若宮 - みる会図書館


検索対象: 完訳日本の古典 第24巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記
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1. 完訳日本の古典 第24巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記

子だ、不真面目のようだ、の意。 か、あざればましと思へば、はなたず。 んいか しもっき・ついたち 御五十日は霜月の朔日の日。例の、人々のしたててまうの一四若宮誕生後五十日目の祝い。 〔三 0 〕御五十日の祝い 一五左右に分れて物を出し合い ものあはせ おまへ えあわせおうぎあわせかい 十一月一日 優劣を競う遊戯。絵合・扇合・貝 ぼりつどひたる御前の有様、絵にかきたる物合の所にぞ、 あわせ 合など。男女が正装して列座した 物合せの絵の光景と比較したもの。 いとよう似てはべりし。 一六中宮と若宮の御膳。 みきちゃう みちゃうひむがしおまし 宅中宮に供する食膳。母になっ 御帳の東の御座のきはに、御儿帳を奥の御障子より廂の柱まで、ひまもあら たので「大宮」と呼んだ。 せず立てきりて、南面に御前のものはまゐり据ゑたり。西によりて、大宮のお入沈の香木で作った折敷。 一九陪膳の仗。 一九 ちんをしき ニ 0 「釵子」は髪を上げるために用 もの、例の沈の折敷、何くれの台なりけむかし。そなたのことは見ず。御まか いる飾りの金具。陪膳に奉仕する もとゆひ なひ宰相の君讃岐、とりつぐ女房も、釵子、元結などしたり。若宮の御まかな女房は髪上げをして釵子を挿す。 ニ一宴席の飾り物で、洲や浜辺の / さき御台、御皿ども、御箸の景を模した盤台。多く巌・鶴・松 ひは大納言の君、東によりてまゐり据ゑたり。ト など祝賀の景物をあしらってある。 ひひなあそ すはま 台、洲浜なども、雛遊びの具と見ゅ。それより東の間の廂の御簾すこし上げて、 = = 当時の幼女の室内遊びで、紙 作りの小さな人形に家や調度や衣 なかっかさ 弁の内侍、中務の命婦、小中将の君など、さぺいかぎりぞ、取りつぎつつまゐ装などを配して遊ぶ。 1 イロ 日 ニ三内裏女房。敦成親王の乳母。 きんじさ 品禁色の着用を許される。禁色 気る。奥にゐて、くはしうは見はべらず。 は勅許なしでは着用を禁じられて 紫 こよひせふ めのとニ四 今宵、少輔の乳母、色ゆるさる。ただしきさまうちしたり。宮抱きたてまいた装束の色をいう。親王の乳母 として重んじられたのである。 つれり。御帳のうちにて、殿の上抱きうっしたてまつりたまひて、ゐざり出 = = 整 0 ていて乱れていないさま。 さぬき おもて一六 みさうじ ひむがしま ひさし さら いだ 一セ はし

2. 完訳日本の古典 第24巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記

ない の弁して案内は奏せさせたまふめり。 一六御礼の拝舞をしたのである。 一五 一セ同じ藤原氏でも門流の別な人 うちかんだちめ あたらしき宮の御よろこびに、氏の上達部ひきつれて拝したてまつりたまふ。人。ここは道長一族でない公卿。 入「別当」は本官以外に別の職務 かど べたう を担当する意。ここは中宮大夫右 藤原ながら門分かれたるは、列にも立ちたまはざりけり。つぎに、別当になり あつひら まん 衛門督藤原斉信が敦成親王家の政 ゑもんかみみやだいぶ ニ 0 すけ じじゅうさいしゃう どころ たる右衛門の督、大宮の大夫よ。宮の亮、加階したる侍従の宰相。つぎつぎの所の長官となったのである。 一九右衛門督の説明。「大宮」は若 ぶたふ 宮の御母、つまり彰子中宮。 人、舞踏す。宮の御かたに人らせたまひてほどもなきに、「夜いたうふけぬ。 ニ 0 中宮亮。ここは中宮権亮藤原 みこし 実成のこと。この日実成は正四位 御輿寄すーとののしれば、出でさせたまひぬ。 下から従一二位へと二階級上がった。 うちおんつか しきし うぶそ またのあしたに、内裏の御使ひ、朝霧もはれぬにまゐれり。 = 一帝はこの夜子三刻 ( 一時半ご 〔ニ 0 御産剃り、職司定 ろ ) に還御になった。 そ めーー十月十七日 うちやすみ過ぐして、見ずなりにけり。今日ぞはじめて剃 一三その翌朝。十月十七日の朝。 のち きめぎめ ニ三帝からの後朝の御使いである。 いたてまつらせたまふ。ことさらに行幸の後とて。 うぶそ 品若宮の御髪の産剃りの儀。 しき べたうニ七 また、その日、宮の家司、別当、おもと人など、職定まりけり。かねても聞 = 五「そぐ」が「殺く」「退く」に通 ずるのを忌んで行幸前を避けた。 実親王家の家司。 記かで、ねたきこと多かり。 日 毛親王家の侍者。 部 日ごろの御しつらひ、例ならずやつれたりしを、あらたまりて、御前の有様夭若宮関係の人事に際して、前 式 紫 もって縁者を推挙する機を失った いとあらまほし。年ごろ心もとなく見たてまつりたまひける御ことのうちあひことを式部は残念に思ったのであ ろう。 て、明けたてば、殿の上もまゐりたまひつつ、もてかしづききこえたまふ。に = 九はなやかで盛んなさま。 うへ い はいぶ

3. 完訳日本の古典 第24巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記

297 紫式部日記年譜 このころからの記事あり。 ごしゅゼん 七月二十日、中宮御産のための御修善あり。このころ道長、 おみなえし 女郎花を式部に示し歌を贈答する。 まけわざ 七月末、播磨守、碁の負態をする。 ( 播磨守は、藤原行成、 藤原有国、平生昌などの説がある ) たきもの 八月一一十六日、中宮、薫物を調合される。 九月九日、倫子より菊の着せ綿を贈られる。 九月十一日、敦成親王 ( 後一条天皇 ) 誕生。三・五・七・九夜 うぶやしない の産養催さる。 十月十六日、天皇、土御門邸行幸。 十月十七日、若宮、産剃、職司定め。 十一月一日、御五十日の祝宴。公任、「若紫やさぶらふ」と 紫式部に戯れる。 十一月十日ごろ、『源氏物語』の冊子作りをする。 十一月十七日、中宮、若宮、内裏還啓。馬の中将と同車して お供する。 十一月二十日、五節の舞姫を見物する。 十一月二十八日、賀茂の臨時祭。 十ニ月中旬、退出。 十二月二十九日、中宮のもとに帰参。初宮仕えの回想にふけ る。 ついな 十二月三十日、追儺。内裏に引きはぎあり。 いただきもちい ニ月、中宮、若宮の呪咀事件発 寛弘六一〇〇九三七歳一月三日、若宮戴餅の儀。 覚する。伊周朝参停止。初夏、 三月四日、為時、左少弁に任ず。 夏ごろ、道長と歌を贈答する。道長、夜、式部の局の戸をた和泉式部、中宮彰子に出仕。 七月、具平親王没。 九月十一日、中宮、土御門邸内御堂へ詣でる。 ( 六月二十一

4. 完訳日本の古典 第24巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記

すけ には中宮の亮、これは今度位のあがった侍従の宰相のこと。 んなご様子は、まことに格別の趣である。 はいらい つぎつぎに人々が拝礼の舞踏をする。主上が中宮さまのお 〔 = 九〕中宮の大夫と中宮日が暮れて月がとても風情のあるこ すけ すけ の権の亮 部屋におはいりになって間もないうちに、「夜がたいそう ろに、中宮の亮が、誰か女房にあっ ふ みこし 更けました。御輿を寄せます」と人々が声高にいうので、 て、特別に位があがったお礼でも中宮さまに啓上させよう かんぎよ うぶゅ 主上は還御になられた。 というのであろうか、妻戸のあたりも、若宮のお産湯をお しきし 〔ニ 0 御産剃り、職司定その翌朝、宮中からの勅使が、朝霧 つかいの様子で湯気に濡れて、人音もしなかったので、こ めーー十月十七日 もまだはれないうちにやってこられちらの渡り廊下の東の端にある宮の内侍の部屋に立ち寄っ た。私はつい寝すごして、それを見ないですごしてしまっ て、「ここにおいでですか」と声をおかけになる。さらに さいしよう さん しとみ た。今日、はじめて若宮のお髪をお剃り申しあげなさる。 宰相は私のいる中の間によって、まだ桟のさしていない蔀 どうし とくに行幸の後にしようということで、今までお剃りにな格子の上側を押し上げて、「いらっしゃいますが」などと らずにおかれたのである。 言われたが、出て行かないでいると、今度は中宮の大夫が、 また、その日に、若宮付の家司や別当や侍者などの職官「ここにおいでですか」とおっしやる、それまでも聞かな が定まった。そのことを前もって聞いていなかったので、 いふりをしているのも、もったいぶっているようなので、 残念に思うことが多い。 ちょっとした返事などをする。お二人とも、まったく、何 このごろの中宮さまのお部屋の設備は、お産のために平の物思いもないようなご様子である。宰相は、「私へのご 酩素とちがって簡素であったが、またもとにあらたまって、 返事はなさらないでおいて、大夫を特別にご待遇なさるな 式御前の有様はまったく申分がない。ここ数年来待ち遠しく んて、もっともなことですが、よくないですな。こんな私 紫 お思いになられていた皇子誕生のことが思いどおりになっ的なところに、上官との差別をはっきりつけるなんてあり とうと て、夜が明けると、すぐに殿も北の方も若宮の所へやって ますか」と、おとがめになる。そして「今日の尊さや さいイら うた こられては、たいせつにお世話なさる。そのはなやかで盛 : 」などと、催馬楽をいい声でお謡いになる。 うぶそ ぐし

5. 完訳日本の古典 第24巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記

いにまぎれてのことと見受けられる。ご冗談だけでたいし紙とか、筆、墨などを、何度か持っておいでになり、はて すずり たこともないので、不安な気持はしながらも結構なことと は硯までも持っておいでになったので、中宮さまがその硯 思う。聞いておいでになった北の方は、聞きづらいと思わ を私にご下賜になったのを、殿は大げさに惜しみ騒いで、 れたのか、あちらへおいでになるご様子なので、「お送り 「いつも物の奥で向いはべっているくせに、こんな仕事を しないと言って、母上がお恨みなさるといけないな」と言 しはじめるとは」とおとがめになる。けれども殿は、りつ みちょうだい すみばさ って、は急いで御帳台の中をお通り抜けになる。「宮は ばな墨挟みや墨や筆などを私にくださった。 さぞ無作法だとお思いじやろう。だが、この親があるから 自分の部屋に、物語の原本を実家から取り寄せて隠して こそ子供もりつばになったのじゃ」と、ひとりごとにおっ おいたのを、私が中宮さまの御前に出ているあいだに、殿 しやるのを、女房たちはお笑い申しあげる。 がこっそり部屋においでになって、お探し出しになって、 ないし みそうし 中宮さまが内裏へ還御なさるべきこ みんな内侍の督の殿にさしあげておしまいになった。まず 〔三ニ〕御冊子つくり とも近くなったけれど、女房たちは、 まずという程度に書き直しておいた本は、みな紛失してし いとま 行事がいろいろと引き続いてゆっくりとくつろぐ暇もない まっていて、手直しをしていないのがみなの目に触れるこ のに、中宮さまには、物語のお冊子をおっくりになられる とになってしまい、きっと気がかりな評判をとったことで おまえ というので、私は夜が明けると真っ先に御前にさし向い伺しようよ。 候して、色とりどりの紙を選びそろえて、それに物語のも 若宮は、もう「あ、う」などとお声 〔三三〕若宮の御成長 酩との本を添えては、あちらこちらに、書写を依頼する手紙 をお出しになる。主上におかせられ さんだい ては、若宮のご参内の日を待ち遠しくお思いになるのも、 式を書いてくばる。またいつぼうでは、書写したものを綴じ 集めて整理するのを仕事にして日を送る。殿は、「どのよ まことにもっともなことである。 御前のお庭の池に、水鳥の群が日に うなお子持が、この冷たい時節にこんなことはなさるの 〔三巴里居の物憂い心 か」と、中宮さまに申しあげなさるものの、上等の薄様の 日に多くなってゆくのを見ながら、 こう そうし すみ かんとの

6. 完訳日本の古典 第24巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記

紫式部日記 276 返歌、 「人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは〔老〕若宮たちの御戴今年は正月一二日まで、若宮がたが、 もちい いただきもちい ロならしけむ 餅ーー寛弘七年正月御戴餅の御儀のために、毎日清涼 じようろう ( 私はまだどなたにもなびいたことはございませんのに、い殿におのぼりになる、そのお供に、みな上﨟の女房がたも さえもんかみ ったいだれが、この私を浮気者などとは言いふらしたのでご参上する。左衛門の督が、若宮がたをお抱き申しあげなさ ざいましようか ) って、殿がお餅は取り次いで、主上におさしあげになる。 ふたま 心外なことですわ」と申しあげた。 二間の東の戸に向って、主上が若宮がたのおつむにお餅を 渡り廊下にある部屋に寝た夜、部屋 いただかせなさるのである。若宮がたが抱かれて主上の御 まえ 〔五六〕戸をたたく人 の戸をたたいている人がいる、と聞前に参上したり退下したりする儀式作法は、すばらしい見 いたけれど、恐ろしさにそのまま答えもしないで夜を明か ものである。母宮さまはおのぼりにならなかった。 イいん した、その翌朝に、殿より、 今年の元日は、御薬の儀のご陪膳役は宰相の君で、例の くひな しようけ 夜もすがら水鶏よりけになくなくぞまきの戸ぐちにた生気の衣装の色合など、いつもと違っていてとても趣があ によくろうど たくみひょうご たきわびつる る。取次の女蔵人は、内匠と兵庫が奉仕する。髪上げをし くいな ( 夜通し水鶏がほとほとたたくにもまして、わたしは泣く泣 た容貌などこそご陪膳役は格別りつばにお見えになるけれ く槙の戸口で、戸をたたきながら思い嘆いたことだ ) ど、しかしそのお務めの胸中をお察しすると、私はたまら なくせつない気持になるのですよ。御薬の儀の女官に出て ふやはかせ ただならじとばかりたたく水鶏ゅゑあけてはいかにく いる文屋の博士は、しきりに利ロぶって才ありげにふるま やしからまし っていた。献上された膏薬が式後人々に配られたが、それ ( ただではおくまいとばかり熱心に戸をたたくあなたさまの らは例年行われることである。 だいきよう りんじきやくわ ことゆえ、もし戸をあけてみましたら、・ とんなにか後悔した 〔犬〕中宮の臨時客・子二日、中宮さまの大饗は停止になっ りんじきやく の日の遊び ことでございましようね ) て、臨時客が、東面の間をすっかり ( 原文二一七 ) とうやく

7. 完訳日本の古典 第24巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記

すけなり やっと式部の丞資業が参って、あちらこちらの灯台のさ きに、中宮さまのおいでになる方で、はげしい悲鳴がする。 弁の内侍をゆり起したが、すぐにも起きない。だれかが泣し油をただ一人で注いでまわられる。女房たちの中には、 うぜん もうただ茫然としてしまって、顔を見合せたまますわりこ き騒いでいる声が聞えるので、とても恐ろしく、どうして んでいるものもある。主上から中宮さまにお見舞のお使い よいかもわからない。火事かしら、と思ったが、そうでは などがっかわされた。ほんとうにとても恐ろしゅうござい ない。「内匠の君、さあさあ」と、内匠の蔵人を前におし おさめどの ましたよ。中宮さまは、納殿にあるご衣装を取り出させて、 たてて、「ともかくも、中宮さまは下のお部屋にいらっし と この盗まれた人々にたまわった。元日用の晴着は盗ってい ゃいます、まずそちらへ参上してご様子をおうかがい申し あげましよう」と、弁の内侍を荒々しく突き起して、三人かなかったので、二人とも何もなかったようなふうをして いるけれども、あの裸姿は目に焼きついて忘れられず、そ がふるえふるえしながら、足も地につかないさまで参上し てみると、裸の人が二人うずくまっている。見ると靫負とれを思い出すと恐ろしいとは思うものの、今となっては何 かおかしくも感じられるが、それを口に出しておかしいと 小兵部であった。さては引きはぎであったのかと、事情が みずしどころ わかるとますます気味が悪い。御厨子所の人々も、みな退も言わないでいる。 ことい さぶらい 出しており、中宮付の侍も、滝ロの侍も、鬼やらいがすむ 0 = 〕新年御戴餅の儀正月一日、元旦なので言忌みをすべ ーー寛弘六年正月 きなのに、昨夜の一件をつい口に出 とすぐにみな退出してしまっていた。手をたたいて大声で いただきもちい かんにち おものやどり 呼んでも、返事をする人もいない。御膳宿の老女を呼び出してしまう。坎日であったので、若宮の御戴餅の儀式は ひょうぶじよう とりやめになった。それで三日の日に若宮さまは清涼殿に 酩して、それに、「殿上の間に兵部の丞という蔵人がいます、 ばいぜん おのぼりになられる。今年の若宮さまのご陪膳役は大納言 早くその人を呼んで、呼んで」と、恥も忘れて直接に言っ うわぎ くれないうちきえびぞ 紫 の君。その装束は、元日の日は紅の袿、葡萄染めの表着、 たので、老女はすぐに探したが、やはり退出してしまって うちぎぬ いた。ほんとうに、情けないことといったらこのうえもな唐衣は赤色で地摺りの裳。二日は紅梅の織物の表着、打衣 りんず の掻練は濃い紅で、青色の唐衣に色摺りの裳。三日は綸子 ゅげい からぎぬ かいねり

8. 完訳日本の古典 第24巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記

えてある。小さいお膳台や幾つかのお皿ども、お箸の台、 夜が更けるにつれて、月がとても明るい。「格子の下を ひな すはま 洲浜なども、まるで雛遊びの道具のように見える。そこか 2 とりはずしなさいよ」と、お二人はお責めになるけれども、 なかっかさ ら東にあたる廂の御簾を少しあげて、弁の内侍、中務の命 ひどく品格を下げて、こんなところに公卿がたがすわりこ 旨ロ 日まれるのも、このような私的な場所とはいうものの、やは婦、小中将の君といった主だった女房だけが、それぞれお 試りみつともない。年若い人ならばものの道理をわきまえな膳を取り次いではさしあげる。私は奥の方にすわっていて、 それらについてくわしくは見ておりません。 いようにたわむれていても、大目に見てもらえるだろうが、 しようめのと この夜、少輔の乳母が禁色の着用を許される。いかにも しかし私が何でそんなことができようか、不謹慎なことだ 端正な様子をしている。若宮をお抱き申しあげて、御帳台 と思うので、下格子はとりはずさないでいる。 の内側で、殿の北の方がお抱きとり申しあげなさって、お 〔 = 0 〕御五十日の祝いご誕生五十日目のお祝いは、十一月 ーー十一月一日 一日の日であった。例のごとく、女すわりになられたまま進み出られる、その北の方の灯火に おまえ 照らし出されたお姿は、格別ごりつばなご様子である。赤 房たちが着飾って寄り集った中宮さまの御前の有様は、絵 からぎぬじず 色の御唐衣に地摺りの御裳をきちんとお召しになっている に描いた物合ぜの場面にとてもよく似ていました。 しようし みきちょう みちょうだい のも、もったいなくもあり、また感慨深く見受けられる。 御帳台の東のご座所のきわに、御儿帳を奥の御障子の所 うちきすおうこうちき えびぞめがさね すきま ひさしま から廂の間の柱まで、隙間もないように立てきって、南面中宮さまは、葡萄染襲の五重の御袿に、蘇芳の小袿をお召 しになっておられる。五十日の祝餅は、殿がお手ずから若 の廂の間に、若宮や中宮さまのお膳部はお供えしてある。 その中の西側寄りのが母宮さまのお膳で、例のように、き宮にさしあげなさる。 にしびさし くぎよう じんおしき 公卿がたの席は、いつものように、東の対の西廂である。 っと沈の折敷とか、何やかやのりつばな台であったろう。 さぬき 私はそちらのことは見ていない。ご陪膳伐は宰相の君讃岐もうお二人の大臣もおいでになった。公卿がたは渡り廊下 もとゆい の橋の上にいらして、また酔い乱れてお騒ぎになる。多く で、お取次の女房も、釵子や元結などをしている。若宮の おりびつものこもの ご陪膳役は大納言の君で、東側に寄った所にお膳を供え据の折牘物や籠物など、それは殿のほうから宮中の侍臣がた さいし さら はし

9. 完訳日本の古典 第24巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記

くぎよう のみごとな歌を一首詠んでお出し。親の代りにね。それに 取りはらって例年のとおり催された。列席の公卿がたは、 ふ 傅の大納言・右大将・中宮の大夫・四条の大納言・権中納今日は初子の日だし、さあ、詠んだ、詠んだ」とお責めに ありくに 言・侍従の中納言・左衛門の督・有国の宰相・大蔵卿・左なる。すぐに詠みだしたとしても、ひどく不体裁なことで あろう。格別のお酔いざまのようなので、いっそうお顔色 兵衛の督・源宰相などで、お互いに向いあっておすわりに えもん も美しく、その灯火に照らし出されたお姿は輝き映えて理 なっていた。源中納言・右衛門の督・左右の宰相の中将は、 なげし てんじようびと 想的で、「この数年来、宮がお子もなく寂しそうにお一人 長押の下手の、殿上人の席の上座におっきになった。殿が 若宮をお抱きしてお出ましになられて、いつものご挨拶なでおられたのを、心寂しく拝していたのに、今ではこのよ うに、煩わしいまでも左右に若宮がたを見奉るとは、ほん どを若宮に言わせ申しあげたりして、おかわいがりになら とうにうれしいことよ」とおっしやって、おやすみになっ れる。北の方に、「弟宮をお抱き申しあげよう」と殿がお ている若宮がたを、帳台の垂絹を何度もお開きになっては っしやるのを、若宮がひどくやきもちをおやきになって、 だだ おのぞき申しあげる。そして「野辺に小松のなかりせば」 「いやーん」と駄々をこねられる、それをまたおいつくし みになられて、いろいろとなだめあやされるので、右大将とお口ずさみになる。このさい、新しい歌を詠みだされる などはおもしろがり申しあげていらっしやる。 というよりも、こうした折にびったりの古歌を吟誦される、 そうした殿のご様子が、私にはごりつばに思われたことで それから公卿がたは清涼殿に参上して、主上も殿上の間 にお出ましになられて、そこで管弦の御遊びがあった。殿した。 つぎの日の夕方、思いがけなくはや 町はいつものようにお酔いになられている。私はうるさいと かす 〔五九〕中務の乳母 ばやと霞んでいる空には、いくつも 気思って隠れていたのに見つけられて、「どうしてそなたの すきま ごぜん 紫ててご 父御は、わしが御前の御遊びに呼んだのに伺候もしないで造り続けてある御殿の軒が隙間もないほど重なりあった状 急いで退出してしまったのか。ひねくれているな」などと態で、ただ渡り廊下の上のあたりに見える空をわずかに眺 なかっかさめのと とか めながら、中務の乳母と昨夜の殿のお口ずさみをおほめし ご機嫌を損じていらっしやる。「その咎が許されるぐらい だいぶ しこう なかっかさ はつね

10. 完訳日本の古典 第24巻 和泉式部日記 紫式部日記 更級日記

ちょうげいしまかゼおんじよう がくせんっきやま まんざいらく 舞曲を奏し、長慶子を退出音声に演奏して、楽船が築山の大臣が、「万歳楽が若宮のお声に和して聞えまするわ」と さえもんかみ 先の水路のあたりを漕ぎめぐってゆくとき、だんだん遠く 言って、座を引き立たせ申しあげる。左衛門の督などは、 こだち おおとの なるにつれて、笛の音も鼓の音も松風も、奥深い木立の中「万歳、千秋」と、声をそろえて朗詠し、ご主人の大殿は、 きロ 日に一つに響きあってとても趣がある。 「ああ、これまでの行幸を、どうして名誉あることと思っ やりみず きよう 式たいそうよく手人れをされた遣水が、さも満足げな様子たのでしよう。今日のような光栄なこともありましたのに でさらさらと流れ、池の水波は立ちさざめいて、何となくね」と、酔い泣きをなさる。いまさらあらためて言うまで あこめ 寒さを覚える時なのに、主上は御衵をただ二枚だけお召し もないことだが、殿ご自身も、今日の行幸のかたじけなさ になっておられた。それを左京の命婦が、自分が寒いもの を、心から感じていらっしやるご様子なのは、ほんとうに だから、主上にご同情申しあげるのを、女房たちはくすく 結構なことである。 す忍び笑いをする。筑前の命婦は、「亡くなられた院のご 殿は、あちらの方へお出ましになる。主上は御簾の中へ やしき 在世の折には、このお邸への行幸は、とてもたびたびあっ おはいりになって、右大臣を御前にお召しになり、右大臣 たことですよ。あの折には・ 、その時には : : : 」などと は筆をとって加階の名簿をお書きになる。中宮職の役人や、 やしきけいし 故院のことを思い出して言うのを、不吉な涙もこぼしかね このお邸の家司のしかるべき者は、みんな位階があがる。 とう やっかい ないので、人々は厄介なことだと思って、ことさら相手に 頭の弁に命じて、その加階の草案は、奏上させられるもよ きちょう うである。 もならず、几帳をへだてている様子である。「まあ、その せんげ 時はどんなでしたでしよう」などとでも言う人がいようも 親王宣下という新しい若宮のご慶祝のために、この殿の はいぶ のなら、それこそきっと涙をこぼしてしまったことであろ 一族の公卿がたが、うちそろってお礼の拝舞を申しあげる。 藤原氏であっても、家門の分れた人々は、その列にもお立 おまえかんげん 主上の御前で管弦のお遊びがはじまって、たいそう興が ちにならなかった。つぎに親王家の別当に任ぜられた右衛 もんかみ のってきた時分に、若宮のお声がかわいらしく聞える。右 門の督が拝舞なさる。このかたは中宮の大夫ですよ。つぎ 246 だいぶ