341 巻四 ( 原文一〇九 ) とうかゼん とあり、中に帝のお手紙が入っているのを、一目見るなり、 ろへ、登花殿からお手紙があった。 〔き帝の文に内大臣のすぐに寝覚の上の御前に取り出すこ内大臣ははや胸がつぶれる思いだが、帝のこの世はおろか 心また不安に揺れるともならず、少将がそれとなく気配来世をかけて恨みの限りをお尽しになっておられる御様子 は、とても拝見しておられないくらいまことに畏れ多く で知らせるのをお聞きになって、内大臣は、「こちらへ」 ぶあっ 「絶えぬべき命のなほも惜しきかな人に負けじと思ふ とお取り寄せになってみると、お手紙はたいそう分厚に包 ばかりに まれてある。解いて御覧になると、 ( あなた恋しさに私の命は絶えてしまいそうだが、そんな命 「夜の間がなんとも心細くて、母上からお離れ申しては がやはりなお惜しまれてならない。あなたの情のこわさに負 とてもいられませんから、里に下がりたいと思います」 けまいと思う一心で : : : ) など、いじらしくこまごまとしたためて、 この身のある限り、あなたを忘れることはできない」と、 「いにしへもかくやは物を思ひけむえも言ひ知らぬ心 のろ 憂いをたたえ、呪いの心を漏すまでお書きあそばしている 地こそすれ ( 昔の人もこんなふうに物思いをしたのでしようか。私には文面に、内大臣は、「女の身で、これほどまでの帝の御愛 生れて初めての心細さで、もう言葉では言い表せない思いで情が、わからない、身にしみて感じないということが、ど おります ) うしてあろう。帝の、お顔だちといい御様子といい、まこ 母上がたいそう憂鬱そうに沈みきってしまわれて、御退とに気高く優雅であられ、情は深くいかにも優れておいで みかど だ。お手紙の書きぶりも、ほんとうに、これほど水茎のあ 出になったのを承知していますので、そこへ帝の仰せ言 と麗しく、畏れ多いお言葉を尽しておられるのだ。帝のお をお伝え申しあげるのも気が重うございますが、今朝、 帝がお越しあそばされて、とてもお断りできないまでに立場、 , ー・至尊至高の御身であられるのはいうまでもない、 だから帝にこうしたお心がない場合にも、ただ帝をほのか きつくお命じになり、母上にさしあげるようにとのこと に拝しただけの女性で、少しでも物のわきまえのある女な でございますので : : : 」 おそ
いよひどいと離れて行かれるように見える。これでは私の い帝のお心を見知らぬなどということがあるのでしよう いたわりがまったくばからしくなるではありませんか か」と、お気持をおなだめしようと努める言葉に、帝もた 『気の毒だ』とも、『お心がうれしい。お思いやりを感じ いそう気の毒に思われてきて、「それだけでもわかってく る』とも思ってくださりそうもありませんね。あなたがそ ださるのなら、そのお気持に命を替えた思いで、私は、気 のおつもりなら、私はただ思いどおりにするだけのことだ。 のいいばか者と世間から笑われてもかまわない」と、手を そうしたところで、ほんとうは、別に何の遠慮もないはずおゆるめになったので、寝覚の上は気ばかり張りつめて混 だ」と、次第に語気荒くお責めになるので、寝覚の上は、 乱していた心を無理にも整えこしらえて、帝が果てること わずかに人心地を取り戻しかけていたところ、またまた気なく恨み言をお続けになる御返事なども口にされるのだっ なび が遠くなる思いで、春風に靡き乱れるしだれ柳にさも似て、 たが、それをまた帝はまだ経験ないほどに、愛らしくお思 弱々しく揺れあえぎながらも、さすがにしんは強く、帝に いになって、またの逢瀬を頼みにお約束なさりながら、誰 許そうとはしない。 が聞いてもあまりにも突然なと驚かぬよう、御自分のお気 しず 〔 = 九〕帝ついに思いを果「なんと気丈な。あきれるばかりだ」持をも鎮めて、「それにしても、こうした逢瀬を、世間で おうせ さす後の逢瀬を期すと、帝は心から恨めしく感じておら とんでもないことと激しく非難したり、内大臣もけしから おそ れると、寝覚の上はやっとの思いで、「畏れ多いお心がわ ぬ話だと思うのでしたら、私は『こんな窮屈な位を捨て、 からないのではございませんが、『昔のままの身ーー夫が気楽な身になって、ほかに女を寄せつけず、日夜あなたと 世にある時の私でしたら、こんな、思いもよらぬ有様で、 ともに暮せたら、それ以上の満足はない』という気持にな お目にかかることがどうしてあろうか』と存じますと、た っているのです。あなたがこれにお懲りになって、宮中な 巻 だ涙ばかり流れて言葉にもならないのでございます、それ どに滞在することがめったになくなっておしまいになった いくえ ら、私はもう今年のうちに帝の位をも捨てて、幾重にも雲 を帝が言葉もないとお責めになられるのはほんとうに辛く て : 。どんな木石のような女なら、このようにありがた の重なる山中に分け入ってでも、きっと本望を遂げずには おうせ
( 原文二八 ) 思いつめたお気持を込めて漏されたので、ただでさえ、 は必ず、御本人が来るように計ってください」と念を押さ よそ せいりようゼん せんじ 「何とかして内大臣殿から引き離して、他所に縁づけてしれて、帝は清涼殿にお帰りになった。大皇の宮は、宣旨の まいたい」と、大皇の宮は明け暮れ思っておられるお心だ君にも、「帝があのように仰せられた以上、きっとお越し ないしの から、「故関白の娘に譲って御自分は逃げてしまった内侍になるでしよう。ほかの女房たちには隠して、こっそりと ちょうだい 督といった身分ではなくても、ほんにこうした折に、一度この帳台の中にお入れ申しあげなさい」とお命じになって でも帝が御覧になりさえしたら、必ずや、公然の御仲とは おいて、さて寝覚の上には、「先日まで長いことお宅であ ちょうあい いかないまでも、ひそかに御寵愛になるだろう。そのうちれほど親しくしていただいたので、その名残か、なおのこ には、内大臣も耳にして疎ましく思い、あの人をあきらめ と、胸がつまるほどあなたのことが心にかかりますので、 離れるお気持にもなるに違いない。ここまで娘一の宮のこ ぜひぜひおいでください」と即座に御返事になったので、 とばかり思っている私の心労が晴れる時が来たのか、それ寝覚の上は、「この際は御遠慮しないで伺おう。あのよう で、帝がこうまであの人のことを仰せになり、あの人もま に仰せになるものを、ほんに、愛想なくお断りすることな た、思いも寄らなかった宮中に吸い寄せられるように近づ どどうしてできよう。ちょうどいい折ではあるし」とお思 いて来たというわけなのだろうか」とお思いになると、何いになって、夜がやや更けてから弘徽殿に参上した。 やらうれしさがこみあげて、「まったく、どなたにもお目〔一巴帝、寝覚の上を垣帝は、気もそぞろのお思いで、夜の にかけたいほどの美貌です。帝がそれほどに御覧になりた 間見、美しさに驚嘆闇に紛れてお越しになって、すでに みちょうだい ければ、夜そっとお越しになって、御覧なさいませ。帝の御帳台の中に入っておいでになったことを、寝覚の上はど とのあぶら お成りをそこらの女房たちが知りましたら、自然に事情が うして知り得よう。御殿油がほのかにまたたきともってい きやしゃ かげ 巻 漏れてあちらのお耳に入ることもありましよう。それでは る中に、いかにも華奢で愛らしげに見えて、明るい灯影の とが たぐい 7 あの人にも気が咎めますし、気の毒でもありましよう。ぜ下に類もなく美しく、夜見るという美玉の輝きもかくやと ひごく内密にお越しになって : : : 」とお勧めになる。「でばかり、帝はお心に感嘆の声を放って、吸いつけられたよ かみ はから
ないのだが、今朝は、帝の御前に参上しようとお思いになお方であり、先々代の帝の御孫にあたり、前の関白左大臣 の北の方なのですから、輦車をご許可いただくのに、何の った矢先にこうしたことを耳にし、公務の暇もないままに、 むずかしいことがありましよう。どうもおかしい」とぶつ 立ち寄れずにおいでになるのだが、登花殿の北の方は、 よし 「殿が御参内になりました」と言って若君が入ってこられぶつつぶやいて、その由を督の君を通してお申し人れにな ると、折から内大臣も帝の御前に詰めておられる。 るにつけても、はや、不安に胸の鼓動は高まり、若君が、 故関白殿の妻が、病気のために、退出なさることになっ 成長するにつれて、たいせつに養育されたお姫様などのよ うに気品が添い物柔らかにかわいらしくおなりなのを、御ているが、輦車の勅許をいただきたい旨、登花殿の内侍督 とうべん 覧になりながらも、「まして、もし、帝に隔てなく打ち解が、お願いを届け出ている由を、頭の弁が奏上すると、帝 けてしまっていたら、この子の御ためなども、どんなに気のお顔の色が一瞬お変りになった。内大臣もまた、「一刻 も早く退出させてやりたいもの」と心の内で気をもまれる の毒だったことだろう」などと、ただただ、胸をつかれる が、帝が以前から二人の仲を御存じなので、どうも気がさ 思いで、何回となく途切れることなく恨みを尽される帝か して言葉を添えにくいところを、ひどく気がかりな思いに らのお手紙も、御自身はおろか、督の君が御覧になってお は勝てず、「ご許可あそばしたところで、別に何も、不都 られることまで気がひけて、「どうかして、もうこんなめ 合はございますまい」と申しあげなさると、帝はしばらく にあわないで、早くこの宮中から退出してしまいたいもの だ」と思うと、いたずらに時間がたち日が暮れていくのも押し黙ったままでおられたが、「あの人には、この機会に、 ごんだいなどん いささか私が心に決めていることをきちんと知ってもらっ 心落ち着かず、権大納言が参上されたのを機に、「気分が てから・ : 。私に田 5 うことがあるのだ、それでもうしばら ひどく悪うございますので、今夜にでも、退出したいと思 巻 くと思っている。ともあれ、『今夜は母宮がお下がりにな います」とお話しになると、「まことに、御滞在もずいぶ てぐるま るのであわただしいようだ。特にお悪いというのでなけれ Ⅳん長くなったことです。それにしても、どうして輦車の宣 。あなた様は一世の源氏のば、もう二、三日静養されて、それから退出するように』 旨を、お渋りあそばすのか・ かん
ず、私自身のものとして見るようにしたい」と、そのことれと重なっているうえに、平素でも私が帝にちょっとした もんもん 四ばかりを、一睡もせずに悶々と考え明かされて、「私はあ御返事を差し上げるのなどをさえ、ひどくお止めになるも かげ のを、まして『北の方が帝にじきじきお話し申しあげる』 なたの灯影の姿を見たのだ」と、その時の様子だけでも、 とか などと耳にされたなら、どれほど不快にお思いになりお咎 寝あらわにではなくともお伝えしたいお思いに駆られるが、 の めになることか」と思うにつけても、内大臣にそこまで不 「いやいや、そんななまはんかなかたちで驚かすようなこ 夜 きゼん とはすまい。おおやけの立場を毅然と持して、しばらく退愉快に思われることは、やはり何といってもあじきなく、 出を許さずにおいて、適当な機会を作ることを考えよう」我ながら気にせずにはおられないとお思いになるので、帝 には何かと口実を設けて、直接にはお話しにならぬのを、 と思い返されては我慢なさって、およそほかのことなど念 頭になく、寝覚の上のことばかりお心にかかって、堪えら帝はどうしていいかわからぬほど辛くお思いになって、 「せめて、あの人のいる辺りにでも」と、ただ寝覚の上を れないまでに思いつめられては、何かの折の夕暮時や夜ご とうかぞん 心にかけて、登花殿に昼などもおいでになる。それを、帝 とに、しげしげと登花殿までお越しになられては、「しみ ちょうあい ないしのかみ のお越しこそ内侍督の御寵愛の証拠と受け取って、世間で じみと思い起される昔の話でも申しあげよう」と常に仰せ にようご は大騒ぎしてほめそやす一方、ほかの女御がたの御殿では になるが、寝覚の上は、「人の世の辛さを思い知る気持は ともかく、ほかの考えは何一つあるはずもなかった若い年まことに心外な憂うべきことに思って、どなたも思い乱れ ておられた。 齢で、年のいったお人に行きあって、すつぼりと妻として みかど 家庭に納ってしまった身ですので、帝に対して、ほんの一 〔一凸中宮、寝覚の上を中に、中宮だけは、「帝は確かに内 思う帝の内心を見抜く侍督を素直で、かわいらしいとお気 言のお返事なども、どうして申しあげられましよう」など おそ と、たいそう畏れ多く恥ずかしく、御遠慮申しあげる気持に召してはおられるが、その御寵愛の様子は、三千人の寵 を一身にというほどでもないようにお見受けするのに : をどこまでもくずさず、更には「内大臣殿をあれほど遠ざ このごろ、『妙に気分がすぐれないのは、寿命が尽きたの けてはいるが、普通に言えば切るに切れない縁が、あれこ
ここち に、なかなか死ぬる心地して、物も覚えず。かきくらさるる心惑ひのなかにも、の様子を帝は、の気持。 高帝ご自身も。 おとど 「あないみじ。内の大臣の聞きおぼさむことよ」とは、ふと、覚えて、「あさま一 = なまじ女君をお捕えになった がためのお心の動揺を。 しう、あやしと、御覧じおぼさむことは」とおぼして、汗になりて、水のやう一六年の程。年齢。 宅魅力のない私のせいで。「憂 き我から」は、和歌的表現。 にわななきたる気色、我も、なかなかなる御心惑ひを鎮めさせたまふほど、と 穴聞き分けない幼児のように。 一九寝覚の上が恥じずにはいられ みに物も言はれさせたまはず。 ないふうにお憎みになるけれども。 こころう とばかりおぼし鎮めて、「あな心憂。こは、いとかう物おぼし知るまじきほ = 0 寝覚の上は。 一八 ニ一気持を取り直すこともできず。 ちご 一三帝の心中表現。「こしらふ」は、 どかは。憂き我からは、かくこそ児になり返りたまふ人もありけれ」など、い 一九 なだめる、慰める。「和む」は、の なにごと どかにさせる、落ち着かせる意。 と恥づかしげにあはめさせたまふも、何事も聞き分かれず。人の聞き思はむさ ニ三以下、寝覚の上に気持を訴え まもうち思ひつづけられず、「いかさまにして消えも人りなばや」と、ひたぶる帝の長い会話。四五まで続く。 品寝覚の上への恋を片思いのま あ るに、とりも敢へず涙に沈む様の、あまり世に知らずめづらかなるに、「しま過してきたことをいう。「ない て」は、「なして」のイ音便。 さまあ のど ばしこしらへて、心を和めさせむ」と、おぼしめせば、あながちに、様悪し = 五亡き老関白。故関白と帝の血 縁関係は、現存資料からは確認で うももてなさせたまはで、「まことに、我が身思ひ知られ、心憂く。若々しききないが、帝の幼時より親しく、 帝の治世中関白であったことから むな 巻 みて、身内関係であった可能性が 御心かな。昔より、思ふ心を虚しうないて、年ごろを経て、思ひわたるさま、 強い。故関白と帝の母大皇の宮が な 4 こおとど 故大臣、親しかるべき人といふなかにも、幼くより、分きて親しう慣らひ思ひ同腹の兄妹などであったか。 一七 けしき一四 一五 わ しづ わ
は、なんともたまらない心のしこりになって、ひどく不愉ても、まさか聞き入れてはくれないだろう」と、あれこれ ねた 引快な気持になってしまうが、この日は奏上なさることが重と想像するとひどく妬ましくも思って、しいて立ち寄るこ ともせずに、それとなく様子を見ていると、何も知らぬ女 なっていて、内大臣は、一日じゅう御前に詰めておいでに とうかぞん 房などが、「殿上人が、登花殿に、今日は何度も何度も、 寝なる。 ないしのかみ 夜〔 0 一〕内大臣、帝を拝し内心穏やかでないままに、内大臣は、帝のお手紙を持 0 て伺 0 ているが、やはり内侍督様は抜群 嫉妬の心に苦しむ の御寵愛なのですね」と思い込んでいる様子なのも、内大 それとなく注意して見ておられると、 あて みかど 気のせいでそう拝察されるのか、帝の御様子は、ともすれ臣には、事情を知るだけに、「それだ、北の方宛のお手紙 に違いない」と目に見えるようで、「帝が、心から深く思 ば思いに沈まれて、平素とは違っていて、人が奏上するこ いつめて、物思いに沈んでおられる御容貌や御様子が、照 ともお耳には入らぬようなので、「帝の御様子も無理はな り輝くといった華やかさこそおありにならないが、気高く い。ほんの一目でも御覧になったら、必ず、深くお心に刻 せんじ しっとりとして、優美でお美しいのに、まして、宣旨の話 まずにはおられない女なのだ。私だからこそ、昔から今ま によっても、あれほど言葉の限りを尽して訴えられたのだ で、堪えがたい思いを堪えて、離れたまま過してきたのだ。 たど ろうから、いくら何でもあの人もお心の深さ、情の厚さは どうもあの人との仲は悲しい運命を辿るように決っている 心にしみて拝していることだろう。なんといっても並ひと らしい。これからどうなることか。もし、帝に召されてし まったら、どんな思いがすることか」と、内大臣も、寝覚通りの男とは違っているなどと、私と比べて思い申しあげ おそ ているかもしれない」と思うと、畏れ多いことながら、な の上のことばかりを思って、すっかり気がめいってしまう んとも帝が妬ましく、腹の内が煮えくり返る思いである。 と、すぐにも逢いたい思いに駆られながらも、政務多忙の 日のこととて、寝覚の上のお部屋に立ち寄ることもできな 〔当〕寝覚の上退出を請内大臣が参内なさる時はいつも、真 うも、帝輦車を許さすっ先に登花殿にお立ち寄りになり、 い。それに、「事実はどうだったにせよ、昨夜の名残に思 い乱れて床についているのでは、私が『逢いたい』と言っ退出なさる時にも、決してそのままお下がりになることは てぐるま
95 巻四 いと 一四みかき 「『同じ御垣にだにあらじと、深く厭ひ出づる心ばへの、め一六人目に立たぬ戸口から。 〔セ〕帝、寝覚の上の退 宅内大臣が付き添っているので こころう 一五 出になお未練を残す づらかに心憂けれ』と、登花殿に渡らせたまふ」と聞くに、は帝のお越しもいよいよ何の効が あるはずもないが、の意。 さはどころ おとどしづごころ 入帝は。 大臣も静心なく、「ただ乱れに乱れ人らせたまはむ、なにの障り所かあらむ」 一九「くまぐまし」は、隠しごとが とおぼすに、いみじううしろめたければ、忍びやかなる方より紛れ人りたまへあるさま。昼間の訪問であり、逢 うのにやましい時刻ではないとい けしき れい うのである。「何のくまぐましき」 れば、例居たまふ所にもあらず、深く隠ろひたる気色を、あはれにありがたく から帝の言葉とする読み方もある。 うへ 見て、忍びて添ひ居たまひぬれば、いとど何の言ふかひあべうもあらぬに、上 = 0 以下、帝に言う督の君の言葉。 たいしたことはないと見ておりま ひとこと は、何のくまぐましき疑ひあるまじきほどにて、「一言きこえさすべきことなした北の方の気分が。 三督の君以外の人々も同様で。 側近の女房達であろう。 む」と、責めさせたまふ。督の君にも、いみじうのたまはするを、「いとわり 一三そういう状態では、帝として ここち も寝覚の上に近寄ることはむずか なし」とおぼして、「かりそめに見はべりし心地の、苦しげにのみなりまさり しいのである。「なり」は伝聞。内 ことびとびと てーと、きこえたまふ。他人々も同じさまにて、それにぞ、うち身じろき寄ら大臣が内から外の様子を推量して いることを表す。「それにぞ」の かた きちゃう 「ぞ」に対して終止形の結びは異例。 せたまふことは、難かなり。「その臥いたまひたらむ几帳の程に。多くもきこ ニ三以下、帝の言葉。寝覚の上が ひとこと やす ゅまじ。ただ一言ばかりと、恨み暮らさせたまふを、人々、殿のおはすれば、寝んでいらっしやる几帳のもとに 案内せよ、の意。 おとど えもきこえつがず、中にてむせびたる気色を、大臣、をかしと聞き臥したまひ品間に立って人々が泣かんばか りに困っている様子を。 ニ五帝は清涼殿に。 たり。暮れぬれど、上は帰らせたまふべうもあらず。 かん 一七 かい
とのが 一「心を延ぶー↓一一三謇注一七。 れど、ただ、疾く逃れ出でなむとおぼすに、心を延べて、 ニ贈歌の詞を受け、「雲居」に くもゐ 「宮中」、「すむ」に「住む」と「澄む」 寝覚の上雲居にはおよばざりける身を知ればしばしもすむに影ぞまばゆき の意を掛ける。「影」は月光。帝の 寝言ひも果てぬゃうにて、せめて、すべり出でたまひぬる名残り、とばかり見送恩恵の意を含んでいう。 三帝は。 かた あふせ 夜 らせたまひて、「などて。をこがましく。かかる逢頽は難くこそあらめ。あな四帝の心中表現。どうしてあの まま帰してしまったのか、の気持。 がちに心苦しさを見知りつるぞや」と、悔しく、いみじくおぼさるるに、人目 = むやみに女の辛い気持に同情 してしまったことだ。 ここち 六人目がかまわないなら。 苦しからずは、やがて立ち続きぬばかりの御心地ぞ、せさせたまふ。 七寝覚の上のご様子が。 七けしき せんじ よるおとど 宣旨の君は、いとほしく心苦しかりつる御気色の、いみじ八帝はお起しになって。 〔 = 三〕帝還御夜の御殿 九帝付の女房であろう。「内侍」 はな ないしのじよう にて未練と後悔に泣く くあはれにて、え行きも離れず、このわたりにさぶらひたは「掌侍」に同じ。内侍司の三等 たい 官で、典侍の下位。宜旨の君は大 ひやうゑないし おうみや まひけるを、起こさせたまひて、御供に率ておはします。兵衛の内侍ばかりに皇の宮の女房であるから弘黴殿か らお帰りになる帝をお供してお見 よるおとど て、帰らせたまひて、いとみそかに夜の大殿に人らせたまひぬれど、つゆまど送りし、清凉殿は兵衛の内侍だけ がお供をしたのであろう。 おんぞ ろまれさせたまはず。なべてならぬにほひばかりは、御衣に、いと深く移りに一 0 清涼殿の帝の寝所。 = 寝覚の上の移り香である。 けはひありさま けるを名残りにて、言ひ知らずなっかしく、あはれなりつる気配、有様の、た一 = あれほど寝覚の上がかたくな に私を拒むのでは。 一三どうしてあのまま別れるよう だ御身に添ひたるやうにて、「さても、あさましう、心強かりつる人の心かな。 なばかなことをしてしまったのか。 のちあふせ さばかり思ふにては、後の逢瀬、よにあらせじものを。などしつるをこがまし一四とても生き永らえていられそ ( 現代語訳三〇六 ) 六
一三夜続けて契りを重ねるのが 人びしぞ」と、恥づかしくおぼし知らる。 当時の新婚の作法。「頻る」は、た しき まのに かん まづ頻りて三夜は、参う上りたまふ。四夜といふ夜、中宮び重なる、の意。 〔九〕督の君、帝の御意 かな ニ督の君はいかがですか。中宮 寝に叶い四夜召さる の御方に渡らせたまへるに、「いかが」など、問ひきこえが帝に問うのである。 の 三「人の娘」は、良家の姫君とい けはひ 夜 させたまへれば、「なほ、気配、手当たりなど子めいて、人の娘とは覚ゆらむ。った感じをいう。 四物慣れて気がきく点。 らうらうじきかたや、少なからむ。ただ今は、ことごとしく見えむも、うたて五人内早々の今からもったいら しく見えるというのも、の気持。 けしき ぞあるべき。心やすくらうたげにはありぬべかめり」と、のたまはする御気色、六そのまま中宮が。「上の御局 , は、后、女御などが特に清涼殿の ないしのかみ いと浅きとは見えさせたまはず。おはしまし暮らして、その夜も、内侍督参う帝の御居間近くに賜る部屋。 じゅだい セ新しく入内した督の君をいう。 っね 上りたまひぬ。またの夜は、中宮上らせたまひて、やがて上の御局にさぶらひ ^ 帝の心中表現。「宮、は中宮。 九一九ハー既出。 ことびと たまへば、他人はえ上らせたまはず。めづらしき人の憎からずおぼしめさるる一 0 あなたの御事を。故関白は後 事を内大臣だけでなく、帝にも託 たが につけても、「宮の御心につゆばかりも違ひきこえさせじ」とのみおぼしめすしたらしい。 = かって帝は寝覚の上の琵琶の すばらしさを話に聞き、父人道に ぞ、めでたき人の御覚えなるや。 入内させるよう強く望んだことを れいとうのないしのすけつか せうそく 昼つかた、例の藤典侍、御使ひにて、北の方に御消息おさす。↓工二一五 〔一 0 〕帝なお昔を忘れす 一ニ老関白死後、帝の再度の人内 寝覚の上に御文あり 要請を固辞し、代りに故関白の長 ほせらる。 女を内侍督とした経緯をいう。 こおとど やまひ 「故大臣の、病の初めに、御事をなむ言ひ置きしかば、昔よりの心ざしに添一 = 母親の立場で、の気持。 ( 現代語訳一一八三 ) な 四