本は近世初期の転写本 ) の諸本など、いずれも「和泉式部物語」と題されている。 このように「日記」と「物語」との両様の名称があることは、とりも直さずこの作品の性格の両側面をあ 記らわすことになろう。日付の順序を追い、作者の自照的心情を織りまぜ、「憂き身」「憂しー「つれづれ」 日 ひんよう 部「はかなしー等の心情語の頻用によって主人公の立場を定置させているかに見える「日記性」に対して、作 泉 者自身であるはずの主人公が「女」と第三人称でよばれ、この主人公の直接体験外の世界が描写され、冒頭 和 や終末部に見られるような虚構性に富む「物語性ーが指摘できることは、たんに書名をめぐる問題であるに とどまらず、この作品の特質そのものにかかわる事であるといえる。 『和泉式部日記』が「日記」とも「物語」とも称されてきたことの一半の理由は、恋の贈答歌を軸として構 たかむら 成されていることにあろう。王朝時代の他の作品としては、小野篁の恋のいきさつを記す宮内庁書陵部本 『小野篁集』が歌集としての書名であるのに、同一の内容をもっ彰考館本では『篁物語』と題され、さらに かかいしよう かちょうよせい 『源氏物語』の古注釈書『河海抄』『花鳥余情』がこれを引用するときには『篁日記』の名を掲げている。ま へいちゅう た、好き者平仲 ( 平貞文 ) の恋物語は静嘉堂文庫本に『平仲物語』と題されているが、『河海抄』では『貞 文日記』として引用され、『本朝書籍目録』では「平中日記一巻」と掲げている。さらに、藤原高光の とうのみねしようしようものがたり 『多武峯少将物語』が、その一部もしくは全部が『高光日記』とよばれたことも『本朝書籍目録』や『河 海抄』によって知られる。こうした現象がいくつか生れたのは、すなわち当該作品が歌物語的性格をそなえ ているからに他ならない。『和泉式部日記』を一概に歌物語と決めつけるのには抵抗を感ずるが、全編を構 成する主軸が、心情の切実な表現としての恋歌にある点に着目された結果として、「日記」とも「物語」と も名付けられたであろうことが察せられるのである。 114
和泉式部日記 完訳日本の古典第一一十四巻 更級日己 紫式部日記 定価一九 00 円 昭和年 3 月引日初版発行 校注・訳者藤岡忠美中野幸一大養廉 発行者相賀徹夫 印刷所大日本印刷株式会社 発行所株式会社小学館 〒期東京都千代田区一ッ橋一一ー三ー 振替口座東京八ー二 00 番 電話編集 ( 0 三 ) 二三 0 ー五六六九製作 ( 0 三 ) 一一 三 0 ー五三三三販売 ( 〇三 ) 一一三 0 ー五七六八 ・造本には十分注意しておりますが、万一、落丁・乱丁 などの不良品がありましたらおとりかえいたしますこ ・本書の一部あるいは全部を、無断で複写複製 ( コピー ) することは、法律で認められた場合を除き、著作者およ び出版者の権利の侵害となります。あらかしめ小社あて 許諾を求めてください Printed in Japan ( 著者検印は省略 T. Huzioka K. Nakano いたしました ) K. lnukai ISBN4 ・ 09 ・ 556024 ・ X 1984 ・三ロ
しきぶじよう 一式部の弟。藤原惟規。一九三 この式部の丞といふ人の、童にて書読みはべりし時、聞きならひつつ、かの 謇の引きはぎ事件の時には兵部の 人はおそう読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞさとくはべりしかば、丞として見えている。 をのこご ロふみ 日 書に心人れたる親は、「口惜しう、男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」と = 私はそれをそばで聞いている 部 のが習慣となって。 式 なげ g 弟の惟規。 紫ぞ、つねに歎かれはべりし。 五私は不思議なほど聡明でした ざえ それを、「をのこだに才がりぬる人は、いかにぞや、はなやかならずのみはので。 もんじようしよう 六式部の父藤原為時は文章生 べるめるよ」と、やうやう人のいふも聞きとめて後、一といふ文字をだに書き出身の文人であった。 セ学問をひけらかす人。 わたしはべらず、いとてづつに、あさましくはべり。読みし書などいひけむも八「はなやかなり」はここでは派 手に栄達する意。 の、目にもとどめずなりてはべりしに、いよいよ、かかること聞きはべりしか九漢字の素養のあることを努め て表さなかったことをいう。 みびやうぶかみ ば、いかに人も伝へ聞きてにくむらむと、恥づかしさに、御屏風の上に書きた一 0 不器用でったないさま。ここ は無学なこと。 おまへ もんじふ ることをだに読まぬ顔をしはべりしを、宮の、御前にて、文集のところどころ = 左衛門の内侍が「日本紀の御 局」とつけたこと。 読ませたまひなどして、さるさまのこと知ろしめさまほしげにおぼいたりしか一 = 屏風の上部には画賛の漢詩文 や和歌を書いた色紙が貼ってある。 ば、いとしのびて、人のさぶらはぬもののひまひまに、をととしの夏ごろより、一三『白氏文集』。唐の詩人白居易 ( 楽天 ) の詩集。七十一巻。 ふみにくわん 楽府といふ書二巻をぞ、しどけなながら教へたてきこえさせてはべる、隠しは一 0 この記事が寛弘六年 ( 一 00 九 ) の こととすれば、「をととし」は寛弘 一七 へり。宮もしのびさせたまひしかど、殿もうちもけしきを知らせたまひて、御四年をさすことになる。 212 がふ わらは 一四 ふみ
右の鈴木説は周到かっ鋭利であり、現行の自作説のほとんど根幹をなすといえよう。ただしこの説にして も、決定的な徴証というわけにはゆかず心証の範囲にとどまるものであることは、いうまでもない。 ロ こうした中で、新しい他作説の明徴が提出され学界に大きな波紋を投じたのは、作者を藤原俊成とする説 部であった ( 川瀬一馬「和泉式部日記は藤原俊成の作」『青山学院女子短大紀要』第二輯昭和二八・九 ) 。あらたに紹 泉 介された寛元本系統の黒川家旧蔵本・田中家旧蔵本の奥書を読解することから導かれたもので、この奥書の 和 しきご 識語は定家が父俊成の老病の後の作であることを明記したものだという結論である。しかしこの説に対する 反論も強く、この識語が『たまきはる』 ( 『建春門院中納言日記』 ) の奥書の一部と同文であることから、本来 は『たまきはる』に属する識語であったのが混人したと解すべきだという立場が多かった。 その後の他作説で目につくものとしては、田日記中の和歌は『千載集』に収められたのが最初だから、日 記の成立は『千載集』撰進後であろう。女 ( 和泉式部 ) の好色な私行に対する非難が記されていて、本人 の筆とは思われない。 3 自己の体験しえぬ事がらや心情描写が述べられているのは不自然。また女の心情描 写が多いのは、第三者が作者であっても起り得る。④事実との矛盾、引歌との関係等々に他作説を想定させ るものがある ( 山岸徳平『和泉式部日記』日本古典全書昭和三四 ) 、等の要点である。徴証に重きを置いた他作 説として注目されよう。 しかし右の場合も確たる徴証とはいえず、要するに現状においては、作者決定の問題はこの日記の特質の よみとり方如何にかかわっているという他はない。そう考えるとき、ためらいを超えて言うならば、それは おのずから和泉式部自作の立場にかたむかざるをえないであろう。贈答歌の応酬のあやを地の文で生き生き と活かすことができたのは、やはり恋の当事者をさしおいて考えられないのではあるまいか。和歌と地の文 116
参考文献 潮社 主要注釈書 日 主要研究書 部和泉式部日記 ( 岩波文庫 ) 清水文雄昭 ( 昭改版 ) 和泉式部全集本文・資料篇吉田幸一昭・れ 泉岩波書店 和 文庫 和泉式部日記新註玉井幸助昭世界社 和泉式部日記の研究大橋清秀昭初音書房 和泉式部日記考注尾崎知光昭四文京書院 和泉式部日記 ( 日本古典文学大系 ) 遠藤嘉基昭岩新講和泉式部物語遠藤嘉基昭塙書房 和泉式部研究一ー和泉式部日記の基礎的研究ー、一一ー書写と伝 波書店 9 ・ 2 古典文庫 承による和泉式部歌考ー吉田幸一昭 3 4 和泉式部日記 ( 日本古典全書 ) 山岸徳平昭朝日新 平安朝日記Ⅱ ( 日本文学研究資料叢書 ) 昭有精堂 聞社 和泉式部日記論攷森田兼吉昭笠間書院 全講和泉式部日記円地文子・鈴木一雄昭至文堂 和泉式部日記伝本攷伊藤博昭桜楓社 和泉式部日記 ( 日本古典文学全集 ) 藤岡忠美昭恥 和泉式部主要書 学館 和泉式部日記 ( 鑑賞日本古典文学 ) 清水文雄昭角和泉式部集・和泉式部続集 ( 岩波文庫 ) 清水文雄昭引 ( 昭新版 ) 岩波書店 川書店 和泉式部、 ( 日本詩人選 ) 寺田透昭筑摩書房 和泉式部日記 ( 日本古典新書 ) 鈴木一雄昭引創英社 和泉式部いのちの歌篠塚純子昭引至文堂 和泉式部日記 ( 講談社文庫 ) 川瀬一馬昭講談社 和泉式部日記 ( 講談社学術文庫 ) 小松登美昭講談社和泉式部馬場あき子昭美術公論社 和泉式部日記 ( 鑑賞日本の古典 ) 阿部俊子昭尚学女性と民間伝承柳田国男昭 7 岡書院 ( 『柳田国男先 生著作集』第七冊として昭和年に実業之日本社から再 図書 刊。また『定本柳田国男集』第八巻にも所収 ) 和泉式部日記 ( 新潮日本古典集成 ) 野村精一昭新 128 古典
ひやうぶ ごんちゅうなごん 泣きしたまふ。権中納言、すみの間の柱もとによりて、兵部のおもとひこしろ一藤原隆家。 ニ中宮女房。九月九日に倫子か らの菊の着せ綿を式部のもとに届 ひ、聞きにくきたはぶれ声も、殿のたまはす。 けたことがあった ( 一四五 ) 。 日 おそろしかるべき夜の御酔ひなめりと見て、ことはつるま三無理に引っぱること。「ひこ やちとせ づらふ」とも。 式〔三一〕八千歳の君が御代 さいしゃう 紫 まに、宰相の君にいひあはせて、隠れなむとするに、東四頼通・教通など。 五藤原兼隆。道長の甥。 ふたりみちゃう きんだち五 面に、殿の君達、宰相の中将など入りて、さわがしければ、二人御帳のうしろ六宰相の君と式部の二人。 宅道長が式部と宰相の君に賀歌 に居かくれたるを、とりはらはせたまひて、二人ながらとらへ据ゑさせたまへを詠むことを所望したのである。 ^ 「いかに」に「五十日」をかけ、 り。「和歌ひとつづっ仕うまつれ。さらば許さむ」とのたまはす。いとはしく「八千歳のあまり」はそのまま「あ まり久しき」とかけ続けている。 「五十日」を巧みに詠みこんで若宮 おそろしければ聞こゅ。 の御代の長寿を祝った歌。 やちとせ 九「あしたづ」は葦の水辺の鶴。 いかにいかがかぞへやるべき八千歳のあまり久しき君が御代をば よわい 千年の鶴の齢を頼んで若宮の将来 「あはれ、仕うまつれるかな . と、ふたたびばかり誦せさせたまひて、いと疾を見届けたいという道長の気持を 詠んだもの。 一 0 心にかけている若宮のこと。 うのたまはせたる、 = 千年でも満足できないほどの 末長い若宮のご将来。 あしたづのよはひしあらば君が代の千歳の数もかぞへとりてむ 一ニ「御前」は敬称。宮さま。 一 0 さばかり酔ひたまへる御心地にも、おぼしけることのさまなれば、いとあはれ一 = 「仕うまつる」は、する、行う の謙譲体。和歌を上手に詠みまし に、ことわりなり。げにかくもてはやしきこえたまふにこそは、よろづのかざたよ。 ( 現代語訳一一五〇 ) 176 おもて 四 つか い ちとせ ひむがし と
記』、家集に『和泉式部正集』『和泉式部 仁和寺の僧正と呼ばれた。寛仁三年 ( 一 0 一 続集』がある。 九 ) 大僧正。 ( 五十五歳 ) 朝 うこん みゐぞらないぐ 三井寺の内供の君永円〔天元三 ( 九合 ) 、長右近右近の蔵人とは別人か。素姓未詳。 うこんくらうど 久五 ( 一 0 四四 ) 五・二〇 ( 六十五歳 ) 〕村上右近の蔵人女蔵人。素姓未詳。 おさゑもん 天皇の皇子致平親王の子。母は源雅信の大左衛門のおもと本文に「備中守むねと きの朝臣のむすめ、蔵人の弁の妻ーとあ 娘。後に大僧正、園城寺長吏。 ( 二十九 るが、「むねとき」は「みちとき」の誤 歳 ) ゐんげんそうづ りか。橘道時の娘。藤原広業の妻。小左 院源僧都〔天暦八 ( 九五四 ) 、万寿五 ( 一 0 一一 0 五 ・二四 ( 七十五歳 ) 〕光孝平氏。陸奥守 衛門の姉。朝 おもく 平元平の子。少僧都、法性寺座主。後に大木工小木工の姉か。 きよいこみやうぶ 第二十六代天台座主。 ( 五十五歳 ) 清子の命婦橘清子。従三位、典侍。もと 中関白道隆の妾で井手少将好親を生んだ 女房 人か。大納言橘好古の娘とする説もある。 イんしきぶ 源式部割注に「かゝのかみ景ふかむす 【彰子中宮付女房】 め」とあるが末詳。絵巻本文には「しけ あてき中宮付の童女。 いせびと 伊勢人若年。素姓末詳。伊勢大輔とは別 のロ」。従五位下、加賀守源重文の娘か。 くらうど げん 人か 源の蔵人女蔵人。素姓未詳。 こざもん いづみしきぶ り左衛門割注に「こひちうのかみ道とき 和泉式部 ( 和泉 ) 〔天延三 ( 九七五 ) ごろ、万寿 か女」とある。橘道時の娘。大左衛門の 四 ( 一 0 一一七 ) ごろ ( 五十三歳ぐらい ) 〕越前 おもとの味。 覧守大江雅致の娘。母は平保衡の娘、介の こせうしゃうきみ 小少将の君 ( 小少将・少将の君 ) 源雅信の 物内侍。橘道貞と結婚して小式部を生んだ。 人 冷泉天皇の皇子為尊親王・敦道親王など 子右少弁時通の娘。道長妻倫子の姪にあ 場 たる。長和二、三年 ( 一 0 一三、四 ) ごろ没か。 登と交渉をもち、藤原保昌の妻ともなった。 式部ともっとも親交があった。 奔放な情熱的歌人として有名。中宮彰子 ごせち・ヘん 0- への出仕は寛弘六年初夏ごろか。敦道親五節の弁平中納言惟仲の養女。惟仲は平 珍材の子。中納言、従二位。寛弘一一年 ( 一 王との愛の交渉をつづった『和泉式部日 きみ 09 ) 五月大宰府で薨じているから、中宮 出仕は寛弘二年春ごろか。五節の舞姫を っとめたことがあったのでこの名がつい たのであろう。⑩ こだいふたいふ 小大輔 ( 大輔 ) 若年。素姓末詳。 こちゅうじゃうきみ 小中将の君躾子内親王の乳母。中将の命 婦。寛弘五年五月躾子内親王薨後、中宮 彰子に出仕したと考えられる。中将乳母 とよばれた。 こひやうぶ 月兵部割注に「蔵人なりなかちか、女」 とあるが末詳。絵巻本文は「蔵人なるち かた、か女」とあり、藤原庶政の娘か 庶政は典雅の子で六位蔵人。 こひやう 小兵衛割注に「左京かみあきまさ女」と ある。左京大夫十市明理の娘。 こまのおもと素姓未詳。「おもとーと呼 うねめこまのたかしま んでいるので采女少高嶋とする説は疑問。 こむまこま 小馬 ( 小馬 ) 割注に「左衛門佐道のふか 女」とある。高階道順の娘。大馬の父成 順とは従兄味になる。寛弘七年ごろから は出仕しなくなったらしい。⑩ 小木工割注に「もくのせう平のふよしと いひけん人のむすめなり [ とある。「の ふよし」は「のりよしーの誤りか。平文 義の娘。大木工の妹か。 こまもん 小衛門素姓未詳。小左衛門の誤りか。
紫式部日記 紫式部 事 % 天皇年号西腐 推定年齢 一条長徳四九九八一一六歳一月、宣孝、右衛門権佐に任ず。 春ごろ、式部、越前より帰京。 四月、宣孝、賀茂祭の舞人をつとめる。このころ宣孝、再度 求婚。 長保元九九九一一七歳一月、宣孝 ( 四十七歳 ) と結婚。 十一月、道長の長女彰子人内 十一月末、宣孝、宇佐使となって西下。 ( 十一一歳 ) 。一条天皇第一皇子敦 康親王誕生 ( 母定子 ) 。 長保一一一〇〇〇一一八歳ニ月、宣孝、西国より帰京。 ニ月、彰子中宮となる。 この年、長女賢子誕生。 十ニ月、皇后定子崩御 このころ、『源氏物語』執筆開始か。 長保一一一一〇〇一二九歳春、為時、越前より帰京。 春、夏のころ、疫病流行。 四月一一十五日、宣孝没。式部一年の喪に服す。 十ニ月、東三条院詮子崩御 長保四一〇〇一一三〇歳一月、求婚する者あり。 六月、為尊親王没。 長保五一〇〇三三一歳五月、為時、御堂七番歌合に出席。このころ、道長より娘の『和泉式部日記』の記事、この 出仕を懇望される。 年四月より始る。 寛弘一一一〇〇五三三歳十ニ月一一十九日夜、中宮彰子のもとに出仕。 十一月、道長四十賀。 寛弘三一〇〇六三四歳このころ、出仕後も里居がち。 七月、道長法性寺の五大堂建立。 寛弘四一〇〇七三五歳夏ごろより、中宮に『白氏文集』の「楽府」二巻を進講す。 寛弘五一〇〇八三六歳三月十四日、為時、正四位下蔵人左少弁となる。このころ、 この年、『更級日記』作者、孝 『源氏物語』の一部成る。 標女誕生。 四月十一二日、中宮、土御門邸に退出。 五月一日、土御門邸法華三十講開始。 六月二十四日、中宮、内裏へ還啓。 七月十六日、中宮再び土御門邸へ退出。現存『紫式部日記』 項 参考事項 この年、疱瘡流行。
なかっかさのみやともひら 以前に結婚の体験があったと見るのが妥当と思われる。日記によると、式部は中務宮具平親王家に関係が あったようであり、事実系譜の上でも遠縁に当っているし、父も出人りしていたようなので、あるいは初婚 旨ロ 前後に中務宮家へ出仕した経験があったのかもしれない。家集によれば、少女期の式部には明るく勝気な性 部格がうかがわれるが、それが日記に見られるような宮仕え嫌悪感や憂鬱な気分を生ずるようになるのも、こ の初度の出仕前後の経験のあまりよくない印象によるものではないかと思われる。式部が中宮彰子出仕以前 しこうな に宮仕えしていたという明徴はないが、その推察を助けるものとして式部という伺候名に注目したい。女房 の伺候名は通常その女性の父兄とか夫とかの後見的立場にいる男性の官職名から名付けることが多いが、そ とうしきぶ の点藤式部という伺候名が彰子中宮出仕に際して付けられたとすると、その呼称の由来がはっきりしない。 さんに 出仕当時父為時は散位であり、それ以前は越前守であったから、この時期に為時の娘に伺候名を与えるとす たかみつしきぶのじよう れば越前という国名がもっとも概然性が高い。寛弘二年 ( 一 00 五 ) 三月、亡夫宣孝の異腹の子隆光が式部丞に なるが、それを呼名とするにはあまりに離れすぎよう。それよりもこれはやはり父の官職からとったと見る しきぶのたいじよう べきで、それならば式部と名付けられた時期も父為時が式部大丞になった寛和二年 ( 九会 ) ごろから越前守 に任じたころまでをめどに考えるべきであろう。この間の式部の年齢は十四、二十四歳ぐらいであり、二十 歳前後で中務宮家へ出仕した時、そこで藤式部と名付けられたとしても不審はない。その伺候名が彼女の文 才とともに著名になったとすれば、彰子中宮出仕に際しても当然その呼名は継承されたであろう。しかし、 新しい職場ではおのずから『源氏物語』の作者としてのイメージが強く、やがて紫式部というあだ名が通用 となったと考えられる。 さえもんのごんのすけ かたいこ 宣孝との結婚の翌年、夫は左衛門権佐になり、二人の間には一女賢子が生れた。しかしその幸福な家庭生 けんし 282 ゅううつ しようし
まさみち い ) ⑩ 前大和守。後に従四位下、備前守。⑩ 源雅通 ( 四位の少将・源少将 ) 〔 ? 、寛仁 すけなり ゆきよし 元 ( 一 0 一七 ) 七・一〇〕時通の子。母は但平行義 ( 行義 ) 平親信の子。前武蔵守。後藤原資業 ( 式部の丞資業 ) 〔永延一一 ( 究 0 、 延久二 ( 一 0 七 0 ) 八・二四 ( 八十一二歳 ) 〕藤 に従四位下。⑨ 馬守源堯時の娘。倫子の甥、彰子の従兄 ためとき 原有国の子。母は橘仲遠の娘徳子。式部 弟にあたる。従四位下、蔵人、右近衛少藤原為時 ( 親・父 ) 紫式部の父。〔天暦元 丞、蔵人。寛弘五年十月十七日敦成親王 ( 九四七 ) ごろ、寛仁一一 ( 一 0 一 0 以後〕雅正の 将。寛弘五年十月十七日敦成親王家家司。 家家司。 ( 二十一歳 ) ⑩ 三男。母は藤原定方の娘。文章生出身の 後に正四位下、丹波守、中宮亮。⑩ かねとき なりまさ 文人。寛弘五年三月蔵人左少弁。寛弘八尾張兼時 ( 兼時 ) 左近将監。神楽の人長と 源済政 ( 美濃の少将・源少将 ) 〔 ? 、長久 して当代の舞の名手であった。 年二月越後守。長和五年 ( 一 0 一六 ) 三井寺で 二 ( 一 0 四 l) 〕時中の子。母は藤原安親の なかりぶ 六人部仲信 ( 仲信 ) 中宮職侍長。 出家。 ( 寛弘七年六十四歳ぐらい ) 娘。従四位下、右近衛権少将。寛弘五年 はりま かみ まりえい ひろなり 藤原広業 ( 蔵人の弁・蔵人の弁広業 ) 〔貞播磨の守藤原行成・藤原有国・藤原陳政 十月十七日敦成親王家家司。笛・鞠・郢 きよくわごんそう ・平生昌などが考えられるが、行成・有 元一一 ( 九七七 ) 、万寿五 ( 一 0 一一 0 四・一一一 ( 五十 曲・和琴・箏の名手であった。美濃守の 国は他に別称で敬語を用いて呼ばれてい 一一歳 ) 〕参議藤原有国の次男。母は周防 任官は未詳。⑩ たかちか るので疑問。陳政は寛弘四年 ( 一 8 七 ) 正月 守藤原義友の娘。正五位下、蔵人、右少 大江挙周 ( 挙周 ) 〔 ? 、永承元 ( 一 0 四六 ) 六〕 十五日に播磨守を辞している。生昌は美 弁、東宮学士、備後介。寛弘五年十月文 大江匡衡の子。母は赤染衛門。正五位下、 作介平珍材の次男。寛弘六年八月には播 章博士。 ( 三十一一歳 ) ⑩ 筑前権守、文章博士。寛弘五年十月十七 みちまさ 磨守であった。なお生昌の兄惟仲は式部 日敦成親王家家司。後に正四位下、東宮藤原道雅 ( 蔵人の少将 ) 〔正暦三 ( 究一 l) 、天 の同僚五節の弁の養父。① 喜二 ( 一 0 五四 ) 七・二〇 ( 六十三歳 ) 〕中関 学士、和泉守、式部権大輔、大学頭。⑩ びっちゅうかみ これか 白道隆の孫、伊周の長男。母は大納言源備中の守むねとき「むねとき」は「みち 藤原惟風 ( 惟風の朝臣 ) 長良流文信の子。 おおさえもん とき」の誤りか。橘道時は大左衛門のお 重光の娘。幼名松君。正五位下、蔵人、 備前守。寛弘六年 ( 一 00 九 ) 十月十七日敦成 もと・小左衛門らの父。① 右近衛少将。 ( 十七歳 ) 覧親王家家司。後に従四位上、中宮亮。⑩ をはりかみちかみつ のぶのり すけみつ 物藤原佐光 ( 信濃の守佐光 ) 貞嗣流、内匠頭藤原惟規 ( 兵部の丞・式部の丞 ) 〔天延一一一尾張の守近光藤原知光か。美作守藤原為 人 昭の子で、権中納言藤原文範の養子。東 ( 九七五 ) ごろ、寛弘八 ( 一 0 一 l) ごろ ( 三十七歳 藤原尹甫の三男。信濃守、中宮大進。後 場 宮大進。寛弘五年十月十七日敦成親王家 ぐらい ) 〕藤原為時の長男。母は右馬頭 登に従四位下、皇后宮亮。 とにまさ 家司。後に正四位下、備中守。 藤原為信の娘。紫式部の弟。少内記を経 藤原遠理 ( 遠理 ) 兼輔の曾孫。善理の子。 ちかずみきみ て兵部丞、蔵人。寛弘六年式部丞。斎院近澄の君清原近澄か。従五位上、右大史、 大膳大夫。後に従四位下、若狭守。⑩ かィまさ 周防守。 の中将と親交があった。 ( 三十四歳ぐら 藤原景斉 ( 景斉の朝臣 ) 長良流国章の子。