徒然草 222 0 ◆前段と連続する美的評価が、こ こにも貫かれている。単に静かな 境地をよしとするだけではない。 一道理に暗い人。 ニ推しはかって。 三「拙き」。つまらない人間。 四「聡く」「機敏で頭の働く意。 五おろそか、ったない意。 六専門。方面。 セ工匠。職人。 たく 八教理を専ら学び、悟道の道を ったなき人の、碁うつ事ばかりにさとく巧みなるは、かしこき人の、この芸 おろそかにしている僧。 よろづ六たくみ におろかなるを見て、己が智に及ばずと定めて、万の道の匠、我が道を人の知九坐禅工夫、悟道に専念し、教 理には暗い僧。「褝師」は、襌定 おのれ もんじ らざるを見て、己すぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。文字の法 ( 心を集中して真理を悟ること ) に 達した法師。 あんしようんじ 一 0 自分の専門とする領域。 師・暗証の褝師、たがひにはかりて、己にしかずと思へる、ともにあたらず。 一一よしあしを判断、評価する。 おのれきうがい ぜひ ◆これまで兼好は、しばしば専門 己が境界にあらざるものをば、あらそふべからず、是非すべからず。 家を尊重する言葉を記してきた。 この段の主旨も、このことと関連 第一九四段 するが、ここではさらに、その専 門家にも限界のあることを明確に 意識し指摘している。 たつじん 一ニ人生を洞察し、道理を悟った 達人の人を見る眼は、少しもあやまる所あるべからず。 あるひと そらごと一四 いだ たとへば、或人の、世に虚言をかまへ出して人をはかる事あらんに、すなほ一三世の中にの意。 かみとけ よる 神仏にも、人のまうでぬ日、夜まゐりたる、よし。 第一九三段 くらき人の、人をはかりて、その智を知れりと思はん、さらにあたるべから まなこ おのれ 四 おのれ 人。
美しい服飾。さらに美しさ・華や かさの意ともなる。 第一九一段 宅装飾。装飾品。 穴色あい、色彩の美しさ。 一九事を簡略、簡素にする意。 「夜に人りて物のはえなし , といふ人、いと口惜し。万のものの綺羅・り ニ 0 「およすぐ」の老成、ませてい よる 一九 色ふしも、夜のみこそめでたけれ。昼は、ことそぎ、およすげたる姿にてもある意から、地味な姿をすること。 一 = きらびやかの意。 さうぞく けしき りなん。夜は、きららかに、はなやかなる装束、いとよし。人の気色も、夜の = = ( その声に ) たしなみのあるの は。この句は挿人句である。 ほかげぞ、よきはよく、ものいひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心に = = 楽器の音。 品清潔で、さつばりした様子。 ニ五日常的・私的な場。 くし。にほひも、ものの音も、ただ夜ぞ、ひときはめでたき。 実公的な晴れの場。 よ まゐ ニ四 毛身だしなみをよくしたいの意。 さしてことなる事なき夜、うち更けて参れる人の、清げなるさましたる、い ゆする ll< 「淋」。洗髪用の水をつけ、頭 髪の癖なおしをしたりすること。 とよし。若きどち、心とどめて見る人は、時をもわかぬものなれば、ことに、 ニ九そっと座を退出する意。 をりふし け はれ をとこ ニ七 蝦うち解けぬべき折節ぞ、褻・晴なく、ひきつくろはまほしき。よき男の日暮れ = 0 出仕する。元の座に出てくる。 ◆「夜のみこそめでたけれ」と、と ニ九 第てゆするし、女も、夜ふくる程にすべりつつ、・鏡とりて、顔などっくろひて出りわけ夜の美を讃美しているのは、 やはり兼好の美意識が王朝的な美 段 の流れに立っていることを意味し づるこそをかしけれ。 第 ようが、また新しい中世美を創出 しようとした一三七段などの美的 評価と連続する考えかたが、ここ 第一九二段 にも具象化されている。 ふ
くつかぶり ( 銭 ) もほし』ということを沓冠におきて」として、兼好の和歌と頓阿の返歌が収められており、南北朝の 動乱に巻きこまれたころの彼には、時には生活に困窮する時期もあったであろうことを物語っている。だか ら、おそらく晩年の執筆と想定される第二一七段に、当時の大福長者を登場させて、 とく よろづ 人は万をさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。 と、経済的な徳 ( 所得 ) を、まず蓄積すべきであり、貧しくては人間らしい生活はできないから生きている かいがないという、当時としてはまことに大胆な断言をさせているのも、けっして抽象的な一一一口葉ではなく、 彼が自ら、「よねたまへ、ぜにもほし」と述べた、おそらく切実な体験に裏打ちされているに相違あるまい。 こうして彼の晩年は、貴族にとってかわって権力を握った、足利将軍をはじめとする武家大名たちとの交 ただよし さんまいいんうのう 流が目につくのであって、たとえば、康永三年 ( 一三四四 ) 十月、足利直義による勧進の「高野山三昧院奉納和 あしかがたかうじただよし 歌」には、足利尊氏・直義、高師直などとともに、和歌五首を奉納し、また観応元年 ( 一三当四月、足利直 義の勧進により、玄恵法印五旬の忌に当って披講された「玄恵追悼詩歌」にも、尊氏・直義らにつづいて二 首出詠するなど、新興武家による詠歌の勧進や歌会等に進んで加わっていることが知られている。 こうした生活圏の変化が作品『徒然草』にいかに投影したかは、今後の課題であるが、いずれにしろ、こ 説れまで見てきたように、兼好の生活史が明らかになるにしたがって、『徒然草』の文学としての本質が、い っそう鮮明に見えてきたことは疑えないのであって、それは『徒然草』の執筆年代を一年たらずの時期に閉 解じこめていた時代には、とうてい望みえないことであった。そこで今後は、『徒然草』のそれぞれの章段に 該当する作品の執筆時点の再検討が、さらに期待されることになるわけである。
励む人は、生れついての天分がなくても、稽古の道にとど最低に愚かな人である。知りたいと思われることは、尋ね こおらず、勝手気ままにしないで、年月を過せば、芸は達聞いても、そのだいたいの様子がわかったならば、ひとと 者でも芸道に励まない人よりは、最後には上手といわれる おり不審がなくなったという程度でやめるがよい。最初か 芸位に達し、名望も十分に備り、人に認められて、比類の ら望みをおこすことがなくてすませるとしたら、それがい ない名声を得ることである。 ちばんよいのである。 世に第一流といわれる一芸の達人といっても、初めは下 うわさ 第一五二段 手だという噂もあり、ひどい欠点もあったものである。け さいだいじ じようねんしようにん まゆ れども、その人が、芸道の規律を正しく守り、これを重視 西大寺の静然上人が、腰がまがって眉が白く、ほんとう さんだい さいおんじのないだい して、気ままにふるまうことがなければ、一世の模範とな に高徳らしい様子で、皇居へ参内されたのを、西園寺内大 じんどの 、万人の師となることは、どの道でも、かわりのあるは臣殿が、「ああ、尊いご様子だ」と言って、信仰の顔つき ひのすけとものきよう ずがない。 があったところ、日野資朝卿がこれを見て、「年が寄って いるだけのことです」と申された。後日になって、むく大 第一五一段 の、みつともなく老いて、やせおとろえ、毛のはげている のを、下人に引かせて、「この様子は、尊く見えることで 段ある人がいうには、年が五十になるまで上手に達しない 芸をば、捨てるべきである。精をだして習うことのできるす」と言って、内大臣殿のところへ、さしあげられたとい 第 ~ 将来とてもない。老人のやることを、人も笑うわけにはゆ うことである。 かない。老人が衆人に交わっているさまも、うとましくみ 第一五三段 第 っともない。だいたい、その年になったら、すべての仕事 ためかねのだいなごんにゆうどう 為兼大納言人道が逮捕されて、武士たちがまわりを取り % はやめて、ひまのあるのこそ、見た目に安らかで、願わし ろくはらちょう いことである。俗世間のことに関係して、一生を暮すのは、囲んで、六波羅庁へ引っぱっていったところ、資朝卿が、 ごじっ
見えないが、長明の胸にはどのように響いたことであろう かちゃ 霊鑑寺の北隣り安楽寺では、毎年七月一一十五日に南瓜供 養を行う。この日参詣した人には、夏の土用に鹿ヶ谷南瓜 を食すると中風にかからないという真空上人の受けた夢告 道 学に従って、南瓜がふるまわれる。 学生時代に、私もこの南瓜をいただいたことがある。安 楽寺や真如堂で、土用の虫干しに宝物や蔵書を並べられる 疏ので、ふだんはなかなか見られない書物を手にとって見る ことが許されるのである。先生に連れられて、学生一二、四 人が教室外の講義を聴くという風景も、京都ならではの学 そう 問のあり方なのであろう。たしか、中国宋代の印刷物、宋 版のことも、初めてここで教わった。教室で聴いた授業は 記憶に薄れて、そんなことのほうが鮮明に残っている。 に植えられている。 ししがたに 『平家物語』で有名な鹿ヶ谷の謀議は、霊鑑寺の東の山中、法然院は、正しくは善気山獅子谷法然院と呼ぶ。法然上 しの しゅんかん 俊寛僧都の山荘で企てられたという。今日それがどこで人の旧蹟を偲び、延宝八年 ( 一六八〇 ) に知恩院の住持で まんむしんあ あった万無心阿上人が創立した寺である。山門が数寄屋風 あったか定かではないが、談合谷の名が残っている。 っ窟み になっていて、両側の藪かげには乙女椿が、多くの蕾を抱 『方丈記』の冒頭近く、有名な安元の大火 ( 一一七七年 ) の記事は、鹿ヶ谷の陰謀があばかれて、山荘の主俊寛が鬼いて春の訪れを待っている。この椿がいっせいに開く時、 かいがしまおんる 界ヶ島に遠流となった年のことである。その年、長明は一一もう一度足を運びたいと思う。 しよう 山門をくぐると、池泉の庭園に白砂が端麗に盛られ、清 十歳半ばであった。『方丈記』には事件にかかわる記述は
第一四九段 ろくじよう 鹿茸を鼻にあてて嗅ぐべからず。小さき虫有りて、鼻より人りて脳を食むと 段いへり。 第 段 4- 第 一七 きうぢ しんじけが 灸治、あまた所になりぬれば、神事に穢れありといふ事、近く人の言ひ出せ一 0 前兆。 一五灸をすえて治療すること。 きやくしきとう るなり。格式等にも見えずとぞ。 一六灸をすえる場所が多くなる意。 毛祭神の行事。たとえば、「問 けがれ フ。灸治ノ穢如何。答フ。灸三ケ はばか 所マデハ大社・宮寺共コレヲ憚ラ 第一四八段 しよく ズ。四ヶ所ニ及べ・ハ之ヲ憚ル」 ( 觸 えもんどううらべかねとも 穢問答・ト部兼倶答 ) のような説を きう じゃうき 四十以後の人、身に灸を加へて三里を焼かざれば、上気の事あり。必ず灸すいうのであろう。 穴「格」は古代法令の一種で、律 令のほかに臨時に発布された法規。 「式」は律・令・格を施行のための 細則・内規の意。 ひざがしら 一九灸点の名。膝頭の下、外側の まんあんう 少しくぼんだ所。医書『万安方』に も、「三里ニ灸セザレ・ハ、気上ガ リ目ヲ衝カシム。三里ハ以テ気ヲ 下グル所也」とある。 ふくろ・つの ニ 0 鹿の袋角 ( 新しく生えた角 ) 。 んぞうこうもく 強精剤にもちいた。『本草綱目』に は、鹿茸の中に小さい虫がいて人 第一五〇段 の鼻に人り、「虫類ト為ル」とあり、 俗説ではなく、当時の医家の説に よって記したものと思われる。 能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。う = 一芸能を身につけようとする人 ニニなまじっか。うかつに。 ちうちよく習ひえてさし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれ 一六 ところ ちひ いだ っ
◆この一三七段は、巻頭に置くに ふさわしい長文のカ編で、古来、 多くの人びとに注目され、論議の 対象にもなってきた。兼好はここ で、古典的な王朝時代以来の美意 識に対して、独自の中世的な美観 を鮮明に展開することになる。 一ニ「隈」。くもり。かげり。 一三「か」は反語の助詞、「は」は強 第一三七段 意の助詞で、強い反語表現となる。 一四「雨に対ひて月を恋ふ」 ( 類聚 みなもとのしたごう 句題抄源順 ) によるか。 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、 一五「たれこめて春のゆくへも知 ゆくへ なさけ こずゑ らぬまに待ちし桜も移ろひにけ たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情ふかし。咲きぬべきほどの梢、 よるか 一七 り」 ( 古今藤原因香 ) などによる。 みどころ こン」ばがき 散りしをれたる庭などこそ見所多けれ。歌の詞書にも、「花見にまかれりける簾や帳をたれて閉じこもり、春が どこまでふけて行ったかも気づか 段に、はやく散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるないのも情趣が深いとの意。 3 ~ 一六いまにも咲いてしまいそうな したなら かたぶ 第は、「花を見てーと言へるにおとれる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひころあい ( 程 ) の、桜の花の梢。 宅歌の作られた場所、制作の動 段 一九 ニ 0 機などを記した散文の前書。 は、さる事なれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。 第 穴「まかる」は、行くの謙譲語。 みどころ 一九もっともなこと。 今は見所なし」などは言ふめる。 かたく ニ 0 「頑な」。ここは無風流なの意。 をとこをんななさけ あ よろづ ニ一男女が出会って契りを結ぶ意。 万の事も、始め終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをばい 徒然草下 さは 一八
世にことふりたるまで知らぬ人は、心にくし。いまさらの人などのある時、こ宅 ( その ) 一端。一部分。 穴意味、わけを知らない人。 こころえ 一天 たはし こもとに言ひつけたることぐさ、ものの名など、心得たるどち、片端言ひかは◆何でも新しいものにとびつく当 世風の「よからぬ人」の像が、簡潔 一八 し、目見合はせ、笑ひなどして、心知ら・ぬ人に心得ず思はする事、世なれず、に具象化されている。言いふるさ れたころまで知らないでいるよう な古風な人こそ、兼好のよしとす よからぬ人の、必ずある事なり。 るところであった。 一九「入りた ( 立 ) つ」は、深く立ち 人る。 第七九段 ニ 0 返答。 一 = 非常に。まことに。 なにごと一九 何事も人りたたぬさましたるぞよき。よき人は、知りたる事とて、さのみ知 = = 聞いているこちらが恥ずかし くなるくらいすぐれた点もあるが。 かたゐなか よろづ ニ 0 り顔にやは言ふ。片田舎よりさし出でたる人こそ、万の道に心得たるよしのさ = = 見苦しい。みつともない。 品知り尽している方面の道には。 孟軽々しく口だしをせず。 しいらへはすれ。されば、世にはづかしきかたもあれど、自らもいみじと思へ ◆こまやかな配慮を知らぬ者とし けしきニ三 ニ五おも る気色、かたくななり。よくわきまへたる道には、必ずロ重く、問はぬ限りはて、田舎者・東国武士を、都市貴 段 族の教養人「よき人」と対照的にと らえている。そうした兼好もまた、 言はぬこそいみじけれ。 典型的な都市貴族世界の人間であ 段 ・ 6 った。 第 実疎遠な。縁遠い。 第八〇段 毛武道。「立つ」は専門の道で世 を渡る意。武道を専らにすること。 えびす あずまえびす 人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は兵の道を立て、夷は弓夭東夷。荒々しい東国武士。 ニ四 この ニ七 ほふしつはもの し 一四
ニ四 ( 現代語訳一一八五叮 ) むさ だい よろづちくるい けれ。ひとへに貪る事をつとめて、菩提におもむかざらんは、万の畜類にかはとはいっても、悪には縁遠くなり。 品悟りをひらいて往生すること。 る所あるまじくや。 ニ五「や」は疑問の助詞。 ◆「道心あらば : ・」の語は、じつは 修道の本質に遠い観念論であるこ 第五九段 とを、外縁に左右されがちの人間 を知る作者は明識し、正統的な出 家遁世に踏みきるべきことを、強 く勧奨している。 大事を思ひたたん人は、去りがたく、心にかからん事の本意を遂げずして、 実仏語「一大事」。仏道修行の大 さた さながら捨つべきなり。「しばし、この事はてて」、「おなじくはかの事沙汰し事。 毛避けがたく。取り去りにくく。 あざけり ゆくすゑな II< もうしばらく。 おきて」、「しかしかの事、人の嘲ゃあらん、行末難なくしたためまうけて」、 ニ九処置する、始末する意。 さわ 「年来もあればこそあれ、その事待たん、ほどあらじ。もの騒がしからぬゃう = 0 非難のないように。 三一処置しておいて。「まうく」は、 に」など思はんには、えさらぬ事のみいとどかさなりて、事の尽くるかぎりも前もって準備すること。 三ニこれまで何年も、こうして事 なく、思ひ立つ日もあるべからず。おほゃう、人を見るに、少し心あるきはは、なく過してきたのだからの意。 三三あれこれ事の始末を待つのに。 いちどす 品避けられないこと。 段皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。 三五分別ある程度の人々は。 はぢ 近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ。身を助けんとすれば、恥を = 宍予測。心づもり。 第 三九 毛一生。 たから 三八 むじゃうきた も顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る六寿命は人の都合を待つもので あろうか。「かは」は反語の助詞。 すみや 事は、水火の攻むるよりも速かに、遁れがたきものを、その時、老いたる親、究死。 としごろ かへり だニ い′、 すいくわ のが ニ七
徒然草 358 になった。 第二三八段 みずいじんちかともじさん 御随身近友の自賛といって、七か条書きとめてあること がある。それらはみな、馬術に関することで、たいしたこ とでもない諸事である。その先例を思って、私も自賛のこ とを七つ書きとめておいた。 さい 一、大勢の人とつれだって、花を見て歩いたときに、最 勝光院のあたりで、男が馬を走らせているのを見て、 「もう一度馬を走らせようものならば、馬が倒れて、あ の男は落ちるでしよう。しばらく、ご覧なさい」と言っ て、立ちどまっていると、その男は、また馬を走らせる。 馬をとめる所で、手綱を引きそこなって馬を倒して、乗 っている男は、ぬかるみの中にころがりこんだ。私の言 った言葉が、まちがいのなかったことを、人々はみな感 、いした。 きんじようてんのう 一、今上天皇が、まだ皇太子でいらっしやったころ、万 りかわのだいなごんどの ぞのこうじどの 里小路殿が東宮御所になっていたが、堀川大納言殿が、 出仕なさっていられたその御所の御控えの間へ、用事が あって参上しましたときに、『論語』の四、五、六巻を しようこういん おくりひろげになって、「ただいま、東宮におかせられ にく んもん ては、紫の朱を奪うことを悪むという本文をご覧になり たいことがあって、ご本をご覧になるけれども、お見出 しになれないのである。もっとよく捜しだしてみよとの お言葉で、捜しているのだ」と仰せられたので、「第九 巻のどこそこのあたりにございます」と申しましたとこ ろ、「ああ、うれしい」と言って、それを持って、おさ しあげになった。 これくらいのことは、子供たちでも、何でもなくでき る普通のことであるが、昔の人はちょっとしたことも、 たいそう自賛しているのである。後鳥羽院が、御製につ そゼたもと いて、「袖と袂という語を一首の歌の中に詠みこんでは、 ていかのきよう わるいものだろうか」と、定家卿にお尋ねあそばされた はなすすき ときに、定家卿が、「秋の野の草の袂か花薄穂に出でて 招く袖と見ゆらん ( 花薄は秋の野の草の袂なのであろうか。 それで、穂先に実を結んで、恋人を招く袖のように見えるので あろう ) とございますので、何のわるいことがございま しよう」と申されたことも、「時に応じて、本拠となる 歌を覚えていた。歌道の神のご加護である、好運であ る」など、たいそうに書きとめておいでになることであ い