くれないあこめ うわぎ なければならない人もいないのですよ。われもわれもとあ た。みんな濃い紅の衵を着て、表着はおのおのさまざまで おわりかみ れほど人々が自信をもってさし出したことだからであろう ある。汗衫はみな五重のものを着ている中に、尾張の守は えびぞ がさね か、どれも目移りしてしまって、その優劣もはっきりとは童女にただ葡萄染め襲だけを着せている。それがかえって 見分けられない。現代的な感覚をもった人の目には、きっ 由緒ありげな趣のある様子で、衣装の色合や光沢なども、 とすぐにその優劣も見分けがつくことであろう。ただこの たいそうすぐれている。下仕えの童女の中にとても容貌の くろうど ように陰もない昼中に、顔を隠す扇も満足に持たせずに、 すぐれている者が、その扇を置かぜようとして六位の蔵人 大勢の殿方が立ちまじっている所で、まあ相当な身分才覚などが近寄ると、自分から進んで扇を投げてやったのは、 の人たちとはいうものの、やはり人に負けまいと競いあう けなげなこととはいうものの、あまりにも女らしくないの 気持も、どんなにか気おくれがすることだろうと、むしょ ではないかと思われる。もしも私たちを、あの人たちと同 うに気の毒に思われるのは、まったくわれながら融通のき じように人前に出ていよというのであったら、やはりこん かない思いであるよ。 な批評めいたことを言っていても、あがってしまってうろ たんばかみ かざみ 丹波の守の童女の着ている青い白っるばみの汗衫を美し うろ歩きまわるだけでしようよ。私だって以前はこんなに とうさいしよう いと思っていたところ、藤宰相の童女には、赤い白っるば まで人前に立ち出ようなどとは想像したであろうか。けれ しもづか からぎぬ みの汗衫を着せて、その下仕えの童女に、唐衣に青い白っ ども目の前に見ながらもどうもようもなく浅はかなものは ねた るばみを対照させて着せているのは、妬ましいほどに気が人間の心であるから、私とてこれから以後のあっかましさ 酩きいた趣向である。その童女の容貌も、丹波の守の方の一 は、ただもう宮仕えにすっかり慣れすぎて、男と直接に顔 式人の童女はそれほど整っているとは見えない。宰相の中将を合せるようなことも、きっとたやすくなることだろうと、 紫 のは童女がみな背丈がすらりとしていて、髪の様子も美し わが身のなりゆきが夢のように思い続けられて、果てはあ ものな い。その中の物馴れしすぎた一人の童女を、どんなものだ ってはならないことにまで想像が及んで、そら恐ろしく思 ろうか、あまりよくないのでは、などと、人々は話題にし われるので、眼前の盛儀にも、例によって目がとまること しら ゆいしょ
みにくい人だと見られたのも、彼女の消極的内向的性格に加えて、こうした文才についての前評判が災いし たと考えられる。しかし日記に記されたころの式部の宮仕えぶりを見ると、消極的ではあるが人嫌いではな りんし 、気心の知れた朋輩とは結構楽しく付き合っている。また中宮や道長や倫子からも特別に扱われていたよ かんだちめじようろう 部うであり、そのお陰もあってか上達部や上﨟女房たちも決して疎略に扱っていない。これは式部の文才や人 紫 柄が周囲に認められてきたからであり、自らもそれに自信を得た結果であろう。とにかく中宮サロンに関す る限り彼女の宮仕えはそれほど辛いものではなかったはずである。にもかかわらず日記の処々に散見する憂 愁な気分はどう理解すべきであろうか。これはおそらく前述の若いころに経験した宮仕えや結婚のあまり好 ましくない印象を核とした、社会の裏面や谷間をも見過さぬ作家精神のなせるわざであろう。自らの幸いよ りも他人の不幸や社会の矛盾を鋭く感受し、それを吸収回帰することによって自らの幸いを打ち消し、陰の はんすう 部分を助長するような精神作用が、彼女の心の中で絶えず反芻されている結果、世を憂しとする総評価が生 れたものと思われる。 式部の宮仕えは、初めの二年ばかりは里がちであまり精勤ではなかったらしいが、これは主人側も許して いたことであろう。そしてこの期間こそ、道長や倫子の庇護のもとに『源氏物語』を長編物語として着々と 書き進めていた時期であったと思われる。長編物語の執筆という営みがかなり強い読者意識と強力な護を 必要とするものであることを思うと、『源氏物語』の形成に際しても必ずやそれらの条件が存在したはずで あり、それは道長を庇護者とし、彰子中宮サロンないし土御門サロンをその享受層としたものであったと考 えられる。式部の晩年については明らかでないが、一条天皇崩御後皇太后宮となった彰子に引続き仕えてお り、寛仁三年 ( 一 0 一九 ) ごろまでの生存が確認されている ( 今井源衛氏説 ) 。
たばかみ とうさいしゃう 一 0 しらつるばみカざみ うわぎ 丹波の守の童女の、青い白橡の汗衫、をかしと思ひたるに、藤宰相の童女は、 = 童女の正装で表着の上に着る。 一四 一ニ藤原実成の舞姫付の童女。 しもづか からぎぬ一五 かざみ 一三赤白橡の汗衫。 赤いろを着せて、下仕への唐衣に青いろをおしかへし着たる、ねたげなり。童 一四介添伎の下仕えの女。 ひとり 女のかたちも、一人はいとまほには見えず。宰相の中将は、童女いとそびやか一五青白橡。童女の汗衫の赤色と 下仕えの女の唐衣の青色とを対照 に、髪どもをかし。なれすぎたる一人をぞ、いかにぞや、人のいひし。みな濃させた趣向である。 わた 一大妬ましい程に気がきいている。 あこめ うはぎ き衵に、表着は心々なり。汗衫は、五重なる中に、尾張はただ葡萄染を着せた毛藤原兼隆。 一ハ底本はじめ諸本には「なれす り。なかなかゆゑゅゑしく心あるさまして、ものの色あひ、つやなど、いとすきたる : ・人のいひし」までがない。 絵巻本文によって補う。 ぐれたり。下仕への中にいと顔すぐれたる、扇とるとて六位の蔵人どもよるに、一九「濃き」は紅の濃い色。童女の あこめひとえうわぎ 衵は単衣と表着の間に着る。 つますそ ニ 0 五重重ね。袖ロや褄やのふ 心と投げやりたるこそ、やさしきものから、あまり女にはあらぬかと見ゆれ。 き返しが五重になっているもの。 ニ四 かさね ニ一襲の色目で表紫、裏赤。尾張 われらを、かれがやうにて出でゐよとあらば、またさてもさまよひありくばか えびぞ 守の童女だけが葡萄染め襲の汗衫 りぞかし、かうまで立ち出でむとは思ひかけきやは。されど、目にみすみすあを着ていたのである。 一三六位の蔵人が仰せをうけて下 のち 己さましきものは、人の心なりければ、いまより後のおもなさは、ただなれにな仕えの女のかざしている扇を取る。 きロ 日 ニ三自分から進んで。 れすぎ、ひたおもてにならむやすしかしと、身の有様の夢のやうに思ひつづけ品以下、わが身について考える。 ニ五直面。男と直接顔を合せるこ と。宮仕え生活ではしばしばある。 られて、あるまじきことにさへ思ひかかりて、ゆゅしくおぼゆれば、目とまる ニ六あってはならないこと。男と 関係を結ぶようなことをいうか。 ことも例のなかりけり。 一八 えびぞめ くらうど 一九
隠れなく知れわたってしまうのですが、人の目の届かない 非常に美しく、長くはないのでしようか、付け髪などでつ % くろって宮仕えには出ています。出仕の当時は、その肥っ ところでも用心しているので、知られずにすんでいるので た容姿がとても美しい人でしたよ。目もとや顔のあたりなすよ。 みやぎ 日どは、ほんとうにきれいで、ちょっとほほえんだところな 宮木の侍従は実にすみずみまで整った美しい人でした。 あいきよう 試ど、愛嬌にも富んでいます。 とても小さくほっそりしていて、まだまだ童女姿のままで 若い人の中でも、とりわけ容貌が美しいと思われるのは、 おきたいような様子でしたのに、自分から老いこんでしま こだゅうげんしきぶ 小大輔、源式部などです。小大輔は小柄な人で、容姿はた い、尼姿になってそれつきり宮仕えを退いてしまいました。 うちき いそう現代的な様子をしていて、髪は美しく整い、もとは髪が袿の丈に少し余って、その末をたいそうはなやかに切 とても豊かで、丈に一尺以上も余っていたのに、今では脱 り揃えて参上しましたのが宮仕えの最後のときでした。顔 もとても美しゅうございました。 け落ちて細っています。顔もきりりとひきしまっていて、 ごせちべん まあ何と美しい人よと見られることです。容貌は、なおさ 五節の弁という人がおります。平中納言が養女にしてだ なければならないところなどありません。源式部は、背丈いじにしていたと聞いている人です。絵に描いたような顔 がちょうどよいころあいにすらりとした高さで、顔つきは立をして、額がたいそう晴ればれと広い人で、目尻がとて すみずみまで整っていて、見れば見るほど実に美しくかわ も長く、顔もここはと目にとまるような個性はなく、色白 いらしい風情で、どこかすがすがしくこざっぱりとしてお で手つきや腕の様子は実に風情があって、髪は私が見はじ めました春には背丈に一尺ほど余って豊かにたくさんあっ り、宮仕えの女房というよりは、むしろどこかの娘かと思 われるような様子をしています。 たようでしたが、あきれるほど分け取ったように脱け落ち しように すそ 小兵衛、少弐などもとてもきれいです。それらの美しい てしまって、のほうもさすがにほめられたものではなく てんじようびと 人たちは、殿上人がそのままに見すごしておくなどという長さは丈に少し余っているようです。 ことは、少ないということです。だれも、まかり間違うと 小馬という人は髪がたいそう長うございました。昔は美 じじゅう
中宮さまが宮中へお帰りにならない前に雪が降ってくれれ残ることなく思い知ることよ。 ゆきげしき ばよいのに、この御前のお庭の雪景色は、どんなに趣があ 試みに物語の本をとり出して読んでみても、以前見たと ることだろうと思ううちに、ついちょっと実家に退出した きのようにおもしろいとも思われず、あきれるほど味気な 1 三ロ 日間、二日ほどたってあいにくにも雪が降ったではないか。 くて、かって愛着を感じた人で親しく語りあった友も、宮 部 ゅううつ 試何の見どころもない古里の庭木立を見るにつけても、憂鬱仕えに出た私をどんなにかあっかましくあさはかなものと けいべっ であれこれと思い乱れて、夫の死後数年来、所在なさにた軽蔑しているだろうと推量すると、そんな邪推をすること なうぜん だ茫然と物思いに沈んで明かし暮しては、花の色を見ても さえもひどく恥ずかしくて手紙も出せない。人から奥ゆか 鳥の声を聞いても、また、春秋に移りかわる空の様子や、 しく見られようと思っている人は、いいかげんな宮仕え女 では手紙もとり散らすであろうなどと、つい疑う気にもな 月の光、霜、雪を見ては、その時節がめぐってきたのだな あと、かろうじて思い知っては、いったいわが身は結局ど るであろうから、そんな人がどうして私の内心や今の有様 うなることだろうと思うばかりで、行く末の心細さは晴し を深く推察してくれようか、と思うと、それももっともな ようもないものであったけれど、それでもとるにも足りな ことで、ひどくつまらない気がするので、交際が中絶えす い物語などにつけて、ちょっと話をかわす人で気心の合う るというわけではないが、しぜんと音沙汰がなくなる人も 人とは、しみじみと手紙を書きかわしたり、いささか疎遠多い。また、私が宮仕えに出ていつも家に落ち着いていな い身になってしまったとも推量して、訪れてくる人も来に な縁故などをたよってまでも文通したりしたものだが、た くくなったりして、すべてがちょっとしたことにつけても だこのような物語をいろいろといじり、とりとめもない話 まったく別世界に来ているような気持が、ほかならぬこの に所在のなさを慰めたりして、自分など世の中に存在価値 わが家に帰っていっそう強く感じられ、何やらしみじみと のある人間とは思わないものの、今さしあたっては恥ずか しい、つらいと思い知るようなことだけはまぬがれてきた した悲しみにとざされるのである。 今の私には、ただ、宮仕えでやむをえず話をして、多少 のに、宮仕えに出てからは、ほんとうにわが身のつらさを
一祐子内親王家。実際には後見 心ぼそくおぼゆるに、きこしめすゆかりある所に、「なにとなくつれづれに心 たる関白頼通の所望であろう。祐 みやづかへびと ぼそくてあらむよりはーと召すを、こだいの親は、宮仕人はいと憂きことなり子内親王は後朱雀天皇皇女。長暦 げんし 一一年 ( 一 0 三 0 誕生。生母嫁子女王は 一三ロ ばいし 日と思ひて過ぐさするを、「今の世の人は、さのみこそは出でたて。さてもおの翌年八月楳子内親王をもうけ、同 級 月二十八日他界、両内親王は頼通 更づからよきためしもあり。さてもこころみよといふ人々ありて、しぶしぶに、の高倉邸に養われていた。作者の 宮仕えはこの年初冬に始る。 ニ「さ」は宮仕えをさす。他のこ 出だしたてらる。 とは考えず、宮仕えばかりを目指 ひとよ して出仕する。 まづ一夜参る。菊の濃くうすき八つばかりに、濃き掻練を上に着たり。さこ 三幸運も舞い込むものだ。 るいしぞく そ物語にのみ心を人れて、それを見るよりほかに、行き通ふ類、親族などだに四そのようにして ( 宮仕えをし て ) 、ためしてご覧なさい。 ことになく、こだいの親どものかげばかりにて、月をも花をも見るよりほかの五不承不承。父親の心。「らる」 は受身の助動詞。 うちき ことはなきならひに、立ち出づるほどの心地、あれかにもあらず、うつつとも六「菊」は襲の色目。袿を八枚重 すおうのにおい ねたもので、上の五枚は蘇芳匂、 下は白一二枚を重ねたものというが、 おぼえで、暁にはまかでぬ。 つまびらかでない。 里びたる心地には、なかなか、定まりたらむ里住みよりは、をかしきことを宅「濃き」は紅。「掻練」は練って 柔らかにした絹の袿。 も見聞きて、心もなぐさみやせむと思ふをりをりありしを、いとはしたなく悲八われにもなく。上気して自他 の区別もっかぬこと。 九家庭生活に馴染んで洗練を欠 しかるべきことにこそあべかめれと思へど、いかがせむ。 くこと。「宮び ( 雅 ) 」の反対。 ぼね しはす 一 0 中途半端で間の悪い状態。 師走になりて、また参る。局してこのたびは日ごろさぶらふ。上には時々、 354 あかっき 七 かいねり い ゅうし かさわ
活も三年と続かず、長保三年 ( 一 00D 四月二十五日宣孝は病没してしまう。夫に死別してから中宮彰子の許 へ出仕するまでの数年間は、一般に『源氏物語』の執筆時期と考えられているが、夫に急逝されて幼子を抱 かふ えた寡婦が物語の執筆などというすさびごとに心を人れる余裕はないと見るほうが実状に近いであろう。少 なくとも一周忌を迎えるまでは、こみあげる悲しさに耐えつつ娘の養育のみを心の慰めに日々を送るのが精 きけん 一杯であったと推察される。父の為時は長保三年越前守の任果てて帰京し、このころは文人として貴顕の邸 っちみかどてい 宅に出人りしていた。やがて道長の土御門邸にも招かれるようになり、娘の出仕を要請されることになった ちゅうぐうだいぶ らしい。かって定子中宮時代の中宮大夫を勤めたことのある道長は、才媛のきしろう中宮サロンを目のあた りに見て、わが娘彰子の後宮をそれ以上に彩るべく、このころかなり積極的に優秀な女房を集めていたと思 われる。式部の文名もそうした道長の早くから知るところであったろうし、道長室の倫子が式部とはいささ かの血縁にあることもあって、出仕の勧誘は執拗であったろう。これに対して式部は、生来の内気と過去の 経験からこの宮仕えの勧誘には消極的であったと思われるが、相手が時の権勢家道長ではあるし、父の官途 ぶんそう を思い自らの境遇を顧みて出仕を承諾したのであろう。文藻豊かな中宮サロンへの秘かな憧憬もあったかも しれない。こうして初めて中宮彰子の許へ出たのが、寛弘一一年十二月二十九日であった。 説式部の宮仕え生活における役柄ははっきりしたものではなく、中宮付の世話係という程度のものであった らしい。中宮の希望で白楽天の「楽府」を進講したこともあったが、家庭教師というような特別な職掌では 解なさそうである。であるから公的な行事の際にも歴とした役はなく、里下がりも比較的自由であった。その ような待遇は、おそらく夫の死没以前に世に出された『源氏物語』の原初の数巻によって、ある程度の文才 を認められていたからであろう。宮仕え当初、中宮や他の女房たちから、自信ありげにとり澄していて親し りんし
( 思うことが何一つかなわないなどと、恨んできた命も、な がらえて皆にめぐり会えた今日こそ、満ち足りて本当にうれ しいことです ) なが と答えた。東国に下る父が「これが永の別れの門出となろ うと言って聞せたときの悲しさにくらべれば、無事に再 会の日を待ち得た今のうれしさはこのうえもないけれど、 その父が「今まで他人事ながら見てきたが、老いさらばえ てあくせくと世間に立ち交わるのは、いかにも愚かしく見 みやづか 三宮仕えの記 えたので、私はこのまま隠退してしまうのが相応だ」とば かり、未練げもなく官途をあきらめるロぶりなので、心細 くてならない。 〔 = = 〕母の出家、父の隠母は尼になって、同じ屋敷内ながら、 ひえ 退、作者宮家に出仕 別棟に離れて住むこととなった。父 東の方は野原が遠くひらけて、その先の空には、比叡を す いなり はただ、私を主婦の座に据え、自分は世間の人づき合いも はじめ稲荷などという山までが、くつきりと見わたされる。 ならび 南は双の岡の松風がすぐ耳もと近くに心細く聞え、その手せず、まるで隠居のように、ひっそりと暮している。そん なるこ な父を見るのも頼みがいがなく、心細く思われていると、 前には、つい鼻先まで田というものが迫っていて、鳴子を ひな そんな折柄、私のことをお聞きおよびの、ゆかりのあるお 引き鳴らす音なども鄙びた風情がある。月の明るい夜など 日 級は、そうした情趣豊かな景色を眺め明かしながら日数を重方のもとから、「何をするともなく、ぼんやりと心細く暮 むかしかたぎ へんび むかしなじみ 更 しているよりは : : : 」とお召しがあった。昔気質の親は、 ねていたが、昔馴染の人も、辺鄙な土地柄ゆえおとずれも 宮仕えびとはとてもつらいものだと思って、うち捨ててそ 四しない。あるとき、幸便に託して「いかがお過しですか」 のまま過させていたが、「当世の人は誰でも進んで宮仕え と言ってよこした人があるので、ふと思い起して、 ( 原文三五三ハー ) をぎ 思ひ出でて人こそとはね山里のまがきの荻にあきかぜ は吹く まかきおぎ ( 山里の籬の荻には秋風が吹き寄せるばかりで、思い出して おとずれてくださる人とてもありません。折からのお便り身 にしみております ) と、したためて贈った。十月になってそこを発ち、京の邸 に引き移った。
一交際が途絶える。 るべかめれば、いかでかは、わが心のうちあるさまをも、深うおしはからむと、 ニ「あまたあり」の意。 ことわりにて、いとあいなければ、中絶ゆとなけれど、おのづからかき絶ゆる三別の世界。 四実家をさす。「しも」は強意。 日 五以下、宮仕えの友だちについ もあまた。住み定まらずなりにたりとも思ひやりつつ、おとなひくる人も、か 部 て述べる。 式 紫たうなどしつつ、すべて、はかなきことにふれても、あらぬ世に来たる心地ぞ、六「・ : 心とめて思ふ」「 = ・ものを いひかよふ」「 : ・むつび語らふ」は 並列で「人」にかかる。 ここにてしもうちまさり、ものあはれなりける。 七中宮女房。源扶義の娘廉子。 ただ、えさらずうち語らひ、すこしも心とめて思ふ、こまやかにものをいひ八宮仕えについてとやかく言い ながらも、その環境に慣れてそれ かよふ、さしあたりておのづからむつび語らふ人ばかりを、すこしもなっかしを恋しく思い出している自分の矛 盾した心を慨嘆したもの。 九式部が大納言の君に贈った歌。 く思ふぞものはかなきや。 「浮き寝」「水の上」「鴨の上毛」は よるよる おまへ 大納言の君の、夜々は、御前にいと近う臥したまひつつ、物語したまひしけ縁語。「浮きに「憂き」をかける。 中宮の御前の夜を恋いつつ里居の 寂しさを訴えたもの。 はひの恋しきも、なほ世にしたがひぬる心か。 一 0 大納言の君の返歌。贈歌の鴨 かもうはげ おしどり を鴛鴦に言いかえ、それが常に一 浮き寝せし水の上のみ恋しくて鴨の上毛にさへぞおとらぬ つがいでいる習性をふまえて、い かへし、 つも一緒にいた式部を恋う気持を 詠んだもの。 一 0 = 「まほ」は「かたほ」の対。よく うちはらふ友なきころのねざめにはつがひし鴛鴦そよはに恋しき 整っている、欠点のないこと。 一ニ以下、女房たちの手紙の一部。 書きざまなどさへいとをかしきを、まほにもおはする人かなと見る。 四 六
一五家庭が味気なく思われること。 しげかりしうき世のことも忘られずいりあひの鐘の心ぼそさに 「世の中」は夫婦仲をいう。 と書きてやりつ。 一六京都市右京区太秦の広隆寺。 一セ祐子内親王家。 一九 みたり うらうらとのどかなる宮にて、同じ心なる三人ばかり、物語などして、まか入「うき世」は、苦しくつらかっ た宮仕え生活をいう。 一九この頃の作者は折々、祐子内 でてまたの日、つれづれなるままに、恋しう思ひ出でらるれば、二人の中に、 ニ 0 親王家に参上していたらしい。 そぞぬ あらいそなみ ニ 0 「荒磯浪」は苦労の多い宮仕え 袖濡るる荒磯浪と知りながらともにかづきをせしぞ恋ひしき 生活をいう。「かづ ( 潜 ) き」は水に くぐること。以下三首はいずれも、 ときこえたれば、 自分を海人に擬したもの。 一 = 「かひ」は「貝」に「効」を掛ける。 荒磯はあされどなにのかひなくてうしほに濡るるあまの袖かな 荒磯・あさる・かひ・うしほ・濡 るる・あま、はいずれも縁語。 いま一人、 一三「みるめ」は海藻の「海松市」と 「見る目」を掛ける。「浪間」は波の みるめおふる浦にあらずは荒磯の浪間かぞふるあまもあらじを 静まる間。「かぞふ」は見はからう の意。 同じ心に、かやうにいひかはし、世の中の憂きもつらきもをかしきも、かた ニ三世間一般のこと。 ちくぜん みにいひかたらふ人、筑前に下りて後、月のいみじう明かきに、かやうなりし = 四お互いに隔意なく語り合う人。 旨ロ 日 ニ五夫の筑前赴任に同行したもの。 級夜、宮に参りてあひては、つゆまどろまずながめ明かいしものを、恋しく思ひ = 六現実に対面しているように。 更 毛「思ひつつ寝ればや人の見え つつ寝人りにけり。宮に参りあひて、うつつにありしゃうにてありと見て、うつらむ夢と知りせば覚めざらまし を」 ( 古今・恋一一小野小町 ) を引歌 ちおどろきたれば、夢なりけり。月も山の端近うなりにけり。さめざらましをとする。 一八 い ニ七 ニ四 かひ