に立ったものと考えてよ たた いであろう。「この時の御ありさまどもいとめでたし」と一家一門の栄光を讃え、男女主人公の喜びの唱和 の後、首尾照応の言を添えてただちに物語を終えるのは改作本である。めでたき物語への改変、縮少こそ改 作本の目標であった。しかし、原作は違うのである。「ねざめせし昔のことも忘られて」と、母としての喜 びを詠む、それだけでも「いとにくし」 ( 〔無〕 ) と批判されるのが原作における女主人公なのである。寝覚 の上の境涯はどこまでも「夜の寝覚め絶ゆる世なく」 ( 〔原〕二六五 ) でなければならない。物語はさらに 祝く。 彼女の心の世界で、さらに第三部を発展させるものとしては「母としての心」の掘り起し以外ないであろ

10. 完訳日本の古典 第25巻 夜の寝覚(一)

後冷泉天皇の康平二、三年 ( 一 9 九、六 0) の頃とされているから、孝標女作説が正しければ、およそ十一世紀 の後半、『更級日記』に近接する時期の成立ということになろう。 『夜の寝覚』孝標女作説の根拠は、藤原定家筆『更級日記』の奥書である。 ひたちのかみすかはらのたかすゑ のむすめの日記也母倫寧朝臣女 傅のとのゝはゝうへのめひ也 よはのねさめみつのはまゝっ みつからくゆるあさくらなとは この日記の人のつくられたる とそ しきご と、定家の識語が記されているのである。この識語が、「とぞ」という伝聞形式であるだけに、どこまで定 家自身の認定がこめられているものか、解釈の余地も残るが、ともかくも、偉大な古典学者でもあった藤原 よはねざめ 定家が奥書に記すほど、鎌倉時代に信頼された伝承であったと思われる。奥書にいう『夜半の寝覚』は『夜 はままっ 説の寝覚』のことであり、さらに『寝覚』とも呼ばれている。また、『みつの浜松』は『浜松中納言物語』の みづか こと、『自らくゆる』『朝倉』両物語は今日では散佚している。 たかすえの 解果して『夜の寝覚』が『浜松中納言』や『自らくゆる』『朝倉』などとともに、『更級日記』の著者孝標 むすめ 女が書いたものかどうか。もし書いたとすれば、これら四作品成立の先後、あるいは『更級日記』との先後 はいかに。現在まで、多くの研究がここに集中したのも当然であろう。しかし、今日なお、定家の奥書をさ あさくら